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​いつかの朝の果実
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嗜虐の果ての補完SSになります。

現在と未来を変えるために過去をやり直す克哉。

 

​第五話まで更新しています。

視点:克哉

プロローグ
Pro

 取り返しのつかない罪、というものを佐伯克哉は、日々、目の前に突きつけられていた。

 部屋の照明は煌々と明るく、デザイナーズマンションとも言うべきアウトフレームの開放的な空間の広いリビングは常に美しく片付いている。外では真冬の冷たい風が鋭く吹き付けるが、部屋の中は風の音も響かず、常に一定に保たれた室温は季節を感じさせない。 誰もがうらやむ都心の一等地に建つマンションだ。

 それでも、克哉はこの部屋に戻るたびに、耳の後ろがざわざわと粟立ち、薄ら寒さを感じる。なぜならここには、この部屋の主である御堂孝典がいるからだ。

 

「御堂さん」

 

 克哉は御堂に向けて声をかけた。

 御堂はリビングのソファに腰掛け、克哉に背を向けていた。声をかけても、御堂はピクリとも動きもしない。そして、克哉も何の反応も御堂に期待していなかった。無言でソファの前へと回り込み、御堂の前に膝を付いた。見上げれば、うつむき加減の御堂の顔がある。その虚ろな眼差しは決して克哉に焦点を合わせることはない。

 一切の表情が削り取られた蒼白の顔。

 時折不規則な瞬きを繰り返すだけの虚無を湛えた眸。

 血の気の失せた肌、痩せ細った手足。

 ほんの微かに胸が上下してか細い呼吸が紡がれているおかげで、御堂が生きていることが分かる。だが、感情も意思もそこにはなく、ただ人の形をした物体がそこにあるだけだ。その様相は死体そのものと言っても過言ではない。

 

「御堂さん、そろそろベッドに行きましょうか」

 

 優しく声をかけるが、御堂の四肢はくたりと力を失い重力に従って垂れたままだ。日本人離れした高身長と長く伸びた手足を持つ御堂の身体は見る影もない。無駄なく引き締まった身体は、とうの昔に薄っぺらくなっている。今、御堂の姿勢を支えるのは体幹の筋肉ではなく、御堂の両横に並べられたクッションだけだ。

 今の御堂は克哉に抗うことも罵声を浴びせることもない。克哉は御堂の肩にそっと手を置いた。痩せ細った肩は頼りなく、慎重に扱わなければぽきりと折れてしまいそうだ。

 克哉がどれほど心を砕いて御堂の世話をしても、失ったものはもう元には戻らない、そんな確信が胸に染みこんでいる。

 失ったものとは何か。

 それは、心だ。

 今や御堂の中には暗渠(あんきょ)のような果てのない闇が広がっているのだろう。

 すべてを撥ねつけるような輝きと強さを宿した御堂の心は奈落に落ちて、粉々に砕け散ってしまった。克哉が壊したのだ。

 こうなった御堂を前にするとよく分かる。人間を人間たらしめる心、その核となるものは、何かを欲し愛するという欲求だ。克哉はそれを本能的に分かっていた。だから、御堂が愛したものを、ひとつひとつ目の前で壊していった。仕事も地位も、この部屋も。そして、御堂の誇りも自由も何もかもを奪い取り踏みにじった。その結果がこの姿だ。

 今の御堂は自分自身を愛することすらやめた。克哉に犯されいたぶり尽くされた自分自身に、何の未練もなくなったのだろう。愛するものを無くした御堂は静かに壊れていき、ある日、不可逆的な一線を超えた。

 それから数ヶ月経過したが、克哉はずっと御堂の世話をし続けている。

 御堂の身体は生命活動をかろうじて紡いでいるが、呼吸も鼓動も日々乏しくなってきていた。生きようとする意思を無くした身体は、慣性の法則のごとく惰性で生きているだけだ。最早、この肉体が朽ちるのも時間の問題だろう。

 しかし、だからといって克哉にはどうにもすることも出来なかった。

 壊れたものはもう戻らない。バラバラになった御堂の心の破片は闇に呑み込まれてしまった。後に残されたのは魂を失った虚ろな容れ物のみだ。

 御堂の肩に置いた手から、服越しにわずかな温かみを感じて、克哉はそっと詰めていた息を吐いた。

 この体温を感じることができるのは、あと幾ばくだろうか。

 

「……御堂」

 

 呟いた言葉は目の前の男を素通りして、静けさの中にかき消える。

 部屋に満ちるのは息が詰まるほどの静寂と、重くのしかかる絶望だ。御堂を浸す暗がりに、克哉も取り囲まれている。

 深く思い返すほどに胸を締め付けられた。どうしようもないやるせなさと後悔が克哉の胸を塞いでいる。

 取り返すことの出来ない過去から押し寄せる果てのない苦しみ。

 何を間違ったのか、どうすれば、この現実とここから続く未来を変えることが出来るのか。答えのない問いを延々と繰り返す。

 途切れることのない悔恨に、唇を噛みしめたときだった。

 突如静寂が乱された。

 

「過去を、やり直してみませんか?」

 

 背後から響いた声に、克哉はぎくりと身体を強ばらせた。御堂に触れていた手を動かさぬまま、首だけ動かして肩越しに振り返る。

 いつからその場にいたのか、全身を黒衣で覆った男が克哉の背後に立っていた。明るい室内で、その男の存在だけが空間が切り取られたかのように闇に沈んでいる。人ならざる異様な存在感を醸す男、その男を克哉は知っていた。

 男は克哉と視線が合うと、唇を優美な弧の形に歪め、そして、頭に被っていた黒のボルサリーノ帽を取った。緩やかに編み込まれた濃い金色の髪が零れる。腰まで伸びる長い金髪は自ら光を発しているかのように、まばゆく輝いていた。そして、その髪と同じ金の眸が丸眼鏡の奥から克哉を見つめている。

 

「こんばんは、佐伯さん」

「Mr.R……」

 

 声が掠れた。干上がる喉を潤すようにこくりと唾を呑み込んだ。

 この男、Mr.Rと名乗った男は、かつて克哉に眼鏡を与えた。その眼鏡を使ったおかげで克哉は自分を取り戻した。しかし、眼鏡がもたらしたのはそれだけではなかった。眼鏡がもたらす衝動に唆されるまま動いた結果がこの惨状だ。

 Mr.Rは眼鏡を克哉に渡したあと、二、三度克哉の前に現れたが、それきり興味を失ったのかのように姿を現すことはなかった。それが今、こうして、克哉の目の前に立っている。

 今更、何をしに来たのだろうか。

 それよりも、先ほどMr.Rは何かとても大事なことを口にしなかっただろうか。

 

「ええ、私はあなたにこう言いました。『過去をやり直してみませんか?』と」

 

 Mr.Rは克哉の心の内を読んだかのように返答した。

 

「あなたをその苦しみから解放して差し上げましょう」

 

 疑心と不信に満ちた眼差しを突き返す克哉に、Mr.Rは艶然とした微笑みを湛えたまま懐(ふところ)から何かを取り出して克哉に差し出した。

 

「これをどうぞ」

「柘榴だと?」

 

 Mr.Rの手の上にあるのは、一個の柘榴だった。茶色く乾いた果皮は大きく裂けて、その亀裂からは艶めくような赤さ果実が煌めいている。モノトーンの世界の中でその柘榴だけが色彩が持っているかのごとく、視界の中で際立って見えた。

 

「この果実を口にすれば、あなたは過去をやり直すことが出来ます。後悔と苦悩に満ちたこの現実を消し去ることさえ可能なのです」

「馬鹿馬鹿しい」

「どうでしょう。私の話が本当かどうか、試してみては?」

 

 そんな都合の良い話があってたまるか。そうは思ったものの、克哉は魅入られたように、その柘榴から目を離すことが出来なかった。

 この男が克哉に渡した眼鏡は克哉の未来をがらりと変えた。それならば、この柘榴は克哉の過去を変えることが出来るのではないか。

 もし本当に過去をやり直せたら……。

 この絶望に満ちた現実を変えることが出来るのだろうか。そして、奈落へと繋がる未来を消し去ることが出来たのだろうか。

 克哉は御堂から手を離し、立ち上がった。そして、Mr.Rから柘榴を受け取る。手の平にずしりとした重みを感じた。見れば見るほど普通の柘榴だ。だが、その艶めかしい果実の赤さに、口の中に唾がじゅわりとたまる。

 Mr.Rの笑みが深まり、克哉を見つめる金の眸が妖しく輝く。

 頭の片隅で理性が警鐘を鳴らした。

 この男が授けた眼鏡は克哉に何をもたらしたのか。それを分かっているのに、まだこの男を信用するのか。

 それでも、この柘榴を手にした時点で克哉の心は決まっていた。

 克哉は柘榴の硬い果皮を力任せに剥いて、果実に歯を立てた。ぷつりと柘榴が弾け、口の中に甘酸っぱい果汁が満ちた。鮮烈な柘榴の香りが鼻へと抜けていく。克哉は果実を深く味わうように目を瞑った。

 瞼の裏の暗闇に浸りながら、運命の分岐点へと思いを馳せる。

 すべての始まりの、あの会議室へ。

(1)
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 視界一面が真っ白になり、瞳孔が引き絞られた。

 明るい照明に照らされた広い部屋。楕円形に並べられたデスクと椅子。克哉にとって見慣れた光景が広がっている。ここは、MGN社の会議室だ。

 つい先ほどまでは御堂の部屋だった。視線を自分の身体に落とせばいつの間にか首元にはネクタイが締まり、スーツ姿になっていた。

 ふたたび顔を上げて周囲を確認しようとしたところで、憤りに満ちた声が耳元で響いた。

 

「こんな状況飲むって言うんですかっ!? これが出来なかったら八課は無くなりかねないんですよ!」

「それはそうですが……」

「課長っ!!」

 

 声が聞こえた方に顔を向ければ、克哉の真横に立つ本多が、食ってかかる勢いで課長の片桐に詰め寄っている。対する片桐は困惑しきった顔でうろたえていた。

 克哉を取り巻く状況を把握するのに時間はかからなかった。手には書類の束。そこに目を落とせばプロトファイバーの売上が書かれている。そしてその書類に記載された日付。克哉の記憶から半年以上巻き戻っている。

 

 ――ここは……。

 

 視線をあちこちに向けるが記憶とまったく違わぬ光景だ。

 この場面はよく覚えていた。プロトファイバーの営業状況をMGN社に報告する週一のミーティングだ。御堂の姿はここにはない。ということは、ミーティングが終了した直後だろう。

 克哉が手にしているのはキクチ八課が用意した資料だけではない。MGN社のロゴが入った紙には新規の売上目標が書かれている。これは御堂が配ったものだろう。そして、そこに書かれている数字は当初の目標から大幅に引き上げられていて、一方的に変更された売上目標について本多は憤っているのだ。

 この場で自分はどう動いたのか、正確に思い出す。隣でいきり立つ本多をよそに、克哉は眼鏡を押し上げると落ち着いた声で言った。

 

「この数字はどう見ても常識的じゃない。御堂部長と掛け合ってくる」

 

 突然声を発した克哉に本多が驚いたように顔を向けた。

 

「克哉……? それなら俺も行く!」

「いや、本多と片桐課長は社で待っていてください」

 

 そうぴしゃりと言い切る。本多がすぐさま反論しようとしたが、それを押しとどめ、二人を会議室に残して、克哉は執務室へと向かった。

 勝手知ったるMGN社の開発部、その執務室の前に立った。ドアには『御堂孝典』の名が掲げられている。先ほどまで克哉がいた世界では、このネームプレートには『佐伯克哉』の名が刻まれていた。克哉が御堂の後を継いで開発部の部長になったのだ。

 克哉はネームプレートをまじまじと見詰めながら、ドアを三回ノックした。

 果たして、本当にここに御堂がいるのか。

 握りしめた手が汗をかいていた。心臓が不穏に乱れ打ち、自分がひどく緊張していることを他人事のように感じ取る。

 御堂の姿を頭に思い描いた。だが、思い出すのは今の今までずっと目にしていた御堂の姿だ。何も映すことのない眸、筋肉がそげ落ち、折れそうなほど薄くなった体躯。自ら何も動こうとしない抜け殻となった御堂だ。克哉は先ほどまで御堂の部屋にいたはずだった。それが、いまやMGN社にいる。それも、キクチ八課のメンバーとなって。

 本当に過去に戻ったのだろうか。過去に戻ったのなら、御堂が存在するはずだ。かつての姿の御堂が。

 ノックからややあって、ドア越しにくぐもった返事が聞こえた。克哉はゆっくりとドアを開けた。

 部屋の中に満ちるまばゆい光に目が眩んだ。それでも目を見開いて視界に飛び込む光景を見極めようとした。

 一人の男がデスクの前に立っていた。

 窓から差しこむ初夏の強い逆光を背負った長身のシルエット。きっちりと櫛が入った髪は一筋の乱れなく撫でつけられ、仕立ての良いスリーピースのスーツと相まって、一分の隙もない姿だ。まっすぐに伸びた背と均整の取れた身体つき。モデルかと見まがうほどに整った顔立ちは冷ややかで、無粋な来客を見据える眼差しは鋭く、そこに確かな意思が宿っているのが分かる。

 そこにいるのは間違いなく、御堂孝典だった。

 御堂は克哉を睨み付けると冷ややかに言った。

 

「なんの用だ? 今日のミーティングは終わったはずだが」

 ――御堂……。

 

 ベルヴェットのように滑らかで深みのある声。久しく耳にすることがなかった響きに、心の中で何かが爆ぜた。

 静かな興奮が克哉の全身を満たしていく。魂を失い骸(むくろ)と化した御堂が、在りし日の姿で克哉の前に立っている。

 衝撃に言葉を失っている克哉に御堂が不愉快そうに眉をひそめた。

 

「用がないなら帰れ」

 

 その声で現実に引き戻された。

 そうだった。克哉がここに来たのはちゃんとした理由がある。御堂の顔をまっすぐに見返しながら口を開いた。

 

「御堂部長が先ほど提示した売上目標ですが……」

「それがどうかしたか?」

 

 御堂は平然と返事をした。克哉に向けられた眼差しが侮蔑を含み、口元には薄い笑みさえ湛えている。克哉が何をしに来たか当然分かっていて、その上で挑発している。この言葉も表情も何もかもが克哉の記憶と一致していた。

 克哉はひとつ息を吐いた。自分自身を落ち着ける。

 この後どんな展開が待ち構えているか、克哉は知っていた。

 売上目標を撤回しろと要求すれば、御堂は接待を求めてくる。その結果、克哉と御堂の関係は狂い始める。

 だが、今回は決して同じ轍は踏まない。

 目まぐるしく思考を巡らせる。

 考えろ、考えろ。

 考えるんだ、佐伯克哉。

 どうすれば、あの未来を回避できるのか。そして、自分が求める未来を手に入れることが出来るのか。

 過去の自分と同じ選択をすれば、同じ未来が待っている。

 となれば、答えはひとつしかなかった。

 ふたたび黙り込んだ克哉に御堂は苛立ったように片眉を吊り上げて言った。

 

「まさか、売上目標を撤回しろなどと言ってくる気か?」

「いいえ」

「それなら何しに来た?」

 

 克哉はまっすぐに御堂を見返し、しっかりとした口調で言った。

 

「俺たちキクチ八課はあなたの設定した目標を達成してみせます」

「ほう?」

 

 想定外の言葉だったらしい。一瞬言葉を失った御堂が、眉間に深い皺を刻んで克哉を見据えた。わざわざそんなことを宣言しに来た克哉の真意を計りかねているようだ。克哉は御堂の視線を受け止めながらにこりと笑って言う。

 

「ですから、御堂部長も俺たちに協力してください。目標達成のために」

「……営業は君らの領分だろう。私に責任を押し付ける気か?」

「まさか。営業はもちろん俺たちキクチ八課が粉骨砕身の覚悟で臨みます。ですが、プロトファイバーについて一番詳しいのはあなたです。今回の目標修正も我々の働きを評価していただいたうえでの判断だと理解しております。ですから、今日のように、ご指導ご鞭撻を引き続きお願いしたいということです。もちろん、御堂部長の可能な範囲で構いません」

 

 にこやかな笑みを保ちながら、今日のように、と言うところを暗に強調してみせる。克哉への意趣返しである目標修正を逆手に取られて、御堂は渋い表情をした。だが、何か具体的な要求をされたわけではないし、開発側と営業側が協力するのは当然と言えば当然だ。腑に落ちない顔をしながらも

 

「協力出来る範囲ならいいだろう」

 

 と言うに留めた。克哉もそれ以上の言質は求めなかった。

 

「もちろんです。どうぞよろしくお願いいたします」

「せいぜい死にもぐるいで頑張りたまえ」

 

 御堂は鼻で笑うと、顎を上げて面談の終了を合図した。克哉は深々と一礼して部屋を辞した。

 

 

 

「どうだった? 克哉!?」

「佐伯君、どうでした?」

 

 八課に戻るなり、本多と片桐に詰め寄られた。二人とも期待と不安がないまぜになった顔で、克哉の言葉を固唾を呑むようにして待っている。克哉は平然と頷いて、言った。

 

「御堂部長に啖呵(たんか)を切った」

「啖呵だと?」

「ああ、売上目標を達成してみせると」

「マジかよ……」

 

 事もなげにそう告げた克哉に本多が目を剥く。その横では片桐の顔がいっそう青ざめる。

 

「ということは、上方修正された売上目標は撤回されないということですね」

「ええ、そういうことになります。課長」

 

 片桐は言葉を失い押し黙った。克哉は言葉を継ぐ。

 

「ですが、言質も取りました。御堂部長は俺たちに全面的に協力してくれる。それに俺に考えがある」

 

 全面的に、というのは脚色しているが、全面的か部分的か、はたまた協力する気は皆無なのかは、この際、関係ないだろう。しかし、本多は納得しなかった。

 

「おい、協力ったって……相手は親会社の部長だろ? あんな態度で何してくれるっていうんだよ」

「本多、無駄口叩いてないで仕事に戻るぞ。俺たちの仕事はプロトファイバーを一本でも多く売ることだろう」

「そりゃそうだけど、俺たちの首がかかっているんだぞ」

「それなら尚更だ。お前はとっとと外回りにでろ」

 

 上背があり体格もよい本多に迫られると、それだけで圧迫感を感じる。だが、克哉は本多を軽くあしらうと片桐に顔を向けた。改まった口調で言う。

 

「片桐課長、お願いがあります」

「はい?」

「売上目標を達成するための販売戦略は俺が考えます。……俺には勝算はあります。だから、課長は俺の指示を部内に伝えてください」

「佐伯君、それは……」

 

 キクチ八課の事実上の実権を握らせろと迫る克哉に、片桐が言葉を詰まらせる。すかさず、本多が横から口を挟んだ。

 

「克哉、何言っているんだ! お前、正気かよ。それに勝算って一体……」

「本多、俺なら出来る。だが、俺だけじゃ出来ない」

 

 克哉は本多を強い眼差しで黙らせると、片桐に身体を二つに折るようにして深く頭を下げた。

 

「ですから、課長、どうかお願いします。俺にやらせてください」

「克哉……」

 

 今までにない克哉の殊勝な態度に、本多は困惑したように呟いた。

 片桐はしばしの間黙り込み、そして、表情を緩めるといつもの柔らかな口調で言った。

 

「佐伯君、顔を上げてください。君の覚悟は分かりました。佐伯君の指示を僕からの指示として伝えます」

「課長、そんなこと言って、キクチ八課の進退がかかっているんですよ!」

「責任を取るのは僕の仕事ですから。大丈夫です。僕は佐伯君を信じます」

「課長、ありがとうございます」

 

 片桐の心強い言葉に、克哉は胸を撫で下ろした。本多は未だに納得がいかない風だが、片桐の判断に不承不承といった顔で口を閉じる。

 社に戻ると、片桐からキクチ八課のメンバーに上方修正された目標値が伝えられた。メンバーの動揺は想定範囲内だ。片桐から引き継いで克哉が戦略を説明する。克哉の説得力に満ちた言葉にキクチ八課の面々は半信半疑ながらも耳を傾けている。だが、すぐに克哉を信用するだろう。なぜなら、克哉の自信は決してはったりではない。克哉は未来を知っているというアドバンテージがあるのだ。

 克哉は、すでに一度プロトファイバーの営業を手がけているのだ。どこの社がどれだけの発注をかけてくれるのか。どう攻略すれば発注を得られるのか頭の中にすべて入っている。だから、最短距離で売上本数を稼ぐ自信があった。

 しかし、それでもまだ御堂が設定した売上目標には足らない。既存の販売ルートをすべて活用するだけではなく、さらにもう一手、まったく新しい販路の開拓が必要になる。なりふり構っている場合ではなかった。スタンドプレーではこの目標は達成できない。キクチ八課全員が総出を上げて挑まねばならない。

 克哉は新規販路の開拓を担当し、他のメンバーは既存の取引先の営業回りで業務を手早く分配した。そして、克哉はデスクのパソコンを立ち上げるとプロトファイバーの資料を引っ張り出した。それだけではなくキクチが過去に手がけた飲料水の営業資料もかき集め、中身を詳細に検証していった。見落としているところがないかどうか。

 御堂が提示した売上目標を受け容れることによって、接待を要求されることはなくなった。しかし、克哉達は茨(いばら)の道を歩むことになってしまった。克哉に巻き込まれたキクチ八課のメンバーには多少申し訳なく思ったが、こうなった以上は腹をくくってもらうしかないだろう。

 それでも、この選択で良かったのかどうか疑問は残る。正解の道筋を探さなければならない。あの、絶望に満ちた未来を消し去るために。

 

 

 

 その日、克哉は夜遅くまで残業をしながら時間を確認した。中途半端に作業は残っていたが、仕事を切り上げるとタクシーを拾ってある場所へと向かった。高級マンションが立ち並ぶ一角で降り、一棟のマンションのエントランス近くの目立たぬ暗がりに佇んだ。

 ここは御堂のマンションだった。克哉は気配を消して、マンションを出入りする人間をつぶさに観察した。御堂の行動パターンは把握している。克哉の予想が正しければ、そろそろ仕事を終えて帰ってくるはずだ。

 湿度の高い真夏の夜の熱気がスーツに籠もり、汗がうなじを伝ったところで、目当ての男を見つけた。

 すっと背を伸ばした立ち姿は見間違えようもない。遠目からも分かる長身とすらりと伸びた四肢。そして、無駄のない動きは、ただ歩いているだけでも他の人間とは違う品格がある。自然と周りの人間を惹きつけながらも、決して安易に近づくことを許さない気迫が滲み出ているのだ。

 そんな御堂の一挙手一投足をじっと見つめた。胸に静かな感動がさざ波を広げていった。

 本来なら今頃、御堂は自室で凌辱されていたはずだ。克哉によって。そして、最終的には心を壊し、廃人となった。だが、この世界の御堂は何事もなかったのかのように歩いている。

 御堂は道ばたの暗がりに潜む克哉に気付くことなく、目の前を早足で横切っていった。

 克哉から遠ざかるまっすぐな背中を見つめつつ、懐からタバコを取り出した。火を点けて口に咥える。大きく息を吸って、タバコの煙を胸に満たした。ニコチンが鋭く血管を締め上げ、意識を冴え冴えと澄み渡らせる。

 今ここで御堂の部屋を訪ねることもできたが、そのつもりはなかった。御堂は今夜、静かな夜を過ごすはずだ。

 克哉がひとつ選択を変えたことによって結果が変わった。

 しかし、これだけでは不十分だ。

 克哉は不幸な未来の形を覚えている。そしてその未来に至るまでの自分の選択も。

 ひとつの選択が未来を大きく変えるなら、ひとつの過ちが不幸な未来を簡単に呼び戻すこともあるだろう。だから、慎重であらねばならない。決してあの最悪な未来に辿り着かないように。

 あの未来はいつどこで忍び寄ってくるのか分からない。完全に消滅したと確信するまでは気を抜いてはならない。

 ふう、と克哉は大きく息を吐いて、空を見上げた。そびえ立つ高層マンションの明かりが夜空に伸びて、星の光を溶かしている。

 口から吐き出した紫煙が都会の淀んだ夜空へと立ちのぼり、闇を白く濁らせた。

(2)
2

 ひゅん、と鞭が空を切った。

 

「ん……、ぐっ、ぁんあっ」

 

 口に噛まされたギャグから漏れるくぐもった声と共に拘束された白い裸体が跳ねる。御堂の肩から胸にかけて一筋の赤い筋が浮いた。いくらプレイ用の乗馬鞭とはいえ、力加減でいくらでも苦痛を与えられる。

 御堂は壁にもたれかかるような体勢で両手は後ろ手に手錠をかけられ、足は大きく広げた状態で金属のバーに足首を固定されている。急所をさらけ出しながら、どうあっても克哉の鞭から逃げることはできない屈辱的な格好だ。

 

「はしたないぞ、御堂。こんなに涎を垂らして」

「く……ぅ、んぁっ」

 

 克哉は唇の端を歪めながら、鞭の先で御堂のペニスをなぞり上げた。根元を戒められたペニスはいやらしいほどに充血し、先端から苦しげに蜜を滴らせている。尻の狭間からはグロテスクな形状のバイブが顔を覗かせ、不規則に振動していた。克哉はペニスの先端の切れ込みに鞭の先をねじ込むようにして蜜をすくい上げると、御堂が苦しげにうめき声を上げた。

 

「ぅう……」

 

 粘液でてらてらと光る鞭先を、みみず腫れの生々しい傷に触れさせた。鋭い痛みが走ったのか御堂がびくりと身体を強ばらせる。克哉は足で御堂の股間を無造作に踏みつけた。

 

「っ、ぁ……ぐっ」

 

 御堂がびくりと腰を震わせる。踏まれるという屈辱的な行為にさえ御堂は感じてしまっているらしい。硬く張り詰めたペニスが足を押し返す。御堂は不自由ながらも克哉の足から逃げようとした。それを嘲笑しながらさらに強く踏みつけた。

 

「あんたは本当にドMだな。軽蔑している俺に踏まれて感じるとはな」

「ふ、ん――ッ!」

 

 追い詰められながらも、憎しみを滾らせた眼差しが克哉を睨み付ける。

 まだそんな顔が出来るのかと感心する。部屋に監禁されただけでなく、こうして日々弄ばれ、さらには御堂が大切にしていた地位も名誉も何もかも奪い取られているのに、何がここまで御堂を抗わせるのか。

 だが、そうでなくては、面白くない。

 克哉は御堂の前に屈み込み、御堂の両脚を固定していたバーを外した。これから克哉が何をしようとするのか、察した御堂が目を見開く。自由になった足が克哉を狙って蹴り上げてきたが、それを易々と押さえ込んだ。御堂が咥え込んでいるバイブを掴み、奥へと押し込んだ。ぐちゅっと濡れた音が立ち、御堂が四肢を突っ張らせた。御堂の腰を抱えるようにして、うねるバイブを前後させる。

 射精を封じられ、行き場のない熱を容赦なくかき回されて御堂の身体がのたうった。赤く腫れたペニスの先端からは涙のように透明な蜜が溢れ続ける。

 

「ひっ、ぁ……はッ、ん、ふぁ」

「淫乱なあんたは、玩具じゃ我慢できないだろう?」

 

 熟れきった柘榴のように赤い粘膜をめくり上げながら、根元まで挿入したバイブをゆっくりと引き抜けば、切ない刺激を惜しむかのように御堂の腰がいやらしく蠢いた。

 

「く……は、ぁ……っ」

 

 御堂の口に噛ませていたギャグを外してやった。口の中に溜まっていた唾液が口の端から溢れ、御堂が酸欠の金魚のように口を喘がせる。

 しどけなく綻んだアヌス、そこに自身の切っ先をあてがった。

 

「よせ…っ、さえ……っ、ひっ、ぁああああっ」

 

 御堂は痺れた顎を動かして不明瞭な言葉で克哉を押しとどめようとするが、それを無視してぐっと腰を進めた。ずっとバイブで苛まされていた中は、柔らかく蕩けて克哉に絡みついてくる。

 容赦なく奥まで穿つと御堂が喉を反らして声を上げた。その叫びが心地よい。わざわざギャグを外したのは、御堂の悲鳴を聞くためだ。

 

「いい声で鳴くじゃないか。よほど俺に犯されたかったのか?」

「違……っ、や…っ、はな…せっ、んぁ、い……ッ」

 

 御堂は嫌だと首を振って拒絶する。だが、それをせせら笑いながら克哉は腰を使いはじめた。窮屈な内腔を克哉の形に拓かれて、御堂の顔が苦痛と快楽に染まる。強制的に身体の奥から引きずり出された快感に、御堂のペニスは痛々しいほどに張り詰めてしとどに透明な蜜を溢れさせた。

 御堂を揺さぶり、腰を打ちつける度に、御堂の喉から呻く声が押し出される。それが次第に嬌声に似たなまめかしいものへと変わっていく。

 すべての抵抗を剥ぎ取られ、克哉のなすがままに凌辱されるしかない存在、それが御堂だ。

 

「ほら、イけよ」

 

 御堂を深く貫きながら、御堂のペニスの根元を戒めるベルトを外した。御堂が屈辱的な射精を堪えようと下腹に力を籠める。それをあざ笑いながら御堂の尖りきった乳首をきつくつねった。

 

「ひっ! ――ぁ、ああああっ!」

 

 突如与えられた鋭い痛みに、御堂は喉を仰け反らせ背を弓なりにしならせ痙攣する。御堂がその痛みから逃れようと身体を捩り、克哉は角度を変えて刺激していなかった部分を抉り抜いた。その瞬間、御堂の箍が外れてしまったらしい。ペニスがびくりと震え、精液を迸らせた。

 強く腰を突き入れる度に御堂のペニスから白濁がびゅくびゅくと吐き出される。止められない絶頂にガクガク震える御堂を容赦なく穿った。御堂は極限まで膨れ上がった極みから抜けられなくなったようで、身体は緊張と弛緩を繰り返しながら喘ぎ続けている。

 大きく見開かれた双眸の眦から次から次に滴が伝った。恥辱に歪む御堂の顔を克哉は嗜虐的な興奮とともに眺めた。

 ただの性の玩具のように御堂を貶める。そんな手酷い扱われ方でさえ御堂は身もだえするほどに感じてしまっている。

 後どれくらいこの男を痛めつければ、克哉のところに堕ちてくるのか。克哉は冷たい笑みを浮かべながら御堂の最奥に精液を注ぎ込んだ。

 

 

 

 

「――ッ」

 

 瞼を通して明るい日差しが差し込んでくる。克哉は瞼を押し上げた。夏の朝の強い日差しが、薄暗い部屋にカーテンの隙間から一筋の煌めく線を描いていた。黒目だけを動かして周囲を確認すれば、克哉は安っぽいワンルームのベッドの上にいた。窓の外からは朝の喧噪が薄い壁を通して響いてくる。学生時代から使っている自分の部屋だ。

 

 ――夢か。

 

 克哉は自分の中に凝る熱をなだめるように大きく息を吐いた。興奮しきった性器が痛いほどに張り詰めている。今の出来事が夢だったことに安堵するが、それと同時に自分の身体の素直な反応に嫌な気持ちになる。

 夢の中で克哉は御堂を凌辱し踏みにじることに欲情を覚えていた。いいや、あれは夢というひと言では片づけることは出来ない。この世界とは別の時間軸で実際にあった出来事だ。御堂を凌辱した自分と今の自分は紛れもなく同一人物で、克哉の中の獣は今でも箍が外れた瞬間に、いとも容易く御堂を襲うのだろう。

 克哉は眉間を指で押さえ、元いた世界を思い出す。

 静寂と薄闇で満たされた部屋。そこに独り佇む男の、すべての感情を失った顔。不規則に瞬きを繰り返す双眸には、描写する必要がないほどの虚無がどこまでも広がっていた。その御堂の姿をありありと思い浮かべ、自分の中の熱を氷漬けにした。そして、彼我(ひが)の立場を見つめ直す。御堂と克哉は、親会社の部長と子会社のヒラ社員。ただ、それだけの関係だ。

 ただ、それだけの……。

 

 

 

 克哉が陣頭指揮を取ったプロトファイバーの営業はすぐさま成果を出していた。的確な指示、相手のニーズを先読みしたかのようなキクチ八課の営業は次々と契約に結びついている。

 それはそうだ。プロトファイバーの営業を一度経験し、そのすべてを知悉(ちしつ)している克哉からしたら、この快進撃は当然といえる。解答を見ながら問題を解いているようなものだ。週一で行われるMGN社のミーティングでも御堂を黙らせるだけの結果を示し、キクチ八課のメンバーは克哉に全幅の信頼を置くようになってきていた。

 克哉は外回りの営業活動は最低限にして、ひたすらデスクで資料収集と分析を行っていた。今までとはまったく別の新しい販路への一手、そのための資料をまとめると、克哉はMGN社へと出向き、御堂との面会を求めた。

 かつて御堂を追い詰めたときは、克哉からの面会はことごとく断られたが、今回はあっさりと面会が認められた。まだ御堂にとって克哉が警戒するほどの相手になってないからだろう。つまり、御堂にとって、いまだ克哉は取るに足らない人間ということだ。

 アポイントメントの時間通りに執務室を尋ねると、御堂はキーボードを叩いていた手を止め、克哉を冷然とした顔で一瞥した。

 

「何か用か? それとも根を上げに来たのか」

「まさか。キクチ八課の営業成績はよくご存じでしょう?」

 

 にっこり笑って御堂の先制攻撃を軽くかわしたが、御堂は片眉を吊り上げて克哉を睨み付けた。

 

「あの程度で満足しろと? まだ目標値まで達してないだろう」

「ですから、御堂部長にご相談に上がりました」

 

 克哉は向けられた嫌みにも余裕の笑みを返すと、御堂のデスクに歩みを寄せた。鞄の中から資料を取り出し、御堂の前に広げる。それは、これから克哉が営業をかける相手会社のパンフレットだ。

 

「御堂部長、あなたの力をお借りしたい」

 

 パンフレットを手に取った御堂が訝しげに眉根を寄せる。

 

「私の?」

「ええ。朝比奈フィットネスグループにプロトファイバーを売り込もうと考えています」

「朝比奈フィットネスだと……」

 

 眉間に深い皺を刻む御堂に、克哉は説明する。

 朝比奈フィットネスグループはスポーツジムを全国展開している国内最大手だ。そのジムのドリンクとしてプロトファイバーが採用されれば、国内にある朝比奈ジム、二百五十店舗に並べられ、五十万人の会員が潜在的顧客となる。となれば、プロトファイバーの売上は飛躍的に跳ね上がるはずだ。

 克哉は「失礼」と言って御堂が手にするパンフレットを取り上げると会社紹介のページを開き、にこやかな顔写真入りで紹介されている男を指さした。

 

「朝比奈フィットネスグループの施設事業本部部長、古賀裕介。この方に俺を紹介してくれませんか」

 

 御堂は黙したまま克哉を見上げた。鋭い眼差しが克哉を射る。克哉は言葉を続けた。

 

「古賀部長は東慶大法学部出身です。卒業年度はあなたと同じ。つまり、あなたの大学時代の同期です。面識があるのでは?」

「……ああ、そうだ。よく調べたな」

 

 冷ややかな口調だったがあからさまな拒絶はない。克哉はたたみかけるように言った。

 

「俺たちはいわば同じチームのメンバーです。あなたは俺たちに協力してくれると約束しました。俺を古賀部長に引き合わせてください」

 

 御堂はそれには答えず、じろりと克哉を見返した。一拍おいて、険しい顔つきで言う。

 

「朝比奈グループは鉄壁だ。同族経営の朝比奈飲料を押しのけて外様(とざま)の我々が入り込める余地があるとは思えん」

「重々承知しています」

 

 御堂の指摘は正しい。朝比奈フィットネスは戦前の朝比奈財閥の流れを汲む日本の企業グループだ。だから、ジム内で採用されている飲料のほとんどは同族会社の朝比奈飲料の商品が採用されており、他社製品は入り込む余地がない。しかも、創業者一族が社の主要ポストを占め、経営判断は保守的ときている。普通に考えれば成功の見込みが低いだろう。だが、克哉は確信があった。揺らがぬ口調で言う。

 

「古賀部長と会うことさえできれば、俺に考えがあります」

「ほう。君に古賀を紹介すれば、契約をものに出来ると?」

「ええ、出来ます」

 

 挑むような御堂の顔にも怯むことなく言った。御堂は古賀の名を呼び捨てている。つまり、克哉が睨んだとおり、御堂と古賀は大学時代にそれなりの仲だったのだ。克哉の推測は間違っていない。

 御堂はじっと克哉を見つめた。その眼差しは刃の切っ先のように鋭く、克哉の言葉を、克哉自身を見極めるような冷徹な光を帯びていた。克哉はその視線を微動だにせず受け止めたが、心の奥底がザワついてくる。感情の据わりが悪いような、落ち着かない気分にさせる威圧感だ。遙か高みから見下すような態度の御堂、その顔を歪ませたくてかつての自分は嗜虐心に駆られたのだ。だが二度と同じ轍は踏まない。

 自制心を総動員して御堂の視線に耐えていると、ややあって、御堂はふいと視線を外した。

 

「たいした自信だな。いいだろう。あいつとは大学以来だが、連絡してみよう」

「どうぞよろしくお願いいたします」

 

 張り詰めていた空気が解ける。克哉は深々と一礼すると、御堂の執務室を辞したのだった。

 

 

 

 それから少しして、御堂から連絡があった。古賀との約束を無事取り付けたらしい。

 御堂からは赤坂にある値の張る料亭を指定された。もちろん代金は接待費用としてキクチ八課が持つことになる。

 約束の時間より早く料亭の個室で待っていると、ややあって御堂がやってきた。頭を下げる克哉を一瞥すると無表情で克哉の隣に座る。ふわりと空気が動き、微かなフレグランスの香りが克哉の鼻腔に触れる。その瞬間、胸がチリッと疼いた。

 

 ――この香りは……。

 

 言い知れぬ感情がごとりと動く。その源泉を辿ろうとしたところで御堂が口を開いた。

 

「佐伯、私は古賀を君に紹介するだけで良いのだな?」

「ええ、もちろんです」

 

 古賀と会うきっかけさえ掴めれば、あとはどうにでもなる。

 御堂は克哉の自信たっぷりの返事を聞くと、それ以上は口を開こうともせずにガラス窓越しの小さな中庭に視線を向けた。小さくまとまった日本庭園には石灯籠が柔らかな光を灯している。都心部にありながらも広い敷地を持ったこの料亭は、全室個室で政治家たちの密談にもよく使われると聞く。料理の質もさることながら、かかる金額も驚くほどに高い。

 今回のプロトファイバーの営業では潤沢な接待費が用意されていたが、片桐は今回の費用を聞いて絶句していた。それでも克哉を信じて許可をくれたのだ。克哉は今回の接待でなんとしても成果を得なければならないし、その自信もある。

 それにしても、こうして御堂と隣同士に座って誰かを接待するという場面が新鮮だ。御堂を接待するどころか、御堂は克哉と同じ方向を向いて座っている。

 御堂に話しかけることも出来たが、二人の間にあるほどよい緊張感を崩したくなくて、克哉もまた御堂の隣で姿勢を崩さず黙って待つことにした。

 そして約束の時間通りに古賀がやってきた。仲居に案内されて個室に入るなり御堂に向けて満面の笑みを浮かべる。

 

「御堂、久しぶりじゃないか。大学以来か?」

「ああ。元気そうだな」

 

 見るからに上質なダークグレーのスリーピースを着こなす男は、御堂と同じエリート臭を放っている。若くして朝比奈フィットネスの部長職に就いた男だ。一度も他人に膝を折ったことがない高慢さと実力を兼ね備えた人物なのだろう。座卓につく古賀の視線が御堂の隣に立つ克哉へと向いた。

 

「で、そちらは?」

「私が開発した商品の営業だ」

「なんだ、久々に旧交を温めるのかと思いきや、仕事の話か」

 

 こうして呼ばれた用向きは当然分かっているだろうに、落胆した風に肩を竦めてみせる。御堂よりは親しみやすい口調だが、だからといって決して与(くみ)しやすいわけではないだろう。むしろ、腹に一物も二物も隠し持っていそうな男だ。克哉は営業スマイルを浮かべながら古賀に挨拶をする。

 

「古賀部長、はじめまして。営業の佐伯克哉です」

「朝比奈フィットネスの古賀だ。よろしく」

 

 古賀は御堂には親しげに相対しても、克哉には値踏みをするような露骨な視線を向けてくる。互いの名刺を切ると、古賀は克哉の名刺を卓上に置いて、口を開いた。

 

「佐伯君というのか。御堂の下についているんじゃ気苦労も多いだろう」

「古賀、勘違いするな。営業代行の子会社の人間だ。名刺にキクチと書いてあるだろう」

 

 克哉が答えるよりも早く御堂が答えた。突き放すような物言いだが、克哉は気を悪くすることはない。

 正攻法で正面からアプローチしても、決して古賀クラスの人間に会うことは出来ない。せいぜい何の決定権もない平社員をあてがわれて終了だ。だが、御堂のコネクションという裏技によって、古賀との面会の場に臨むことが出来ている。

 料理が運ばれてくると、古賀は御堂と大学時代の思い出話に花を咲かせ、また、互いの経歴について探りを入れている。克哉からすれば面白くもなんともない自慢話を聞かされているだけだが、にこやかに笑みを浮かべ相槌を打ち続けた。

 御堂は克哉を気遣う素振りもない。御堂からすれば、この営業が成功してもしなくてもどちらでも良いのだ。むしろ御堂はこの営業は上手くいかないと踏んでいる様子が見てとれる。それでも、うまく契約が結べれば御堂の手柄になるし、そうでなくとも、プロトファイバーは現状で十分に売れているから支障はない。キクチ八課や克哉を貶(けな)すネタが出来るだけの話だ。

 二人の話がひと区切りついたところで、克哉はようやく口を開いた。プロトファイバーについて資料を広げて古賀に説明する。古賀は御堂の手前、興味深そうに頷いて言った。

 

「いいんじゃないか。我が社のジムの会員は美容と健康意識が高い女性が大半を占めているし、プロトファイバーのコンセプトは悪くないし、需要をよく読んでいる」

 

 そう持ち上げるだけ持ち上げて、古賀は眉根を寄せて渋面を作った。

 

「だが、知っての通り、我々は昔から朝比奈飲料と提携している。御堂には悪いが、あえて他社製品を仕入れるメリットは見えないし、上層部の強い反対を押し切ってまでプロトファイバーを推す理由もない」

 

 予想通りの冷淡な反応だった。だが、これしきで怯むこともない。

 むしろ、これからが正念場とばかりに克哉は表情を改め、斬りこむような視線を向けた。

 

「失礼ながら、御社のジムは入会者数が伸び悩む一方、固定費はかさんでいる。もっと安価で二十四時間営業している新興ジムとの競争も激しい。御社は国内最大手の地位にあぐらをかき改革を怠った結果、じり貧の状況を招いていると言っても過言ではありません。今こそ、旧来の体制を見直す時期が来ているのではないでしょうか。それともこのまま右肩下がりの経営を続けられるお気持ちでしょうか」

「なんだと?」

 

 克哉がそう言った瞬間、古賀の目つきが変わった。それまで侮る表情を克哉に向けていた古賀の顔つきは剣呑なものになっていた。不遜な克哉の物言いに気分を害しているのは明らかだ。だが克哉は笑みを絶やさず挑発的な言葉を続ける。

 

「このままではいくら盤石の経営基盤を持つ朝比奈フィットネスといえども厳しい経営状況に陥るのは火を見るより明らかです。現況を覆すために、今までとはまったく別路線のフィットネスジムが必要だと考えますがいかがでしょうか」

「そんなことは誰でも言える。それとも君は我が社の経営にケチをつけるだけではなく、何かしら新しい経営戦略の提案でもしてくれるのか?」

 

 古賀が嘲るように口角を吊り上げて言う。御堂の前だからという遠慮は捨てたようだ。たかだか子会社の営業の若造の失礼極まりない物言いにプライドを傷つけられたのだろう。

 一方の御堂は克哉の隣で黙ったまま盃(さかずき)に口をつけていた。克哉をたしなめる気配もない。ことの成り行きを静観するつもりのようだ。克哉は険悪になった空気をものともせずに口を開く。

 

「今、私が口にした内容はとっくに古賀部長はとうにご承知のことです。ですから、当方が提案などせずとも古賀部長ならもうすでに新規的な企画を考えていらっしゃるのではないでしょうか」

「ほう、僕が考えていることが分かるのか?」

「そうですね……。例えば、裕福な女性をターゲットとした、専属トレーナーを付ける徹底したパーソナルトレーニングの導入などいかがでしょうか」

 

 克哉の言葉に、古賀は虚を突かれたような顔をした。まじまじと克哉を見つめて言った。

 

「君はその話をどこからか聞いたのか?」

「いいえ。古賀部長の過去のインタビュー記事を入手できるものはすべて読ませていただきました。そして、社内で次々と改革を推し進めたあなたなら、こう考えるのではないかと予想しましたが、どうやらビンゴでしょうか」

「っ……」

 

 古賀が低く唸る。その表情は克哉の指摘が的を射ていることを明確に示していた。

 

「古賀部長の企画は朝比奈フィットネスの従来の営業スタイルを一新させるようなものであることは間違いありません。それでしたら、採用する飲料水も今までのものから変えた方が顧客に対するインパクトを与えられると考えております」

「それが君たちのプロトファイバーだと?」

「ええ。プロトファイバーのコンセプトと古賀部長が目指す事業の方向性は一致しています。弊社が御社にアプローチしているのは、古賀部長の手腕に期待しているからこそです」

「ほう……」

 

 自信に満ち溢れる克哉の口調に気が付けば御堂も手を止めて、克哉の顔と言葉を真剣に注視していた。場の雰囲気ががらりと変わったことを感じ取る。今や、克哉がこの場の流れを支配していた。

 古賀はしばし黙考し、手に持っていた盃を卓に置くと克哉を見据えて言った。

 

「君は我が社のことを、そして僕のことを随分と調べてきたようだな。良いだろう。君の話を聞こうじゃないか」

「ありがとうございます」

 

 古賀が張り詰めた雰囲気を和らげる。ようやく克哉の話を真剣に検討する気になったらしい。古賀が克哉を見る目は先ほどまではまったく違っていた。表情は余裕を見せているが、食い入るような目で克哉を見つめている。

 克哉は古賀に向ける笑みを深めた。何もかもが克哉の計画通りだ。

 この世界の克哉のアドバンテージは未来を知っていることだ。といってもせいぜい半年ほどで何年も先が見通せる訳では無いが、克哉は今よりも未来を生きていた。だから、収益力の鈍化に悩んでいた朝比奈フィットネスが数ヶ月後に従来の方針を刷新し、女性向けの専属トレーナーを付けたパーソナルトレーニング事業を始めることも知っている。そして、その事業が大成功し、その立役者である古賀が注目されることも。

 その未来で克哉が目にした古賀のインタビュー記事では、古賀は旧態依然とした社に次から次へと斬新なプロジェクトを立ち上げていた。だから、勝算はあった。今、古賀に売り込むことが出来ればこの新規事業にプロトファイバーが食い込むことができるはずだ。そして、そのための企画も練っていた。

 克哉は立て板に水のごとくセールストークを展開し、古賀との会話は清涼飲料水業界の動向からスポーツジムの他社の戦略まで多岐に渡ったが、克哉はいずれについても的確な答えを返し古賀を感心させた。

 そして、会食も終わってみれば、古賀は克哉の接待に大いに満足しているようだった。

 程よく酔って上機嫌の古賀を見送るため、克哉も連れだって個室を出た。料亭の玄関先で用意された靴を履きながら古賀は克哉に向き直った。御堂が個室に残っていることをちらりと視線で確認し、克哉に言う。

 

「佐伯君、君は営業にしておくには惜しい男だ。むしろ、私の部下として一緒に働かないか?」

 

 冗談めかした口調だが、古賀の顔つきは本気さも混じっていた。古賀が克哉のことを気に入っているのは間違いないだろう。克哉は畏まった態度で返す。

 

「過分なお言葉をありがとうございます。ですが、俺にはこの仕事が合っているようです」

「それは残念だな。だが、これからもよろしく」

 

 古賀が意味ありげな眼差しと笑みを添えて手を差し出してきた。その手を握り返して握手をした瞬間、古賀は親指をすっと克哉の手の甲に這わせる。ある種の意図を感じさせる感触に古賀の顔を見れば、古賀もまた克哉を見ていた。古賀はそっと克哉の耳元に口を寄せて囁いた。

 

「次は御堂のいないところで話そうか」

 ――なるほど……。

 

 古賀の性的な嗜好は知らなかったが、どうやらそっち方面の興味も克哉に抱いているらしい。それならそれでやりやすい。克哉は古賀に同意の笑みを添えて言った。

 

「古賀部長、本日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。またどうぞよろしくお願いします」

 

 古賀をタクシーに乗せるところまで見送って個室に戻ると、御堂が帰り支度を終えたところだった。克哉は御堂に頭を下げる。

 

「御堂部長、今日はありがとうございました。おかげで契約を取れそうです」

 

 御堂は口を開きかけて黙り込み、ややあって口を開いた。

 

「……君は、朝比奈フィットネスの新規事業計画を本当に予想で当てたのか? まさかとは思うが非合法な手段を使ったりはしていないだろうな」

 

 疑う口調で問いただしてくる。確かに、克哉たちがプロトファイバーの営業を御堂から獲得したときも、褒められた手段ではなかった。それが念頭にあるのだろう。

 克哉は素知らぬ顔で答える。

 

「ええ、事前に徹底的に調べましたから」

「……」

 

 御堂は黙ったまま克哉を見据えた。克哉は御堂から目を逸らせなくなる。

 またこの視線だ。

 まるで、克哉の眸から心の奥底を透かし見るような眼差し。星のない夜空を写しとったかのような黒一色の眸にまっすぐと覗き込まれて、克哉の平坦な心ににさざ波が立つ。克哉を見つめる御堂の顔には何の表情も浮かんでいない。それでも、あの未来の御堂のようにあらゆる感情を失っている顔とはまったく違った。強く張られた弦のような御堂の纏う気迫が雄弁に伝わってくる。こんな風に御堂に問い質されれば、誰もが洗いざらいすべてを吐いてしまうだろう。だが、克哉は平然とした顔を貫き通した。

 まさか未来から来たから知っているとは言えない。それも、その御堂は御堂が克哉によって壊されて廃人同様になっている未来からだとは。

 御堂はしばしの間、探る視線を克哉に向けていたがこれ以上問い詰めても無駄だと悟ったらしい。無言で克哉から視線を外すと、呼んであったタクシーに乗り込みながら、克哉に顔を向けて言った。

 

「佐伯、古賀は有能だが高潔な人物ではない。手段を選ばないからこそ、今の地位にいる。甘く見るなよ」

「ご忠告痛み入ります」

 

 手段を選ばないのは御堂も同様だろう。そう思ったがもちろんそんなことはおくびにも出さないようにして、克哉は神妙に頭を下げた。

 

「吉報を期待している」

 

 そうひと言残して、タクシーのドアが閉まり発車する。その車体が消えるまで克哉は店の前で見送った。

 こうして接待を終えてみれば、奇妙な熱が胸の中に残っていた。古賀を攻略出来た高揚感とはまた違うものだ。心を占めるのはずっと隣に座っていた御堂の存在だ。御堂は克哉の手の届きそうで届かないところにいる。その距離がもどかしい。

 それでも、強引な手段で二人の距離を詰める気持ちはなかった。そうしたところで、克哉は御堂を自分のものにすることは出来なかったのだ。御堂の身体は好きに出来ても、御堂の心は最後まで屈することはない。

 人としての心を失った御堂は克哉を拒むことも抗うこともなくなった。だが、克哉を写すことのなくなった虚ろな眸を前にして初めて気が付いた。自身の取り返しのつかない過(あやま)ちに。自分が求めていたものは決して手の届かぬ彼方に消えてしまったことに。

 拭い落とすことの出来ない後悔に塗れるのは、二度とあってはならない。

 そう自分に何度も言い聞かせ、克哉はざわめく想いを胸の奥に押し込んだ。

 夏の夜のじっとりした湿気を孕んだ風邪が克哉の首筋を撫でていった。

(3)
3

 薄暗い部屋の中で、克哉は呆然と御堂を見下ろした。

 御堂の手足の関節は奇妙な形に曲がったままだった。おそらく最後の力を振り絞って拘束を外そうとしたのだろう。だが、それが叶わず力尽きて意識を失ったようだ。しかし、その様相は今までとはまったく違った。

 

「御堂?」

 

 克哉は御堂の頭側に膝を付くと、御堂の名を呼びかけながら頬を軽く叩いた。だが、御堂の瞼はぴくりとさえ動かず、覚醒する気配はまったくなかった。ぐにゃりと床に投げ出された身体は、まるで事切れてしまったかのように不自然な体勢だ。注意深く観察すれば胸が薄く上下してかろうじて呼吸を紡いでいるのが分かるが、一見すれば死体と見紛(みまが)うだろう。

 土気色の身体には鞭の痕があちらこちらに残っていた。こうして改めて見てみれば拷問を受けたと言っても過言でないほどの傷だらけの身体だ。いや、実際、受けていたのは拷問だったといえる。しかし、克哉はそうと意識していなかった。ただ、御堂がどうあっても抵抗するから克哉の仕置きもまたエスカレートしていっただけの話だ。

 

「おいっ! 起きろっ!」

 

 御堂の肩を掴んで揺さぶった。ぐらぐらと身体が揺れる。筋肉は弛緩しきって、緊張の欠片もなかった。それでも揺さぶっていると頭が揺れた弾みに、御堂の瞼が薄く開いた。その眸を覗き込んでぞくりと寒気が背筋を這い上がった。真っ黒な瞳孔は拡がり、その焦点は結ばれる気配がない。まるでガラス玉のような無機質さだ。

 嫌な予感が暗雲のように克哉の胸に立ちこめていく。心臓が不穏な速さで脈を刻み出した。

 克哉は御堂に付けていた拘束具をすべて外した。ひとまず、固い床の上からベッドの上に寝かせようと御堂を抱きかかえて気が付いた。御堂の身体はとても軽く、筋肉はそげ落ちている。かつての精悍さも気品もどこにもなく、まるで出来損ないのマネキン人形のようだ。

 それでもまだ克哉は自分の目が信じられなかった。御堂は気絶しているだけで、ふとした拍子に目を覚ますのではないか。

 焦燥感めいたものに駆り立てられて、克哉はベッドに寝かせた御堂の弛緩しきった身体を折るようにして抱え込んだ。

 挿入しっぱなしのアナルプラグを抜き去ると、そこは解す必要がないほどに綻んでいる。

 今まで通り御堂を凌辱すれば御堂は嫌がり抵抗するのではないか。

 迫り来る恐怖から目を逸らすようにして、克哉は余裕なくベルトを外し、前を寛げると、無理やり自身を昂ぶらせ御堂に突き入れた。

 

「……っ」

 

 馴染んだ感覚が克哉を包み込み、克哉は詰めていた息を吐いた。御堂の中は柔らかく、そして体温を保っていた。乱暴に突き上げ、粘膜を抉り何とか御堂の反応を引き出そうとした。

 抽送する度に御堂の身体がぐらぐらと揺さぶられ、ベッドの端からだらりと手が落ちた。だが、どれほど御堂を犯しても御堂のペニスは反応しなかった。抽送のリズムに合わせてペニスが弾むようにして揺れる。そして、突き入れる度に肺から漏れた空気が不明瞭な声になって、御堂の半開きの唇から漏れた。それは決して艶めいた嬌声などではなく、単なる生理的な反応だとも分かっていた。そこにあるのは感情も感覚も失ってしまった人の形をした何かだ。

 肉を打つ音が寝室内に響く。一瞬でも気を抜けばあっという間に熱が冷めてしまいそうで、克哉は自分の快楽だけに集中して腰を使い続ける。

 御堂を性欲処理の玩具のように扱ってきた。しかし、実際にそうなってしまうと、それは克哉が求めていたものとはまったく違った。

 自分はこんな玩具が欲しかったのではない。

 唇を噛みしめながら、克哉は無理やり自身を昂ぶらせて御堂の最奥に放った。

 克哉の凌辱の間、御堂の呼吸はずっと平坦なままだった。ようやくつながりが解かれても、御堂は最後まで何の反応もしなかった。開きっぱなしの両脚の付け根、綻んだアヌスからどろりと白濁が溢れる。射精の熱が引くと、あとにはどうしようもない空しさだけ残った。

 

「御堂、どうして……」

 

 これは御堂の復讐なのだろうかと思った。こうなるくらいなら克哉に屈した方がよっぽどマシだったはずだ。それなのに、何故こんな人形になることを選んだのか。

 

「……あんたは、そんなに俺が憎いのか」

 

 御堂の首に両手をかけた。ほっそりした首に浮き立つ喉仏、その真下に親指を交差させ、ぐっと体重をかけた。御堂の口が大きく開き、首がマットに沈む。だが、虚ろに開いた双眸には苦痛の色もなく、ただぼんやりと天井を見詰めていた。抵抗の素振りもない。このまま締め続ければ御堂はあっさりと死線を跨ぐだろう。自分が死んだことさえ気付かぬまま。

 首にめり込む指先に御堂の柔らかな皮膚と仄かな体温を感じた。力を籠めようにも克哉にはどうにも無理だった。

 

「――ッ」

 

 克哉は震える指を一本一本開き、御堂の首から外した。

 首を絞められて苦痛を感じていたのは御堂ではなく克哉だ。胸に鉛の塊を押し込まれたかのように、呼吸をすることさえままならなかった。

 御堂は克哉を憎んでいる。克哉に服従するくらいなら自分の命を惜しげもなく投げ出すほどに。しかし、克哉は御堂を憎んでなどいなかった。それならば御堂をどう思っていたのかのいくら考えてもはっきりとした答えは出なかった。ただ、御堂を欲しかったのだ。自分のものにしたいと思った。

 不意に思い出した。

 子どもの頃、親からもらったスノードームを。

 スノードームの中には雪が降り積もるもみの木と教会があった。スノードームを振ればスノードームの中に細かな雪が舞い散り、その美しさはひと目で克哉を魅了した。ガラスの中に一つの世界が閉じ込められている。克哉はスノードームを降り注ぐ陽光の下で見るのが好きだった。キラキラとガラスの中で輝く雪はこの上なく魅力的で、いつまでも眺めていられた。そして、見れば見るほど、ガラスの中に閉じ込められた世界に憧れ、その雪に直に触れたいと思った。

 ある日、克哉は家の前の道端でスノードームを太陽にかざしていた。太陽の光を受けて煌めく雪に目を細めた次の瞬間、克哉はアスファルトにスノードームを叩きつけた。ガラスが割れる派手な音がしてスノードームは砕け散る。中の液体がコンクリートに黒い染みを作った。後に残されたのは安っぽいミニチュアの中身と、かつて雪だった無数の欠片。そこに克哉が夢見たような世界はなかった。魔法は解けてしまったのだ。

 大切にしていた玩具を木端微塵に砕いてしまった時の一瞬の高揚と背徳感。そして後に続く失望。砕け散ったスノードームは二度と輝くことはなかった。

 克哉は虚ろな抜け殻となってしまった御堂をぼんやりと見下ろした。

 なぜ、眺めているだけで我慢出来なかったのか。どうして、叩きつければ手に入ると思ったのか。

 

 ――俺はあの時からまったく成長していないのか。

 

 自分が求めていた御堂はもうここにはいない。ただ、御堂だった何かが残されているだけだ。

 

「俺は、御堂を……」

 

 克哉が絞り出した声は震えていた。

 今、胸に抱える痛みは決して癒やされることはないだろう。

 克哉はもう二度と御堂を取り戻せないことを知った。

 

 

 

 

「おい、克哉?」

 

 本多の声にハッと我に返った。顔を上げれば本多が心配そうな顔で覗き込んでくる。

 目の前にはパソコンのディスプレイ。手はキーボードの上に置かれたままだ。腕時計を確認すれば、夜も更けた時間だった。オフィスにいるのは克哉と本多だけで、本多はもう帰るところのようだ。

 

「どうした、ボーッとして。らしくないぜ。疲れが溜まっているんじゃないか?」

「問題ない。少し考え事をしていただけだ」

 

 頭を振って夢の余韻を振り払った。あの夢の中で御堂の首に手をかけた感触、そして続く絶望が生々しく蘇り、克哉はじっとりと嫌な汗をかいていた。

 こうして過去に戻っても、あの未来の出来事は悪夢となって度々克哉の前に現れていた。

 そういえば、あの未来で克哉が見ていた夢は今とは真逆だった。それは、絶望に満ちた現実から逃れるかのように幸福な夢だった。幸福といっても大層なものではない。御堂はMGN社の部長として辣腕を振るい、克哉はその部下として働いていた。つまりなんてことはない以前の日常だ。それでも、その夢の中で克哉は、御堂が御堂として生きていることに安堵し、今度こそ御堂を大切にしようと誓うのだ。しかし、そんな夢をみたところで、起きた瞬間、目の前の現実に打ちのめされる。そんな日々を繰り返していた。

 だから、どうせ見るなら悪夢の方が良い。目を覚ませば現実に安心することが出来るからだ。そして、今の世界は克哉があれほど夢に見た理想の世界だ。たとえ、御堂に触れることが出来なくとも。

 よほど克哉の顔色が悪く見えるのか、本多が気遣わしげな顔で言った。

 

「気分転換に飲みにでも行くか?」

「いや、いい。今日中に資料作成を終えてしまいたい」

 

 克哉はパソコンのスリープモードを解除してディスプレイに資料を展開した。本多を無視してキーボードをたたき出す。

 何事もなかったかのように仕事を再開する克哉を前に、本多はこれ以上誘っても無駄だとようやく理解したようだ。

 

「そうか。あんまり無理するなよ。お前、最近根を詰めすぎているように見えるぞ」

「これくらい問題ない。俺の心配をするくらいなら自分の担当先のフォローをしろ」

 

 取り付く島もない克哉の返事に、本多はこれみよがしにため息をついた。鞄を手に帰ろうと背を向けたところで、ふと思い出したように肩越しに振り返った。

 

「そういえば、御堂部長が朝比奈フィットネスの契約がどうなったか気にしていたぞ」

「御堂部長が?」

 

 思わぬ言葉に克哉はキーボードを叩く手を止めた。

 

「ああ、片桐課長のところに連絡があったって。直接克哉に聞けばいいのにな」

「……」

「朝比奈フィットネスとの契約がまとまれば、御堂部長が提示した売上目標を余裕で超えるしな。まさか、また売上目標を上方修正する気じゃないだろうな」

 

 本多は冗談めかして言う。克哉は少し考え込む素振りを見せて、本多に言った。

 

「先方の古賀部長は御堂部長の紹介だからな。首尾が気になっているのだろう」

「そういうことか」

 

 本多は克哉の言葉に納得したようで、「じゃあな」と言って踵を返した。オフィスから出て行く本多の大きな背中を眺めながら克哉は考え込んだ。

 本多にはああ言ったが、御堂が朝比奈フィットネスとの契約を気にするのは、本当にそれだけの理由なのだろうか。

 週一で行われる御堂とのミーティングで、快進撃とも言えるキクチ八課の売上を目にしても御堂は嬉しそうな顔ひとつしない。元から心の内を表に出す男ではなかったが、感情に乏しい訳ではない。むしろ、激しい感情を内に秘めた男だ。

 元いた世界で御堂からぶつけられた苛烈な憎悪を思い出す。この世界では御堂に憎まれていないと思っていたが、果たして克哉にどんな感情を抱いているのか、克哉は知る由もない。

 御堂から距離を置いている分、御堂の動向が読めない。この世界はかつての世界とは違う道を歩んでいると断言できる。しかし、通る道が違うからと言って行き着き先が違うとは限らないのだ。

 用心しなくてはならない。あの未来は悪夢のように不意打ちで克哉の前に現れるかもしれないのだ。

 

 

 

 

 朝比奈フィットネスへの営業は順調だった。何よりも古賀が興味を持ってくれたことで、トップダウン式に話が進み、具体的なプロモーション企画も出来上がっていた。朝比奈フィットネスがプロトファイバーを採用すれば、御堂が提示した目標値も軽々と達成し、キクチ八課のリストラは完全に消えて無くなるだろう。キクチ八課の面々も今までにない大規模の契約を前に浮き足立っていた。

 本契約まであと少し。

 克哉が古賀に呼び出されたのはそんなタイミングだった。仕事が終わった後の時間に古賀が指定した場所はホテルのバーだった。そこにある種の意図を感じ取ったが、そんなことはおくびにも出さず、片桐に接待の旨を報告する。当然、許可はすぐに下りた。

 

「佐伯君、君にばかり任せてしまって申し訳ありません。本来なら僕が出るべきなのに」

「ご心配なく、課長。今回で契約をまとめてきます」

 

 申し訳なさそうにそう口にする片桐に、克哉は余裕の笑みを返して八課を後にした。

 克哉が向かったのは都心部の有名ホテルのラウンジで、重厚な木目調の英国クラシックを思わせるインテリアの、気品ある落ち着いた内装だった。洗練された雰囲気のバーは、照明も絞られていて他の客がいることは分かっても顔までは分からない。それでも克哉はバーに入るとすぐに古賀の姿を見つけた。

 

「古賀部長、お待たせしました」

「いいや、僕も来たばかりだ」

 

 古賀はカウンターの奥に座っていた。克哉も古賀に並んで腰をかける。古賀は言葉通り着席したばかりのようでメニューも見ずにブランデーの逸品を頼んだ。克哉もそれに倣って同じものを注文する。

 

「忙しいところ呼び出して悪かったね」

「いいえ、古賀部長のご用命とあれば喜んで馳せ参じます」

 

 克哉の言葉に古賀は喉を低く鳴らして笑った。

 ブランデーの芳醇な香りとアルコールで口の中を湿らせながら、他愛ない会話を古賀と交わす。

 会話とは人を操る技術だ。相手の出方を読み、間を取り、正しい言葉を選び、視線を重ねる。そのひとつひとつを適切に行うことで、思い通りに自分を印象づけ、相手を操ることが出来る。そして克哉はその技術に長けていた。

 案の定、接待モードの克哉を前に古賀は上機嫌のようで、克哉が提出したプランを一通り褒めそやすと言った。

 

「社内の根回しも順調だが、ここに来て幹部連中が朝比奈飲料でなくてMGN社の商品を使うことに良い顔をしなくてね。まあでも期待していてくれ」

「恐れ入ります。俺に協力出来ることがありましたら何でも言ってください」

 

 殊勝な顔をして頭を下げる克哉に、古賀は鷹揚に笑って言った。

 

「君は心配しないで良い。これでも僕は社内でそれなりの立場にいるからね」

 

 恩に着せるような口ぶりで言うと、古賀は声のトーンを落とした。

 

「ところで君は、御堂と仲が良いのか?」

「仲良くなどと、とんでもない。御堂部長は親会社の上司で、俺は下請けの社員に過ぎません」

 

 探る目つきを向けてくる古賀に、克哉は戸惑うような表情を浮かべた。これも計算の内だ。それに、実際その通りだった。御堂とは週一のミーティングで顔を合わせるだけだ。それも業務関係の会話しか交わさない。それがこの時間軸での克哉と御堂の距離だ。

 克哉の返答に古賀は笑みを浮かべた。克哉を見る眸に欲情めいた色が浮かぶ。

 

「そうか、それならいい。……で、佐伯君。具体的な話はここでは何だから、場所を変えて話そうか」

 

 古賀は黒服のスタッフに耳打ちをした。すぐに部屋ナンバーが書かれたカードと鍵が置かれた銀のトレイが二人の前に差し出される。古賀が隣に座る克哉の膝の上に手を置きつつ、耳元に口を寄せて囁く。

 

「佐伯君、我々はとても良いパートナーになれると思うのだが、君もそう思うだろう?」

 

 露骨な同衾の誘いだった。膝に置かれた古賀の手が克哉の太腿を撫で回してくる。その感触は不愉快そのものだったが、克哉もまた古賀に艶然と笑い返す。

 

「俺もそう思います、古賀さん」

「それはよかった」

 

 古賀が満面の笑みを浮かべる。克哉からしたら古賀に興味など何一つなく、好きでもない男に言い寄られても鬱陶しさしか感じないが、むしろこの展開を待っていた。

 克哉は心の内でほくそ笑む。古賀は取引先の立場を利用して性的な接待を強いているが、克哉は古賀を落とせる自信がある。古賀がどんな嗜好の持ち主だろうと、克哉の言いなりになるよう調教することは可能だろう。それに、いざとなったら脅迫という手段もある。そのための録音や録画の準備は万端だ。

 古賀のようなエリートと呼ばれる人種は、なりふり構わず自らの立場にしがみつこうとする。そのためならどんな屈辱的な仕打ちも受け容れてしまうほどに。それは御堂で実証済みだ。御堂に同じ手段を使う気はないが、他人であればどれほどでも残酷になれる。

 古賀はそんな克哉の思惑にまったく気付かないようで、トレイの上のカードキーを握ると意気揚々と席から立ち上がった。克哉も口の端に薄く笑みを刷いたまま、席を立った。

 そうして、連れだってバーの出口へと向かったところで、古賀はぎくりと動きを止めた。背後の克哉は突然立ち止まった古賀にぶつかりそうになる。何が起きたのか古賀の先に視線を向ければ、そこにはスーツ姿の長身の男が険しい顔をして立ちはだかっていた。

 克哉はその人物の顔を目にして、言葉を失う。それは古賀も同様のようだった。予期せぬ人物の登場に、古賀は掠れた声を出した。

 

「御堂、どうしてここに……?」

「キクチ八課に連絡したら、ここで接待予定だと教えてくれた」

 

 動揺を滲ませる古賀とは対照的に御堂は沈着冷静な口調だった。

 御堂に場所を教えたのは片桐だろう。

 だが、なぜ御堂はそんなことを聞いたのか。そして、この場に現れたのか。

 困惑する克哉をよそに、御堂は冷ややかな視線で古賀の背後の克哉を一瞥すると、視線を古賀に戻して言った。

 

「古賀、結婚を控えた身でこんなところで遊んでいて良いのか?」

「っ……」

 

 絶句する古賀の顔色がみるみるうちに青ざめる。カードキーを握りしめている手が細かく震えだした。御堂が冷笑を浮かべる。

 

「しかも、お相手は朝比奈一族のご令嬢だろう」

「……何故それを」

「朝比奈グループの会長と私の父が昵懇(じっこん)の仲でな。結婚を控えた大事な時期に、軽率な行動は慎んだ方が良いぞ」

「これは違……」

 

 言葉を詰まらせてうろたえる古賀に御堂は一転してにこやかに微笑む。

 

「もちろん、お前がそんな軽はずみなことはしないと分かっている。私の思い違いだろう」

「と、当然だ。変な勘違いはよしてくれ」

 

 御堂が出した助け船に必死の形相でしがみつく古賀が痛々しい。そんな古賀に御堂はしっかりと釘を刺す。

 

「古賀、我が社の商品に興味を持ってくれるのは嬉しいが、この先の話は私が窓口になろう。佐伯には君の社は荷が重すぎるからな」

「そうだな。これからは御堂に連絡するよ。……この後、所用があるから、失礼する」

 

 古賀がかろうじて浮かべた笑みを引き攣らせて言った。克哉に見向きもせず、慌てたように御堂の脇をすり抜けて行こうとする。そこに御堂が追い打ちをかけた。

 

「帰るのか? その鍵、このホテルに泊まる気だったのだろう?」

 

 痛い所を突かれ、ぎくりと動きを止めた古賀が忌々しげな表情を御堂に向けた。

 

「御堂、お前が使って良いぞ」

 

 そう言って古賀はカードキーを御堂に放った。それを御堂が片手で受け止める。今度こそ古賀は御堂に背を向けて足早に店を出て行った。

 その間、克哉は目の前で起こった出来事をただ眺めることしか出来なかった。古賀が婚約中だとは知らなかったが、それならばなおのこと脅しやすかっただろう。しかし、目下の問題は別のところにあった。

 御堂と二人きりで取り残される。

 古賀の姿が消えるのを待って、御堂は静かに克哉へと顔を向けた。深閑な眸が克哉を見据える。

 

「どういうことだか説明してもらおうか、佐伯」

「営業活動の一環です。それ以上の説明はありません」

 

 それだけ言って、克哉もまた御堂の脇をすり抜けてバーを出ようとした。頭の中で素早くどうやって古賀にフォローを入れるかを計算する。エリート気質の男が恥をかかされて黙っているはずがない。このままではこの契約自体が立ち消えになってしまう。だが、御堂は無言で克哉の腕を掴むと、克哉を引っ張って店を出た。

 

「何を……」

 

 有無を言わせず御堂は克哉を連れてエレベーターホールへと向かい、客室フロアへと上がった。古賀から受け取ったカードキーのルームナンバーを確認して部屋へと入る。

 古賀が用意したエグゼクティブクラスの部屋は瀟洒な内装と設えで、古賀がどんな下心で克哉を誘ったのか御堂にもありありと分かっただろう。

 御堂はずかずかと部屋に踏み込むと苛立ったように克哉の腕を放して、向かい合った。

 御堂の背後には壁一面の窓と、極上の夜景が展開されていた。高層階から見渡す光景はまるで一幅の絵画のようにで、その煌めきに目を奪われそうになるが、御堂はそんなものには目もくれず、克哉を睨み付けた。

 

「佐伯、君はこの部屋で何をするつもりだったのだ」

 

 古賀が克哉に何を要求したのか、もう答えは分かっているだろうに、御堂は剣呑な態度で克哉を質す。低く鋭い声は明らかな怒気を含んでいた。だが、怒っているのなら、克哉も同じだった。御堂の乱入によりこの取引が台無しになったのだ。克哉は御堂に掴まれたジャケットの乱れを正しながら、平然とした顔で答えた。

 

「もちろん、接待です」

 

 そのひと言に御堂は鼻白んだ。

 

「君がやろうとしたのは枕営業だ。分かっているのか」

「この契約をモノにすれば、億単位の金が動く。そう考えれば、悪くはない取引でしょう?」

 

 それがどうした、と克哉は薄く笑ってみせる。対する御堂の針は振り切れる寸前のようで、口調が益々険を含んだ。

 

「一度、要求を呑めば、この一回きりで済まないことは分かっているだろう。この契約がなくても売上目標の達成は不可能ではないはずだ。こうまでして古賀に媚びを売る必要はない」

 

 そう断じる御堂の言葉にぐつりと怒りが煮え立った。御堂は何も分かっていない。こうまでして克哉が売上にこだわるのは何故なのか。腹の奥底から込み上げてくる苛立ちに、克哉は強い語調で言い返した。

 

「何を言っているんですか、御堂さん。俺はあなたが出した数字を目標にしているんじゃない」

「何だと……?」

「俺が目指しているのはもっと上です」

「な……」

 

 御堂が言葉を詰まらせた隙に、克哉は自分が目指している数字を口にした。それは、御堂が上方修正した売上目標を軽々と超えていく数値。御堂が怒りも忘れて呆然と目を見開く。

 

「本気なのか?」

「空前絶後の売上を達成して見せますよ。あなたが俺の邪魔さえしなければ。あなたは今まで通り、高みから見物していればいいだろう」

 

 突き放すような克哉の言葉に御堂は一瞬怯んだように見えたが、それでも御堂は自分の主張を撤回する気はないようだった。眉間に深い皺を刻んで、厳しい顔つきで言う。

 

「こんな下卑たことまでして、君は数字を稼ぎたいのか。君にプライドはないのか」

 

 どの口が言う、とは思ったが言葉にはしなかった。御堂だって、克哉に身体を差し出す接待を要求したのだ。もちろん、目の前にいる御堂は克哉に性的接待を要求していない。だがそれは、未来を知っている克哉がそうさせなかっただけの話だ。つまり、御堂は、自分は良くても他人は駄目だというダブルスタンダードを平然と肯定する男なのだ。そんな御堂が克哉を非難する。挙げ句、契約寸前の巨額の取引を足蹴(あしげ)にしたのだ。

 こうまでして御堂が克哉の邪魔をするのは、御堂にとってよほど克哉が目障りな存在だからだろう。克哉に一切の手柄を与えたくないし、克哉の働きを認めたくないのだ。

 いくらこの時間軸の克哉が御堂に対して酷い仕打ちをしなかったからと言って、御堂に好かれる訳ではない。むしろ、何もしなくともこれほどまで御堂に嫌われているのかと鬱屈した想いが胸にどろりと渦巻いた。低い声が出る。

 

「プライドに固持して売上が達成できますか? あなたは、死にもぐるいで営業しろと言った。だからそうしたまでだ」

「っ……」

 

 プライド、という単語を吐き捨てるように言った。御堂はプライドを何よりも大事にしていた。だからこそ、克哉を憎み、克哉に服従するくらいならと自分自身を壊したのだ。

 

「あなたはプライドを守るために死ねるのだろうが、あいにくと俺はあなたほどプライドに執着していないのでね」

 

 まずい、と頭の中で警告する自分がいた。本当はこんな刺々しい言葉を御堂に吐くつもりはなかった。だが、今の自分は冷静さをどこかに置き忘れてきてしまったかのようだ。そこにあるのは、あまりにもらしくない自分の姿だ。

 このまま感情に流されてはいけない。

 一刻も早く冷静さを取り戻そうと、克哉は自身を見つめ直す。すべては御堂が突然現れたことに端を発していた。古賀と二人でいるところを御堂に見られたことに、そして、それを御堂に責められ嫌悪の視線を向けられていることに、自分は酷く動揺しているのだ。克哉自身も驚くほどに。

 しかし、自分はどうして御堂が絡むとこうも容易く平常心を失ってしまうのか。それが分からない。

 一方の御堂もまた、自分自身を落ち着けようとしているのか抑えた口調で言った。

 

「佐伯、君はどうしてそれほどまでに売上にこだわる? リストラが怖いのか? それとも出世を目指しているのか」

「まさか」

 

 克哉は鼻で笑った。リストラは御堂がキクチ八課への脅迫に使った手段だが、克哉はそんなものはどうでもよかった。出世にも興味はなかった。克哉が執着しているのはただひとつだけだ。

 御堂は真剣な表情で克哉に向けて言った。

 

「君はとても焦っているように見える。……それは何かを恐れているからではないか?」

「……」

 

 言葉を失した。御堂は克哉の急所を正確に貫いていた。

 恐れているもの……。

 それは未来だ。ひとつの確定されてしまった未来。それを消し去るために克哉はここにいる。売上にこだわるのもそのためだ。力尽くとは違った手段で、御堂に自分を認めさせるために克哉はなりふり構わぬ営業に走っているのだ。

 しかし、それも水泡に帰してしまった。契約は白紙になり、御堂は克哉を軽蔑し嫌悪している。

 今度こそは間違えない。そう誓って選択をしてきたつもりだったのに、すべてが裏目に出てしまったのか。

 ――思い通りにならないならいっそ……。

 込み上げた嗜虐的な誘惑を克哉は胸の奥底に必死に封じる。自分の中の獣は決して手綱を緩めてはならない。何のために過去に戻ってきたのか。

 身体の横に下ろした拳を、爪が食い込むほどに握りしめて、自分の中の昏い衝動を抑え込んだ。

 御堂と克哉との間に密度の濃い沈黙が立ちこめる。このままでは埒が明かないと悟った御堂は、これみよがしに大きなため息を吐いた。それを合図に克哉は無感情の声で言った。

 

「……もういいですか。それでは、失礼します」

 

 これ以上、御堂と言葉を交わしていると、どうかなってしまいそうだ。

 克哉は身を翻して部屋を出て行こうとした。その克哉を御堂の鋭い声が引き留める。

 

「待て、佐伯」

「まだ何か」

 

 振り返れば、御堂と視線がつながった。厳しく眇められた双眸がひたりと克哉を射ている。

 まっすぐに心を見透かしてくるような眼差しに克哉は居心地の悪さを感じた。克哉を見据える眸は、かつて向けられた露骨な憎悪を滾らせた眸ではなかった。静かで深い怒りを湛えている。早くこの場から立ち去るべきだ。克哉のなけなしの理性がそう警告しているのに、克哉は動けなくなった。

 室内は寒いほどに空調が効いているのに、克哉は汗ばんでいた。肌に張り付くシャツの感触が不愉快だ。

 緊張が重くのしかかり息苦しさを覚えたころ、ようやく御堂は口を開いた。

 

「佐伯。君は、歳はいくつだ?」

 

 突然何を言い出すのかと訝しみつつ、克哉は答えた。

 

「……二十五ですが」

「君はもういい大人だ。だから、君の決断は君が責任を負うのは当然のことだ。私が口を出すことではないだろう」

 

 御堂は一拍おいて、告げる。

 

「だが、君はまだ若い。君は何にだってなれる。自分の未来を大切にしろ。私が言いたいのはそれだけだ」

「――ッ」

 

 頭を殴られたような衝撃を受けた。

 目が覚める思いで御堂を見返した。

 ようやく気が付いた。自分のとんでもない思い違いに。

 御堂は克哉を憎悪しているのではない。気遣っているのだ。

 克哉が御堂を怒らせたのはあの未来と変わらないのに、受ける印象がまるで違ったのは、御堂が自身のために怒っているのではなく、克哉のために怒っているからだ。だからこうも居心地の悪さを感じるのだ。いたたまれなさに掠れた声を出した。

 

「俺を……気遣ってくれたのですか」

 

 何を今更、というように御堂は眉をひそめて返す。

 

「君が言っただろう。私たちは同じチームのメンバーだと。チームメンバーを、それも若手を気にかけるのは当然のことだ」

「……あなただって十分に若い」

「七歳年下に若いと言われてもな」

 

 御堂は呆れたように苦笑したが、克哉は笑えなかった。克哉はそんな御堂の人生をめちゃくちゃにして未来を奪ったのだ。それなのに、御堂は克哉の未来を心配し、気遣っている。克哉が今とは別の時間軸で御堂に何をしたのか知らないが故に。

 御堂は表情を戻すと、深い声で諭すように言った。

 

「佐伯、私は誰にも弱みを握らせなかった。私の未来は私のものだ。決して他の誰かに支配させるつもりはない。だから、今の自分がある。何度でも言うが、君は何にだってなれる。だから自分の未来を手放すな」

「……」

 

 御堂の言葉は深く心に染み込むと同時に、胸が張り裂けそうな痛みを感じた。

 あの未来で、克哉は最後まで御堂を支配出来なかった。

 暴力に従うと思った。快楽で堕ちると思った。だが、御堂は自分の未来を克哉に明け渡しはしなかった。克哉が求めたもの、自分自身を粉々に壊し去ったのだ。

 不意に克哉は合点した。

 そうまでして抗ったのは、克哉のことを激しく憎み、そしてまた、プライドにしがみついているからだと思っていた。

 だが違うのだ。

 それが、この人の信条であり、生き方そのものなのだ。御堂は自分自身を克哉から守り抜いたのだ。

 御堂の所作のひとつひとつが凜然として映えるのは、単に外見のせいでも身に付けている教養のせいでもない。この男の中にある魂が気高く美しいからなのだ。

 

 ――そんなあなたに俺は……。

「御堂さん」

 

 顔を上げて、克哉は御堂に歩みを寄せた。きらびやかな都心の夜景を背負う男は、初めて見たときと変わらず、人の目を奪う鮮やかさと他を寄せ付けない品格があった。

 御堂の顔に顔を寄せた。突然眼前に迫る克哉に御堂の瞳孔が見開かれた。その虹彩まで闇で塗りつぶされた眸を覗き込んだ瞬間、克哉の中でふっと何かが息吹いた。

 

「佐伯……っ」

 

 反射的に逃げようとする御堂の顎を掴んで正面を向かせた。そして、間髪入れずに唇を合わせる。唇をぶつけるように押し付けられた衝撃に、御堂の唇が微かに開いた。

 どうにか克哉から逃げようと御堂が後退る。だが、すぐに背後の窓に退路を塞がれた。それを良いことに、御堂を身体ごと窓ガラスに押し付けるようにして抵抗を封じた。

 

「ん……っ!」

 

 喉を鳴らして御堂が抗議した。それを無視して歯列の隙間から舌を差し込み、御堂の舌先を舐めると御堂の身体がビクンと震えた。

 御堂の肌が熱くなる。その体温で揮発したのか御堂が纏う香りが鼻腔を濃く浸した。ホワイトムスクの甘さを抑えた色気のある香り。克哉の脳内で火花が散った。

 そうだった。御堂は仕事中、いつもこの香りを身につけていた。かつての御堂の姿が懐かしい香りとともに脳内に再生され、そして、目の前の御堂に重なる。

 御堂を抱きしめながら、口内を舐め、縮こまる舌を掬い上げるように舌で絡める。温かな唾液を混ぜ合わせ、合わせた口の間で濡れた音を響かせる。途中からは御堂も抗う気力をなくしたのか、御堂の唇が緩んだ。深く唇を噛み合わせ、吐息を奪うほどにキスを貪る。御堂の喉が甘く鳴った。

 御堂の力が抜けた下半身に、自らの腰を割り込ませ、隙間を埋めるように身体を密着させた。御堂の下腹のそれは形をなしていた。克哉は自らの張り詰めたモノを布越しに重ねたとところで、御堂がぎくりと身体を強ばらせた。克哉の胸を力任せに叩いて押しのけ、顔を背けた。鋭い声で「よせっ!」と叫んで克哉の腕から逃れる。

 互いの忙しない呼吸が静かな部屋に響いた。御堂は怒りと警戒が露わになった顔を克哉に向ける。そんな御堂の唾液に濡れそぼった唇がひどく扇情的だった。

 今しがたの熱が克哉の唇に残っている。克哉は御堂から視線を外さずに言った。

 

「……これが俺の動機です」

「な……」

 

 御堂の眸が大きく見開かれる。面食らう御堂の顔は今までになく無防備だった。

 そして、克哉もまた無防備だった。意識することなく自然と唇から言葉が漏れる。

 

「あなたが好きだ」

「…………君は…っ」

 

 御堂は何かをいいかけて黙り込んだ。そして、数歩後ずさるようにして克哉から距離を取ると、手の甲で濡れそぼった唇を拭う。御堂は克哉から視線を逸らすと、乱れた息を無理やり抑えつけ、スーツの乱れを正した。

 そのまま克哉には目もくれず、厳しい顔つきで克哉の横をすり抜けると、ドアの手前で足を止めた。克哉に背中を向けたまま、言った。

 

「この件は私が預かる。君はもう二度と古賀と連絡を取るな」

 

 苦々しい口調で言って、御堂は部屋を去っていった。

 ただ一人、ホテルの部屋に取り残されて克哉はベッドに崩れるように腰を下ろした。

 激しいキスで腫れぼったくなった唇を手で擦る。生々しいほどのキスの感触が蘇り、先ほどの自分の言葉が耳元で反響した。

 

 ――好きだ。

 

 そのひと言に胸が驚くほどに震えた。

 

 ――俺は、御堂のことが……。

 

 ゴクリと唾を呑み込んだ。こうして自分の気持ちを言葉にしてしまうと、そのひと言はパズルの最後の一ピースのように、自分の心にすっとはまりこんだ。

 ようやく理解する。御堂を凌辱すればするほど、渇望は強くなった。次第にエスカレートする行為とは裏腹に、克哉はひどい乾きに苛まされた。

 それはそうだ。自分は御堂を屈服させたかったのではない。御堂の心が欲しかったのだ。

 こうまで遠回りしてやっと自分の気持ちに気が付いた。克哉はあまりにも知らないことが多すぎた。御堂を監禁し、どれほど凌辱したところで、克哉は何一つ御堂を理解出来ていなかったのだ。それだけではない。自分自身のこともまったく分かっていなかった。

 

 ――何をやっていたんだ、俺は。

 

 ジャケットの内ポケットからタバコを手に取った。きついニコチンで混乱する思考を鈍らせようとしたが、火を点ける前に手の中でタバコを握りつぶした。

 タバコの味で塗りつぶすにはあまりにも甘いキスだ。胸を焦がすほどに。

 胸の中を一掃するほどの大きな息を吐く。

 部屋の中には御堂が纏っていた香りが薄く残っていた。

4

 朝、出勤するやいなや、キクチ八課の面々に昨夜の首尾を聞かれたが、克哉は首を振って言葉を濁した。その一言で本多や片桐は上手くいかなかったと悟ったらしい。それも克哉の表情と態度から、契約自体が決裂したことが伝わったようだ。みるみるうちに沈鬱とした空気が八課を覆ったが、それでも本多は失意の表情を隠して克哉を励まそうとした。

 

「まあ、あそこの契約が駄目でも、契約数は着々と増えているからな。塵も積もればなんとやらだ。御堂部長も納得するさ」

「それだけではだめだ」

 

 本多の気遣いに克哉は険しい顔つきのまま返した。本多は何かを言いかけたが、克哉はそれを撥ねつけるようにして黙ったままデスクに向かった。

 今までになく沈んだ課の空気を無視してパソコンを起ち上げ、販売資料をディスプレイに展開する。現時点の販売本数を確認し、販売戦略に改善の余地がないか綿密にチェックする。

 数字に目を走らせながらも昨夜の失態が脳裏に思い浮かんでしまう。朝比奈フィットネスの契約を失ったのは痛かった。あの調子なら古賀の誘いを上手く躱しても契約は結べただろう。だが、克哉が欲を出して古賀を支配下に置こうとしたばかりに、御堂の乱入を招いてしまった。

 新たな戦略を考えなければならない。自分が見逃している販路を探し、開拓する必要がある。本多が言うとおり、このままでも御堂が提示した目標値の達成は固いだろう。だが克哉が目指すのはそこではない。

 しかし、そう簡単に新たな販路が見つかるわけもない。その日、何の代替案も出せぬまま無為に時間を費やしたところで、克哉は御堂の執務室に呼び出された。

 キクチ八課の同僚からは同情と憐れみがない交ぜになったような視線を向けられた。だが状況はもっと悪い。周りは克哉が朝比奈フィットネスとの契約の顛末を報告して叱られるくらいに思っていないだろうが、これが懲罰的な呼び出しであることは聞かずとも明らかだ。

 御堂は昨夜の現場にいたのだ。この取引が失敗に終わったことを当然知っている。むしろ、克哉が呼び出されたのはその後の不始末についてだろう。こともあろうに、克哉は御堂に迫ったのだ。プロトファイバーの営業から外されることは想像に難くない。かつての時間軸でも、御堂は自身を凌辱した克哉をチームメンバーから外そうとしたのだ。

 以前の自分は、こういう事態を避けるために力尽くで御堂を組み伏せ、脅迫していた。だが、今の克哉はそれも出来ず、さりとて自分の求めていたものも手にすることが出来ず、舞台からの途中退場を通告されてしまう。

 

 ――無様だな、佐伯克哉。

 

 自嘲の笑みを浮かべながら覚悟を決めてMGN社へと出向いた。御堂の執務室のドアをノックして、中に入る。

 

「失礼します」

「ああ」

 

 御堂はデスクでパソコンに向かっていた。部屋に入ってくる克哉をちらりと見たが、キーボードを叩く手を止める様子はない。その表情は平坦なままで何を考えているのか、うかがい知ることはできなかった。

 御堂のデスクの前で黙ったまま立っていると、御堂の仕事がひと段落ついたのか、ようやく手を止めて御堂は顔を上げた。その顔に浮かぶはビジネス然としたもので、口調もまた、なんら感情の動きを感じさせなかった。

 

「佐伯、古賀から契約の言質を取った。ただちに契約書類を作って古賀に連絡しろ」

「朝比奈フィットネスグループとの契約を?」

 

 驚いて聞き返す。てっきり昨夜の一件で白紙になったと思っていた契約だ。

 

「ああ。互いにとってメリットのある取引だ。あれくらいでなかったことにするには惜しい」

 

 御堂は「あれくらい」と軽い口調で言うが、当の本人の古賀からしたらそんな軽々しいひと言では済ませられない出来事だろう。昨夜の状況から考えればどう考えても決裂しておかしくなかった。それが一転、契約に至ると言うことは御堂が何かしらのアクションを起こしたに違いない。

 

「……古賀部長を脅したのですか」

 

 古賀が婚約中であることを御堂は知っていた。それも相手は朝比奈一族の令嬢だという。結局未遂に終わったとは言え、取引先の人間、それも男を誘ったという醜聞が漏れたら古賀のダメージは計り知れない。克哉に対して臆面もなく性的接待を要求した御堂だ。古賀に対しても悪辣な手段を用いた可能性も十分にある。

 御堂は克哉の探りに、ふん、と鼻を鳴らした。口元にうっすらと笑みを浮かべる。

 

「人聞きの悪いことを言うな。お互いの利害が一致しただけだ。それに、あいつの大学時代の単位のいくつかは私のノートで取ったようなものだ。ここで当時の恩を返して貰っても悪くはないだろう。……ただし、君はもう朝比奈フィットネスの担当からは外れてもらう。別に人間に引き継ぎしろ」

「……承知しました」

 

 契約寸前で担当を外されるのは悔しいが、大事なのは売上であって克哉個人の成果ではない。そう自分に言い聞かせる。

 御堂はデスクの引き出しから一冊の冊子を取り出し、克哉に渡した。

 

「君には別の仕事を与える」

「これは……」

「私の大学の同窓会名簿だ。使えそうな人間がいたら私に言え。引き合わせてやる」

「いいのですか?」

 

 御堂は頷いた。

 克哉は冊子をパラパラとめくる。御堂の同級生の連絡先のみならず現在の勤務先とポストまで記載されている。経済界から正解まで各界の著名人を数多く生み出している東慶大法学部の同窓会名簿だ。克哉のような営業の人間にとって、まさしく垂涎ものの個人情報といえる。

 営業はコネクションがものを言う世界だ。だから営業マンは必死に相手方に日参してコネクションを作る。そして、御堂は非の打ち所のない経歴が持つコネクションを惜しげもなく克哉に与えてくれようとしていた。

 

「どうして、俺に」

「君の大言壮語に乗ってやろうではないか。ただし、二度と下賎な真似はするな。それが条件だ」

「約束します」

 

 しっかりと釘を刺される。

 大言壮語というのは、昨夜の克哉が口にした「空前絶後の売上」のことだろうか。そうまで考えて、昨夜、自らが犯した失態がありありと蘇る。御堂に迫り無理やりキスをしたのだ。

 昨日の今日にもかかわらず、御堂はこうして顔を合わせても未だにそのことについて言及していない。御堂としてはなかったことにしたいのだろうか。しかし、克哉にとってはなかったことには出来ない。

 御堂から目を逸らさずに克哉は口を開いた。

 

「御堂さん、昨夜のことですが……」

「まずは君の実力を見せてみろ。話はそれからだ」

 

 克哉が言いかけた言葉を御堂がぴしゃりと遮った。蒸し返されたくないという御堂の態度がありありと透けていたが、それくらいでは克哉はめげなかった。

 

「つまり、返事を期待しても良いということですか」

「調子に乗るな。本来なら懲戒ものだが、今回だけは目を瞑ると言っているのだ」

 

 それだけ言って、御堂は片手を振って面談の終了を合図する。もう少しこの場にとどまっていたかったが、克哉は御堂に一礼すると執務室を出た。なかったことにされたわけではない。ただ、保留にされているだけだ。そう信じたい。

 それに、重要なのは、御堂は克哉をあからさまに拒絶してはいないということだった。それは、かつての克哉と御堂の関係から考えれば比較にならないほどの大きな進歩だった。

 

 

 

 克哉はキクチ八課に戻るとすぐに片桐に朝比奈フィットネスとの契約がまとまることを報告した。途端に課内が沸き立った。これで売上目標到達は確約されたも同然なのだ。キクチ八課のリストラは回避される。

 だが、克哉はキクチ八課のメンバーに、ここで満足したりせず、さらなる上を目指すことを告げた。元よりやる気に溢れた本多はすぐさま克哉の意見に賛同したが、意外にも他のメンバーからも反発はなかった。

 キクチ八課といえば、落ちこぼれと評価されたメンバーの寄せ集めの課で、何事にも挑む前から諦めモードが漂っていた。だが、こうして一つ一つの仕事が成果を出していくのを目の当たりにして、自分たちの仕事の面白さを実感しているのかもしれない。キクチ八課の意欲は今までになく高まっていた。

 朝比奈フィットネスとの契約がまとまると、キクチ八課の仕事は益々忙しくなった。日に日に増える契約先へのフォローのみならず、新規販路の開拓も同時並行で行っているのだ。克哉の負担も益々増えていったが、それも苦にならなかった。

 御堂から手に入れた名簿はありとあらゆる方面に絶大な影響力を発揮した。

 さすがは東慶大の同窓生だ。全国チェーンの小売りだけでなく、飲食店グループ、観光業など御堂の人脈はあらゆる業種の大手企業の中核に食い込んでいる。幹部クラスのポジションの人間を御堂に紹介してもらう傍ら、それぞれの現場のニーズを解析し、相手を納得させるようなプランを提案し、プロトファイバーを売り込む。

 目が回るほどの業務量にあっという間に一日一日が過ぎていく。御堂とはミーティングや接待で同席する場面は多いものの、克哉と二人きりになるのは避けているようで、克哉につけいる隙も与えなかった。仕事に勤しむ御堂の禁欲的な厳しさは変わらずだ。だが、今の克哉の胸にはむしろ高揚感が満ちている。御堂と同じ方向を見て協力して仕事をすることが、こうも楽しいことだとは知らなかったのだ。

 そして、御堂が設定した三ヶ月の期限が来たとき、プロトファイバーは驚くべき売上、それも前代未聞と言っても過言でないほどの売上を記録していた。

 

 

 

「……この売上は決して運に頼ったものではない。開発や営業を始めとしたプロトファイバーに関わる一人一人が自らの業務を忠実に遂行し、期待以上の成果を上げた。その成果の積み重ねがこの売上に結実したと言える。諸君のひたむきな努力に感謝する」

 

 スポットライトがあたる壇の中央で、克哉は乾杯の挨拶を述べる御堂を眺めた。会場内には百人近い人数が集まって、御堂へ熱っぽい視線を向けていた。御堂の口調に淀みはなく、壇上の立ち姿ひとつをとっても堂々たるものだ。人の注目を浴びることに慣れているのだろう。

 プロトファイバーの大ヒットを記念した、慰労会という名目の打ち上げは華々しく開催された。ホテルの会場を貸し切っての立食パーティーだ。MGN社の開発部の社員とキクチ八課の面々、そしてプロトファイバーに関わった社員たちが一堂に会する。普段は表には出てくることのない開発部のラボのメンバーも出席している。親会社と子会社という壁があっても、このときばかりは垣根を取り払って盛況な宴会になった。パーティー会場には和気あいあいとした空気が満ちている。

 挨拶を終えて壇上から降りた御堂を視界の端で探すが、克哉はあっという間に女性社員たちに囲まれてしまった。適当にあしらったところで、今度は皿に大量の料理を盛った本多がやってきて、克哉にこれを食べろと勧めてくる。本多の相手をしながら、ようやく見つけた御堂は、大隈専務やキクチの権藤部長に囲まれていた。その周囲にも御堂との会話の機会を虎視眈々と窺っている者が多くいる。

 業界誌が企画するヒット番付にもプロトファイバーはランクイン確実と言われている。その立役者である御堂は社の内外から注目されているのは言うまでもない。

 パーティーへの出席に乗り気ではなかった克哉は悪目立ちしないよう、ほどほどに周りにあわせてパーティーをこなした。ようやくパーティーが散会し、二次会に誘われる前にさっさと退散しようと会場を抜け出したところで、克哉は背後から御堂に声をかけられた。

 

「佐伯、この後いいか?」

 

 驚いて振り向けば、御堂は克哉に目配せでついてこいと合図して歩き出した。断る理由もないので御堂の後についていく。

 まだ会場内に人は多く残っているが、御堂も一足先に辞してきたようだ。

 ホテルからタクシーに乗って御堂に連れて行かれたのは別のホテルのバーだった。薄暗く落ち着いた雰囲気のバー、奥のボックス席に向かい合って座る。

 

「いいんですか。パーティーの主役がこんなところにいて」

「もう役目は果たした。私のデューティーはあのパーティーに出席することだけだからな」

 

 そう言って御堂はソファの背もたれにリラックスした様子で身体を預けた。運ばれてきたシングルモルトのロックを手に、克哉に言う。

 

「正直、君たちがここまでやるとは思っていなかった」

「御堂さんの協力がなければ無理でしたよ」

 

 素直な感想を口にした。かつての時間軸でもプロトファイバーの売上は申し分ないものだったが、この時間軸の売上とは比較にならない。もちろん、こんなパーティーも開催されなかった。御堂の協力の有無でここまで違うのかと実感させられる。

 

「むしろ、御堂さんはあちこちに借りを作ってしまったのでは?」

「何、学生時代の貸しを返してもらっただけだ。向こうも借りっぱなしでは肩身が狭いだろうから、ちょうど良かった」

 

 御堂はそう言って克哉に向けて笑った。ネクタイはきちんと締まったままで、髪もきっちり撫でつけられて何一つ乱れていない。それでも、こうして普段見せない笑みを浮かべるだけで薄暗いバーの中では、しどけないようなぞくりとした色気をまとう。

 

「それに、空前絶後の売上を見せてもらったからな。十分にお釣りがくる」

「御堂部長の業績に華を添えられて光栄です」

「ああ、君たちのおかげで私の人事評価にも箔が付く。私にとって部長職など途上に過ぎないからな」

 

 と涼しい顔で言い切る御堂に克哉はまじまじと御堂を見返した。

 史上最年少でMGN社部長職に就きながらも御堂は自分のポジションに何ら満足していない。目指すところはもっと上だと臆面もなく言ってのける。そして、自分がそこに辿り着くことをなんら疑っていない。

 高慢だ、と批難する声もあるだろう。だが、御堂はそんな下々の声などまるで気にしない。なぜならその眼差しは遙か高みに向けられているからだ。

 こうして正面から対峙してみれば、克哉は御堂のことを何一つ知らなかった。凌辱を繰り返し、御堂の身体のどこをどう刺激すれば感じるのか熟知しているのに、御堂が何を目指し、何を考えていたのか克哉はまったく知ろうともしなかった。それどころか、御堂の夢を完膚なきまでに打ち砕いたのだ。あの世界の御堂の未来を奪ったのは克哉だ。克哉が御堂に関わろうとしなければ御堂の未来は華々しいものであったろう。

 自身の罪の重さを突きつけられて、アルコールの酔いが一気に引いていく。一方で、御堂はそんな克哉の心の内などまるで気付かずに克哉に言った。

 

「君を我が社に推薦した。大隈専務も君の働きを認めている。近いうちに我が社への異動の辞令がくだるはずだ。良かったな、佐伯」

「そうですか」

 

 子会社から親会社へ。それは紛れもない出世コースだ。だが、克哉に取ってこの異動話は二回目だ。驚きはない。

 気のない返事に聞こえたかも知れない。御堂がグラスを傾ける手を止めて克哉を見た。その眼差しを、視線を伏せることで遮った。

 お互い黙り込み、会話が途切れた。

 克哉は手元にあるブランデーのグラスを唇に触れさせた。ほんの少しずつ舐めるようにして飲めば、濃いアルコールが熱を伴って胸の奥に伝い落ちていった。

 御堂は御堂で静かにグラスを傾けている。自然と沈黙が二人の間に降りてきた。その沈黙を埋めるように、バーの片隅から静かなピアノ演奏が流れてくる。

 どことなく気まずさはあるが、嫌ではなかった。

 御堂とこうして二人して酒を飲むことが出来る関係。それも悪くないと思った。いや、悪くないどころか、これ以上のことを望むのは贅沢というものだろう。自分は御堂を壊さなかった。それどころか、あの世界では達成できなかった売上をたたき出したのだ。御堂のさらなる昇進も夢ではないだろう。克哉は御堂の未来を奪うのではなく、夢の実現に貢献することが出来たのだ。

 ピアノの演奏が終わり、最後の音が静けさに溶け込んでいった。

 静寂が戻ったところで、とん、と御堂がグラスを置いた。正面から克哉を見据える。

 

「佐伯、君への返事だ」

「返事?」

 

 御堂は黙ったまま克哉の前に一枚のカードを差し出した。エンブレムが刻まれるそれは、このホテルの部屋のカードキーだ。

 

「君は私の期待以上の働きを見せてくれた。だから私も君の期待に応えようと思う」

 

 克哉はカードキーを一瞥すると、それに触れることなく立ち上がった。

 

「御堂さんが、単に報酬として俺と寝るなら、止めておきます。俺が欲しいのはあなたの身体じゃない。あなたの心ですから」

 

 相手の身体を屈服させれば心も屈服する、そう考えていたときもあった。だが、今の自分はそれが間違いであることを知っている。

 あまりにも素っ気ない克哉の態度に、御堂は眉をひそめた。

 

「君は言いにくいことをずけずけと言うな」

「伝えたいことは言葉にしないと伝わらないでしょう」

 

 もう御堂には告白までしてしまったのだ。今更自分の想いを隠す必要はない。克哉は、ふ、と小さく笑った。

 

「御堂さん、それでは週明けのミーティングで」

「待て、佐伯」

 

 帰ろうとしたところで御堂に呼び止められる。振り向けば、御堂はどこか切羽詰まった表情で克哉の顔を見つめていた。

 

「君は本当に食えない男だ。大胆でありながら臆病で、頭は切れるのに鈍感すぎる」

 

 忌々しげに吐き捨てる。そして、ふっと視線を逸らした。

 

「私がわざわざ酔った振りをして、こうして、自分のプライドをねじ曲げてまで誘っているというのに」

 

 迷いと苛立ちが混じったような口調と表情は、御堂の余裕のなさを示していた。

 克哉は目を見開いて御堂を見返した。

 

「まさか、本気で……」

「これ以上私に言わせるな」

 

 顔を逸らしたまま怒ったような口調で言う御堂の顔は心なしか耳まで赤くなっている。それは決してアルコールのせいだけではないのだろう。

 

 

 

 

 御堂が取っていた部屋は、やはり高層階のエグゼクティブクラスの部屋で、エリートの思考回路は皆似たり寄ったりのようだ。そんな感慨にふけるが御堂は部屋に入るなり、

 

「シャワーを浴びてくる」

 

 とバスルームへと向かおうとするので、抱き留めるように引き寄せた。

 

「そのままでいい」

「佐伯……っ」

 

 御堂の肩口に顔を埋めると、御堂がまとうフレグランスのラストノートと汗が混ざって官能的な香りが克哉の鼻腔をくすぐった。その香りを胸いっぱいに吸い込む。御堂が落ち着かない素振りで身体を竦ませた。

 

「おい、シャワーくらい浴びさせろ」

「俺へのご褒美なのでしょう? それなら俺の好きにさせてください」

「今更それを持ち出すか?」

 

 御堂は呆れた口調で言いつつも、克哉の好きにさせる。ほんの少しだけ身体を離すと、御堂のネクタイを解き、シャツのボタンを上から一つ一つ外していった。

 御堂も躊躇いがちに克哉の服に手を伸ばした。互いに服を脱がせあい、一糸まとわぬ姿になると御堂をベッドに連れ込んだ。

 煌々とした灯りの下でさらけ出された御堂の白い裸体に視線を這わせた。バランス良く筋肉の乗った傷ひとつない身体。それは克哉の記憶に残っていた御堂の姿とはまるで違っていて、いつまでも見蕩れてしまいそうになる。御堂が克哉の視線を避けるように身体をねじった。

 

「あまりじろじろ見るな」

「失礼」

 

 くすりと笑って正面から覆い被さるようにして、御堂の頬に手を添えた。顔を覗き込みながらゆっくりと唇に重みをかけた。柔らかな唇から温かな体温が伝わってくる。指を滑らせて唇の下を抑え、御堂の口を開かせた。唇の狭間を舐めながらゆっくりと舌を挿入していった。

 舌と舌が絡まり、濡れた音と粘膜同士が触れあう卑猥な感触に頭が甘く痺れていく。キスが深まるのにあわせて裸の身体を重ね合わせていった。

 先を焦る気持ちはあるが、だからこそ時間をかけてキスをする。角度を変えて唇を深く噛み合わせ、混じり合った唾液をこくりと呑み込んだ。跳ね上がる呼吸も体温もすべてを余すところなく堪能するようにキスを交わす。

 御堂とのキスはどこまでも気持ちよくて、いやらしい。

 そういえば、あの未来で御堂とキスを交わした記憶はなかった。御堂の意識がある間は、舌を噛みつかれる危険があったし、御堂が意識を無くしてからは、とてもそんな気分になれなかったからだ。

 キスを続けながら、手の平で御堂の首筋から肩、張り出した鎖骨をたどり、硬い胸へと手を滑らせていく。指先に慎ましやかな尖りが触れた。その部分を指の腹で柔らかく遊ぶ。

 

「佐伯、……っ」

 

 明らかに性的な触れ方に、唇を外した御堂が戸惑う声を出した。御堂の熱っぽく潤む双眸を間近から見つめ返して言った。

 

「俺に任せてください」

 

 そう言うやいなや、御堂の反論を封じようと唇を塞いだ。御堂の喉が甘く鳴る。

 なだめるキスで御堂を黙らせると、克哉は顔を離し、唇と手で御堂の身体に触れていった。

 唇を御堂の胸の尖りに触れさせた。軽く歯を立てて、舌で舐(ねぶ)る。かつての時間軸で克哉は御堂を徹底的に弄び、御堂の身体を淫らに躾けたが、この御堂は克哉に触れられるのは初めてだ。どこをどう触れればどう感じるか分かっているからこそ、慎重に、そして確実に、御堂の快楽を引き出していく。

 性的な愛撫を行う度に御堂が身体を強ばらせた。その反応は、御堂は性的な愛撫を受けるのに慣れていないからだろう。ベッドの上では常にリードする側だったのだ。それでも克哉が与える感覚を拒むことなく受け容れようとしてくれているのが分かる。

 下腹に手を下ろしていけば、そこにはすでに形をなした御堂の性器があった。

 

「孝典さん」

 

 御堂のそれに触れる前に、あえて下の名前で呼んだ。

 これが一方的に強いる行為ではなく、恋人同士の愛を交わす行為だと言うことを示したくて、御堂の顔を見つめて名前を呼んだ。

 御堂はわずかに目を瞠ったが、眦を綻ばせて返事をした。

 

「……克哉」

 

 御堂の自分の名前を呼ばれるだけで、その特別な響きに心臓が締め付けられるような甘苦しさを覚える。

 これが恋人同士の距離感だとしたら、想像していたよりも随分と甘い。

 その甘さに浸りながら、克哉は御堂の下腹に顔を埋めた。

 口を大きく開いて御堂のペニスを口に含んでいく。舌先に亀頭のもったりとした丸みと潮気のある味を感じた。くびれの段差に舌を這わせ、唇の輪と頬の粘膜で根元から先端まで扱くように咥えると、御堂が気持ちよさそうなため息を吐く。克哉の頭に御堂の手が触れる。克哉の後頭部に沈む御堂の指から、御堂が得ている快楽の強さを感じ取る。

 唾液をたっぷりと絡めて、淫猥な音を立ててしゃぶりつつ、手を奥の双嚢から会陰をくすぐるようになぞる。御堂の腹部から内腿にぐっと力が入った。髪の毛を掴まれて引っ張られる。

 

「――っ、もういい……っ」

 

 切羽詰まった声だった。克哉は限界間際のペニスから口を離すと、上目遣いに御堂を見上げた。絶頂を堪える苦しげな御堂の顔に凄絶な色香が漂っている。にやりと笑って言った。

 

「イっていいですよ」

 

 そう言ってペニスの先端に、チュッと音を立ててダメ押しの刺激を与える。次の瞬間、御堂のペニスから熱くて重い粘液が噴き出した。それを、唇を開いて受け止めた。

 

「ぅ、―――ぁっ」

 

 御堂は手の甲で口をきつく押さえている。

 手で根元から扱き、最後の一滴まで絞り出す。口の中に広がる御堂の味と感触を確かめながら、こくりと呑み込む。そして、御堂に欲情に染まった眼差しを向けた。

 

「このまま、あなたを抱きたい」

 

 克哉の口淫で果てて、激しく息を乱す御堂に克哉の声が聞こえているかどうか怪しかったが、射精の余韻にひくつくアヌスへと指を伸ばした。御堂の身体がぎくりと強ばる。

 唾液と精液が混ざり合ったものが尻のあわいを伝い、アヌスまでぐっしょりと濡らしていた。そのぬめりを指に纏わせて窮屈な窄まりをなぞり、ぬぷりと中に潜り込ませた。

 

「待て、そこは……っ」

「優しくしますから、大丈夫です」

 

 中をかき回されて、後ろを使った経験がない御堂が慌てた声を上げる。ぐっと腹筋に力が入り克哉の指をきつく締め付けた。

 硬く閉ざそうとするアヌスを馴らすように指を増やしていくが、御堂の違和感はひどいようで、眉を切なげに寄せて堪えている。その表情さえ克哉の欲情を煽った。

 御堂は男を抱いたことはあっても抱かれたことはないことは知っていた。この時間軸で、克哉が御堂に触れることが出来なかった期間、他の誰も御堂に触れなかったことに安堵の気持ちを覚える。

 ようやく三本の指を咥え込めるところまで馴らして、克哉は御堂の両脚を抱え上げ、自身の切っ先をアヌスに押し当てた。これから起こる衝撃に、御堂が鋭く息を吸い込む。

 御堂の顔を見ながら、ゆっくりと腰を入れた。

 

「――ッ、……ぅ」

 

 じわじわと進ませると御堂が苦悶に顔を歪める。

 優しくしたい気持ちはあった。だが、克哉にも余裕なんてものはなかった。

 それでも、ひと息に貫きたくなる自分を必死に抑えて巧みに腰を遣いながら、御堂の身体を克哉の形に拓いていく。

 

「く……」

 

 御堂が歯を食いしばり、克哉の肩に爪を立てた。その鋭い痛みさえ克哉を抑えることは出来ない。御堂のきつく瞑られた眦から溢れた滴がこめかみを伝う。

 男を知らない粘膜はギチギチに克哉のペニスを挟んでくる。それは気持ちよいと言うよりも痛いくらいだ。克哉は上唇を舌先でちろりと舐めながら巧みに腰を遣って、少しずつつながりを深めていった。

 どうにか根元まで収めると、御堂のこめかみにキスを落として涙を拭った。深いところを抉り抜きたいという衝動を抑え込みながら、すさまじい圧迫感に御堂が馴染むのを我慢強く待つ。克哉は上体を屈め、御堂の頬から口元、そして首筋へと音を立ててキスを落とした。そうして、御堂に告げる。

 

「孝典さん、愛してます」

「……ッ」

 

 内臓を押し上げられる圧迫感に必死に堪えている御堂がきつく瞑った薄く開いた。克哉と視線が重なり、その眼差しに誘われるように克哉は御堂の唇に唇を押し付けた。くちゅり、と舌先が触れあうと、御堂の身体の力が抜けた。

 律動を再開し、ゆっくりと大きく揺すり上げる。御堂のペニスに手を伸ばした。筒状に握り込み、突き上げにあわせて扱く。馴染みのある快楽を感じさせながら、苦痛を逸らし、未知の快楽を受け容れるように促す。

 御堂の奥の方にある弱い場所、そこを擦りあげると御堂は足で空を蹴るようにして引き攣らせた。

 

「ぁ……、ぁあっ……!」

 

 先ほど極めたにもかかわらず、御堂のペニスはあっという間に硬く張り詰めている。御堂の感じるところを狙いつづけると、御堂の顔は快楽に染め上げられて喘ぐことしかできなくなった。身体は柔らかく蕩け始めて、御堂の内腔は克哉を誘い込むかのように蠢動しはじめる。引きずり込まれるように克哉は腰をたくましく遣いはじめた。

 御堂が克哉に抱かれて感じている姿を目に焼き付けるようにして見つめた。

 浅くなる呼吸、艶めいた表情、深い闇色の双眸は悦楽に潤んでいる。

 克哉を心から受け容れようとする御堂は、こうも甘く乱れるのか。

 緩急を付けながら御堂の中をかき回し、大きく揺さぶって、淫らな行為にふける。身体をつなげること以上に心をつないでいるという充足感が克哉を満たしていく。

 

「――――ッ」

 

 御堂が身体を突っ張らせると、声にならない声を上げた。深い極みに呑み込まれていく。克哉の手の中にたっぷりとした白濁が吐き出される。同時に内部が激しく引き絞られて、克哉も息を詰めた。下腹に重たい快楽が走り抜け、御堂の中に熱い長い迸りを放つ。

 

「孝典さん……」

 

 気が付けば御堂にくちづけていた。御堂も薄く口を開いて克哉を受け容れる。身体をつなげたままのキスに頭の中が甘く白んでいった。

 克哉が知らなかった世界が、辿り着くことを夢見た未来が、目の前に広がっていた。

(4)
5

「おやすみなさい」

 

 そう言って、克哉は手のひらで撫でるようにして御堂の両の瞼を優しく下ろした。薄く開いていた双眸は克哉の手に抗うことなく閉じる。

 ようやくベッドに御堂を寝かしつけて、克哉はひと息ついた。

 寝かしつけたと言っても、御堂に睡眠と覚醒の区別があるとは思えなかった。不規則に瞬きをする眸は、放っておけばずっと虚空を見つめている。それでも、昼間はリビングで陽の光を浴びさせて、夜は形だけでもベッドの上で眠りに就かせた。普通の人間と同じような生活リズムを繰り返すことが御堂にとっての最善だろうと考えたからだ。

 自分ではまったく動こうとしない御堂は、ベッドに寝かせるにも気を遣う。

 寝返りが出来ない御堂が褥瘡を作らないよう、こまめに体勢を変える必要があるのだ。そのため、克哉の睡眠時間は細切れだ。

 自分では何も出来ない大人の世話をすべて克哉一人でしているのだ。当然、負担は重かった。仕事も定時で切り上げ、同僚との付き合いも一切止めた。生活の中心はもちろん御堂だ。御堂の部屋にいる間は分刻みのスケジュールで御堂の世話をし、体調を気遣う。だが、いくら献身的に世話をしても、そうやって尽くしているだけに御堂が日々衰弱していることが手に取るように分かる。

 御堂のことを本気で考えるのなら克哉が世話をするよりも、病院に連れて行った方がどれほど良いか分かっている。克哉が御堂のケアにどれほど心を砕いても所詮は素人のまねごとだ。それでも、克哉は御堂を手放すことが出来なかった。

 克哉が求めた御堂はもうここにはいない。それなのに未だに自分は何を求めているのだろうか。こんなことは形ばかりの贖罪に過ぎない。そして、二人の向かう先は破滅しかない。つまり、克哉が行っていることは御堂を巻き込んだ緩慢な心中だ。そうと分かっているのに、それでもいつか、御堂が目を覚ますのではないか。そんな淡い希望を胸に抱き、一方で、ぬかるみのような絶望を背負いながら克哉は御堂の部屋に帰り続けている。

 御堂が衰弱するにつれて、克哉への負担は大きくなってきていた。食事ひとつをとっても、最初の頃は御堂は口の中に入れたものを呑み込んでくれたが、今は数口呑み込ませたところで動きを止めてしまう。時間をおいて食事の回数を増やし、どうにか必要最低限の水分と栄養を取らせているが、このままでは仕事との両立が破綻するのも時間の問題だ。それならいっそのこと、さっさと退職してしまおうか。そんな考えが胸をよぎるが、それでもMGN社の開発部部長のポストにこだわるのは、克哉の前任者が御堂であったからだ。御堂が存在した証(あかし)をかき集めて、消えてしまった御堂の面影を求め続ける。克哉を覆う暗闇から目を逸らすために……。

 

「っ……」

 

 克哉はハッと目を覚ました。薄い日差しが寝室に差し込んでいる。

 自身を確認すれば、克哉は寝室の床に腰を落として、御堂を寝かせたベッドにもたれかかった状態で寝ていた。睡眠不足が続いていたためか、気が緩んだ瞬間に眠りに落ちてしまったようだ。

 克哉は床に手をついて身体を起こす。疲労が蓄積しているのか、酷く身体が重たかった。それでも膝に力を籠めて立ち上がる。

 今は何時だろうか。白む空の明るさは早朝のようだ。数時間もロスしてしまったらしい。寝かせた御堂の体勢を変えなくてはならない。頭の中でロスした時間を挽回するための作業の順番を組み立てつつ、ベッドへと顔を向けて克哉は異変に気が付いた。部屋が静かすぎる。自分の呼吸と鼓動の音しか聞こえないほどに。

 咄嗟にベッドの上に横たわる御堂の肩に手を伸ばした。弾みで御堂の頭がぐらりと枕から落ちる。瞼が開き、拓ききった瞳孔が克哉を映した。克哉の手のひらには体温を失ったひんやりとした肌が触れ、半開きの御堂の唇は土気色でか細い呼吸の動きも見られなかった。震える指を首元にあてる。指先には何の脈動も触れない。

 克哉の心臓が胸を突き破りそうな勢いで乱れ打ち出した。ついに、恐れていたことが起きてしまったのだ。克哉がほんのいっとき、意識を逸らしてしまった隙に。

 

「みどう……!? 御堂――ッ!」

 

 克哉の叫びが部屋の中に反響した。

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 ガバっと克哉は跳ね起きた。心臓が早鐘のように打っている。枕元の眼鏡を掴み、目に飛び込む光景を認識する。ここは御堂の寝室のベッドの上だ。

 開かれたカーテンからは淡い朝の光が差し込んでいる。いましがたの恐怖がまだべっとりと首筋に張り付いていた。乱れた呼吸を落ち着けようとしたところで傍らから声が響いた。

 

「佐伯、どうした……?」

 

 その声に心臓が止まるかと思うほど驚き、克哉は身体をぎくりと強ばらせた。恐る恐る視線を巡らせると、傍らで寝ていた御堂がうっすらと瞼を押し上げる。

 

「……御堂?」

「どうした、幽霊でも見たような顔をして」

 

 御堂が眠たげな目を擦りながら克哉を見上げた。

 情交の痕が色濃く残る裸体が、克哉が起きた弾みでずり落ちた上掛けから覗いている。

 ようやく思い出した。ここは、御堂の部屋だが、先ほどまでの悪夢の中とは違う。これが今の克哉の現実なのだ。

 手で首筋に伝う冷や汗を拭った。もしかしたら悲鳴を上げたかもしれない。だが、御堂の様子を見れば気付いていないようだ。

 御堂が言った通り、克哉は幽霊を見ていた。御堂の亡霊だ。

 目覚めた今はあれが夢だと分かる。あんな出来事はあの未来でもなかった。だからあれは純粋な悪夢だ。そう思うとようやく落ち着いてきた。しかし、あまりにもリアルな夢だった。

 御堂が死んでしまう夢。あの克哉がいた未来で、近い将来に起きる出来事だったのだろう。確かに、あの時間軸での自分はそれを予感していた。

 未だにあの夢のショックから抜けきらないが、もうあの未来に辿り着くことはきっとない。そう自分に言い聞かせる。

 克哉は眼鏡をかけて夢の余韻を振り払うと、御堂ににっこりと笑いかけた。

 

「ちょっと寝ぼけていました。……おはようございます、御堂さん」

「おはよう……」

 

 掠れた声で御堂が克哉に返事をした。克哉に注がれる眼差しには柔らかな色が浮かんでいる。

 克哉は甘い笑みを浮かべながら御堂の唇にキスを落とした。チュッと音を立ててついばむキスを繰り返す。御堂の喉が甘く鳴った。

 この週末、克哉は御堂とずっと一緒に過ごしていた。ホテルをチェックアウトした後、腰の痛みに顔をしかめる御堂を部屋まで送るという口実でタクシーに一緒に乗り込み、御堂の部屋に上がり込んだ。

 そこは記憶にある通りの御堂の部屋で、足を踏み入れた瞬間、かつての出来事が思い起こされて動きがぎこちなくなったが、御堂はなんら克哉を警戒することはなかった。そしてふたたび二人してベッドにもつれこみ、週末の休みをほとんどベッドから出ずに過ごしたのだ。

 

「もう朝か」

 

 御堂は身体を起こそうとするが、それも辛いようで顔をしかめている。克哉は気遣う声をかけた。

 

「何か飲み物を持ってきますよ」

 

 そう言って、克哉はベッドから滑るように降り立ち、キッチンに向かうと冷蔵庫の扉を開けた。そこには予想通りミネラルウォーターのボトルが並んでいる。ほとんどを外食で済ます御堂らしい冷蔵庫の中身だ。そこから一本取り出すと寝室に戻り、キャップを外して御堂に差し出した。御堂が複雑な顔をしてそれを受け取る。

 

「君は私の部屋のどこに何があるのか随分と詳しいな。まるで、この部屋の住人のようだ」

 

 そう指摘されてぎくりとする。その通りだ。御堂の部屋は当然、隅々まで知っていた。内心冷や汗をかきながらも冗談めかした口調で返す。

 

「俺をこの部屋の住人にしてくれて良いですよ?」

「馬鹿を言うな。厚かましいぞ」

「それは残念だ。俺はいつでも越してくる準備は出来ていますけど」

 

 御堂は返事代わりに克哉を睨み付けるとボトルに口を付けた。白い喉が反り、形の良い喉仏が上下する。空になったボトルを受け取りつつ言った。

 

「御堂さん、シャワー浴びます?」

「ああ。そうする」

 

 ベッドから降りようとする御堂に克哉は無意識に手を伸ばしていた。御堂の身体を支えようと添えられた手に御堂が胡乱な眼差しを向ける。

 

「なんだ、その手は」

「……手伝おうかと」

「不要だ」

「それは失礼」

 

 素直に手を引っ込める。御堂はぎこちない動きでバスルームへと向かっていった。

 御堂の部屋にいるせいだろうか。御堂を介助する日常が思い出されて、つい手を出してしまう。そしてまた、御堂が自分の部屋で自由に動き回るのを見るのが新鮮で、意識して視線を外さないとずっと眺め続けてしまう。

 だが、もう週末は終わり、月曜日の朝だ。お互いにのんびりしていられない。

 御堂の後に克哉もシャワーを借りると、慌ただしくスーツを着込んだ。

 

「じゃあ、俺はいったん家に帰ります。またミーティングで」

「佐伯」

 

 玄関に向かおうとしたところで御堂に呼び止められた。

 

「手を出せ」

「はい?」

 

 訝しみながら手を出すと御堂が何かを手渡した。ひんやりとした硬い感触が触れる。

 

「これは……」

「私の部屋の鍵だ」

 

 克哉は手の中にあるカードキーをまじまじと見詰めた。

 この鍵は当然、知っていた。かつて、克哉はこのスペアキーを持ち、御堂の部屋を我が物顔で出入りしていたのだ。顔を上げて御堂を見返した。対する御堂の頬は心なしか上気している。

 

「いいのですか?」

「駄目なら君に渡していない」

「大切にします」

 

 恭しい手つきで御堂の鍵を受け取ると、鞄の中にしまった。薄っぺらなそれが大きな存在感を持って鞄の中に収まる。

 

「では、またMGNで」

「ああ」

 

 愛しさを籠めた眼差しを交わして御堂の部屋を出ると、エレベーターで一階に降りた。

 マンションのエントランスをくぐり、空を見上げた。透き通るような青い空が広がり、吹き付ける朝の風は涼しく、秋の訪れを感じさせる。

 解き放たれたような晴れ晴れとした気持ちが克哉の足取りを軽くする。

 自分が選択した道は正しかったのだ。

 満たされるような喜びが込み上げてくる。

 朝の光が輝きを増していく。目の前の世界はとても美しかった。

 

 

 

 厳しい残暑が続いたかと思うと、短い秋はあっという間に過ぎ去った。

 御堂のマンションの前でタクシーから降りるなり、寒風が克哉の肌を刺す。

 季節は冬を迎え、日が暮れるのも早くなった。もうすっかり周囲は暗くなり、冬の身を切るような鋭い風に、街ゆく人々は首を竦めながら早足で帰路を急いでいる。

 外回りに出ていた克哉はキクチ八課に直帰の連絡を入れ、直接御堂のマンションに向かっていた。御堂からは早めに仕事を切り上げて帰るとのメールが携帯に入っていた。今夜もまた御堂の部屋で過ごすことになるのだろう。

 週に三日は、克哉は自宅ではなく御堂の部屋に通っていた。お互いにめまぐるしい忙しさであっても、二人きりの時間を捻出して一緒に過ごしている。そして、御堂の部屋に泊まるときには必ず身体を重ねていた。相手を想い合いながら行うセックスは肉体のみならず心まで満たされる。嗜虐的な昏い興奮とは違う悦楽がそこにあった。互いの快楽が噛み合うと目が眩むような快楽に呑み込まれていく。貪欲に求め合い、何度も果てて、愛し愛されていることを実感する。御堂との新しい関係はこの上なく甘美だ。

 克哉は渡されたカードキーを使って正面エントランスをくぐる。合鍵を渡されて、こうして御堂の部屋に帰る日常もすっかり板についた。このまま本格的な同棲へともつれこむのも時間の問題だろう。御堂は使っていないゲストルームを克哉の部屋に割り当ててくれた。そこは奇しくも克哉が御堂の監禁に使った部屋で、当初は複雑な気持ちがよぎったが、克哉が着替えなどを持ち込んだせいですぐさま生活感溢れる部屋となった。かつての陰気さが満ちたがらんどうの部屋とはまったく違う。

 この頃になると不幸な未来はほとんど克哉の記憶から消えかかっていた。頑張って思い出そうとしても、薄闇に浸された御堂の部屋は現実感の欠片もなく、意識に上ることもない。はるか遠い日の、夢か現実かさえ区別できないような曖昧な思い出のように、細切れになって霞んでいく。今となっては存在しない世界の記憶だ。このまま気付かぬうちに忘れ去られていくのだろう。

 そういえば、とぼんやりと思い出す。克哉が元いた世界も冬だった。ようやくあの未来の時点にこの世界が追いついたのだろうか。

 あの未来とは似ても似つかぬ世界へと辿り着くことができた。この時間軸の世界こそが正しい世界だ。そう自信を持って断言できる。そして、あの未来は存在し得ないただの悪夢へと姿を変えた。後は一刻も早く忘れることだ。克哉は追憶の余韻を心から振り払った。

 エレベーターから降りて御堂の部屋に入るが、部屋の中は暗かった。

 

「御堂?」

 

 御堂はまだ帰ってきてなかったのだろうか。

 克哉は廊下の壁に手を伸ばして、照明を点ける。奥の暗がりへと足を踏み出した。

 静けさと暗闇に浸される空間。仄暗いリビングから微かな明かりが漏れていた。壁一面の広い窓の外に広がるきらびやかな東京の夜景が、部屋を照らしているのだろう。

 それにしても静かだ。分譲タイプの高級マンションは防音がしっかりと効いていて、耳を澄ませば微かな空調の音が聞こえるが人がいる気配はない。

 御堂の帰宅を待つ間、デリバリーの食事でも頼んでおこうかと頭の中で算段しながらリビングのドアを開けた。そして一歩、中に踏み出した足が固まる。

 きらびやかな夜景を前にソファに腰掛ける人影があった。あまりにも静かで気付かなかったのだ。

 

「御堂……?」

 

 声をかけたが、ソファの背にもたれかかった後ろ姿はぴくりとも動かなかった。

 さては、部屋の電気を消してうたた寝をしているのだろうか。

 克哉は部屋の電気を点けた。照明に照らされるのは紛れもなく御堂の後ろ姿だ。だが、どこか普段の姿と違うように思えた。

 

「寝ているのか?」

 

 御堂は動かない。返事もしない。何かしら首筋がひやりとするような不穏な気配を感じた。

 

「どうした?」

 

 もう一度、強めの声で呼びかける。だが、何の反応もなかった。

 鼓動が早鐘を打ち出した。息を詰め、固唾を呑むようにして、ソファを回り込んだ。そして、正面から御堂を目にして克哉は呼吸を忘れた。

 

「御堂……!?」

 

 そこにあるのは変わり果てた御堂の姿だった。蒼白な顔とやつれ果てた身体。枯れ木のように痩せ細りだらりと投げ出された手足。体躯は左右のクッションでかろうじて支えられていたが、何かの弾みで崩れ落ちてしまいそうなほどに頼りない。

 何が起きたのか。

 誰が御堂をこんな風にしたのか。

 瞬きさえ忘れ、御堂に駆け寄った。御堂は目を開いているものの、その眼差しは虚ろだった。何の意思も感情も見られない顔、その様相は死体以上に生気を感じさせなかった。

 

「御堂――ッ!!」

 

 克哉はあらん限りの声で叫んだ。

 次の瞬間、頭が酷く痛みだした。自分を取り巻く現実がおぼろげに霞んでいく。

 不意に、口の中に柘榴の味が鮮明に広がった。咄嗟に克哉は嘔吐くようにして口の中の唾を吐き出した。シャツの袖で口に残る柘榴の果汁を拭う。

 顔を上げれば夜気と静寂に侵された部屋が克哉を取り囲んでいた。白々しいほどの冷たい照明が自分と御堂を照らしている。目の前の光景は認識出来るのに、自分の意識はどこか遠いところにあった。すべてが薄膜を一枚隔てたように何が現実なのか見失う。

 過去と未来が混じり合い、混濁した意識の中で脳の奥深くが軋んだ。煤けた記憶が呼び起こされる。

 そうだ、そうだった。

 ――俺が御堂をこうしたんだ。

 動かぬ御堂を前にして呻く声が漏れた。

 

「俺があんたを壊した……」

 

 はっきりと思い出した。自分が御堂に行った無惨な仕打ちを。そして、壊れてしまった御堂の姿を。

 それなら今の今までの御堂との甘い記憶はなんだったのか。

 手には柘榴の果実があった。ハッと振り返れば、克哉の傍らには黒衣の男が立っている。いつからこの場にいたのか。いや、ずっといたのだ。克哉が認識しようとしなかっただけで。

 黒衣の男、Mr.Rが克哉に視線を重ねて微笑む。

 

「おかえりなさい、佐伯克哉さん」

「そうか……」

 

 すべてを理解した。

 克哉は過去を変えたはずだった。だが、現実は何も変わっていなかった。

 絞り出した声は震えていた。

 

「俺は俺の過去を変えたんじゃない。俺の記憶を書き換えたんだ」

 

 腕時計に視線を落とした。Mr.Rが現れてから幾ばくも時間は進んでいない。

 それは克哉にとっては半年にわたる時間だが、現実ではほんの一瞬だった。柘榴の果実を囓り、それを味わう間のほんのひととき。その間に克哉は自身の記憶を自分の良いようにねつ造したのだ。その過去はあまりにも生々しく、リアルに迫っていた。まるで中国の故事にある邯鄲の夢のように。

 もし、完全に柘榴に意識を明け渡していたら、御堂が壊れているという現実を目にしてもなお、自身の過ちを忘れて自分以外の誰かが御堂をこうしたと思い込んでいただろう。

 

「いかがでしたか、やり直した過去は?」

 

 Mr.Rはにっこりと克哉に微笑みかけた。

 柘榴を握りしめた拳が怒りに震える。克哉は Mr.Rを睨みつけた。

 

「俺をだましたのか」

「私は何も間違ったことは言っておりません。あなたの過去を変える果実。実際に変わったでしょう、あなたの過去が」

「俺の過去じゃない。俺の記憶だ」

「あなたの記憶はすなわち、あなたの過去ではありませんか」

 

 Mr.Rは平然と言い放つ。克哉は厳しい顔つきのまま言った。

 

「だが、現実を変えることは出来ない」

「その通りです。あなたは現実を都合良く変えることが出来るとお思いで?」

 

 Mr.Rの顔に浮かぶのは冷ややかな嘲笑。克哉は言葉を窮した。自分の過去をやり直せるなどと言うあまりにも都合の良い話があるはずはないのだ。だが、克哉はMr.Rの誘惑に乗せられてしまった。

 Mr.Rは蠱惑的に囁く。

 

「あなたの仰るとおり、この果実はあなたの記憶を変えるだけです。しかし、あなたにとっての現実を変えることが出来る。逃れたくはありませんか、あなたを苦しめるこの現実から」

「俺の現実を変える?」

「あなたの記憶を書き換えれば、目の前の現実と無関係でいることが出来る。たとえば、あなたがこの方と関わる選択をしなければ、この部屋に帰る必要もなくなり、この現実に罪悪感を持つこともない」

「それは……」

「自分とは関係ない他人がどうなろうと、あなたが心を痛める必要はないのです」

 

 そう。過去をやり直して、克哉が御堂に執着しなければ、まったく興味を持たなければ、御堂はすぐに克哉の頭の中から拭われ、無関係な他人となるだろう。自分が御堂をこんな目に遭わせたという事実さえ忘れ去ることが出来るのだ。この部屋に帰ることもなく、目の前の現実を直視することもない。

 テレビで流される悲惨なニュースを見ても所詮は他人事であるように、赤の他人がどこで野垂れ死のうと自分の意識の片隅にも上らない。そして、克哉は別の誰かを恋人にして、幸せな朝を迎えることだって出来るのだ。

 

「あなたはこの絶望から救われたかった。そうでしょう?」

「……」

 

 Mr.Rの言葉は甘い毒のように響いた。

 克哉は目を瞑った。視界から御堂を消し去る。御堂が存在しない世界を想像した。その世界は克哉を救ってくれるのだろうか。果てのない後悔と絶望から逃れることができるのだろうか。

 この現実を変えることが出来ないとしても、この現実と無関係でいられるとしたらどうだろう。

 何故、自分はMr.Rが差し出す果実を口にしたのか。

 それは、容赦なく突きつけられる絶望から逃れたかったのではなかったのか。

 ゆっくりと瞼を押し上げた。白い照明の下に、血の気の失った御堂が焦点の合わない眸をぼんやりと開いている。御堂はとうに、自身に突きつけられた現実から縁を切ったのだ。それならば、克哉もまた同じ選択をしても許されるのではないか。

 掠れた声で呟いた。

 

「……俺は救われたかった」

「それならば、もう一度、この果実を口にするのです。そして、今度こそ、この方の存在をあなたの過去から消し去ればいい」

 

 Mr.Rは笑みを深める。だが、克哉は静かに首を振った。

 

「俺は選択を間違えていた。俺が救われても御堂は救われない。だが、御堂が救われれば俺は救われる。だから、俺が変えるべきは自分の過去ではなくて、御堂の過去だったんだ」

 

 克哉は眼鏡を外した。眼鏡を外しても克哉の視界も現実も代わることはない。だが、かつての自分は、自身を取り巻く世界を変えられると思っていた。その結果、克哉は大切な人の未来を踏みにじった。罪悪感ごと御堂を放り出して得る楽園は、決して自分が求めていたものではない。

 Mr.Rの金の眸を見返した。

 

「Mr.R、お前はこの眼鏡をかければ本当の人生を歩むことが出来ると言った。それならば、これが俺の人生なのだろう。だが、御堂は違う。これが御堂の人生であって良いはずがない。……俺は俺を救うために御堂を救う」

 

 たとえ御堂が克哉に救われることを望んでいなかったとしても。

 克哉は御堂の前に膝を付いた。見上げるようにして御堂の虚ろな顔を覗き込む。

 

「御堂、本当にすまなかった。最後まで俺の身勝手に付き合わせてしまって」

 

 こうしてみれば、克哉は御堂にずっと謝りたかったのだと気付く。

 本来なら額(ぬか)ずいて御堂に許しを乞うべきだ。だが、克哉がいくら心からの謝罪を繰り返したところで、この御堂には何一つ届かないだろう。この謝罪さえも克哉の独りよがりな行為に過ぎない。何もかもが遅すぎたのだ。

 いくら今の御堂の面倒をみたところでそれは償いすらならず、御堂の未来と天秤にかけたところで帳尻の合うようなものでは到底ない。

 この柘榴が見せた夢のように、克哉の態度次第では御堂ともっと別の関係を築くことも出来たはずだ。そんな可能性を垣間見てしまっただけに、胸が張り裂けそうになる。

 克哉は立ち上がり、柘榴の硬い果皮を剥くと、紅く煌めく果実に齧り付いた。

 口の中で軽く咀嚼すると、上体を屈めて御堂の顔に顔を寄せた。

 御堂の唇は乾燥していて、あちこちの皮が剥けていた。そんなかさついた唇に唇を押しつけ柘榴を口移しで与える。御堂は抗うことなく克哉が与える柘榴を受け入れ、そして、こくりと呑み込んだ。御堂の喉仏が上下するのを確認して、克哉はゆっくりと顔を離した。最初から最後まで御堂の呼吸はか細くなだらかなままで、乱れることは一切なかった。

 御堂の耳元に口を寄せて、はっきりとした口調で告げる。

 

「御堂、俺と一切関わろうとするな。俺と無関係でいろ。決して俺に近づくな。……忘れろ、俺のことも、何もかも」

 

 これで御堂は自分の過去を変えることができる。御堂の過去から克哉が消える。

 克哉によって徹底的に嬲られ壊された過去から、克哉が存在することのない、本来御堂が歩むべき過去へと。

 克哉によって御堂の心は壊された。それならば、克哉が消え去れば、その事実さえ消え失せて御堂の魂は戻ってくるはずだ。

 祈るような気持ちで、果汁に塗れた御堂の口元をハンカチで拭った。

 克哉からすればほんの短い時間に、御堂は過去をやり直しているのだ。

 克哉の口の中には柘榴の名残が残っていた。甘酸っぱいその味を意識した途端、克哉を取り巻く空気がぐらりと揺れた。

 

「……?」

 

 克哉の背後から押し殺すような嗚咽が聞こえる。振り返れば、克哉の前に一面の桜の花びらが舞っていた。薄い紅を乗せた無数の花弁が空から降り注ぐ。その幻想的な光景に目を奪われていると、いつの間にか、目の前に一人の少年がたっていた。

 その少年はブレザーの学生服に身を包み、手には卒業証書を入れた筒を握っている。身体の横に下ろした拳が震えていた。顔を伏せて、必死に流れ出しそうになる涙を堪えているのだ。

 その少年の姿を克哉はよく知っていた。

 それは、自分だ。幼かった頃の。

 克哉はレンズの奥の目を眇めた。封じ込めていた記憶をむりやりこじ開けられて、苦い思いが込み上げてくる。

 今から思い返せば、なんてことのない出来事だ。

 信頼していた親友に裏切られた。

 言葉にすればたった一行のことだ。それでも、無垢な心には立ち直れないほど深く抉られた。

 そして、目の前の少年は、今まさに深く傷つき打ちのめされていた。

 

 ――ああ、そうか。

 

 克哉は気付く。

 この瞬間まで遡ってこの過去を消し去れば、今の自分を葬り去ることも出来るだろう。

 同じ佐伯克哉でありながら、取り返しの付かない罪を犯した自分をなかったことにして、別の佐伯克哉として生きていけるはずだ。御堂が克哉の記憶を消し去るように、克哉もまた自分自身の記憶を消し去って、新しい人生を歩むことが出来るのだ。

 だが、その佐伯克哉は理想の人生を歩めるのだろうか。

 ……いいや、きっと、そんなことはない。

 どんな選択をしても必ず後悔は生まれるだろう。佐伯克哉が送ることができる数多(あまた)の人生の違いとは後悔の多寡に過ぎないのかも知れない。

の克哉の人生は後悔と絶望に満ちている。朝起きて現実に戻る度に、身が千切れるような苦しみが克哉を襲う。それはきっと永遠に無くなることはないだろう。それでも、この胸を塞ぐような悔恨を無くすために、御堂を忘れさり、自分が犯した過ちを消し去る人生を選ぶことはない。

 克哉は幼い自分に歩みを寄せると、膝を付いた。

 うつむき加減の顔を覗き込むようにして、声をかける。

 

「お前は過去の俺だ」

 

 その言葉に幼い自分は顔を上げる。まだあどけなさを残した顔が口を固く結び、泣き出す寸前の赤い目で克哉をまっすぐに見返した。

 苦しさを堪えようと歪んだ顔には、自身の弱さと脆さが如実に表れている。その顔を目にして胸が切なく痛んだ。

 この自分を否定しようとして、克哉は眼鏡を手に取ったのだ。

 克哉は少年に向かって言う。

 

「俺はお前を受け入れる。お前の絶望も苦しみも否定したりはしない」

 

 友だと思っていた人間から投げかけられた言葉を、疑うこともなく信じた愚かな自分。裏切りに立ち向かうことも出来ず、その場から逃げた。

 それは恥ずべき過去だと思っていた。そして、今の今まで自身の過去を否定しながら生きてきた。

 自然と手が伸びていた。幼い自分の頭を撫でる。柔らかな髪が克哉の手に触れた。

 

「この先にはいろいろなことが起きる。今みたいに後悔することも多くあるだろう。だが、それでもお前は、自分の歩んできた道をなかったことにすることはできない。俺に出来ることは、自分が正しいと思った道を歩き続けることだけなんだ」

 

 この少年は現実ではない。所詮は柘榴が見せる幻影だ。そう頭で分かっていても、克哉は記憶の中の自分を突き放すことは出来なかった。

 幼い自分に、そして、自分自身に向かって言い聞かせるように告げる。

 

「お前は、何にでもなれる。だから、顔を上げろ。前を向け。そして、歩き出せ」

 

 克哉の言葉を黙って聞いていた過去の自分は、大きく頷いた。そして克哉に向けて微かに笑った。二人の視線が結び合う。次の瞬間、幻は揺らめき、掻き消えていった。

 同時に、視界を埋めていた桜の花びらが溶けるように薄れていく。みるみるうちに視界が輪郭を描き直し、ふたたび御堂の部屋が克哉の前に現れた。

 口の中に柘榴の微かな味が残っていた。柘榴が見せた過去は跡形もなく消え去ったようだ。

 克哉は部屋を見渡した。いつの間にかMr.Rの姿はなく、御堂は克哉が最後に目にした姿のままぼんやりと虚空を見詰めている。

 何もかもが、幻だったのだろうか。

 何かしらの手がかりを求めて御堂に背を向けて、部屋に異常がないか確認しようとした時だった。

 背後で空気が動いたのを感じ取り、克哉は振り返った。

 御堂はいつの間にか目を閉じていた。だが、その御堂の姿に異変を感じ取る。

 克哉は呼吸を忘れて御堂を見つめた。

 永遠に限りなく近い刹那、もしくは、刹那に限りなく近い永遠。

 凝縮された時間を駆け抜けた御堂の、長い睫が震える。

 ゆっくりと御堂の瞼が押し上げられる。自発的に開かれた瞼、深い闇色の眸が揺れた。そこには、確かな意思が灯っている。

 

「御堂……?」

 

 瞬きも忘れて克哉は御堂に声をかけた。

 だが、周囲をさまようよう御堂の視線は頼りなく、困惑の色に染まっていた。薄い唇が震える。

 

「ここは……?」

 

 弱々しく掠れた声音だった。だが、確かに御堂の声だった。

 

「御堂さん、分かりますか?」

 

 御堂の前に屈み込み、視線を合わせる。揺れ惑う眸が克哉の顔へと固定される。その眸には怯えも憎悪もなかった。

 

「君は……誰だ?」

 

 御堂は小首を傾げた。その顔にはただ、見知らぬ人間に対する戸惑いがあるだけだ。

 そうだ。

 御堂は克哉と関わらない過去を選択し、克哉にいたぶられた事実を記憶から消し去ったことで魂を取り戻したのだ。今の御堂にとって、克哉は見知らぬ他人以外の何者でもない。

 克哉は御堂の問いには答えず、安心させるようにゆっくりとした口調で言った。

 

「今、救急車を呼びますね」

「救急車……?」

 

 ぼうっとした口調と眼差しは、まだ完全に意識が覚醒していないからだろう。

 御堂は自身が置かれている状況がまったく理解できてないようだった。立ち上がろうとして、筋肉が削げた足は御堂の体重を支えきれず、前につんのめる。それを咄嗟に支えてソファに深く腰をかけさせると言った。

 

「じっとしていてください。あなたは数ヶ月ぶりに意識が戻ったのですから」

「一体どうなっているんだ……」

 

 それだけ言って御堂は目を瞑り、うつむいた。

 がくりと垂れる頭に大丈夫かと心配したが、胸が上下に動き規則正しい呼吸が紡がれている。その呼吸も今までよりもずっと力強いものだった。どうやらふたたび眠りに落ちたらしい。

 長い眠りから目を覚ましたのだ。現実世界に意識と身体が馴染むには、まだ時間が必要だろう。

 御堂の姿を一秒でも長く目に焼き付けたかった。しかし、克哉はこれ以上この場にはいられない。克哉は御堂の世界に存在してはいけない人間なのだ。

 克哉は御堂の部屋の電話から救急車を呼ぶと、そっと部屋を出て玄関に向かった。

 ジャケットのポケットから御堂の部屋の鍵を取り出し、玄関の棚に置くと、克哉はドアを開けた。

 もう二度と、この部屋に帰ることはないだろう。

 

「さよなら、御堂さん」

 

 呟いた言葉はすぐにかき消されて誰に届くこともなかった。

(5)
エピローグ

 春の土の香りを含んだ湿った空気が、朝の清冽な光と共に薄く開いた窓から吹き込んできた。

 御堂は病室のベッドから降りると、窓の外へと視線を流した。

 二階の個室からは、朝靄の中であっても木々の新芽が日に日に鮮やかさを増していく様子がよく分かる。

 山間にあるこの病院は、都内では見ることの出来ない、緑あふれる景色に囲まれている。

 病院前の桜並木も花びらがすっかり綻んで満開になっている。天気も良く花見日和の週末だ。

 のどかな光景とは、まさしくこのような景色のことを指すのだろう。ここでは時間がゆっくりと流れているようだ。鳥の声も虫の声も騒々しいくらいに響いてくるし、都会では見過ごされてしまう季節の変化も手に取るように分かる。

 だが、ここでの生活が御堂の性に合っているかといえば、それはまた別の話だ

 しばらく東京から離れて自然に囲まれた環境で過ごした方が心身ともに良いだろう、との配慮で、郊外の専門病院に入院させられたが、さすがに1ヶ月以上にもなれば飽きてくる。

 東京にいた時の人混みと喧騒、そして朝から晩まで仕事に打ち込んでいた時が懐かしい。たが、それも随分と遠い昔のような気がする。

 早く復帰したいが、御堂の体調を気遣う周りからはまだもう少し療養をすべきだと口うるさく説得されていた。御堂としては病院で日がな一日のんびりと過ごすよりも、一刻も早く日常生活に戻った方がよほどリハビリになると思うのだが、周囲はそれを許してくれない。それは御堂が抱える問題が原因だった。

 御堂には数ヶ月間の記憶が抜け落ちている。

 ある日、御堂は会社を無断欠勤し、そして数ヶ月後に自宅で意識朦朧とした状態になっていたところを発見された。

 御堂が行方をくらましていた数ヶ月の間、どうやって過ごしていたのか御堂自身まったく覚えていない。自宅には生活していた形跡があり、どうやら家に引きこもって過ごしていたようだが、実際、そうかと聞かれても御堂に実感はない。ただ、御堂の記憶は突然途切れ、そして意識を取り戻したときは自室のソファに座っていた。その時の御堂は栄養失調の一歩手前で筋肉もやせ衰え、とても動ける状態ではなくなっていた。このまま放っておいたら命も危うかったそうだ。御堂はただちに救急車で運ばれ、全身状態が回復した後はそのままリハビリを行うためにこの病院へと転院した。

 しかし、謎は残る。

 過労で倒れたという自分の体調はそんなに悪かったのだろうか。御堂の最後の記憶はMGN社で働いていたふだん通りの日常だ。忙しいのは常だったが、体調を崩したという記憶もない。どうにも納得いかないが、自分で自分の体調を気遣えなかったからこうなったのだと言われれば反論もできない。

 あともう一つ、目を覚ました時、目の前に誰かがいた気がするのだ。しかし、突然の混乱に叩き落とされた意識の中で、それ以上の詳細は記憶から抜け落ちている。救急車が駆けつけたときは、部屋には御堂一人だったそうで、夢だったのかも知れない。しかし、御堂が救急車を呼んだわけではないので、実際その場に誰かがいたのだろう。同僚や上司が心配して部屋まで見に来てくれたのかも知れない。だが、結局それが誰だか分からなかった。

 意識を取り戻してからの身体の回復はすこぶる順調で、歩くのにはまだ松葉杖が必要だが、身の回りのことは自分でできるくらいには体力も戻ってきた。

 御堂は時計を確認した。朝食前の早朝の時間。たぶん、そろそろだ。

 パジャマ代わりの病衣を脱いで、シャツのボタンを閉めてジャケットを羽織る。普段着の装いだ。

 こっそりと個室を抜け出し、一階に降りた。病院の正面玄関はまだ開いていないので、通用口へと向かう。そこには時間外に訪れる家族や業者向けの受付があり警備員が常駐しているが、御堂とは顔見知りなので、こんな時間に出歩いていても黙認してくれるのだ。

 受付が見渡せる位置で、御堂は壁の影にこっそりと潜んだ。そして、受付を見張る。

 御堂の推測が正しければ、週末である今日の、早朝のこの時間に現れるはずだった。

 この病院に入院してから、御堂の元に定期的に花が届く。それはいつも週末で、面会時間前の早朝に訪れた人物が置いていくそうだ。来るのはいつも男で名前は名乗らず、御堂宛に花だけを受付に置いて早々に立ち去るという。

 そして御堂の予想通り、通用口に一人の男が入ってきた。手には見舞い用の花束を持っている。慣れたように受付に向かい、警備員に花束を渡して言付けをする。

 

「おい!」

 

 御堂は男を追うように物陰から出ると、背中を向けた人影に声をかけた。

 男は立ち止まり、振り返った。その顔を見て驚いた。随分と若い男だ。その男もまた御堂を見て酷く驚いたようで、何か悪いことでもして見つかったかのように落ち着きなく視線を泳がせた。

 御堂は松葉杖を使いながら男へと歩みを寄せる。対して、男は御堂から遠ざかろうと一歩足を退いた。その距離を御堂は声を上げて詰めた。

 

「君か、いつも花を届けていたのは」

「ええ、まあ……」

 

 なんとも歯切れの悪い返事だった。

 男の頭からつま先まで視線を這わせた。長身の締まった体躯、明るい髪色に銀のフレームの眼鏡が印象的な顔は怜悧な印象だが、それは表情に乏しいからだろう。先ほど御堂を見て驚いた顔を見せたが、それも一瞬で、今やなんの感情も読み取れなかった。なまじ顔立ちが整っている分、冷たささえ感じてしまう。ジーンズにシャツ、黒のレザージャケットを羽織るラフな服装は、シンプルだがひとつひとつは仕立ての良い値が張るものだ。年齢は二十代後半くらいだろうか。

 だがいくら考えてもこの男に見覚えはなかった。御堂は首を傾げて訊いた。

 

「誰だ、君は。何故、私に花を?」

 

 男は微かに片眉を吊り上げた。御堂は黙って返答を待ったが、いつまで経っても男は口を開く気配はない。仕方ないので御堂が質問を重ねた。

 

「もしや、誰かに頼まれているのか?」

「……そんなところです。では」

 

 男の声は、低音で鼓膜に染み入るような深みがあった。もっとこの声を聞いてみたいと思ったが、男はそれだけ言って御堂の前から立ち去ろうとする。その姿は、御堂に遭遇してしまったこと自体を激しく後悔しているように見えた。

 そんな男の様子に、この男はやはり単なる配達人だろうと推測する。依頼人からくれぐれも内密に、と言い含められていたに違いない。だから、こうして御堂に見られてしまって焦っているのだ。

 その依頼人が誰なのか聞き出したかったが、御堂から視線を逸らし、一刻も早くここから去ろうとする男の様子を見るに、それは難しそうだった。しかし、だからといって、すぐに解放してやる気はなかった。なんと言っても御堂は時間を持て余しているのだ。御堂に背を向けて帰ろうとする男を引き留めた。

 

「待て」

 

 男が動きを止め、怪訝そうに振り返る。

 

「退屈しているのだ。少しの間私の話し相手にならないか?」

「俺が?」

「ああ。少しくらいの時間はあるだろう。君が秘密にしたいことは無理に聞き出さないから。もちろん君の依頼人にも告げ口したりしない」

 

 御堂の言葉が予想外のものだったのか男は目を瞠った。眸に逡巡の色を浮かばせるが、御堂はそれを勝手に同意と受け取って、「場所を移ろうか」と言って病院の外へ出た。

 病院のエントランスから駐車場へと続く道にはベンチが置かれている。早朝の人は少ない時間帯だ。駐車場から病院周囲を取り囲む桜を眺めなるのもよいだろう。視線を流せば、駐車場には一台の外車が置かれていた。この男の車だろうか。だとしたら随分と高級な車に乗っている。

 男は黙って御堂に付いてきた。気まぐれで誘ったが、この男とは今日出会ったばかりだ。共通の話題があるわけではない。御堂は口数が多い方ではないし、目の前の男はそれに輪をかけて無愛想な顔をしている。

 松葉杖を器用に操って歩く御堂に、男は遠慮がちに口を開いた。

 

「その足……」

「ああ、関節が固まってしまったみたいで、松葉杖がないと歩けない。これでも大分回復したのだが、医者には完全には回復しないだろう、と言われている」

「そうですか」

 

 御堂の痩せ細った右足は回復した左足と違って筋肉が落ちたままだ。その不自然な足の形を目にした男は表情を曇らせて視線を伏せた。まるで、自分自身が不治の病を告知されたかのように、表情が翳っている。

 

「早く仕事に復帰したいが、もう前の職場には戻れないし、この状態ではな」

 

 御堂はベンチに腰をかけて言った。隣に座るように仕草で促したが、男はベンチには座ろうとせずに立ったままだ。

 他人に向かって弱音を吐くなんてことはかつての自分なら決してしなかっただろう。それでも、こうして長期間入院することで弱気になってしまったせいか、それとも見知らぬ人間を相手に自分を取り繕う必要を感じなかったのだろうか。そんな自分に苦笑する。

 

「すまないな。こんな愚痴を聞かされても困るだろう」

「いいえ」

 

 はっきりと否定する声に驚いて動きを止めた。その男に視線を向けると、男もまた御堂を見ていた。男の形の良い薄い唇が開く。

 

「あなたは何にでもなれる」

「何?」

「……あなたの未来は、あなたのものだ」

 

 男はそう力強く言い切って御堂を見つめている。レンズ越しの視線が御堂とまっすぐに繋がった瞬間、男は慌てたように視線を外した。わざとらしく腕時計を確認する。

 

「俺はもう行かないと」

「またここに来るか?」

「いいや、もう来るつもりはない」

 

 優しく、それでいてきっぱり告げられた言葉に驚いたが、御堂が何か言おうとする前に、男はさっと踵を返して、歩き出した。

 

「待て!」

 

 声を張り上げたが、男は無視する。御堂は急いで傍らに置いていた松葉杖を掴んだ。

 追いかけようとして気持ちが焦ったのだろう。ベンチから立ち上がり、一歩踏み出したところで、御堂バランスを崩してよろめいた。松葉杖が転がり、大きな音を立てる。視界がぐらり大きく傾いた。

 

「ぁ……っ」

「危ないっ!」

 

 咄嗟に身を翻した男が御堂の身体を支えた。

 ぐらりと傾く視界に反射的に身体を強ばらせたが、力強い腕が御堂を包み込み、抱き留めた。意図せず男の肩口に顔を預ける形になる。男はまるで慣れているかのように安定した仕草で、ゆっくりと御堂をベンチに座らせた。そして地面に転がる松葉杖を拾って渡す。

 

「まったく……。気をつけてください」

「ありがとう」

 

 松葉杖を受け取りながら、御堂はまじまじと男を見つめ返した。

 

「やはり、君とどこかで会ったような気がする」

 

 御堂の言葉に男は一瞬戸惑うような表情を浮かべた。そして複雑な感情を宿した視線を向ける。

 

「もしかしたら、どこか別の過去で出会ったのかも知れませんね」

「別の過去?」

 

 首を傾げる御堂に男は小さく微笑んでそれ以上は答えなかった。

 

「……どうぞお大事に」

 

 その言葉を残して、今度こそ男は御堂に背を向けて歩き出した。

 ふわり、と柔らかな風が吹いた。男が纏うフレグランスが御堂の鼻腔を浸す。抱き留められたときに強く感じたこの香り。

 その言いようのない香りは何故か懐かしく、何も思い出せないのに御堂の記憶に深く染み付いていた。常に御堂に寄り添っていたような存在を淡く浮かび上がらせる。

 ハッと気が付いた。今の御堂は、松葉杖はついているものの、病衣ではなくシャツにズボンという、一見患者には見えない格好をしている。それでも、男は御堂を見たときに驚いた顔をした。つまり、男は最初から御堂のことを知っていたのだ。

 一生懸命に記憶をかき回す。だがどれほど考えても、その男の存在を記憶からすくい上げることが出来なかった。

 それでも、胸が切ないほどに締め付けられた。朝靄に包まれた景色の中で淡い紅を乗せた桜が滲んで見えた。遠い昔のどこかで、自分は彼を知っていたのだ。

 唇から自然と言葉が漏れた。

 

「ずっとそこにいたのか……」

 

 御堂の言葉は朝の光の中に溶け込み、きらめきの中にかき消えていった。

 

 

END

11
あとがき

最後までお読みくださりありがとうございました。

こちらは嗜虐の果ての補完SSでTwitterで呟いた妄想が思いのほか反響があったので、長編SSとして書き起こしたものです。本当はもっと短くするつもりでしたが、気が付けば普通の長編並に長くなっていました。

プロットがこんな風なSSになるんだと見比べていただければと思います。

嗜虐の果てEDは私をキチメガ沼に落としたエンドで、このエンドがなければ今頃二次創作にもハマらず、本も作ったりせずにオタクとは無縁の人生を送ってたはず、と時々恨めしく思います…。

あまりにもしんどいエンドで今でも時々妄想します。

ちなみに嗜虐の果て補完SSも複数作書いています。近いところでは『柘榴綺譚』にも出てきますが、その話とは違うストーリーになっています。

今作に出てくる柘榴は、『All You Need Is Survive』に出てくる実際に過去にタイムリープする柘榴と違って『Pomegranate Memory』に出てくる過去を書き換える柘榴です。

御堂誕も間近ですが、御堂さんと眼鏡がいつまでも幸せであるように祈りを籠めて。

​みかん猫

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