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極夜 はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも大丈夫という方のみお進みください。

 こちらは監禁凌辱期の補完SSです。連作形式で独立短編として書いていたものをまとめました。
 公式小説で言う部屋で待ち伏せ→鞭打ち&バイブ→ベッドに繋がれて気絶の翌朝、監禁された直後から御堂さんが精神を病んで解放されるまでを独自の解釈で書いています。
 Epilogue以外の全編に凌辱描写があり、排尿シーン(極夜1)や尿道責め(極夜5)、鞭でうたれる(極夜4、7)などの暴力描写を含みますので、お読みの際はくれぐれもご注意ください。


内容:シリアス、無理矢理 視点:御堂

​【本編】

​【関連作品】

  監禁凌辱期。『極夜』の克哉視点。(2016.04.06)
極夜1
(1)

 ベッドの上で柔らかいシーツに包まれながら、カーテンを通して差し込む鈍い陽射しに照らされる。
 寝返りを打とうとしたが、手足が動かない。はっと目を覚ました。急いで起き上がろうとし、手足の拘束に引っ張られてそれが叶わず、再びベッドに突っ伏せた。
 自身の身体をあらためつつ記憶を辿って思い出した。昨日、帰宅すると待ち伏せていた克哉に捕まって、拘束され、嬲られたのだ。そしてベッドに繋がれたまま気を失っていたようだ。
 鞭で打たれた身体は、動くたびに傷の在処を教えるように疼くが、それでも一晩休息をとったこともあり、だいぶ楽になっていた。
 顔を動かせる範囲で周囲を伺う。
――あの男はどこだ?
 リビングで物音がした。どうやら、未だに御堂の部屋に居座っているらしい。
「佐伯!佐伯っ!!」
 頭を起こして、リビングに向かって叫ぶ。リビングの気配が止まり、寝室に向かって近づいて来た。
「御堂さん、おはようございます」
 白々しいほど爽やかな挨拶とともに現れた克哉は、スーツのスラックスとワイシャツ姿だ。ワイシャツ一枚羽織ったまま全裸の御堂とはあまりにも対照的で、羞恥に包まれるが、それを気取られないように高圧的に言い放つ。
「佐伯っ!お前はまだこんなことをしているのか!これを外せ」
 手とベッドを繋いでいる鎖をジャラジャラ鳴らす。
 克哉は御堂を見下ろして僅かに目を眇めた。
「今、朝の支度で忙しいんです。待っていてもらえますか?」
 朝の支度だと?他人をこんな風に拘束した挙句、他人の部屋で何をしているんだ、この男は。
 怒りがこみ上げる御堂にお構いなしに、克哉は寝室を出ていこうとする。その背に向かって叫んだ。
「待て、佐伯!」
 ちらりと、肩越しに振り返る克哉に、憤りを抑えつつ努めて冷静に言った。
「トイレに行きたいんだ。外してくれ」
「ああ、トイレですか」
 克哉は再びベッドに戻ってくると、御堂を見下ろしながら眼鏡のブリッジを押し上げた。
 そしてベッドに上がると、御堂の身体を返してその背に馬乗りになる。
「何をするんだっ」
「トイレに行きたいんでしょう?今、行かせてあげますから、少し静かにしてくれませんか」
 克哉はどこからか取り出した手錠を御堂の片手にかける。そして、ベッドに繋いでいた御堂の手の拘束を外した。克哉の手を振りほどこうとする手を掴んで、背中に回すと、両手を手錠で後ろ手に拘束する。
「やめないか!」
「足は外してあげますから」
 御堂の背から降りると、克哉は足を拘束していた金属のバーを外した。
「これで、立てるだろう」
「ぐっ」
 克哉はベッドから降りると、御堂の腕を引っ張って立たせる。そして、手の拘束を掴みながら前を歩かせて、トイレまで引っ立てた。
 克哉は御堂をトイレの個室に押し込むと便器の前に立たせ、背後から手を回した。御堂のむき出しの下半身に右手を伸ばし、無造作に御堂の性器を指で摘まむ。
「何を…っ」
 てっきり拘束を外してもらえると思った御堂は、克哉の行動に愕然とした。このまま克哉の目の前で排尿させる気であるらしい。
「勃たせるなよ」
 克哉の笑いを含んだ声が背後から響く。
 身体を硬直させた。信じられない、と首を振る。
「やめろっ!こんなやり方で出るわけないだろっ」
「遠慮するな。ほら、出せよ」
 性器を乱暴に振られた。
「私に触るなっ!離せっ!」
 身体を捩って暴れるが、出口を塞ぐように後ろから覆いかぶさって立ち、御堂を抱きすくめる克哉に阻まれて動くことが出来ない。
「なあ、御堂さん、俺はこの後出勤するんだ。そうなると、しばらく帰ってこられないのは分かるだろう?あんたはその間、我慢できるのか?それとも、粗相したいのか?」
 言い含める声。尿意はあるが、こんな状態で排尿できるわけがない。ひたすら身体に力を込めて、克哉に抵抗する。
「手間かけさせるなよ」
 克哉の声音が半音低くなり、気配を変えた。御堂は反射的に身を強張らせた。克哉の左手が拳を作り、御堂の下腹部にあてられる。
「何をする…っ!押すな!」
 ぐっと、膀胱を狙った拳が下腹部にめり込む。その苦しさに身体を折った。
 高まる尿意を堪えようと、身体にありったけの力を込める。
 耳元で克哉がククッと喉を鳴らした。
 と、性器を握っている克哉の指が先端の孔を爪弾いた。突然、もたらされた鋭い痛みに身体の力がほんの一瞬抜けて、慌てて体勢を立て直そうとしたが間に合わず―――瓦解した。
「あ、あー……っ」
 掠れた悲鳴が狭い個室に響いた。

「意外と出たな」
 トイレが流される音。克哉が手をハンカチで拭きながら出てくる。
 その姿を、廊下の壁に力なくもたれかかりながら茫然と眺めていた。震えて崩れ落ちそうになる膝をかろうじて支える。
 眦が熱い。溢れた涙が頬を伝う。
 御堂にとってそれはあまりにも衝撃的な出来事で、その屈辱を受け止めきれずにその思考は止まったままだ。
 排泄行為を人に見られたのは記憶にある限り初めてだった。それどころか、無理矢理目の前で排泄させられたのだ。秘して行うべき排泄行為を見られることは、性行為を見られることとは、全く質が違う。比べ物にならないほどの屈辱だ。
 そして、人としての尊厳を完膚なきまでに踏み躙るその行為を受容できるほど、御堂は自分を捨てていなかった。
 克哉が御堂の涙に目を止めた。
「泣いているのか?おかしな奴だな。散々、俺の前でイってみせたのに。今更、何を純真ぶっているんだ」
 嘲り投げかけられるその言葉を理解するうちに、憎悪がふつふつと湧いて出てきた。その怒りは凝縮され、御堂の眸に強い光を灯す。
「ふざけるなっ!こんなことをしておいて、ただで済むとは思うな。この外道が!」
 渦巻く猛りが身体に力を漲らせる。身体を屈めると、克哉に向かって力いっぱい体当たりをした。
「おっと」
 克哉はそれを寸でのところでかわした。目標を失い、バランスを崩して倒れようとする御堂を腕を掴んで支える。その後ろ手の拘束をそのまま引っ張って、リビングまで引きずるとそこで手を離した。
 どさっと床に倒れ込む。伏せた体勢のまま、足だけ使ってどうにか上体を起こし、克哉を睨み付けた。克哉はその視線を笑みで受け止める。
「食事にしましょうか。御堂さん」
 克哉はそう言い置いてキッチンに姿を消したが、すぐに戻ってきた。御堂の前の床に皿とミネラルウォーターのペットボトルを置く。
「喉、乾いたでしょう」
 昨夜、家に戻ってきてから何も口にしていなかった。水を目にして唐突に口の中が干上がり、ごくりと喉が鳴る。
「好きなだけ飲んでいいですよ。御堂さんの部屋にあったものですし」
 御堂の目の前で克哉はペットボトルの蓋を開けると、ごく当然のように、その水を床の上の皿に注いだ。
 これを飲めと言うのだろうか。
 後ろ手に縛られたこの体勢で水を口にするには、犬のように這って顔を地につけて啜るしかない。
 唖然とした面持ちで御堂は克哉を凝視した。その顔に張り付いた薄い笑みは崩れることはない。
「貴様……気は確かか?」
「ええ。至って正気です」
 気が狂った男は自分を狂っていると認識するはずがない。
 無駄なことを聞いてしまったと後悔しつつ、苛立ちを顕わに克哉の顔を睨み続けた。
「水、飲まないんですか?牛乳の方が良かったですかね?」
 御堂を気遣う素振りで貶めてくる。
「パンもありますよ」
 克哉はダイニングテーブルからパンを持ってくると、手で一口大にちぎり、それを掌に載せて御堂の顔の前に差し出した。そして、御堂が口を付けるのを待っている。手ずから餌付けするような態度に、怒りが飢えも乾きも凌駕し、顔が燃えた。
「こんなもの食べられるかっ!」
 克哉の手に唾を吐きかけて、罵る。思いつく限りの罵詈雑言を克哉に浴びせかけた。
 だが、克哉は御堂の挑発にのることもなく、至って冷静な態度で腕時計を一瞥すると、パンを目の前の床に置いて立ち上がった。
「御堂さん、悪いが朝はあんたの相手をしている時間はない。出社の準備をしてくるから、勝手に食べててくれ。これを食べないと、次は俺が帰ってくるまで食事はないからな」
 あっさり言い置いて、その場を立ち去ろうとする克哉に御堂は怒鳴った。
「佐伯!出て行くなら、これを解け!私も会社に行かなくては」
「…あんたは、まだそんなことを言っているのか」
 振り返った克哉は表情を失っていた。レンズを通して覗く無機質な眼差しに、身体が竦む。
「相変わらず、自分の立場が分かっていないんだな。昨日、教えてやっただろう?それとも忘れたのか?あんたは、この部屋で俺に飼われて暮らすんだ。会社なんか行けるわけないだろう」
 御堂は息を呑んだ。克哉は朝からずっと、俺が帰るまで、と繰り返していた。この男は、本気で一日御堂を監禁する気なのだ。
「馬鹿な…」
 呼吸がせり上がり、呻き声を零した。
「俺自ら、あんたの排泄や食事の面倒をみてやっているのにな。やっぱりあんたにはしっかりとした躾が必要みたいだな」
 克哉は踵を返すと御堂に近付き、乱暴に御堂を立たせた。御堂の抵抗をものともせず、寝室まで引きずるように歩かせる。
 寝室には昨夜使っていた拘束具がそのまま置かれていた。足枷を手に取ると、手際よく御堂の足を拘束する。
「外せっ!こんなことして許されると思っているのか」
「許しを請うのはあんたの方だ」
 後ろ手に縛られたまま、足を開いた状態で固定されうつ伏せにされる。克哉に尻を突き出す格好にさせられ、恥辱に顔が歪む。
「ひっ!」
 どろっとした冷たい感触が前触れもなく後孔に触れ、硬く丸いものがその中に押し入れられた。
「いきなりバイブで長時間置かれるのもつらいでしょうから、ローターから始めましょうか」
 ジェルを塗したローターがゆっくりと押し込まれる。拒もうと、力を込めると、それ以上の力を込めた指で奥まで押し込まれた。
「やめろっ、佐伯っ」
 克哉はローターの位置を指で調整すると、不自由な身体で暴れる御堂を窓枠まで引き摺っていった。後ろ手の拘束を頭上に吊り上げるように拘束し直し、窓枠に括る。
「こんなのは犯罪だっ!離せっ」
「…もう少し静かにしてくれませんかね」
 克哉は心底うんざりした顔をして、一旦その場を離れると、片手にギャグを持って戻ってきた。それを見て、御堂が押し黙った。口を一文字に閉じてギャグを嵌められないように抵抗する。
 克哉は口角を歪めると、ローターのコントローラーのスイッチを操作した。突如として、強い振動とともにローターが体内で暴れ出す。
「ああっ!!」
 たまらず声を上げた瞬間に手慣れた仕草でギャグを噛まされた。
「ん!んーっ」
「それでは、御堂さん。なるべく早く帰ってこられるように努力しますから」
 ローターを操作し、その振動を弱める。
――佐伯っ、佐伯!
 その叫びはギャグから漏れ出るくぐもった吐息にしかならなかった。

 克哉が家を出てからどれ位経っただろうか。
 御堂は後庭からもたらされる刺激に思考を乱されながら、緩やかな責めに耐え続けた。拘束された手の感触を確かめるように、ぐっと指先がうっ血するまで拳を握り込み、自分を保つ。
 どこで選択を誤ったのだろうか。
 御堂は自身の人を見る目に自信を持っていたし、場の流れを読む能力にも長けていたはずだった。そして、その行く手を阻むようなものは、慎重にかつ完璧に排してきた。だからこそ、MGNでどこの派閥にも属さずに最年少で部長職に着いたのだ。もちろん、それには人並み以上の努力と忍耐を費やしたのは言うまでもない。
 佐伯克哉については十分に警戒していたつもりだった。あの男の優秀さはすぐに見抜いたが、同時に、他人の下で大人しく飼い馴らされる従順さは、露程も持ち合わせていないことも見て取れた。
 有能すぎる部下は時として目障りになる。あの男が自分に並ぼうとする身の程を弁えぬ野心を持ったりしないように、早めにその高慢な自信をへし折ろうとしたらこの様だ。あの男は端正な笑顔の裏側で、密やかに牙を剥き爪を研いで御堂を待ち構えていたのだ。そして、自分自身の迂闊さと、一度躓いてから、立て直すことが出来ず傾れ落ちてしまう脆弱さがこの事態を招いてしまった。
 悔しさにギャグを噛みしめた。これまで、プロジェクトを優先させるために克哉の暴虐にひたすら耐えてきたが、その結果、自宅に監禁されて出勤できなくなるとは本末転倒だ。流石に我慢の限界を超えている。ここから解放されたら、しかるべき処罰をあの男に与えなければならない。出来ることなら、今御堂が受けている以上の屈辱を味あわせ、自分の前に跪かせてやりたい。
 御堂はもどかしい快楽のなかで克哉に対する憎悪を燃やした。
 
 だが、この時、御堂は未だに佐伯克哉と言う男を読み違えていた。この男がもたらす茶番に、少しの間歯をくいしばって耐えていればこの悪夢から覚めると信じていたのだ。
 この世界には明けぬ夜があるということを、この時の御堂はまだ知らなかった。夜は始まったばかりで、自分の前には果てしない闇が待ち構えているという事も。

(2)
極夜2

「3日だそうだ」
 御堂の目の前に、克哉がミネラルウォーターのペットボトルを置いた。
 それを手に取り、一息に胃に流し込みたい衝動に駆られるが、窓枠に両手を拘束されている御堂には叶わぬ願いだ。だが、逆に幸いともいえる。克哉に屈したと思われるような行動は、どんな些細なことであっても避けたかった。
 シャツ一枚羽織らされた半裸の状態で拘束され、身体に淫具を仕込まれたまま、朝から克哉が帰ってくるまで放っておかれていた。身体の倦怠感は酷かったが、それ以上に怒りが渦巻いていた。
 とはいえ、克哉に監禁されてから、与えられる食事も水も拒否していたため、身体が、身体中の全ての細胞が水分を欲していた。乾ききった口内は不快に粘つき、口を封じていたギャグを外されても、まともに喋る事が出来ない。
 スーツ姿のままの克哉は御堂の前に鷹揚に座りこんだ。御堂と視線の高さを合わせる。
「人は水分を取らなければ、3日で死ぬそうだ。あんたは昨日から丸一日、水分を取ってない。となると、残された命は2日間だ。あんたは死に急ぎたいのか?」
 視線を床に伏せたままでいると、克哉は手を伸ばして御堂の前髪を掴み顔を上げさせた。視線が一瞬絡むが、すい、とわざとらしく視線を逸らせた。その挑発的な態度に腹を立てたのか克哉は前髪を掴む手に力を込めた。
「それとも、このまま拒否し続ければ、俺が諦めてあんたを解放すると思っているのか?残念だが、そんな甘い期待は捨てることだな。俺はあんたを逃がす気はない」
――まだ、この男はそんなことを言っているのか。
 もちろん、こんな馬鹿げたことで死ぬ気なんてさらさらない。拒否しているのは、水や食事だけではなく克哉がもたらすもの全てだ。この男の目を覚まさせるためには、これ位のことが必要だろう。
「まあいい」
 克哉の手が御堂の拘束に伸びた。反射的に身を強張らせたが、克哉は感情を込めない手つきで要領よく拘束を解くと御堂から離れ、部屋の壁に背を預けて再び座り込んだ。
 一日ぶりに四肢が完全に自由になった。強張った筋肉を擦って解す。
「あんたは俺から逃げたがっていたものな。だが、そんな状態で逃げられると思っているのか」
 歪んだ笑みを唇の端に載せて、克哉が挑戦的な眼差しを向けてきた。それを睨み付け返す。
 克哉は動こうとはしない。御堂がどう動くのか興味深そうに観察しているようだ。
 克哉の動きを警戒しながら、そろそろと立ち上がろうとした。が、その時、目の前が急に暗くなった。酷い立ちくらみに襲われ、ぐらり、と世界が揺れた。激しい眩暈と吐き気がこみ上げ、足元が覚束ず、膝が折れ床に手をつく。
「――っ!」
 足に力が入らない。自分が思っていた以上に体力が削られていた。拘束されてほとんど動けなかったので、気付けなかったのだ。
「ほら、な」
「――くっ」
 揺れる視界の端でゆっくりと克哉が立ち上がり、こちらに向かってくるが見て取れた。這ったまま逃げようとするが、激しい地震のようにぐらついた視界では、これ以上身体が崩れないように姿勢を維持するのが精一杯だ。
「体調管理も仕事のうちだろう?御堂部長」
 揶揄した声が降ってくる。克哉の手が肩にかかった。その手を払いのけようにも、御堂の抵抗をものともせずに、そのまま抱き起こされる。
 背後から抱きすくめられ、顎を掴まれ上を向かされる。ペットボトルの飲み口が唇に当てられ、水を注ぎこまれた。誘惑に抗えず、喉を鳴らして噎せながら一息に飲み干した。ひんやりとした水が、臓腑から指先まで細胞の一つ一つに染み込んで潤していく。それは性的な快感にも似ていて、身体を小さく震わせた。
 飲み切ったペットボトルから口を離して荒い息をついた。水を飲んだせいか、眩暈が落ち着いて来た。だが、同時に克哉の思惑通りになってしまったことに、怒りと苛立ちが湧く。
 そんな御堂を見て克哉が愉しげに喉で嗤い、耳元で低い声で囁いた。
「食事する気になったか?」
「…煩いっ」
「貧弱な身体だな」
「触るなっ」
 克哉の指が浮き出た鎖骨をなぞった。その感触がぞわりと産毛を逆立たせる。
 貧弱、と言われたのは初めてだった。社会人になってからも意識してジムに通い、デスクワークで運動不足になった分を補い、体型の維持に努めていた。
 視線を身体に落とせば、記憶にある自分から変わり果て、筋肉を失い細くなった四肢を目にし、愕然とする。思い起こせば、克哉が現れてから食事も満足に取れていなかった。ベルトの穴も以前よりも内側になり、テーラーメイドのスーツもサイズが合わなくなって、その整ったラインが崩れてしまっていた。
 身体を抱きすくめる克哉の腕に抗う力もない。割り切って食事位取っておけば良かったかと後悔が横切るが、食事と共に屈辱を与えようとする克哉の態度は我慢ならない。
「待っていろ」
 克哉は御堂の両手を後ろ手に拘束すると、身体を解放し部屋から出ていった。少しして、キッチンにあったパンやチーズ、そしてポーションバターを持って戻ってきた。キッチンに置いてあった食料品を適当に掻き集めてきたようだ。それを見ただけで、激しい空腹感に襲われ、口の中に唾液が溢れた。ごくり、と喉を鳴らしてその唾液を飲み込む。
「這いつくばって食べるのが嫌なら、俺が食べさせてあげましょうか」
「…貴様の手なんか借りたくない」
「我儘だな。あんたは」
 克哉はこれ見よがしにため息をついて見せると、ポーションバターを手に取った。
「別の方法を考えますか」
 銀色の包み紙を剥がしだす。不穏な予感が背筋を走った。
「どうするつもりだ…」
「御堂さんが口にしてくれないんで、下から食べてもらおうかと」
「やめろっ」
 何をしようとしているのか、その意図を読んで克哉の手から逃げようと、身体をのたうたせるが、すぐに克哉に押さえこまれた。
 うつ伏せにされて尻たぶを掴まれ、広げられる。先ほどまで淫具を咥えこまされていたアヌスは腫れぼったく緩んでいた。そこに克哉は指でつまんだバターを押し潰しながら体内に押し込んでいく。
 粘膜に触れた部分がすぐに溶けて、ぬるりとした感触をもたらす。ぬらつきながらも容易に中に呑み込まされた。中に入ったバターはすぐに熱で溶かされ、異物感はなかったが、それでも排泄器官にものを押し込まれる不快感、そして溶けてべたつくバターはかつて入れられたオリーブオイルの感触を思い起こし到底受け容れられるものではない。
「うっ…やめろ」
「簡単に入るな。一個じゃ足りなそうだ」
 這わされた体勢のまま、お構いなしに克哉は、次々とポーションバターを押し込んでいく。新たなバターが入れられるたびに、中で溶かされたバターが音を立てて後孔から溢れ、内股をべったりと濡らしていく。バターの芳醇で甘い香りが立ち込めた。
 三個目のバターを入れられた時には、既に下半身がべとべとになっていた。バターの感触を愉しむように克哉が長い指を挿し入れ、捏ねる。その度にぐちゃぐちゃと音がして、生まれた気泡がぷつぷつと中の粘膜を弾いた。
「ひっ、あ……っ」
「さすが、フランス製。旨いな」
 克哉が指を引き抜いて、ペロリと舐めた。
「御堂さんもどうです?」
「嫌だ……気持ち悪いっ」
 自分の体内にあったものを美味しそうに舐めて見せる克哉に嫌悪感が湧いた。顔を思い切り歪めると、克哉は興味なさそうに、ふうん、と呟いた。
「それなら、俺がもらうか」
 腰を引き寄せられ、目一杯、双丘を割り拓かれる。その狭間に克哉が顔を埋めた。尾てい骨に克哉の鼻梁が押し付けられる。ひっ、と身を竦めた時には、克哉の舌が肌に流れたバターを舐めあげつつ、濡れた後孔に辿りついた。尖らせた舌が、その縁をなぞり生き物のように蠢いて中に入ろうとする。拒もうと力を入れるも、強引にねじ込まれた。舌の刺激で粘膜が喘ぎだす。
「よせっ…やっ」
 舐られ、淫らな音が立つ。バターを入れられていた時から芯を持っていたペニスが、一層張りつめ蜜を零し始めた。
 舌をずるりと抜かれた。粘膜が収縮し、こぷり、とバターが溢れた。
「ペニスが涎を垂らしているぞ。よっぽど腹が減っていたんだな」
「違うっ……、やめろっ…あっ」
 さも可笑しそうに克哉が嗤い、溢れたバターを手に取りペニスに擦りつける。そのぬらぬらとべたつく感触に身体の芯が熱くなり、呼吸が淫らに弾んだ。弱っている身体でも、そこだけが別の生き物のように反応し、克哉の手の中で悦び震えていることに激しい羞恥に包まれた。
「次は、パンが良いですか?それともチーズ?」
 克哉が事もなげに言う。ぞっと血の気が引いた。
 この男は、御堂が食事を口にしようとしまいと、本当のところ気にしていないのではないだろうか。どちらを御堂が選択しようと、御堂を貶め嬲ることしか考えていない。ただ、御堂を気遣う素振りがあるとしたら、御堂が克哉に屈する前に倒れられたら面白くない、という程度の動機だろう。
 少し考えるように止まっていた克哉の手がパンに伸びた。恐怖が背筋を這い上がり、反射的に口を開いた。
「食べるっ。食べるから……やめて、くれ」
 敗北感に打ちひしがれながら克哉に懇願した。こんなことになるなら、初めから食事を口にした方が良かったか、と悔恨の念に駆られる。克哉がにこやかな笑みを浮かべて、御堂の顔を覗き込んだ。
「お願いします、は?」
 そこまで口にするほど、落ちぶれてはいない。ここまで克哉に貶められて、そんな些細な一言にこだわる自分自身に呆れるが、それでも奥歯を噛んで口をつぐんだ。悔しくて涙と怒りに濡れた眸で克哉を睨み付ける。
「いい顔だ」
 克哉は喉を鳴らして、御堂の背後にまわった。ファスナーを下げ、スラックスの前を寛げる気配がした。御堂の腰に手がかかる。
「何を…!よせっ…やめろっ!」
「“待て”だ。御堂、食事の前にしつけの時間だ」
 残忍な笑いを含ませた言葉と同時に、バターが溢れないように堪えて震えていた後孔に、重圧がかかった。その質量がある硬い凶器はバターを潤滑剤代わりにして、易々と中に侵入してきた。
「あっ、…ぅああっ……くっ」
 挿入が深まる度にバターが溢れ、淫靡な音が立つ。バターの感触を愉しむように、克哉がゆっくりと深く腰を使った。排泄器官を口のように、そして性器のように扱われ、折れそうになる心を辛うじて保つ。
 何回か抽挿すると、身体を抱き起こされて、背面坐位の体位にされた。克哉のペニスがあたる位置が変わり、身体をびくびくと震わせた。足を大きく開かされて、バターと先走りに塗れながら硬く屹立した自分のペニスが目の前に顕わにされる。
「ほら、食べろ」
「んっ――っ」
 喘いで開いていた口に、ちぎったパンを押し込まれる。抗えずに口にした。咀嚼する度に、唾液が溢れる。飲み込めば次のパンを口に押し込まれる。途中、チーズを口にいれられた感触があったが、もはや味は分からなくなっていた。
 喉仏が上下して唾液ごと嚥下する度に、身体が小さく跳ねる。そのリズムに合わせて、克哉が突き上げてきた。口内と後孔を同時に犯されるような倒錯した悦楽に心身を犯されていく。ペニスは次から次に蜜を垂らし、バターと混じり合って流れていった。
 克哉の満足げな吐息が御堂の首筋を撫でた。
「そうだ。あんたはこれでいい。あんたは貪欲な男なんだ。快楽を得ることにも生きることにも」
「あっ、…あああっ!」
 何個目かのパンだかチーズだかを嚥下した瞬間、頭と身体の芯が戦慄いて快楽が爆ぜた。自分のペニスから白濁した液体が噴き出るのを目にしながら、意識が遠のいた。

(3)
極夜3

 地平線の代わりに高層ビルが立ち並び、その灯りが東京の夜空を焦がす。だが、それに目を向けている余裕はない。
 晩秋の冷気を孕んだ風が、シャツ一枚羽織った裸同然の素肌を嬲りつつ体温を奪っていく。
 身体の前で拘束された両手で、ベランダの手すりを掴まされたが、身体を支えるには不安定で、自然と両脚に力が入る。
「きついな。もう少し緩めろよ」
「くっ…ふ……ううっ」
 ぐっと背後から体重をかけられ、身体を無理やり割り拓かれる痛みに御堂は呻いた。
 不安定な姿勢と寒さ、そして、自分の部屋のベランダで事に及んでいるという羞恥で、どうにも力を抜くことが出来ない。
「まあ、あんたは痛い方が気持ちいいんだろう?」
「うっ!あっ、あああっ!」
 突き出す体勢にされた尻を克哉は力を入れて掴むと、乱暴に貫いた。
 堪えられず大きな声で呻いてしまい、慌てて声を押し殺す。
 幸い、高層階のこのベランダを覗き込めるような建物は近くにないし、夜遅く、この寒さでベランダに出ている物好きもいないだろう。そう自分を説得しようとしたが、それでも激しい羞恥に包まれる。
 皮膚をちりちりと突き刺すような寒さとは裏腹に、身体に穿たれた克哉の凶暴な肉塊はとても熱く、身体の中から炙られているようだ。克哉は腰を動かしながら御堂の肩に顔を寄せ、首元に荒い息を吐きかけた。
「あんたの中、俺にしがみついているぞ。よっぽど男に抱かれるのが好きなんだな」
「ちがっ……ああっ……」
 克哉の手が胸に這わされた。寒さで硬く凝った粒を爪弾かれ、潰される。その手が身体の輪郭をなぞりつつ御堂の性器に伸ばされた。貫かれた痛みで萎えていたそこは、克哉に緩く扱かれただけで、すぐに硬度を持ち熱を滾らせだす。呆れ混じりの声が聞こえた。
「あんたはどこでもこんな風になるんだな。むしろ、こういう所の方が興奮するのか?誰かに見られたいんだろう。この男を咥えて離さないいやらしい姿を」
「うるさ…いっ!黙れ……っ」
 不安定な姿勢で克哉に激しく揺さぶられ、体勢を崩し、慌てて手すりにしがみついて足を踏ん張った。途端に、身体の中がぎゅっと締まり、埋め込まれた克哉の像が否応にも意識される。深く貫かれる度に、結合部から痺れるような疼きが走り、下肢の筋肉が細かく震え引き攣れた。
 低い声が耳元で囁く。
「今、助けを求めれば、誰かが気付いてくれるかもしれませんよ?」
「くそ…っ!」
 克哉の甚振る声に唇を噛みしめ、声が漏れないように手の甲に噛みついた。
 一刻も早く、こんな状況から逃げ出したいのに、今の自分を誰にも見られたくないという矜持がそれを阻む。出来れば穏便に、克哉が自分に飽いて静かに去ってくれることを今でも期待している。
 こうなってもまだ体面という鎖から逃れられない御堂を、可笑しそうに克哉が喉で嗤った。
 一層深く下から抉られ、身体が浮きそうになった。手すりから身を乗り出しそうになり、必死に手すりにしがみつく。
 快楽と羞恥に翻弄され懊悩する気持ちとは裏腹に、克哉が律動する度に射精感が高まっていく。克哉によって性器を扱かれ先端の孔を弄られつつ、射精を促された。
「んんっ……、ぐっ、あぁ――っ!」
 寒さと熱さが身体の中で渦を巻く。その渦が一点に収斂した時、快楽が爆ぜた。身体を大きく引き攣らせて性器を掴む克哉の手の中に白濁を吐き出す。克哉は受け止めた精液を御堂の性器に擦りつけつつ更に扱いた。その手の動きに刺激されて、熱く重い液体が絞り出されるように何回かに分けて吐き出された
 激しい快楽に悶えていると、力強く突き上げられ御堂の最奥に克哉の熱い精液が流し込まれた。荒い息を吐きながら、張りつめていた筋肉が一気に弛緩していく。崩れ落ちそうになる身体を、克哉の腕で支えられた。
 衣服を通して克哉の熱い体温を感じる。克哉にしなだれかかっている自分に気付き、克哉から離れようと、身体を捩った。克哉が嗤う。
「ほら、助けを呼ばないのか?」
「煩い…っ。お前がこの部屋を、出ていけばいい話だ」
「それは言い訳か?」
「何…?」
「俺に抱かれてこんなに善がって。実は今の生活が気に入っているんだろう?」
「ふざけるなっ。誰が貴様なんかにっ」
「ほう?なら、手助けしてやりますよ。あんたが思い切って助けを呼べるように」
 克哉は無造作に御堂の胸を突き飛ばした。咄嗟のことによろめいて腰を打つ。冷たく硬いタイルが直に臀部に触れて、その感触にぶるりと身を震わせた。
 驚いて克哉を見上げると、克哉は御堂から背を向けてガラス戸に手をかけた。肩越しに振り向く。
「15分やるから、その間に好きなところにいけばいい」
「佐伯っ!」
 克哉は部屋に入りガラス戸を閉め、内鍵をかけた。ガラス越しに視線が交差するが、すぐに克哉の姿は部屋の中に消えて行った。
 一人取り残され、茫然とする。ガラスを通して部屋の中を見ても、すでに克哉の姿はない。
 拘束された両手でよろめきながら立ち上がろうとした。
「――っ」
 膝を立てたとき、克哉の精液が内股を伝って滴ってきた。熱くどろりとしたその液体は、外気に触れた瞬間、熱を奪われ、冷たく不快な跡を肌に曳いていく。
 下腹部には先ほど自分が放った精液が粘つき、風が吹き付けるたびに鋭い冷気が身体に突き刺さる。
 寒さに震えながら、周りを見渡した。
 目と鼻の先には隣の部屋へと通じる避難用の仕切り板がある。そして、床には下の階へとつながる避難はしごも。
 両手を縛られていても、周囲に助けを求めることは可能だろう。
 だが、この精液に塗れた裸同然の格好で…?
 プライドを捨ててしまえば、逃げ出すことは容易い。そうでなくとも、克哉に服従し、克哉の歪んだ嗜虐心を満足させれば元の生活に戻れるかもしれない。
 克哉が御堂に対して行っている仕打ちは、許容範囲を優に超えている。意地を張っている場合でないのは分かっていた。それに、プライドと言っても、既に粉々に打ち砕かれている。しがみつくようなプライドは残っていない。
 だが、逃げ出すにしても屈するにしても、そうなったらもう、そこにいるのは以前の御堂ではない。御堂が最も蔑んでいた、誇りを捨て自分を見失った惨めな人間に成り果てるだろう。
 結局、逃れられないのは克哉からではなくて自分自身からだ。自身が作った檻に囚われて、そこから出ることが叶わない。だが、それは御堂が御堂であり続けるために必要なことであり、その最後の一線を守ることこそ重要なのだ。
 途方に暮れて周囲を見渡した。吹きすさぶ風が身体を叩きつけ、容赦なく身体と心を凍えさせていく。
 ぶるぶると身体が震え出した。このままだと低体温症になるだろう。かといって、リビングへのガラス戸を叩いて、克哉を呼ぶこともプライドが許さず、少しでも夜風から身を守ろうとその場で蹲った。
 自身の身体を折り曲げて小さくする。肌を密着させ残された体温を保つ。それでも、歯の付け根がかみ合わずガチガチと奥歯が鳴り始めた。
 濡れた下半身の感覚が段々と鈍くなっていく。顔を上げて見渡せば、無数の灯りが夜景を彩る。その一つ一つの灯りの下には人々の変わらない日常が慎ましやかに営まれているのだろう。寒空の下、御堂が裸同然の格好で踏みつけられ嬲られていることも知らずに。
 視線を返せば窓ガラス一枚隔てた先に、自分の部屋のリビングが主を失ったことを知らずに煌々と照らされている。今、自分の置かれている状況とあまりにも格差がありすぎて、その惨めさに涙で視界が歪んだ。
「何だ。まだいたのか」
 ガラス戸が開いた。
 濡れた眼で克哉を見上げる。全身の感覚は失われる寸前まで追い詰められていた。反射的に安堵の吐息が零れるのを、辛うじて呑み込んだが、今の自分は克哉に縋りつくような眼差しを向けているのだろう。そして、克哉は自身が望んだ通りの無様な御堂の姿を目にし、愉悦に満ちた笑みを口元に刷いた。
「可哀想になあ。こんなに震えて」
 そう仕向けた張本人が、憐れみの言葉を侮蔑の眼差しと嘲笑と共に投げかけながら、御堂に手を伸ばした。その手を振り払う気力も体力も残っていなかった。腕を取られて、部屋の中に連れ戻される。途端に暖かい空気に包まれて、麻痺していた神経がジンジンとした痺れと共に緩み解れてきた。
「好奇心は猫をも殺す、と言うが、あんたの場合はプライドに殺されるんだな」
 克哉の揶揄する言葉に反論も出来ず、引き摺られるままに風呂場に連れていかれた。乱暴に放り出され、バスルームの床に突っ伏せる。
「う――っ」
 克哉は屈んで、御堂の両足首を掴んで引っ張ると金属のバーで拘束し、代わりに両手の拘束を外しシャツを脱がせた。足を拘束され、立ち上がれなくなり四つん這いの姿勢になる。克哉の前にみっともなく全裸を晒す。しかも、自分自身でさえ見ることがない場所まで晒している。もう今更隠す必要がないほど、克哉には暴かれ辱められ続けたのに、それでも屈辱的なこの体勢に耐えられず、唇を噛んだ。
 ざあっとシャワーノズルからお湯が噴き出し、バスルームに湯気が立ち込める。克哉がシャワーを持って、頭から余すところなく御堂の全身にお湯をかけていった。熱いお湯が肌を叩き、凍えた肌に沁みていく。
 バスルームの床に這って蹲ったまま、じっとこの時間が過ぎるのを耐え続ける。
 目の前の床のタイルをお湯が幾重もの小さな流れを作って合流し、排水口まで流れ着くのを霞んだ目で追った。
 這いつくばった姿勢は醜態以外の何物でもないが、そうでなければ拘束された両手をシャワーフックにかけられて、克哉と向かい合わせもしくは壁を向かされてシャワーをかけられる。どの体勢も恥辱という点では大差ない、と自分に言い聞かせる。
 克哉の手が頭に伸びる。御堂の髪を洗い、スポンジに泡を立てて御堂の身体を洗っていく。その手つきは、身体を繋げる時と違い、優しささえ感じる程丁寧だ。だが、それは御堂に対する気遣いなどではなく、単にきれいなものを汚したいという克哉のいびつな嗜虐心の顕れに過ぎないことも分かっていた。毎日、身体を洗われ、おろしたてのシャツを着せられ、髪を梳られるが、そうやって御堂を磨きあげつつ貶めるのだ。だからこそ、バスルームで、毎回、性的な屈辱を味あわせることも忘れない。今ではバスルームに連れていかれるだけで、条件反射で身体が慄く。
 柔らかい泡を含ませたスポンジが肌を撫でていく。だが、身体を固くして縮こまっているせいか、上手く洗いきれないのだろう、克哉が舌打ちをした。それでも、身を強張らせたまま耐えていると、克哉が背後にまわった。その気配を感じ、一層強く唇を噛みしめた。
 下半身に付着していた体液をシャワーで洗い流される。そして、克哉は無造作に指を伸ばし御堂の体内に残っている精液を掻き出しだした。後孔を拡げられ、シャワーのお湯を注がれつつ、克哉の長い指が身体の中で蠢く。その指は明らかな意図を持って中を淫らに刺激してきた。
「やめっ……うっ…、く……」
「御堂さん、洗われるのがそんなに気持ちいいですか」
 バスルームに克哉の含み笑いが響く。
 強制的に発情させられて、下半身に熱が籠りだしていた。ひくひくと粘膜が収縮し、克哉の指を食みだす。
「前も触ってほしいか?」
 克哉の言葉に腰が揺らめきそうになるのを辛うじて押さえた。御堂の身体は先ほどの克哉の仕打ちももう忘れて、与えられる刺激に悦び、更なる刺激を強請って克哉に媚びだす。自分の意思ではどうにもならない浅ましい身体を呪った。それでも、心だけは挫けぬように克哉の言葉に意識を閉ざす。
「まあ、淫乱な御堂さんは、後ろだけでイけますしね」
「ふ……っ、あっ……は、くぅ…いや、だ」
 克哉の指が的確に御堂の快楽の凝りを抉り突いてくる。寒さで強張っていた身体が、熱に解され快楽に蕩かされる。
「あ、ああ……っ!」
 執拗な刺激になす術もなく、絶頂へと追い上げられる。腰が慄いてバスルームの床にポタポタと白濁液を散らした。それもすぐにお湯に交じり、洗い流され、御堂の眼の前を横切って流れていった。
 目に熱い液体が盛り上がった。瞬きすると睫毛を伝ってぽたりと落ちる。視界がぼやけて歪み、自分が涙を流して泣いていることに気が付いた。
 自分で出来ることさえも自分でさせてもらえず、克哉の手に委ねざるを得ない。人としての尊厳も日々剥ぎ取られて行っている。
 それだけではない。克哉は御堂の身体を汚すだけでは飽き足らず、御堂の居場所も一つ一つ奪い汚し踏み躙っていった。御堂の部屋のあらゆるところで、抱かれ、喘がされ、忌まわしい記憶を刻み付けていく。キッチンも、リビングも、バスルームも、ベランダも。自分の部屋だったのに、今ではどこにも安らぎの場所はない。
 何故、こんな不条理に甚振られるのが自分でなければならないのだろう。
 確かに、御堂は克哉に接待を要求した。そこに克哉を貶めてやろうという意図があったことは否定しない。
 それでも、御堂は御堂の理に従って行動した。それは克哉の理とは異なっていたのであろう。確かに御堂の理は高慢さを孕んだものではあったし、今まで、そのために傷付いた者も少なくない。それでも御堂の理は誰かを標的とし徹底的に虐げることを目的としたことはなかった。たった一度、克哉の理に反し衝突した代償として、仕事も私生活も、自身の尊厳さえ奪われ、挙句、克哉の嗜虐心を満たす存在して閉じ込められ嬲られるのはあまりにも理不尽ではないか。
――なぜ…なぜ、私なんだ。
 今まで克哉に奪われていったもの、そして、今の自分の浅ましい姿を思うと、堰を切ったように涙が溢れた。泣いた経験なんて、物心ついたときから数える程しかない。社会人になってからは全くなかった。それなのに、克哉と出会ってから何度涙を流す羽目に陥っているのだろう。
 自己憐憫の涙なんて馬鹿馬鹿しい。そう思うも抑えられずに、目を強く腕に押しつけ、漏れそうになる嗚咽を必死に喉で封じる。戒められた手では涙をぬぐう事も出来ず、監禁されてからは泣くことさえ自由にできない。
 シャワーの音と湯気が少しでも克哉から自分を覆い隠してくれることを祈りながら、むせび泣いた。

極夜4

 立ち込める汗の匂い、そして濃い精臭が目隠しで作られた仮初の闇をより暗く濁らせた。時折、すうっと鼻腔に触れる克哉のフレグランスのグリーンノートの香りが、場違いな爽やかさでもって混濁しかけた意識を引き戻させる。
「くうっ……もう、…無理だっ」
「ほら、もう一回後ろだけでイくんだ。出来たら、これを抜いてやる」
 嗜虐を滲ませる低い声が肌を粟立たせた。
 冷たい床の上で、右手と右足、左手と左足を括られ、尻を突き出したうつ伏せの体勢にされていた。その背に克哉が圧し掛かるようにして、双丘から突き出たバイブを前後に抽挿する。克哉の熱い体温と荒々しい鼓動ををシャツ越しの背中に感じ、克哉に抱かれているような錯覚に陥った。
 克哉は自分自身の性的な欲求を直接遂げることはそれ程こだわっていないように思えた。むしろ、御堂を肉体的、精神的に苛むことで自身の欲望を満足させているようだ。
 克哉が御堂を直接抱くときは、性的欲求を遂げることが目的ではなく、御堂に屈辱を与えることが目的なのだ。だから今、克哉が無機質なバイブを使っているのも、それが御堂を苛むのに最適だと判断したからだろう。玩具での責めは終わりが見えない。もうどれだけの時間、こうやって責められているのか分からない。
 視覚を遮断されたことで、他の感覚が感度を増す。身体に与えられる刺激が研ぎ澄まされて御堂を苛む。もう何度、射精させられたのだろう。最初は手淫で出されて、それで反応が無くなると、後ろをバイブを抽挿されて快楽の凝りを抉られる。強制的に快楽を与えられて、ペニスは芯を持って勃ってはいたが、射精したいという気持ちは全く湧きおこらなかった。射精を伴わない絶頂なら既に何回も迎えており、その度に喘ぎと共に身体を痙攣させていたが、それだけでは克哉は満足しなかった。
 克哉がいない日中は射精を封じられ、行き場のない射精感が苦しくてしょうがなかったが、出し切ってもう出るものもないのに、射精を執拗に強要されるのもまた、ひどく苦しい。
 代わりに込み上げる涙が目隠しの布を濡らしていくが、克哉は気に留める風でもない。克哉は御堂が泣くのをみて悦ぶことはあっても、それを気遣うことは一切ないのは分かり切っていた。
「も、う、…出ない。やめろ…っ」
 首を振って拒絶の意思を示すと、克哉の手が御堂の股間に伸びた。その像を確かめるように、茎から括れ、そして先端を辿る。克哉の指先が敏感な小孔の粘膜を、戯れに爪を立ててくじいた。鋭い痛みが走り、悲鳴を上げて身体を引き攣れさせた。
「勃ってるじゃないか。嘘吐きだなあ。御堂部長ともあろう人が、無理だとか、やめろとかばかり言って、嘆かわしいな」
「くっ……」
 いたぶる声に唇を噛みしめる。
 勃っていても出ないものは出ないのだ。行き過ぎた快楽は苦痛にしか変換されない。
「そうか。淫乱な御堂さんはこれ位の刺激じゃ物足りないのか」
 克哉の体温と重みが遠のいた。暗闇の中に一人取り残されたが、少しして、ヒュンッと頭上の空気を切り裂く音が響く。鞭の音だと気づき、息を詰めた。
「これを期待していたか?」
「う……っ」
 つう、と乗馬鞭の先端が首を後ろに触れた。シャツの上を背筋を舐めながら真っ直ぐ下ろされる。その感触に総毛立った。
 そのまま鞭先が双丘の狭間に入り込み、バイブで拡げられているアヌスの縁をなぞり、その下の睾丸を突いた。急所を甚振られ、堪えていた息を零した。
「ひっ!」
「欲しいだけくれてやる」
 バイブのスイッチが入れられた。低いモーター音とともに狭い器官の中を抉られ、身体を仰け反らせた。同時に、鞭が振り下ろされる。
「くあっ!…ぅっ」
 漏れた悲鳴を噛みしめて、喉で殺す。
 克哉は鞭を唸らせ、数回背中に打ち下ろすと御堂の耳元に口を寄せた。
「このまま続けるか?それとも俺に懇願するか?」
「…誰がっ、……お前なんかに」
「ふうん」
「いっ…ぁっ!」
「いつまで耐えられるかな」
 ビシッと剥きだしの尻を打たれた。身体を強張らせると、狭まった内腔の中でバイブが暴れる。
 暗闇の中、ヒュッ、と鞭が鳴る。身体を引き攣らせたが、鞭は落ちてこなかった。克哉がくつくつと喉を鳴らす音が、自分の荒い呼吸音に混じって聞こえた。
 克哉はフェイントを入れつつ、音が鳴る度に身体をビクビクさせる御堂の反応を愉しんでいた。
「どうだ?イきそうか?」
「はっ、……うあっ」
「言葉が出ないほど気持ちいいのか?」
「ぁっ…、く、」
 度重なる責め苦に咥えて、バイブと鞭を与えられ、既に身体も心も限界が来ていた。口を開いても呻きしか出ない。
 反応が乏しくなった御堂に、克哉が再び鞭を振り下ろした。内股に焼けつくような痛みが走る。
「何か言えよ、御堂。気持ちいいか?」
「っ……ふ、……んっ」
「ほら、答えろ!」
「ぅ、……っ!」
「言え!!」
「ああっ!」
 力任せに振り下ろされた鞭が身体を打った瞬間、身体が跳ねてバイブが内壁を激しく穿った。
 快楽と苦痛が臨界点を超えて、張りつめていた意識がズッと闇の中に落ち込んでいく。遠のく意識の中で、克哉がクソッと悪態をつくのが聞こえた。


 次に目を覚ますと、そこは依然として暗闇だった。
 まだ目隠しをされているのか、と思ったが、目を凝らせば徐々に辺りの輪郭がおぼろげながらもはっきりしてくる。暗い寝室の床に転がされていたようだった。バイブは抜かれて、手だけ後ろ手に括られていた。自由になった足を使い、身体をのたうたせながら、体勢を起こす。
 鞭に打たれた痕が動くたびに熱を産み、痛みを伝えてきた。明るいところで見れば自分の身体が痣だらけになっているのが分かるだろう。
 耳を澄ませば、遠くからテレビの音声が聞こえてくる。克哉はリビングにいるようだった。きっと我が物顔のようにリビングのソファに腰を掛けているに違いない。
 壁際まで這いずって行く。壁に背を預けながら立ち上がろうとしたが、激しい立ち眩みを起こし再びしゃがみ込んだ。諦めて、壁に力なくもたれかかる。
 身体が酷く怠く、重い。それもそのはず。連日克哉に責め苛まされているのだから。
 克哉がいない日中でさえ、四肢をきつく固定され淫具を咥えさせられて一人置いておかれる。そして克哉が戻ってくると排泄や食事の世話をされ、その後、克哉が飽きるか御堂が失神するまで嬲られる。そして、克哉が休息をとる僅かな間が御堂にとっても休息の時間だった。
 休息といっても、四肢を自由に解放されてベッドで休ませてもらえる、ということはなく、淫具を外され多少拘束が緩められ、毛布一枚与えられて硬い床に転がされるという程度だ。それでも、その時間を休息だと思えるほどに躾けられ、また、待ち望むほど心身ともに追い詰められてきていた。
――いつまでこんなことを続ける気なんだ。
 そもそも克哉が御堂に何を求めているのかさえも分からなかった。
 堕ちてこい、屈しろ、と克哉は連日御堂に言ってくるが、こんな行為を続けて克哉が求める到達点に御堂が辿りつくとは思えない。堕ちるというのなら、身体は既に御堂の意思を離れて堕ちきっていた。心だけを置き去りに、どんなに辛い行為でもその中から快楽を見つけ出し、身も世もなく啼いて、克哉の目の前で何度も果てている。
 もしかしたら、克哉は御堂を壊したいだけなのかもしれない。だが、既に徹底的に御堂はありとあらゆるものを奪われ、踏み躙られ、貶められ、信じたくはないが立ち直ることが困難なほど無残な状態にされている。御堂が要求した接待の報復にしては度が行き過ぎている。御堂は自分の落ち度を十分以上に贖った。これ以上、克哉は何を望むのだろうか。
 なぜ、この男は自分を選んだのだろう。どうして、こんなことをするのだろう。その目的は何なのだろう。理由が分かればこの行為が受け容れられるという訳ではなかったが、何も理解できないまま身体も心も蹂躙され、壊されていくのは耐えられなかった。
 少しでも佐伯克哉と言う男を理解しようと、御堂は克哉の言葉を一言一句聞き漏らさぬように――例えそれが御堂を貶める言葉であっても――耳を澄ました。克哉の言葉を反芻し、そこから少しでも克哉の本心を伺う手掛かりがないかを探る。
 だが、克哉の発する言葉のほとんどが御堂を嘲り、辱めることが目的であって、それを記憶し思い返す作業自体が、傷口に自ら塩を塗り込み、より血を流させることになっていた。
 既に、自分の限界はとうに超えている。
 それでも、考えることを止めたりはしなかった。考える時間はたっぷりある。そして、考えることは今の状況から意識を外に向けてくれる。既にこれは意地と意地のぶつかり合いだ。御堂が御堂であり続けるための。
 御堂はそこにあるはずのない答えを求めて、じっと部屋の中の闇を凝視した。

 カチッ。
 唐突に部屋の電気がついた。その眩しさに瞳孔が絞られる。
 部屋の入り口に立って自分を見詰める克哉の姿に気付き、ひゅっと狭まった喉が鳴った。
 克哉の足が一歩御堂との距離を詰める。恐怖からずり下がろうとしたが、背中の壁に阻まれた。ゆっくりと時間をかけて克哉が御堂の前まで歩を寄せた。
 克哉の姿を見て、鞭の痕がじんじんと痛みだす。それでも、精一杯の虚勢を張って、目の前の克哉を睨み付ける。
 克哉はそんな御堂を嗤う事もなく、表情を乗せない眼差しで見下ろした。ふう、と息を深く吐く。
「あんたは変わらないな。なぜ、そんなに頑ななんだ」
――変わらない?
 既に克哉の手によって、元の姿を止めないほど何もかも変えられている。
 克哉は動かずにじっと御堂を見詰めた。互いの視線がぶつかり合い、克哉と御堂との間に生まれた沈黙が、部屋の空気を凍えさせていく。
 その空気の密度に耐えかねて、御堂から口を開いた。
「…いつまでこんなことを続けるんだ」
「いつまで?あなたが俺の下に堕ちてくるまで、と言っているじゃないですか」
「堕ちる?」
 それが何を指すのか、意味が分からない。
「俺もこんな面倒なことはやりたくない。だが、あんたはいつまでたっても意地を張っているから仕方ない」
 そう呟く克哉の顔は何故かひどく苛立っているようだった。
「何故、私なんだ…。お前に接待を要求したからか?それ程、お前は私を憎んでいるのか?」
 克哉は御堂の言葉に僅かに首を傾げた。
「接待?憎む?…ああ、俺は御堂さんを憎んでなんていませんよ。前に言いませんでしたか?」
「それなら、何故こんなことをするんだ」
 またその質問か、と克哉は舌打ちし、更に苛立ったように髪を無造作に掻き上げた。だが、腹立ち紛れに手を出すこともその場を立ち去ることもせずに、御堂を見下ろした。
「そんなことを聞いてどうするんですか?理由を知れば現状が変わるとでも思っているのか?」
「知りたいんだ。何故、私なんだ。どうして、他の誰でもなく、私を選んだんだ…どうして、こんな酷いことを…っ」
 克哉の気まぐれな意識が他に向く前に、縋りつくように早口で言葉を重ねた。克哉に監禁されてから、克哉とまともな会話を交わせていない。それでも、今この瞬間は、克哉の意識は御堂から発せられる言葉に向いていた。
 克哉は、少しの間、何もない空間に視線を彷徨わせ、無意識に頭を掻くと、ふっと目の前の御堂の存在を思い出したように視線を向けた。その眸が冷徹な光を湛え、その薄い唇が開く。
「理由なんて、ない」
 頭を殴られたような衝撃が走った。
 その言葉は御堂を甚振るためだけのブラフに過ぎないのか、出来ればそうであってくれ、と祈る思いで克哉を見上げるが、レンズを通してみるその双眸は何の感情も映し出していない。
「お前…お前は、誰でも良かったのか。私でなくても!」
 眼が熱い、そして痛い。気付けば涙が溢れていた。昂ぶった感情が身体の中で渦巻き、出口を求めて涙となって奔出してきたかのように。視界が大きく歪んだ。
 克哉はそんな御堂の涙を、何故、泣いているのか理由が分からないとでもいうように不思議そうに眺めた。
「それなら、あんたは、何故俺に接待を要求したんだ?」
 突然切り返された質問に、御堂の思考が止まった。唖然として克哉を見上げる。
「俺が目障りだったんだろう?それで憂さ晴らしをしたかった。そこに大した理由はない。ただ、俺があんたの目の前にいた、それだけだ」
 克哉の唇の片端が歪められる。
「俺も似たようなもんだ。あんたが俺の目の前にいた。ああ、でも俺は御堂さんを目障りだと思ってはいなかったよ。あんたを相手にするのは愉しそうだったから。ゲームは難易度が高いほど、燃えるだろう?まあ、実際は、それ程でもなかったが」
 克哉が嗜虐に満ちた笑みを浮かべ、ククッと喉を鳴らした。
「これが、ゲームだと?」
「ああ。その程度のものだ」
 カッと頭に血が上る。
 他人を踏み躙り、それをゲームと言ってのけるこの男はどこまで幼稚なのだろう。この男のこのゲームは決してフェアなものではない。自分は絶対に負けることもなく傷付くこともない、という条件付きでゲームを行っているのだ。そんな児戯のごとき火遊びに一方的に御堂を巻き込んだのだ。
「何故、私を標的にしたんだ」
「またそれか…」
 心底うんざりしたような声が返ってくる。
「言っただろう。あんたが俺の目の前にいた。それだけだ」
「違う!」
「違わないさ」
 いや、違う。克哉が御堂を選んだのには、そこに何かしらの最もな理由があるはずなのだ。
 誰でもいいのなら、いつこの行為をやめてもいいはずだ。もっとゲームの高揚感を得やすい相手に対象を変えればいい。だが、克哉は執拗に御堂に執着する。それが御堂に対する憎しみでないとしたら、何なのだろう。
 御堂は克哉の返事に首を振って、言葉を重ねた。
「違う…!何故、私なんだ。私はお前に徹底的に辱められ貶められた。全てを奪われて…」
 口惜しさと惨めさに再び涙が溢れる。認めなくないが、克哉の前では自分がどれ程無力であるか思い知らされていた。
「もう十分に分かっただろう…?私は、君からしたら取るに足らない存在だ。…それともお前は怒っているのか?私が分不相応に地位を得ていたことに…」
「――黙れっ!」
 突然、克哉が激高した。その眼差しに強い怒気が滲む。いきなり叩きつけられた感情の激しさに身体をビクッと竦ませた。
 目の前の克哉は怒りに顔を歪ませていた。
 常に表情を崩さないこの男が感情を露わにしたことは、以前にも見たことがあった。
 そうだ、倒れて克哉に部屋まで運ばれた時だ。あの時も不意に克哉は怒りだしたのだ。今回も、何が克哉をそう怒らせたのだろう。
 恐怖で散り散りになった思考を巡らせ必死に考えたが、御堂にはどうにもその原因に心当たりがなかった。
 克哉が腹立ちまぎれにドンと床を蹴る。その音に息を呑み、再び身を引き攣らせ竦ませた。
「あんたはどうしてそう俺を苛立たせるんだ?さっきから言っているだろう。理由なんてないんだ」
 克哉はそう言い放つと、感情を昂ぶらせてしまった自分を恥じるように、ぐっと奥歯を噛みしめ御堂の前から踵を返し、部屋を出て行った。その余裕のない克哉の態度を見るのは、監禁されてから初めてだった。
 御堂に対して苛立つのなら、このゲームを止めればいい。克哉はそれが出来るのだ。だが、そうしようとせずに、それを問う御堂に怒りをぶつけるのには、隠された別の理由があるからだ。そして、理由が明らかになれば、この忌まわしいゲームを終わらせる方法が見えてくるはずなのだ。
 克哉が出ていった部屋の扉を茫然と見詰めた。
「違う、…何故なんだ、…何故」
 うなされるように繰り返し口にする。その言葉は誰も答えることなく、部屋の中に反響し吸い込まれていった。

(4)
極夜5

「どうですか?」
 研究室内のミーティングルーム。白衣に身を包んだ川出を始めとした研究員達が緊張と期待に包まれた面持ちで御堂の顔を伺う。
 痛いほど視線が刺さるのを意識しながら、もう一口、時間をかけて試作品の飲料を口に含む。喉を鳴らして飲みこんだ。
「甘さもくどくないし、後味もすっきりしている。香りは販売用の容器に移し替えて確認する必要はあるが、フレーバーとよくマッチしている」
 御堂は顔を上げて川出や他の研究員の顔を見渡した。今回のプロジェクトのために集められた選りすぐりのメンバーだ。
 御堂は職場では滅多に見せない笑みを口元に刷いた。
「イメージ通りのものに仕上がっている。これで、いこう」
 研究室内に歓声があがった。
 この製品は必ず上手くいく。皆、同じ想いを共有し、高揚感が一体となり興奮の渦を巻いた。


 臀部から伝わる硬い床の冷たさ、そして、身体を取り巻く空気の肌寒さに身を震わせて起きた。腫れぼったい瞼をうっすらと開くと、窓から挿し込む日差しは無くなり、周囲は闇で包まれている。手足を動かそうとして、その感覚さえ失われていることに気付いた。両手は頭上に括られたまま、窓枠に繋がれ、下肢はバーで広げられた坐位の体勢で意識を失っていたようだ。
 少しでも楽な位置に臀部をずらそうと、不自由な身体を捩じったところで、中に埋め込まれたバイブが床にあたって粘膜を大きく抉った。その衝撃に息を詰める。既に、電池が切れて動きを止めたそれは、下腹部の圧迫感をもたらす異物に過ぎなかったが、それでも辛く身体を苛む。
――今は何時だ?
 暗闇の中、五感を研ぎ澄ませ部屋の気配を伺うが、あの男はいないようだ。あの男が自分を放り出していったのではないのなら、まだ職場から帰ってきていない時間なのだろう。ふっと息を吐いて緊張の糸を解いた。
 時間の感覚はすっかり失われてしまっていた。身体への責め苦が途切れる僅かな時間に、意識を失うように眠りに陥る。単に失神しているだけなのかもしれないが、目を覚ませば夢を見ていた記憶が残っている。
 その短い時間に見る夢はかつての御堂が過ごしていた日常だった。特別なことが起こるわけでもない、こんな日々が続くことを信じて疑わなかった時間。その夢は、ここ最近、どんどんと真に迫るような鮮やかさになってきた。まるで、現実世界を夢で相殺して精神の均衡を保とうかとするかのようだ。
 同僚や部下は今、どうしているのだろう。
 ぼんやりとした思考を巡らす。最後に彼らと会ったのはいつだっただろうか。先週のはずなのに、随分昔のことのように感じた。
 時間の隙間に落ち込んだような感覚があるが、この世界こそ紛れもない現実だ。
 気付いたときには御堂を取り巻く世界はその様相をがらりと塗り替えていた。光もなく安らぎもない。意識を失って再び意識を取り戻す度に、より深く混沌とした世界に囚われていくような錯覚がある。
 監禁された当初は、何度も御堂の元に電話がかかってきていた。当初は御堂を心配し困惑した内容だったが、次第に御堂を非難するものに変わり、プロジェクトリーダーの交代を告げる連絡を最後に途絶えていた。
 誰かが御堂の異常に気付いて、部屋まで訪ねてくれるはず、そう信じていたが、御堂の期待はことごとく裏切られている。御堂と社会の絆というものはこうも脆いものだったのだろうか。
 いや、あの男が上手く立ち回っているせいで、まだ御堂の異常に気付けていないだけだ。
 誰か気付いてくれるのだろうか。
 もしや、誰にも気付かれないまま、日々、この部屋で克哉を待ち続けるしかないのだろうか。それを思うと、絶望に心が潰されそうになる。
 その心は危うい状態を彷徨いながら辛うじて理性をとどめている。そのことは御堂が一番よく理解していた。
 それでも、御堂はたった一人、あがき続けていた。
 既に自分が出来ることは限られている。
 問題は何を捨てるかではない。何を残すかだ。
 もう、残せるものはほとんどない。
 克哉は、荒ぶる波のように激しく打ち付けては、御堂の地位、生活、自由、手当たり次第に奪い、破壊している。その中でただ一つ残された岩のように、自分自身の核を守り、じっと耐え続けていた。波が激しさを増し、岩を叩きつけ容赦なく削り取っていく中、後、どれ位耐えられるだろうか。
 御堂は少しでも体力を温存しようと、身体の余分な力を抜いて、静かな呼吸を繰り返し、そっと目を閉じた。


「ただいま戻りました」
 玄関先で声が聞こえた。その声が意識を引き戻させる。
 克哉はこの部屋に御堂を閉じ込めて居座り続けてから、帰る度に“戻りました”と言っている。既にこの部屋の主気取りなのだ。
 当初はその物言いの一つ一つに腹が立ったが、今はこの言葉は、一人苛まされる孤独な時間が終わる合図でもあり、長く苦しい夜の始まりが告げられる合図でもある。その声を聴いた途端、心臓が早鐘を打ちだし、嫌な汗が背筋を伝う。
 足音が真っ直ぐとこの部屋に向かってきた。部屋の照明のスイッチ音とともに暗闇が掃われる。
「御堂さん、いい子にしていましたか?」
 部屋の入り口からかけられた言葉に反応せず、項垂れたままでいると、御堂の元まで歩み寄ってきた克哉にギャグのベルトを掴まれ顔を上げさせられた。
 目を開いて克哉を睨み付ける。克哉はその拒絶の眼差しを薄い笑みで受け止めると、口を戒めている御堂のギャグを外した。口を開閉し血流を戻し、顎の筋肉に力を入れ、感覚を取り戻そうと試みる。
「遅くなってすみません。プロトファイバーの出荷に問題がおきましてね。その対応に追われていたもので」
――プロトファイバー?
 その単語に反応して、乞うような視線を向けてしまう。監禁されてから、何の情報も与えられず、外の情報に飢えていた。御堂の反応に気を良くしたのか、克哉は更に続けた。
「予想以上にプロトファイバーが好評でしてね。出荷が間に合わなくなったところに製造ラインの一部に問題がおきたんです。今日は、一時的に全ての出荷を停止して製造ラインの調整を行うかどうか検討していました」
 克哉は製造ラインの調整内容について語り始めた。生産計画は御堂の業務だ。営業担当であるキクチの社員の仕事内容ではない。それを克哉が行っているという事は、克哉の言っていた通り、克哉が御堂からプロジェクトリーダーを引き継いだということなのだろう。
 プロトファイバーのプロジェクトは御堂を置き去りにして進んでいっている。克哉から聞かされていたとはいえ、その事実を突きつけられて胸に鉛を置かれたように重くなる。
「前任者が中途半端に放り出していなくなったので、こちらは大混乱ですよ」
「それは、お前がっ」
 悪気なく言ってのける克哉に思わず声を荒げた。身体に力が入り、手首を戒めている鎖が鳴った。克哉が御堂を見る目をすうと細めた。
「最初は御堂部長をかばっていた人たちも、その後始末をやらされて、今ではあなたに対する恨み言ばかりです。それを聞かされる俺の立場になってほしいですね」
 怒りに顔が紅潮する。御堂の反応を楽しみながら克哉は言葉を継いだ。
「あなたが引き継ぎもせずにいなくなったものだから、販促プランも今後の出荷計画表も何も残されていなくて、一から作り直す羽目になっているんです」
「なんだと?」
 頭の中が瞬時にプロトファイバーの業務内容に切り替わった。いくら無理やり克哉に監禁されている不自由な身の上とはいえ、これ以上、部下や同僚に迷惑はかけられない。
「それは…執務室の私のパソコンの中に入っている」
「パスワードがかかっていて開けないんです」
「パスワードなら教える。だから、それを使ってくれ」
 克哉がにっこりと端正な笑みを返した。
「必要ありません。俺が全て作り直しましたから。あなたよりも優れたものを」
「――っ」
 息を呑んだ。最初から克哉は御堂のものを使う気は一切なかったのだ。会社から支給されているパソコンは、情報管理部の管理者権限を使えば個人がかけたパスワードを解除できる。だが、克哉はそうしなかったのだ。御堂の評判をより貶めるために、御堂が全てを無責任に投げ出して失踪した、という状況を作り上げているのだろう。
 克哉の声がじっとりと粘度を孕んだ。
「ねえ、御堂さん。もう、会社にあなたがいたという痕跡はありませんよ。あなたは、所詮、会社の中の一部品に過ぎない。御堂孝典という部品が不良品だったから、俺に付け替えられた。それで万事うまく動いている。しかも前以上に、な。もう、誰もあなたの存在を気にかけないし思い出しもしない。薄情なものだ」
 残酷な言葉が鼓膜を震わせ、脳にじわじわと染み込んでいく。
「あなたが築きあげたモノなんて所詮はその程度だったんだ。あなたの存在を気にかけてあげているのは、最早、俺だけだ」
 気付かぬうちに涙が流れていたらしい。克哉の指が頬に伸ばされ、その涙を静かにぬぐった。
「御堂孝典という存在が消えても、今や何の問題もない。あなたの同僚も部下も、そしてあなたが友人と思っている人間でさえ、あなたが消えたことに気付きもしない。御堂さん、あなたは誰からも必要とされていないんだ。この世界の誰からも」
「黙れっ」
 自分に絡みつき締め付けてくる克哉の言葉を振り払おうと首を振った。次から次へと目からは涙が溢れ、首を振る度に零れた涙が床に滴る。
「お前の存在価値はなんだ?御堂、答えてみろ」
 顎を掬われ、顔を上げさせられる。答えずに唇を噛んでいると、克哉が代わりに応えた。
「あんたは、俺の足元で喘いでいるのがお似合いなんだよ。お前の存在なんてその程度の価値しかない」
「黙れ、……黙れっ!」
 なぜ自身の存在理由を克哉に問われなければならないのだろう。そして、断じられなくてはならないのだろう。
「泣くな、御堂」
 気遣いを感じさせるほどの優しい声音と共に手が伸びて、顔を濡らす涙をハンカチで拭われる。
「安心しろ。俺が哀れなお前を可愛がってやる」
「……私に触るなっ!虫唾が走るっ」
 克哉の顔に向かって口の中に溜めた唾を吐きかけた。克哉が素早く、手でそれを防ぐ。そして克哉は、御堂に見せつけるように、ゆったりとした動作で手の甲についた唾液をペロリと舐めあげた。背筋をぞわりと寒気が侵す。
「御堂、行儀が悪いぞ」
 その低い声が、嗜虐の響きを孕んだ。



「来季の販促プランについては、F1層向けのマーケティングをより強化するために、キー局のドラマとの提携を…」
「ん……、くぅ」
 書斎で、克哉がパソコンを操作して御堂にプレゼンを行っている。だが、その内容は全く頭に入ってこなかった。
 革張りの椅子の肘掛け部分に、膝裏を乗せる形で淫らな開脚をさせられ、膝と手首をそれぞれ肘掛けに括りつけられていた。
 そして脚の間には張りつめた状態で戒められたペニスと、その奥にはバイブの代わりにアナルパールが埋め込まれ、きつい体勢を和らげようと少しでも身体を動かすと中を圧迫し、ぞっとする違和感をもたらす。
「うっ、…あ」
「御堂さん、あなたが気になるというから、わざわざ説明しているのに、もう少し真面目に聞けませんか?」
 デスクの脇に立っている克哉が呆れた声を浴びせかけた。その視線が御堂の下半身に絡む。克哉の前にさらけ出すようにされたペニスは朝から一度も解放されず、硬く屹立したまま射精を求めて白濁交じりの先走りをダラダラと零し続けていた。
「全く、はしたない人だ。あなたにとってはプロトファイバーのことより、自分が気持ちよくなることの方が大切なんでしょう?」
「違…う、…ゃっ」
 克哉の指が伸びて、小孔から溢れる蜜を亀頭に擦り付けた。それだけで、媚びた喘ぎが漏れそうになる。
「イかせてほしいなら、俺に強請ってみせろ」
「い、やだ」
「相変わらず強情だな。本当は俺に構ってもらいたいんだろう?」
「私、に…触るなっ、下衆が…っ」
「へえ。それなら、御堂さんがしっかりと俺の話を聞けるように、協力してあげますよ」
 克哉のレンズの奥の眼が鈍く光り、口元が吊り上がる。
 克哉が椅子の正面に屈んで、床に膝をついた。スーツのポケットからプラスチックケースを取り出し、中から細い金属棒を取り出した。
「暴れないでくださいね」
 その金属棒には数珠玉のように小さな球が並んでいる。後ろに入れられているアナルパールを小さく細くした形状だ。
「何……をっ」
 その用途に気が付き、眼を見開き息を呑んだ。ごくり、と唾液を飲み込む音が鳴る。
「おや、御堂さん。これを知っているんですか?使ったことあるんですか?」
「やめろっ!」
 近付いてくる克哉の手を避けようと、身体を捩った。椅子が軋む。
「大人しくしないと、傷付きますよ。ここが」
「……くぁっ」
 克哉の指が御堂のペニスの先端を掴んだ。指をしっかり絡めてペニスを固定すると、先端の浅い切込みを親指で押し開く。
「ああっ!」
 鋭い痛みに悲鳴を上げた。冷たく硬い金属の球が性器の中枢を押し広げつつ、より奥へと押し込まれていく。克哉は金属棒を小刻みに前後させながら、深く進める度にペニスを戒める革のベルトを先端側から外していった。
「いっ、…あっ!」
 痛みにペニスがビクビクと震える。異物に内側から抉られ、その刺激に眼を見開き、背筋を仰け反った。
「きつい孔だ。だが、すぐに慣れる」
「ぅ――っ!!」
 ペニスの拘束ベルトが全部外され、代わりに金属棒が根元まで挿れられる。ぐりっと金属棒を捩じられて、堪えきれず言葉にならない悲鳴を漏らした。
「さすが、御堂部長。あんたはこんな場所でも感じるんだな」
 克哉の言葉に恐る恐る自分のペニスを見下ろすと、金属棒に串刺しにされたペニスは萎えることなく、脈打つほどに勃ち上がったままだ。朝から昂ぶらされた一方で射精を禁じられ、溜まった精液が出口を求めて渦巻く。それを堰き止められ、内で高まる圧力と苦しさに身を捩り浅い呼吸を繰り返す。
「後ろも物欲しそうだな」
「うああっっ!」
 アナルパールを引っ張られて中の球がぐりっと前立腺を刺激する。それが金属棒を揺らし、苦痛と快楽が表裏一体の刃となって身体を切り裂いた。四肢を突っ張り、手足の指をぎゅっと握り込む。
「前と後ろ、どちらを弄ってほしい。それとも、両方か?」
「はぁっ……あ、」
 脚を目一杯開かされ、前後の孔を無残に犯され、屈辱に塗れた姿を克哉に眺められる。内股の筋肉が引き攣れ、震えた。
 乱れた呼吸が室内に反響し、目からは透明な液体が溢れだした。
 目の前の克哉の姿が滲んで揺らめいた。このまま世界が全て溶けて流れてしまえばいい、と願うが、御堂も克哉もこの世界にしっかり固定され繋がれたままだ。
「泣くほどいいのか?答えないなら、両方弄ってやる」
 克哉の言葉に身体がビクビクと震え出す。
「どちらがいい?」
「ぐぅっ!!」
 克哉の指がペニスから出ている金属棒を弾いた。その振動が身体を跳ねさせ、くぐもった叫びをあげた。
「やめっ…やっ」
「ほら、選べ。どちらだ?両方か」
 次はアナルパールをぐりっと回され、短い悲鳴とともに身体を強張らせた。
 克哉に返答できずに、涙が流れる。何を言っても言わなくても、おぞましい行為が待ち受けているのだ。いいようのない恐怖に襲われるが、どう言っても克哉を悦ばすだけだと、目を瞑り歯を食いしばる。
 克哉に嬲られるようになってから、どれほど惨い仕打ちを受けても、激しい苦痛の中から髪の毛一本程の微かな快楽を見つけ出し、それを増幅して浸ることが出来るようになっていた。克哉から少しでも身と心を守るために発現した防御本能だろう。その本能は、拒絶しようとする理性を凌駕している。汚された身体は矜持も羞恥もなく克哉の指先にも無機質な玩具にもすぐに媚びだす。いまや、克哉に抗うことが出来るのは御堂を御堂たらしめている自分の心だけだ。そして、そのことに克哉も気が付いたらしい。その心を挫き、ひれ伏せさせようと斟酌なく責めてくる。
 克哉がふん、と鼻を鳴らした。
「つまらないな…。そうだ、あんたに好きにさせてやるよ」
 そう言うと、左手の拘束を外された。
「前でも後ろでも、好きな方を抜いていい」
 どうせ、ろくでもない事を考えているのだろう。
 絶望的な状況に追い詰め、一縷の希望を与え、それに縋ったところでより深い絶望に叩き落とす。陳腐なシナリオだ。
 自由にされた左手を動かすことなく、そのままだらりと重力に任せて下ろす。
 思ったような反応が得られなかったのが面白くないのだろう、克哉が眉間にしわを寄せ舌打ちをした。
「…そういう態度をとるのなら、俺も好きにさせてもらう」
 再び御堂の脚の間に跪くと、ペニスに指を絡めつつ先端から突き出る金属棒を握った。滑らかな動きで前後に抽挿される。同時に残りの指でペニスを扱く。
「あ、…はっ、ああっ」
 狭い精路を異物に犯され蹂躙される。克哉の他方の手が、アナルパールに伸ばされた。ぐりぐりと回すように中に押し込められる。内臓を押し上げられ、鋭い痛みが悦楽を激しくかき混ぜる。
「ひっ!やっ!ああっ!」
 克哉の手が動くたびに、あられもない悲鳴混じりの喘ぎを上げた。息が出来なくなり激しく荒い呼吸を繰り返す。克哉が手を止めた。
「それとも、俺に赦しを請うか?『イかせてください』って言うんだ、御堂。そうすれば楽にしてやる」
 救いの手を差し伸べるかのように克哉が耳元で深い声音で囁く。
 口を僅かに開いて、声に似た音を作った。それを聞き取ろうと、克哉が耳をむける。その隙をついて左手を伸ばし、克哉のシャツの襟元を掴んで、自分の元にぐい、と力いっぱい引き寄せた。克哉が咄嗟のことによろめき、その頭が目の前に来た。それに向かって、掠れた声を目一杯絞り出し、はっきりと告げる。
「死んでも、言うものか。馬鹿め」
「…っ!」
 克哉が息を呑む。
 可笑しさが身体の奥から突き上げてきて、横隔膜が痙攣する。噎せこみながら笑った。
 克哉の顔が怒りと苛立ちによるものか、苦悶様に大きく歪んだ。それを見て、更なる愉悦が湧き上がる。
 だが、すぐにその顔から表情がすっと消失し、克哉の手が御堂の手を鋭く払った。その手が御堂の下半身に伸ばされる。
 これから起こることへの恐怖とともに、澱んだ欲情と、克哉の思惑を挫いた満足感が境もなく入り交じり、呼吸が一瞬止まり心臓の鼓動が狂いだす。
 克哉は無言のまま、ペニスを貫いていた金属棒をずるっと一息に抜き去り、そのままアナルパールを力任せに引きずりだした。身体の全ての筋肉が強直し震え、一気に弛緩する。
「う、ああ――っ!!」
 むき出しになった快楽と苦痛が弾けて、世界が裏返った。現実世界から弾き飛ばされ、闇の世界に柔らかく受け止められる。ほんの一時の安堵に包まれながら、克哉が追ってこられない世界に意識を沈ませた。

(5)
極夜6

 御堂は部屋に潜む闇をじっと見詰めた。そして、闇も密やかに御堂を伺う。

 陽の光が差し込む部屋で一人、無機質な器具がもたらすもどかしい快楽にひたすら耐え続けている。
 ギャグで口を封じられているが、声を上げても誰も助けに来てくれることはない。
 虚空と静寂が支配するこの部屋の中で独りきり。
 克哉に身体と精神の内外を苛まれ追い詰められているうちに、濃い霧が立ち込めだした。どうやらその霧は身の裡から湧いているようで、感覚と意識を曇らせる。
 そんな御堂に、闇がひたりと寄り添いだした。
 闇をぼんやりと観察し、その奥底を覗き込んでいると、闇もまた御堂に興味を持ちだした。
 闇は見えないから闇なのではない。確かにそこに在るものなのだ。
 その闇が光を喰らうから、何も見えないのだ。そして、闇が喰らうのは光だけではない。
 闇は御堂の傍で囁きかける。
 全てを塗りつぶして消してあげようか、と。
 御堂孝典という存在も、佐伯克哉という存在も。快楽も、苦痛も、恐怖も。そこは全て均された漆黒の世界。
 自己もなければ他者もなく、悦びもなければ哀しみもない。希望も絶望もなく、凪いだ表面にさざ波が立つこともない。過去も現在も未来も等しく混ざり合い、闇に溶け込んでいく。因果が融けあうこの世界では、もう理由も答えも探し求める必要はないのだ。
――やめろ。
 御堂は首を振った。纏わりつこうとする闇を振り払う。自分が自分であること。それは最後の砦であり、希望なのだ。
 まだ、闇に全てを明け渡すわけにはいかない。
 ガチャッ。
 唐突に静寂が破られ、玄関から鍵が開けられる音がする。
 闇がその気配を消した。そして、代わりに克哉が姿を現す。
「いい子にしていましたか?御堂さん」
 別種の闇を身の裡に宿した男が、にこやかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。

「まだ治らないな」
 克哉は御堂に近寄るなり口にはめられていたギャグを外すと、しどけなく開かれたままの御堂の下唇を指でなぞった。
 その唇は乾いてひび割れ、ところどころに血が滲む。
「ずっと口枷を付けておいた方がいいのか?」
 独り言のように呟く。
「御堂さん、あんたが唇ばかり噛むから、もうボロボロだ」
「……」
 言葉を返す気力も、顔を背ける体力なく、無反応を保った。
 克哉の指が、かさ蓋やささくれた皮に引っかかりながら、下唇の表面を往復する。
 数日前から克哉は御堂の下唇を気にかけだした。確かに克哉が気にする通り、御堂のそれは常に血が滲み無残な状態になっている。克哉はそれを御堂が唇を噛むせいだと考え、口枷や猿轡をしつこく噛ませていた。
 確かに御堂が噛んでいるせいで下唇は傷付いたのだろう。だが、問題は下唇だけではないのだ。上唇も同様の無残な状態になっているし、少し視線をずらせば、御堂の顔色は青ざめ、その皮膚は乾ききって艶を失っていることが見て取れる。眼窩は落ち窪み、身体の筋肉は萎え、どす黒くなった鞭の痣が散らばっている。下唇だけが傷付いているわけではない。だから、御堂の下唇はどれだけ口枷を付けても、改善するどころか悪化していく一方なのだ。
 だが、克哉はその一部分にだけ異様に執着し、全体を見渡そうとしない。いや、克哉の濁った思考と視界では、もう他が見えないのだ。
「ああそうだ、忘れるところだった」
 御堂の下唇を執拗に触れていた克哉がその指を離した。その手と視線が御堂の四肢の拘束に向く。
 手足の拘束を外していくと、御堂の肩を床に押しつけ伏せさせた。腰を上げさせ、ペニスの戒めを外す。
 ずるっとバイブを抜かれる。背後で克哉が自分の衣服を寛げた。
 克哉の手が御堂の腰を掴み、無造作に引き寄せる。
 御堂は、これから始まるおぞましい行為を耐えようと、床板に爪を立て目をきつく閉じた。
 背中に声が降ってくる。
「それじゃあ、はじめましょうか。御堂さん」
 その克哉の声音に物憂げで陰鬱な響きが混じっていることに気が付いた。
「くぅっ!」
 バイブで解されていた後孔に、ずっと根元まで固い肉茎を突き入れられる。急に奥まで突き入れられて衝撃が走る。
 克哉は無言のまま腰を使い続け、御堂を無視して自分の欲望を辿っていく。
 肉がぶつかる音、互いの荒い呼吸が室内に響く。
「う、ああっ!」
「――っ」
 克哉が呻きに似た声を噛み殺して、御堂の最奥に熱い粘液を放つ。前後して、御堂も達した。ずるずるとペニスを抜かれた。
 腰を支えていた克哉の手が離れて、身体が床に崩れ落ちる。
 乱れた息を吐きながら、少しでも体勢を立て直そうと、腕を床に突っ張って顔を上げる。
 克哉は御堂の足元に立ったまま動く気配がなかった。
 いつもなら、揶揄した物言いを御堂に吐きかけながら、更なる屈辱的な行為を強いてくるはずだ。
 何を企んでいるのだろうと、首を捩じり恐る恐る克哉を伺った。
 しかし、克哉の顔に浮かんでいるはいつもの嗜虐と愉悦に満ちた表情ではなかった。どこか沈鬱で、苦みを含ませた面持ちでぼうっと御堂を見詰めている。
 御堂と克哉の視線が交差する。途端に、克哉は取り繕うように、唇の片側を吊り上げ冷ややかな笑みをその薄い唇に刷いた。
 もしや、克哉は、この凌辱行為に倦んでいるのではないだろうか。
 ふとした疑問が頭をもたげたが、克哉が御堂に向かって伸ばした手によってその疑問は掻き消された。
 再び、夜が始まる。


「大したものはないなあ」
 克哉が御堂のキッチンの戸棚を開けて、中を確認していく。その姿をリビングの床の上に座り込み、ソファの側面に背中を凭れかかりつつ力ない眼差しで追っていた。
 克哉にリビングまで連れてこられ床に放り出されたが、幸い身体の前に手を拘束されているだけだったので多少は身体の自由がきいた。
 ベランダに締め出されて以降、御堂はそう簡単に逃げ出したりしないと克哉は思っているようで、克哉がいる時は拘束は多少緩められることも多かった。それはあながち間違いではない。御堂は、この期に及んでも、もう少し耐えれば克哉が立ち去るのではないかと期待していたし、また、逃げ出そうとする気力も体力も克哉によって奪われ、それを考えること自体が億劫になっていた。
 キッチンから克哉の声が響く。
「あんた、料理しないのか?酒のつまみばかりだ」
 まあ他人のことは言えないか、そう克哉は自答して、喉を震わせた。
 御堂の返事を期待する風でもなく、克哉は独り言ちながらキッチンを我が物顔で蹂躙していく。
「酒でも飲むか?」
 キッチンの奥のワインセラーを開ける音がする。中のワインをいくつか引っ張り出してヴィンテージを確認しているようだ。
「さっぱり分からないな…」
 克哉が呟くと同時に、足音が御堂に近付く。条件反射で身体を強張らせた。
 床に放り出していた足を戻し、前に括られていた手を身体の正面に持ってきて、シャツ一枚羽織っただけの剥きだしの肌を隠す。少しでも身を守ろうと身体を縮こまらせた。
 その様子を見て、克哉は鼻で嗤うと御堂の前に屈みこんだ。
「ワインを飲みたいのだが、どれが上手いんだ?教えてくれよ、御堂さん」
 じっとりとした視線が御堂を舐める。
 答えずに黙ったままでいると、前髪を乱暴に掴まれた。
「ぅ……っ」
「俺の質問に答えるんだ、御堂」
 瞳孔が開き、心臓が早鐘を打ちだす。身体はすっかり克哉に怯えきっていた。
 特にここ最近の克哉は、些細なことで感情を乱れさせ御堂に当たり散らす。精神のバランスを欠いてきているのは御堂だけでなく、克哉も同様の様だ。
 散々御堂を嬲っておきながら、克哉に怯えて身体を竦ませる御堂の姿は克哉を苛立たせるようで、かといって、抵抗すると余計に克哉の嗜虐心を煽る。更に始末に負えないことに、苛立つ自分に対しても苛立っているようで、その責任の所在は全て御堂にあると考えているらしい。そして、克哉は自分の不機嫌さを性的な形で御堂にぶつけてくる。
「答えろ、御堂。仕置きされたいのか?」
 掴んだ前髪を乱暴に揺さぶられる。
「わ…私の、ワインだ」
 掠れた声。こんなことを言っても何の意味もないことは分かっていた。かといって、克哉の質問にまともに答えられるほどの思考力も残されていない。ひとまず、克哉の機嫌をこれ以上損ねないために、口を開いただけだ。
 意外なことに克哉はにっこりと微笑んだ。
「ああ、だから一緒に飲もう」
「一緒に…?」
「なあ、御堂さん。俺達はこれからずっと一緒に暮らすんだ。意地を張ってないで、もう少し歩み寄れないか?」
 諭すように言い含める口調。信じられない面持ちで唖然と克哉の顔に視線を向けた。
「ずっと一緒に…お前と暮らす?」
「そうだ」
「…なぜ、私がお前とずっと一緒に暮らさなければいけないんだ」
「なぜって、そうしないと御堂さんが俺から逃げようとするでしょう」
 違う。克哉が御堂に執着するから逃げようとするのだ。
「それとも、考えを改めて俺に屈する気になったか?」
「お前に屈すれば、私は解放されるのか?お前はこの部屋から出ていくのか?」
 克哉は少し考えるように首を傾げた。
「ああ、あんたが素直に俺に縋るんだったら、この世界の全ての悪意からあんたを守って大切に可愛がってやるよ」
 くくっと克哉の喉が嬉しそうに鳴る。
 守る?可愛がる?御堂に対する悪意は全て克哉から生じたものだ。そして、何もかも奪っておいて、今更、何をどうしようとするのだろう。今の克哉に支配された生活から何か変わるのだろうか。
「あんたはもう、どこにも行く場所はないんだ。俺の下に堕ちてくるしかない。何故なら、俺はあんたの運命を握っているのだから」
 それは御堂に聞かせるというよりも自分自身に言い聞かせているような口調だ。
 克哉の視線が御堂を捉えたまま、その焦点が霞む。それは、御堂を見ながらも、御堂を通り越したところに意識を向けているようだ。
 愕然として克哉を見返した。
 まるで噛みあわない会話。
 克哉の話は論理が破たんし、言っていることは支離滅裂だ。そして、そのことに克哉は気付いているようで、まるで気付いていない。
 唐突に理解した。
 この男は御堂が屈したところで、その後のことは何も考えてないのだ。御堂が屈しようと屈すまいと、何も変わることはない。ただ、衝動に駆られて行動しているだけなのだ。
 克哉が行うこの行為には理由も目的も存在しない。克哉自身なぜ御堂を閉じ込め、日々責め続けるのか分かっていないのだ。ただ、だとしたら、この行為に終わりはない。行きつくべき真のゴールが存在しないのだから。
 もう克哉は御堂を甚振ることに悦びを感じていない。それはすなわち、飽きることもないことを意味している。顔を洗い歯を磨く、そういった日々のルーチンワークのように今後延々と御堂を嬲る行為が繰り返されていくのだ。そして、御堂が壊れたら、何の感慨もなく捨て、記憶からあっさりと消し去るのだろう。
 その事実に気付いた途端、目の前が真っ暗になり、膝が震え出した。その震えは段々と大きくなり、身体全体に広がりその芯を根本から揺さぶる。
 恐怖が身体の奥底からどんどん膨れ上がり、絶望に埋めつくされる。
 息が、出来ない。
 その感情の昂ぶりが、御堂の裡に立ち込めていた濃い霧を振り払った。意識が覚醒し、思考がその速度を取り戻す。
――逃げなくては。この部屋から、この男から。
 何もかも失う前に。もう、体面なんかどうでもいい。なりふり構っていられない。
「なあ、御堂さん?どのワインが旨いんだ?」
 克哉は薄い笑みを浮かべながら、押し黙った御堂の顔を覗き込む。その目を見据えて、答えた。
「……どの料理と合わせるか、飲むシーンによって、選ぶワインは異なる」
 御堂の答えに克哉は目を細める。
「ふうん…。それなら、一番高いやつはどれだ?」
「…ボルドーのグレートヴィンテージがある」
 持っているワインの中で、最も高価で貴重な一本。その希少性と値段はあのペトリュスをしのぐ。
 そのワインの置き場所と名前を口にした。
「ほう……」
 克哉の顔が満足げな笑みを浮かべる。掴んでいた御堂の髪を離すと、キッチンに向かった。
 程なくワインセラーから目的のワインを見つけて、キッチンにおいてあったソムリエナイフを手にし戻ってきた。
「これか?」
「ああ……。私が、抜栓する」
 御堂の言葉に克哉は僅かに目を見張ったが、すぐに首を振った。
「要らない。俺がやる。あんたはそこで待っていろ」
 それはそうだろう。御堂のことを信用していないのだ。だが、そこまで織り込み済みだ。
 ダイニングテーブルで、克哉は御堂に背を向けながら、キャップのシールをはがし、抜栓のためにコルクにスクリューを突き刺した。
 そのグレートヴィンテージは30年以上寝かされた古酒だ。その年数はコルクを劣化させ脆くする。
 克哉の小さな舌打ちが聞こえた。
 案の定、克哉の未熟な技術ではこのコルクの抜栓に苦戦しているようだ。コルクを崩したか割ったか、したのだろう。
 だが、プライドの高い克哉は、御堂の申し出を断った以上、意地でも自分でやり遂げようとするはずだ。
 御堂は音を立てぬよう、そろり、と静かに立ち上がった。呼吸の音も殺す。激しく高鳴りだした心臓の音も、出来ることなら止めてしまいたい。
 焦りつつも気付かれぬよう、摺り足で出来るだけ距離を詰める。
 克哉はワインに向かったまま抜栓しようと集中しているようで、御堂の方に気を向けることもない。
 筋肉が萎えた手足が悲鳴を上げる。身体の震えを気力で鎮め、ギリギリのところまで距離を詰める。
「…ん?」
 その微かな気配に克哉が振り向いた瞬間、全身をばねのように使って克哉に勢いよく体当たりした。
「ぐっ」
 不意打ちをくらい、克哉が前のめりに倒れる。
 ごっ、とテーブルの角に克哉の頭がぶつかる鈍い音が立った。
 克哉の両目が見開かれ、御堂を視界におさめる。
 何か口を開きかけたが、そのまま克哉の身体は糸が切れたように、コルクスクリューが刺さったままのワインを残して崩れ落ちていく。
 倒れゆく克哉を最後まで見届けることなく、身体を返して急かされるように玄関に向かって走った。
 全身の力を使い果たし、筋肉ががくがくと痙攣し、足元が覚束ない。
 玄関の扉までたどり着くと緊張の汗に塗れた両手で、滑りながら苦戦しつつもなんとか鍵を開け、チェーンに手をかけた。拘束された両手が震える。ドアチェーンを一刻も早く外そうという思いだけが空回りして、ガチャガチャと扉にチェーンがあたる耳障りな音が響く。
 カチャ。
 ドアチェーンが外れた。
 詰めていた息を吐いて、ドアノブに手をかけた。
 その時だった。
 身体の脇から伸びてきた手に自分の手の上からドアノブを押さえられた。
 その一瞬、外に向かっていた全身の感覚が急激に鋭くなり、そして、消失した。
 呼吸も止まり、自分の鼓動の音だけが打ち鳴らす鐘のように、大音量で頭の中に響く。
「あ……っ」
 行き場を失っていた肺の中の空気が零れ出て、声帯を微かに震わせた。その震えは全身に伝わり、徐々に大きくなっていく。
「どこへ、行くんですか?御堂さん?」
 すぐ背後からかけられたその声は、掠れて低く、静かだった。

(6)
極夜7

「どこへ、行くんですか?御堂さん?」
「離せっ」
 その声に弾かれたように、ありったけの力でドアノブを握りしめ、ドアをこじ開けようとした。
 シャツの襟足に手がかかり、ぐいと強い力で背後に引かれる。バランスを崩し、尻餅をつくように後ろに倒れ込んだ。
 それでも、手から離れてしまったドアノブを縋るように凝視する。
 人影が目の前に立ち、滑らかな動作で鍵をかけてチェーンを閉めた。
 その一挙手一投足がスローモーションのように目に映った。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
 克哉だ。
 どこまでも深く昏い眸でレンズの向こうから御堂を見下ろす。
 側頭部には、テーブルにぶつけた際に出血したのか、淡い色の髪に血がこびりついていた。
 その表情からはどんな感情も読み取れない。
 克哉を見上げながら、胸の奥底がどこまでも重く凍えていくのを感じた。
 一方で、眼が熱く焼けた。眦から溢れた涙が頬に筋を引いていく。
 その涙は、恐怖から来るものでも自己憐憫から来るものでもない。絶望から来るものだ。
 人は絶望に陥っても涙は流れる。
 そんな事実を、今頃になって知った。
 克哉が御堂の前にゆっくりと屈みこむ。
 目の前には凄絶な狂気が潜む、克哉の顔。
 何の表情を映さないその顔は、底知れぬ恐怖を御堂にもたらす。眼鏡の奥の眼が剣呑な光をぎらつかせて、御堂の顔をひたと見詰めていた。
 克哉の手が耳元に伸びた。その感触に、傍目からでも分かるほどびくりと身体が慄いた。
 その手は御堂の後頭部の髪を梳き、項に這わされる。
 色素の薄い虹彩がぐっと近づいた。
「俺はお前の持てるものを全て奪い、代わりにお前が求めるだけの快楽を与え、苦痛を与えた。それでもお前は俺の下に堕ちてこないし、俺から逃げようとする。お前に足りないものはなんだ?恐怖か?絶望か?」
「佐伯…お願いだ。もう、私を解放してくれ」
 からからに乾ききった口から出るその声は震えて小さい。
「残念だな。…これがお前の返事か」
「…こんなことは、間違っている」
 克哉が押し黙った。その眼が細められ、一層凍えた光を湛える。
 すっと克哉が立ち上った。
「ああ。俺は間違っていた。今までのやり方は生ぬるかったんだな。まだ全然足りてないんだ、あんたに対する仕置きが」
 克哉の右手が強く握りしめられた。
――殴られる…っ!
 瞬間、息を呑んで身を強張らせたが、克哉はぎゅっと握りしめた拳を振り上げることなく、握りしめ続けた。
 どう甚振ろうかと御堂を見下ろしながら吟味しているようであり、自分の凶暴な怒りをギリギリのところで押しとどめているようでもあった。そして、その決断が下される時を御堂は恐怖に震えながら身を竦め続けた。
 克哉の口角が残忍な笑みを刻む。その右手の指が一本ずつ開かれると、自らのベルトに向かった。衣擦れの音と共に、ベルトが外され一筋の鞭となった。
 克哉はベルトを握り直すと、試し振りとばかりに手を一閃させた。ヒュン、とベルトが撓り宙を舞い、床板を打ち鳴らす。
 御堂は床にうつ伏せになり、身体を丸くした。不自由な腕で頭をかばう。頭と内臓を守る姿勢だ。誰から学んだわけでもなく、原始的な本能に指示された防御の体勢だ。
 ヒュン。空気を切り裂き、背中を斜めに走る一筋の鮮烈な痛みが走る。
「ぐっ!」
 身体に叩き付けられる速度も質量も範囲も、乗馬鞭とは比べ物にならないほど強烈だ。
 悲鳴を押し殺そうとしたが、衝撃に肺から漏れた空気が喉を鳴らした。
「ほら啼けよ」
 再びベルトが撓る。
「うあっ!」
「お前の悲鳴を聞かせろ」
「いっ!」
 頭をかばっていた両腕に鞭が刻み付けられる。
 今までは嗜虐を満たすためだけの暴力だった。だが、今回はそれに克哉の怒りが上乗せされている。
 はあ、はあ、と痛みを逃そうとする大きな呼吸が反響する。
 そのまま数回鞭が振り下ろされた。次から次へと激痛が走る。何回目かの鞭が身体を叩きつけた時、シャツが破れて灼熱の衝撃が背中にさく裂した。皮膚が裂け、目の前に火花が散る。
「あああっ!!」
 痛みと恐怖に心臓が爆発しそうになる。克哉の鞭が止まった。
「――っ」
 肩を鷲掴みにされ、強い力で身体を仰向けに返される。
 克哉は自分のファスナーを下ろし、自身の性器を取り出した。そのまま御堂に覆いかぶさる。
 自分に起ころうとしていることが分かり、克哉の身体を押し退けようと縛られたままの両手を突っ張った。が、その抵抗もものともされずに、剥きだしの下肢を開かれ、身体を二つ折りにされる。そして克哉は自分のペニスを御堂の後孔に押し当てた。力任せにねじ込まれる。
「あ、う――っ」
 数時間前まで器具を埋め込まれていたとはいえ、準備もなしに無理矢理押し開かれる衝撃に、涙を流しながら呻き声を上げた。
 克哉は御堂の腰をきつく掴んで固定し、最奥をずくずくと突いてくる。激しく揺さぶられて、苦痛に喘ぐ。
「お前の身体はどんな時でも俺を受け入れ、乱れて善がる」
「いや、だ…っ。やめっ…」
 克哉に手酷く犯され、屈辱に塗れながらも、自分の粘膜は淫らにひくついて快楽を探し出す。克哉に掴まれた御堂の性器は芯を持って勃ち上っていた。克哉に扱かれて、ビクンと脈打つ。
「それなのに、どうしてお前は俺を受け容れようとしない?どうして俺から逃げようとする?」
「ぅ、さ…えきっ」
 叩きつけるような大きな律動。両脚をぐいと持ち上げられ、克哉の肩にかけられる。体重をかけられ、挿入を深める。腰が上がり、身体を深く折られて骨が軋む。鞭に打たれた背中が押し付けられて焼けつく一方で、身体の奥深くを穿たれ捏ねられる刺激は電流のように背筋を走り、痛みと混ざり合い官能に昇華されていく。
 克哉の両手が御堂の首に伸びた。首に両手を回されその親指が喉仏の前で交差する。首を絞められるかもしれない恐怖に全身が戦慄き、同時に深く中を抉られペニスから白濁した粘液を散らした。恐怖が快楽をより深め、その余韻にがくがくと身体を震わせる。克哉は深い律動で最奥に突き挿れ熱い体液を注ぎ込んだ。
「ぁああっ!」
「…首輪が必要だ。あんたが俺から逃げることを考えたりしないために」
 克哉の親指が御堂の喉仏を緩く撫でまわす。快楽に浮かされていた身体の芯が凍えていく。


「御堂さん、栓を抜くのは諦めました。仕方ないのでワインの中に栓を落としましたよ」
 克哉がワインの瓶を片手にダイニングテーブルに戻ってくる。
 ダイニングテーブルの上には御堂が括られていた。
 両手は頭上に縛り上げられ、テーブルの脚に繋がれている。両の脚はそれぞれ折り曲げる拘束具を付けられて、膝裏に縄を通され、その縄はテーブルの脚にそれぞれ固定され足を閉じることを許さない。先ほど打たれた背中の傷跡が、固いテーブルに押されて熱と痛みを産む。
 股間も含め全身をさらけ出すように、テーブルの上に磔にされる。それはまるで、克哉に供された料理のようだ。このままどうなるのだろう。御堂は不規則に呼吸を乱しながら、ともすれば恐怖に震え出す身体を気力で必死に抑えていた。
 克哉が御堂の頭側に立って顔を覗き込む。見えるようにワイン瓶を掲げた。
「このワイン、コルクの屑が中に入ってしまって。俺は飲む気が失せましたが、御堂さんはどうします?」
 柔らかな口調で問われるが、口を開けば悲鳴を上げてしまいそうで、口を閉じたまま首を振った。
 克哉が目を眇めて、御堂の顎を掴んだ。力を込められ、口を開かされる。
「ぅあっ」
「遠慮するなよ。高いワインなんだろう?」
 克哉が頭上でワイン瓶を傾け、口の中にワインを注がれる。ワインに溺れ、激しく噎せながらワインを吐き出した。アルコールまじりの強い果実臭が顔を浸す。
 克哉の手が外れ、顔を横に向けて身体を痙攣させながら咳き込む。口から唾液まじりのワインが伝っていく。
「美味しいですか?御堂さん」
「ぅっ、はっ」
 息ができない苦しさに次から次へと涙が溢れる。
「もったいないな。ほとんど吐き出して」
 タオルで顔と零れたワインを拭われた。
「まだ飲むか?それとも、俺に赦しを請うか?」
 またも克哉は残酷な二択を突きつける。どちらを選んでも、果てしないゲームは終わらない。
 克哉と出会ってから3カ月。その短い期間に、ありとあらゆるものを奪われて、壊されて、貶められて。唯一残された自分自身を形作る心も克哉は明け渡せと容赦なく迫ってくる。
 苦しい。

 助けてほしい。

 苦しい。
 救ってほしかった。答えのない問いを考え続ける孤独から。快楽と苦痛に浮かされるこの身体から。恐怖と絶望しか与えないこの世界から。
 それは、克哉に屈することで望みが叶うのだろうか。
 その答えはすぐに降りてきた。
 否。
 この世界で、自分を救えるのは自分だけだ。せめて、最後まで自分自身に正直でありたい。
 新しい涙を零す。
 完璧だった過去と崩れ落ちゆく現在と閉ざされた未来に別れを告げる。

 静かな諦めとともに覚悟を決めた。
 散り散りになった意地を掻き集めて振り絞る。
 克哉を睨み付け、その視線を撥ね退ける。大きく息を吸った。
「こんなことを続けても、私はお前に屈したりしない。……私を殺したければ殺せばいい。でなければ私がお前を殺す」
 克哉の顔が歪み、見たこともない苦渋を滲ませた。
 その拳が御堂の頭の脇のテーブルに叩きつけられる。大きな音と鈍い振動に身体が竦んで心臓が跳ねた。
 衝撃からして、克哉の拳も痛めたはずだ。
 克哉は俯いたまま黙って自分の拳を見つめ続けていた。ぜいぜいという御堂の荒い息遣いが不規則に沈黙を途切れさせている。
 克哉が顔を上げた。唸るような声が漏れる。
「……俺はあんたを殺したりしない。あんたをどこにも逃がすものか」
 その克哉の言葉に底知れぬ狂気がみえた。
 この男はどこまでも御堂を逃す気はないのだ。死ぬことすら許さない。
 自ら、御堂を選んだ理由はない、と言っておきながら、なぜ、そこまで執着するのだろう。御堂を手に入れたところで、その先に得るものなど何もないのに。理由も目的もないまま、克哉の頑なな狂気は全て御堂に向けられているのだ。
 振り積もる恐怖と絶望が心を侵していく。
「ああ、そうだ…」
 克哉は熱に浮かれたような口調と眼差しで呟くと身体を返し、少しして戻ってきた。
 克哉が手にしているものをみて、息を呑む。グロテスクなバイブだ。普段挿れられているものより一回り大きく、凸凹した突起に覆われている。そして、根元からコードが垂れていた。克哉は一転してにこやかな笑みを浮かべてみせた。
「そろそろ、いつものに飽きただろうと思って用意したんですよ。今まで、途中で電池が切れていたでしょう?これなら直接電源を取ることが出来る」
 御堂の目の前でその形と大きさを見せつける。それを自分の中に挿れられるのかと思うと、冷たい汗が噴き出る。
 克哉が御堂の足側にまわった。コポコポとワイン瓶が傾けられる音がする。そのバイブにワインをかけてたっぷりと濡らしているようだ。
「淫乱な御堂さんのために、ワインと一緒に愉しめるようにしてあげますよ」
「ぐうっ」
 双丘の狭間に濡れそぼった冷たく硬いものが力ずくで押し込まれていく。
 腰をずり上げて逃げを打とうとするが、テーブルの上にきつく拘束されてそれもかなわない。
「ううっ……あっ、は」
 ずぶずぶと体内を異物が犯していく。粘膜に触れたところから、ワインのアルコールで灼かれ、熱さと疼きが生じていく。深々とバイブを埋め込まれた時には、身体全体がアルコールで紅潮し、熱を持っていた。
「ふっ…ぁ、」
「よさそうだな。ワインとバイブを合わせると、そんなに旨いか?」
 乾いた嗤い声。克哉がバイブのコードを繋げるとスイッチを入れた。耳障りな振動音とともに、凶悪な塊が体内で暴れ出す。
「あ、ああっ!うぁっ!」
「好きなだけ、愉しめばいい。それじゃあ、御堂さん、おやすみなさい」
「佐、伯…っ、さえっ」
 克哉が踵を返す。かちり、と照明が消された。暗闇に、沈む。

「ぅ……あ、佐…伯っ」
 アルコールで炙られた体内をバイブがこね回す。
 苦痛と快楽が掻きまわされて、頭と身体の芯が陶然とする。苦しいのか気持ちいのか混然として分からないが、自分の身体はさもしくも快楽を見つけ出して、悦んでいるのだろう。
 何度目か分からない絶頂に四肢を突っ張らせた。
 バイブが動き続ける間は意識を失うことも出来ない。
 思考が混濁して、うわ言のように克哉の名前を呼び、劣情に喘いだ。
 目と口から透明な体液が溢れ続ける。
 何故、克哉は御堂を選んだのだろう。何故、克哉は御堂を嬲るのだろう。その目的は何なのだろう。
 克哉なりの理由と目的があるのだと思っていた。きっとあるはずだと問い続けていた。
 解がないことが解だと知ってしまった今、これからどうやって自分を守ればいいのだろう。
 涙で揺れて滲む視界。動かすことのできない身体の代わりに、眸を彷徨わせて逃げ場を探せば、部屋の暗闇の向こう側に闇が在った。
 快楽の波に揉まれながら、闇に視線を向けた。闇もまたひたと御堂を見詰めていた。

 カーテンの隙間から光が突き抜けて、暗闇が切り裂かれる。
 朝が来た、と分かったが、何の感慨も湧かなかった。
 ダイニングテーブルの上で一晩中、絶え間ない絶頂に身体をひくつかせながら、喘ぎとも呻きとも声を上げ続け、身体も心も疲弊の極地にあった。
 人影がダイニングを横切り、窓辺に向かう。カーテンを開け放った。朝の柔らかい光が室内に満たされる。
「今日もいい天気ですね」
 爽やかな笑顔と共に克哉は御堂の方を振り向き歩みを寄せた。
「おはようございます。御堂さん。随分と愉しんだようで」
 顔は涙と涎で、下半身は自分が放った精液と体液でぐしょぐしょに濡れていた。
「ああ、また唇に傷がつきましたね。口枷を付けるのを忘れていました。すみません。以後気を付けます」
「ぅ……っ」
 優しい声音で御堂に話しかけながら克哉は動き続けるバイブをずるりと引き抜いた。緩みきり麻痺した粘膜が外気に触れて、その感触に小さな呻き声をあげ、手足を引き攣らせると再び果てた。
 克哉はタオルをお湯で絞ると、御堂の顔と下半身を清拭していく。その手つきは丁寧だ。
「今日、あなたのための首輪を買ってきますよ。鎖と南京錠も」
 力なく首を振った。
「あなたに首輪をつけて、錠をかけて、その鍵は捨ててしまうか。そして、鎖で部屋に一日中繋いでおこう」
 克哉の指先が御堂の首をつうとなぞる。
「そうすれば、これからも仲良くこの部屋で一緒に過ごせますね」
 克哉は満面の笑みを浮かべて嬉しそうに言う。
 本当に克哉は喜んでいるのだろうか。
 何故、御堂を選んだのか、そこに明確な理由もなく、求むべき到達点もないというのに。
 鼓膜も網膜も虫食いのように穴が開いているようだ。
 克哉の姿も克哉の声も途切れ途切れで霞んでいる。
 浸食は感覚器だけでなく自分という殻にも及んだようだ。
 自分と世界の境界線が曖昧になる。その殻の脆くなった部分からから、自分というものが染みだして、周りの世界に流れ込んでいく。そして、制御を失った身体と意識の残骸だけが残される。
 力なく横たわったままでいると、拘束を外され抱え起こされる。水分を取らされたあと抱き上げられた。
 手足の感覚がなく、克哉に抱きかかえられた身体は既に自分のものではないようだ。
 身体の揺れに合わせて、ゆらりゆらりと、意識が揺蕩う。
 どさり、と床に降ろされた。
 事務的な手つきで、手際よく、腕を括られ、繋がれ、足を開かされ、固定される。この体勢に身体は馴染んでしまっているようで、されるがままに克哉に身を委ねる。
 双丘を開かれ、再びバイブを埋め込まれた。スイッチが入れられると、すぐに性器が頭をもたげる。十分な質量を持ったところで、革のベルトで根元から戒められた。
 俯いたままの顔を掬われ、交差した親指と人差し指で口をこじ開けられる。ギャグを口の奥に押し込まれた。
 その克哉の手慣れた所作を他人事のように虚ろな眼差しで眺める。
 克哉が自分に向かって、何か言っている。多分、いい子にしていろ、とか、粗相するなよ、とかその類の言葉だろう。
 また、一人、この部屋に取り残されるのか。たった独りで、克哉を待ち続けなくてはいけないのか。
 俯いたまま薄目を開けると、足元に大きな闇がぽっかりと口を開いていた。
 身体も心も、音も光も時間も熱も、全てを喰らい尽す闇がそこにあった。
 闇が、空っぽになった御堂の中にじわじわと浸潤してくる。つま先から這い上がり、首元まで。真綿で首を締められる様な恐怖が衝き上げてくる。
 涙にぬれた眸を上げた。克哉が今まさに部屋を出ていこうとしていた。
 その背中に向かって叫んだ。
――佐伯っ。たすけて……っ。
 だが、その言葉はギャグに吸い取られ、不明瞭な呻きとしかならなかった。
 玄関のドアが開き、鍵がかかる音がした。

 そして、深い闇に身体の裡から包み込まれる。

 そこは、とても、暗く、静かだ。

(7)
極夜 epilogue

  ここは、何もないところで、そこに在るのは私一人だけだった。
  考えることを止め、浅ましい身体を捨て、全てを諦めたときにここに辿りついた。
  この孤独も、この苦しさも、私を浸す闇と同化してしまえば、きっと消えてなくなるのだろう。
  それでも、何故、涙が零れるのだろう。

  何故、助けを求めようとするのだろう。
  私は、まだ、この世界に未練があるというのだろうか。
  この世界が私に対してどれほど無関心で冷淡であったか、身をもって味わったではないか。
  だが、勘違いするな。この世界が私を見捨てたのではない。

  私がこの世界を見限ったのだ。
  どこか遠いところから、微かな気配が伝わる。
「御堂……!」
  ああ、お前か。
  お前も、もう、放っておいてくれないか。
  この涙も、この言葉も、私の与り知らない所で溢れてきた塵芥に過ぎないものなのだから。
「俺が欲しかったのはこんなあんたの顔じゃない……」
  温もりも囁きもいらない。
「すまなかった……」
  あと、もう少しで私は無くなるのだから。その後の抜け殻はお前の好きにすればいい。
「……あんたのことが好きだって、気づけばよかった」
  ――?
  好き?
  ああ、そうか。
  それが、お前の理由の全てだったのか。
  そうか、そうだったのか。
  一閃の強い光が私の心と体を貫いていく。

  その光はとても、眩く、暖かい。
  だが、今更、答えなんて欲しくなかった。
  ほら、闇が遠のいていく。

  私独りを残して。
「さよなら……」
  そして、お前も私を置き去りにして行ってしまうのか。
  目を開いても何も見えない。
  耳を澄ましても何も聞こえない。
  全ての感覚を凝らしても何も感じない。
  今や私を取り巻くものは、闇でもなく、光でもなく、虚無だけだ。
  足りない。全然足りない。永い夜が明けるためには、これでは足りないんだ。
  ……光を。
  もっと、光を!

(8)
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