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In the Dark Room はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも大丈夫という方のみお進みください。

 こちらのSSは、鬼畜眼鏡RのエンディングNo.4「好きにしろ」の補完SSです……が、鬼畜眼鏡(無印)のエンディング「資格の喪失」も同時に絡んでいます。
 地雷要素を含むSSですので、注意点を良くお読みの上、了承された方のみお読みください。
 こちらに出てくる眼鏡は『佐伯克哉』としての名前や記憶も自我も失っています。
 御堂さんは夢の中でしか眼鏡と会えない挙句、会話も交わせずその姿もはっきりと視ることは出来ません。
Mr. Rに囚われた状態で、Mr. R×眼鏡の眼鏡受を想起させるシーン(行為自体の直接的な描写はありません)及び、眼鏡がMr. Rに嬲られるシーンが所々で登場します。くれぐれもご注意ください。
 また眼鏡×御堂の暴力描写、凌辱描写も登場しますのでご留意ください(最初の方だけですが)。
 全17話。御堂視点、克哉視点、本多視点と視点がころころ変わりますので読みにくいかもしれません。
 
【登場人物】佐伯克哉(眼鏡)、御堂孝典、Mr. R、本多憲二、澤村紀次、四栁、藤田

In the Dark Room(1)
(1)

 暗く誰もいない広い部屋。部屋の電気を付けて、御堂はため息をついた。
 克哉が忽然と姿を消してから三カ月経った。
 この三カ月のことを振り返ってみても、自分が何を考えどう動いたのか、御堂はほとんど覚えていない。
 あまりにも突然の出来事で、理解し納得する前にめまぐるしく身体と心を酷使された。
 残されていたのは公園の土に沁み込んだ大量の血痕、克哉の携帯電話などの私物、そして正気を失った澤村紀次。
 澤村は返り血を全身に浴びて、血が滴るナイフを手で弄びながら公園近くの路上をふらふらと歩いているところを通報され確保された。
 命が危ぶまれるほどの大量の血痕から、事件性があると判断され、すぐさま警察が動き克哉の行方を追ったが、その足取りは杳として知れなかった。
 あれほどの血だまりがありながら、克哉と澤村以外の足跡の一つも残さなかったのだ。澤村のナイフについていた血痕、そして公園に残された血だまり、DNA鑑定からいずれも克哉の血液であることが証明された。だが、当の本人はどこにもいない。
 連れ去られた可能性も考慮されたが、その公園の奥まった場所には第三者の足跡は残されておらず、当の澤村も単独で行動していたようであり、その証言も支離滅裂で会話の体をなさなかった。
 克哉の携帯電話の着信履歴から御堂の元に連絡が入り、急いで担当の署に駆けつけたのだったが、全く状況がつかめなかった。
 ただ、その日から克哉は消えたのだ。全く跡形もなく。
 捜査の過程や澤村の断片的な証言から、御堂と克哉の関係は周知のものとなった。会社にも克哉の親にも。
 克哉と御堂で起ち上げたAcquire Association社にとって、それは大きな打撃となった。
 世間の耳目を集める新進気鋭のコンサルティング会社であり、断らざるを得ないほど多くの依頼は、波が引くようになくなった。会社の未来に失望を感じて辞める社員も出てきた。
 それでも御堂は動ぜずに、常に穏やかな表情のまま堂々と振る舞った。
 克哉の親に面会し、大きな戸惑いとある種の八つ当たりに近い怒りを浴びせられながらも、落ち着いて状況を説明し、自分の至らなさを詫びた。そして、克哉の行方を責任を持って探すことを約束し、克哉の部屋と私物を御堂が管理する許可を得た。
 世間の好奇と侮蔑の視線を浴びながらも、やりかけの仕事に没頭し克哉が抜けた穴を完璧に埋めた。その仕事ぶりを評価されて仕事の依頼も僅かずつ戻ってきた。それを選り好みせずにすべて引き受け、膨大な仕事で自分を追い込んだ。余計なことを考えなくて済むように。そして、克哉が帰ってきた時のためにこの会社をしっかりと残しておくために。
 警察の大掛かりな捜査も空しく、克哉に関する手掛かりは何もつかめなかった。
 被害者不在であり、澤村の精神状態も危うかったことから、澤村はそのまま精神科病院に収容され、罪に問われることはなかった。
 御堂は、克哉について直接聞きただすために澤村に面会をしたが、御堂を視界に捉えた澤村は興奮し、口角から泡を飛ばしながら御堂と克哉を口汚く罵った。立ち会った警官が見かねて制止に入ったが、その腕を払いのけ御堂に掴みかかろうとせんばかりに身体を乗り出し、甲高い笑い声を浴びせた。
「ハハッ。克哉君は僕が殺したよ。いや、そう簡単に死んでもらってたまるものかっ。はっ、あんた、あんな奴の代わりに僕が抱いてやろうか?ハハハッ!僕とあんたは同じ男に抱かれた仲だろう?ハハハッ…」
 瞬き一つせずに目を見開き、真っ赤な口を大きく開けて、澤村は嗤い続けた。その心は完全に狂気に呑み込まれていた。狂気に捉われた人間を間近で見て、澤村に対する怒り以上に空恐ろしさに御堂は包まれた。この面会の後、澤村の弁護士から面会禁止を通告され、澤村との2回目の面会がかなうことはなかった。

「佐伯…」
 会社と同じビルの高層階にある克哉の部屋。夜遅く、御堂はその部屋に帰った。
 明かりをつける。中を見渡すが誰の気配もない。
 主を失ったその部屋に、御堂は暮らしていた。
 克哉が戻ってくるのではないかと期待して。
 リビングのソファに腰を掛けた。いつも持ち歩いている克哉の携帯を確認する。
 相変わらず何の着信もメールもない。
 現場に残されていた克哉の私物は全て返却された。今や克哉は一人の失踪人扱いだ。その存在を気にかけるのは御堂を始めとしたごく一部の人間だけ。
「君は今、どこにいるんだ…」
 御堂なりに手を尽くした。興信所を使って、手広く探したが未だになんの手掛かりもない。
 克哉の部屋で過ごすようになって、せめて何か手掛かりがあれば、と克哉の私物を検めたが驚くほど何もなかった。
 プライベートを詮索することに若干の罪の意識を感じながら、克哉のクローゼットを開け、本棚やチェストの引き出しも確認したが、そこには克哉の存在を感じさせるものは何もなかった。
 普通であれば、今まで過ごしてきた記憶やその想いが愛着となって持ち物に沁み込むはずだ。だが、克哉のそれには全く克哉の痕跡を伺わせる跡はない。家具や衣服など克哉のセンスの良さを伺わせるものの、必要最低限のものしかなく、持ち物の数も少ない。
 以前より物には執着しない性格だとは思っていたが、それにしても異常なほどだった。ほんの少し前まで克哉がここで暮らしていたとは思えないほど、生活感を感じない部屋だ。克哉は物だけでなく自分自身にも何ら執着を持っていなかったのかもしれない、そうとさえ感じる。
 克哉が居なくなったことに気付いたのが三カ月前だっただけで、克哉自身は当の昔に消えていたのではないだろうか。
 そんな幻想さえ漠然と抱かせる。
 その克哉が常に所持していた数少ない物が携帯であり、そしてもう一つ、公園に残されていたジッポーのライターだった。
 そのジッポーのライターも御堂の手元にある。克哉の血を浴びて赤黒く濡れたライターも、今は磨かれて元の真鍮の輝きを取り戻している。
 御堂は克哉の携帯とともにそのライターも常に持っていた。御堂はタバコは吸わない。それでも、このライターに火を灯し、そのちろちろと揺れる炎を眺めることが最近の習慣になっていた。
 御堂が知る限り、克哉はこのライターをずっと所持していた。ならば、克哉もこのライターが灯す炎を数えきれないほど見ていたはずだ。
 何の飾りもない武骨な長方体のジッポーのライターをなぜ好むのか、以前、聞いたことがあった。
「ジッポーなんて大衆的なライターが好きなのか。君らしくないな」
「丈夫でいいんですよ。それに、他のライターにはない機能がある」
 なんだ?と訝しがる御堂に、克哉は軽く笑って、ライターの火をつけて見せた。そのままテーブルの上にそっと置く。火は消えずに灯ったままだ。
「ジッポーのライターは、手を離しても火が消えない」
「その機能は何の役に立つんだ?」
「アクション映画で、車から漏れ出たガソリンにライターを投げて火をつけるシーンあるだろう。あれで使われるのがジッポーのライターだ。他のライターだと手から離れた瞬間に火が消えて、ガソリンまで届かない」
「ハリウッドでしか役に立ちそうにない機能だな。くれぐれもそんな機会が君に訪れないことを願う」
 眉をひそめて見せた御堂に、克哉は声を立てて笑った。御堂もつられて笑う。
 そんな、他愛もない会話も今となっては懐かしい。
 御堂はライターの青い炎を見ながら、力なく笑った。ライターは御堂の手の中でも今でも変わりなく火を灯す。
 このジッポーのライターを使うようになったせいで、オイルの補充も出来るようになった。
――いなくなる前に、声を聴きたかった。
 御堂は顔を覆って天を仰いだ。自分がいま、克哉に対してどんな感情を抱いているのか分からなかった。悲しみなのか、怒りなのか。あの日から、自分の感情は欠落したままだ。時が動き出すことはない。

(2)
In the Dark Room(2)

 そこは薄暗く一面赤い部屋だった。
 身体中が鈍く痛む。そして、重い。
 瞼をゆっくりと開いた。焦点の合わない目で周りを見渡す。
 視界が赤い。いや、段々と輪郭がはっきりしてきて分かった。赤いカーテンに囲まれている部屋にいるのだ。
 そして、硬い床の感触。自分が、床に転がされている状態だということを認識する。
 状況が把握できないまま、手を突いて軋む身体を起こした。
「おや、お目覚めですか」
 ゆったりとした声が頭上から降り注ぐ。ぼんやりと見上げると、丸眼鏡をかけて長い金髪を揺らめかした奇妙な男が自分を覗き込んでいた。
「誰…だ?」
 その声は思ったよりも掠れていた。それ以上に、自身の声を聴いて新鮮な驚きがあった。
――これが俺の声?
 自分の手を見て、その足先、服装も含めて姿かたちを確認する。ダークグレーのスラックス、そして薄いブルーのシャツ。鏡がなくて自分の顔は確認できなかったが、眼鏡をかけている感触がある。その眼鏡を手に取った。何の変哲もないただの眼鏡。眼鏡を外しても視界は歪まない。単なる伊達眼鏡のようだ。
 奇妙な違和感を覚えた。自分が自分であるという確証が持てない。
――…俺は、誰、だ?
 なぜ、ここにいるのか。それ以前に自分が誰なのかさえ思い出せなかった。状況を把握しようと周囲と自身をせわしなく見比べるが、何ら閃くものはない。
 フフッ、と目の前の男が嗤った。気が障るような含み笑いだ。
 本能的に危険を察知し、警戒を露わにした目をその男に向けた。その男はその視線を悠然と受け止めて、にこりと微笑む。
「お前は、誰だ?」
「おやおや。忘れてしまいましたか。まあ、そうですよね。今までの貴方の記憶や意識は失われてしまいましたから」
「失われた?」
「ええ。今の貴方には必要ありませんから」
「どういうことだ?」
「記憶がないというのも厄介ですねえ。説明を一からしないといけません」
 その男は、幼子をあやすような優しげな笑みを浮かべ、美しく抑揚のつけた声で囁いた。
「あなたは、失ったのですよ。王たる資格を。眼鏡の持つ力に振り回されて、中途半端に暴走した挙句、些末の者に殺されかけた。…あなたには素質があった。私は期待していたのです。…本当に、残念です」
 そう言いながらも、自分を見つめる丸眼鏡をかけた男の眸は爬虫類のように無機質だ。
「…ですから、今度は私があなたを好きにする番です」
「何を言っている…?ここはどこだ?」
「ここは、クラブR」
「クラブR?」
 その男の言っている事が全く理解できずに、克哉は首を傾げた。
 だが、その男は静かな笑みを浮かべたまま、悠揚と佇む。
 こんな得体のしれない男に構ってなどいられない。気怠い身体を起こし、立ち上がった。身体は痛むが、幸いひどい怪我はない。
 身を返して、この部屋を見渡し出口を探す。だが、四方をカーテンに囲まれていて、ドアが見つからない。カーテンを一枚一枚めくって探すしかないだろう。カーテンに向かって足を向けた。
 その時だった。
「待ちなさい」
 静かな一言が背中にかけられた。その途端に脚が動かなくなる。背後で男の喉が嗤った。
「こちらに来なさい」
「ぐっ…」
 その言葉に抗うことが出来なかった。自分の意思とは関係なく脚が動き、その男の元まで歩を進める。正面で向き合う体勢になった。
 その男は口元に昏い笑みを深く刻んだ。
「跪きなさい」
 自身の意思に関係なく足が折れ、床に両膝をつく。屈辱的な姿勢だが、その言葉は絶対的な強制力を持っていた。身体を動かすことが出来ない。ありったけの敵意を込めてその男を見上げた。
「どういうことだ?」
「あなたは私と契約したのですよ。あなたの命を助ける代わりに、私があなたを好きにする。今の貴方は、私の所有物、いわば私の人形です」
「そんな記憶はない」
「それも含めての契約ですから。まあ、その内容をしっかり聞いていれば、契約しなかったかもしれませんね。ですが、あなたは全てにおいて愚かで迂闊でした」
「なんだと…?」
「…ああ、私の名前は、そうですね。Mr. Rと呼んでください。いや、むしろ主人(マスター)でもよろしいですよ」
「誰が、呼ぶか」
「さて、貴方を何て呼びましょうか。自分の名前さえ失ったのですから。……呼ばれたい名前はありますか」
「ふざけるな」
 隠し切れない苛立ちと怒りを孕んだ声に、その男、Mr. Rは丸眼鏡の奥の眼を嬉しそうに細めた。
「そうこなくては。優秀で残忍で冷酷な素質を持ったあなた。そんなあなたを躾けられるなんて、私は嬉しいです」
 神経を逆なでるような物言いに、自由になる手で目の前の男、Mr. Rを殴りつけようと拳を振るったが、その拳はMr. Rに届く前に空中で押しとどめられた。見えざる力で。
 自分自身の身体が、この男に僅かたりとも傷をつけることを拒んでいるかのようだった。身体が思い通りにならない。
 くつくつとMr. Rは喉を鳴らして嗤った。さも可笑しくてたまらない、というように。
「ナイフでめった刺しにされて死にかけた貴方に、新しい人生を与えたのは私ですよ。いわば私はあなたの親。いけませんねえ。親に拳を振るうとは」
 顎に硬い棒をあてられた。Mr. Rはいつの間にか手にしていた乗馬鞭の柄で、顔を掬いあげた。嫌な予感がする。
「腕を後ろに回して」
「――っ」
 自分の意に反して、両腕が動く。そのまま背後で戒められたように動けなくなる。
 Mr. Rの双眸に喜悦の色が浮かび、口の端が歪む。ヒュン、と風を切る音とともに、鋭い痛みが胸に走る。シャツの上からでも十分にその鞭は威力を発揮した。
「くっ…」
 漏れそうになる悲鳴を呑み込む。2発目、3発目の鞭が容赦なく襲う。その打撃から身を守ろうにも、身体が動かせず、無防備に躯体を晒したままだ。
 鞭がうなるごとにシャツが破れ、皮膚が裂ける。ぼろきれとなっていくシャツに何条もの赤い血がにじんできた。自身の血の匂いが部屋に漂う。
 そして、鞭を振るうMr. Rの陶磁のような白く滑らかな肌が紅潮していく。そこからは性的な興奮が見て取れた。
「変…態…めっ!」
「おや、心外ですね。あなたと同じ嗜好を持っているだけですよ。ただ、私とあなたには絶対的な立場の違いがある。それを貴方に身をもって調教しているのですよ」
 残酷な笑みがMr. Rの顔を美しく歪める。
「出来の悪い作品は皆様にお見せできませんから、その商品として相応しくなるまで躾けなくてはなりません」
「何…を言っている…?」
「私は嬉しいのですよ。貴方みたいな傲慢な鬼畜を調教することが出来て」
「俺を解放しろ!」
 その言葉にMr. Rは目を眇めた。
「貴方には帰る場所などどこにもないのです。私の人形としてこの世界の住人となるしかありません。…後は、私の元に堕ちるのみ。たっぷりとご堪能ください」
 鞭の先端が、喉仏から鎖骨、そして胸を這っていく。破れたシャツの間から胸の突起にたどり着くと、鞭の先端を舐めるようしならせた。そのおぞましい感触に、身体が小さく引き攣れる。
「くっ…」
 唇を噛みしめて、声を押し殺す。Mr. Rの瞳に愉悦が浮かんだ。
 しばらく乳首を弄ぶと鞭の舌は腹部を伝い降りていった。そして、下着に触れ、そこを押し下げた。鞭の先端に敏感な部分を舐められ肌が粟立つ。
 ふふっ、とMr. Rが含み笑いをする。次の瞬間、風を切る音とともに鋭い痛みを下腹部に感じ、意識が途切れた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 その部屋は窓もなければ時計もなく、一日の移り変わりも分からなかった。
 そしてまた、食欲や排泄の生理的な欲求を感じることもなかった。
 そもそも、自分が生きているのか死んでいるのかも定かではない。
 ただ、Mr. Rによってもたらされる苦痛と屈辱だけが、自分がこの場に存在している事を教えてくれる。この部屋に閉じ込められたまま、与えられる苦しみは段々と自身の思考を奪っていく。
 これは調教などではない。歪んだ欲情を満たすための嗜虐的な暴力だ。そして、自分はその男の前ではあまりにも無力だった。
 いっそ、この空っぽの心をなくしてしまって人形同然になってしまえばいい。
そう、心が挫けそうになるが、憎しみと怒りが理性となってかろうじてその心に楔を打つ。
 Mr. Rの足音がこちらに近付いてくる。冷たく硬い床の感触を全身に味わいながら、意識を浮上させた。枷をはめられたままの手足が自由を奪っている。全身の筋肉が引き攣れ、鈍く痛む。
 Mr. Rが屈みこみ、顔を覗き込む気配がした。
「…少し、やりすぎましたかね?」
――やりすぎない事なんて、あったのだろうか。
 薄く目を開き、無感情にMr. Rの顔を見返す。Mr. Rは優しく冷たい笑みを浮かべた。
「今日は趣向を変えて、ここで何が行われているか見に行きますか?」
 その言葉と同時に、手足の枷が外れる。強張った身体の筋肉をほぐすように、そろそろと手足を伸ばした。
「立ちなさい。私についてきなさい」
「……っ」
 筋肉が痛み、とても立てる状況ではなかった。それでも、その言葉の強制力に逆らうことは出来なかった。
 痛みをこらえながら床と壁に手を突いて、震える足を抑えて何とか立ち上がる。
 部屋を見渡すと、先ほどまで存在しなかった扉が壁に出現していた。
 そして、こちらを見向きもせずに部屋を出ていこうとするMr. Rに、悲鳴をあげる身体を抑えつけながら付き従った。

 そこは、赤いカーテンに包まれたステージだった。ステージの前にいくつものテーブルと客席があり、固唾をのんでステージを見守る人影が数多くいる。
 Mr. Rはステージから一番奥の隅にあるテーブル席のソファに座った。その隣に座るように指示される。身体はもう限界だった。そのソファに崩れるように座り込む。
「ほら、見てみなさい」
 Mr. Rがステージを指差す。ステージの中央には一人の青年が拘束され両手を吊り上げられていた。目隠しをされ、口にはギャグを噛まされている。片足を高く吊り上げられ、その露わにされた局部はエナメルの革バンドで射精を封じるように拘束されている。そして、その奥は、太いバイブが咥えこまされているのが見て取れた。
 そして、背後にいるもう一人の男に鞭打たれていた。うなる鞭とともに赤い線条痕がその身体に刻まれ、ギャグで封じられた口からくぐもった悲鳴が漏れる。
 それでも、その青年はただ苦痛に呻いているだけではなかった。顔と身体は紅潮し、戒められた局所からはぬらぬらと光る先走り液がひっきりなしに零れ落ちていく。そして、鞭で打たれる度に淫らに腰が蠢く。
 淫靡な空気が場を支配する。観客たちが性的興奮を孕んだ乱れた息を漏らす。
 鞭打っていた男が、その青年のバイブを引き抜いて、代わりに自分自身をあてがい一気に貫いた。その律動に合わせて濡れた音が響き、青年の封じられた口からは歓喜の喘ぎ声が漏れる。男の手が青年の局部の戒めを解いた。身体を激しく痙攣させたその青年は、大きな呻き声を上げながら大量の白濁した液体を迸らせた。そして、後ろで貫いていた男も達したようだ。
 目の前で繰り広げられる淫猥なショー。それに群がる観客たち。思わず眉をひそめた。
「これは…」
「ここは、クラブR。私はその支配人です。クラブRはそこにいる観客たちの狂気と欲望を満たす場所。ごらんなさい」
 Mr. Rはステージの方を顎で指した。先ほど青年を犯していた男が今度はステージの中央で拘束され吊り上げられている。そして別の男がステージに立ち、その男に鞭を振るい始めた。
「犯していた側が犯され、蹂躙する側が蹂躙される。興奮するでしょう?決してその地位が揺らがないと過信している誇り高い野生の獣をひれ伏せさせるのは、至上の悦びだと思いませんか?」
 Mr. Rの冷たい革手袋をはめた手が、身体を撫でまわす。自らが刻んだ鞭の痕を強くなぞった。上がりそうになる悲鳴を押し殺した。
「…っ!…俺が、貴様の言いなりになんかなると思うか」
 その言葉にMr. Rは満面の笑みを浮かべた。
「なるべく長く、そして強く抗ってください。それでこそ、愉しめるのです。せいぜい頑張ってください。堕ちた貴方は、あのステージでここにいる観客たちの贄として供されることになるのですから」
「…悪趣味だな。あんたも、ここの観客も」
 Mr. Rはうっとりとした顔で自分を見つめてくる。そして革手袋をはめた冷たい指先で、頬を愛しげに撫でつける。
「あなたのその顔が、苦痛と快楽、そして深い絶望に染まるのをみてみたいのです」
 ですが、とMr. Rは小首を傾げた。その顔は少女のようなあどけなさを見せる。
「…貴方の中途半端な記憶や自我は、本来の美しい姿を無粋にする虚飾でしかありませんでしたから取り去りました。ですが、残しておいても良かったかもしれません。そちらの方が、より屈辱に染まる貴方の顔がみられたでしょうに」
「…なら、俺の記憶を返せ」
「さて……」
 Mr. Rの手が身体から下腹部を降りて下着の中へと滑り込む。その指はぞっとする程冷たい。その凍える指に煽られ、熱を持ちだした性器を弄ばれる。
「そうですね。このままあの部屋の中で簡単に壊れてしまっても面白くないですね…。貴方がいたあちら側の世界に出してあげましょうか。ただし、夜の間だけ。ショーが行われている夜は私も忙しいのです。名前も記憶もない貴方ですが、あちら側の世界はそれなりに愉しめるでしょう」
「あちら側の世界?」
 Mr. Rは翳りと愉悦を刻んだ視線を絡めてくる。
「ですが、貴方にはあちらの世界に居場所はありません。存在しない存在、それが貴方。それを忘れないで下さい。それでも行ってみますか?」
「…ああ」
 あちら側の世界……自分が元々存在した世界。
 Mr. Rが何かしらを企んでいる可能性は十分にあった。それでもその提案に、澱んでいた意識にわずかに光が差し込み、興味がわいた。
 このままあの赤く暗い部屋に閉じ込められて、早々に壊れてしまった方が楽であることは間違いない。それでも、失われた自分自身が存在するかもしれないその世界に惹かれた。
 こちらへ、と立ち上がるMr. Rに誘われるまま、ついていった。

(3)
In the Dark Room(3)

 頬を撫でる風が気持ちいい。目の前を通り過ぎる数多の人間を見ながら目を細めた。
 あちら側の世界、と呼ばれるこの世界に立っている。
 今の自分にとって、この世界の人間が作ったルールは意味をなさない。
 路上に引かれたラインも、境界線を示す仕切りも、そして、侵入を阻むための鍵付きの扉も。
 太陽が沈み闇が支配する間だけではあったが、自分の行きたいところに行き、留まりたいところに留まる。こちらの世界では全ての行動が自由だった。
 だが、この世界のルールに縛られないという事は、ルールの内側にあるこの世界に存在することを認められない事と同義だ。
 人混みでにぎわう通りの真ん中で立ち止まっても、誰にも注意を向けられない。意識に浮上させることもなく、自然と自身の身体を避けて流れていく。この姿もこの声も、この世界の人間にとっては視ることも聴くことも出来ず、存在しないものとされる。
 試しに、目の前の人間の手首を掴んでみても、気付かれることもない。その感触も薄い膜の上から掴んでいるようで、はっきりとした皮膚の感触を感じないし、強く握ればそれと同じ強さで押し返される。
 手首に違和感を得たのか、その人間が軽く手首を振っただけで、自身の手はあっさりと弾かれた。この世界の人間から認識されることもなければ、こちらから働きかけることも出来ないのだ。
 この世界の摂理を理解すればするほど、自分自身はこの世界に居場所がないことを理解した。
――あの男の言ったとおりだ。
 今の自分にはあの赤く暗い部屋にしか居場所がないのだろうか。それでも、この世界はかつて自身が過ごした世界のはずだった。そして、この世界には失われた自分の過去が眠っている。

 今の自分には一切の記憶もなく名前もない。
 Mr. Rも名前を考えあぐねているのか、そもそも名付ける気がないのか、未だに“貴方”としか呼ばない。自分自身を形作る土台となる歴史もなければ、他と区別する呼称もない。まさしく店頭に陳列される人形と変わりないのではないだろうか。
 それでも、身に滾る怒りや憎しみだけが空虚な自我に輪郭を模ってくれる。

 宛てもなく歩き続けるうちに、公園にたどり着いた。人気のない夜の公園に自然と足が向く。
 自身にはほんのごくわずかだけこの世界の記憶が残されていた。記憶と言っても、それは一枚の写真のような心象風景だけだ。
 記憶にあるのは公園の風景。そして、赤く煌々と光る満月を背負った金髪の男、Mr. Rだ。
 自分とこの世界を繋げる最初で最後の記憶を頼りに、その公園に赴いた。
 おぼろげな周りの景色を辿りながら、頭の中の情景と一致する場所を探した。
 街灯の光の隙間。人影もない公園の奥まった場所にたどり着く。
 きっとここだろう。
 夜空を見上げた。今夜の月は記憶と同様に満ちて明るい。月の明かりが公園を仄暗く照らす。
 あの男、Mr. Rは自身が親であり主人であると告げた。
 しかし、それを信じる気は微塵もない。
 Mr. Rが自身を契約という見えない枷で縛り、服従させている主人(マスター)であるのは確かだが、親であるはずはない。
 では、誰が親なのか、と言われても全く記憶になかった。
 ただ、この場に立ち、空を仰ぎ地を見下ろすと、その時の感触が生々しく蘇る。
 自分を無慈悲に睥睨する血に染まったような真っ赤な月。そして、血液と体温を奪いその身体を冷たく抱く土の感触。
――俺の父は月で、母はこの土、か。
 自嘲気味に笑みを浮かべた。寄る辺のない自分にとって相応しい両親ではないか。
 そして、この場が自分の生まれた場所。
 一陣の風が吹き、木々をざわつかせる。何かを告げようとしているように感じられた。
 自分の原始の記憶を思い浮かべ何度も再生するが、何ら自分自身の存在に繋がる様な手掛かりは得られない。
 過去を思い出したとしても、それが自身に対してどんな影響を与えるかもわからなかった。探し求める価値があるのかどうかさえも分からない。
 ただ、何かをやり残している気がした。闇の中に必死に手を伸ばして何かを取ろうとしていた。それは、何だったのだろうか。自分は何をしたかったのだろう。
 いくら考えても何も思い出せなかった。
 どこに行く宛てもなくその公園のその場所に佇んだ。
 母であるその公園は自身を邪険に扱うこともないが、手を差し伸べることもしない。
 ふと、横に人の気配を感じた。
 顔を上げて横を見ると、スーツ姿の長身の男が、自分と同じように佇み自分が見下ろしていた地面をじっと見つめている。
 その男の姿を足元から頭まで不躾な視線を滑らせた。どうせ、相手は自分のことが視えないのだ。
――随分と隙がある人間だ。
 それが最初の印象だった。一分の乱れなく着込んだスーツ、かっちりと決めた髪型。外見だけで言えば、完璧と言えた。ただ、顔には隠し切れない憔悴のせいで顔色が悪いし、その切れ長の眼には虚ろでありながらも苦渋の色が浮かんでいる。
 公園の地面に向けるその視線も辛そうで、ともすれば目を背けてしまいたいものを自身を抑えつけて無理やり凝視している印象だった。
「佐伯…」
 その男が呟いた。それは、声と言うより呻き声のようだった。喉の奥から絞り出されるような掠れた声は、その冷たい地面に向かって投げかけられたものなのだろうか。
 その男に興味を持った。自分と同じ場に立ち、同じものを見つめている。何かしら意味があるように感じられた。
『なあ、あんたは、何故ここにいる?俺のことを知っているか?』
 試しに声をかけてみたが、その男は全く反応を見せない。やはり、視えないし聴こえないようだ。
 残念であったが致し方ない。
 しばらく間近でその男を観察していると、その男は大きくため息をついて、身を翻し歩き出した。
 ちょっとした興味をひかれ、その後をついていく。
 周りには目もくれず速足で歩くその男を追った。
 その男は公園近くの高層ビルに入り、エレベーターに乗り込む。その男と一緒に乗り込んだ。
 どうやら彼は自宅に向かっていたようだった。
 カードキーで開けられたその部屋に、自分も入った。
 高層階にあるその部屋は見晴らしも良く、広く、きれいに片付いていた。他の住人の気配はなく一人で住んでいるようだった。
 その男は手早くジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて、途中で回収してきた郵便物を確認している。
 明るい人工の光の下、改めてその男の姿を見た。長い手足に整った顔立ち。少しやつれてはいるが、憂いを感じさせる切れ長の眸。
――悪くない。
 薄い笑みを浮かべた。
 何よりも、完璧さを装いつつもその身の内に大きな隙を抱えているのがいい。それは完璧なフォルムのガラス細工を思わせる。そして中に抱えた大きな空洞。その内側の脆さがより美しさを輝かせる。
 自分自身の手掛かりが得られれば、とついては来たが、所詮、この人間とは住む世界が違う。コミュニケーションは取れそうもない。
 ならば、別の利用価値を見出せばいい。
 今までの短い経験と洞察から、こちらの世界に住む人間も、眠りに陥る間だけは意識の箍が緩むのか、自身の世界と一部重ね合わせることが出来ることに気付いていた。
 それはほんの僅か。相手の精神世界に踏み込むことは出来るが、それは一方的であり、相手は自分自身をしっかりと認識すること、視ることも聴くことも出来ない。
 その点、Mr. Rはこちら側の人間と軸を合わせて、意識がある人間に対しても同じ人間のように思わせることが出来るようだった。ただ、相手はMr. Rの姿を自身の物差しで勝手に認識しているようで、視えているMr. Rの姿かたちが人によって同じなのかどうかは分からない。
 かくいう自分自身が認知している金髪のMr. Rも自身のフィルターを通して見えている姿であって、本当は人の形さえもしていないのかもしれない。
 だが、それは今の自身も同じだ。自分が思っている自分の姿が、相手にも同様に見えているとは限らない。そもそも過去の記憶がない自分にとって、今の自分がかつての自分と同じ相貌なのかは全く分からなかった。
 
――さて、と。
 静かに一歩を踏み出す。
 この部屋の住人を観察していても、何ら得られるものはなかった。
 書類を確認しノートパソコンを開いて、何かしら打ち込む作業をする傍ら、時折、気晴らしでもするかのようにライターの火を灯してその炎を重たげな眼差しで眺めていた。タバコを吸う訳ではないようだったが。
 深夜も遅く、やっと立ち上がり、力ない足取りでシャワーを浴びてパジャマを着込みベッドルームに向かったのだ。
 寝入った頃を見計らってベッドルームに向かう。思った通り、その男はすぐに寝入ったようだった。
 一人には大きすぎるだろうベッドで眠る彼は、何故だか、真ん中では寝ずに片側に寄って寝ていた。誰かのためにもう片側を空けているかのようだ。
 そっとその男の顔に触れた。確かな肌の感触が伝わる。その男はわずかに長い睫毛を震わせた。身体を包む意識のバリアが解けているようだった。
 クスリ、と嗤った。自分が何をしたいのか、はっきりと理解していた。
 この男があげる悲鳴を聞き、恐怖に歪む顔がみたいと思った。身の内に抱えるその脆さを暴いてみたい。
 ベッドの上に乗り、その男の上にのしかかった。
 その重みにその男は反射的に身を捩ろうとしたが、腰を押さえられて身体が自由に動かせないことに気付き、目を開いた。
「なん…だ?」
 自身の状況を把握しようと、こちらに目を向ける。だが、こちらの世界の人間は人影は分かってもはっきりとその輪郭を掴むことは難しいだろう。
 戸惑いから焦り、驚きに変化するその男の表情を見ながら、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
『さて、愉しませてもらおうか』
 この言葉も残念ながらこの男には聞こえないだろう。それはそれで、構わない。
 その無防備な身体に手を伸ばした。

In the Dark Room(4)

 御堂は突然、身体にのしかかった重力で目を覚ました。
 そこは暗闇に支配された部屋。昨夜就寝した寝室で、御堂はベッドの上で動けなくなっていた。
 咄嗟に身体を捩じろうとしたが金縛りにあっているようでもあり、身体が上手く動かせない。瞼を薄く開くと自分の上にぼんやりとした影が見える。
――誰かに乗られている…?
「なん…だ?」
 自分の身体の上の影を見定めようと目を凝らす。だが、暗がりのせいなのか、人影のように見えるがはっきりとは分からなかった。
「佐伯?」
 この部屋に入ることが出来て自分にこんなことをする人物がいるとしたら、佐伯以外にはいないだろう。もしやという希望が灯った。
 その時だった。突然伸びてきた手に、パジャマの前が勢いよくはだけられた。ボタンが千切れるような感触がある。
「よせっ」
 その手を振り払おうとしたが逆に手首を掴まれた。慌ててもう片手で押しとどめようとしたが、その反撃も空しく両手首をまとめて頭上に縫い付けられる。
 その瞬間、その人影が纏う生臭い匂いが鼻腔をくすぐった。記憶の深いところにある不快な匂い。
――鉄の匂い…?いや、血の匂いだ。
 自分の上の影が小さく震えた。嗤っているようだった。
「佐伯っ?佐伯なのか?」
 必死に絞り出したその声に返答はない。代わりに、シーツに縫い付けられた手首に体重がかかり、その男の腰がわずかに浮いた。
 その隙に身体を捩じって逃れようとしたが、逆にその動きを利用されて、パジャマのズボンを下着ごと降ろされた。そして足の間に身体をねじ込まれる。
 その男の意図は明確だった。しかも、自分の欲望を斟酌なしに直接ぶつけるだけで御堂に対しての気遣いは一切感じられない。御堂は底知れぬ恐怖を感じた。
――佐伯では、ない…?
「お前は、誰だ!」
 人影の頭の部分が御堂の方に向く。その人物の行動に全神経を集中させた。だが、男は沈黙を保ったままだ。
『俺も、自分が誰だか分からないんだ。残念だな』
 実際のところ、その男は、御堂の問いに答えていた。だが、その声は御堂には伝わらない。
「やめろ!どかないかっ!こんなことは犯罪だ!」
 御堂は、必死に叫んで四肢に力を込めて暴れ、抵抗する。
 自分の下でもがき騒ぐ御堂を見下ろして、その男、克哉はうんざりとした表情を浮かべた。といっても、その男の表情を御堂は捉えることは出来ない。
『うるさいなあ。ちょっと黙っていてくれないか』
 その言葉を伝える代わりに克哉は、御堂の頬を手加減せずに打ち据えた。
「くっ…!」
 予期せぬ痛みと衝撃に御堂の抵抗が止まる。どんなに反抗的な人間でも暴力を効果的に使えば、その恐怖で人は身動きが取れなくなることを克哉は知っていた。
 そのまま両手首を戒めていた手を外した。大人しくなった御堂に満足し、その身体に手を滑らせる。途中に触れた胸の突起を爪ではじき、つまむ。御堂が息を呑み身体をわずかに捩る。
『ぅぐっ!』
 その時だった。突如、克哉の鳩尾に衝撃が加わった。御堂が一気に身体を捩じり、渾身の力で克哉を蹴飛ばしたのだ。その反動で、克哉の身体が浮いた。
 克哉の拘束から逃れた御堂は、はだけたパジャマのまま、急いで這ってベッドから逃げようとする。
『ちっ』
 克哉はすぐに体勢を立て直し、逃げ出した御堂の後頭部を思い切りベッドに押さえつけた。そのまま背中に馬乗りになる。ベッドのマットに顔を押さえつけられ、御堂の喘ぐ呼吸とともに呻き声が漏れる。
 予想外の反撃を受けて、克哉の怒りがふつふつと湧いてくる。
『大人しくしてれば、優しくしてあげてもよかったのにな』
「うぁっ」
 前髪を掴んで、顔を上げた。そのまま、片腕を喉の前に回して、強く気道を締め上げる。御堂が震える両手でなんとかその腕を引きはがそうとするが、抵抗虚しくどんどんと気道がふさがれていく。掠れた声が混じる息が御堂の口から零れ出た。克哉の腕を掴んでいた両手が力を失い落ちる。
 御堂が意識を失うギリギリのところで克哉は手を緩めた。
 途端に新鮮な空気が気道に流れ込み、御堂が酸素を必死に取り込もうと咳き込みながら荒い息をついた。
『抵抗したら、次はない』
 克哉の言葉は相変わらず伝わらなかったが、その意図は伝わった。
 ぐったりとした御堂の身体は小さく震えるばかりで、反撃しようとする気概はくじけたようだ。
 伏せたままの御堂の身体から降りた。膝を押し込み、腰を上げさせる。
「お願いだ…。やめて、くれ…」
 その哀願する声はか細く、絶え絶えだった。もちろん克哉は耳を貸すつもりはない。
 身を竦める御堂の双丘を開き、場所を確かめると硬くなった自分自身をそのまま突き立てた。
 恐怖と拒絶でその孔は固く締まる。それを力任せに蹂躙し、侵略していく。
「あああーーっ!」
 御堂は、声にならない悲鳴をあげた。愛撫も何もなく、凶暴な昂ぶりをいきなりねじ込まれたのだ。容赦なく押し込まれる獰猛な圧力に身体が砕け、激痛と共に薄い粘膜と皮膚が裂ける。血が滴る感触が伝う。
 克哉は御堂を気にかけることもなくその血を潤滑剤代わりにして、その狭い器官を無理やり押し広げていった。
 身体の力を抜けばいくらか楽になるだろう。しかし、恐怖と苦痛に支配された御堂にはそれが出来ない。
 克哉自身をなんとか押し出そうとする粘膜の抵抗さえ、克哉の悦楽を更に煽る。
――ああ、これか。
 Mr. Rが克哉を嬲って得ている快楽。そして、クラブRに集まる者たちがその心に滾らせる昏い欲望と狂気。その源泉を克哉は身をもって理解した。
 確かに、これは愉しい。人を蹂躙し、快楽を得ることは、その資格を持つ者だけが味わうことを許される極上の美酒だ。
 その衝動に突き動かされるがまま、自身の欲望を御堂に突き立てる。強張った身体は揺さぶられるままにガクガクと揺れる。
 細かく途切れる苦悶様の呼吸が、御堂の口の端から漏れる。突き入れたときに大きな悲鳴をあげてから、御堂は一切声を立てなかった。
 御堂は顔の前にまわした自分の腕に歯を立て耐えていた。克哉によってもたらされる激痛を、自らが作り出す痛みで相殺しようとしていた。それが唯一の抵抗だと言わんばかりに自身の腕を噛みしめて悲鳴を喉の奥に必死に封じている。
『強情だな』
 だが、嫌いではない。Mr. Rが克哉の抵抗を愉しむように、克哉もそう簡単に崩れない骨のある人間を相手にする方が愉しい。
 普段Mr. Rに嬲られている鬱屈も上乗せして、目の前の獲物に欲望をぶつける。
 激しく腰を打ち付け、中の粘膜を擦りあげ内臓をかき回す。肉が打ち合う音とともに、ぐちゅぐちゅと先走りと血液が混じりあい、淫猥な濡れ音が響く。
 克哉は大きく身を震わせ、自身を根元まで押し込むと、身体の内にたまっていた昂ぶりを全て出し切り、乱暴に自身を引き抜いた。
 自らの身を穿つ楔が外れ、御堂の身体がびくりと震えた。そのまま力なくベッドに崩れ落ちる。微動だにしない。
 口から外れた御堂の腕には、自身の噛み痕とそこからにじみ出る血液が赤黒い模様を描いていた。
 そして、力なく見開かれたままの瞳は涙の膜が表面を覆い、水滴をとなり眦から伝って顔の表面を濡らしている。
――気を失ったか?
 何気なしにその濡れた頬を触れようとした瞬間、克哉はその手を素早く弾かれた。
「私に触るなっ」
 生気を失っていたはずの瞳は強く敵意を持って、克哉を見据えていた。克哉自身の姿かたちは捉えられていないだろうに、その眼ははっきりと克哉を睨んでいる。
『あんたは、いいな。名前は何と言う?』
 その眼とその態度が克哉に執着心を抱かせた。一回きりで終わりにするつもりが、目の前の男に惹かれた。名前くらい聞いておこうと思ったが、もちろん返答はない。ただ、聞こえていても答えてくれるとは思わなかったが。
 この執着心、なぜか遠く懐かしい記憶を揺さぶられるような気持ちを呼び起こす。
『また来る』
 ベッドから降りて振り返り、克哉は告げた。その聞こえないはずの言葉に、御堂の身体が大きく震えたように思えた。
『俺たちの関係は始まったばかりだ』
 ひどく満ち足りた気分だった。克哉は心の中に充溢する歪んだ欲望に満足しながら部屋を後にした。

(4)
In the Dark Room(5)

「ぁあっっ!!」
 御堂は悲鳴をあげて跳ね起きた。心臓が早鐘をうち、身体を脂汗が覆う。
 闇に包まれた寝室。急いで逃げなくてはとベッドの縁を掴み、震える身体を引き摺る。
 そこで、我に返った。
 自分の身を確認する。身にまとっていたパジャマには何の乱れもない。
「夢…?」
 部屋の灯りを付けた。ベッドの上を検めるが、シーツに乱れもなく御堂が考えていたような異常はない。
 まだ呼吸が弾んでいた。夢にしては妙に生々しかった。
――本当に夢だったのだろうか。
 起き上がって、汗で張り付くパジャマを脱ぎ捨て、自分の身体を確かめた。
 あの激痛も、自らが歯を立てた腕も、滴り落ちた血も、なんら痕跡はなかった。ただ、乱れた呼吸と動悸、そして脂汗だけが、その出来事の衝撃を伝えていた。
 よろめきながらも立ち上がり、シャワールームに向かった。
 熱いシャワーを浴びて、汗を流し、自分を落ち着けようと試みる。
 やはり身体には何の痕跡も残されていない。夢だったのだろう。ほう、と息を吐いた。夢だという事に気付いた安堵感が身を包む。
――なぜ、あんな夢を。
 それにしても酷い夢だった。寝込みを襲われ、誰とも分からない男に手ひどく凌辱された。
 夢だとしてもあれが克哉であるはずがない。
 思い出すのも抵抗があるが、克哉に最初に抱かれた時でさえ、無理やりながらも自分の身体が酷く傷付かないように一定の配慮はされたし、自身の快楽も煽られた。だが、今回の行為は、衝動的に自分の欲望を排泄するだけの獣じみた行為だ。
 そこまで考えて、御堂は胸が詰まった。その行為を御堂は目にしたことがあった。克哉が澤村にした行為はまさしく、今回御堂が夢に見た行為そのものだった。再び鼓動が跳ね上がる。
――苦しい。
 夢の中で凌辱された屈辱とその男が身にまとっていた血の匂いが蘇る。息が出来ない。
 そのまま、シャワールームの床にへたり込んだ。
 あの時、御堂が克哉に感じた怖れがそのまま夢に出てきたのだろうか。
 今でも忘れることが出来ない。克哉が澤村に見せた凶暴で嗜虐に満ちた眼差し。それはかつて、御堂を嬲りつくした克哉を嫌が応にも思い起こさせた。
 澤村を嬲る克哉を見ていられなかった。顔を背け、目をきつく閉じて、耳を塞ぎ、その光景を自身の意識から追い出そうとした。克哉を止めなくてはいけないのに、その恐怖から自分を守ることで精いっぱいだった。
 その恐怖が過ぎ去ると、克哉に対する説明のつかない苛立ちが生じた。
『いま目の前にいる君は、私の知っている佐伯克哉ではない…』
『……そう思いたければ、思えばいい』
 その後、御堂は克哉から逃げようとしたのだろうか、それとも信じようとしたのだろうか。
 自身が克哉に抱いた感情は何だったのだろう。怒り、悔しさ、悲しみ、恐怖、全ての負の感情で心をかき乱された。
 もう一度、克哉としっかり向き合って彼を見極め、自分の気持ちを確かめてみよう、そう考えて克哉に連絡を入れた矢先に克哉は失踪したのだ。
 時間から見て、御堂が克哉の携帯に連絡したのは、克哉と澤村が会っていた時刻あたりと思われた。
 克哉は御堂の着信に気付いたのだろうか、それとも気付く前に携帯を残して失踪してしまったのだろうか。
 その状況から見て、克哉は自らの意思に反して姿を消す羽目になったと信じていたが、自らの意思で姿を消した可能性ももちろん考えないわけではなかった。
 だとしたら、携帯をあの場に置いていったのは、御堂に対する克哉の意思表示ではないだろうか。自ら克哉を避けていたのにもかかわらず、それを思うと心が締めつけられ凍り付く。
 そうならば、なぜ、一言“さようなら”と別れを告げてくれなかったのだろう。その一言があれば諦めがついたはずだ。克哉は何も告げずにいなくなってしまった。だからこそ、心が引き摺られるのだ。
 そして今。御堂自身が克哉に抱いていた気持ちを改めて認識させられた。
 両手に顔を埋めると同時に涙が溢れてきた。熱いシャワーがすぐさま涙を洗い流してくれるが、それでも絶えることなく涙が溢れ続けた。
「佐伯…。会いたい」
 克哉がいなくなってから初めて湧きだした生々しい感情だった。抑えきれない感情があふれ出す。
 それは、悲しみでも恐怖でも怒りでもない。全てを凌駕する恋慕の情だ。
 この想いを一言、克哉に伝えたかった。行き場のない熱を持った狂おしい感情が身の内に渦巻き滾る。
 止まっていた時が再び動き出した。


――――――――――――――――――

――いないのか。
 翌日、克哉は再びその部屋を訪れたが、部屋は暗いままで人の気配はない。
 しばらく待ってみたが、帰ってこないようだ。
 高層階の部屋のリビング、壁一面の窓から夜景をぼんやりと見下ろす。
 都会の闇に煌めく無数の輝点。地に広がる満天の星空の様だ。
 ふいに、その闇の中に自分自身が沈み込み消えて行くような感覚に襲われた。
 自身がおぼろげに揺らめき、透けて霧散していく。
 都会の明るい闇の中に溶けて消え去ってしまうような不安。
 この感覚は何故か懐かしい気がした。そして、そんな覚束ない克哉を優しく抱き留めた暖かい手の感触。
――なんだ、これは?
 その記憶の断片らしきものをより具体的に思い出そうと試みたが、一瞬のうちに意識の表面から跡形もなく消滅してしまった。まるで、今しがたはっきりと見た夢を思い出そうとしても、夢を見たことしか覚えていない寝起きのように。
 克哉は口角をわずかに上げた。妙に感傷的になってしまったようだ。
 こんな時は、自身の欲望に忠実に従った方がいい。
 昨夜、手ひどく犯した男のことを思い浮かべる。
 もう、この部屋には戻ってこないかもしれない。あれ程酷い扱いをしてしまったのだから、当然の結果だろう。
 だが、この部屋に戻ってこない以上、克哉には彼を探し出す手段はない。
――もう少し、優しく扱っておけば良かったか?
 もう会えないかもしれないと考えると、無性に惜しい。
 眼下の夜景を眺めているうちに、その男と公園で会ったことを思い出した。
――行ってみるか。
 どうせ、行く宛てもやることもない。自然と克哉が生まれた公園へと足が向いた。

 そこは、今日も暗く静かだ。
 無数の街の光も喧噪もその場所には届かない。
 そして、克哉が期待した人物もそこにはいなかった。
 何もすることもなしに、自身が生まれた場所に克哉は佇んだ。
 夜空には薄く雲がかかり、月を軽く覆い隠しては、時にその姿を露わにさせる。
――俺は、何をしたいのだろう。
 ぼんやりと公園の地面を眺める。克哉の血をたっぷりと吸ったであろうその土は、今となっては周りの土と比べて何の違いもないただの黒い土だ。
 この世界に留まれば留まるほど、自分自身を探し出すどころか自分が如何に孤独であるかを思い知らされる。
 Mr. Rもそれを分かっていて、克哉を好きにさせているのだろう。
 結局のところ、克哉の生きていく場所は、あの赤いカーテンの暗い部屋にしかないのだ。

「…克哉か?」
 ふいに背後から聞こえてきた耳障りな声に克哉は眉をひそめた。
 公園の静寂が一瞬にして破られる。その声は大きくよく通る低い声だったが、克哉の探している人物の声ではない。
 まさか自分にかけられた声だとは思わず無視していると、再び間近でその声が響いた。
「おい、克哉、なのか?」
 その声には驚愕の響きが混ざり、少し震えていた。
『俺に言っているのか?』
 明らかに自分に向かってかけられた声に、克哉は訝しんで振り返った。
 スーツを着た大柄な男が目の前に立っていた。服の上からでもその筋肉質な身体が見て取れた。酔っているのだろうか、顔が紅潮しその息からはアルコール臭が漂う。克哉の顔を見て、驚きに目と口が大きく開く。どうやら、克哉の姿が視えているようだった。
 克哉はこの世界の人間には認知されない。だが、ごく稀に克哉のことが視える人間がいることにも気付いていた。克哉を視ることが出来る人間は、克哉を視界に納めると、その異質な存在に目を向け、ぎょっとした表情を浮かべるとすぐに顔を逸らし意識を閉ざす。まるで見てはいけないものを目にしてしまったかのように。
 克哉が近付こうとすると、大抵逃げられる。話しかけても声が聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか反応することはない。そして克哉はその人間でさえ、触れることが出来ない。
 だが、目の前の男は克哉を怖がることなく、克哉の頭から足の先までじろじろと視線を這わせる。
 他人を値踏みするようなその男の遠慮ない視線に気分を害され、克哉は睨み返した。
 そんな克哉の態度に怯んだのか、その男は戸惑ったようにさらに声をかけてきた
「…克哉、なんだよな?」
『俺を知っているのか?お前は俺の何を知っている?』
「なんだ?何を言っているんだ?」
 克哉はため息をついた。自分のことが視えた上に、“カツヤ”と呼ぶその男に興味が生じたが、その男には克哉の声は届かないようだ。
 それでも、“カツヤ”というのは自分の名前だったのかもしれない。それだけでも大きな収穫だ。ここに来た甲斐があった。
 だが、これ以上、鬱陶しいこの男の相手をする気はなかった。
 この場を後にしようと、克哉は踵を返した。
「おい、待てよ!」
 突如、その男に手を掴まれた。克哉はいささか驚いた。まさか、自分に触れることが出来るとは思っていなかったのだ。
「お前、今までどこに行っていたんだ!怪我は大丈夫なのか?」
 大きな声でまくし立てられる。手を振り払おうとしたが、強く握られていて簡単には振りほどけそうにもない。不快感といら立ちに眉間にしわを寄せる。
「御堂さんがどれだけ心配して、お前のことを探し回っていると思ってるんだ!今から御堂さんのところに行くぞ」
『ミドウ?』
 その男は興奮しているのか、段々と早口になり一層大きくなった声が周囲の空気を震わせる。自ら克哉に寄ってきて話しかけてくる人間は初めてだったが、今となっては興味よりも不快感の方がまさる。
 この男が克哉に触れることが出来るなら、その逆も可能なはずだ。克哉の顔に酷薄な笑みが浮かんだ。
 克哉は自由な方の手で拳を握りしめた。その男の顔面を狙って素早く拳を叩き込む。
「うわっ」
 克哉の拳が顔面に届くよりも一瞬早く、その男は上体を伏せた。大柄な割には俊敏な動きだ。だが、同時に克哉を掴んでいた手が離される。
――これ以上、この男と関わる価値はない。
 克哉は公園の闇に姿を消した。

(5)
In the Dark Room(6)

「うわっ」
 暗く視界の効かない公園で、本多は突如振りかぶられた拳を避けようと、身を伏せた。
 ひゅん、と風を切る音が聞こえ、自分の頭の上を拳が掠める。
 その瞬間、動いた空気と共に、生臭く錆びた鉄の様な匂いが漂った。
「いきなり何をするんだっ!…あっ?」
 頭を上げると、先ほどまで目の前にいた男は跡形もなく消えていた。
 本多は目をしばたかせる。
「克哉…?」
――何だったんだ。一体。
 確かに目の前にいたのは克哉だった。大学時代から共に過ごした友人だ。見間違えるはずもない。
 今、目にした克哉はあの髪型も眼鏡も、そして薄いブルーのシャツも、かつてと全く変わらない姿だ。他人の空似ではない。
 だが、その克哉が本多に向けた視線は、剣呑な光を湛えた冷たい視線だった。まるで、本多のことなど全く知らないかのような。
――酔っ払っていたせいで、幻覚を見たのか?
 いや、確かに存在した。克哉の手首を掴んだ感触はしっかり残っている。その本多の行動に驚いた克哉の表情も鮮明に覚えている。
「克哉っ!!」
 本多は大声を張り上げたが、人気のないその公園で、その声に反応するものはいなかった。

 翌朝、いつもよりも大分早く家を出た本多は、自分の会社のビルとは違う高層ビルの前で逡巡していた。磨かれたタイルの上を右へ左へと落ち着きなく歩き回る。
 昨晩の公園からほど近いそのビルは、オフィスフロアと住居用フロアを兼ね備えている。
 克哉の経営している会社と克哉の部屋があるビルだ。
 昨夜の出来事は、まだ整理がついていない。自分が会ったのが克哉だったのか、そもそもその記憶さえ本当に現実のものだったのか、一晩たった今となってはそれさえも自信が持てなくなっていた。
 御堂の顔を思い浮かべた。
 克哉が失踪して初めて御堂と克哉が特別な関係だという事を知った。それは本多にとってまさしく青天の霹靂だった。独断専行型の克哉が御堂と二人で会社を立ち上げる、という話を聞いたときも驚愕したが、二人がそういう関係だったと考えれば納得がいく。
 ただ、本多は二人の出会いから知っているが、その仲は決して良いとは言えなかった。むしろ、御堂は克哉を毛嫌いしているように見えたのだが、いつの間にそんな仲になったのだろう。
 今回の克哉の失踪の件で、本多も克哉の親しい友人という事で何度か警察に事情を訊かれた。とはいえ、澤村のことは知らなかったし、克哉が自ら失踪する可能性についても尋ねられたものの全く心当たりがなかった。
 警察はこの一連の不可解な事件の動機を、ある種の痴話喧嘩とも疑っていたようで、御堂に対して行われた聴取は相当侮蔑的で屈辱的なものであっただろうとは想像に難くない。
 御堂とも何度か顔を合わして会話を交わしたが、その時の御堂の態度は堂々としたものだった。憔悴は見られたが、一切の動揺を顔に出さず、周りからの心無い物言いも悠然と受け流していた。
 出会った当初は御堂をいけ好かない高慢なエリート、と毛嫌いしていた本多だったが、弱音を一言も漏らさず逆風をじっと耐える姿を見て、御堂に抱いていた認識を改めたし、その様に彼を認識していた自分自身を大いに恥じた。
 だが、以前の御堂を知っているだけに、孤立無援で耐える御堂が痛々しかった。何かしら出来ることは協力したい、とすぐさま申し出たのだが、御堂に丁重に断られ、むしろ心配をかけてすまないと謝られてしまい、それ以上の行動に出られなかったのが今でも心の中に尾を引いている。
 御堂が克哉のことを八方手を尽くして探しているのは知っていたが、本多なりに克哉が現れそうなところを暇を見つけては探していた。克哉が死んだかもしれない、という可能性は万が一にも考えたくはなかった。昨夜は、社の懇親会の帰りに思い立って、その事件が起きた公園の現場にふらりと立ち寄った矢先の出来事だったのだ。
 御堂に昨夜の出来事を伝えた方が良いだろう、と思って、朝早くからAcquire Association社のビルまで赴いたのだが、いざビルの入り口まで来て本多は躊躇した。
 現在の御堂が克哉の部屋に居を移し、朝早くから出社して克哉の分まで働いていることは知っている。この時間でも社に赴けば御堂に会うことは出来るだろう。
 だが、自分自身でさえ理解のつかない出来事で、こんな曖昧模糊とした情報を伝えていいのか迷っていた。逆に御堂の心労を増やすだけかもしれない。
「あーっ!どうすりゃ、いいんだ」
 頭を掻きながら、何度目かのためらいを吐き捨てた時だった。
「…本多君か?」
 突然、背後から声をかけられ、驚きで身体が強張る。振り向くと、スリーピースのスーツに身を包んだ御堂が挙動不審な本多を不思議そうに伺っていた。

「コーヒーでいいか?」
「いや、すみません。お気遣いなく」
 Acquire Association社の来客用の応接ソファに通されて、本多は恐縮してその大きな体を竦めた。
 御堂が手慣れた仕草で二人分のコーヒーを用意し、ミルクと砂糖と共に目の前のセンターテーブルに出される。
 御堂と会うのはおよそ数週間ぶりだったが、以前に会った時よりも更に顔色が悪く、やつれたようだった。
 体調を尋ねようとして本多は思いとどまった。そんなことを聞いても御堂の返す言葉が予想できたからだ。何となく気まずくて、会話の糸口を探す。
「そう言えば、御堂さん。今朝は自宅から出勤ですか?克哉の部屋からじゃなくて」
 本多の何気のない言葉に、目の前のソファに腰かけた御堂の顔にあからさまな狼狽がはしった。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに元の澄ました顔に戻る。
「あ…ああ。昨夜は自宅に帰ったんだ。取りに行きたい荷物もあったから。…それで、用件は?」
 本多は腹を括って昨夜の出来事を話し出した。
「昨夜、克哉らしき人物を見たんです。あの公園で」
「佐伯を?」
 御堂の表情がわずかに変化し、その瞳孔が大きく開く。
「間近で声をかけたんですが、無視されて。で、見失ってしまって」
「確かに佐伯だったのか?」
「だと思ったんですが…」
 御堂にまっすぐに見据えられて問いただされると、自信がなくなって語尾が小さくなってしまう。申し訳なさそうに身を竦めた。
 せめてもの補足情報として、その時の状況を詳しく話す。さすがに、殴り掛かられたことは話さなかったが、服装や本多を無視するような態度、そして忽然と消えてしまったこと。
「その佐伯らしき人物は、一言も口を利かなかったのか」
「ええ、何も。俺を警戒しているかのようで」
「何とも言えないな。それは本当に佐伯なのか」
「…御堂さん。あいつ、わざと姿を隠しているんじゃないですかね。今更気まずくで出るに出られない、とか」
 本多は場を和ませようと、少し明るめの調子で言ってみる。しかし、その言葉は逆効果だったようで御堂は愁眉をひそめた。
「佐伯が、自分の会社やその社員を無責任に放り出して姿をくらますような男だとは、考えたくないな」
「すみませんっ!そんなつもりで言ったんじゃ…」
 慌てる本多に御堂は微笑を浮かべた。
「本多君、情報をありがとう。その界隈も重点的に探してみるよ。また、何か情報があったら小さなことでも構わない。教えてほしい」
「ああ、はい!いくらでも。他にも協力できることがあったら言ってください!」
 本多はソファから立ち上がり、御堂に軽く一礼してドアの方に向かった。御堂も席を立ち、本多を見送る。ドアの手前で、本多はふと立ち止まり、御堂を振り返った。
「…そうだ。あの時、あいつから匂いがしたんです」
「匂い?」
「あれは…、血のような、血生臭い匂いが漂ったような。別に、ひどい怪我をしているようには見えなかったんだけど」
 本多は自分の記憶を手繰ることに一生懸命で気付かなかったが、御堂の方に目を向けていたら顔色が明らかに蒼白になったことが分かっただろう。
 結局本多はそれ以上のことを思い出せず、首を振って思考を切り替えた。
「あ、変なことを言ってすみません。それじゃ!」
 最後だけは元気な声で挨拶をして、大股に歩いて去っていく本多を御堂は見送った。
 今の本多の話を、御堂はあまり信用していなかった。
 本多の呼気から感じたアセトン臭は、昨夜明らかに飲み過ぎた証だ。
 それでも、本多の裏表の無い実直な性格はよく承知しているし、根っからの善意で色々と協力を申し出てくれるのも有り難いと感じている。
 それにしても、克哉とは真逆のタイプなのに、克哉と友人関係にあるというのは不思議だ。
 克哉とは大学時代からの友人だそうで、克哉の実家に遊びに行ったりもしていたそうだ。
 今回の件で、克哉の両親と御堂の間を取り持ってくれたのも本多だった。
 現場周辺は事件の後から最も重点的に克哉を探していた地域だ。界隈の診療所に外傷患者が受診しなかったも含めて細かく検索している。だが、全く手掛かりは得られなかったのだ。今更、その辺りを詳しく調べても手掛かりを得られるとは思えない。
 それでも、本多の帰り際の一言には御堂の背筋を冷たくさせるものがあった。
「…血の匂い、か」
 先日の悪夢。記憶にあるのはその男がまとっていた血の匂い。
 二日連続で、御堂と本多が血の匂いを纏う克哉の様な男と何らかの関わりを持った。
 これは何かの符号なのだろうか。それとも、現場に残されていた大量の血痕から、たまたま御堂と本多が同じように思いこみ、同じタイミングで幻臭を嗅ぎとったのだろうか。
 あの事件以来、克哉はどこからも消えていなくなった。御堂の夢にさえ克哉が出てくることはない。
 一昨日の悪夢は断片でも思い出すと、心臓が早鐘をうち冷や汗が伝う。再び同じ夢を見たら、と恐怖に駆られて、昨夜は久しぶりに自分の部屋に戻ったのだ。
 冷静に考えれば、澤村と対峙した克哉に対して御堂が抱いた恐怖が夢として再現されたのかもしれない。
 克哉の凌辱から解放されて一年以上経った。
 再会した克哉はその嗜虐性を完全に封印したかのように見えた。それでも、澤村が出現してから、時折その嗜虐性の片鱗が垣間見えるようになったのだ。
 御堂はそれを恐れた。壊れるまで嬲られた記憶が鮮明によみがえる。克哉の人を蹂躙して愉しむ性癖が蘇り、再び自分に向くことが怖かった。
 恋人関係になり二人で会社を経営し、やっと克哉と対等な立場になったと思ったが、ちょっとしたきっかけで、捕食者と被食者だったかつての関係に転がり落ちかねない。
 だが、それは決して克哉だけの責任ではない。克哉に対する恐怖心が自分にある限り、克哉の暴走を抑えることは出来ないし、むしろそれを助長させてしまうのだろう。
――あの夢の中に出てきた男は、佐伯なのだろうか。
 だとしたら、もう一度会いたい。自らの恐怖を克服して克哉としっかり向かい合うべきだと、自身の潜在意識が告げているのかもしれない。
――所詮は夢の中の話だ。
 夢に一体何を求めているのだろう。御堂は小さく笑みを浮かべた。
 昨夜は自宅に戻って、夢を見ることもなく泥のように眠った。今夜は再び克哉の部屋に戻ろうか。夢だと分かれば悪夢も制御できるだろう。
 御堂はすっかりぬるくなったコーヒーを口に含みつつ克哉の顔を思い浮かべた。
 記憶の中の克哉は、いつもの傲岸不遜な笑みを浮かべつつも、優しさを滲ませた眼で御堂を見詰めていた。

(6)
In the Dark Room(7)

 薄暗く真っ赤なカーテンに囲まれた部屋。
 じっとりとした湿気と血の匂いを孕んだ空気。
 その血の匂いは克哉自身の血だ。
 今日も派手に鞭で打たれ、その皮膚が裂け血が流れる。
 それでも、不思議なことに一日経てば傷は塞がり、わずかに痕を残すのみとなる。ただ、この痕が消える前に再び新しい傷跡が付けられるのだ。そして、鞭に打たれた激しい痛みは記憶にしっかりと刻み付けられる。
 悲鳴を上げて懇願するか、より反抗的な態度をとればこの男を悦ばせることが出来るだろう。だが、そんな気は毛頭ない。無機物のように全ての感情を押し殺し、じっとその時が過ぎるのを待てばいい。
 自分の身体を確認した。所詮は鞭の傷。身体の表面だけしか傷めつけられていない。動くと引き攣る様な鋭い痛みがはしるが、躯体の動き自体は問題がない。
 身体の拘束が解かれ、傷に響かぬようゆっくりと立ち上がった。
 目の前に立っていた金髪の男が愉しそうに目を細める。そろそろこの男、Mr. Rが部屋からいなくなる時間だ。
「今晩も出かけるのですか?」
「ああ」
 素っ気なく克哉は返事をした。幸いなことに、自分がどこで何をしているのか詮索はされない。約束通り、日が昇るまでには帰ってきているし、克哉自身がMr. Rに抗うことなど出来ないことを克哉もMr. Rもよく理解している。
「それならば、新しいシャツを」
 克哉の目の前に新しいシャツが忽然と姿を露わす。ぼろぼろになり血に染まったシャツを脱ぎ、新しいシャツを手に取った。身体にへばりついた血糊を脱いだシャツで拭い、新しいシャツの袖を通す。生地が傷にこすれ、びりびりとした痛みをもたらす。
 当初は克哉があちらの世界に出るたびになぜ新しい衣服が用意されるのか分からなかったが、今ではその理由が分かる気がした。
「…俺の姿が視える人間がいた」
「ええ。稀にですが、生まれつきこちら側の存在を認識できる人間はいます。といっても、我々の存在を微かに感じ取る程度から、はっきりとその姿を認識することが出来る能力を持つものまで様々。ですが、そのような人間は本能的に我々が異質であることに気付いて、私たちを避けようとしますがね」
 昨夜公園であった男の姿を思い浮かべた。あの男は避けるどころか、自ら克哉に近づいて来た。だが、鈍感そうな男だった。克哉を視る能力を持ちながら、その異質な存在に気付いていないのだろう。
「ここに来る人間たちも、そんな人間なのか」
 いつになく口を開く克哉を、Mr. Rは物珍しそうに眺めた。
「いえ、ここに来る人間たちは違います。あの人間たちの欲望と狂気を見たでしょう。その底知れぬ欲望と狂気は行き過ぎれば、自身を周りから隔て守る膜を溶かします。その膜は私たちの世界を覆い隠してくれる壁。その膜が溶けるという事はこちらの世界を認識し、足を踏み入れることが出来るようになります」
 Mr. Rは口角を上げた。その薄い唇の狭間から、血に濡れたような真っ赤な舌が顔をのぞかせる。
「そして、そんな人間たちがここで味わう悦楽がその溶けた膜から魂を伴って零れでてきます。それが私たちやこの世界を養う糧となるのです」
「狂人に養われているのか。腐った世界だな」
 このクラブRにあしげく通うあの人間たちは、その魂を零し続けた挙句どうなっていくのだろう。
 Mr. Rに尋ねようと思ったが、その行く末が容易に想像できたので克哉は口をつぐんだ。
「ここは永遠が約束された退屈な世界。そして、あなたもこの腐った世界の住人ですよ」
 Mr. Rが喉を鳴らして嗤う。そして、手にしていた鞭の柄で克哉の顎を掬い、唇を重ねた。
 体温を感じさせない唇の隙間から、濡れた舌が差し込まれる。口内をぐるりと舐められ、その嫌悪感に顔をしかめた。
 その爬虫類の様な冷たい舌は血の味がする。この男に普通の赤い血が流れているとは思えない。ならば、この血は克哉自身の流した血だろうか。克哉が流す血をこの男に啜られていても驚きはしない。
 蛇が絡みつくようなねっとりとしたキスを交わし、その血を味わう。その口内から生まれた凍えた痺れは熱を伴って下腹部に流れ込んでいく。
――この熱をどうするか。
 先日、その身体を蹂躙した一人の男の顔が浮かんだ。


――今夜はいるのか。
 再びその部屋を訪れた克哉は、人の気配を感じた。
 夜も更けてから来たせいか、既に部屋は暗くなっていて静かだ。わずかな月明かりと眼下の眠らない街の光が空に反射して部屋を仄かに照らす。
 この部屋の住人は既に就寝しているのだろう。
 ならば、話は早い。
 克哉は寝室に向かった。広いベッドの上に、期待していた人物の姿を見つけてほくそ笑む。
 日中どんなに気を張りつめていようが、寝ているときはどんな人間でも無防備になる。
 ベッドに乗り、その男の寝顔を見つめた。整った美しい顔立ちだ。屈辱にゆがんだその顔は克哉だけでなく、あのクラブRに集まる人間たちの劣情を煽るだろう。
 少し痩せてはいるが、長い手足と均整のとれた体躯。あの爛れた赤いカーテンの舞台に相応しいのではないかとも克哉は思う。だが、それを想像して、克哉は首を振った。
 いや、勿体ない。せっかく見つけた獲物だ。味わうのは克哉一人でいい。
 手を伸ばして、その顔の輪郭から長い首筋、鎖骨をなぞる。
 びくり、と大きく身体が震え、その男が目を覚ました。焦点の合わない瞳が克哉のぼんやりとした影を捉える。その瞬間、その身体が強張った。
「貴様……っ!」
 逃げようともがくその男の手足を押さえ込んだ。前回ほど痛めつける気はなかったが、暴れ続けるなら立場を分からせる必要はあるだろう。
 ところが、すぐに抵抗は止んだ。彼の身体から力が抜ける。
――諦めたのか?
 克哉は押さえつけていた手足の拘束をわずかに緩めた。男の顔が恐る恐るこちらを向く。
「佐伯、なんだろう?」
『さあな』
 しばらく克哉の方を向いて一生懸命目を凝らしていたが、その輪郭を捉えることも言葉を聞き取ることも不可能だったようだ。
 男は小さく息を吐き、覚悟を決めたように軽く目を閉じた。
「離してくれないか。…逃げたりはしない」
 どうしたものか、と克哉が真意を測りかねて逡巡していると、さらに語りかけられた。その声は諦念が混じっているのか、思った以上に落ち着いていた。
「この前みたいな無理矢理は嫌なんだ。自分で準備させてほしい」
『…いいだろう』
 克哉は男の手足を解放した。彼は自分の手足を少し動かしてその動きを確かめると、パジャマの上着には手を付けず、ベッド上で横になったまま、思い切ったように下着とズボンを無駄のない動きで脱ぎ捨てる。
 克哉の視線を避けるように、顔を背けた。そして、克哉に背中と尻を向けて、唾液を絡めた自分の指で自ら下準備をしようとする。
「くっ……」
 足をわずかにずらし、背中から回した指を自分の後孔に埋め込む。切なげな吐息が喉から漏れた。だが身体が強張っているせいで、その指の動きはぎこちない。早く解そうと焦っているのか、逆に身体に力が入ってしまって自身の指をきつく締め付けてしまっているようだ。
 それでも、その感触とこの状況に煽られているのか、段々と呼吸がせわしくなってきている。
『じれったいな』
「ん……っ!」
 克哉は自分の指を、その男の口内に咥えさせた。その男は驚いて顔を背け、口を離そうとしたが、残りの指で顎を掴んで固定すると、諦めて克哉の指を舐め、唾液を絡ませ始めた。
 たっぷりと唾液が絡んだところで、その指を引き抜いた。
 そのまま、その男の後孔に添えられていた彼の指と共に一緒に差し込む。
「ああっ!」
 慌てて引き抜こうとする男の指を、その手ごと掴んで一緒に奥に挿れる。抜き差しをさせるたびに濡れた音が響く。硬い蕾を懐柔するだけでなく、快楽を引き起こす明らかな意図を持った指の動きに、次第にその男の口から艶めいた喘ぎが漏れ始めた。
「ふっ…あっ……、さ……きっ」
 喘ぎながら男が何かぶつぶつと唱えているようだ。何を言っているのだろう。克哉はその男の顔近くに耳を近づけた。
「さ…えき、くっ…佐伯っ」
 目をきつく閉じながら、その男は『サエキ』と何度も口にしていた。自分自身に言い聞かせるように。
『成程ね。恋人ごっこか』
 克哉は得心した。この男が今回抵抗しないのは、克哉の姿がよく分からないことをいいことに、自身の恋人だと思いこんでその行為を受け入れようとしているのだろう。
 抵抗された方が一層愉しめるが、これもこれで十分に扇情的だ。また、前回のように痛めつけて今度こそ逃げられてしまっては元も子もない。
『いいだろう。付き合ってやる』
「あっ」
 指を後孔から引き抜き、その身体を仰向けにして覆いかぶさった。恐怖を感じたのか、その身体が固くなる。
 その緊張を解そうと、その首筋に濡れた舌を這わした。びくんと組み敷かれた身体が痙攣する。
 同時に、パジャマの上着のボタンを外し、胸に手を這わせてその突起を弄る。つまんで、こね、指の腹でつぶす。
「うぁっ……、あ……っ」
 怖がらせないように、それなりの優しさを込めて、その身体を愛撫する。筋肉の筋に沿って唇と舌で輪郭をなぞり、尖った胸の突起を啄む。強張った体幹の力を逃すように柔らかく手を滑らせて撫でる。
 次第に身体の力が抜けて、克哉の愛撫に反応して小さく跳ねるようになってきた。両手でシーツをきつく掴み、その刺激を逃がそうと耐えている。
 その男の性器に手を伸ばすと、既に勃ち上がっていたそれは先走りで濡れそぼっている。指を絡め優しく擦りあげて、熱を煽る。鼻にかかったような甘い喘ぎが漏れ始めた。
「くっ……。あっ…、ふっ」
 下肢を大きく割り、持ち上げる。後孔に硬く屹立した自身の性器を押し当てた。既に抵抗はなかった。遠慮なく一息で深く穿つ。
「ああっ!!」
『きついな』
 鋭い悲鳴があがる。それでも、解したせいか前回よりも抵抗は少なかった。その男が呼吸を整え身体の力が抜けるまで待っていると、内腔が柔らかくなりペニスに熱い粘膜が絡みついてくる。
「あっ……、はぁっ…、んんっ」
 ゆっくりと腰をグラインドさせながら、深く突き入れ、彼の性器に指を絡める。そこは硬さを失っていない。中を抉る度に、性器を擦りあげるたびに甘い熱を含んだ喘ぎ声が響き始める。
『いい反応だ』
 克哉は口角を上げた。天性のものなのか仕込まれたものなのかは分からないが、敏感で淫らな身体だ。
 その身体は熱を帯び、その顔は暗闇の中でも、紅潮し陶然としてきているのが分かる。
より深く克哉を咥えこもうと克哉の腰に脚を絡め、自ら腰を蠢かしだした。
「あぁっ。いい…佐伯…っ!」
 その双眸は濡れ、克哉に焦点を合わせているが、既に自分の恋人にしか見えていないようだ。
「佐伯っ…」
 しなやかな両腕を克哉の首筋に回して、克哉を引き寄せようとする。やりたいようにさせて、身体を重ねた。
 その時だった。ふいに顔を持ち上げたその男に唇を塞がれた。ほんの一瞬驚いたが、求めに応じてそのしどけなく開いた唇に舌を差し込み、その舌を舐めて唾液を吸う。克哉の舌は喜んで迎え入れられ、積極的に舌を絡ませてくる。熱い口内だ。腰を動かすたびに、後孔と口から水音が淫猥に響く。
 そろそろその男に限界が来たようだった。身体に力が入り、息継ぎが荒くなる。唇が離され、身体に回された手に強く力が込められ、ぐいっと身体を引き寄せられた。
「克哉っ…愛している」
『――っ!』
 その言葉が言い終わるか終わらないかのタイミングで、その男は吐精した。何回にも分けて放たれた迸りは、その男のへそから胸まで飛び散る。同時に内腔を強く引き絞られて、克哉も熱い欲望をその内腔にうちつけた。
 身体を細かく震わせ、ぐったりとベッドに沈み込んでいくその男を見下ろしながら、克哉は絶頂の快楽よりも別のことに気をとられていた。
――カツヤ…?…サエキ、カツヤ?
 この男が自分を呼ぶときに使った二つの単語『サエキ』と『カツヤ』は同一人物の名前なのだろうか。そして、昨夜、公園で出会った男が自分に向かって呼びかけた『カツヤ』という名前。点と点がつながりそうな気がした。
――どういうことだ?
 その男を残したまま、ベッドから降り立つ。
 自身の欲望を発散しに来たのに、逆に何か大きなわだかまりの様なものが植え付けられた。それは当初の目的であった、自分自身を探すという動機に答えを与えてくれるのかもしれない。
 寝室を出てリビングに向かう。何気なしに、ダイニングテーブルに置かれた郵便物に目を遣った。その宛名に目を奪われる。
――“佐伯克哉”…。
 そこに置かれた複数の郵便物の宛名は全て“佐伯克哉”宛だった。あの男が“佐伯克哉”なのだろうか。いや、あの男は何度も自分を“サエキ”と呼んでいた。ならば、別人のはずだ。
――なぜ、佐伯克哉宛の郵便物がここに?…あの男は誰だ?
 ここは佐伯克哉の部屋なのだろうか。だとすると、今この部屋に住んでいるあの男は何者なのだろう。
 克哉は部屋の中を見渡した。きれいに片付いた部屋の中で手掛かりになりそうなものを探す。
 ふと、壁のハンガーラックにかけられたスーツのジャケットとその隣のワイシャツに目をとられた。あの男が着ていたものだ。
 近付いて目を凝らす。ワイシャツの左腕にネーミングの刺繍がされていた。
――“T. Mido”…ミド…ウ?……御堂?
 そのローマ字の刺繍に、何故か漢字が自然と浮かんだ。昨夜、公園で出会った男の言葉が蘇る。
『御堂さんがどれだけ心配して、お前を探し回っていると思ってるんだ!』
 寝室の方を振り返った。
――あいつが御堂で、佐伯克哉は、俺…なのか?
 記憶は一切ない。“佐伯克哉”、という名前にも心当たりはない。
 ただ、“御堂”と言う名前にはほんの少し、懐かしい響きを感じた気がした。だが、これも確証があるわけではない。
 大きな困惑と混乱を抱きながら、克哉はその部屋を後にした。

(7)
In the Dark Room(8)

「佐伯…」
 無意識に呟いた自身の言葉に意識が引き上げられた。はっと御堂は目を覚ました。
 既に空は白み、明るい陽射しが寝室に差し込む。
 慌てて身を起こした。自身の姿を確認する。乱れの無いパジャマ姿。ただし、下半身がべっとりと濡れた感触がある。
 そろそろと下着の中を確認した。まさか、と思った通りの光景を目にして、羞恥に顔が赤くなる。同時に昨夜見た夢を鮮明に思い出した。
 先日見た悪夢を再び見た。だが、今回は悪夢と言うより淫らな夢だった。恐怖はあった。だが、御堂自身が夢だと開き直ったせいか、前回よりも怖くはなかった。
 夢の中に出てきた男は、相変わらず輪郭がしっかり掴めなかったし言葉も発さなかったが、克哉だったように思う。むしろ克哉だったと信じたい。克哉以外の男に抱かれて極めさせられたとは考えたくなかった。そして、やはり夢の中の男は血の匂いを纏っていた。
――夢とはいえ、あんなに乱れるなんて。
 自らの痴態を思い出し、片手で顔を覆いため息をついた。
 気怠い身体を奮い立たせ、バスルームに向かう。
 克哉が姿を消してから、禁欲状態だった。そもそも性欲を感じる余裕もなかったし、もちろん自分自身を慰めてもいなかった。
 あんな夢を見る程、知らないうちに余程ため込んでいたのだろうか。
 熱いシャワーを浴びて、身体についた体液を洗い流し、身体と頭をしっかり覚醒させた。
 身体のだるさは完全には抜けきれなかったが、それでも、いつもよりは少し気分が高揚していた。昨夜の夢のせいだろう。
 最初に見た夢とは違って、多少乱暴ではあったが恋人だった克哉と同様に抱かれキスを交わした。
 会いたい、という強い想いがあの夢を引き寄せただろうか。
――また、あの夢を見ることが出来るだろうか。
 再び夢で克哉に会う事を願っている自分に気付き、御堂は苦笑した。

 それから、御堂が期待したように、同じ夢を何度も見るようになった。
 常に舞台は同じ、登場人物も変わらない。克哉の部屋の暗い寝室で克哉に抱かれる。
 夢の中に出てくる克哉の姿はどこか曖昧で、その声を聴くこともない。それでも、夢の中で抱かれる快楽は強烈で鮮明だ。
 何晩か連続でその夢を見ることもあれば、数日間、全く夢に出てこないこともあった。
 夢の中で克哉とキスを交わし、身体を重ねる。克哉はもう手ひどく御堂を扱うことはなくなった。強引なこともあったが、恋人同士だった時のように、求めに応じ甘く煽られ極めさせられる。
 そして、何故だかいつも血の匂いが漂った。
「佐伯なんだろう?」
『…どうだろうな』
 御堂の問いかけに、いつも返事はない。それでも、御堂は話しかけた。時として指先や仕草で返事が返ってくることもある。
「今、どこにいるんだ?」
『ここにいる』
「早く、帰ってこい。君と私の会社は変わっていない。君を待っている。君の椅子もデスクもそのままだ」
『俺とあんたの会社?』
「そういえば、先日、本多君があの公園で君に会ったと言っていたぞ」
『ホンダ?…ああ、あの大柄な男か』
『……なあ、“佐伯克哉”について、あんたが知っている事を教えてくれないか?』
 目の前の克哉の人影が何かを言おうとしていることは、御堂もおぼろげながら感じた。その言葉が聞き取れない自分に苛立つ。
 そして、夢の中の克哉は何故か御堂を抱くときにシャツも含めて衣服を脱ごうとしない。素肌の触れ合いを求めて、自然と克哉のシャツのボタンに手を伸ばした御堂は、その手首を掴まれて拒絶された。
『シャツに触るな』
 何を言っているかはわからないが、御堂がシャツを脱がそうとしたことで、克哉の機嫌を損なったことは分かった。だが、夢の中だとはいえ自分は裸だ。謝るのもおかしい気がして、少し肩を竦めて見せる。
「…血の匂いがする。怪我をしているのか?」
『大した怪我じゃない。あんたには関係ない』
「澤村に刺された傷なのか…?大丈夫か?」
『サワムラ?刺されたのか?俺が?そいつに?』
 御堂は何とか目の前の克哉の輪郭をしっかり捉えようと目を凝らす。努力は徒労に終わり、哀しげに首を振った。
「佐伯、会いたい。君の姿をはっきりとこの目で見たい」
『はっきり視えたら失望するかもな。俺があんたの期待する“佐伯克哉”だという保証はどこにもない』
「私は今だって君を愛している」
『……』
 御堂は克哉の顔を両手で包んだ。常に暗くその顔は判然としない。肌に触れるその感覚もどこか曖昧だ。眼鏡の蔓に触れるような気もするが、それさえも漠然としている。唇のある場所に自分の唇を押し付けた。その口づけは受け容れられて、互いの舌を絡め合う。微かに血の味がした。
 所詮は、朝になれば泡沫のように消えてしまう、姿かたちもはっきりとしない夢の中の男だ。それでも、御堂の寂しさを慰めてくれる。そして、伝えきれなかった克哉に対する想いを、夢の中の克哉に伝える。
 夢の中での克哉との逢瀬は、徐々に御堂の生活の一部になっていた。


「本来なら私が出向かないといけないのに、呼び立ててしまってすまない」
 Acquire Association社の応接セットで御堂は本多に頭を下げた。
「御堂さん。やめてください。あなたより俺の方がよほど時間がある。気軽に呼んでくれてかまいません」
 本多は目の前の御堂を改めてしげしげと眺めた。相変わらずやつれてはいるが、前回会った時と比べて、その表情は厳しさが緩んだ気がした。ある程度、状況が落ち着いてきたせいもあるのだろうか。それでも、顔色の悪さは気になった。
「実は、本多君に折り入って頼みたいことがあって」
 御堂は手に持った茶封筒から一通の書類を取り出して、本多に手渡した。本多はその内容にさっと目を走らせる。そのレポートは興信所による報告書で、そこに書かれた名前に本多の瞳孔が開いた。
「澤村紀次…。こいつは…っ」
「そうだ。佐伯を刺した“らしい”、澤村だ。不起訴になってから精神科病院に収容されていたのだが、この度退院することになったそうだ」
「退院?こんなに早く?犯罪者のくせして」
 怒りが沸々とこみ上げて、本多の口調が厳しく大きくなる。御堂は、そんな本多を落ち着けようと声を潜めて静かな口調で話しかけた。
「本多君、君の気持ちも分かるが、“疑わしきは罰せず”がこの国の法律だ。彼は犯罪者ではない」
「でもっ…!」
 悔しさに本多が唇を噛みしめる。御堂は話を続けた。
「私は澤村の弁護士に面会禁止を言い渡されていてね。それでも、彼にもう一度会って当時の状況をしっかり聞いてみたい。前回会った時は全く話にならなかった。…それで、君に頼みたいのは、私に同行してくれないだろうか」
「俺がですか?それは全然かまいませんが」
「ありがとう。退院するという事は、状態が落ち着いたのだと思う。だが、何分、彼と佐伯、そして私の間には色々あったから、前のように興奮状態に陥られては困る。立ち会ってもらって、冷静な話し合いが出来なさそうだったら私は席を外すから、代わりに話をしてもらえれば助かる」
「そんなことなら任せてください。俺がねじ伏せてでも聞き出して見せます」
 御堂に頼りにされたことが嬉しかったのだろう。本多は胸を張って答えた。
 本多こそ冷静な対応が出来ないのではないだろうか、と若干の懸念を御堂は抱いたが、それでも克哉と御堂、両方を知っていて協力を頼めるような人物は本多以外に思いつかなかった。
 興信所の報告書を元に、打ち合わせを行った。退院日に病院の出口で澤村を待ち伏せする計画を立てる。
 正直、御堂は澤村ともう顔を合わせたくはなかったが、それでも克哉に関する手掛かりがわずかでも得られるなら、澤村のところに赴くことにためらいはなかった。

 御堂との打ち合わせを終え、本多がAcquire Association社のビルを出る時、ビルに入ろうとする藤田とすれ違った。以前、MGN社の社員だった藤田と本多はお互い顔を見知っている。
「藤田!元気か?」
「本多さん。お久しぶりです」
 明るい返事が返ってくる。立ち止まって、近況を交わした。
「…ところで、最近の御堂さんの調子はどうだ?」
「御堂さんですか。佐伯さんがいなくなってから、本当に大変だったのですが、今は大分状況も落ち着いてきて。御堂さんも雰囲気が前みたいに戻ってきた気がしますね。でも、相変わらず一人で激務をこなしているので、体調が心配ですけど」
「痩せたよな。顔色も悪い」
「表情は少し明るくなってきたんですけどね。…前みたいに倒れなければいいんですが。今の状況で御堂さんにまで倒れられたら、どうなってしまうのか」
 藤田の表情が曇った。MGN時代、御堂が体調不良で無断欠勤し当時動いていたプロジェクトが大いに混乱したことを思い出したのだろう。あの時は、克哉の迅速で的確なフォローで何とかなったが、御堂はそのまま復帰することなく会社を退職した。
「藤田、俺に何か協力できることがあったら、何でも言ってくれ。どんな些細なことでも構わない。後、御堂さんの様子を気を付けてみてやってくれ」
「ありがとうございます!社長が戻るまで、頑張って社を盛り上げていきますから」
 藤田の屈託のない笑顔に元気をもらう。それでも、本多は御堂のことが気になった。
 確かに、前よりは御堂の表情や雰囲気が元のように戻ってきた気もするが、精神と肉体の状況が乖離しているようでならない。何か見ていてあぶなっかしい予感がした。

(8)
In the Dark Room(9)

 再び克哉は、その暗い部屋を訪れた。
 Mr. Rに酷く嬲られて動けないときを除けば、ほぼ毎夜訪れている。
 御堂と会話を交わせないのは残念だったが、御堂が克哉に話す断片的な内容により、その“佐伯克哉”に対する情報は少しだが分かってきた。
・御堂とは恋人関係にあったこと
・御堂と会社を経営していたこと
・現在失踪中であること
・この部屋は“佐伯克哉”の部屋であり、現在は御堂が管理していること
・“佐伯克哉”はサワムラという人物に刺されたらしいこと
・ホンダという友人(公園であった男)がいること
 そのホンダという人物にもう一度会って、話を聞いてみても良かったが、残念ながらホンダの居場所は分からなかった。
――結局のところ、“俺”は誰なんだろうな。
 自分の失われた過去を探すということは思った以上に難しかった。そもそも、過去なんて存在しなかったのではないかとさえ思えくる。“佐伯克哉”という名前が分かっても、そこから何も閃くものはなかった。
――やはり、俺はあの公園で生まれたのかもしれない。赤い月と冷たい土を親として。
 そしてMr. Rの人形として生きる運命を携えて。
 克哉は口角を歪めて嗤った。Mr. Rが夜の間、克哉を自由に徘徊させているのも、克哉のこの虚しい行動をあざ笑うためなのかもしれない。たとえ、過去を手に入れたとしても、克哉の未来が変わるわけでもない。
――虚しい、か。
 それでも、御堂と過ごす時間は嫌いではなかった。Mr. Rとは違って御堂の身体には確かな温もりがある。そして、克哉を受け容れてくれる。たとえそれが、御堂の勘違いによる思い込みであったとしても。
 克哉に実感はなかったが、御堂は克哉を自身の恋人である“佐伯克哉”と信じ込んでいるようで、恋人として語りかけてくるし、恋人として克哉の身体を求めてくる。
 御堂のことは記憶にはないが(そもそも全ての記憶がないが)、少なくともこの身体は“佐伯克哉”の身体だったのかもしれない。とは言え、その中身である自分自身は“佐伯克哉”だったのか、それとも別のところから持ってこられた人格なのかは分からない。
 しかし、例え“佐伯克哉”だったとしても、今の自分にはその記憶もなければ自我も引き継がれず、御堂に対して何か特別な感情を持ち合わせているわけではない。
 それでも、御堂に恋人として扱われるのは悪くない気分だった。克哉も御堂に求められるように、恋人として振る舞いその要求に応えている。
 最初に抱いたときは、あれ程、頑なで強情だったにもかかわらず、今では克哉の前で淫らに乱れてみせる。これも、克哉を恋人だと信じ切っているからこそ、自ら身を任せてくるのだろう。
 とはいえ、もどかしさはあっても、御堂が克哉の姿をしっかりと認識できずその声を聞き取れないのは幸いだった。御堂が克哉のことを視て聴くことが出来るようになったらば、自身の恋人とは違うその異質な存在を拒絶されるかもしれない。
 それはそれで致し方ないし、そうとなれば最初のように力づくでその身体を支配すればいい。
 だが、その時を想像すると、胸の奥底がどこか軋む。
 御堂が寝ているのであろう寝室に素直に足が向かず、ぼんやりとリビングを彷徨う。
 ふと、リビングのセンターテーブルに無造作に置かれている書類が目に入った。
『澤村紀次…?サワムラ?』
 その書類の内容に目を走らせる。澤村紀次の現況に関するレポートだった。
 御堂の言葉が正しければ、“佐伯克哉”を刺した人物のはずだ。
 現在は、精神科病院に入院中でもうすぐ退院予定らしい。
 その書類には丁寧に、病院の名前も住所も記載されている。
――行ってみるか。
 どうせ、退屈している。新たな獲物が手に入れば、しばらく愉しめるかもしれない。
 克哉の顔に薄い笑みが浮かんだ。


―――――――――――――――

 薄暗く、狭く、白い壁に囲まれた味気のない部屋。部屋の真ん中には壁と同じ色の、白いシーツで包まれた何の飾りもないベッドが置かれている。
 家具と呼べるほどのものもない、殺風景な病室だ。
 だが、この部屋ともこの一晩でお別れだ。
 澤村紀次はベッドの脇の壁にかけられた鏡を覗き込んだ。そこに映る顔は、記憶にある以前の自分の顔と一分の違いもない。病人には見えない。
――大丈夫だ。僕は変わっていない。
 自身に言い聞かせる。
 本来の自分の調子を取り戻した。
 医者のいう事をしっかりと聞く善良な患者として振る舞っている。夜遅いこの時間でも、消灯をしっかり守り、ベッドサイドのわずかな灯りのみで我慢している。
 他人の決めたルールに従うなんて真っ平だ。だが、この窮屈な入院生活から解放されるためなら、なんだってする。
――なんだって、僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
 これも全てあいつのせいだ。思い出すだけでその忌々しさに吐き気がこみ上げる。
 あいつに関わると全てが台無しになる。
 今回も精神疾患と診断された挙句、こんな部屋に閉じ込められた
 最も憎むべき男、佐伯克哉の顔を思い出し、澤村は顔を歪めた。
 数か月前の出来事が蘇る。
 佐伯克哉と言う男のせいで、澤村の過去も現在も引っ掻き回された。
 だが、未来については譲れない。あいつにこれ以上振り回されてなるものか。
――それにしても、あいつはどこに消えたんだ?
 確かに、この手で握ったナイフは、克哉の肉を切り裂き臓器を貫いた感触があった。そして噴き出す血を確かにこの目で見てその身体に浴びた。
 そう簡単に殺すつもりはなかった。なるべく長い時間苦しみ抜けばいいと思った。あの時、克哉に抱いた殺意は確かだ。
 だが、後から聞いた話では克哉は忽然と姿を消したらしい。
 こんな事ならば、あの場にとどまり最期までしっかり見届けるか、その場でとどめを刺してしまえばよかったと後悔する。それでも、死体が出なかったおかげで、澤村は罪に問われなかったので幸運だったともいえる。
 万が一にも克哉が生きていたら厄介だ。
――退院したら、あいつの行方を捜すことが最優先だ。
 そして、見つけたら今度こそ確実に息の根を止める。いや、今となっては世間から認識されない存在だ。どこかに監禁して、日々拷問し嬲り、苦しみ抜かせるのも愉しいだろう。
 それと同時に、克哉が手にしていたものを次々に壊していかなければ気が済まない。
 まずは克哉の会社だ。あの会社を乗っ取るのもいいだろう。
 もちろん、克哉の恋人である御堂も、だ。あの男も澄ました顔をして澤村の画策した計画を見事なまでに妨害してくれた。それ相応の報いは受けてもらったが、今となっては全然足りない。
――ああ、そうだ。克哉君を捕獲したら、目の前であの男を犯し抜くのはいいかもしれない。
 それも徹底的に。複数の男に輪姦させるのもいいだろう。そして、克哉自身も御堂の前で凌辱しつくしてやるのもいい。むしろ、そうしてやるのが正当な報いだ。今となっては克哉が生き延びてくれている方を期待したい。
 澤村は既にクリスタルトラストを退職していた。正確には退職させられたというのが正しい。それでも、前科はつかなかったこともあり、それなりの退職金、口止め料を含んだ金額をもらっていたし、様々な手段で蓄えた十分な資金もある。
 合法、非合法を問わない様々な手段を使うルートも持ち合わせている。
 これらに合わせて自分の才覚を持ってすれば、何でも上手くいく確信があった。
 クスッと笑みがこぼれる。鏡に映った自分の顔は自信に満ち溢れている。その眼には滾る狂気と昏い欲望が顔を覗かしていたが、澤村はそれに気づく由もない。
 鏡の中の自分に話しかける。
「待っていてくれよ。克哉君。今度こそ、君を徹底的に壊してやる」
「……それは、俺のことか?澤村紀次」
 鏡に映った自分の顔、その背後に人影が映った。その人物はこちらをじっと見ている。その顔にかけられた眼鏡のレンズが冷たく光った。
 澤村は咄嗟に振り返った。そして、ベッドを挟んだ向こう側、窓に寄りかかって立っている男の姿を視界に捉えた。
 その身体の輪郭は青白く淡い光を放っている。そして、怜悧な顔は澤村を冷たく見据え、酷薄な笑みがその顔に浮かんでいた。驚愕と恐怖で澤村の喉から呻くように息が漏れる。
「佐伯…克哉っ!」
「俺のことが分かるのか」
 克哉は嬉しそうに目を細めた。澤村はじりじりと後退ろうとしたが後ろの壁にすぐに進路を阻まれる。
「…なぜ、ここにいるっ」
「何故、ここにいるんだと思う?」
「お前は、僕が刺したはずだ…!」
「そうみたいだな。痛かったな。血もいっぱい流れた。なあ、何でお前は俺を刺したんだ?」
「…何故って、お前が憎いからに決まっているだろう。僕にあんなことをしておいて、タダで済むと思うな!」
 澤村の言葉を聞いて、克哉は少し驚き、そして美しく完璧な笑みを浮かべた。
「…お前は俺の声も聴こえるのか。そうか、澤村、お前はこちら側の人間だったんだな。狂気と欲望に捉われた人間、それがお前だ。俺は嬉しいよ。お前と語り合えて」
 克哉は込み上げてくる嗤いに肩を震わせた。
 初めて出会えたMr. R以外の会話が交わせる人間だ。しかも自分のことを知っている。そして何よりも、克哉に対して恐怖し怯えている様子が愉快でたまらない。
「何を怖がっている。久しぶりの再会なんだろう?親睦を深めようじゃないか」
 禍々しいほどの端正な笑みを浮かべながら、一歩一歩もったいぶって克哉は澤村に近づいていく。
「ひっ……」
 追い詰められた澤村は傍にあった壁掛けの鏡に拳を叩きつけた。
 ガシャン。
 派手に鏡が砕け、澤村の拳から血が流れ落ちた。割れた鏡の中から大きく尖った破片をつかみ取る。鋭利な破片は澤村の手掌を更に傷付けたが、その痛みも流れる血も気にならなかった。澤村は鏡の破片を克哉に向け、体勢を立て直した。
「今度こそ、君にとどめを刺す。息絶えるところをこの目で見届けてやる」
「…危ないなあ。当たったら怪我をする」
 克哉は歩みを止めて澤村をねめつけた。この男は本気だ。なぜだか知らないが、本気で克哉を憎んでいる。
 動きを止めた克哉を怯んでいると勘違いした澤村は、勢いを取り戻した。乾いた甲高い笑い声がその口から漏れる。
「ハハッ!克哉君。心配しなくてもいいよ。君が死んでも、君の大好きなあの男、御堂といったっけ?彼は僕が可愛がってやるよ。今度は前の時とは違って、徹底的に嬲るけどね」
「御堂を?前?…お前は御堂に何をしたんだ?」
 克哉の訝しがる言葉に怒気が混ざったことに澤村は気付かない。
「やだなあ。忘れたのかい?ちょっと可愛がって気持ちよくさせてやっただけだよ。それなのに、克哉君、君は我を忘れる程怒り狂っていたじゃないか。…あの男の前で僕を犯すくらいに」
 その時の屈辱と怒りを思い出して、澤村の眼が血走った。振りかざした鏡の破片を強く握りしめる。
 克哉もまた同様に、澤村に対してどろどろと噴き出すような憎悪を感じた。この男は御堂に手を出した。その澤村の言葉に何故だか無性に抑えきれない怒りが湧いてくる。
「…気が変わった。俺が、お前を、殺す」
 どこまでも冷たく、深淵からあふれ出た悪意そのものの声は、耳にしたものを凍りつかせる。その非情で冷酷な眸は澤村を射抜き貫く。
「うわああぁっ!」
 叫び声をあげて、澤村が鏡の破片を握りしめ、ベッドを乗り越え克哉に突進してくる。
 克哉はひらりと身をかわし、澤村の手首を掴み背中に捩じりあげた。鏡の破片を取り上げ、悲鳴をあげて苦痛にゆがむ澤村の顔を、全ての悪意を拭い去った慈愛さえ感じさせる極上の笑みを浮かべて覗き込んだ。
「ぐぁっ!」
「なあ、澤村。お前は俺のどこを刺したんだ?全部教えてくれよ。同じところを同じだけ刺してやる。その上で、お前を犯してやるよ」
「手を離せっ!よせっ!僕に近寄るな!」
「…澤村、お前の悲鳴はキャンキャンと耳障りだな。俺の質問に答える気がないのなら……まずは喉からつぶすか。動脈は傷付けないようにする。すぐに死なれたらつまらない」
 澤村から取り上げた鏡の刃をその喉にあてた。ヒッと喉から掠れた呻き声がもれる。その皮膚に軽く刃を押し付けた。その刃の角度を変えながら、その度にびくびくと震える澤村の反応を克哉は愉しんだ。
「横に裂くか、縦に裂くか?なあ、どちらがいい?…いや、十字に切り裂くか」
 ぷつり、と鏡の刃の先端が首の薄い皮膚にめり込む。小さな血の雫がそこから盛り上がった。
「やめろっ!!」
 澤村は大声で叫び、最後の力を振り絞り身体を思い切り捩って、克哉の手から逃れた。
 そのまま、部屋のガラスの窓に向かって頭から飛び込んだ。
 派手にガラスが割れる音が響き、次の瞬間、ドサッと鈍い音が窓の外から響く。
 克哉は窓の外を覗き込んだ。
 窓の下に植えられていた低木樹にバウンドしたのだろう。澤村は大量の木の葉と枝にまみれて地面に転がっていた。
 カッと見開かれたその眼は夜空を仰いでいる。徐々にその身体から血が染みだしていった。だが、この病室は二階だから致命傷にはならないだろう。
 周囲が騒がしくなった。複数の足跡と声が響く。この騒ぎを聞きつけて集まってきたようだ。
「残念だな。俺が流した血にはまだ足りない。まあいい。また会いにいくさ」
 克哉は持っていた鏡の破片を窓の外に放り捨てた。

(9)
(10)
In the Dark Room(10)

 翌日、澤村が入院している病院、その正面玄関まで来て、御堂と本多は異変に気が付いた。
 病棟の建物の一角に人だかりが出来ている。
 そして、パトカーの姿もあった。
「何だ?」
 本多が迷わずその人だかりに突っ込んでいった。
 何かの現場の様で、その場にテープが張られ立ち入り出来ないようにされている。
 御堂はその建物を見上げた。真上にある二階の病室の窓ガラスが一枚、派手に割れている。目を凝らすと、その窓ガラスの残った破片は血に濡れているのか、赤黒い。
 本多が御堂の方に手を振りながら走って戻ってきた。
「御堂さん。どうやら、昨夜、あの病室から患者が一人飛び降りたみたいです。窓ガラスを派手にぶち割って」
「…嫌なタイミングだな。その患者はどうなった?」
「救急車で、救急対応が出来る総合病院に運ばれたようですけど」
 御堂は眉をひそめた。胸の奥がざわつく。なにか良からぬ予感がした。
「その患者の名前は分かるか…?」
「いや……まさか、澤村っ?」
 本多もその可能性に気付いたようだ。御堂が何か言う前に身を翻して病院の中に走っていった。
「おいっ」
 御堂が声をかけた時にはその姿は院内に消えていた。頭よりも先に身体が動くタイプだ。
 呆れつつも御堂が待っていると、息を切らせながら再び走って戻ってくる。一枚のメモ用紙を御堂に差し出した。
「御堂さん。分かりました。やっぱり、その患者は澤村でした。で、これが、搬送された病院です」
「よく分かったな」
「受付に、『澤村の親戚で、今日退院する澤村を迎えに来た』と言ったらすぐ教えてくれましたよ」
 後先を考えないこの男の行動力に御堂は素直に感心した。
 それにしても、この図ったようなタイミングは気味が悪かった。
 本多から差し出したメモ帳を受け取って、病院名を確認する。目をわずかに眇めた。
「本多君。よければこの後も付き合ってくれるか?この病院には知り合いがいる」
「もちろん!行きましょう、御堂さん」
 御堂と本多はその病院を後にし、タクシーに乗り込んだ。

 澤村が運ばれた総合病院の受付で御堂は名刺を出した。
「外科の四栁医師に会いたい。アポイントはとっていないのだが…。取り次いでほしい」
 受付の女性は名刺を確認し、内線で連絡を取った。そのまま御堂と本多は外来の待合室で待つように指示を受ける。
 待つこと一時間近く、本多がそわそわと落ち着きなく動き出した辺りで、目当ての医者がやってきた。
 線が細く柔らかい風貌だが、くたびれた手術着の上下に白衣をラフに羽織っている。そして、その眼には隈が浮かび、顔には疲労がにじみ出ていた。
 御堂がさっと立ち上がった。急いで本多も横に並ぶ。
 その医者は御堂達を見つけにっこり笑みを浮かべ、ここではなんだから、と人気の少ない中庭に案内された。
「四栁、仕事中に済まない。こちらは同僚の本多君だ」
「どうも」
 手っ取り早く同僚と紹介されたが、異を唱えることもないので本多は頭を下げる。
「ああ、本多さん。初めまして。御堂も久しぶりだな。…御堂、顔色悪いぞ。体調は大丈夫か」
「自分の顔を鏡で見てから言え」
 二人の会話からは互いに気を遣わない親しげな様子が響く。仲の良い友人同士なのだろう。わずかな羨望を込めて本多は二人を眺めた。
「当直明けなんだ。昨夜は呼び出されっぱなしで眠れなかったんだよ」
「…四栁、こんな時に悪いが、教えてほしいことがある」
 四栁は意味ありげに御堂に視線を向けた。
「昨夜、精神科病院から運ばれた患者のことだろう。だが、残念だな。医者には守秘義務がある。患者の情報は教えられない。僕とお前の仲でも、だ」
「そんなっ。俺たち、そいつに会いたくてここまで来たのに」
 思わず横から口をはさんだ本多を御堂は軽く手で制した。
「なぜ、私の用件がその患者のことだと分かった?まだ何も言っていないが」
「あーっ…」
 しまった、と四栁は片手で口を覆った。四栁も克哉とは面識があり、事件の大まかなところは御堂から聞いていた。だが、澤村の個人名までは教えていなかったし、公表もされていない。
 四栁は素早く周囲に視線を走らせ、誰もいないことを確認すると、諦めたようにため息をついた。
「…昨日から一睡もしていない。現在、27時間連続勤務中なんだよ。だから、冷静な判断が出来ないのも仕方がない。独り言をつぶやいて、それを誰かに聞かれていたとしても、不可抗力だよね」
 そうブツブツ呟いて、ニヤリと御堂に笑いかける。そして、四栁はあらぬ方向を見ながら、“独り言”を言いだした。
「昨夜の急患は面倒だった。特に、精神科病院から搬送された多発外傷の男性患者。外傷自体はガラスによる多数の切創、そして二階からの転落による打撲傷。命に別状はなかったが興奮状態がひどくて、処置も出来ないほど暴れていてね。もうちょっと外傷が酷ければ大人しかっただろうに…ああ、これは失言だ、取り消す」
 四栁はふう、とため息をついた。
「特に、何が面倒だって、暴れた挙句、ひっきりなしに叫んでいて…『佐伯克哉に襲われた』と何度も。…知っている名前だな、と思って、搬送元から一緒に持ち込まれたカルテを確認したら、どうやら知り合いと関係がある人物だったようだ。今は、鎮静されて集中治療室管理中。面会謝絶。警察が話を聞きに来ているけど、とてもまともな会話が交わせる状態ではない。僕としては早く搬送元の精神科病院に送り返したい。……以上」
 そこまで一息に話すと、御堂の方に向き直った。
「僕が知っているのはここまでだ」
「…佐伯克哉に襲われた、というのは本当なのか」
 四栁はため息をつくと、御堂から視線をそらし、再びブツブツ呟きだした。
「相当疲れているな。幻聴が聞こえる…。…僕ら医者としては、外傷機転は気になる。ただ、その外傷機転がどのような動機で起こったのかを調べるのは僕たちの仕事ではない。…だが、誰かに襲われた可能性は低いと僕は思う」
「なぜ、そう思う?」
 四栁はちらりと御堂を一瞥したが、すぐに視線を逸らした。
「一つは外傷の種類だ。誰かに刺されたとか殴られた、とかそういったものはなかった。大きな傷は全て窓ガラスを割った時の切創と転落した時の打撲傷だけだ。そして、もう一つ、その患者の病室から抗精神病薬の残薬がいくつも見つかった。服薬遵守が悪い患者だったようだ。抗精神病薬は強い抗幻覚作用があるが、突然内服を中断すると退薬症状で幻覚が悪化することはよく知られている」
「警察が動いているようだが」
「病院側が通報したんだろう。管理責任が問われるからな。だが、精神科病院はこの病院みたいな一般病棟と違って警備は厳重だよ。真夜中に不審者が入り込めるような造りではない。患者と医療者を守るために、監視カメラも多い。すぐに白黒はっきりつく。……さて、と」
 四栁はポケットから取り出した院内PHSを見て、着信がないことを確認しつつ、御堂達の方を振り返った。
「なあ、御堂。安心したか?それとも落胆したか?残念ながら、ここにはお前の求める情報はない。……それより、お前、やせたな。明らかに栄養状態悪そうだぞ」
 四栁の言葉に御堂はわずかに眉をひそめたが、それ以上の反応はしなかった。
「そろそろ回診の時間だ。またな」
「ああ…、忙しいところすまなかった」
 御堂と本多は去っていく四栁を見送った。本多は御堂を横目で見た。なんと声をかけていいか分からなかった。
「御堂さん…」
「すまない。本多君。無駄足に終わったな」
「いや、俺は全然…」
「帰るか。近くまで送る」
 特に感情を込めない、いつもの調子で御堂は本多に声をかけた。病院から出てタクシーに乗り込む。
 御堂は何か考え事をしているようで、無言のままタクシーの窓の外に視線を向けていた。
 本多も黙ったまま、今日の出来事を頭の中で反芻する。
――それにしても、本当に、克哉じゃないのか。あの克哉だったら澤村を襲ってもおかしくないよな。
 先日、公園で会った克哉の姿を思い浮かべる。あの冷徹な雰囲気を纏い、本多にためらいなく殴り掛かってきた克哉なら十分にあり得そうな気もした。
 お互い無言のまま帰途についた。

In the Dark Room(11)

 深夜遅く、御堂は克哉の部屋に帰宅した。
 病院から本多を送った後、会社に戻り、残っていた業務をこなしているうちにすっかり遅くなってしまった。
 夕方近くに興信所から連絡が入り、澤村の件の報告を受けた。警察が監視カメラや病室を検証したものの、誰かが侵入した形跡がなく澤村の幻覚発作ということで、事件性なし、と片付けられたとのことだった。当の澤村は四栁の情報通り、命に別状はなかったが、精神的に錯乱をきたしていて長期の入院が必要とのことだった。

 疲労で身体が重い。御堂はジャケットとベストを脱ぎ、ネクタイを緩めて、リビングのソファに深く腰を掛けた。
 片手に持っていた茶封筒から中の書類を取り出す。興信所から送られてくる定期的な報告書が二通入っている。その内容に目を通した。
 一通目の報告書に記載されているのは、新しく見つかった身元不明死体の発見場所と特徴だ。全国で年間1000体以上、東京都内でも200体以上の身元不明死体が発見される。
 そして、もう一通は身元不明の迷い人台帳だ。こちらも新しく保護された全国の身元不明の迷い人の情報が記載されている。
 その全てに目を通し、特徴的に克哉と似ているものは、更に詳しく問い合わせる。だが、身元不明死体は身寄りがない高齢者がほとんどで、迷い人も認知症が疑われる高齢者ばかりだ。現在のところ克哉の行方に関する有力な手掛かりはない。
 気が滅入る作業を終えて、御堂はため息をついた。今回の報告書も興味を引くような情報はなかった。小さく折りたたんで、克哉のライターで火をつける。そのままローテーブルに置かれている灰皿で燃やした。
 妖しく揺らめくオレンジ色の火が大きくなり、そして、黒い消し炭を残してあっという間に消え去っていく。
――いつまでこんなことを続ければいいのだろう。
 先が見えない苦しみに苛まされる。
 例え死体でも克哉が見つかれば、自分は嬉しいのだろうか。
 御堂は克哉のライターに火を灯した。そっとテーブルの上に置く。
 克哉はライターに灯るこの火の様だった。手中に収めたつもりでも、決してその炎に触れることは出来ない。一旦、制御を失い燃え移れば、瞬く間に業火となり周囲を焼き尽くす。
 そして、全てを灰塵と化した後、自らも跡形もなく消し去るのだ。
 ライターの炎を見つめながら呟いた。
「佐伯、もし私が行方不明になったら、君は私を探してくれるか?」
 愚問だろう。御堂は笑みを浮かべた。
 克哉の自分に対する執着は御堂のそれの比ではない。きっと探し出してくれるだろう。
 ライターの揺らめく炎を眺める。その青い炎は克哉の薄く蒼い虹彩を思い起こさせる。
 無性に克哉に会いたかった。
 そっと目を閉じた。瞼の裏で炎の残像がちらちらと光った。

 人の気配がした。
 その人物は、ソファの背もたれに寄りかかったまま寝ている御堂の傍に静かに近寄った。
 目の前で屈みこむ。
 カチッと音がして、ライターの蓋が閉じられた。
――ライターの火、付けっ放しにしていたか。
 深い眠りに誘われていく意識の中で御堂はぼんやりとライターの事を思い出した。
 誰が消してくれたのだろう。
 御堂の真横のソファが人の重みで沈んだ。御堂の肩に手が回される。そのまま軽く引き寄せられた。
 抵抗せずに身を預けた。隣に座った人物の膝に頭を乗せ、身体を横にした。
 その膝枕の感触に、うっすらと意識が浮上する。目を開ければ消えてしまう幻だ。
 手が頭に添えられる。柔らかく髪を梳かれ頭を撫でられる。目を閉じたままその心地よい感触を味わう。
「佐伯か……」
『…ああ』
「寝室以外にも現れるんだな」
『どこにだって現れるさ』
「今日、本多君と澤村の病院へ行った。……なあ、昨夜、君は澤村のところに行っただろう。この部屋に来ないと思ったら」
『ああ、行った』
「佐伯、もう、澤村のところには行くな」
 克哉の言葉は聞こえなかったが、頭を撫でていた手が止まった。
『何故?』
「報復のために君は行ったんだろう。だが、もう、復讐の連鎖は嫌なんだ」
『あいつは佐伯克哉を刺した人間だ。あんたにも酷いことをしたんだろう?殺しておいた方がいい』
「私は今でも後悔している。なぜ、あの時、君を止められなかったんだろう、と」
『あの時?』
「私は君が怖かったんだ。君が澤村に対して行った行為が、再び私に向かうのではないかと。本来ならば、君が澤村に手を出す前に私が止めるべきだった。そして、その後も、しっかりと君と向き合うべきだったんだ。私が君を恐れて無視したりせずに、もっと早く話し合っていれば君を失わずにすんでいたかもしれない」
 夢の中だけの幻の克哉だと分かっているからこそ、自分の想いをそのまま吐露する。閉じた眦から涙が滲んで頬の輪郭を伝った。その涙は、克哉の膝を濡らす前にそっと指で拭われる。
「もう、報復なんかしないって約束してほしい。君がこれ以上遠くに行ってしまうのは嫌だ」
『俺は何処にも行かない。…だが、あんたが嫌がるならしない』
 克哉は小さく震える御堂の頭から身体を、服の上からその輪郭を愛おしむように掌と指でなぞる。
 その感情の昂ぶりが治まるまでゆったりと手が這わされる。言葉は伝わらなくても、そのぬくもりは伝わった。少しして落ち着いた御堂が再び口を開いた。
「佐伯。君は、私がいなくなっても、私の行方を探そうとするな」
『…?』
「探す方は辛いぞ。生死も分からない君をずっと手探りで探し続ける。出口のない真っ暗なトンネルにいるようだ。君のことが諦めきれない。だからこそ、苦しい。せめて、いなくなる前に一言別れを告げてくれれば、諦めもついたのに」
 御堂は力なく笑った。再び克哉の手が止まる。身体に置かれた手の暖かな重みを感じた。
『俺は……あんたが言うところの佐伯克哉なのかもな。自分の記憶は全くないが、あんたに関することは、どこか深いところの感情が揺さぶられる。あんたの記憶が俺の中のどこかに痕跡をとどめているのかもしれない』
 御堂の頬に克哉の手が静かに添えられる。御堂は目を閉じたままその手に頬を摺り寄せた。
「佐伯。キスしてくれ」
 頬に添えられた手が、御堂の顔を仰向けにして軽く持ち上げる。克哉の上体が深く屈みこみ、唇が押し当てられた。御堂は両手を克哉の頭にゆっくりと回して掻き抱く。再び血の香りが身を包み、口腔内に流れ込む。
 弾力のある髪の毛。柔らかく熱を感じる唇。生々しい濡れた舌。
 御堂はそっと薄目を開けた。
 部屋の人工的なライトに照らされ明るく輝くブラウンの髪。そして、光を反射する眼鏡のレンズ。
「佐伯っ!」
 御堂は思わず目を見開いて叫んだ。キスを交わしていたはずの唇が解放される。抱いていたはずの頭の感触が一瞬にして消え去った。その瞬間、御堂はソファで一人横になっている自分自身に気が付いた。
「佐伯!いるのか!」
 弾けるように起き上がり辺りを見渡す。明るく照らされたリビングのどこにも人影はない。
 そこに居るのは御堂一人だ。
 自分の頬を触れると、涙で濡れていた。そして、ローテーブルには蓋が閉じられたライター。
 御堂はライターを手に取った。まだ、ほんの少し熱が残っている。
――本当に夢だったのか?
 夢の中でも克哉の姿をあれ程はっきりと視たこともその感触を手にしっかり触れたこともなかった。今でもその姿は目に焼き付き、手にはその髪の質感が残っている。
――幻覚?
 夢と言うよりはリアルな幻覚に近い感じだった。確かにこの部屋で克哉の気配を感じたのだ。
「佐伯、君はいるんだな。この部屋に」
 返事はなかったが、微かに空気が動いた感じがした。
 自分だけにしか視えない幻覚なのだろう。疲労がたまっているせいか、克哉に会いたいという気持ちが強いせいだろうか。
 克哉の存在は夢の中だけの儚い存在から、夢と現実の狭間の幻覚になって、自身の前に少しずつ姿を現すようになったのだろうか。

 その日から、御堂は克哉の気配を度々感じ取るようになった。
 克哉は相変わらず夢の中にぼんやりとした存在として現れたが、克哉が夢に出てくる日はその存在を部屋の中に感じるようになった。そして、その気配は日が昇るとともに消え去る。
 それは、わずかな衣擦れの音であったり、微かに触れる感触だったり、ふとした血の匂いであったり、視界の隅に映るおぼろげな影であったりした。
 落ち着いて考えれば常軌を逸した状態ではあったが、御堂は気にしなかった。幻覚を幻覚だと認識している内は、問題ないと自分に言い聞かす。
 むしろ、克哉の部屋に帰ることが楽しみにもなってきた。
「ただいま」
 玄関で声をかけると、一筋の微風のように空気が動き、克哉の気配が答えてくれる。
 克哉の幻覚とあまり慣れあうのもどうかとは思ったが、日々の張りつめた緊張を和らげ孤独を癒してくれる存在になっていた。
 御堂は克哉の幻覚と暮らし始めた。

(11)
In the Dark Room(12)

「佐伯、私はおかしくなってきているのだろうか」
 夢の中。ベッドで幻の克哉に抱かれ、キスを交わしながら、御堂は呟いた。
『おかしくなった?』
「君の幻覚を感じるようになった。微かな気配だが。だが、君の姿をはっきり見てその声を聴いて、触れることが出来るなら、いっそのこと気が触れてもいいと思う」
 そこまで言って、クスクスと笑いを漏らす。
「おかしいだろう?幻覚だと分かっているのに。手掛かりの無い実体の君を探し求めるよりは、幻覚の君と過ごす方が幸せだと思うんだ」
『幻覚じゃないさ。住む世界が違うだけだ』
 克哉に抱きしめられる。御堂も克哉の背中に手を回した。シャツを通して触れる背中を強く引き寄せようと爪を立てる。一瞬、傷口に触ったかのように、克哉が身じろぎしたが、すぐに強く抱き返された。
「佐伯、今夜は酷くしてくれ。私を繋いでいた時みたいに。私に痕を刻み付けてほしい。君のものだという痕を」
『繋いでいた時…?』
「君はそういう趣向が好きだろう。遠慮しなくていい」
 その御堂の口調はむしろ楽しそうでさえあった。期待さえ込め艶を乗せて克哉を煽る。
『痕をつければいいのか?』
 克哉は御堂の唇に軽くキスを落とす。そのまま唇を首筋へと這わせて舐める。
 鎖骨の下まで辿り、そこをきつく吸い上げた。
「ああっ!」
 克哉にもたらされる痛みに声を上げた。その痛みから逃れようとする身体を押さえつけられ、キスマークを強く刻み付けられる。
 克哉は胸、脇腹ときつく吸い上げキスマークを刻み付けつつ、手で御堂の性器を扱き上げ昂ぶらせる。
 御堂の下肢を大きく割り、膝が胸につくぐらいまで腰ごと大きく持ち上げた。
 身体を大きく曲げられ、克哉の目の前に秘所をさらけ出す格好を取らされ、御堂は羞恥に喘いだ。
 克哉の目の前に、硬く質量を増したペニスとその下の袋、そしてひくつく窄まりが晒される。
 太ももの内側から足の付け根に向けて、克哉の唇と舌が辿る。舌が触れたところから、甘い疼きが性器に向かって走る。
「ふ、あっ…ああっ!」
 突如、足の付け根に近い太ももの内側をきつく吸い上げられた。下腿がびくんと痙攣する。
 身体を動かせないようにしっかり体勢を固定され、そこにきつく痕を刻まれる。
 敏感な部分を痛いほど吸われているのに、御堂の性器は更に張りつめ、先端から蜜があふれ出し、自分の腹や胸に滴っていく。
「うぅっ……あっ、……佐、伯っ」
 克哉の唇が薄い皮膚を離し、御堂の性器に向かった。筋が浮いた茎の裏筋を舐めあげ、軽く歯を立てられた。その痛みに呻くと、歯を外され、代わりに長い指が絡まった。蜜が溢れる小孔を指の腹でいじられ、指先をねじ込むように押しつぶされ拡げられる。
「――くぅっ」
 触れられることのない敏感な粘膜に刺激を与えられ、鋭い痛みが痺れるような悦楽を伴って身体の中心を走る。
 同時に、外気に晒されている自らの窄まりに熱く濡れた舌が差し込まれ、濡れ音を立てながら襞を伸ばされた。
「いっ…佐、伯…んんっ!」
 疼くような痛みと締め付けられるような快楽に翻弄される。きつい体勢を取らされ、下肢が震えるが、それ以上により強い刺激を求めていた。克哉に顔を覗きこまれる気配がする。
『どうして欲しい?』
 変わらずその言葉は聞き取れなかったが、何を訊かれているのか分かった。
「挿れて、くれ……早く…ぁっ」
 その御堂の言葉に、克哉の人影が嗤った気がした。
 身体を二つに折ったきつい体勢のまま、熱い剛直を真上から突き入れられる。ひざ裏から腰に体重がかけられ、身体が折られるような痛みと結合部から溢れ出る快楽に身体の芯が犯される。
「ああっ、…ふっ……いいっ!」
 克哉の律動に合わせて、喘ぎが漏れる。自身の内腔も狂おしいほどの蠕動で克哉を求めていた。性器から白濁が混ざった粘液がひっきりなしに滴り落ちていく。
 散々抉られた後、自らを貫いていた屹立を一度、引き抜かれて、肘と膝をつかされ、四つん這いの体勢にさせられた。
 そのまま後ろから穿たれ律動が再開される。背中にキスを落とされ、そのまま強く吸い上げられる。
「佐伯っ、もっと…来てくれっ」
 克哉は御堂の求めに応じて、四つん這いの体勢のまま、片膝を持ち上げ、その繋がりを更に深くした。大きな抽挿で根元まで突き入れられるその刺激に耐え切れず、御堂は手足の力が抜けてベッドに伏せるように崩れ落ちた。
 穿たれた腰と抱えられた片膝だけが浮いている。克哉の手が前に回され、蜜に塗れた性器を濡れ音を立てながら扱かれる。
「だめ、だ…もう、ああっ」
『イきそうか?』
「はぁっ……佐伯っ!」
 上体を思い切り捩じり、克哉の方に顔を向ける。キスをねだるその所作に、克哉は身体を覆いかぶせ喘ぐその唇に自らの唇を重ねた。
 律動の度に、唇と絡めた舌が離れ、また、出会う。淫蕩の波が引いては、また、より強い波となって押し寄せる。荒い息を吐きながら、御堂の唇が大きく震える。
「愛している、克哉っ」
『…あんたのことは嫌いじゃない』
 御堂は、身体を大きく反らせて震わせると、克哉の手の中に熱い白濁を迸らした。そして、御堂の中にも滾った熱が吐き出され、その熱が体内に染みこむのを恍惚と感じながら意識が遠のいた。


 再び朝が来る。代わり映えしない日の光。御堂は次第に朝が嫌いになっていた。
 朝は御堂を覚醒させる。夢を与え甘く包み込んでいる闇を消し去るその光は、克哉の存在自体もかき消してしまう。
 御堂は項垂れながらベッドから身を起こした。このまま朝がこなければいいとさえ思う。
 朝から身体が重く、倦怠感が抜けきらない。夢の中に克哉が出てくる翌朝はいつもそうだ。その身を熱いシャワーで叩いて目を覚まさせるために、バスルームに向かった。
 水圧と温度を高くして、頭からシャワーを浴びる。段々と意識がはっきり覚醒してくる。
 目を開けて、バスルームに備え付けられた鏡を見た。朝にしては憔悴している顔が映っている。
 顔から身体に視線を滑らせる。ふと、その胸に目をとられた。
――痣?
 鏡から目を離し、直接自分の胸を確認した。鎖骨の下にある赤紫の痣は昨日までは気付かなかった。
――キスマーク?
 昨夜の夢が思い起こされた。心臓が弾んで早鐘を打ちだす。
 自分の全身を隈なく観察した。そのキスマークは胸だけでない。背中、太ももの内側、脇腹などあちらこちらに付けられていた。
「なんだ、これは?」
 夢の中で付けられたキスマークが現実のものとなることなど、あるのだろうか。
 急いでバスルームから出た。バスローブを纏って乱暴に水滴を拭い、携帯を手に取った。
「四栁。朝からすまない」
『…御堂か?こんな朝早くからどうした?』
「聞きたいことがある」
『患者の話ならもうしないぞ』
「そうではない。教えてほしいのだが、夢の中で付けられた痕、例えば傷が実際に身体につくことなんてことがあるのか?」
『…随分と突飛な話だな。具体的にどんな傷痕だ?』
 御堂は言い淀んだが、隠してもしょうがないだろう、と正直に話す。
「その、キスマークみたいな痣だ」
『夢の中でキスマークを付けられて、起きたら同じものが身体についていた、ということか?』
「ああ」
 電話の向こうで、拍子抜けしたような笑い交じりの息が漏れる。
『どうした。サキュバスにでも襲われたのか?』
「サキュバス?」
『淫らな夢を見させて、人間の精気を吸い取る悪魔だそうだ。女性型がサキュバス、男性型がインキュバスというらしい』
――それなら、佐伯はインキュバスだろうか。
 淫らな夢を見させる克哉は、四栁の言うような存在だったとしても不思議ではない気もする。
 四栁の口調が真面目なものへと変わった。
『…というのは、冗談だ。僕たちの世界でよく使われる格言を教えるよ。“ひづめの音を聞いたら、シマウマを探すな。馬を探せ”。夢が現実になるなんて奇想天外な可能性を論じるよりも、現実を夢だと思いこんでいるか、知らず知らずのうちに夢に現実を合わせているかのどちらかだな。キスマークはうっ血痕だ。同じような痕は、キスでなくともつねったりすれば作れる」
「現実を夢だと思い込んでいる、か。それだとどれだけいいか…」
『御堂?…なあ、会社が大変なことになっているのは分かるが、しっかり寝てないんじゃないか?睡眠導入薬の一つや二つ、処方するから、病院に顔を出さないか』
「ああ、考えておく。…朝早くから、すまなかった。ありがとう」
 四栁の話を上の空で聞き流し、御堂は電話を切った。
 自身の身体を確認する。散らばっているキスマークの痕。
――夢に現実を合わせているのか。
 記憶にはないが、無意識のうちに自分で自分の身体に痕を付けたのだろうか。
「いよいよ私も気が触れたか」
 自分自身の精神状態が正常かと問われると、自信は持てない。
 夢の中だけで会っていた克哉が、今では現実世界の幻覚となって、この部屋で御堂と一緒に過ごしている。
 幻が現実を侵食してきていた。そして御堂を徐々に呑み込んでいく。
 正気を失い狂気に捉われた澤村の顔を思い浮かべた。
――私もああなるのだろうか。
 狂気の世界が真っ赤な口を開けて御堂を待っている。
 だが、その世界には克哉がいる。それは、自分にとっては悦びが約束された楽園なのかもしれない。
 可笑しさがこみ上げる。毎朝、日の光を浴びて現実に打ちひしがれるよりも、夜が永遠に続く暗い部屋で幻の克哉と過ごすことの方がどれだけ魅力的なことだろうか。
 抑えようにも乾いた笑い声が漏れ、肩が震える。御堂は誰もいないその部屋で一人笑い続けた。


「…さん?御堂さん?」
 自分を呼ぶ声が聞こえる。御堂はハッと顔を上げた。心配そうにこちらを覗き込む藤田と眼があった。
 会社のデスクの椅子に深く腰を掛けたまま、意識が朦朧としていたようだ。
「あ、ああ。すまない」
 慌てて手にしていた報告書に目を落とす。だが、どうにも文字に焦点が合わず、こめかみに手をあてつつ何度も瞬きをしては目を凝らす。
「大丈夫ですか?」
 藤田が不安と気遣いを全身から滲みだして御堂の方に顔を近づけた。御堂はわずかに椅子を引いて藤田の視線から逃げる。
「大丈夫だ。少し気が逸れていた。この報告書、今日中にみておくから」
 なんともない、と笑みを浮かべて安心させるように落ち着いた口調を作る。藤田を下がらせると、気付かれないようにため息をついた。
 ここ数日は万事この調子だった。疲れが取れず集中力も途切れがちだ。仕事も進まず、それをこなすために残業をし、さらに疲労をためて、と悪循環が続いているのは分かっている。
 再び報告書に目を落としたが、今度は文字がチカチカとひかり、頭がずきずきと痛みだす。
 己を叱咤激励しながら、なんとか最後のページまでたどり着いた。だが、とても内容を把握したとは言い難かった。
 休みをとった方がいいのだろうか。早く克哉がいるあの部屋に戻りたかったが、克哉は夜にならないと現れない。
 弱気になった己を励まし、御堂は再びデスクに向かった。

 夜も遅く、やっとのことで今日の業務を終え、御堂は克哉の部屋に向かうためにエレベーターに乗り込む。部屋につくまでもう少しの辛抱だ。
 重い足を引き摺り、克哉の部屋の前までたどり着く。ポケットに入れていたカードキーを取り出し、鍵を開ける。縋る思いでドアノブを引いて、部屋を開けた瞬間、暗闇の中に克哉の姿が視界に映った気がした。
「佐伯?」
 次の瞬間、視界が回った。克哉の姿を捉えようにも、視界は戻らない。むしろ、ぐらぐらと地面が揺れ、視界に映る全てが輪郭を失い、その形がぼやける。
 せめて、と克哉を視た方向に手を伸ばした。その手は空を掴み、意に反してそのまま落ちる。足も身体も、重力に引きずられる。視界が暗転し闇に沈む。身体が硬い床に打ち付けられた。

(12)
In the Dark Room(13)

 克哉はドアノブが回される音を聞き、玄関に向かった。
 最近の御堂は帰りが遅い。克哉の方が早く部屋に来て一人で佇み御堂を待っている事の方が多い。
 待つことは苦にならない。この部屋の居心地は悪くなかった。
 そして、御堂と過ごす時間も悪くない。最近の御堂は起きていて意識がある状態でも、時折克哉の気配を感じるのか、克哉の方に振り向き、話しかけてくることさえある。
 ドアが開いた。
 御堂が中に入ってくる。その瞬間、異変を感じ取った。
 その動きは緩慢で、表情は虚ろだ。顔を上げた御堂と眼があった気がした。
「佐伯?」
 御堂が自分に向かって手を伸ばす。その手を取ろうとしたときに、御堂の身体は力を失って床に派手な音を立てて崩れ落ちた。
『おいっ!』
 駆け寄って御堂の意識の在処を探る。その意識は混濁し、沈みかけていた。身体に触れようにも、御堂の実体に触れることは叶わず、その伸ばした手は体を覆う膜に弾かれた。
――どうすればいい?
 こうなると克哉は無力だ。こちら側の人間と重ね合わせられる領域はごくわずか。相手に認識されなければ、なんら影響を与えることは出来ない。
 克哉は倒れた御堂の周囲を見渡した。うつ伏せに倒れたままの御堂。近くには手から滑り落ちて中身が散らばった鞄。その散らばった物の中に、携帯を見つけた。
 試しに携帯に触れてみる。スマートフォンのその画面は克哉の指先に反応した。
 だが、どこに、誰に、連絡をすれば良いのか分からなかった。
 発着信の履歴を確認する。御堂の名前が並んでいる。そして、克哉は一人の名前を見つけた。
――本多憲二…ホンダ?
 その人物には心当たりがあった。良い印象はなかったが、御堂の口からもその名前をきいたことがある。
 克哉は発信のボタンを押した。スピーカーモードに切り替える。不思議と克哉の指先はこのスマートフォンの操作を知っていた。
 数回の呼び出し音の後に、スピーカーから男の声が大きく響いた。その声には聞き覚えがあった。公園であったあの男の声だ。
『克哉?克哉か!?』
 克哉、と呼ばれたことに訝しんだが、その言葉に応えはしない。どうせ聞こえないからだ。電話の声は少しの間沈黙し、独り言の様なつぶやきに変わった。
『いや、克哉の携帯、ということは……御堂さんか?…御堂さん?御堂さん!』
「うっ…」
 名前を呼びかけるその声に御堂がわずかに反応し目を薄く開いた。声が聞こえる方に顔を向ける。何か応答しようとしたが、それは弱々しい呻き声となって声帯をわずかに震わせただけだった。だが、それだけで異変は電話の相手に伝わったようだった。
『御堂さん?大丈夫ですか!?今、どこに…克哉の部屋ですか?今向かいます!』
 電話の向こうから慌ただしい物音が響く。御堂の返事を確認せずに、こちらに向かってくるようだ。
『あんた、大丈夫か?』
 克哉は御堂の頭近くに屈みこんで、その顔を覗き込んだ。生気を失った青白い顔、わずかに開かれた瞼から覗く瞳孔は焦点が定まらない。それでも、克哉の気配をわずかに感じ取ったのか、必死に克哉の方に視線を向けようとする。
「さ、えき…」
 掠れたような、絶え絶えの息が漏れ出たようなその声は、克哉の感情を揺さぶった。
 胸の奥底から、得体のしれない痛みを伴うしこりの様な感情が生まれる。
 何かをどうにかしなくてはいけない、と焦燥に駆られるが、何も出来ない自分がもどかしく腹立たしい。
 克哉の方に差し伸べられたまま、力を失って床に伸びる指先に手を重ねた。強く触ると弾かれる。そっと触れた指先は、薄いが頑丈な膜を通して触っているようであり、その肌の質感も熱も伝わらない。
 この薄い膜一枚で、克哉と御堂の世界は隔たれているのだ。この膜が無くなった時、二人の世界は重なり合うことが出来るのだろうか。そして、その時、二人の関係はどうなるのだろう。
 その時だった。リビングのインターホンのチャイムが鳴り、来客を告げた。
『待っていろ』
 そう御堂に告げてリビングのインターホンを確認する。ロビーフロアに到着した本多が心配そうな顔をしてカメラを覗き込んでいる。
 迷わず電気錠の開錠ボタンを押した。ロビーの自動ドアが開き、本多がそちらに目を向けた。カメラの視界から本多が消え去る。
 後少しで本多がこの部屋にたどり着くだろう。あの男は克哉の姿が視える。そうなると色々厄介だ。
 克哉は部屋の闇に溶け込み、その姿を隠した。


「御堂さん!」
 本多は克哉の部屋のドアを開けた。鍵はかかっていなかった。
 ドアを開けてすぐに玄関で伏せった状態で倒れている御堂の姿が目に入った。慌てて玄関のライトをつける。
「大丈夫かっ!?」
 御堂の上体を抱え仰向けにさせる。揺さぶると御堂がわずかに目を開けた。その焦点が揺らめく。
「佐伯…?」
「俺です。本多です」
「本多君か…」
 瞼が更に開いて焦点が本多の顔に固定された。意識が戻ってきたようだ。本多は少し安堵してため息をついた。
「救急車呼びますか」
「いや……大丈夫だ」
 御堂は小さくかぶりを振った。だがその声は張りがなく弱々しい。本多は一息に御堂を抱え上げた。
「何を…っ」
 その身体が強張ってわずかに抵抗を示すが、気に留めずリビングのソファまで運び横にする。リビングの電気を付けた。
「水、持ってきます」
 キッチンの冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを取り出し、ふたを開けて御堂に手渡す。上半身を支えて起こそうとしたところで、自分でできる、と仕草で拒否された。
 明るい部屋のライトの下で見る御堂の顔は、疲弊と憔悴でくすみ、青白さが一層目立つ。以前会った時よりもさらにやつれたようだ。
 本多から手渡されたペットボトルを何口か口に含み、御堂は一息ついた。先ほどよりも、表情と視線がいくらか定まってきたようだ。頼りない視線で辺りを見渡す。
「…本多君。すまない。心配をかけた。突然眩暈がしてね」
「びっくりしましたよ。克哉の携帯から連絡がきたものだから」
「…佐伯の携帯?…私がかけたのか?」
 御堂が訝しんで聞き返す。本多は玄関に戻り、落ちていた携帯や小物と鞄を回収し御堂に手渡した。
 克哉の携帯の発信履歴を御堂が確認する。確かに、本多への発信履歴が残っていた。
「記憶にないが、私がかけたんだろう…」
 気怠そうに御堂が呟いて、ソファの背にもたれかかった。
「食事、ちゃんと取ってないんじゃないですか」
「…そうだったかも知れない」
 他人事のように返事をする御堂に本多は眉をひそめた。先ほど開けた冷蔵庫、食料品の類は全く見当たらなかった。
「何か作ります。待っていてください」
「いや、大丈夫だ」
 御堂の制止を振り切って、本多はキッチンに向かった。キッチンの戸棚を片っ端から開けていく。克哉が自炊をしないことは知っていたが、案の定、大した食料品は残されていない。
 それでも、レトルトのご飯とフリーズドライのスープを見つけ出して、小鍋でお粥を作った。見た目も味も大雑把な料理ではあるが、独り暮らし歴の長い本多にとっては造作もない。
 匙を付けて、リビングのローテーブルに粥を持っていく。御堂は食欲はなさそうだったが、本多の好意をないがしろにするのも悪いと思ったのか、礼を言って匙を手に取った。
「…昔、MGN時代に過労で倒れたことがあってね。その時は、佐伯に部屋まで運んでもらったんだ」
「そんな事があったんですか。…御堂さんはその頃から克哉と?」
 突然の不躾な本多の質問に、御堂は小さく笑ってかぶりを振った。
「あの頃は佐伯を嫌っていたよ。むしろ憎んでいたね」
「えっ……」
 思いがけない御堂の返答に本多は言葉をなくす。だが、御堂もそれ以上は話そうとせず、どこか遠いところを見ているようなぼんやりとした視線を彷徨わせている。
 二人の間を沈黙が支配する。その気まずさから本多も視線が落ち着かなくなったが、ふと思い出して、克哉のスマートフォンと一緒に持ってきたライターを指差した。鞄から一緒にこぼれたようで、鞄近くに転がっていたライターだ。
「そのライター、克哉のですよね」
「…ああ」
 御堂がローテーブルに置かれた克哉のライターに目を向ける。そして、慈しむようにそっと持ち上げた。
「佐伯の携帯とこのライターが公園に残されていたんだ」
 そのあらましは本多も知っていた。克哉の携帯だけでなくライターまで常に持ち歩く御堂の克哉に対する想いに触れ、心が締め付けられる。
「…そう言えば、克哉、ある日、突然タバコを吸いだしたんですよ」
「突然?」
「ええ、MGNの御堂さんのところに初めて訪れた位だったかな。突如、眼鏡をかけてタバコを吸い出して、性格まで変わって。まるで中身がそっくり入れ替わったような。それまでは大人しい奴だったのに。あの時は訳が分からなかったなあ」
 クスリと御堂が笑みを浮かべた。
「佐伯については私も分からない事ばかりだよ。ある日突然、人が変わって、ある日突然、さよならも言わずに姿を消したんだな。佐伯に振り回されてばかりだ」
 御堂がクスクス笑いだす。だが、その眼は昏いままだ。その乾いた虚ろな笑い声に本多は不安を感じた。
――この人は、もうギリギリのところにいるんじゃないだろうか。
 明らかに生気を失った顔色。このまま見過ごすことは出来ない。かと言って、同僚でも部下でもない本多の出来ることはほとんどない。自身の不甲斐なさに歯噛みをする。
――克哉の野郎、御堂さんをこんな状態にしてどこほっつき歩いてるんだ!
 公園で出会った時、克哉を逃してしまったことが悔しい。次会ったら、殴りつけてでも引っ張ってこよう、と誓う。
 だが一方で、克哉なら御堂をこんな風に放り出して遁走することなどあり得ない、とも思う。本多が公園で会った男は本当に克哉だったのだろうか。
 だとすると本物の克哉はどこで何をしているのだろう。姿を現せない理由でもあるのだろうか。
 本多はその理由を考え、今まで何度も頭で否定してきた最悪の可能性に再びたどり着き、急いで頭を振ってその考えを拭い去った。
――それにしても…。
 克哉の部屋に入ってからずっと、本多は居心地の悪さを感じていた。
 この部屋には克哉がいたころ何度か遊びにきたことはあったが、その時と大分印象が違う。御堂と二人きりという環境がそう感じさせるのだろうか。
 いや、それだけではない気がした。部屋に足を踏み入れてから片時も離れず、誰かの視線が纏わりついているのだ。それも、決して歓迎されていない。敵意を孕んだ視線だ。
 周囲をさり気なく伺うが、部屋の中で特に変わったところはない。だが、この場に長居をしてはいけないと本能が告げていた。
「本多君。もう大丈夫だから。今日はありがとう」
 落ち着かない様子の本多に御堂が声をかけた。はっと本多は我に返った。
「あっ、いや、こんなことお安い御用です。俺にできることがあれば何でも言ってください!」
「ありがとう」
 本多の元気な声に、御堂がほほ笑んだ。その頬には少し赤みがさして、少しは回復したように見えた。
 本多はソファから立ち上がり、自分の鞄を持って玄関に向かった。御堂も一緒に立ち上る。
 慌てて本多は見送りを遠慮したものの、御堂は律儀に玄関までついてきた。
「それじゃあ。御堂さんもしっかり休んでください。時々、飯の差し入れしますから」
「気遣い感謝する。もう遅い時間だ。気を付けて帰ってくれ」
 玄関に置いてあった靴べらを借りて革靴を履く。御堂に挨拶しようと顔を上げた瞬間、本多は目を見開き息を呑んだ。
 目の前に立っている御堂。その背後、廊下の突当りにある開けっ放しされたドアの向こう、リビングの中に人影が立っていた。
 リビングの明るい人工の光を浴びながらもその人影の周囲は光が吸い込まれているかのように暗い。そして、その人物を本多はよく知っていた。
 その眼鏡をかけた人物は本多と眼が合うとニイと口角をゆがめて嗤った。闇を纏い禍々しさを滲みだす笑みだ。
「克哉…っ!」
 御堂の背後に向かって放った言葉に御堂が反応した。本多の視線を追って、御堂が振り返る。
「何だ?どうした?」
 本多は御堂に目を移した。本多の視界にはっきりと映る克哉の姿を御堂は捉えられないようだ。しきりにリビングの方に視線を向けせわしなく動かす。
「御堂さん、見えないんですか?…克哉があそこに」
 本多が震える指を克哉に向けた。克哉は本多を見据えたまま嗤っている。凍えた光を湛えた双眸、そして傲慢ともいえる表情を浮かべて。
 本多の指先を御堂は視線でたどったが、御堂の眼にはいつもの明るいリビングしか映らない。
 御堂は本多の方に顔を戻す。本多の双眸はリビングを凝視したままだ。
「本多君。君には視えるのか?佐伯の姿が…!佐伯はいるんだな。この部屋に」
 その御堂の口調には隠し切れない喜色、そして本多に対する羨望がにじみ出ていた。
 本多は再び御堂に視線を戻した。御堂の頬は紅潮し、興奮が見て取れる。本多は背筋が凍えるのを感じた。
 リビングに佇む克哉。あの姿は公園で見た姿と変わらない。だが、なぜ、今の今まで気づかなかったのだろう。あの克哉が身にまとう雰囲気はとても生きている人間のそれではない。闇に映える血の気を感じさせない白い肌。レンズの奥の凍え切った眼差し。そして御堂には目をくれず、本多に対して射貫くような冷酷な視線をぶつけてくる。
 だが、顔面蒼白になっている本多をよそに、御堂はむしろ興奮気味に克哉の存在を本多に確かめたがっている。
――あれは、克哉、ではない。そして、御堂さんは…。
「御堂さん!あんた、あれの、あの“克哉”の存在に気付いていたのか?」
「…ああ。私は、佐伯と暮らしているんだ。この部屋で。自分だけの幻覚かと思っていたが、…違うのだな。佐伯は確かに存在するのか」
 陶然とした表情を御堂は本多に向けた。悦びにその顔が染まり、その唇は紅く震える。
 思わず本多は御堂の手を掴んで引っ張った。
「御堂さん!この部屋から出るんだ。ここにいちゃいけない!」
「何をする!離せっ!」
 御堂は抗って、本多の手を振りほどこうとする。その手を更に強く掴んで引っ張った。
「御堂さん。あれは“克哉”なんかじゃない!目を覚ませ!あれはまるで…」
 悪霊だ。そういいかけて本多は言葉を呑み込んだ。御堂の怒りを込めた視線が自分に向けられていることに気付いたのだ。そして、御堂の背後では、克哉がその闇が零れるような笑みを益々深めていく。
 本多は目を瞑って首を振った。御堂はこの部屋に、そしてこの部屋に巣食う克哉によく似た得体のしれないモノに捉われている。御堂の体調不良も全てここに原因があるのではないか。
「御堂さん、俺のいう事を聞いてくれ!この部屋は、危険だ」
「君に何が分かる?私を離したまえ」
 御堂の声までも冷たくなり、本多を突き放すような頑な態度になる。本多の言う事に耳を貸す気は一切無いようだ。そして、あのリビングに立っている何かを克哉と信じ切っている。
――あれは、克哉なのか?
 本多はそうは思えなかった。あの禍々しさしか感じない存在が克哉であるはずがない。それでも御堂がそう信じるなら、と本多は御堂の背後に向かって叫んだ。
「お前っ!克哉なのか?克哉なら、この部屋から出ていけ!直ちに消えろ!」
「やめてくれっ」
 御堂が本多を制止する。それでも、本多は続けて叫んだ。
「お前が本当に克哉なら、早く御堂さんを解放しろ!お前のしていることは…っ」
「私たちのことは放っておいてくれ!」
 御堂が悲鳴に近い声を上げながら、なんとか本多をドアの外に追い出そうとする。
 その弱っていた身体のどこに隠されていたのか、御堂の必死の力を何とか押し返しながら、本多は克哉に向かって声を張り上げた。
「克哉!お前は御堂さんを愛しているんだろ!愛するってことは、その人の幸せを願う事だ!お前が今やっていることは、御堂さんを苦しめているだけだ!」
 リビングに佇む克哉の眉が顰められ、笑みがすっと消えた。本多を見据えるその顔が苦々しげに歪む。更に本多が言いかけたところで、本多は御堂に強引にドアの外に追いやられた。
「出ていってくれ!」
「御堂さん…」
 御堂がここまで怒ったのは見たことがなかった。唖然としているうちに目の前でドアが閉められ、鍵がかかる音がした。
「御堂さん…。克哉…」
 本多はドアの前で立ち尽くした。

(13)
In the Dark Room(14)

 本多を追い出した後、御堂はドアに鍵をかけてその場にへたり込んだ。
 克哉はその背後に近づく。しばしの間、御堂は乱れた呼吸を整え、そしてふらふらと立ち上がり振り返った。その視線は相変わらず克哉を捉えることはない。
 だが、その言葉は克哉に向けられたものだった。
「佐伯。やっぱり君はこの部屋にいるんだな」
『ああ、いるさ』
 その言葉は御堂には届かない。だが、御堂は嬉しそうに笑った。
「私の頭の中だけの幻覚かと思っていた。…そうか、君はここにいるのか」
 喜色を浮かべる御堂を克哉は複雑な面持ちで眺めた。
 先ほどの本多の言葉が棘のように心の奥底に突き刺さっていた。
『愛するってことはその人の幸せを願う事だ』
――“佐伯克哉”は御堂を愛していたのだろうか。そして、今の“俺”は御堂をどう思っているのだろう?
 頼りない足取りでリビングに戻る御堂を見守りながら、克哉は自問自答した。

 ベッドで寝入った御堂の傍らに寄り添い、背中からそっと抱きしめる。起きている御堂を触れることは出来ないが、寝ていて意識のバリアが緩む時はその身体に触れることが出来る。
 御堂が身じろぎをして、夢の中で目を覚ます。
「佐伯か」
『ああ』
 そのまま、抱きしめ続けた。一向に動こうとしない克哉に御堂が耐えかねて、体を捩る。
「…今日は、しないのか?」
『弱っているあんたを抱いても面白くない』
 克哉の言葉は聞き取れずとも、克哉が動く気がないことは伝わった。御堂は小さく息を吐いて、わずかに笑みを浮かべた。
「あの男の言葉を気にしているのか?…いいんだ、佐伯。私と君のことは彼には分からない。組み伏せられ、凌辱され、監禁されたところから始まった関係なんて、誰にも理解されないし理解してもらおうとも思わない」
『…そうだったのか』
 とはいえ、今の克哉も同じようなことを御堂にしたのだ。佐伯克哉が自分だとしたら十分にあり得るだろうと納得する。
「だが、羨ましいな。彼、本多君は君の姿を視ることが出来るのか。私も、もう少しで君の存在を捉えられそうな気がするのに」
 そこまで言うと、御堂は俯いた。
「なあ、佐伯。君が私の幻想ではなくて、ここにそんな姿でいるということは、君は……死んでしまったのか?」
『……どうだろうな。俺には分からない』
 御堂には届かないその言葉を克哉は言い淀んだ。
 “死”が生命活動の停止を意味するなら克哉は生きている。その心臓は鼓動を刻んでいるし、その身体には赤い血が流れている。ただ、御堂の言う“死”が同じ世界に存在しなくなることを指すなら、自分は死んでいるのだろう。
 御堂の肩が細かく震えだす。そしてその口から引き攣る様な嗚咽が漏れる。
『泣いているのか?』
 その頬に静かにキスを落とした。塩気を感じる液体を拭う。だが、それが刺激となって堰を切ったように次から次へと涙があふれ出した。
『泣くな、御堂』
 御堂は“佐伯克哉”のために涙を流している。だが、何故か“佐伯克哉”の記憶がない自分自身の心が締め付けられる。
――“俺”は、御堂のために涙を流すことが出来るのだろうか。
 克哉はその腕の中で震える御堂を抱き続けた。

――もうすぐ、夜が明ける。
 あれからどれくらいの時間が経っただろう。御堂を抱きしめたまま克哉は一晩を過ごした。そろそろ戻らなくてはいけない。御堂は腕の中で静かに寝ているようだった。
 克哉は御堂のベッドから抜け出そうとしたところで、御堂に手首を掴まれた。
「どこへ行く?」
『あんたは知らなくていいところだ』
「行くな」
『駄目だ。戻らなくてはいけない』
「私を置いて行かないでくれ」
『あんたは連れていけない』
 無視してベッドを出ようとした克哉の手首を、御堂にきつく掴まれた。爪を立てられて鋭い痛みが走る。克哉は動きを止めて御堂を振り返った。はっと御堂は克哉の手首を離す。
「…すまない」
『いいさ』
 俯いた御堂の顎を掬いあげて唇を重ねる。御堂の下唇に軽く歯を立て、唇を濡らして離す。
「また来る」
「…ああ。ここは君の部屋だ。待っている」
「いいや、ここはあんたの部屋だ」
 御堂は、小さく笑うと力なく首を振った。
 自分の部屋、と言われても実感はなかった。居心地良く感じるのは、そこに御堂がいるからだろう。
 踵を返して部屋を出たところで、ふと足を止めた。
――今、俺の言葉が通じた?
 気になったが、もう残された時間はない。
背後で再び項垂れる御堂を振り返りはしなかった。

 あの赤く暗い部屋に帰らなくてはいけない。
 あの赤い部屋の入口はどこにでも現れた。帰ろうと思うと、街中のふとしたところに表れる。その扉は、古く重厚な金属の両開きの扉の時もあれば、華美な装飾が施された木製の扉のこともある。また、時に、錆びた味気ない鉄の扉の時もあった。そして、その扉には『CLUB R』と書かれた看板がかかっている。その看板の材質も字体も様々だ。単なる赤いペンキの落書きで扉に書かれていたこともあった。
 だが、どんな扉であろうとも一目見れば、それがあの部屋に通じる扉であるという事は分かった。おぼろげな周囲の風景の中で、その扉は妙に鮮やかに際立つのだ。そして、克哉を呼んでいる。
 克哉は玄関から部屋をでた。そして、一歩踏み出した瞬間、驚きで足が竦んだ。玄関のドアを開けたその目の前に、その扉が存在したのだ。克哉が今出てきた部屋の扉と同じ材質で同じ造りの扉。ただ、違うのは真鍮製のプレートが掲げられている。
『CLUB R』
 克哉が今まさに戻ろうとしていた赤く暗い部屋に繋がる扉だ。ただ、妙な寒気を感じた。今まで、御堂のところから戻る際、こんなにもこの部屋の近くにCLUB Rの扉が現れたことはなかった。大抵、街の中を彷徨っているうちにふと目にしたところにその扉が現れるのだ。
 扉の冷たい感触をその手に感じながら克哉はその扉を開けた。わずかな抵抗でその扉が開く。そして、赤く暗い世界が視界に飛び込んできた。
 そのまま中に歩みを進めると程なく、赤いカーテンに包まれたあの部屋にたどり着いた。
 中には金髪の男が一人、克哉を待っていた。にこりと微笑まれる。
「おや、今日は随分と遅かったですね」
「…まだ、夜は明けていない」
「これ、私が付けた傷ではないですね」
 Mr. Rが革手袋をはめた手で克哉の手首を掴んで持ち上げた。そこには先ほど御堂に掴まれた指と爪の痕が赤い痕となって克哉の手首に浮き上がっていた。
「さあ、な」
 大して興味もなさそうに克哉は応えた。Mr. Rに刻み付けられる傷に比べれば無いも同然の痕だ。
「…まあ、いいでしょう」
 Mr. Rは意味ありげに克哉を見据えた。
「そうそう、言い忘れましたが、あちらの世界の人間と深く関わるのは、よく考えた方がよいですよ」
「なぜだ?」
「我々と関わるという事は、こちらの世界に引き寄せられるという事です。だからこそ、こちらの世界を感じることが出来る人間は、我々を避けようとする。賢く正しい選択です。我々と深く関われば関わるほど、こちら世界に染まり、同化していきます。我々の姿を視て、我々の声を聴くことが出来るようになる。…それとも、こちらの世界に招きたい方でも?」
 冷たい笑みを湛えながらMr. Rは耳元に唇を寄せて克哉を唆す。いつの間にかMr. Rが手にした鞭の先端が、克哉の喉から胸、腹、とシャツの上から身体の中心をなぞって下に向かう。だが、その鳥肌を立たせるような感触も克哉の意識から除けられていた。
――御堂。
 すうっと背筋が凍えた。

(14)
In the Dark Room(15)

「御堂さん、本多さんからお電話です」
「…手が離せないと伝えてくれ。必要があれば私からかけ直すから取り次ぐな」
 電話を取り次ごうとした藤田は御堂の言葉に驚き、肩を竦めて見せた。二人の間に何が起きたのか知る由はないが、あまり穏やかな状況とは言えないようだ。
 申し訳なさを口調に乗せつつ、御堂の言葉を本多に伝える。電話の向こうから大きなため息が聞こえた。藤田は受話器に手をあて、声を潜めた。
「御堂さんと何かあったんですか?」
『うーん。ちょっとね。…御堂さんの調子どうだ?』
 本多にしては歯切れが悪い。
「調子ですか?いつもと変わりませんが」
『それはいつも通り悪いってことだろう。ちゃんと見ておいてくれよ』
 そう告げるといささか乱暴に電話が切れた。藤田はもう一度肩を竦めて受話器を置いた。
 御堂は、電話を切った藤田の姿を一瞥し、再びデスクに向かった。
 朝から何度も御堂の元に本多から電話がきていた。携帯の着信をことごとく無視していると、ついに会社にかかってきたのだ。だが、藤田を通じて電話に出る気がないことを伝えると、昼過ぎには電話攻勢が落ちついてきた。
 本多のおかげで、克哉の存在を確かめることが出来たが、本多は克哉の存在を肯定的にとらえていないことは明白だった。
 なぜ、放っておいてくれないのだろうか。
 御堂は苛立たし気に携帯の着信履歴を消去した。これ以上、御堂と克哉の間の邪魔をされてはかなわない。一度はっきりと言わなくてはいけないだろう。
 午後になり、再び御堂の携帯に着信が来た。また、本多だろうか、と画面を確認すると、克哉の実家からの着信だった。慌てて電話に出る。社員の目に触れないよう、別室のミーティングルームに入った。
 かけてきた相手は克哉の父親だった。そして、告げられた言葉に御堂は言葉を失った。
「…そんな、いきなり言われましても。何とかお願いできないでしょうか」
 御堂の縋る言葉も功をなさなかった。茫然として電話を切る。
 そして、その指で本多に電話をかけた。数回の着信音のあと、本多が半ば呆れたような声で電話に出た。
『御堂さん。俺からの電話には出てくれないのに、一方的だな』
「本多君。今、佐伯の親から連絡が来た。手を回したのは君だろう」
 怒りで声と手が震える。先ほどの電話で告げられたのだ。もう克哉の部屋を引き払うから今週末までに部屋を出ていって欲しい、と。部屋の契約は克哉の名前で行われている。克哉がいない以上、その両親が権利を引き継ぐ。御堂には何ら権限はないのだ。
『…ええ。俺です。御堂さん。あんたはあの部屋に居ちゃいけない。よく自分の顔を見てみてみるんだ。あの部屋にいる限り、あんたは生気を吸われ続ける。体調が優れないのは、あの部屋にいるからだ』
「何をばかなことを」
『あの部屋にいるのは、克哉じゃない。克哉の姿かたちはしているけど、克哉とは違う、別の“何か”だ。御堂さん、目を覚ますんだ。あんたが好きな克哉はあの部屋にはいない』
 本多の言葉に憎悪さえ感じたが、ここで本多を罵るのは得策ではない。克哉の親の考えを変えるためには本多の協力が必要なのだ。
「本多君。お願いだ。私を助けてほしい。あの部屋をそのままにして欲しいんだ。私は、あの部屋を失ったら…っ」
『御堂さん。俺を信じてくれ。あんたは克哉の姿をした亡霊に憑りつかれている。…一刻も早く、あそこから逃げてくれ。あのまま、あそこにいたら取り返しのつかないことになる』
 その本多の口調は苦しそうだった。だが、取り付く島もない本多の言葉だった。
「あれは、佐伯だ。君は視たのだろう。佐伯の姿を。私ももう少しで佐伯のことが視えそうなんだ。その声も聴こえそうなんだ。だから、もう少しだけ猶予をくれないか。お願いだ。頼む」
『…それは良くない兆候だ。あの部屋を出る気がないのなら、俺が力づくでも引き離す』
 そう一方的に告げると、本多は電話を切った。御堂の力を失った手から携帯が滑り落ちて床に落ち、乾いた音を立てた。
 両手に顔を埋めた。漏れそうになる呻き声を押し殺す。あの部屋を失うことは克哉を失うことだ。
――私は、再び佐伯を失うのか…?
 真っ暗な絶望に心と体が染め上げられていく。

 その晩、買い物をして御堂は克哉の部屋に戻った。克哉の部屋に居られるのは、後、数日もない。
 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。
 ダイニングテーブルに買ってきたものを皿に移し替えて並べた。
 薄くスライスしたバゲット、ウォッシュタイプのチーズに生ハム、ドライフィグも。
 そして、食器棚からリーデルのワイングラスを二脚取り出す。ボルドー用のものだ。
 克哉のワインセラーを覗いた。ここを開くのは克哉がいなくなって以来初めてだった。中にあるワインの銘柄は熟知している。そこから、最も古いヴィンテージの一本を取り出した。
 ラギオールのソムリエナイフも準備し、二人分のテーブルセッティングをする。
 その仕上がりに御堂は満足げに目を細めた。悪くない。
 椅子を引いて腰を掛けた。後は克哉が来るのを待つだけだ。
 克哉のジッポーのライターを取り出して、火を灯す。ライターの蓋を開ける時に、蓋のヒンジが一層緩くなっていることに気が付いた。慣れない手つきで開け閉めを頻繁に繰り返していたせいだろう。少し緩んできていたのは気付いていたが、修理に出している間、手元から離れるのが耐えられずそのままにしていたのだ。
 ジッポーの蓋を閉めてみるが、蓋が緩み、しっかり閉まらなくなっていた。これを克哉に返したら怒るだろうな、と想像し、御堂は微かに笑みを浮かべた。
 どれくらい経っただろうか。うつらうつらとしてきたところで、背後から微かな足音が聞こえた。
 自分に近づいてくる気配を感じる。振り返るべきか迷っていると、椅子の背越しに肩の上から両腕を回された。後頭部に克哉の吐息がかかる。そのまま頭を背後にもたれかかった。
 克哉の胸元で受け止められる。
「君を待っていた」
「…ああ」
 その克哉の声はノイズが入って電波の悪い電話越しに聞くような声色だったが、確かに聞き取れた。あれ程焦がれた克哉の声だ。
「…君の声が聴こえる」
「そうか」
 何故だかその声は深く沈んでいるように感じられた。
「佐伯、飲まないか。君のワインだが。つまみも用意した」
 克哉が首を振った。御堂は残念そうにため息をつく。
「実は、この部屋を出なくてはいけなくなった。君の部屋だが、もう引き払わなくてはいけない」
 身体の前にまわされた克哉の腕に手を重ねる。シャツの感触、うっすらだったその輪郭が次第にはっきり視えてくる。
「なあ、佐伯、私の部屋にこないか。ここほど居心地は良くないが歓迎するぞ」
 再び克哉が首を振る。そして静かに口を開いた。
「今日は、あんたに別れを告げに来た。俺はもうあんたのところにも、ここにも、来ない」
「佐伯…?」
 その言葉に、御堂は身を強張らせた。克哉の腕を掴む手に力が入る。
「いきなり、何故なんだ?佐伯?」
「…俺はあんたが期待する“佐伯克哉”ではない。あの公園で、“佐伯克哉”は刺された時に死んで、跡形もなく消えた」
「何を言っている?君は佐伯克哉だ。その声も姿も」
 振り返ろうとした御堂の動きを、克哉がその両腕と胸で強く抱きしめ封じる。
「違う。俺は“佐伯克哉”の死んだ身体に入れられた空っぽの意識だ。佐伯克哉に似せられて造られたが、“佐伯克哉”の記憶もないし、あんたのことも記憶にない」
「嘘だ」
「本当だ。あんたのことなんか全く知らない」
「それなら、なぜ、ここに来た。何度も」
「それは、あんたが抱かせてくれたからだ。それ以上の理由はない。誰でも良かった」
 その言葉は冷酷な刃だ。違う、嘘だ、と何度も呻くように言って御堂は首を振った。そんな御堂をなだめるように、克哉は冷たく優しい声をかける。
「なあ、あの男が言っていただろう。『愛するってことは、その人の幸せを願う事だ』って。あんたが愛した“佐伯克哉”という男は、本当のところ、あんたのことを愛してはいなかったんだよ。だから、あんたのことを放ったまま、勝手に死んだんだ。そして、俺もあんたを愛してはいないし、興味もない。…もうここにはこない」
「やめてくれ…」
 克哉の言葉を否定し耳を塞ごうと俯く御堂に、克哉は更に冷たく言い放つ。御堂の身体に回した腕にわずかに力を込めた。
「もう、“佐伯克哉”のことは忘れろ。その名前の男はあの公園で死んで消えたんだ。残されたのはこの身体だけだ。あんたは自分を愛せ。自分の幸せを願え。これ以上、存在しない男を探し求め続けるのはやめろ。…俺が“佐伯克哉”の代わりにあんたに別れを告げてやるよ」
 克哉は深く息を吸った。そして静かに言葉を載せて吐き出す。
「……さよなら」
――さよなら、愛しい人。
 克哉は心の中で呟いた。
 “佐伯克哉”としての記憶は戻ることはなかったが、それでもその最期に願ったことは手に取るようにわかる。
 “佐伯克哉”が最期に聞きたかったのはこの人の声。そして、最期に告げたかったのは別れの言葉。赤い月と冷たい土に抱かれて蘇った自分に何か意味があるとしたら、この人に再び会って別れを告げることだったのだろう。Mr. Rに自らの全てを差し出しても、この願いを叶えられるのなら後悔はない。
――これでもう心残りはない。
 腕の中で御堂が嗚咽を漏らす。御堂を傷付け、泣かせたことに心が痛んだ。だが、御堂は克哉側の世界に近付き過ぎてきている。これ以上関わることは出来ない。今の克哉に出来ることは別れを告げることだけだ。
 静かに両腕を御堂から離そうとしたところで、強く掴まれた。
「私も連れていってくれ」
「駄目だと言っただろう。俺は“佐伯克哉”ではないし、俺とあんたは住む世界が違う」
「…君の言葉を信じない。君は“佐伯克哉”だ。私は君と共に行く」
「だから…」
 克哉の制止する声に御堂は言い返す。
「君が佐伯でないというのなら、何故こんなにも優しく私を抱きしめた?そして君の言葉は何故こんなにも悲しみを秘めている?」
 克哉の腕を掴んだまま、御堂は勢いよく立ち上がった。そして、身体を克哉の方に翻す。その双眸の焦点がしっかりと克哉の顔に合わされた。
「ほら、やはり、佐伯じゃないか」
 部屋の明るい照明の中、御堂の眼にははっきりと佐伯克哉の顔が映った。その端正な顔立ちも明るい色合いの髪も、そして眼鏡も。以前の克哉と何ら変わりはない。克哉の眼が哀しげに眇められた。
「違う。佐伯克哉の死んだ肉体を使われているだけだ。この身体もすぐに朽ちる」
 御堂は両手で克哉の顔を挟む。その肌の質感も体温も今はしっかりと感じられる。
 そのまま唇を重ねようとしたところで、克哉に顔を背けられ拒絶された。
「やめろ。俺はもう行く」
「行くなら私も連れていけ」
「無理だ」
「…私は、もう君を離さない。君が住む世界がどんなところでも、恐れたりためらったりはしない」
 決然と言い放たれた御堂の言葉。そして、強い決意を込めた眼差し。御堂は既に決心していた。克哉がいないこの世界に未練はない。
 そして、その御堂の決意に応えるかのように、克哉の言葉や息遣い、その姿がより鮮明に感じ取れるようになっていく。
「佐伯、私は君が視える。君の声も聴こえる。そして君に触れることが出来る」
「あんたは、そこまで……」
 そんな御堂の姿を目にして克哉が苦しそうに目を瞑り首を振った。
 その時だった。
 突如、部屋の照明が瞬いて消えた。どこからともなく灯された暗い灯りが部屋を照らす。御堂と克哉は驚いて辺りを見渡した。
 そこは、元の部屋から急激な変貌を遂げつつあった。
 部屋の四方を赤いカーテンが包んでいく。清潔で明るかった部屋は暗く淫靡な雰囲気に染め変えられていった。中央のダイニングテーブルと御堂と克哉を残したまま、そこは赤く暗い部屋へと変貌していく。
 御堂が茫然と呟く。
「なんだ、どうなっている?」
 克哉は息を呑み、驚く御堂を引き寄せ強く抱きしめた。まるで迫りくる恐怖から守るように。
「佐伯?」
 御堂の背後からゆっくりと乾いた足音が近づいてくる。その足音は近くまで来て止まった。歌うような抑揚で美しい声が響いた。
「ようこそ。クラブRへ」

(15)
In the Dark Room(16)

「ようこそ。クラブRへ」
 その声がする方に御堂は振り返った。一方で身動きが取れないほど克哉はきつく御堂を抱きしめてくる。御堂の視界に、長い金髪の丸眼鏡をかけた黒づくめの男が映り込んだ。御堂と眼が合うとにっこりと微笑む。
「あなたはここ、クラブRへ来る資格を得ました。心より歓迎いたします」
「クラブR?」
「駄目だ!反応するな」
 克哉が御堂をその声の主から遠ざけようと間に割って入る。切羽詰まった声で御堂に告げた。
「早く、この部屋から出るんだ」
「どういうことだ?…彼は誰だ?」
「私のことは、Mr. Rとお呼びください。ここ、クラブRの支配人です」
「Mr. R?」
「御堂!会話をするな!あんたはここから逃げろ」
「逃げる?君はどうするんだ?」
「俺は、ここに残る。あんたは早く行くんだ」
「断わる。君と共にいる」
 克哉は御堂の手を掴み、Mr. Rから遠ざけようとするが、御堂は脚を踏ん張り抵抗する。
 その様子を見てMr. Rは愉しげな笑みを浮かべ、御堂に恭しく礼をする。
「御堂孝典さん。あなたの狂気と欲望は、こちらの世界の扉を開きました。…どうぞ、最高の悦楽をご堪能ください」
「御堂に手を出すな!」
 一向に動こうとしない御堂に業を煮やし、克哉は御堂の前に立ちMr. Rの方に向き直った。その背に御堂をかばう。そんな克哉の姿を見て、Mr. Rの口角がいびつに歪み、その眸がわざとらしく大きく見開かれた。
「おやおや。最近どこかに通い詰めていると思ったら、こんなところに来ていらしたのですね」
「…貴様は、俺の行動を把握していたな」
「私が言った通り、あちらの世界は愉しめたでしょう?…貴方はやはり、優秀で残忍で冷酷な素質を持っています。こんな可愛らしい方を、こちらの世界に堕としました」
「違う!御堂はこの世界には来ない」
「佐伯?君は、あの男と関係があるのか?」
 御堂が克哉に向けた問いにMr. Rが柔らかな口調で応える。
「関係があるも何も、彼は私のものですよ。私の人形がご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ございません」
 そう言うと、Mr. Rは御堂に対して慇懃に頭を下げて見せた。
「どういうことだ?」
 全く状況を把握できない御堂が克哉に説明を求める。克哉が無言で首を振った。Mr. Rがくつくつと喉を鳴らして嗤う。
「こういうことですよ。……こちらに来なさい」
「やめろ…」
 抗う言葉も虚しく、克哉の腕が御堂から離される。そのまま身体を離し、ふらつくようにMr. Rの元に向かい、その傍らに跪く。
「佐伯っ!」
 御堂が叫んだ言葉を克哉は目を伏せたまま無視をする。その苦渋に満ちた克哉の顔を見て、Mr. Rの眼が嗜虐に揺らめく。
「恋人同士が引き裂かれるのは、いつ見ても胸が打ち震えます。あなたのこんな顔が見られるなんて」
 愉悦の笑みを浮かべながら、Mr. Rは克哉の顎を指で掴み掬いあげた。歯を食いしばって耐える克哉の顔を覗き込む。呻くように克哉は漏らした。
「…俺は佐伯克哉ではないし、あいつの恋人でもない」
「違う。君は佐伯克哉だ」
 その克哉の言葉に御堂が言い返す。
 Mr. Rはさも可笑しくてたまらない、というようにクスクスと声を上げて嗤いだした。
「さて、どちらの言葉が正しいのでしょうね」
 克哉の苦痛にゆがんだ顔に自らの顔を近づける。克哉と眼が合うとにっこりと微笑んだ。
「……いいでしょう。私は貴方の顔が更なる苦悩に歪むのを見てみたい。返しましょう。貴方の自我と記憶の全てを。…立ちなさい」
「よせっ」
 それでも、克哉は命令に逆らえない。ゆっくりと立ち上がる。Mr. Rの革袋をつけた冷たい手が頬に添えられる。次に起こることが分かっても顔を背けることは出来なかった。凍えたその唇を押し当てられ、深い口づけを交わす。
「やめてくれ……っ!」
 御堂が二人から顔を背けた。きつく目をつむり、身を竦めて克哉から必死に目を背ける姿に克哉は見覚えがある気がした。
 体温を感じさせない舌が口内を蹂躙する。口の中から吸い取られていく体温の代わりに、何かが意識の中に注がれる。
……赤い月と冷たい土。自分を見下ろすMr. Rとその凍えた接吻。手の届かないところで鳴る携帯。澤村の狂ったような哄笑。怒った御堂の顔。澤村を蹂躙する愉悦。御堂の悲鳴。
 封印されていた記憶がどんどん逆再生されていく。その苦しさに呻き、顔を逸らして逃げようとするが、Mr. Rの冷たい唇はそれを許さない。
――そうだ。俺は、佐伯克哉だ。
 分かってはいたことだが、はっきりとそれを思い知らされる。御堂との記憶もその出会いから鮮やかに思い起こされた。そして、自分が御堂に行ってきた酷い仕打ちを思い出す。
――何度この人を苦しめれば気が済むのだろう。
つう、と涙が頬を伝う。克哉はそれが生理的に溢れた涙か、昂ぶった感情から溢れた涙か分からなかった。
 くちゅっ、御堂に聞こえるように濡れ音を立てて唇を離された。御堂の身体がびくっと震える。
 Mr. Rが克哉の顔を覗き込んで冷たく微笑む。
「さあ、これで分かるでしょう。自分が誰か。あちらのお方に教えて差し上げなさい」
「…俺は佐伯克哉じゃない」
「おや、嘘つきですね」
 Mr. Rが目を細め、肩を震わせ嗤う。そして身を竦めたまま顔を背ける御堂の方を向いた。
「御堂孝典さん。ゲストの貴方を放っておいて申し訳ありません。ここは貴方の望みをかなえる部屋。貴方の望みはなんでしょう?」
「望み…?」
 御堂が強張った顔を恐る恐る上げた。その視線から逃れようと克哉は目を背ける。
「ええ。ここは貴方の狂気と欲望を満たす部屋。貴方が望むなら、この佐伯克哉も好きにしていいですよ。まだ、躾がなっていない不出来な作品ですので他の客には出していませんが」
 そう言うと克哉の身体を腕で引き寄せる。そして克哉のシャツのボタンに指をかけた。
「よせっ」
 克哉は嫌がって身を捩るが、それはわずかに身体をゆする動きにしかならなかった。
「あなたは、この男に酷い目にあわされたのでしょう?同じことを彼にし返すのはどうです?」
 ゆっくりとシャツのボタンが外されて、克哉の肌が露わになる。部屋に微かに漂っていた血の匂いが濃くなった。その引き締まった体躯に刻まれた血のにじむ数々の赤い線条痕。克哉が御堂の視線を避けて呻いた。
「見るな…」
「佐伯に何をしたっ?」
 御堂が怒りをあらわにする。そんな御堂に、Mr. Rはおやおや、と不思議そうな顔をして見せた。
「おや、そそられませんか?貴方もされたのでしょう?鞭で叩かれて犯されて。同じことを彼にしてもらって構いませんよ。良い声で啼かせてやってください」
「…私はそんなことは望んでいない!」
「それでしたら、何を望むのです?」
「佐伯を離せ」
「それは、無理です。これは私と彼の契約に基づいたものですから」
「契約?」
「ええ。死にかけた彼を救う代わりに、私は彼を好きにする権利を得ました。彼は私の命令に背くことは出来ません」
「佐伯、本当なのか?」
「ああ…本当だ。…だから、俺のことは忘れて、早くここから立ち去るんだ」
 克哉は御堂から目を背けたまま、苦渋を滲ませた声で告げる。御堂は克哉に対し首を振った。しばしの沈黙が部屋を包む。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。沈黙を破ったのは御堂だった。顔を上げて、強い眼差しでMr. Rを射竦める。
「…そうか。佐伯は死んだわけではないのだな。ならば、Mr. R。私の望みは、佐伯を元の世界に戻すことだ」
「先ほど申し上げました通り、それは無理です」
「ただで、とは言わない。代わりに私と契約をするというのはどうだ?」
「御堂っ?」
 克哉は思わず御堂に視線を向けた。御堂は克哉に向かって小さく笑いかけた。
「私が佐伯の代わりに、Mr. R、君の元に行こう。代わりに佐伯を元の世界に返せ」
「御堂、何を言っているっ!」
 克哉の言葉を遮ってMr. Rが首をかしげて口を開いた。
「それが実現可能かどうか、と訊かれれば答えは『Yes』。ですが、その契約を私が行う気があるかというと、答えは『No』。…残念ながら、貴方と彼は素質が違います。彼は王たる素質を持っていた方。その資格は残念ながら喪失してしまいましたが…。あなたも十分に美しい。それでも彼とは並ぶべくもない」
 Mr. Rはそう言うと、愛おしそうに克哉の顔から露わになった身体の輪郭をその手で撫でた。
 御堂の眼が眇められたが、その口角が上がり自信に満ちた笑みの形が作られる。
「Mr. R。お前が惚れこむその佐伯が惚れこんだのが、私だ。それだけで十分に価値があると思うが」
「ほう…」
 Mr. Rの克哉を撫でる手が止まった。改めて見定めるように御堂に視線を向けた。御堂の全身を舐めるようにMr. Rの視線が這う。その視線を身じろぎもせずに御堂は受け止めた。
「やめろっ!御堂っ!自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「佐伯。君はさっき言っただろう。『愛するという事は、その人の幸せを願う事だ』と。私が君の幸せを願ってはいけないのか」
「馬鹿なこと言うな!御堂、お前は自分の世界に帰れ!」
 傍らで必死に叫ぶ克哉にMr. Rは目を向けた。その顔に冷酷で艶やかな笑みが深く刻まれる。
「佐伯克哉さん。魂が引き千切れるほどの絶望に染まる貴方の顔を見てみるのも良いですね」
 その言葉が示す意味を悟って、克哉は身を震わせた。
「Mr. R!俺で十分だろう。御堂に手を出すな」
 だが、克哉が抵抗すればするほど、Mr. Rの顔が愉悦に染まる。Mr. Rは御堂の方を向いた。
「御堂孝典さん。私の元に来るという事は、このクラブRの住人になるという事ですよ。それが何を示すのか分かりますか?欲望と狂気に塗れた客たちにその身体を拘束され、肉が爆ぜる程鞭で打たれ、休む間もなく犯され続けるのですよ」
 御堂はその愁眉を吊り上げた。
「…悪趣味だな。お前はそれを佐伯にもさせようとしていたのか」
「フフッ。彼を解放した後、貴方が犯されながらも苦痛と快楽に溺れる姿を映像で、彼に送りつけてあげても愉しいでしょうね。それでも、契約する気はありますか?」
「ああ」
「やめろっ!」
 Mr. Rの傍らで声を張り上げて叫ぶ克哉を、Mr. Rは手で制した。その途端、克哉の声が出なくなる。掠れた息を吐き出しながら、克哉は必死で首を振った。
「これだけ貴方に執着している彼のことです。一度解放しても、再びこのクラブRに戻ってくるかもしれません。すると、私は貴方たち二人を手元に置くことが出来る。恋人同士、傍にいながらも互いに触れることが出来ず、互いの目の前で蹂躙される、というのもショーとしては申し分ありません」
 その場面を想像したのだろう。Mr. Rの顔が陶酔とした心地となり、その陶磁のような白い頬に朱が差す。
「佐伯はもうこの世界には来ないし、来させない」
「大した自信ですね。…いいでしょう。改めて訊きます。私と契約しますか?」
「ああ。ただし、一つ頼みがある」
「頼み?」
 御堂は、横のダイニングテーブルを指差した。
「見てくれ。せっかく、佐伯と飲もうとセッティングしたんだ。最後にワイン一杯を佐伯と二人で愉しむ時間が欲しい」
 そう言うと、ジッポーのライターを手に取った。そして火を灯してテーブルにそっと置いた。火は灯ったままだ。少しの間、御堂はその小さな炎を愛おし気に眺めると、再び蓋をして消した。
「これは佐伯のライターだが、この様に手を離しても火は灯ったままになる。そして、オイルは補充したばかりだ。このライターの火が消えるまで十数分は持つだろう。乾杯してからワインを一杯空けるにはこれだけあれば十分だ。このライターの火が消えるまでの猶予をくれないか」
「恋人たちの最後の晩餐ですか。私がお邪魔でなければいいでしょう」
「いてもらって構わない。ワイングラスは二脚しかないが」
「よろしいですよ。…それでは、契約成立です。そのライターの火が消えた瞬間から、御堂孝典さん、貴方は私のものです」
「礼を言う。まずは準備をさせてくれ」
 やめろ、と克哉は声にならない叫びをあげた。御堂はそんな克哉を一瞥すると、ワインを手に取り滑らかな手つきでワイン瓶の首にソムリエナイフをあてる。そして、コルクスクリューを手際よくコルクに差し込みながらMr. Rの方を向いた。
「ワインを飲む前に、このワインについて少し語っていいか」
「どうぞ」
「このワイン、シャトー・マルゴーはボルドー5大シャトーのうちの一つだ。ワインの王はどれか?という問いは誰しもが答えられないが、ワインの女王はどれか、というと皆が口を揃えて言う。それはシャトー・マルゴーだ、と。そして、このワインはもう一つの呼び名を持っている。悲劇が似合うワイン、と」
「ほう」
 Mr. Rが滔々と語る御堂の解説に愉し気に耳を傾ける。Mr. Rの傍で克哉が力なく首を振った。
「シャトー・マルゴーはその所有者が様々な事情で何度も変わっている。フランス革命でギロチンにかけられた者もいる。このマルゴーをこよなく愛した作家ヘミングウェイは孫娘にマルゴーから同じ綴りで『マーゴ』と名前を付けた。そのヘミングウェイは数々の不幸に見舞われ、62歳の時に拳銃自殺。その孫娘のマーゴも祖父と同じくマルゴーを愛したが、42歳で薬物自殺をしている。日本では渡辺純一の著作『失楽園』の中で主人公が恋人と自殺に用いたワインとして有名だ」
 御堂がシャトー・マルゴーの白く上品なラベルをMr. Rと克哉に見えるように掲げる。
「なぜ、このワインは悲劇を惹きつけるのだろうか。私は、こう思う。マルゴーは数十年経たないとその繊細な味が開かない。若いうちに飲むと、舌が痺れる程の強烈なタンニンの渋さと口の中が染まるほどの色の黒さで、味も見た目もとても美味しいとは言えないワインだ。だが、それが長い時を経て、女王の名にふさわしいワインとして生まれ変わる。長く苦しい期間を経て美しく花開くのだ。そこに人は希望を見出すのではないだろうか。このワインは希望を予感させるワインだ。だからこそ、内に悲しみを秘めた人を引き寄せるのではないだろうか」
 御堂はワイングラスにマルゴーを少量注ぐと、慣れた手つきでテイスティングする。
「……そして、このマルゴーも良く開いていて丁度飲み頃だ。佐伯のワインセラーの中では最も価値があるワインだ。残念ながらデキャンタージュしている時間はないが、それでも十二分に味わえる」
 優美な動作でワインを再びワイングラスに静かに注ぐ。濃い赤紫の液体が芳醇で艶やかな香りを立ち上がらせながら、磨かれたクリスタルに彩りを添えていく。
 艶然ともいえる笑みを深くし、御堂は二脚目のグラスにもたっぷりとワインを注いだ。
 そして、ボトルを静かにテーブルに置く。そして代わりに、テーブルに置いていたジッポーを指でつまみ手に取った。
「乾杯の準備は出来た。佐伯を返してくれないか」
「ええ、いいでしょう」
 ふっ、と克哉を束縛していた視えざる力が消える。そのまま前によろめきかけて、克哉は踏みとどまった。身体の自由がきく。Mr. Rの方に向き直り拳を振りかざす
「Mr. R。貴様っ!」
「佐伯!やめろっ!今からは私と君の時間だ。無駄に使うな。こっちに来るんだ」
「御堂っ!お前は自分が何をしたのか分かっているのか?早く取り消せ」
「断わる。いいからこちらに来い」
 克哉は渋々と拳を降ろす。薄い笑みを湛えたままのMr. Rをありったけの憎悪を込めて睨み付けた。
「佐伯さん。いいのですか、貴重な時間を潰してしまって。貴方の愛する人の元に行って別れを告げたらどうです」
 目の前で悠然と佇むこの男を殺せるものなら殺したい。苦々し気に舌打ちし、克哉は御堂の方に振り返り、駆け寄った。
「御堂!何をしているんだ。早く、ここから逃げろ」
「……これは、私と彼の契約だ。私はイリーガルは認めない。君が口を挟むことではない」
 克哉が御堂の手を掴もうとするが、その手を御堂は弾いた。
「佐伯、ワイン位愉しませろ。このマルゴーの出来は傑出している。まさしく女王の名にふさわしい」
「何を言っている…?」
 平然と振る舞う御堂を克哉は唖然と眺めた。既に御堂は狂気に染まってしまったのだろうか。
 そんな克哉に笑いかけて、御堂はジッポーを握り直した。
 やめろ、と克哉が呻く。御堂は克哉の言葉を気に留める様子もない。
 克哉の方に、ワイングラスを一つ差し出す。克哉は首を振って受け取りを拒否すると、御堂は克哉の傍のテーブルにそのグラスを置いた。そして自分のワイングラスを手元のテーブルに引き寄せる。
 ワイングラスには二脚とも並々とワインが注がれていた。御堂にしては、グラスに注ぐワインがいつもより多いことに克哉は気付いた。
 訝しむ克哉を横目に御堂は静かに微笑んでMr. Rに向き合った。
 御堂はMr. Rにジッポーを掲げて、その蓋に指をかけた。
「やめろっ!御堂!」
 克哉が悲鳴のような呻き声を上げる。Mr. Rはうっとりとした目をライターに向けた。御堂は静かに口を開く。
「シャトー・マルゴーは希望のワインだ。だが人はワインとは違う。ワインは寝かせておけば勝手にその風味が開いていくが、人はそうはいかない。人は、自らの手でその運命を切り拓いていかなければいかない」
 御堂は凄艶な笑みを浮かべた。
 やや眦の吊った切れ長のその双眸は、静謐で、深く、強い。その顔は、隙がなく、美しい。そして、その立ち振る舞いは、芯があり、凛としている。そこには一片の脆さもない。
 克哉は言葉を失った。
 御堂の手が動く。その動きは優雅でスローモーションのようにゆっくりとした動きになって克哉の眼に映った。御堂は、蓋に指をかけたまま。そのジッポーを持った手を、テーブルの上の自分のグラスの上に滑らせる。そして、静かにその手を開いた。並々と注がれたワインの中にジッポーが滑り落ちる。
 派手な水音がして、ワインの雫がグラスの外に跳ねた。
「あっ」
 Mr. Rと克哉は呆気にとられて目を見張った。ワインの中にジッポーが沈んでいく。グラスの底から金属とガラスがぶつかるくぐもった音が響き、大きな泡が立ち上った。
 御堂は残念そうに大きなため息をついた。
「…手が滑った。しかも、運が悪いことに、このジッポーはヒンジが緩んでしまっていて蓋がしっかりと閉まらないんだ。ジッポーもワインもダメにしてしまった。すまない、佐伯」
 御堂はMr. Rに目を向けた。Mr. Rの顔から笑みが消え、その眼が眇められた。
「確か、契約の履行はこのライターの火が消えてからだったな。残念だ。このライターの火はつきそうにない。…佐伯、ライターの火を灯すことは契約条項に入っていたか?」
「…いいや」
 全てを悟った克哉が肩を震わせて笑い出した。
「ははっ。…イレギュラーは認めるがイリーガルは認めない、か。これはイリーガルではない。イレギュラーだ」
「慎め、佐伯。貴重なワインが一杯分駄目になったんだ。君のジッポーも」
 その笑いを咎めるように御堂は克哉に視線を向けた。だが、その眸は克哉を愛しく包み込む。
「…存在しない火は消えることもないし、消すことも出来ない、ですか」
 Mr. Rが静かな声で呟いた。小さく肩を竦めて見せる。御堂は真っ直ぐとMr. Rを見据えた。
「そうだ。迂闊だったな。…佐伯は、私のものだ。返してもらう」
 Mr. Rは片手で顔を覆った。身体が小さく震え、ククッと喉を鳴らして嗤いだす。次第にその嗤い声は大きくなっていく。
 克哉は御堂の身体に手を回し自らの元に引き寄せた。御堂をかばい、Mr. Rを視線で威嚇する。
「フフッ。御堂孝典さん、悪魔すら欺くその立ち回りと豪胆さ。愉しませてもらいました。…貴方は賢くて正しい方。どうやら私は貴方を見くびっていたようです」
 恭しく御堂に一礼をすると、再びMr. Rは愉しくて仕方がないというように身体を折って嗤い続ける。
 四方の壁を覆う赤いカーテンが朽ちて崩れ始めた。克哉は御堂を強く抱きしめた。
 Mr. Rが嗤いながらも上体を起こし、克哉の方に向いた。すっとその眼が眇められる。
「佐伯克哉さん。残念ですが、これでお別れです。…またいつか、別の未来でお会いしましょう」
 反響する嗤い声を残して、Mr.Rの姿はおぼろげになり、そのまま消え去った。
 克哉は御堂に目を向けた。ため息とともに大きな安堵の吐息を漏らす。
「あんたと言う人は…。こんな危険な賭けをするなんて。俺がどれだけあんたを失う恐怖に襲われたか…」
「少しは私の気持ちが分かったか」
 お互いの視線が交わる。どちらかともなく唇を重ねて深く濃いキスを交わした。もう、血の味はしなかった。一旦唇を離して、見つめ合う。笑みがこぼれた。
「愛している。孝典」
「克哉、私もだ。…さあ、帰ろう。私たちの世界に」
「ああ」
 再び唇を重ねた。
 赤く暗い部屋の壁が崩れ、その四隅から周囲の床も崩れ落ちていく。足元の床も崩れ落ち、二人はその下の闇の中に呑み込まれていった。それでも、その中心で二人は一心不乱にキスを交わした。互いの存在を離さぬようにしっかりと抱きしめ合ったまま。

(16)
In the Dark Room(17)

 赤く暗い部屋……。崩れ去っていく……。そして、闇が身を包む……。
――ここは、どこだろう?

 克哉の怒りが滾った声が聴こえる。そして、もみ合う音も。
 ハッと御堂は目を覚ました。周囲を慌てて見渡す。身体を動かそうとして、後ろ手に縛られて転がされていることに気付く。
――白昼夢?
 先ほどまで澤村に嬲られていた記憶がしっかりある。そして、克哉が荒々しく踏み込んできた記憶も。だが一方で何か長い夢を見ていたような浮遊感に意識が包まれていた。嬲られて意識を失っているわずかな間に視た夢だったのだろうか。
 顔を上げると、克哉が澤村に詰め寄っていた。その双眸にはむき出しになった憎悪が燃えている。
――このままではまずい。
 焦りと不安に駆られた。このままでは取り返しのつかないことになる予感があった。克哉に向かって思い切り声を張り上げて叫んだ。
「止めろっ!佐伯っ!」
 自分が思っていた以上に力が籠り強い声が出た。その声は克哉の意識を澤村から逸らした。克哉の眼が御堂に向けられる。その憎悪が滾る克哉の双眸をまっすぐ見返した。
「そんな奴の挑発に乗るな!」
「御堂……」
 克哉の激しい怒りに染まっていた顔が、御堂と眼が合った瞬間に正気の色が差す。掴んでいた澤村の胸倉を離し、一歩引いて澤村を見据えた。その表情はまだ怒りが滲んでいるものの、普段の冷静さを取り戻している。克哉は澤村に背を向け、御堂の傍に歩み寄ると、拘束を解き身体を抱き起した。
「大丈夫か?」
「ああ……」
 御堂を心配そうにのぞき込むその顔は、元の克哉だ。
――良かった。間に合った。……間に合った?
 御堂は克哉の様子を見て、安堵の息を吐いた。その一方で、何故自分がここまで不安に駆られたのか疑問が生じた。
 先ほど、このままだと悲劇が起きる予感が確信となって自身の脳内に展開されたのだ。
 それはまるで自分が体験してきたのような鮮烈な感覚だった。だが、はっきりとは思い出せない。
 ぼんやりと意識の奥に残っているのは、赤く暗い部屋。そこに克哉と二人でいた…いや、もう一人いたような。深い暗闇に捉われていたような、何かとても苦しく切ない感情の名残が漂う。
 だが、必死に記憶を探っても、それ以上のことは思い出せなかった。

 部屋のドアが大きな音を立てて閉まり、澤村が去っていく。克哉が御堂に駆け寄った。
「御堂!」
 息苦しいほどの強さで克哉に抱きしめられた。その微かに震える指先から克哉の抑えきれない強い感情が、そして上質なスーツの生地を通して克哉の熱が伝わってくる。そこにいるのは、確かに体温と質量と感情を持った恋人である克哉だ。ほう、と御堂は息を吐いて身体の力を抜いた。一方で克哉の背中にまわした手に力を込める。
「……ありがとう」
 その言葉に克哉が身じろいだ。
「……礼なんて、言うな。俺はあんたを守れなかった…」
 御堂は小さくかぶりを振った。
「さっきのは、君があの男に報復をしないという決断をしたことに対する感謝だ……」
 一息ついて言葉をつなぐ。
「君があの男に報復しようとしていた時、恐かったんだ。このまま、どこか私の手の届かないところに行ってしまうような。そんな気がして……」
「俺が……?」
「君であるのに君でなくなってしまうような…。だから、戻ってきてくれてよかった」
――本当にそんな未来が視えたんだ、内容は思い出せないがはっきりと。
 克哉を抱く手にさらに力を込めた。この腕に抱く克哉の存在が現実であることをしっかり確かめるように。
 互いの存在をしっかり離さぬように抱きしめ合う。しばらくして、克哉の手の力が緩み、そろそろと御堂の背中をさする。
「ん……?」
 その時、克哉が御堂の傍に落ちている何かに気付いて拾い上げた。
「ライター?俺のか?」
 目を向けるとそこには真鍮製のジッポーのライターがあった。克哉のものと同一だ。しかし、なぜか表面が濡れている。
 克哉が自分のポケットを探るが、自分のライターを見つけることは出来なかった。どうやらこれは克哉のライターのようだ。
「俺のライター?なぜ、ここに?しかも濡れている」
「すまない…」
「ん?あんたが?」
「…いや、記憶にない」
 自分の口から反射的に漏れ出た謝罪の言葉に、御堂自身が訝しんだ。克哉のライターを持ち出して濡らした記憶はない。だが、思わず謝ってしまったのだ。
「まあ、いいさ」
 克哉は少しの間そのライターを眺めると、近くにあった部屋のごみ箱に投げ入れた。
「いいのか?君の愛用のライターだろう」
「…あのライターはもう火が付かない。また買い直すさ」
 克哉は御堂に笑いかけた。いつもの優しい笑みがそこには浮かんでいた。克哉は立ち上がって御堂の方に屈みこみ、御堂の手を取る。
「帰ろう。俺たちの部屋に」
「俺たち、ではなくて、君の部屋だろう」
「いいや、“俺たち”の部屋だ」
 訂正をいれる克哉の言葉を聞いて、そうだったかもしれない、と御堂は思い直した。あの部屋で暮らしていたような懐かしい感傷がこみ上げる。ただ、その感傷は深い孤独に苛まされるような一抹の苦しさを含んでいる。不意に、何故だか目の前の克哉がとても愛おしく感じられた。
 克哉の手を取って、その手をぐいと引き寄せた。近付けられた克哉の顔に自分の顔を寄せ、その唇に自分の唇を押し当てる。
 一瞬驚いて克哉の眼が開かれたが、すぐに深いキスとなって返され、身体を抱き寄せられる。そのままホテルの部屋のベッドに押し倒された。自分の身体に覆いかぶさる克哉の眼の奥に情欲の焔が揺らめくのを見て、御堂は少し身を強張らせた。唇を離した克哉が御堂の顔を覗き込む。
「身体、辛いか?」
「大丈夫だ」
 かぶりを振った。むしろ、克哉が今の自分を欲してくれていることが嬉しかったし、克哉が御堂を欲する以上に御堂は克哉を欲していた。先ほどまで澤村に嬲られた記憶、そして同時に心の奥に揺蕩う辛く苦い陽炎のような白昼夢、説明のつかない苦しい感情から解放して欲しかった。
 その不安定な心情を言葉尻と表情から読み取ったのか、克哉が探るような慎重な眸で見下してくる。
 そんな克哉を煽ろうと腕で克哉を引き寄せ、唇を重ねる。角度を変えつつ、お互いの口内を貪る。
 克哉の手が肌蹴たシャツの合間から肌を滑る。その肌をじっくりと丹念に余すことなく味わうように、他の誰かが触れた痕跡を拭い去るかのように。触れられたところから産毛が立ち、もどかしい熱が生まれる。うっすらと眼を開けると、カーテンが開け放たれていた窓から眩い午後の日差しが差し込んでいる。日差しが満ちる明るい部屋の中で、今から行う行為に御堂は羞恥を覚えた。
「佐伯、カーテンを」
「このままでいい。あんたの全てを俺に見せろ」
 澤村に嬲られたばかりの身体を光の下に晒すことに抵抗を感じたが、御堂自身も克哉の身体をしっかりこの眼で見て触れて感じたかった。克哉と数えきれないほど身体を重ねてきたのに、自らの奥から湧き上がる劣情に顔が灼けるように火照る。
 無意識のうちに手が伸び、克哉のシャツのボタンに指をかける。克哉のシャツを脱がそうとするその指を克哉は止めなかった。むしろ、克哉は自らネクタイのノットに指をかけて衣擦れの音とともにネクタイを取り去る。克哉は上半身を起こして、ジャケットごとシャツを脱ぎ捨てた。滑らかな肌と引き締まった精悍な体躯が露わになる。その身体に視線が縫い付けられた。克哉は口元に笑みを浮かべると、御堂の顔を両手で包んだ。
 再び、唇が重なる。何度も音を立てて浅いキスと深いキスを交わす。柔らかい唇、熱い舌が触れ合い音を立てる。
「んっ……ふっ…」
 滾る欲求が波のように押し寄せる。気付けば、克哉の手が体幹を滑り、下着の上から御堂の性器に触れていた。焦らすような強さと速度で撫で上げられる。既に張りつめていたそこは形がはっきりと浮き出て、先端から溢れた雫が下着をぐっしょりと濡らしていく。克哉が喉を鳴らして笑う。
「もうこんなにしているのか」
「…君も他人のこと言えないだろう」
 すっかり形を変えた克哉の性器がスラックスを通して膝に当たる。
「違いない」
 軽く笑いながら克哉は空いた手で御堂の乱れた前髪を掻き上げ撫でつけた。克哉の肩に回していた両手に力を込める。情欲に染まった自分の顔を見つめる、その蒼い虹彩に克哉を求めた。
「君が、欲しい」
 克哉の眼が眇められ、次の瞬間、肌の輪郭が重なった。
 互いに全裸になり、鼓動とともに跳ね上がる体温を感じ合う。明るい室内で全身を詳らかに観察するように視線が這う。その全てを透かし見ようとする克哉の眸に、羞恥と怖れを感じ視線を伏せた。伏せて睫毛を震わせている瞼に啄むようなキスを落とされた。
「目を閉じるな。俺を見ろ」
「佐伯…」
 低音の声で優しく煽られて、恐る恐る瞼を開く。真上から自分をまっすぐと見下ろす猛禽のような鋭い双眸と端正な顔立ちが鮮やかな輪郭を持って視界に飛び込み、心臓が跳ねた。見慣れているはずの克哉の顔が何故かとても新鮮に感じられた。息を呑んで見惚れていると、克哉の顔が視界の下に消えた。
 胸へと唇と舌が這わされる。既に色付いた胸の突起を食まれ、痛みと痺れがはしる。次の瞬間にはなだめるように柔らかく舐められ、また食まれる。
「あぁっ……うっ、…ひ……」
 刺激を与えられるたびに身体が引き攣れる。痛いほど勃ち上った硬い茎に克哉の指が絡みつき、先端から溢れた蜜を裏筋から括れへと濡れ音を立てながら広げていく。同時に、後孔に指が埋め込まれ、揉み解されていく。
「……っ、あっ。……くぅ」
 克哉の背中にしがみつき、肩口に顔を埋め、下腹部を炙り続けるその刺激に耐える。
 二本目、三本目、克哉の指を後孔に呑み込まされ、その縁を淫らに拡げられる。閉じられていた粘膜が開かれ、外気に触れる。その指から逃れようとしているのか、さらに求めようとしているのか、気付けば自然と下肢が開き腰が揺れる。他方の手で克哉に腰を掴まれ、持ち上げられた。克哉の腰の上に自らの腰を据えられさせる。
 後孔に入れられた指が、克哉の屹立に位置を合わせて引き抜かれた。その粘膜をめくられる感触に切なげな声が漏れる。弄られてひくつく蕾に克哉の先端が触れる。上半身を起こした克哉と向き合う格好になり、間近に近づいた顔に熱い吐息がかかる。
「俺が欲しい、ということを見せてください」
「佐、伯っ……」
 その意味するところを知り、御堂は懇願するように肩にかけた手に力を込めて克哉に潤んだ双眸を向ける。克哉はそんな御堂を唆すように真摯で優しげな眼差しを返す。汗ばんだ克哉の身体が光を撥ねてうっすらと輝いていた。
「ほら、腰を下げて」
「くぅっ」
 克哉が優しく御堂の腰を撫でる。その言葉と仕草に促され、そろそろと腰を落とした。柔らかく解された粘膜は克哉の先端を徐々に呑み込んでいく。半ばまで収めたところで、その圧迫感に苦しくなったが、克哉に腰を軽く揺さぶられると足腰から力が抜けてさらに身体が沈み、克哉自身を根元まで呑み込んだ。克哉が御堂の体内に収められた様を確かめるように、結合部の拡げられた粘膜の縁を指でなぞる。
「ああっ!」
 痺れるような疼きが身体の中心から頭まで走り、身体が弓なりに仰け反る。バランスを崩しかけた身体を克哉に抱き留められた。
「御堂」
 克哉に熱っぽく顔を覗きこまれ、唇を近づけられた。自らその唇を塞ぎに行く。克哉の御堂を見詰めるその眦にわずかに朱が差し、その双眸が快楽で揺らめいていたが、そこに気を遣る余裕はなかった。
「ふ……、あっ!……佐、伯っ」
 克哉に腰を突き上げられる度に喘ぎ声が漏れ、唇が離れ、再び唇を重ねる。その唇が逃れないように克哉の頭を掻き抱き、その身体が離れないように克哉の腰に回した脚に力を込めて挟み込む。
――もう、二度と離すものか。
 突然、強い感情が湧き上がり、揺さぶられる。腕の中に抱えた恋人に対して愛しさがこみ上げる。絶え間なく襲う快楽と突然沸き上がった激しい感情。自分の理性に手綱をつけることが出来ずに、翻弄される。
 克哉の両手が御堂の背中に回り、その峻烈な昂ぶりをなだめようと優しく抱き留め、その肌をゆったりと撫でまわした。離した唇を御堂の耳に近付け、芯を持った声で囁く。
「俺はもう、あんたを置いてどこにも行ったりしない」
 自身の心の内を読み取られたような言葉に、驚いて克哉の顔に視線を向けた。強い光を宿した眸がそれに応える。
「なっ……佐伯っ、――くぅ」
 その真意を問おうと口を開きかけたところで、再び唇を塞がれる。また同時に、克哉の手によって性器を煽るように扱かれて、身体の芯を悦楽の波が痺れとともに走る。
 思考が散らばり、快楽に染め上げられていく。何も考えられなくなる前に、伝えなくてはいけない言葉があった。
 ほんの少しだけ、唇を離して御堂は囁いた。
「克哉、愛している」
「孝典、俺も、だ」
 返された克哉の言葉に、今までにないほどの至福の悦びを感じながら、自らの限界を解き放った。一瞬遅れて、克哉の熱が体内に爆ぜる。
 午後の日差しが満ちる明るい部屋の中、意識が甘く溶けて、その輪郭を失っていった。

(17)
In the Dark Room あとがき

 最後までお付き合いいただきありがとうございます。
 また、連載中は多数の拍手をいただき感謝しております。
 題名に合わせて、深夜0時過ぎにUPされるように予約投稿して、管理人はさっさと就寝していたのですが、朝起きると既に拍手を多くいただいており、皆さん夜型なんだなあ(もしくは早起き型?))、と思いつつもとても嬉しかったです。
 お陰様でモチベーションが途切れることなく、更新できました。

 よろしければ、本作を書くに至った経緯でも。
 鬼畜眼鏡、無印は嗜虐エンドに一番衝撃を受けましたが、鬼畜眼鏡Rは好きにしろエンドに一番衝撃を受けました。
 御堂さん視点で見てしまうせいか、取り残される御堂さんが可哀想で可哀想で。
 せっかく二人で気持ちが通じ合って互いに手を取り合って歩み始めた矢先に、あんな別れが起きてしまうとは。
 このバッドエンド、何が一番つらいって、御堂さんに一言も別れを告げず眼鏡克哉が消え去ってしまうのですよね。
自分が無視したせいで、と自責の念に駆られ、どこかで生きているかもしれない、自分を待っていてくれるかもしれない、と眼鏡克哉に囚われて前を向けない御堂さんが容易に想像できて泣けました。
 このバッドエンドの眼鏡克哉、最後までどうしようもなく駄目な選択を取ってしまいます。駄目すぎてどこから手を付けていいかわからないほどです。この補完を考える時に、このエンドの眼鏡克哉は、自分の行動に対する何らかのけじめをつけるべきだと考えました。どのバッドエンドでもそうですが、バッドエンドの眼鏡克哉は自分の行動に向き合い、真摯に決着をつけてこそ、二人の運命が開けると信じています。
 好きにしろエンドの眼鏡克哉のけじめは、御堂さんにしっかりと別れを告げることこそが眼鏡克哉の贖罪であり決着の付け方だと思いました。
 あのエンドで鳴っていた携帯電話。あそこで眼鏡克哉は電話を取って、一言別れを告げていれば、少しは救われていたのかもしれません。
 そんな眼鏡克哉にどうしても言わせたい台詞がありました。
 その台詞は、SSの題名が『In the Dark Room』と決まる前までの仮題として使っていました。その台詞は『Farewell, My Lovely』。
 分かった方も多いかと思いますが、元ネタはレイモンド・チャンドラーの小説の題名『(邦題)さらば、愛しき女よ』(村上春樹の邦訳では『さよなら、愛しい人』)です。
 “その瞬間、意識といえるものは永遠に失われてしまった”の瀕死の状態からこの一言を言わすためだけに書き上げたのがこのSSです。その字数、約8万字弱。お付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。
 8万字弱書いた割には、口に出せずに心の中の一言になってしまいましたが…。挙句、壮大な夢落ちに。ですが、グッドエンドに合流させてあげたい管理人の想いが多いに詰まっておりますのでお許しくださいませ(出来れば澤村も救ってあげたかったので)。
 このSSの中の眼鏡克哉は御堂さんとは違う世界に生きています。御堂さんからしたら幽霊的な存在です。なんとなくイメージとしてあったのは、映画『ゴースト/ニューヨークの幻』で死んで幽霊になった主人公が、その存在に気付かない恋人をそっと背後から抱きしめるシーン。傍にいながらも、互いに想いあいながらも触れ合うことも恋人に気付かれることも出来ない関係に胸が締め付けられました。そんな二人の距離感をこのSSでも目指しました。
 Mr. Rは悪者になってもらいましたが、その根底にあるのは克哉への歪んだ執着でしょうか。御堂さんと二人で克哉を取り合う構図になっています。御堂さんからしたら寝取られですが。眼鏡克哉、なんだかんだで皆からとても愛されています。
 他のSSを書く合間の気分転換用のSSとして書き始めたせいか、プロットから含めるとそれなりに長い期間書いていました(書き溜めてからUPした分、更新は早かったですが)。後から見直すと途切れ途切れで書いていたこともあり、話が一貫していなかったり重複していたりとUPの際は訂正に追われていました。誤字脱字が多くて今でも気付いてはちょいちょい修正しております。
 題名はギリギリまで『Farewell, My Lovely』を使おうか迷っていたのですが、これを使うと悲劇しか予感させないので、差し替えました。
 管理人のご都合主義なのですが、自分で補完を書く限りは、メガミドの二人はやっぱりハッピーエンドを迎えさせてあげたいのですよね。Mr. R的にはここで眼鏡克哉を手放しても、契約のキスENDや君臨する場所ENDでいくらでも眼鏡克哉を手に入れられますので、見逃してほしいです。最終話のR18シーン、最後の最後で付けたしました。本当は省略するつもりだったのですが、よく考えると、この二人、SS内ではしっかりと気持ちを繋げ合う行為をしていないのですよね。このままグッドエンドに合流しても、藤田乱入エンド(絶妙のタイミングエンド)になると予想されますので、ちょっと無理やり感がありますが付けたしました。
 ちなみに、御堂さんの催眠効果があるという(?)ワイン薀蓄、当初は用いたシャトー・マルゴーの具体的なヴィンテージも決めていたのですが、飲むならともかくダメにしてしまうので伏せました。ワイン薀蓄も長ったらしくなってしまい申し訳ないです。ジッポーもダメにしてしまってすみません。普通のジッポーは防水もしっかりしています。
 なお、『さらば、愛しき女よ』はミステリー小説の傑作で、今回のSSと内容は全く関係ありませんが、お勧めです(村上春樹翻訳の方は読んでいませんが)。ハードボイルドの代名詞、探偵マーロウが活躍します。このマーロウと言えば、あの有名な台詞「男は強くなくては生きていけない、優しくなくては生きていく資格がない」の人物です。

 今回、無印エンド、資格の喪失を絡めていますが、実は他のCPのエンドも絡めています。
 Rの御克エンド『日常の終焉』がこっそりとオマージュで入っております。
 最初の無人の部屋に御堂さんが帰る場面、また、最後にRから眼鏡克哉を取り戻す際の台詞など、少し変えつつも場面場面で密かに使っております。
 御克カップルの二人も無事に再会できるように祈っております。

 皆様、最後までお付き合いいただきありがとうございました!m(__)m

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