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(1)
アンカー 1

「どうぞ」
 佐伯克哉はワインメニューを目の前に座る御堂に差し出した。
 二人はフレンチレストランに来ていた。
 会社を興して共に働き始めて一週間、お互い手が回らないほどの忙しさだったが、週末ということもあり、仕事に何とか一区切りつけて、克哉が御堂をディナーに誘ったのだ。
「君は何が飲みたい?希望があれば、好みに合うものを選ぶが」
 御堂がワインリストに目を通しながら聞いてくる。
「あなたが飲みたいものでいいですよ」
 その言葉を聞いて、御堂は困ったような表情を浮かべた。
「アルコールを控えているんだ」
「なぜ?」
 表情にこそ出さなかったが、克哉は内心驚いた。御堂は自他ともに認めるワイン通だったし、かつて御堂の部屋にはワインセラーまであった。ワインバーにも旧友とよく行っていたはずだ。
「…体調管理のためだ」
 克哉から目を逸らし、短く返答すると、こちらを気遣ってか微笑を浮かべた。
「私の事は気にせず、君は飲んでくれ」
「一人でフルボトルは飲めません」
 元々、アルコールはビールで十分な性質だ。御堂が飲まないなら自分も飲む理由はない。
 ウェイターを呼び止め、グラスワインを二つ頼んだ。
 運ばれてきたワインを手に取り、軽く掲げて乾杯をする。
 御堂は口を付けるふりはしたものの、一切口に含まなかった。

 再開後の御堂は以前の御堂と比べ、いくつか変化があることに気付いていた。
 高慢さや気位の高さが身をひそめ、他人に気を遣う穏やかな性格になっている。
 休みの日は友人たちと飲みに行くような社交的な一面があったが、再開後、見ている限りプライベートで連絡を取り合っている者はいないようだ。
 そして、ワイン。
 確かに再会後、アルコールの類を口にしているところを見たことがない。
 仕事をこなす能力は以前同様、鋭い洞察力と緻密さ、そして処理能力の早さ、全く衰えてはいない。
 しかし、何だろう、この違和感は。

 食事を終え、連れ立って店を出る。
 克哉は御堂の横に並び、声をかけた。
「今日、御堂さんの部屋に行ってもいいですか?」
「私の部屋…?」
 御堂が驚いてこちらを見る。
「ここからだと君の部屋の方が近いだろう」
 俺の部屋には来てくれるつもりなのか、克哉は微かに笑みを浮かべた。
「いえ、あなたの部屋に行きたいんです。ダメですか?」
 再会後、御堂の部屋に行ったことはなかった。社屋の上の階に自分の部屋があったので、御堂を抱くときは自分の部屋を使っていた。同じビル内に部屋を借りたのは、そういう下心もあったことは否定しない。
 ついでに御堂に合鍵を渡して一緒に住もうと誘ったのだが、近くに部屋を借りるから、と断られてしまった。再会後、今の関係になって間もないし、気を急いてもしょうがないだろう、とそれ以上は追及しなかった。
 御堂に対する自分の執着心の強さは自覚している。だからこそ、御堂のプライベートを尊重したい気持ちはあった。元々御堂は他人をそう簡単に寄せ付けない性格でもある。それでも自分の知らない御堂のテリトリーに興味があった。
 ただ、断られたらそれ以上強引に押すつもりはなかった。
 御堂はちらりと克哉を一瞥して、正面を向く。
「…来てもいいが、君をもてなすものは何もないぞ」
 その言葉に嬉しくなる。御堂の耳元に口を寄せて囁く。
「ベッドさえあればいいです」
「馬鹿」
 御堂の頬が一瞬で朱に染まる。その反応を見て笑みがこぼれる。
 克哉を置いてどんどん歩いていく御堂に、遅れるまい、と歩を速めた。

 御堂の部屋は、克哉の部屋からも徒歩圏内にある高級マンションだった。
 ロビー階の扉をカードキーで開けて中に入る。克哉も続いた。
 高層階にある部屋のドアを開けて、御堂が先に中に入って照明をつけた。その明るさに一瞬目を細めた。
「佐伯、ジャケットを」
 御堂が克哉のジャケットを受け取って玄関脇のハンガーにかける。自身のジャケットも脱いで隣にかけた。
「お邪魔します」
 克哉は御堂に続いてリビングに入った。1LDKの間取りだったが、リビングは広く窓から見える夜景もきれいだ。
「ソファを使ってくれ」
 そう声をかけて、御堂はキッチンに向かった。
(それにしても…)
 克哉はリビングを見渡して、違和感を覚えた。
 ダークブラウンで統一されたシンプルなソファやテーブル。落ち着いた配色は御堂の美意識の高さを感じさせる。それらの家具は以前の御堂の部屋のものとは違っていた。買い替えたのであろう。
 それにしても、生活感がない殺伐とした部屋だった。
 以前の御堂の部屋には絵画や鑑賞植物、間接照明などのインテリアが色々飾ってあった。
 ところが今の部屋は必要最低限な家具のみできれいに片付いており、雑貨も含めて普段の生活を匂わせるものは何もない。本棚にもビジネス書や仕事に必要な資料がわずかに置いてあるのみだった。以前の部屋の本棚にはワイン関連の書籍も含めて様々なジャンルの書籍が所狭しと置いてあったはずだ。
 広い間取りの部屋と照明の眩しいほどの明るさの中で、生活感のない、もの寂しいインテリアが際立つ。
「佐伯、ミネラルウォーターしかないが、それでいいか?」
 キッチンから声がかかる。
 手伝いますよ、と返して、キッチンに向かった。
 キッチンも全く使用されている形跡がなかった。御堂が外食中心で料理をしないのは知っていたが、食器もほとんどおいておらず、モデルルームのようなキッチンだ。以前の部屋にあったワインセラーもない。見る限りワイングラスも置いていない。
 ミネラルウォーターの入ったグラスを受け取った。
「すまない。何も置いてなくて」
「いえ、構いません」
 御堂を眺める。穏やかな表情も優美な立ち振る舞いも何ら不自然なところはない。
 それでも、何かおかしい。以前の御堂とは違う。
(…御堂が変わったとしたら、それは、俺のせいだ)
 御堂を開放したあの日、涙を流し怯えて助けを求めるだけで克哉の言動に露ほども反応しなくなった御堂を放り出した。
 あの時、御堂を見て、もう元には戻らないかもしれないと予感した。それでも、そんな酷い状態の御堂を放置して、去ったのだ。
 後日、御堂が会社を辞める際に引継ぎをしっかり行ったと聞いて、正直、安堵した。
 その後もずっと御堂のことが心の中に澱のように沈んでいた。自分の御堂に対する気持ちに気付いたとき、自分の犯した罪の重さに慄き全てから目を逸らしたのだ。
 一年後、たまたま取引先で御堂と再会した時は、自分の未練がましさを自覚したものの以前と変わりなく仕事をしている姿を見られて満足したし、自身の罪悪感も多少は薄れた。
 その後、御堂に呼び止められた時のことを思い出す。御堂は克哉に向かって思いを吐露した。
『あれからずっと、君の事を忘れようと必死だった!!』
『住んでたマンションは売り、携帯も解約した。君と関わりあるものは全て捨てた。そうやって、君を思い出しそうなものは、全部…何もかも消した』
 はっと思い当った。御堂は言ってたではないか。
『君を思い出しそうなものは、全部…何もかも消した』
(…そうか、全て消したのか)
 それは、マンションや携帯や身の回りのものだけでなかったのだろう。
 自分自身の趣味や嗜好、プライベートな関係まで全て削ぎ落としたのだ。
 そうまでしたことで、ぎりぎりの状態で自分を保ち続けることが出来たのかもしれない。
「どうした?佐伯?」
 押し黙って御堂を見つめる克哉を訝しんだのか、御堂がこちらを窺うように声をかけた。
 突然、御堂の存在が希薄に感じた。
(この人は薄氷の上を渡ってきたのか。そして、今も、薄氷の上に立っている)
「御堂…」
 グラスをキッチンの台に置いて、御堂に歩み寄った。そしてそのまま御堂を強く抱きしめた。
「佐伯?」
 御堂が驚いて身を強張らせる。
 気に留めず、その体を強く掻き抱いた。御堂の存在を確かめるように。自分の腕の中にしっかりと留めておけるように。
 こんな空虚で何もない部屋で、御堂はどうやって過ごしてきたのだろう。
 御堂の今までを思うと、胸が締め付けられた。
(あんたがこうなったのは俺の責任だ。だから、俺が、あんたを元に戻す)
「どうした?佐伯?」
 訝しげに聞いてくる御堂に返答せず、時間を忘れて強く抱きしめた。

 (2)

 休日の夜、自宅で過ごしている御堂の元に、突然、佐伯が訪ねてきた。
 インターフォンが鳴り、ロビーフロアに来客がいることを示す色のランプがつく。
 モニターには佐伯の顔が映っていた。少し驚いてインターフォンに出た。
「佐伯?どうした、突然?」
『近くまで来たので。上がってもいいですか?』
「別にかまわないが…」
 開錠ボタンを押し、ロビーのドアを開けた。少しして、再びインターフォンが鳴った。部屋のドアを開ける。目の前にはカジュアルなジャケットを羽織った私服の佐伯が立っていた。御堂を見て、軽く微笑む。
「いきなりだな。事前に連絡をくれればいいのに」
 多少呆れ顔をしながら、部屋に招き入れた。
「何も用意してないぞ」
「大丈夫です。手土産持ってきましたから」
 そう言って、佐伯は片手に持った大きな紙袋を掲げてみせた。
「なんだ?」
 不思議そうに窺う御堂を尻目に、佐伯はリビングに勝手に上がり込みソファに腰掛けた。その後を追う。
「一緒に楽しみましょう」
 そう言って、佐伯はソファの前のセンターテーブルに紙袋の中身を出していった。
 佐伯の持ってきたものを見て、瞳孔が開いた。表情が自然と強張るのが分かった。
 二脚のワイングラス、コルク抜き、チーズ、そしてワイン。
「いいワインを買ってきたんですよ。ワイン好きだったでしょう」
 リビングの入口でこちらを見て唖然と佇む御堂に、佐伯はにこやかな顔で笑いかけた。
「…佐伯、私はアルコールは飲まないと…」
 声がかすかに震えているのを自覚する。
 一年前、佐伯から開放されて以来、御堂はワインも含めアルコールは飲まなくなった。いや、飲めなくなったという方が正しい。一度アルコールを口にして、監禁されていた当時の悪夢を見て以来、意識的に避けてきたのだ。ワインに対する興味もすっかり失ってしまい、自身が所有していたワインもワインセラーごと処分した。
 御堂にとって、あの時の出来事は克服したつもりだった。だからこそ、今、佐伯と恋人関係になり、仕事でもプライベートでもパートナーとして生活している。それでも、今回は…。
…あの時と状況が良く似ている。
 脳裏には一年前に佐伯がワインを持って、初めて御堂の部屋に訪ねてきた夜が鮮明に再生された。
 佐伯はくすりと笑った。コルク抜きを使い、手際よくワインの栓を開けていく。
「さあ、飲みましょうか」
 御堂はリビングの壁際に立ち尽くしたまま動けなかった。
 佐伯はワインを置いて、ソファからゆっくり立ち上がり、歩み寄った。思わず息を呑み、御堂は後ずさった。
「どうしました?今回は薬は入っていませんよ」
 佐伯の手が御堂の顔に伸びる。指先が頬を掠めようとした瞬間、その手を弾いて拒んだ。
「…何を考えている、佐伯」
 佐伯の行動が読めなかった。あの夜のことを思い出し、足が竦む。
 二人の関係を一方的に始められた夜。ワインにいれられた薬で体の自由を奪われ凌辱された忌まわしい思い出。
 佐伯とは恋人関係になったはずだった。なぜ、どうして、と頭の中で思考が激しく混乱する。
 距離を取ろうと少しずつ後ずさるが、すぐに壁に阻まれた。
 逃げ場所を視線で探す。佐伯は御堂の顔の真横の壁に手をついて、逃げ道を塞いだ。
「懐かしいですか?」
 甘い声で囁かれる。
「佐伯…やめろ」
 自分が発したその声は明らかに震え弱々しく、全身も微かに震えていた。呼吸が荒くなる。
 佐伯から顔を背けた。
 長い指が自分のシャツのボタンにかかった。
――早く、逃げなければ。
 だが、恐怖のため動けなかった。膝が震え、立っているのが精一杯だった。脳裏には一度は抑え込んだはずの一年前の惨状が次々と浮かぶ。
 ボタンを一個外されたところで、佐伯の手が止まった。
 背けた顔の頬に手がそっと添えられた。ゆっくりと顔を正面向きにされる。佐伯と眼があった。
「…そんなに俺が怖いですか?」
 眼鏡の奥の目は静謐で、嗜虐的な光は浮かんでいなかった。ただ、じっと御堂の表情を、その一挙手一投足を伺っている。
「……」
 佐伯の眼差しを受け止め、恐る恐る見返した。その表情には自分に危害を加えようとする意図は見えなかった。静かに小さく息を吐く。
 わずかに佐伯の眼が眇められた。一瞬、哀しげな眼差しになり、その顔に小さく自虐的な笑みが浮かぶ。
 そのままふいと御堂から顔を逸らし、体を離して背を向けた。
「…あんたは変わった。ワインを飲まなくなったのは俺のせいだろう?」
 その声は苛立っているようだった。だが、その苛立ちの相手は御堂ではなく、佐伯自身に対してだった。背を向けた佐伯が自分の拳をきつく握りしめるのを見て取る。
(私を試したのか…?)
 少しずつ恐怖は消え去り、震えが治まってきた。だが、混乱と疑問は変わらず頭の中に渦巻く。
 彼の行動が読めないのは相変わらずだったが、少なくとも今の関係になってから、意に反して強引なことをされたことはなかった。
 なぜ、こんなことを…?佐伯の背に向かって、言葉をぶつける。
「どうしてこんなことをしたんだ」
「…元のあんたに戻ってほしかったんだ」
 感情の読めない声で、佐伯はこちらを振り向かずに答えた。
「…元?」
「ああ。俺と初めて会ったころのあんただ。もう、俺たちの関係は以前とは違う。だから、あんたとワインを飲み交わせると思ったんだ」
 そこまで言って、佐伯は大きく息を吐いた。
 思い通りに行かなかった悔しさだろうか、苛立ちをぶつけるかのようにきつく握りしめた拳で空を切った。手元に手ごろな物があれば、殴りつけていただろう。むしろ、自分自身を殴りつけたいのかもしれない。
「…あんたは変わった。…変えたのは俺だ。だから俺はあんたを元に戻す義務がある」
(この男は……)
 とても不器用でアンバランスだ。
 その能力は非常に高く、目的の達成に向けて最短距離で最も効率よい方法を選び取ることが出来、その判断は常に的確だ。必要とあらば非情な手段も迷わず選択する。他人の感情をビジネスの駆け引きに用いるのも上手い。その上、自身の感情がぶれることも、ましてやそれに押し流されることも見たことがない。
 それなのに、何故か御堂に対しては時に直情的で短絡的な振る舞いをするのだ。そして性急な手段を取りながら、そんな自分自身に対して戸惑う素振りを見せる。
「あなたがこんなに怯えるとは思わなかった。…悪かった。……俺は帰る」
 そのまま佐伯はこちらに目を向けず、リビングを出ようとする。
「佐伯……それは違う」
 思わずその背に向かって声をかけた。佐伯が立ち止まって、ゆっくりと振り返った。その硬い表情をまっすぐに見つめた。
「…確かに私は変わったかもしれない。だが、それは佐伯のせいではない」
 佐伯の顔をしっかり見据えて御堂は続けた。
「確かに、きっかけは君だったかもしれない。だが、変わったのは私の選択だ。私は自分自身の選択を後悔していない。昔の自分に戻りたいとは思っていない」
「……」
 訝しむように佐伯の視線が自分に注がれるのを感じた。その発言の真意を探っているようだった。
 佐伯に向かって小さく微笑んだ。もたれかかっていた壁から離れ、背を向けソファの方に向かった。
 センターテーブルに置かれたワインを手に取る。ラベルを見れば、一目でそのワインの銘柄とヴィンテージは分かった。
「シャトー・ムートン・ロートシルト、2000年。奮発したな。傑出した出来だ。…そして今がちょうど飲み頃だ」
 ワインを手に取り、二つのグラスに注ぐ。
「佐伯、一緒に飲まないか」
「御堂…?」
「このワインを飲まないで帰るのは、勿体ないぞ」
 立ち尽くしたままの佐伯に精一杯の笑顔で声をかけた。もう私は大丈夫だ、ということを示す。
「私は、昔の私に戻りたいとは思わないが、今の自分に満足しているわけではない。君をきっかけに変わったというのなら、再び君をきっかけにして変わりたいと思う」
 そう言って、ワインを注いだグラスを佐伯に向かって差し出した。
 そろそろ新たな一歩を踏み出していいはずだ、と御堂は思う。解放されてから今まで、ずっと一人でもがいてきた。抑え込んできた過去は今でも厄介な隣人として、常に御堂の傍に潜んでいる。目の前の若い青年は、かつてはその過去の元凶であったが、今は違う。共に歩むと決めた恋人だ。彼を信じる。
 佐伯は差し出されたワインと御堂の顔を交互に見て、ふっと表情を緩めた。静かにゆっくりと御堂の元に歩み寄り、グラスを受け取った。わずかに指先が触れて、温もりが伝わる。
 御堂は静かに呟いた
「…第1級たり得ず、第2級を肯(がえ)んぜず、そはムートンなり」
「ムートン?どういう意味だ?」
「君が持ってきたこのワイン『シャトー・ムートン・ロートシルト』のラベルにかつて刻まれていた言葉だ」
 知らずに持ってきたのか、と少し呆れ顔をした。まがりなりにもボルドー5大シャトーの一つで、ワインを少しでも嗜む者なら誰もが知っている銘柄だった。
「かつて、このワインが2級に格付けされた時、シャトー・ムートンを有するロートシルト家はこの言葉をワインに刻み、様々な努力を積み重ねた。そして、そのたゆまぬ努力の末、百年以上かかったが、1級への昇格を果たしたんだ」
 佐伯の視線が注がれているのを感じた。一息ついて更に言葉を続ける。
「そして今は『今第1級なり、過去第2級なりき、されどムートンは不変なり』と刻まれている。…私も、常に高みを目指して努力を重ねたいと思う。だが、いくら変わっても私は私だ」
 そこまで言って、御堂もグラスを手に取った。グラスのステムが指先の熱でわずかに曇る。
 御堂は佐伯の方に向き直った。優しい眼差しが返される。
「何に乾杯しようか」
「俺たちの、未来に」
 迷いなく佐伯が答えた。御堂にまっすぐな視線を向け笑みをこぼす。
「そうだな。共に歩む未来に…乾杯」
 御堂も同じ熱さを持った眼差しを佐伯に向けて笑みを返した。

アンカー 2
(3)

「乾杯」
 胸の高さに軽くグラスを掲げて御堂と共に克哉はワインを口に含んだ。
 ワインに疎い克哉でも、その香りの豊潤さ、複雑な味わいの奥深さに気付く。隣で、御堂がゆっくりとテイスティングしながら口に含み嚥下する。
「さすがはムートン。豪勢な味わいだな」
 御堂が感嘆の声を漏らす。
 そんな御堂を見て、思わず笑みがこぼれた。
 克哉自身、ワインには疎いので、専門店で店員に勧められるがまま買ってきたものだったが、心の中でその店員に感謝する。
 久々にアルコールを口にしたせいか、御堂は一杯飲んだだけで頬が上気している。
 ワインについて語りだした御堂に相槌を打ちながら話を促すと、次第に饒舌に語りだした。
 雄弁に語る御堂を好ましく思う。彼は必要なこと以外はほとんど話さない。克哉自身も口数が多い方ではないため、日中二人で職場にいても必要時以外ほとんど会話がない。だからこそ、ワインについてこれ程語る御堂は新鮮だった。
 職場のプレゼンテーションでは、良く通る声で立て板に水のごとく説得力を持ってプレゼンをするものの、御堂が普段の会話で、何かについてここまで饒舌に話す姿を見たことがなかった。ワインバーで旧友と語らうときもこんな姿だったのだろうか。
(…俺はこの人の何を知っていたのだろう)
 再会後の御堂を見て、以前との差異ばかりが気になったが、それは全て表面的な事柄ばかりで、そもそも彼の本来の姿というものを知らなかったのではないだろうか。
 つい先ほど克哉に強い怯えと怖れを見せたばかりなのに、今はそれを微塵も感じさせないほど、気丈に振る舞っている。
 一年前の御堂の姿が重なる。
 克哉に心身ともに徹底的に痛めつけられていても、職場では何事もなかったかのように振る舞い、周囲に助けを求めることはなかった。そして、あんな酷い状態に追い込んだにも関わらず、再会したときには昔を彷彿とさせるほどの立ち振る舞いだった。
 完全に立ち直っているわけではない。今でも傷を負っているのは分かった。しかし、それを周りから隠し気付かせないようなプライドと高慢さは、全く以前と変わらないのではないだろうか。
(…強い人だな。哀しいくらいに)
 その強さが自分自身を追い詰めることになるのに。
 克哉は目を眇めて隣の恋人を見つめた。その視線に気づいたのか、御堂が気まずそうに黙りこむ。
「すまない。おしゃべりが過ぎた」
「いえ、聞かせてください。それで、ペトリュスでしたっけ?」
 微笑んで、先を促す。御堂も小さく笑って、話を再開した。
「…ああ。ペトリュスは奇跡のワインと呼ばれている。セカンドラインも作らず、生産数も少ない、最も高価なワインだ」
「あなたとそのペトリュスを飲んでみたい」
「気軽に言うな。そう簡単に手に入る代物じゃない」
 御堂が再びグラスを口にする。これで何杯目だろう。克哉はほとんど飲んでいないので、御堂一人でフルボトルを空けそうな勢いだ。
 御堂のはだけたシャツから覗く白い肌も、ほんのり赤く染まっている。目元もうっすら赤みが差し、潤んできている。
 グラスに手を伸ばそうとする御堂の手に自身の手を静かに重ねた。びっくりした御堂が動きを止める。そのまま御堂の指を絡める。
「佐伯…?」
「御堂さん、あなたは飲むと色っぽくなる」
 顔を近づけて耳元に吐息をかけながら囁いた。
 御堂の身体が一瞬、震えた。怯えているのだろうか。それとも感じているのだろうか。
 顔に手を優しく添えて顔をこちらに向かせた。そのまま唇を重ねる。
「……んっ」
 濡れた舌で唇を割り、舌を絡める。御堂の熱い吐息とともに、ワインの芳香が口内に充満する。
 手を回して肩を抱き寄せた。身体は既に熱くなっている。ワインだけのせいではないだろう。
 熱く濡れた舌を絡め、口蓋から歯列をなぞり、仄かにワインの味わいを残す御堂の唾液を飲み込む。
 そのまま押し倒そうとしたところで、御堂が腕を突っ張って抵抗した。一旦体を離した。
「御堂?」
「佐伯…ここでは嫌だ」
 克哉を見上げる御堂の眼差しは既に官能を湛えている。だが、その中にわずかに怯えの色が混ざっていた。
(確かに、ソファは嫌だろうな)
 御堂から一旦離れて体を起こした。
 最初に御堂を無理やり抱いたときもソファの上だった。これ以上嫌な思い出を蒸し返すこともないだろう。
 御堂の手をとり、抱き起した。
「ベッドに行きましょうか。御堂さん」
 ふい、と御堂は克哉から目を逸らした。握った手をそっと握り返された。

 御堂をベッドの端に座らせた。唇を押し当てながら、そのままベッドに押し倒す。自分のジャケットをベッドの脇に脱ぎすて、真上から深い口づけをする。
 その間に御堂のシャツのボタンに指をかけ一つずつ外す。シャツをはだけさせ、ベルトの金具を外した。その性急な動きに焦ったのか、御堂が口づけを解き、克哉の手を掴んだ。
「佐伯…そう急くな」
 服から手を離し、両手を御堂の耳の傍について上半身を離す。にやりと笑って御堂を見下ろした。
「俺の服を脱がしてもらえますか?」
「……っ!」
 一瞬、御堂の目が大きく見開かれ、顔が一層紅潮する。
 ゆっくりと長い指が伸ばされ、克哉のシャツのボタンにかかった。他方の手も伸ばされ、ボタンが下まで外される。襟元に手が伸び、肩が右、左とはだけさせられた。
 克哉は上半身を起こして、はだけたシャツから手を抜いて、ベッドの外に脱ぎ捨てた。
「シャツだけ?」
 御堂に跨ったまま膝立ちになって、甘えた声で囁きかける。御堂の形のいい眉が顰められたが、その指がベルトの金具にかかった。ためらいがちにベルトを外される。そこで指が止まった。
 既に自分自身は形を持って、張りつめていた。克哉のスラックスの前の膨らみに気付いたのだろう。気まずそうに視線を外された。
「後は自分でやってくれ」
「分かりました」
 その恥ずかしがるような仕草に、どうしようもなく甘い気持ちが衝き上げてきて、御堂の首元に顔を埋める。同時に首筋から鎖骨までを唇と濡れた舌でなぞる。
「…あっ!あぁ…」
 御堂の喘ぎ声が漏れる。克哉の項と背中に手が回された。ワインのせいもあるのか、いつもより積極的に自分から求めてくる。
 下腹部へと手を這わす。その素肌を撫でる感触に身体が震える。
 御堂の手が克哉の後頭部に回され、顔を引き寄せられた。そのまま唇を重ねる。舌を絡めて吸い上げる。
「んっ……ふっ……」
 口づけを交わしながら、手際よく御堂のズボンと下着を引き抜いた。御堂も腰をわずかに上げる。キスを解いて、自分の残りの衣服を脱ぎ捨てた。
 再び覆いかぶさり、キスを再開する。絶え間なく唾液が鳴る音がお互いの口内に響いた。
 そのまま唇を這わして、胸の突起を含んだ。軽く歯を当てる。同時に熱を持っている御堂の性器を手で優しく掴んで擦る。
「うあっ……!」
 御堂の身体がその刺激に跳ねる。自分の愛撫に敏感に反応するのを見ると、さらに克哉の中の欲情が煽られた。
 御堂の両足首を掴んで、大きく膝を広げさせた。性器から双丘の秘められた箇所まで、全てさらけ出される。
御堂の整った顔が羞恥に染まり、顔を背けられる。悩ましげに寄せられた眉、わずかに藍紫を帯びる瞳がそっぽを向いて伏せられた。
 既に克哉は御堂の身体の隅々まで知っていたし、その秘められた箇所もとことん暴いていた。今更恥ずかしがらなくても、と思うが、それでもベッドの上で慎ましさを見せるのは彼らしかった。一方で、その慎ましさの奥に潜む、淫乱で乱れた姿を引き摺り出したい、という獰猛な欲望に駆られる。
 その引き締まった腹部に濡れた舌を這わしてなぞり、御堂の屹立の先端を唇で軽く食んだ。唾液を絡めて先端の割れ目に舌を差し入れる。先端から溢れる潮気の感じる先走りを舌をとがらせて掬い取り、そのまま肉茎を喉の奥まで含んだ。片手で根本を軽く押さえて、さらにもう片手は奥の蕾を指でなぞりほぐす。
「ん、くっ……、佐、伯」
 ペニスを深く咥えてストロークを繰り返す。克哉の頭を御堂は両手で押さえた。
 舌と頬粘膜を使って、ペニスを扱いた。その刺激の強弱をつけるたびに、御堂が克哉の髪を掴み、頭を押さえる力が強くなる。
 先端を口蓋でこすりつつ、舌で裏筋をなぞりながらペニスの根本を突いた。同時に後孔に指を根元まで差し込み、折り曲げて狭い腔内の膨らみを触る。びくっと大きく御堂の身体が跳ねた。
「うぁっ、ああっっ!…っ!だ、駄目だっ。佐伯っ!」
 克哉の髪を思い切り掴まれた。その手が震えている。ペニスから口を離して顔を上げた。
「イきそうですか?…何度でもイかせてあげますよ」
「嫌だ…」
 涙交じりの眦で睨まれた。それなら、と上半身を起こして、埋め込んでいた指を抜く。
 あっ、と切なげな御堂の声が上がった。
「挿れた瞬間にイかないで下さいね」
「くうっ…」
 多量の先走りで濡れそぼった自身の先端を、双丘の狭間、赤くなった後孔にあてがった。
 その感触に御堂の下肢が細かく痙攣する。覚悟を決めたように、御堂は目を固く閉じた。その長い睫毛が震える。
 腰を強く掴み、身体をゆっくりと押し進めた。
「うぅっ、あ、ああっ」
 その狭い内腔を犯して進んでいく。圧迫感と違和感に眉間にしわが寄り、御堂の顔が歪む。同時に克哉自身がきつく締め付けられた。
 その中はとても熱く、絡みつく粘膜が灼ける様な刺激を生み出し、自らの意識がその器官に集中する。そのまま根元まで一気に埋め込みたい、とせり上げる衝動を抑え、緊張を解くようにゆっくりと浅く腰を動かした。
「力を抜いて。このままだと辛いだろう」
「んっ……大丈、夫だ。…そのまま、来い」
 荒い息を吐きながら克哉の背中に手が回される。そのまま強く抱き寄せられた。御堂の全身に緊張がはしり、身体が強張っている。
「御堂、キスを」
 その言葉に、きつく閉じられた瞳が薄く開く。克哉の方に向けられたその唇に自分の唇を重ね、舌を絡めた。御堂の気をキスに逸らして、更に腰を深く進めた。
「んっ…ふっ…」
 段々と腰をより深くグラインドさせる。その度に、キスが解かれ、御堂の喘ぎ声が漏れる。
 二人の下腹部で挟んだ御堂のペニスは先端から溢れる蜜にまみれ、お互いの体を濡らしていった。
 そろそろ限界だろう。キスを解いて、御堂の肩を強く掻き抱いて、身体を密着させた。
「御堂さん。ずっと俺の傍にいてください」
 素肌を通して、御堂の熱い体温が、速い鼓動が伝わる。
「佐伯…」
 御堂が喘ぎながら言葉を吐き、息を止めた。克哉の背中に回した手が、一層強く抱きしめられる。何かを伝えようと逡巡しているようでもあった。動きを止めて言葉を待った。
「…もう、私を置いて行くな」
 小さく、消えそうな声だった。だが、克哉の脳髄に深く強く響く。
 それは、あの解放した日の事を指しているのだろうか。
 御堂を置いて去って行った日。御堂を解放した、と克哉は認識していたが、思い返せば、克哉が解放したのは自分自身だった。御堂から克哉自身を解放したのだ。一方的な謝罪と告白をして、そのまま御堂を捨てて逃げた。その現実を目の前に突き付けられる。
 自分の腕の中にいる恋人に対して、愛しさと同じだけの苦しさが湧き上がる。胸を締め付けるその苦さを無理やり飲みこんだ。
「約束する」
 そう短くはっきりと告げて、強く御堂を抱きしめ返した。再び口づけを交わす。それに応じて、御堂が更に強くきつく克哉を抱きしめた。それは苦しいほどであったが、抵抗せずに身を任せる。
 克哉が御堂を消えそうだと感じたように、御堂も不安を感じているのだろう。このまま克哉がいなくなるのではないかと。
 ゆっくりと抽挿を再開する。徐々に深く激しく御堂の中に出し挿れする。
「うあ、…はっ…っ」
 すすり泣くような喘ぎ声をあげながら、御堂は背を仰け反らせ、克哉に必死にしがみついた。
 長い脚が克哉の腰に絡みつく。喘ぐ御堂の口を自分の唇で塞いだ。
「んんっ!」
 くぐもった叫びと共に御堂の身体が大きく震えて強張り、克哉の腹に熱くたぎった迸りが放たれた。
 少し遅れて、克哉自身から激しい快楽が爆ぜるのを歯を食いしばって耐えた。
 御堂の身体から力が抜けて、克哉にしがみついていた手が解かれる。崩れ落ちるその身体を両腕で支えた。その重みと暖かさを、克哉は確かに腕の中に抱き留めた。


 部屋に差し込む柔らかな光に揺り起こされて、克哉は目を覚ました。
 自分の腕の下に暖かい感触を感じる。何気なしに手を動かすと、すぐに人肌に触れた。慌てて手を引っ込めて、隣を見ると、静かに寝息を立てている御堂の姿が目に入った。
 辺りを見渡す。御堂の部屋の寝室だった。ぼんやりとした昨夜の記憶がはっきりと輪郭を持ってくる。
 ワイドダブルのベッドは男二人には少し手狭だった。シャワーでも浴びようか、と静かにベッドから降りかけて思いとどまった。
 昨夜、御堂を置いてかない、と約束したのではなかったか。
 克哉は再びベッドに戻った。ベッドの端に腰を掛けて、御堂の穏やかな寝顔を見つめた。それだけで胸の中に甘酸っぱい幸福感が満たされるのを感じた。はだけていた毛布を御堂の肩までそっと引き上げる。
 どれくらい経っただろうか、御堂が大きく寝返りを打ち、瞼が震え、薄く目を開く。睫毛の隙間から覗く瞳が克哉を視界に捉えた。瞳孔が開き、一瞬遅れて目がしっかり開かれる。
「佐伯…?」
 まだぼうっとしているのだろう。不思議そうな顔をする御堂に、笑みを返す。
「おはようございます」
「…ああ、そうか」
 昨夜のことを思い出したようだ。御堂が少し気まずそうに視線を逸らす。克哉はくすりと笑った。
「シャワー借りてもいいですか?」
「…わざわざ訊かなくとも、勝手に使えばよかったのに。私が起きるのを待っていたのか?」
 御堂が少し意外そうな顔をしてこちらを向く。
「起きたとき俺が隣にいなかったら寂しいでしょう?」
 その目が一瞬大きく開かれ、眇められる。
「自惚れるな」
 そう言う御堂の目元が緩む。その顔から柔らかい笑みがこぼれた。
 克哉は、笑みを返して顔を近づけた。朝の透き通った穏やかな光が溢れる部屋の中で、そのまま唇を重ね、柔らかいその感触に浸った。

アンカー 3
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