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Before the Dawn 夜明け前 はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも良いという方のみお進みください。

 『鬼畜眼鏡』 佐伯克哉(眼鏡)×御堂 、Good Endルートの解放翌日から一年後の再開直前までの創作です。全8話。

 開放された御堂が、全てを失った状態から社会復帰し、佐伯との再開に至るまでの間を御堂視点で描いています。佐伯との再開直前で(中途半端に)終了する予定です。
 メインの登場人物は御堂一人で、佐伯は回想シーンにしか登場しません。

 御堂がたった一人でどん底の状態から立ち直る場面でもあり、自分で書いていながらなんですが、全体的に暗く冗長です。
 回想シーンには佐伯による激しい凌辱シーンも登場しますので、読む際はお気を付け下さい。

 以上の事を了承されたうえで、それでも良い、という方、よろしければお付き合い下さい。

 なお、本編に入れる予定だったものの、諸事情で省いたエピソードを短編『Mirror』でUPしております。
 凌辱場面そのまんまですが、よろしければ併せてお読みください。

 朝の光が部屋に差し込む。長い夜が明けた。
 眩しさに目を覚ました。頭がぼんやりし、視界はかすんだ状態だった。体の節々が痛く、きしむ。シャツ一枚を羽織ったほぼ全裸の状態で床に寝ていたのだ。
 固まった体をほぐそうと、手足をそろそろと伸ばす。手足は意図したとおりに伸びた。いつもの鎖の感触がない。
「っ!!」
 突然はっきりと目が覚めた。自分の手足を確認する。手首、足首につけられていた拘束具が外されている。常に体に咥えさせられていた淫具もなかった。昨夜の状況を思い出そうとしたが、記憶に靄がかかっていてよく思い出せない。…私は解放されたのか?
 にわかに信じられなくて、息をひそめて家の中の気配を伺った。自分の呼吸と動悸の音以外、何の音もしない。あの男は本当にいなくなったのだろうか。
 床に手をついて体勢を起こす。全身が痛む。ずっと拘束されていたため筋肉がこわばっているのもあるし、体のあちこちにつけられた鞭や拘束具の痕が体を動かすたびにひりつくような痛みをもたらした。
「…佐伯?」
 恐る恐る、部屋のドアに向かって声をかける。声は思っていた以上にかすれ、弱々しかった。
 何の返答もない。
 痛む体を抑えながら、這うようにドアまで進み、ドアを開けた。廊下の壁を伝って崩れそうになる体を支えながら、家の中を確認した。…誰もいない。
 玄関の棚にスペアキーが置いてあった。あの男が置いて行ったのだろうか。
 鍵が開きっぱなしのドア。慌てて鍵を閉めて、チェーンをかけた。これで、あの男が戻ってきても大丈夫だ。
 どっと疲労感が襲った。震える足をなんとか支えながら、寝室に行った。寝具が乱れた状態のベッド。その上に倒れこんだ。あの男のタバコの残り香がした。恐怖が蘇り、身をすくめる。
「もう、大丈夫だ」
 自分に言い聞かせて、動悸を抑えた。やっと解放されたのだ。
 ベッドの柔らかい感触に安心する。意識が沈み込んだ。

 再び起きたときは既に部屋が暗くなっていた。反射的に周りの気配を伺うが、何の物音もしない。頭は朝より冴えてきた。
 ゆっくりと起き上がる。部屋の電気をつけた。乱れて散らかった部屋。私の部屋だった時とは比べ物にならない。
 自分の体を確認する。手首、足首についた、拘束具による赤黒い痣。体中に鞭の痕が残っている。そして、下半身を中心に乾いた体液があちこちにこびりついていた。
「うぅっ…くっ…」
 嗚咽が漏れて、涙が流れる。体に刻みつけられた痕は監禁・凌辱されていたことをしっかり思い出させる。
 ひとしきり泣いて、ふらふらと立ち上がった。シャワーを浴びに行く。部屋のあちこちに、あの男がここにいた痕跡が、私を嬲った痕跡があった。耐えきれなくて目を逸らす。
 そういえば、喉が渇いた。最後に食事をとったのがいつだかも思い出せなかった。食事も排泄も全てあの男に管理されていたのだ。
 バスルームの鏡に映った自分の顔を見た。髪は乱れ、頬はやつれている。顔色も悪く、目の下には隈もできている。ひどい顔だ。
 明日からどうしよう、ぼんやりと考えた。会社にはもういられないだろう。これからどうすればいいのだろうか。解放されたというのに、気持ちは暗く沈んだままだった。

 数日間、昼も夜もなく眠り、喉が乾いたら水を飲み、空腹を感じたら家の中の残された食料を食べて過ごした。段々と昼夜のリズムがもどり、動けるようになってきた。
 この部屋にはあの男を思い出させるものが多く存在した。ここにはいられない。
 最低限必要な身の回りのものだけ持って、部屋を出た。ホテルに部屋を取り、一息ついた。
 家から離れ、段々と思考も落ち着いてきた。ひとまず、会社をどうにかしなくてはいけない。
 かと言って、会社に出勤する気にはなれなかった。あの男がいるかもしれない。それを思うだけで足がすくみ、体が震える。
 上司の大隅専務に思い切って連絡を取った。無断で欠勤したことを非難されるかと思ったが、私は急病で休暇を取っていたということになっていた。あの男が手を回したのかもしれない。どうりで誰も探しに来なかったわけだ。
「それにしても、急病なら急病で、もっと早く連絡をよこしなさい。周りに誰もいなかったのか。ところで、仕事には復帰できそうなのかね」
 電話の向こうから大隅の不機嫌そうに響く。
「…すみません。会社にはもう復帰できません」
 今の体調もそうだし、あの男がいる会社で一緒に働くことなんてできなかった。
 大隅は驚いたようだが、それじゃあしょうがないな、と呟く声が聞こえた。既に私は使い物にならない、とレッテルを張られたのだろう。
「辞表は郵送します。引継ぎ事項はメールで送ります。私物はまとめて自宅に送ってください」
 大隅が何か言いかけるのが聞こえたが、これ以上会話を続ける気力がなく電話を切った。
 もう、私には何も残されていない。

 ホテルで滞在している間、部屋の外に出るときはいつもスーツを着込んだ。会社に行くわけでもない。ただ、あの男につけられた傷痕を隠すためには、スーツがぴったりだったのだ。
 手首の拘束の痕を隠すため、ワイシャツのカフスのボタンをしっかり止めた。鎖骨の上、首元までついた鞭の痕は、シャツのボタンを上までとめて、ネクタイをきっちり締めて隠した。
 何度も鏡を見て、傷痕が隠れているか確認した。それでも外に出るのは怖かった。凌辱され嬲られた存在だと、誰かに知られる気がして怯えた。

 無為に日々を過ごした。持ち込んだPCをつかって、仕事の引き継ぎに必要な事を連絡した。それもすぐに片付いた。今の私に社会との接点はなかった。
酒に溺れようか、とホテルの冷蔵庫に入っていたウイスキーを飲んだが、逆に悪夢を見た。

(2)
Before the Dawn(2)

 耳元で佐伯が嗤う。
「あんたは、本当はこうされたかったんだろう?」
 違うっ、と叫んだが、口枷のせいで声にならなかった。手は後ろ手に拘束されていた。両足首につけられた足枷には金属のバーがつき、脚を閉じることを許さない。うつ伏せにされた私は、佐伯に尻を突出し、無防備に秘所をさらす格好を取らされていた。
「ほら良い声で哭(な)けよ」
 くくっと佐伯が喉をならす。口枷をはずされた。次の瞬間、バイブを後孔につきたてられた。
「あぁーっ!」
 その衝撃に思わず悲鳴を上げて背中をのけぞらせたが、すぐに歯を食いしばって声を抑えた。体が内臓を圧迫される違和感に震える。
「良い声だ」
 佐伯は機嫌よく言うと、私の尻を撫で上げバイブのスイッチを入れた。バイブの振動とともに、馴らされた体はすぐに快感を伝えてくる。不快な音とともにその器具は私を遠慮なく苛む。体を捩らせるも拘束具のせいで動けない。
「あぁっ…ふっ…くぅ…」
 声が漏れ出ないように必死に歯を食いしばる。それでも、私のペニスに血液が集まり頭をもたげてくるのを抑えることが出来なかった。
「ああ、そうだ。あんたはすぐにイってしまうからな。これをつけないと」
 佐伯はわざとらしくそう言って、小さな黒い革製のベルトを使い私のペニスの根元を戒めた。食い込む革の感覚が苦しく、涙がこぼれた。
「泣くほどいいのか?前と後ろ、どちらが良いんです?教えてくださいよ、御堂さん」
 笑いながら佐伯は、うねるバイブを手で抜き差しし、その衝撃でゆれるペニスを他方の手で弄ぶ。
「触、るなっ…!あぁ…っ!」
 かろうじて叫ぶ。だが、その声はすぐに官能の喘ぎにとってかわられた。
「ふーん。じゃあ、触らずに見物だけさせてもらいますね」
「うぁっ!…ぐっ!」
 手を離し際、佐伯はバイブのスイッチを最強にあげた。激しくバイブがグラインドする。内臓をかきまわされる衝撃に、深くえぐられる官能に意識が飛びかける。ペニスが張りつめて、革のベルトがきつく食い込んだ。痛みと快楽に涙がとめどなくあふれる。その涙をぬぐうことさえ、拘束された状態ではできなかった。
「…あぁっ、うっ……くっ……ふ…」
「イかせてくださいお願いします、と懇願してみたらどうです?」
 私の痴態を眺めながら、佐伯が面白そうに声をかけてきた。
「い、やだ…!」
 両下肢が痙攣しているかのように震える。その時、バイブが大きくうねり、私の一点を強くえぐった。電撃のように貫く快楽に堪えきれずに悲鳴が上がり、一瞬意識が飛んだ。体の緊張が抜けて、床に崩れる。達してしまったのだろうか。それでもせき止められたペニスは張りつめ、先端から粘液が滴っているのを感じた。
 ずるり、と振動を止められたバイブが抜かれた。その不快な感触に身悶える。喘ぐように息を吐いた。
「楽しそうだったじゃないか」
 頭上から佐伯の声が降ってくる。涙と官能に濡れた顔を見られないように顔を伏せたが、前髪を掴まれて無理やり顔を上げさせられた。
 佐伯が私の顔を覗き込む。
「よだれまで垂らして。犬のようだな」
「くっ…」
 さらに涙があふれた。もう、プライドなど残っていないというのに、この男はどこまで私を貶める気なのだろう。
 佐伯が私の後ろに回った。カチャ、とベルトのバックルが外れズボンの前をくつろげる気配がする。恐怖に身がすくんだ。
「やめろっ、もう、無理だ…!」
 叫んだが、弱々しい声にしかならなかった。ふん、と鼻で嗤った佐伯が、私の腰を引き寄せ、佐伯自身を私の後孔にあてがう。そのままためらいもなく突き入れられる。
「あぁっ!」
 抑えきれず叫び声が漏れ出た。さっきまでバイブを入れられていたアヌスは既に緩んでおり、あっさりと佐伯のペニスを受け入れた。それでも違和感は和らぐことなく、内腔を圧迫される苦痛が私を苛む。佐伯は腰を数回グラインドし、中の感触を確かめると、私の感じるポイントを的確に攻め立ててきた。擦れ抉られる感触に、さっきまでの悦楽が再びよみがえる。
「…うう、…くっ」
 その快感に、苦痛に、むせび泣いた。既に私のペニスは解放を求めて張りつめ、私に更なる快感と痛みを与え続けている。
 この責め苦はいつまで続くのだろう。佐伯に監禁されてから、ずっとこんな状態だった。いや、日々ひどくなっていった。日中は鎖につながれ、後孔に道具を咥えされ、前を戒められ放置された。佐伯が帰ってくると、それに加えて様々な方法で嬲られた。それでもこの男に屈するわけにはいかなかった。それが私の最後の矜持だった。
「う…あ…」
 声が枯れ果て、弱々しい喘ぎ声が漏れ出る。佐伯が大きく身を震わせ、私の中に精を放った。私の腰が離される。そのまま床に崩れ落ちた。
 ゆるみきったアヌスから佐伯の精液が流れ出てきた。太ももを伝い落ちる不快感に身を小さく震わせる。だが、もう反応する気力は残されていなかった。張りつめていたペニスは既に感覚を失っているようだった。佐伯の手が伸び、ペニスのベルトを外す。ああっ、と小さく呻いた。せき止められていた精液が力なく吐きだされる。
 佐伯が立ち去る気配を感じた。私は拘束されたまま、精液と体液にまみれた状態で床に転がっていた。そんなみじめな状態でも、佐伯がいなくなる気配に安堵し、小さく息を吐いた。そのまま意識が闇に飲み込まれた。

(3)
Before the Dawn(3)

「ああっ!」
 悲鳴を上げて飛び起きた。周囲を見渡す。ホテルの部屋を見わたし、息を吐いた。
体中冷や汗をかいて、がたがたと震えていた。強い動悸がする。あの時の恐怖を思い出す。嫌な夢だった。一刻も早くあの時の記憶を忘れたいのに。
 部屋のシャワーを浴びる。体につけられた痣は少しずつ褪色しくすんできている。この痣がなくなるころには、私は元の生活に戻れるのだろうか。

 再度眠れる気がしなくて、ノートPCを開いた。何気なしにメールを確認する。大隈専務からのメールが届いていた。引継ぎに不備があったのだろうか。メールを開いた。
 大隈専務からのメールは別件だった。退職した私を紹介してほしいといくつかの会社から連絡がきたようで、それらの会社の連絡先が記されていた。専務なりに私の行く末を気遣ってくれているのだろう。
 しかし、私はもう全てを失った人間だ。そんな人間を雇ってもしょうがないだろう。
 空しい笑みがこぼれた。それ以上メールを読む気にならずPCを閉じた。

 更に日々が過ぎた。もう一カ月近くホテルに滞在している。いつまでもホテルに閉じこもっていてもしょうがない。何もすることがないというのもつらくなってきた。ふとすれば、監禁されていた時の事を思い出しかけてしまう。
 その時、携帯が鳴った。この携帯も解約しようと思いつつ、解約手続き自体が億劫でそのままにしていた。
 見知らぬ番号だ。そのまま放っておこうかと思ったが、最近人と全くしゃべってないことを思い出し、ふとした気まぐれで出てみた。出た瞬間に、あの男だったらどうしようと、冷や汗が伝う。だが、聞こえてきたのは見知らぬ男の声だった。
「御堂部長ですか?私、L&B社の…」
 佐伯でないことにほっと安堵した。かけてきたのはL&B社の取締役社長だった。
「携帯に連絡して申し訳ない。あなたと何とか連絡を取りたくて、MGN社から教えてもらいました」
 会社が人の携帯番号を安易に教えるなんてことがあるだろうか。訝しんだが、良く考えれば、MGNは以前、佐伯に自宅の住所まで教えていたではないか。怒りにめまいがした。
「はい…」
 不機嫌そうに返事をした。正直、さっさと電話を切りたかった。だが、強引に話を進められる。
「あの節は大変世話になりました。体調を崩されておやめになられたと聞いたのですが、もし体調が回復されたら是非一度お話でも。連絡先はメールに送らせて頂きました」
「…分かりました。あと、私は、もう、部長ではありません」
 そう言って、さっさと電話を切った。出なければよかったと後悔する。
 それにしても、あの節…?L&B社と関係したことなんてあっただろうか。記憶をめぐらせて思い出した。
 そう言えば、あった。以前、社のコンペティションに応募してきたのだ。
 ただ、企画書に勢いはあるものの荒削りで、会社の実績から言っても到底MGN社に見合わなかった。すぐに却下したのだが、その後、社長が話を聞きたいと乗り込んできたのだ。
 本来だったら取り合わないところだが、なぜかその時は面会した。企画の至らなかった点を教えて欲しいという社長に、一つ一つ挙げて採用に値しない理由を述べた。かなり厳しくあげつらったのだが、熱心にメモを取り、しっかりお礼を言って帰って行った。その後、社の接待で使った料亭で偶然出会い声をかけられた。こちらは忘れていたが、名刺を渡された。
「あの時はどうも。教えていただいた点を一つ一つ改善させたら、企画が通るようになりましてね。また、MGN社に応募することもあるかと思いますので…」
 と一方的に熱く話しかけられた。お礼をしたいから、と飲みに誘われたのだ。利害関係者とプライベートでは付き合わない、と断ってそのまま忘れていた。
 ふと興味を覚え、PCを開きL&B社のHPを見てみた。決算書を開き業績データを確認する。確かに、ここ数年業績を上げていた。ついでにメールを開いた。先日の大隈専務からのメールとともに、先のL&B社の社長からもメールが届いていた。迷いながらも結局返信した。すぐに返事が返ってくる。逡巡しながらも、結局食事のアポイントを受けた。

 約束の日の夜、スーツを着込む。傷痕が見えないか確認する。まだうっすらと痣が残っていた。腕時計をはめ、指定されたレストランに向かった。
 薄暗いレストランだったのでちょうどよかった。私の事があまり見えない方が安心する。
 それでも現れた社長は、私の姿をみて驚いたようだった。
「ずいぶん痩せられた…。体は大丈夫ですか?」
 ええ、と小さく頷く。他人と直接話すのは本当に久しぶりだった。
 話は予想通り、L&B社への誘いの話だった。熱心に誘う社長の話を聞きながら、私の心は冷め切っていた。
「社長、お話はうれしいですが、私はこの通り、以前のような仕事を出来る状態ではありません。お役に立てないと思います」
 社長は私の言葉に驚いたようだが、ははっ、と元気づけるように笑った。
「まだ本調子じゃないのでしょう?体調が戻れば自信も戻る。弱気になりなさんな」
 そうなのだろうか。元の私に戻ることが出来るのだろうか。
 社長の誘いに曖昧に答えて、店を出た。社長は機嫌よく、是非また、と言ってタクシーを止めて私を乗せた。
 タクシーから繁華街を眺める。その賑わいが全く別世界のように感じた。あそこにもう私の居場所はない。
 ホテルの前でタクシーを降りた。ホテルのフロント前を通り過ぎるとき、宿泊客とすれ違う。その時、タバコの香りが漂った。あの男が吸っていたタバコと同じ香り。瞬時に記憶がフラッシュバックした。

Before the Dawn(4)

「今日は何をして遊びますか?御堂さん」
「貴様、早く私を開放しろ!」
 佐伯は私を見て薄く笑った。その酷薄な笑みに恐怖を感じる。
 私は全裸にシャツ一枚着させられて、両手は頭上に拘束され、鎖でつながれていた。壁を背に床に座った状態だが、体の自由はほとんどない。
 対して佐伯は上下ともスーツをきっちり着込み、楽しげに私を見下ろしている。
「離せ!」
 唯一自由になる足をばたつかせた。腕の鎖がジャラジャラなる。
「元気ですね」
 蹴られないように足を避けて佐伯が真横から近付き屈みこむ。耳元に佐伯の息がかかる。思わずびくりと震えた。佐伯の衣服から、タバコの香りが漂う。
「あんまり暴れると、また足をつなぎますよ。痕がついたから外してあげたのに」
 両足首には赤黒い痣がくっきりとついていた。脚の拘束をなんとか外そうと暴れてついた傷だった。
むき出しの太ももに佐伯が手を伸ばし、内側をすっと撫でた。
「ひっ…!」
 思わず声が上がる。くすっと佐伯が嗤って耳元で囁く。タバコの香りが鼻につく。
「どうします?玩具(おもちゃ)で遊びます?それとも玩具を使わずに?」
「やめろ!私に触るな!」
 体を捩り、なんとか佐伯を蹴ろうと、足を佐伯に向かって蹴り上げる。上手く体勢がとれず、足は空を切る。はあ、と佐伯のため息が聞こえる。
「あんたはまだ自分の立場が分かってないのか」
「ぐっ!」
 佐伯が立ち上がって、足で私の大腿の内側、柔らかい部分を踏みつけた。そのまま体重をかけられる。激しい痛みが襲う。
「くぅっ…」
歯を食いしばって、痛みを耐える。悲鳴をあげても佐伯を喜ばすだけなのは学習していた。ふっ、と大腿を押さえつけていた負荷が消えた。佐伯の足がそのまま滑り、私の股間へと伸びた。私の局部の上に足が置かれる。このまま踏みつけられるのだろうか。恐怖に身がこわばる。
「…ぅあっ」
そのまま体重をかけずに局部を足でゆるく擦られ揉まれる。屈辱的な行為にもかかわらず、私のペニスは徐々に頭をもたげてくる。ははっ、と佐伯のあざ笑う声が頭上から降ってくる。
「あんたはこんなことでも感じるのか」
 違う、と力なく頭を振った。恥辱に体が震える。
 私の脚の間に彼が身を入れる。慌てて脚を閉じようとしたが遅かった。太ももを大きく割られ、秘所があらわになる。
 佐伯が屈んで私の顎に指をかけた。無理やり顔を上げさせられる。間近に彼の顔があった。
 佐伯の眼鏡のレンズに自分の顔がうつる。頬は上気し、目は官能で潤んでいる。ひどい顔だった。目を伏せる。
「そろそろ考えを改めましたか?あなたの身体は既に俺に屈したというのに」
 子どもを諭すような優しげな声をかける佐伯に、思わず怒りと憎悪の視線をぶつける。
「考えを改めるのはお前の方だっ!こんなこと許されると思っているのか!」
 顔を振って、顎を掴む佐伯の手を振り切る。身を捩って何とか拘束を外そうと暴れる。
 ゆっくり佐伯が立ち上がった。その表情から笑みが消え、私を冷たく見据える。
「この期に及んでまだそんなことを言うのか。あんたには立場の違いを分からせないといけないようだな」
 冷ややかな声だった。その気迫に思わず押し黙る。佐伯が乗馬鞭を手に持つのを見て、身体がこわばる。既にその痛みを何度も味あわされていた。鞭の音を聞かせるように、佐伯は自身の掌を鞭の先で音を立てて叩く。
「そういえば、あれがあったな…」
 佐伯が呟いて、アイマスクを持ってくる。頭を振って逃れようとしたが、無理やりつけられた。視界を塞がれ、恐怖に身がすくむ。
「這いつくばって、やめて下さいってお願いするならやめてもいいですよ」
「…誰が貴様なんかに頼むかっ!」
 その一言が佐伯を煽ることは分かっていた。それでも言わずにはいられなかった。私に残されたのは矜持だけだ。
「ふうん」
 佐伯が低い声で笑う。瞬間、鞭が振り下ろされた。
「いっ!」
 思わず悲鳴があがった。太ももに鋭い痛みが走る。続けざまに鞭が振り下ろされた。必要以上の悲鳴を上げないように歯を食いしばる
「…はぁっ!……くぁっ!」
 闇の中で、いつ鞭を振り下ろされるか分からない恐怖に怯えた。
 佐伯が目の間に屈みこむ気配を感じた。たった今つけられた太ももの赤い線条痕を鞭の先でなぞる。びくっと体が震えた。
「前につけた痕はくすんでしまったが、やっぱり新しい鞭の痕は鮮やかできれいだな」
 くくっ、と冷たく笑う声が響く。
 鞭を床に置く音が聞こえた。安堵したのもつかの間、佐伯はゆるく立ち上がった私の局所を握って擦り上げる。同時に私の後孔を探り弄り始めた。
「ぁあっ…よせ…やめっ…ろ!」
 さっきまで苦痛を感じていた身体はすぐに快感を享受しはじめる。後孔をいじられる違和感とともにペニスが固く質量を増し、下半身が細かく痙攣する。
 佐伯の顔が近付く気配があった。耳元で甘く淫猥な声で囁かれる。
「御堂さん、ベッドに行きましょうか」
「いやだっっ!」
 思わず叫んだ。ベッドに行けば何をされるのか。既に何度も経験して学んでいた。私を直接嬲る気なのだ。
「では、ここでしますか」
 佐伯は私の反応を見て喉を鳴らして笑う。強く腰を引き寄せられた。座っていた姿勢が崩れ、壁に後頭部を打つ。頭と肩で壁にもたれかかり、背中と腰を床について身体を支えるきつい体勢になった。鎖が伸び、手首が強く引っ張られる。
「うっ…!」
 手首の戒めに体重がかかり、その痛みに呻いた。
闇の中で佐伯がジャケットを脱ぐ気配を感じる。ネクタイをほどき、自分のシャツの前のボタンを外している。佐伯はいつも私を嬲る時、ほとんど着衣を乱すことはない。訝しんでいると、突然、佐伯が私の大腿の裏を掴み、脚を押し開いた。そのまま、脚を胸に大きく押し付ける。次に何が起こるのか分かっていても、恐怖から抵抗できなかった。そのまま一気に貫かれる。堪えきれず悲鳴をあげた。
「う、ああっ!」
 佐伯は私の悲鳴を楽しむように大きくゆっくりと腰をグラインドさせた。
手を吊り上げられて頭と肩が上がっている体勢のため、覆いかぶさる佐伯の上半身が体に密着する。素肌と素肌が触れ合う。その感触に、ぞわりと鳥肌がたった。佐伯の身体からフレグランスの香りが漂う。佐伯が服を脱いだ理由を理解した。身体が密着するため、私の汗や体液で服を汚されたくなかったのだろう。既に熱くなっている私の身体に佐伯の肌はひんやりと冷たく感じた。
「んっ…うぅっ!…うっ」
身体に挿入されるたび、佐伯の体重がかかり、仙骨が固い床に押しつけられて痛みを伴う。手首を戒める鎖がジャラジャラ鳴り、手先の感覚がなくなってくる。
 それでも身の内から生まれる快楽を押しとどめることは出来なかった。
「ほら、ベッドの方が楽だったでしょう」
「…んんっ…あっ…く…」
抉られるたびに喘ぎ声がもれる。視界を塞がれているため、佐伯の顔が見えないが、きっと愉しげな笑みを浮かべながら私を嬲っているのだろう。
 突如、佐伯の動きが止まり、上半身が私から離れた。それでも体は深く貫かれたままだ。
「うあっ!」
 いきなり電撃のような痛みが胸に走った。鞭で打たれたのだ。予期せぬ痛みに体が跳ねる。同時に身体に挿れられている佐伯のペニスを強く締め付け、否が応にも体を穿つそのものの感触を強く感じてしまう。
「すごい締め付けだな」
 佐伯は感心して呟くと、さらに数度鞭を振り下ろした。
「くっ、……うっ!」
 その鋭い痛みに体が断続的に跳ねる。体をねじって痛みから逃れたいが、佐伯に深く抉られているため、それもままならない。
「あんた、挿れられたまま鞭で打たれる方が好きなんだな」
 佐伯の手が私のペニスに触れる。既にそこは張りつめて、先端から滴が垂れていた。
「ちが…うぁっ、ああっ」
 否定しようとする私の言葉を遮って、佐伯が腰を動かし始める。再び官能の喘ぎ声が漏れる。
 段々と佐伯のピッチが速くなる。私も既に限界だった。大きく抉られた瞬間、意識のたがが外れて、悲鳴を上げて爆ぜた。意識が遠のく中で、佐伯の嘲笑が聞こえた気がした。

(4)
Before the Dawn(5)

 膝が崩れ、その場でへたり込んだ。
 近くにいたホテルのボーイが慌てて近寄ってきた。
 乱れた呼吸を整える。ボーイの呼びかけに、何とか手をあげて制した。
「…大丈夫だ。ちょっと飲みすぎたんだ」
 酒は一滴も飲んでいなかった。前にウイスキーを飲んで悪夢を見て以来、アルコールは一切控えていた。
 よっぽど青い顔をしているのだろう。ボーイが心配そうに顔を覗き込んでくる。周囲の客も興味を持ってこちらを伺っているのが分かる。これ以上注目を浴びるのは耐えられなかった。
 震える足を抑え、何とか立ち上がった。
「大丈夫だ」
 心配するボーイを邪険に避けて、なんとかエレベーターまでたどり着いた。開いたエレベーターに乗り込み壁に寄り掛かる。どうにか部屋まで壁伝いにたどり着き、部屋の中に倒れこんだ。
 呼吸が苦しい。荒い息を吐きながら、ネクタイを解く。
「佐伯…!」
 あの男の名前を呟いた。憎い。殺したいほど憎い。私はいつかこの感情を抑え込むことが出来るのだろうか。
 佐伯から解放されても、ずっとあの男の影に囚われたままだった。

 L&B社の誘いを結局受けた。今の状況から抜け出すために、何かきっかけが欲しかった。
 全てを捨てて生まれ変わりたかった。もう、あの男の影に怯えたくない。
 新しい部屋も契約した。必要な家具や衣服は全て新しく買い揃えた。今の携帯も解約し、新しい携帯に変えた。
 マンションも売り払いたかったが、そのためには一回マンションに戻って、片付けをする必要があった。しかし、あのマンションに戻る気にはならなかった。
 結局、不動産屋を通して便利屋を手配し、家の中の物を全て処分してもらった。佐伯が私に使った淫具も置きっぱなしだし、あちらこちらに私を嬲った痕跡がある。誰にも見せたくはなかったが、かといって自分もあの部屋に立ち入りたくなかった。知り合いに貸していた部屋だった、とだけ説明して金を積んで処分してもらった。マンションは立地もよかったこともあり、すぐに買い手がついたと不動産屋から連絡があった。

 新しい部屋で新しい職場に通い始めた。体調が戻るまで短時間勤務でもいい、と社長に言われたが、逆に仕事に集中している方が余計なことを考えずに楽だった。
 与えられたポストは企画部のプロダクトマネージャーだった。他社のコンペティションに出す企画を作成する部署で、そこの全てを統括する権限を与えられた。会社の規模は違えどMGN時代のポストと遜色はない。あの社長は、全てを失って挫折した私をなぜそこまで買っているのか訝しんだ。
「御堂マネージャー、今度のプレゼンに出す資料、確認してもらえますか」
 若い社員からプレゼンデータと企画書を渡される。ああ、と短く返事をし、受け取って、モニターで確認する。
 なじみのない分野で、そのデータの適切性は分からなかったが、全体を通して分かりにくいプレゼンと企画書だった。構成を大きく入れ替え、用いられるグラフを作り直した。配色を抑え、余計な影や装飾を使わずシンプルにする。リハーサルでそのプレゼンを流した時、社長をはじめL&B社の幹部から好評を博した。後日、その企画が通ったとの連絡があった。
 私の仕事のスキルはまだ失われていなかったということに気が付いた。
 仕事に没頭した。部下の作った企画書を隅々まで目を通し校正し、元になるデータも提出させ検証した。段々とMGN時代の仕事の感覚を取り戻してきた。
「マネージャー、見ていただけますか?」
 何回か修正の指示を出した企画書が再提出された。一目見て、不十分だと気付く。自分の仕事の調子が戻ってくるのと同時に、苛立ちも出てきた。この社の部下は熱意はあるものの、MGN時代の部下に比べてレスポンスが鈍い。
「全然なっていない。作り直せ」
 そのまま部下に企画書を突っ返す。叱責しようとしたところで、部下が私の怒りを予期して身をすくめる姿に気付いた。佐伯に怯える自分の姿が重なる。彼は私を怖がっているのか…?私は何をしようとしていたのだ…?
「マネージャー?」
 部下が恐る恐る私を伺う。私の思考は一時的に混乱していた。慌てて気を落ち着ける。
「いや…。…企画書、冒頭のイントロの部分が提案に直接結びついていない。冒頭をもっと広げて持ってきてくれ。…大分形にはなってきている」
「はいっ!」
 叱責されるかと怯えていた部下が目を輝かせて企画書を持って行った。
 私は何を動揺しているんだ。たかが部下を叱責するだけの話ではないか。
 自分が動揺していることに気付いて、更に動揺した。もう、誰かの怯えた顔は見たくなかった。
 程なく、この社で部下を使うコツを覚えてきた。具体的に細かく指示を出せば彼らはよく働いた。段々とこちらの意図も伝わるようになり、よく動いてくれるようになった。

 退社時、社長とエレベーターで乗り合わせた。声をかけられ、社長の世間話に適当に相槌を打ちながら付き合う。この社長は、若いこともあり精力的で人柄も明るい。
 ロビー階にエレベーターが到着する。ドアを開けて、社長を先に降ろし、自分も後に続いた。数歩あるきだして、社長がこちらを振り返った。
「ところで、御堂君。君はMGNの頃と比べて変わったな」
「そう…ですか」
 どきりとした。かつての自分とかけ離れていることは気付いていた。以前の自分に戻りたかったが、傍から見ても違いが分かるのだろう。
「いや、何というか、険がとれたというか。きつさがなくなった気がする」
 少し言いにくそうに言われた。
「MGN時代の私は、そんなに不遜でしたか」
 ハハ、と社長は頭を掻いた。図星だったのだろう。
「ま、言い方は悪いが、病気をしたことが一つの転機だったんじゃないかな。私は今の君の方が良いと思うよ」
 そう言うと社長は、私の肩を叩き、じゃあな、と去って行った。
 今の私の方がいい、私はそうは思えなかった。佐伯に嬲られた記憶も、この体も全て捨ててしまいたい。挫折を知らずに生きていたあの頃に戻りたかった。それは無理な事は分かっていたが。

(5)
Before the Dawn(6)

 L&B社で働き始め半年が過ぎた。段々と自分の生活を取り戻しつつあった。
 佐伯につけられた痣もきれいに消えた。テーラーメードのスーツも新調した。
スーツはあの頃から持っていた数少ない持ち物の一つだった。早々に買い替えたかったが、テーラーメードのため、痣が消えるまでは採寸にも行けなかったのだ。そして、ジム通いも再開した。
 会社での仕事は順調だった。大きな企画をいくつか通し、上層部の厚い信頼を得た。
 ワーカーホリックのように働いていた。今の自分を見られたくなくて、MGN時代のプライベートな付き合いは全て絶ってしまった。大学時代の友人にも会っていない。ワインもすっかり飲まなくなった。アルコールを飲んで、佐伯との事を思い出したりしないか不安なこともあったし、ワインに対する興味自体が失せてしまった。

 休日も、ジムに通う以外は外出する気にもならず、自宅で過ごしていた。ソファで新聞を開くが、内容が全く頭の中に入ってこない。
 佐伯に凌辱され嬲られ続けた記憶は、今では夢に見ることもフラッシュバックすることもほとんどなくなった。ただ、今でも、断片でも思い出すと動悸がする。それでも、自分なりに客観的に処理をし、納得しようともがいていた。あの男との記憶に囚われている限り、私に未来がない気がする。
 それにしても、なぜあの男は私にあんなに執着したのだろう。
『あんたに興味がある』
 佐伯の声が耳元で蘇った。目をきつく閉じた。
「…そんな理由、納得できるか」
 彼の一連の行動は常軌を逸していた。仕事を完ぺきにこなし、その裏で私を徹底的に嬲った。私を監禁して凌辱する佐伯は狂気さえ垣間見えた。興味本位でそこまで私に執着したのだろうか。
 ふと、気付いた。そういえば、私は何故、突然解放されたのだろう。解放される直前までの記憶がはっきりしない。あの頃の私は既に意識をはっきり保つことさえ難しかった。今から思えば、ひどいストレスによるせん妄の状態だったのだろう。
 あの男は私に対する興味を突然無くしただけだったのか。それとも、最後に私と佐伯の間に何かあったのだろうか。
 佐伯が私を解放した理由が分かれば、私に執着した理由も分かるかもしれない。
 深く呼吸をし、覚悟を決めた。監禁時代を思い出す。
 自宅のソファに深く沈み込むように腰掛けた。そっと目を閉じる。あの時一体何があったのだろう。記憶の闇をさぐった。とても苦しい作業だった。

 …苦しい。ひたすら苦しかった。体の全てをあの男に支配されていた。
 最後に残された矜持にかろうじてしがみついていたが、それも限界だった。
 常に与えられる快楽と苦痛が身を苛んでいた。もう、反抗する気力も体力も残っていなかった。声を抑える気力もなかった。涙を堪えることもできなかった。
 あの男に貫かれれば、悲鳴を上げて涙を流した。それでも浅ましく何度も達した。
 昼も夜も区別がつかなくなっていた。あの男がいる時といない時、その区別しかなかった。
 日に日に佐伯の苛立ちが募っているのが分かる。その苛立ちの矛先は私に向けられた。
 体を組み敷かれ、手足を戒められ、物のように扱われた。それでも、与えられた苦痛は快楽を伴って私を責め立てた。
 意識を失っても何度も無理やり覚醒させられた。あの男の気配を感じるだけで、体が震え強張った。
 このまま私はどうなるのだろうか。思考がまとまらず、ものを考えるのも難しくなっていた。
 佐伯に蹂躙される自分が、本当に自分自身なのかもはっきりしなくなっていた。
 私を内外から侵食し蝕む何かから助けて欲しかった。誰でもよかった。私は最後の気力を振り絞って、目の前の人影に、なりふり構わず助けを求めてすがったのだ。
 
 そして、私はどうなった…?
 
 突然、誰かに優しく抱きしめられる感触が蘇る。
 私は誰に助けられたのだ?
『御堂孝典…。俺は…あなたの心が、欲しかった』
 耳元で囁かれる。この、声は…。
『あんたを、解放するよ。もう、俺は、なにもしない』
 触れる肌を通して聞こえてくる鼓動。
『本当にすまなかった』
 ひどく悲しく切なげな声だった。
『俺はもうあんたの前に現れない。だから…忘れろ。俺の事を何もかも』
 私の髪をやさしく梳く指の感触。
『もっと早く、あんたのことが好きだって気付けばよかった…』
 
 はっと目を開けた。呼吸が乱れ、強い動悸がする。私は思い出したのだ。はっきりと。あの夜に起きたことを。
 そして、自分の身に起きた出来事、全ての理由が分かった。
「佐伯…」
 その名前を口に出すだけで、憎しみや恐怖といった様々な強い感情が蘇る。
「私は、お前が許せない…」
 嗚咽が漏れる。好きだから、それだけの理由であんな行為が許されるわけない。
 あの男は私から何もかも奪ったではないか。
「私は、佐伯を許さない」
 自分に言い聞かせるようにもう一度呟いた。

 解放前夜の記憶は私をひどく動揺させた。一方で、理由が分かったためか、嬲られた時の記憶をある程度自分でコントロールできるようになってきた。
 あの男はもう私の目の前に現れない、そう確信できたのも一因だったかもしれない。

 少しずつ私は現状を受け入れられてきていた。以前の自分を求めることは諦めた。今の自分を受け入れるしかないのだ。
 幸い自分の居場所は確立されつつあった。L&B社での地位も揺るがぬものになっていた。L&B社の業績も目に見えて上がっている。自分もそこに貢献できている自信がある。
 あの男の影に怯えることもなくなった。つらい記憶も徐々に意識の奥底にしまいこまれ、意識的に思い出さない限りは浮かんでくることもなかった。


「御堂君、ちょっといいかい?」
 社長が私のデスクまでやってくる。素早く立ち上がった。
「何でしょうか?」
「以前、ちょっと相談したあのコンペ、参加資格を得てね」
「…MGNのですか?」
 一瞬動悸がした。だがすぐに平常に戻る。
「向こうの担当者に会ってね、熱意をアピールしたら便宜を図ってくれたよ」
 社長が嬉しそうに言う。この人物はそうやってMGN時代の私の所にも飛び込んできたことを思い出した。
「…あぁ、もちろん、君の名前は出していないよ。元社員とか利害関係者が絡むと面倒だろうしな」
 少し安堵した。利害関係者が絡むのも問題ではあるが、それ以上にMGNの誰にも、この社にいることを知られたくなかった。
 それにしても、MGNのコンペの参加資格を得るとは驚きだった。大きなプロジェクトが動くことは噂には聞いていたが、規模から言ってL&B社には不釣り合いだ。契約実績もないし、事前の書類審査で落とされると高を括っていた。
「それで、これがコンペの募集要項なのだが」
 書類を渡される。企画を担当するのは私の部署だ。気は進まないが請け負う限り、妥協はしない。
 プロジェクト案に目を通す。完成度の高い複合商業施設のプランだ。これは相当大きな規模になるだろう。
 ふと、企画担当者の名前が目に留まった。思わず瞳孔が開く。
「…社長がお会いになった担当者ってどなたです?」
「ああ、この彼だよ。佐伯君。部長なんだがすごく若くてね。相当のやり手らしい。知っているかい?」
「…いえ」
 声が上ずってないか心配になった。佐伯が便宜を図った?私がここにいることを知っているのか?
 動悸がする。自分では彼の記憶をしっかり整理したつもりだったのだが、こうやって彼の名前を目にすると動揺が抑えられない。
「どうかね?御堂君」
「…やってみます」
 そうは言ったものの、どうすべきか結論が出なかった。

(6)
Before the Dawn(7)

 その夜、久々にあの男の夢を見た。今までの当時の記憶を思い起こす夢とは違って、不思議と恐怖は感じなかった。


 佐伯の長い指が私の身体をなぞる。触れられた場所から身体が熱を持つ。
「熱い肌だ」
 うなじに息がかかり、体がぞわりと震える。
 自分の体を優しくまさぐる感触に小さく身を震わせる。既に、自分自身は張りつめていた。そこにあの男の指が触れ、そっと握られる。
「もう、こんなに固くしているのか」
 耳元で囁く声に羞恥と官能を煽られる。だが嫌悪は感じない。
 身体をうつ伏せにされた。
 うなじから背中にかけて唇が触れる。そのまま私の腰に降りていく。
 指と舌が私の秘められた場所に届く。柔らかくいじられ、喘ぎ声が漏れた。
 次に何が起こるのか分かっていた。それでも不思議と恐怖はなかった。
 腰に手を添えられ、窄まりに固い屹立が添えられる。息を吐いて、体の力を抜いた。
 それを見計らったかのように、佐伯の硬い屹立が体の中に突き入れられる。
 その衝撃に、ああっ、と大きく呻く。私の反応を伺いながらゆっくりと入ってくる熱い肉の塊は、狭い器官を押し開くと同時に快感を引き起こしていく。ゆっくりとした腰のリズムに合わせて、私から喘ぎ声が漏れる。私自身も萎えるどころか、さらに痛いほど張りつめてきた。
 耳元で囁かれる。
「あんたが好きだ」
 その声に快感を揺さぶられ、弓なりにのけ反った。


 はっ、と目を覚ました。ひどく淫らな夢だった。
 私はなんという夢を見ていたのだ。思い出すほどに羞恥で顔が赤くなる。
 夢の影響で、全身が熱く火照っていた。体の中に熱がこもり渦巻く。そして自分自身も硬く張りつめていることに気が付いた。
「くっ……」
 シーツを掴み、呼吸を整え、自分の中にこもった熱を逃そうとするがうまく行かない。
 先ほどの夢が脳裏に生々しくよみがえる。
 一向に熱はひかなかった。恐る恐る自分自身に手を触れた。途端に、甘美な感覚が電撃のように自分の身を貫いた。
「あぁっ」
 思わず喘ぎ声が漏れた。慌てて、声を飲み込む。私の身体は当時の享楽をしっかり覚えていた。身体の熱は出口を求めてより熱く強く渦巻く。
 覚悟を決め、何も考えないようにし機械的に手で擦る。限界まで張りつめていた私のペニスは数少ない刺激であっさり放ってしまった。
「う…っ!」
 自分の手の中に吐きだされる精液の感触を感じながら、ひどい虚無感に襲われた。
 射精したのは解放後初めてだった。解放されてから性的欲望を感じたことはなかったし、むしろ嫌悪していた。
 改めて自分の身体が変わってしまったことを思い知らされる。
 佐伯は私から全て奪っただけではなかった。遺したものもある。快楽と屈辱にまみれた記憶、そして敏感に快楽に反応してしまう、この浅ましい身体。

 バスルームに入って、熱いシャワーを浴びた。身体に着いた残滓を、今みた夢ごと洗い流してしまいたかった。
 なぜ、あんな夢を見たのだろう。私は佐伯にまつわる記憶をコントロールできたと思っていたが、そうではなかったのだろうか。
 もう、佐伯は過去の存在になったはずだ。私を貶め、嬲り、凌辱した過去の男。
『あんたのことが好きだって気付けばよかった』
 佐伯の言葉が頭の中に響く。頭を振って、その存在を頭の中から追い出そうとした。
 だが、同時に優しく抱きしめられた感触が蘇る。
 その時の佐伯の顔をぼんやりと焦点の合わない目でみていた。この男はこんな切なそうな顔をすることもあるのか、と他人事のように思ったのを思い出す。
 再び夢の中の佐伯を思い出した。壊れ物のように私を優しく扱う手。
 夢の中の佐伯の声が、指が、そして、身体の中に押し入いられた感触が蘇る。
「…っ!」
 再び自分自身に熱が集まり勃ちあがっていた。
 自然に自分の手がそれを触れようとするのを押しとどめた。
 自分自身の欲望を認めたくなくて目を逸らす。
 私は一体どうしてしまったのだろうか。
「違う……。こんなのは私じゃない…」
 自分の醜態に堪えきれず涙が流れる。
 熱いシャワーが音を立てて涙を洗い流していく。
 夢の中の佐伯は優しかった。
 佐伯にあんな風に優しく抱かれたことはなかったのに。
 私は佐伯に何を期待しているのだろう。
「佐伯…」
 無意識にあの男の名前を呟いて、すすり泣いていた。

(7)
Before the Dawn(8)

 朝、企画部のメンバーを集めてミーティングを行った。連絡事項及び現在の仕事の進捗状況を確認する。いつもより部下たちがそわそわしているのに気付いた。一通り確認が終わると、一息ついて話し始めた。
「今日より新しいプロジェクトに取り掛かる。MGN社のコンペに提出する企画だ」
 簡単に内容を説明した。メンバーがざわつく。既に噂を聞きつけていたのだろう。
「知ってのとおり、わが社が扱う企画の中では最大規模になる。準備期間も短い。…それで、この企画の主担当は私がやる」
 皆が息を飲む。それもそうだ。私は総括の立場で、企画の原案の確認や大まかなプラン、仕上げの指示を行っていた。主担当となって企画の原案作成に直接携わる事はない。
 副担当に、本来なら主担当にと考えていた部下を指名した。はいっ、と勢いのある返事が返ってくる。
「私がこのコンペの企画に携わる分、君らの今手がけている仕事に十分な時間はかけられなくなるだろう。だが、君らは私が来てからの半年間でめざましく成長している。君達には期待している。この企画を成功させるために協力してほしい」
 そう言って、メンバーを見渡した。部下たちが高揚して熱い視線向けるのがわかる。彼らならしっかりやってくれるだろう。私は良い部下を持った。MGN時代に勝るとも劣らない。

 デスクに戻って、企画提案書を確認した。佐伯の作ったプランは良く練りこまれていて完成度も高かった。革新的なコンセプトを立ち上げながら、微に入り細にわたっている。
 企画提案書を読み進めていくうちに胸がどうしようもなく乱れた。
彼が以前の私の地位についていることについては、もう何の感慨も湧かない。それ以上に、この美しく完璧なプランが佐伯の手によるものだということが悔しかった。
私が同じプランを手掛けたら、彼以上のものが出来ていただろうか。
(佐伯…)
 心の中で名前を呟く。私を蹂躙した男。
 これは私の戦いなのだ。あの男に自分を認めさせたい。せめて一矢報いたい。
 
 市場調査を徹底的に行い分析した。あの男の提案するプランに沿って企画を展開するのは癪だった。コンセプトの軸は保ちつつ、新たな需要を引き起こす大胆なプランを上乗せした。相手を納得させるだけの説得力のあるデータを積み重ねる。プレゼン資料はデザイン性にも気を配った。数字や文字は必要なものだけを厳選する。
 上層部や部下を前に私がリハーサルを行った時は感嘆の声が漏れた。社長の拍手を皮切りに、周りも一斉に続いた。
「このプレゼンは君がするのかね」
 社長が興奮を隠し切れない様子で聞いてくる。
「いえ、プレゼンは副担当にまかせます。私の部下なら心配は要りません。…それに、MGNの元社員がいると競合他社も良い顔をしないでしょうし」
「それもそうだな」
 若干残念そうな顔をされたが、それ以上は追及されなかった。企画書にも一切私の名前は記載していない。先方との連絡は全て副担当が行っている。口止めしているし、私の名前が漏れることはないはずだ。
 
 コンペは予想通り最終選考に残った。MGNの企画担当者や幹部の前で行うプレゼンの場が用意されたが、私は出席しなかった。その場には当然佐伯もいるだろう。
 プレゼンメンバー達が社に帰ってきた。皆、興奮している。一目で首尾がうまく行ったことが分かった。プレゼンを行った副担当が顔を上気させながら報告する。
「その場で契約しそうな勢いでしたよ。先方の幹部に受けが良くて、特に、大隅専務、手を叩いて感心してくれました」
「そうか…。企画担当者の感触は?」
 一番知りたかった人物についてさりげなさを装って聞く。若干、考え込んだ顔をされた。
「佐伯部長ですか。そうですね…。あの人、考えが読めないからなあ…。いつも表情はにこやかですけど。今回一番厳しい質問をしてきたのもあの人でしたし」
 それは、私が知っている表向きの佐伯の姿と全く変わりがなかった。
「…ご苦労だったな」
 部下を労った。
 あの男の人好きがする笑顔の裏にある、傲慢さや冷酷さを私は知っている。
 佐伯はあの企画書が私の手によるものと気付いただろうか。

 プレゼンが終わり数日して、正式に採用されたとの連絡が来た。社内が沸き立つ中、私は違う意味で心乱れていた。どこかで佐伯と顔を合わす機会があるかもしれない。
 プレゼンが終わってから今までずっと、他の仕事に取り掛かる気力をなくしていた。
 ふとすれば、佐伯について考えていた。一度は解き放たれたと思ったあの男の呪縛が復活していた。ただ、以前と違って、私は冷静に自分自身を分析しようと試みてもいた。
『俺はもうあんたの前に現れない。だから…忘れろ。俺の事を何もかも』
 その言葉に怒りを覚える。
 散々なことをしておきながら、私の意志を完全に無視し、勝手に自分の思いを告白をして、忘れろと言って去って行った。むしろ、何も言わずに去ってくれた方が、私の心はこんなにざわつかないはずだ。
 あの男は私を一方的に巻き込み、私に傷痕を残し、一方的に終わらせた。私の意志は一顧だにされなかった。なんて傲慢で自分勝手な男なのだろう。
 佐伯に対して抱く、この複雑な感情を分析するのは困難だった。凌辱された記憶が遠のいた分、別種の感情が生まれつつあった。焦りや怒り…何なのだろう、この感情は。
 それに、今回、L&B社がコンペに参加し契約をとることになったのは偶然だろうか。自分が立てた企画には自信があったが、佐伯は私の事に気付いて契約を回したのだろうか。だとしたら、佐伯は私の事をどう思っているのだろう?様々な疑問が渦巻いて解決が出来ないでいた。
 
「御堂君」
 デスクで物思いにふけっていると、突然声をかけられた。はっと振り向くと、社長が立っている。慌てて立ち上がる。
「今日、MGN社の担当が来て、正式に契約を行う。せっかくだから君も紹介したいと思うのだけど、どうかね?」
 担当者…佐伯の事か。動悸が強くなる。一瞬、逡巡して答えを出した。
「ええ。お願いします」
 自分自身が佐伯の呪縛から完全に解き放たれるためには、一度佐伯と対峙しなくてはならないだろう。会ってどうなるのか、何をすべきかは分からなかった。ただ、もう逃げたくはなかった。そして、興味があった。佐伯という闇を乗り越えた時に見える世界に。
「佐伯…私はもう逃げない」
 長い夜もいつかは明ける。私は自分自身の決意を込めて呟いた。

End

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