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​楽園の在処
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鬼畜眼鏡FD、ハピエン後の時間軸です。

​-あらすじ-

ハピエン後。
公私ともに順風満帆に過ごしていたふたりだが、御堂の頭の中に血腫が見つかる。手術で血腫を取り除いたのを契機に、克哉に対するかつての恐怖が蘇り、代わりに愛する気持ちを失ってしまい……。

CP:眼鏡克哉×御堂

prologue ーかつて
Pro

 タワーマンションの上層階のリビングルームは広く、センスの良いインテリアが配置されていた。壁一面の窓からは燦然と輝く東京の夜景が一望できて、勝ち組の上質な暮らしをそのまま体現したかのような部屋だ。
 そんなホテルかモデルルームかと見紛うような美しい部屋で、佐伯克哉は部屋の主を床に組み敷いていた。

「離せ……っ!」

 

 形の良い眉が歪み、深く折りたたまれた二重の眸が見開かれる。馬乗りになった克哉を振りほどこう殴りかかるが、その両手を掴み床に縫い付けた。

 

「暴れたら危ないじゃないですか」

 

 克哉は唇を笑みの形に吊り上げながら、真上から部屋の主である御堂孝典の顔を覗き込む。嗜虐の光を宿した双眸に射竦められて、御堂の瞳孔が拓ききった。
 この日、克哉は仕事が終わるとそのまま御堂の部屋にやって来た。合鍵を持っている克哉は御堂の部屋に我が物顔で出入りできた。だが、せっかく足を運んだにもかかわらず御堂は不在で、御堂が帰ってくるまで随分と待たされたのだ。
 ようやく帰ってきた御堂は、リビングの電気を点けるなり夜景を背景に佇む克哉を見つけて、ぎくりと身体を強張らせた。咄嗟に逃げようとする御堂を引き倒して腹の上に馬乗りになって動きを封じる。

 

「よせっ! 佐伯、やめないか……っ!」

 

 御堂の両手首をまとめて押さえつけながら、御堂のネクタイを解いた。御堂のワイシャツのボタンを器用に片手で外していくと、白く滑らかな肌が露わになる。その一方で御堂の顔がわかりやすく紅潮した。

 

「散々俺を待たせたんですから、その分たっぷりともてなしてもらわないと」
「な……、勝手に私の部屋に上がり込んで、何様のつもりだ……っ! この下衆め!」

 

 御堂が口汚く罵声を浴びせかける。それを右から左に聞き流しながらシャツを剥ぎ取り、ベルトを外そうと腰を浮かせたときだった。御堂が渾身の力で身体を跳ねさせて克哉を振り落とした。

 

「っ……」

 

 克哉はバランスを崩して床に身体を打ちつける。御堂は素早く立ち上がり、克哉から距離を取った。

 

「まったく、往生際が悪い」
「私に近付くなっ!」

 

 克哉は悠然と立ち上がり、御堂に一歩近付いたところで鋭い声で牽制される。御堂は克哉に背を向けるとリビングから飛び出した。
 脱がされかけた服は乱れ、前ははだけている。外面を気にする御堂がそんな格好で家の外に逃げるはずがなかった。どれほど酷い目に遭ってもいまだに体面を保とうとする御堂をせせら笑いながら、克哉はゆっくりと追いかける。

 

「どこに逃げる気なんですか、御堂さん?」
「く、来るなっ!」

 

 案の定、御堂は目の前にある玄関には向かわず、バスルームへと逃げ込んだ。予想どおりの展開ではあったが、鍵をかけられたら面倒だった。克哉はその前に御堂を捕えようと咄嗟に足を踏み出すが、ちょうど焦った御堂が脱衣所のドアを閉めるところだった。寸前にドアノブを掴んだ。
 閉じかけたドアを力任せに引っ張る。その勢いと反動で御堂が背後に弾かれた。

 

「ッ――、ぁあっ」
「御堂!」

 

 ゴッと鈍い音が立った。
 後ろによろめいた御堂が体勢を崩し、大理石の洗面台の縁にしたたかに頭を打ったのだ。克哉の目が驚きに見開かれる。
 咄嗟に手を伸ばしたが、その手を掠めるようにして、御堂の身体が尻もちを付くようにしてずるずると崩れ落ちる。

 

「おい……っ」

 

 洗面台に背をもたれかかるようにして項垂れた御堂は克哉が声をかけてもピクリとも動かない。嫌な汗が克哉の背中を伝い落ちていった。
 どうすればいいのか。
 頭をぶつけたら下手に動かさない方が良いのではなかったか。
 肩を揺さぶって起こしたい衝動を殺して、御堂の顔を覗き込む。御堂の目は閉じられてピクリとも動かない。意識を失っているようだ。救急車を呼ぶべきか。だが、どう状況を説明する?
 いままでにない焦りを感じながら思考を目まぐるしく回転させたところで、御堂がうめき声を上げた。

 

「ぅう……」

 

 衝撃を振り払うように頭を二三度軽く振って、目をうっすらと開ける。その反応に安堵の吐息を漏らしたが、御堂の瞳孔が克哉を捉えた瞬間、御堂の身体が一気に強張った。肩に触れていた克哉の手を鋭く振り払われる。御堂が克哉を射殺さんばかりに睨み付けて、吐き捨てた。

 

「触るなっ! この…下衆がっ!」

 

 心が冷え冷えと凍えていく。先ほどまでの不安と焦りは嗜虐的な衝動に取って変わられた。

 

「そういう態度ならこちらにも考えがある」

 

 今夜はどれほどの屈辱を味わわせてやろうか。怒りと恐怖で顔色を無くす御堂を前に克哉は酷薄に笑った。

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「足りない。こんなものでは不十分だ」

 

 克哉が放ったひと言にミーティングルームの空気が張り詰める。真夏の暑さをものともせず冷房がしっかり効いた室内だったが、室温が一気に氷点下まだ下がったようだ。克哉は藤田から提出されたレポートを数枚目を通したところで、興味をなくしたかのようにレポートを閉じて藤田に突き返した。

 克哉の視線の先にいる藤田は表情を固くする。

 

「市場分析が足らないし、誰が結論ありきの未来予測をしろと言った。必要なのは、どんな未来を描きたいかだ。だから問題点を見誤る。プランニング以前の問題だ。前提から間違っているものはどれほど説得力のある理論を積み重ねても所詮は砂上の楼閣だ。読むに値しない」

 

 克哉の隣に座る御堂は黙ったまま、藤田が提出したレポートを具(つぶさ)に確認している。だが口を出さないところを見ると克哉と同意見なのだろう。克哉は冷たく言い放つ。

 

「もう一度出し直せ」

「……はい」

 

 藤田は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わぬまま口を引き結び、克哉から突き返されたレポートを手に頭を下げた。克哉が追い打ちをかけるように言う。

 

「三日だ。三日で問題点を抽出し直してこい」

「三日、ですか」

「ああ。三日でできないものはそれ以上時間かけても無駄だ。できないようなら他の者を担当に据える」

「わかりました。三日以内に提出し直します」

 

 藤田は厳しい表情を崩さずに克哉に一礼すると踵を返してミーティングルームを出ていった。その後ろ姿を克哉はちらりと見遣る。藤田はきっと寝る間も惜しんで死に物狂いでレポートを提出し直すのだろう。

 パタンとミーティングルームのドアが閉まると、御堂が黒目を克哉に向ける。

 

「佐伯、いまの言い方はきつかったぞ」

「そうか? 藤田はもう一人前のコンサルタントだ。だが、並のコンサルタントならこの社にはいらない。誰もができるようなプランニングなら俺たちが存在する意義はない」

 

 藤田が出したレポートは正直に言えば悪くなかった。現状の問題点と提案が簡潔にわかりやすくまとめられていて、着眼点も良かった。及第点はクリアしている。だが、それで克哉が満足するかというと話は別だ。

 AA社は企業相手の経営コンサルティングを生業(なりわい)にしている。起業して一年半。飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進を続けているのはAA社がクライアントが期待する以上の成果を出してきたからだ。この社がこれからも勢いを保つためには、果敢に挑み続けなければいけない。目指すのは誰をもあっと思わせる限界のその先だ。そのために必要なのは未来を予測するのではなく、自分が期待する未来を描くプランニングだ。だからこそ、完璧な現状把握と徹底した市場分析、そして適格な問題提起に一切の妥協は許さない。御堂は静かにうなずきつつ言う。

 

「……問題を正しく定義することは問題を解くことと同じくらい重要だ。君の言葉は間違っていない」

 

 アインシュタインの言葉を引用して御堂は克哉を肯定しつつも、席から立ち上がると深閑な眼差しを向ける。

 

「しかし、突き放すだけでは後進が育たない。君のやり方だと若手が萎縮する。後進育成も大事な仕事のうちだ。私が藤田のフォローをしておく」

「……あなたには頭が上がりませんね」

 

 そう返せば、御堂はふ、と仄かに笑ってミーティングルームを出て行った。笑みひとつ、仕草ひとつとっても品格があって絵になる男だと部屋を出ていく御堂の背中を眺めた。言葉どおり、藤田についてやるのだろう。甘やかしすぎな気もするが、独断専行で突っ走る克哉と違い、御堂は社内全体を見渡し業務がスムーズに進行するよう舵取りをする能力に優れている。いくら克哉が優れた能力を発揮しようとも一人でできる業務量は限界がある。御堂がいなければいくら社員を増やしてもAA社は機能不全に陥っていただろう。

 御堂と克哉の意見が対立することはままあるが、御堂の言葉は頭ごなしに否定することができない重みがあった。かつての克哉は親会社の部長であった御堂を理路整然と言い負かすことができたが、いまの御堂はあの頃よりもビジネスマンとして一皮も二皮も剝けている。エリート然とした驕(おご)りを捨てて、多角的な視点から物事を見るようになっている。それが御堂の思考と判断にキレと深みを与えていた。コンサルタントとしてだけでなく経営者としての手腕もずば抜けて、エグゼクティブとしての風格も板に付いている。異性同性を問わず目を惹くような整った容貌と毅然たる態度で、AA社を初めて訪れる者は、克哉ではなく御堂を社長だと勘違いするくらいだ。

 御堂に再会するまで、克哉は一人でAA社を起業し経営するつもりだった。克哉一人でも十分に勝算はあった。むしろ、他の人間は足手まといにしかならないとしか思っていなかった。しかし、こうして御堂と共同経営者(パートナー)として共に働いてみたら、自分一人で事足りると考えていた克哉こそ驕(おご)りに満ちていたのだと気付かされた。

 片目だけでも多くのものが見える。だが片方の目だけでは奥行きがわからない。克哉と御堂が揃うことで初めて見えてくるものがあるのだ。互いに足りないものを補い合い、支え合うことでAA社は飛躍的に業績を伸ばしている。その勢いはとどまるところを知らないだろう。克哉が口にした『世界を手に入れる』という言葉も現実味を帯びてきている。そしてそんな頼れるパートナーである御堂こそ、共に暮らす克哉の恋人でもあるのだ。

 

「しかし、これではな……」

 

 ミーティングルームにひとり残された克哉はため息を吐く。

 御堂と同じ屋根の下で寝起きをし、同じビル内の職場で働き、二十四時間一緒にいるといっても過言ではないのに、ここ最近はふたりの時間を取れないのが悩みの種だった。今日だって出勤して以降、御堂とまともな会話を交わせたのは数えるほどしかなかった。互いに別々の案件を抱える身だ。御堂が別のミーティングに出ている間に克哉は現地視察に赴く。夜は夜で関係者や取引先との会食やパーティーに招かれたりして、ゆっくりと休憩を取る暇もない。激務が続いていることはわかっているのに、互いにワーカーホリックときているから意地でも音を上げない。そのせいで、なかなかスケジュールの調整に踏み切れないのだ。

 どこかでまとまった休暇を取れないか。

 そう考えては見るものの、この時期は社員が夏休みを取るので慢性的な人手不足が続くのでしばらくは休みをとれそうになく、克哉は小さくため息を吐いた。

 

 

 この日、克哉が夜遅く出先から直帰してきたところで、リビングのソファで難しい顔をしてこめかみに手を当てている御堂を見つけた。御堂も帰宅したばかりなのだろう。かろうじてジャケットは脱いでいるもののネクタイはまだ結ばれたままだ。

 克哉は夏の熱気が籠もったジャケットを脱いでネクタイの結び目に指を入れて緩めながら、御堂に気遣わしげな視線を向けた。

 

「どうした御堂?」

「少し、頭痛がして」

「そう言えば昨日も同じことを言っていたな。医者に診てもらったほうがいいんじゃないか」

「いや、大丈夫だ。鎮痛剤も飲んだから、少しすれば治まる」

 

 センターテーブルには、グラスに注がれた水と空になった薬のシートが置かれている。薬を飲んだ直後なのだろう。昨日は会議後に頭痛で鎮痛薬を飲んでいる姿を目にしていた。最近その頻度が上がっているようにも思える。やはり、仕事の負荷がかかりすぎているのではないだろうか。

 

「ストレスか? 最近仕事が立て込んでいるしな。少し調整するか」

「独断専行に走る社長といい、頭痛の種がいっぱい転がっているからな。私のことは問題ない。すぐに治まる」

 

 真面目な口調で言ってはみたものの御堂は茶化すように言って話を逸らした。克哉は心中でため息を吐く。御堂のプライドの高さは熟知している。御堂は決して弱音を吐かない。だから、克哉が気遣って仕事を減らそうかと訊いたところで了承するわけがないのだ。むしろ、下手に気を遣えば余計なことはするなと怒られるだろう。御堂に気付かれないようにさりげなく仕事の調整をするしかない。そんなことを考えながら、克哉は深く追わずに話題を変える。

 

「食事は食べたのか?」

「ああ。君は?」

「打ち合わせついでにちゃんと食べたさ。その後のクラブでの接待も誘われたが断った」

「君はそういった店には興味なさそうだな」

「家であなたと一緒に過ごした方がよほど楽しいからな」

「そうは言っても付き合いも仕事の一環だぞ。あまり不義理を重ねるなよ」

「だから会食は付き合ったんだ。本当はあなたと食事をしたかったのに」

「わかった、わかった。お疲れさま」

 

 やんわり忠告しながらも御堂はくすりと笑って克哉を労る。先ほどよりも幾分和らいだ表情は、頭痛薬が効いてきたのだろう。

 克哉は御堂の横に腰を下ろすと御堂の顔を覗き込んだ。筆でさっと描かれたような形の良い眉、深く折りたたまれた二重の眸に顔の真ん中をまっすぐに通る鼻筋、ほんのわずかに開かれた唇はグラスの水で濡れている。鮮やかに整った顔立ちはいくら見ても見飽きることはない。

 

「頭痛は大丈夫か?」

「ああ、もう大丈夫だ。心配かけたな」

「今日は無理をしないほうがいいな」

 

 そう言いながら克哉は御堂のネクタイを解き、シャツのボタンを襟元からひとつずつ外していく。

 

「何をする」

「着替えさせてあげますよ」

「着替えくらい自分でできる」

 

 御堂は顔をしかめながらも本気で嫌がっている素振りはなく、克哉の好きにさせてくれている。ズボンからシャツの裾を引き抜いて、ボタンを全部外したところで、克哉の首に御堂の腕が絡み、ぐっと引き寄せられて唇が重なった。

 くちゅり、と湿った音が合わさったふたりの唇の中で響く。唇の角度を変えながらキスを深めつつ、御堂の肌をまさぐった。キスに夢中になる御堂からは「ん……」と鼻から抜けるような甘い声が漏れる。舌を絡め合い、お互いの唾液を混ざり合わせる。胸の突起を指先で転がし、締まった腹筋の輪郭を撫でる。触れたところからじわりと肌が熱を持ち、間近で克哉を見詰める御堂の眸が濡れそぼったように煌めいた。頑(かたく)なな身体が自分の手によって解けて昂ぶっていく様はいつも克哉を興奮させる。

 手を伸ばして御堂のスラックスへと触れた。布越しに触れる勃起は張り詰めていて窮屈そうに収まっている。手際よく御堂のベルトを外してファスナーを下ろし、下着から解放してやるとぶるんと弾んで出たそれを手のひらでくるんだ。

 

「―――っ、ぁ」

 

 根元から擦りあげ、段差を指の輪で弾き、鈴口を指の腹でくすぐる。的確な愛撫に先端からはぬめる液が克哉の手を濡らした。克哉は自分の昂ぶりを御堂の大腿に押し付けながら御堂の発情を促していると、御堂が克哉から顔を離して息を乱しながら言う。

 

「佐伯、シャワーを浴びたい……」

「わかった。一回ヤったらな」

「全然わかってないだろ…っ」

 

 抗議の声を上げる御堂をソファに押し倒し、その勢いで御堂のズボンを下着ごと脱がした。広いリビングにある大きなソファは男二人が寝転べるほどの余裕がある。慌てた御堂に覆い被さり、乳首に舌を這わせながら御堂の勃起を手で愛撫し続けると次第に御堂の身体から力抜けていった。代わりに、発情が呼び起こされて御堂の唇の狭間から熱っぽい吐息が漏れる。御堂から物欲しげな眼差しを向けられたところで、克哉は御堂の身体を跨ぐようにして膝立ちになり、自分のシャツのボタンをひとつずつ外していった。御堂の視線を感じながら服を脱ぎ、ベルトを外して完全な形をしたペニスを掴み出す。

 克哉の猛った欲望を目にして、御堂はこくりと唾を呑んだ。どうやら観念したようだ。克哉は御堂の足の間に腰を差し込みペニスにペニスを擦りつける。張り出したエラが押し合いくびれに引っかかる感触を楽しみながら、性交のように卑猥に腰を動かしだした。とろりとした蜜が大量にあふれ出し、ぬちゅぬちゅと濡れた音が立つ。

 

「ぁ、……っ、あ」

 

 ふたりの先走りが混ざりあい御堂の先端の切れ込みから根元までぐっしょりと濡らした。互いの性器を擦りつけるだけのセックスの真似事でも御堂は甘ったるく喉を鳴らして、悩ましげに眉根を寄せる。ふたりのペニスを合わせて握り込みながら腰の動きを速くすると手の中の御堂のペニスがビクビクと脈うった。

 

「さ、え……きっ、も、イくっ」

 

 堪えられないっといったように御堂の手が克哉の肩を掴んでぐっと身体を引き寄せた。ぐうっと下腹が重なると同時に、御堂の身体がびくんと跳ねた。

 御堂の先端から熱が迸り、克哉のペニスに精液が浴びせかけられる。びゅくびゅくと精液を吐き出す御堂のペニスを自分のとまとめて扱き上げて、最後の一滴まで絞り出した。先走りと精液が御堂の会陰を伝い、尻の間(あわい)へと滴る。ぬれそぼる窄まりにぬめりをまとった指を潜らせた。

 

「――――ぁ」

 

 克哉の指を食い締めるように中が吸いついてくる。窮屈な内腔を歪(ゆが)め、拡げながら、快楽の在処を探り当てた。中の柔肉の具合を確かめるように抜き差しすると、絶頂の余韻が抜けきらない御堂は感じすぎて辛いようで苦しげな声を上げた。

 

「さえ…ぁ、あ……っ、んっ」

 

 指先に絡みつく粘膜が収斂(しゅうれん)して、御堂の絶頂が近いことを教えてくれる。御堂がふたたび達する前に引き抜くと、「ふ……っ」と切なげな声が上がった。

 

「じゃあ、次は俺の番だな」

 

 御堂の膝を折って、御堂の会陰部を晒す体勢にした。克哉の視線を感じたのが、御堂のアヌスが淫らな期待にヒクヒクと痙攣している。そこに御堂の精液でしとどに濡れたペニスを窄まりで押し付けた。ぐっと腰を入れると先端に圧がかかり、そしてゆっくりと御堂の中にめり込んでいく。御堂の一番奥深いところに触れようと腰を深く差し込んだ。御堂の熱と感触に包まれてひとつになる凄絶な快楽。御堂が苦しさに喉を反らす。

 

「は……っ、ぁ、あああっ」

 

 根元まで挿れた瞬間に持っていかれそうになって、克哉は下腹に力を入れてかろうじて堪(こら)える。

 御堂の身体の中心に自身を穿ち、それが馴染むのを待って、克哉はおもむろに抽送を始めた。御堂の弱いところを先端で小刻みに突き上げると、御堂はガクガクと身体を震わせながら克哉にしがみついてきた。大きく広がった両脚のつま先に力が入ってぴくぴくと戦慄いている。

 

「ひっ、ぁ……っ、あ、あ…」

 

 半開きの唇が喘ぎを漏らし、品格のある顔つきが淫らに崩れていく様がたまらなく良い。本能に唆されるまま御堂を犯す動きを大きくしていった。猛々しい動きの狭間に御堂の顔に顔を寄せてキスを促せば、御堂もまた克哉にしがみつくようにして唇を重ねてくる。荒らげた呼吸の狭間で舌を絡めて唾液を混ぜ合わせた。

 互いを貪る動きに翻弄されながらも、御堂が喘ぎながら唇を動かす。

 

「佐伯……、っ、もっと……っ、ぁ、ふ」

 

 御堂にせがまれて、求められて、頭の芯が熱く痺れた。

 

「孝典さん、あいしてる」

 

 きつく御堂を抱き締めながら、愛の告白をする。すると御堂が濡れた眼差しで克哉を見返した。

 

「私も……あいしてる」

 

 甘ったるい声が胸の奥底に響いた。それが最後のひと押しだった。ぐっと腰をぐっと差し込んで、これ以上なく深く繋がって絶頂に達した。御堂の中にありったけのものを注ぎ込んでいく。御堂もまた克哉の熱に引きずられるようにして全身で絶頂を迎える。

 

「克哉……っ、克哉っ」

 

 御堂が克哉の名を呼ぶ。絶頂の間際に克哉を呼ぶ声は切羽詰まった響きを帯びていて、克哉は御堂をひときわ強く抱き締めた。ぐっしょりと濡らされた御堂の中は最後の一滴まで搾り取ろうとするかのように、克哉に淫らに絡みついてくる。

 御堂と交わっている間は、一瞬一瞬の目も眩むような快楽にすべてを攫(さら)われそうになる。

 身体をひたりと重ね合わせて抱き締め合ったまま絶頂の余韻に浸る。

 こうして御堂と身体を重ねれば重ねるほどセックスは過程であってゴールではないのだと思い知らされる。悦楽を分かち合い、たとえようのない幸福を感じる一方で、御堂に対する飢餓はいっそう強くなり、もっと欲しくなる。いつまで経っても本当に満たされることはないのではないか、そんなそこはかとない不安な気持ちにさせられる。だから、何度も何度も求めてしまう。全身全霊で愛して、全身全霊で愛される。触れあうところすべてが発情に濡れて、この一瞬の幸福と快楽を分かち合った。

 まだ夜は始まったばかりだ。

 

 

 翌朝、携帯のアラームが鳴る直前に克哉は目を覚まし、隣で寝ている御堂を起こさぬように静かにベッドから抜け出した。

 熱いシャワーを浴びてしっかりと目を覚ますと、ズボンだけ穿いて濡れた髪を拭いつつキッチンへと向かう。コーヒーを淹れながら寝室にいる御堂の気配を探るが、まだ起きてこないようだ。ギリギリまで寝かせてやりたいが、朝の支度を考えるとそろそろ声をかけた方が良いかも知れない。朝食の準備をいったん中断し、寝室へと向かう。

 

「御堂、そろそろ起きるか?」

 

 と部屋を覗いたところで、ベッドサイドに腰を掛けている御堂を目にした。

 なんだもう起きているのかと、安堵しかけたところで異変に気付いた。御堂はベッドに腰を掛けたまま動く様子がない。克哉の声は聞こえているだろうが、うつむき加減で額に手を当てている様子はいかにも具合が悪そうだ。

 

「どうした? 大丈夫か?」

「ああ……。また頭痛がして」

 

 御堂は生返事と共に緩慢な動きで克哉を見上げる。御堂の額には脂汗が浮いていた。顔色も血の気を失っている。一見して不調が分かる顔だ。

 

「待っていろ。薬を持ってくる」

 

 キッチンに戻って水と常備している鎮痛薬を持ってくる。御堂はうっすらと目を開いて克哉から水と薬を受け取った。白い錠剤を口の中に放り込むとそれを水で流し込む。その様子を見守った。御堂の眉間には深い皺が刻まれ、厳しく引き結ばれた唇は御堂の体調の悪さを如実に示していた。その姿はいままでになく深刻そうに見えた。

 克哉は御堂からグラスを受け取って言った。

 

「病院に行くべきだ。今日の仕事は休みにしておく」

「いや、今日は倉山酒造との打ち合わせがある。頭痛も少しすれば治まるから」

 

 御堂はかぶりを振る。だがそう答える御堂の表情すら酷くつらそうで、これは尋常ではないと克哉は直感する。

 

「倉山酒造は俺が出席するから問題ない」

「しかし……」

 

 御堂は厳しい表情のまま考え込む素振りを見せた。

 倉山酒造とは新しくコンサルティングを引き受けた酒造会社だ。御堂が担当する予定で、今日はその初回の打ち合わせ予定が入っていた。初回の打ち合わせは、相手の感触と考え方を掴み、信頼関係を築く重要なミーティングだ。だから、御堂がどうしても参加したいという気持ちは手に取るようにわかった。それでも、こんな状態の御堂を出勤させるわけにはいかない。

 昨晩、無理をさせるのではなかったと後悔する。ここ最近、御堂がこんなふうに険しい表情でこめかみを押さえる姿を何度も目撃していた。頭痛が頻繁に起きていたのだろう。御堂は決して弱音を吐かないが、激務が続いていて疲労が蓄積していることもよくわかっていたのに、しっかりと休ませてやることができなかった自分の落ち度だ。克哉はあえて厳しい口調で言う。

 

「業務命令だ。御堂、今日は病院受診しろ。脳外科医の友人がいただろう」

「……四柳か」

「ああ、そいつから許可がでたら職務復帰していい」

 

 四柳というのは御堂の大学時代からの友人で腕の良い脳外科医、らしい。らしい、というのは克哉は数度顔を合わせたことがある程度で、脳外科医としての実力の程は未知数だ。だが、御堂の気の置けない友人であることはたしかのようだ。

 御堂もさすがに自分の体調の悪さを自覚しているのだろう、唸るように息を吐くと「わかった」と言った。

 

「四柳に連絡する」

 

 そう言って、御堂がベッドから立ち上がろうとしたそのときだった。

 ふ、と御堂の身体から何かが抜けたように思えた。御堂の身体が重力に引きずり込まれるように傾ぐ。考えるよりも先に、克哉は御堂の元へと飛び出していた。

 

「御堂!?」

 

 咄嗟に御堂の身体を抱えたことで頭から転倒することは免れたが、御堂は克哉の呼びかけにも反応しない。ずしりと御堂の体重が克哉の腕にかかる。御堂の身体は筋肉の緊張がなく、御堂が意識を失っていることは明らかだった。克哉が手を離した瞬間に床に崩れ落ちるだろう。

 

「おい、御堂!」

 

 揺さぶりたい気持ちを必死に我慢しながら克哉は御堂をゆっくりとベッドに寝かせた。だらりと四肢を投げ出した御堂は真っ白の顔のまま微動だにせず、意識も戻る様子はない。

 血の気が引いてくるのを感じながら、克哉は自分の携帯で救急に連絡をした。そして、救急車の手配をするとすぐさま、四柳が所属する病院に電話をかけた。

 

 

 

「心配をかけたな」

 

 病室のベッドで御堂は腕に点滴の針を刺しながら、血の気を失ったままの白い顔で御堂は言った。まだ頭痛が残っているのだろう。御堂は眉間にしわを刻みながらこめかみに手をあてつつ言う。

「倉山酒造はどうなった?」

「俺がミーティングに出た。藤田もいるし、いまは仕事のことは気にするな」

 

 あのあと、御堂は四柳の手配ですぐに病院へ運ばれた。克哉も救急車に同乗して病院まで行き、四柳に事情を説明してバトンタッチすると、会社へとすぐさま戻ったのだ。御堂のことは頭から離れなかったが、克哉はAA社の社長という立場だ。簡単に仕事に穴を開けるわけにはいかない。御堂もまたそれを望んでいるだろうと後ろ髪を引かれる思いでAA社へと戻った。幸い、会社に到着した直後に四柳から「御堂の意識が戻った」と電話がかかってきた。ただ、このまま入院になるという。

 克哉は気もそぞろに打ち合わせや業務を終えて、早々に退社して病院へと向かったのだ。そして、個室で寝かされていた御堂と面会した。

 

「御堂、佐伯君、いまいいか?」

 

 御堂と面会して間もなく、四柳が病室に顔を出した。ふたりを診察室に連れて行くと御堂の病状の説明を始める。

 克哉は御堂の家族でも何でもない立場だったが、御堂の希望と四柳の配慮もあり病状説明をふたりで聞いた。四柳はすでにふたりの関係を御堂から伝えられているのだろう。御堂が克哉と暮らしていることも知っているようだ。

 そして、四柳の説明では、御堂の頭痛と意識消失は慢性硬膜下血腫が原因だという。

 硬膜下血腫とは、頭蓋骨の内側にある脳と脳を覆っている硬膜の間に血液が貯留して血腫を作り、その血腫が脳を圧迫することで頭痛や様々な症状を引き起こす病態らしい。そして、慢性というのは急性の血腫と違いその血腫が長い時間をかけて大きくなったものだという。だから、症状も緩(ゆる)やかに悪化していまに至った。

 四柳が示したCT画像は御堂の脳の断面で、脳の側面に三日月の形をしたグレーの空間があってそれが血腫だと説明された。たしかにその血腫のせいで御堂の脳が窮屈に圧迫されている。だが、四柳の顔がそれほど深刻でないのは、手術で治療可能だからだそうだ。その手術も血腫があるところに小さな穴を開けて血を抜くという比較的安全性が高い手術だそうで、術後の回復に問題なければ一週間程度で退院できるという。

 ひとまずは重大な病態でなかったことに安堵するが、御堂は克哉の横で「一週間か……」と呟いている。入院期間を気にしているようだ。

 四柳が御堂に向き直って確認する。

 

「御堂、以前に頭を怪我したとかなかったか? 軽微な頭部外傷が、そのときは問題なくても、数ヶ月とか年単位で徐々に出血して硬膜下血腫を引き起こすことが多いんだ」

「頭に怪我? ……記憶にないな」

「そうか。もしかしたら、頭を怪我した衝撃でそのことさえ忘れているのかもしれない」

 

 御堂と四柳の会話を聞きながら、その横で克哉は静かに息を呑んだ。

 遠ざけていた過去が不意に脳裏に蘇る。

 あのときではないか。

 克哉は御堂が頭を打つところを目撃していた。克哉から逃れようとした御堂が洗面台の角に頭をしたたかに打ちつけていた。そのとき、御堂はほんの僅かな時間ではあったが意識を失っていた。しかし、克哉はその事実を目の当たりにしながらも無視して御堂を陵辱した。あのとき、克哉が適切な対応をしていれば、こんな事態は起きなかったのではないか。

 表情を強張らせる克哉の隣で御堂は考え込むように首を傾げたが、やはり思い出せなかったようだ。四柳もそれ以上追及することもなく、言う。

 

「まあ、血腫を除去すればすぐに良くなるさ。明日の臨時手術枠を抑えたから」

「明日? 随分と急だな。仕事の調整がつくまで待ってくれないか」

 

 御堂は片眉を吊り上げる。頭の中で仕事のスケジュールを展開しているのだろう。御堂としてはひとまず退院して喫緊(きっきん)の仕事を片付けてから手術を受ける気のようだ。だが、四柳はとんでもない、と首を振った。

 

「御堂、まさかこのまま仕事に戻る気じゃないだろう? 症状が出ているんだ。さっさと治療した方がいい」

「しかし、私にも都合というものがある」

「自分の命より大切な都合なんてないだろう。今回はなんとかなったが次は取り返しがつかいないことになるかもしれないぞ」

「私を脅す気か、四柳」

「脅しではない事実だ。脳外科医としての立場から言わせてもらうとお前は直ちに手術を受けるべきだ」

「だから可及的速やかに予定を調整すると言っているだろう」

 

 医者と患者という立場とは言え、元は気の置けない友人同士だ。互いの遠慮のない物言いがこのままだと言い争いになりそうで、克哉は咄嗟に割って入った。

 

「御堂、あとはすべて俺に任せて、あんたは手術を受けろ」

「なっ……」

「何度も言うが仕事のことは気にするな。あなたのおかげで部下も育っている。むしろ、仕事中に今回みたいに倒れられた方が迷惑だ。早く治療して早く復帰してくれた方が助かる」

「しかし……」

 

 御堂は何かを言いかけて口を開いたが、結局言葉は出ずに渋々頷いた。

 

「……わかった」

 

 病人に対して厳しい物言いだったが、克哉の言うことは理に適っている。現に今日だって御堂は意識を失って救急車で搬送されたのだ。一時的に回復したとはいえ、危うい状態であることは変わりない。御堂もそれをわかっているのだろう。それ以上は反論しなかった。四柳から手術の詳しい説明を聞いて承諾書にサインをする。これであとは明日の手術を待つだけだ。最後に、克哉は椅子から立ち上がり、

 

「四柳先生、御堂さんのことをどうかよろしくお願いします」

 

 と四柳に向かって深々と頭を下げた。御堂が驚いて克哉を見る。四柳もまた驚きに目を丸くしたが、すぐに頼もしい顔と口調で言った。

 

「大丈夫。ちゃんと御堂を元に戻すよ」

 

 克哉はもう一度深く頭を下げた。

 

 

 

「御堂、俺のせいだ」

 

 病室に戻ってふたりきりになるなり、克哉は口を開いた。

 

「何がだ?」

「俺はあなたが頭を怪我したときを知っている」

「なに?」

 

 訝しむ御堂に説明した。思い出すには苦い記憶だが、それでも御堂にかつて克哉が目撃したすべてを告げた。だが、御堂は小首を傾げて「記憶がない」と言った。その顔は克哉を気遣って嘘を吐いている風ではなかった。本当に記憶がないのだろう。

 

「それなら、尚更だ。そのときの記憶を失うほどの衝撃を頭に受けたと言うことだろう。だが、俺はそれを見過ごした。あのときにちゃんと病院に行かせていれば……」

 

 悔しさと後悔に語尾が消え入る。だが、御堂は胡乱げな顔で言う。

 

「君の話を疑うわけではないが、それが原因とは限らないだろう。君が見ていないところで同じような怪我をしていた可能性もある」

「そんなことあるわけがない…っ」

「なぜ、ないと言える。君は私を二十四時間見張っていたわけでもないのに」

 

- 御堂と視線が真正面からぶつかる。互いに譲らない眼差しに先に目を逸らしたのは御堂だった。これ見よがしにため息を吐きつつ言う。

 

「佐伯、君が言うとおりかもしれない。しかし、あくまでも可能性の問題であって、断定することは無理だし、今更原因を追及しても仕方ないことだ。それに、取り返しのつかないことではない。手術をすれば治ると四柳が言っていただろう」

「手術をすれば……って手術をしなければならない状態なのが問題じゃないか。手術に伴うリスクもある」

 

 言ったそばから、自分の発言を後悔した。手術を受けるのは御堂だ。いたずらに御堂の不安を煽ってどうするのだ。いくら自分が後悔と焦燥に駆られても、克哉は御堂の身代わりになることもなんの役に立つこともできないのだ。膝に置いた両手をきつく握りしめる。

 全身麻酔の手術になると言っていた。麻酔も手術も絶対安全ということはない。四柳の手術説明にも、合併症や後遺症の可能性が事細かに説明された。知れば知るほど落ち付かない気持ちになってくるが、それでも四柳は「まず問題なく終わる」と言っていたし、御堂もまた手術の承諾書にためらうことなくサインをしていた。手術を受けることが最善の選択だとわかっているのに、それでも克哉の胸には一抹の不安が宿る。

 唇を噛みしめて感情を堪える克哉に、御堂は柔らかな眼差しを向けた。

 

「佐伯、心配しなくていい。四柳は約束を守る男だ。それに私はあいつを信用している」

 

 御堂はきっぱりと言い切って、その眼差しは揺らぐことはなかった。御堂は一度こうと決めたら自分の信念を貫き通す男だ。こうなればもう逆らいようがない。それに他の選択肢もないのだ。克哉はひとつ息を吐いて心を決めると、御堂を見返した。

 

「それはそれで妬けますね…」

「馬鹿」

 

 交わす眼差しには愛しさが籠められている。緩んだ空気にふたりで笑い合って、克哉は病院をあとにした。

 

 

 

 翌朝、克哉は早起きして病院へと向かった。面会時間外だが、四柳が気を利かせて面会を許可してくれたのだ。病室のドアをノックすると「どうぞ」と御堂の返事がした。御堂が入院している特別個室は木目調の壁で囲まれた部屋で、窓から外の景色も見渡せる。ベッド脇に置かれているモニターやら点滴の台は無粋だが、それでも他の一般病室よりは落ち着いた環境だろう。

 中に入れば御堂はもう起きていて、ベッド上で病衣を着たままノートパソコンで作業をしている。腕に繋がっている点滴は相変わらずだが、昨日よりは大分顔色も良いようだ。パソコンから顔を上げて克哉を見遣る。

 

「わざわざ来たのか」

「心配だったからな。いっそ付き添いとしてこの病室に泊まれば良かった。……具合はどうだ?」

「大げさだな。もう頭痛もなくなった」

 

 克哉の言葉を冗談と受け取って御堂は笑った。御堂の声にも動きにも張りがある。表情を見れば、いつもの御堂がそこにいた。昨日告げられた病状が嘘のようだ。御堂もまた克哉と同じように考えていたようで、ぼそりと呟く。

 

「信じられないな。いまはもう何ともないのに頭の中に血腫があるとは」

 

 そう言って、御堂は血腫がある側の頭に軽く触れると苦く笑った。

 しかし、昨日、見せられた画像には紛れもなく血腫が映り込み、御堂の脳を圧迫していた。いま病状が軽減しているのは、血腫が消えたわけではなく痛み止めや脳のむくみを取る点滴のおかげだ。いくら症状がなく、表面からは見えないとしても、血腫は確実にそこに存在するのだ。放っておくわけにはいかない。

 克哉はわずかに目を伏せた。御堂や四柳は過ぎたことを突き詰めても仕方がないというスタンスだが、こんな事態を引き起こした責任は自分にあると克哉は痛感している。しかしいまは、こうして御堂が無事でいることを喜ぶべきだろう。もし、意識を失ったのが運転中や独りきりのときだったらと考えると、凍えたものが背筋を走る。だが、そんな恐怖に囚われている自分を見られたくなくて、ことさら平然とした顔と口調で言う。

 

「あなたは二週間休暇を取ると会社や取引先に説明しておいた」

「二週間? 四柳は一週間で退院できると言っていたぞ」

「退院してすぐに体調が戻るかもわからないし、しばらくまともな休みを取っていなかったからな。有休消費も必要だし、これを機にゆっくり休むといい」

 

 休暇を勝手に決められたことに御堂は不満げに眉をひそめたが、ややあってふうとため息をついて、克哉の提案を承諾する。

 

「すまないな。忙しい時期に穴を開けて」

「復帰したらその分たっぷり働いてもらうさ」

 

 克哉は御堂のベッドの端に腰をかけて、御堂に顔を寄せた。これから手術が予定されている御堂は、シャワーを浴びたままの洗いざらしの髪だ。水分を含む前髪が額にかかり、朝の眩い光を弾いている。御堂の唇の際に唇を触れさせると、御堂は拒まずに克哉へと顔を向けてキスを受け容れた。キスを深めたい気持ちを抑えて、唇や頬への啄むようなキスを繰り返す。くすぐったさに御堂が笑った。

 

「君らしくないキスだな」

「ムードを出しすぎるとヤリたくなるからな。いまだって自制心を総動員している」

「病室で盛るな」

 

 呆れたように言って、御堂は表情を引き締める。

 

「それより、私が不在の間のAA社を頼むぞ、社長」

「まったく、あなたはこんなときにさえ自分より会社の心配を……」

「当然だ。君のお目付け役がいなくなるからな」

「俺はあなたのことが心配でたまらないのに」

「心配性だな、君は」

 

 御堂はふわりと笑って、今度は自分から克哉に顔を寄せて唇を唇に押し付けた。御堂の唇の柔らかさも温もりも籠められた気持ちもすべてが伝わってくるキス。触れあわせるだけのキスはいやらしさがなく、それでいて胸を満たすキスだった。

 名残惜しく唇を離して、克哉は熱っぽい吐息と共に御堂に告げる。

 

「仕事が終わり次第、また来る」

「会えるかどうかわからないぞ」

 

 手術が終わったらICUに移動すると聞いている。麻酔から目が覚めているかどうか、また状態次第では面会を断ることもあると四柳から説明は受けていた。

 

「会えなくても病院にクレームをつけたりしないから安心しろ」

 

 軽口を返し、克哉はニヤリと笑うとベッドから立った。そして、いっときの別れを告げて部屋から出ようとしたときだった。

 ふと肩越しに振り向いた。夏の輝きが増した陽射しが満ちる部屋。御堂の視線が克哉に繋がる。自分に向ける愛おしさが伝わってくる眼差しだった。不意に、この瞬間を覚えておこうと強く思った。いまこの瞬間の御堂を、そしてふたりの間にある光を、空気を、匂いを、何もかもを胸に焼き付けておこうと決意した。どうしてだろうか。この刹那に輝いている幸せが何故かとても美しく、それでいて儚く感じたのだ。

(2)

 御堂の病院をあとにして、克哉はAA社へと直行した。手術中、病院で付き添っていたいのはやまやまだったが、突然の御堂不在に仕事は山積みになっている。御堂からもAA社を頼むと言われたからには手を抜くわけにはいかない。克哉は昼休みも返上して猛然と仕事をこなし、定時になると同時にAA社の戸締まりを居残る社員に頼んで病院へと向かった。

 術後の患者はICUで一晩様子を見ると聞かされていたから御堂の病室ではなく、ICUがあるフロアへと向かう。ICUのドアに備え付けられたインターホンで面会を申し出るも、面会時間は過ぎているとつれない返事が返ってきた。せめて、御堂の状態はどうなのか知りたくて訊いてみたが、患者との関係を尋ねられて克哉は言葉に詰まった。同僚と言ったところで、家族でもない立場なのだ。個人情報を教えてくれはしないだろう。

 諦めて出直そうとしたところで、ちょうどICUから出てきた四柳に出くわした。白衣姿の四柳は克哉の姿を認めると、にっこりと笑う。その笑顔に肩の力が抜けた。そんな表情をしているということは、手術は問題なく終わったということだろう。四柳が口を開く。

 

「佐伯君、面会に?」

「ええ、御堂さんは?」

「問題なく手術は終わって、麻酔からも覚醒している。といっても、まだボーッとしているところかな。面会時間外だが5分くらいだったら大丈夫だろう」

 

 そう言って四柳は克哉を連れてICUに戻るとナースステーションに声をかけた。四柳が看護師に軽く声をかけるとすぐに面会が許可される。だが、短時間だけだと再度念を押された。

 四柳が御堂のベッドに案内してくれた。夜なのにICUは煌々と明るく、あちらこちらからモニターの電子音や何かの機械音が響いてくる。四柳の話では一晩ここで様子をみて、問題なければ明日の朝には元の病室に戻るという。

 カーテンで区切られた一角のベッドに四柳は歩みを寄せて声をかける。

 

「御堂、佐伯君が来たぞ」

「佐伯が……?」

「ああ」

 

 呂律(ろれつ)がしっかりと回っていないくぐもった声が響いた。四柳の言うように、麻酔からしっかり覚醒しきっていないのかもしれない。四柳が克哉へと振り返る。

 

「佐伯君、面会が終わったらナースステーションにひと声かけて帰ってくれ」

 

 そう言って、四柳は部屋を出ていった。気を利かせてふたりきりにしてくれたのだろう。

 モニターや点滴のラインが複雑に伸びているベッドに克哉は慎重に近付いた。

 御堂は病衣の姿でベッド上に仰向けに横たわっていた。

 手術で血を抜いたという頭の創部はガーゼで覆われている。思ったよりもガーゼは小さく、傷口自体も小さいのかもしれない。それでも、ベッドに力なく横たわる御堂の姿がいままでにないほど弱々しく見えて、胸が痛くなる。

 

「痛むか?」

 

 なんと声をかけるべきかわからなくて、当たり障りのない言葉を選ぶ。

 御堂の頭がゆっくりと動き、焦点が合ってないような曖昧な眼差しが克哉へと向けられた。その眼差しも表情も頼りない。

 克哉は上掛けからはみ出ていた手にそっと触れた。優しく握り込むと、ぴくりと御堂の手が動いた。だが、克哉の手を握り返すことはない。

 

「佐伯……?」

 

 御堂の唇が動いて、掠れた声を出した。同時に克哉に向けられた御堂の眼差し、黒一色に塗りつぶされた瞳孔が克哉を捉えた途端、大きく拓いた気がした。

 

「ああ。俺だ」

 

 痛々しい姿に言葉が続かない。それでも何か声をかけようとしたとき、耳障りなアラーム音が鳴り響いた。

 

「なんだ?」

 

 どうやら御堂のベッドサイドのモニターから鳴り響いているらしい。異常を知らせる不穏なアラームの音だった。何が起きたのかとモニターに視線を向けるのとほぼ同時に、四柳が病室に駆けつけた。すぐさまモニターを確認し、御堂に駆け寄る。克哉は四柳の邪魔をしないよう、ベッドからさっと身体を離した。

 四柳が御堂の顔を覗き込んで尋ねる。

 

「脈と血圧が上がっている。御堂、痛むのか?」

「大丈夫だ……」

 

 力のない声で御堂は答える。四柳は手際よく御堂の状態やモニターの数値を確認していくが、ややあってアラームはすぐに鳴り止んだ。

 

「問題ないようだな」

 

 自分に、そして、御堂や克哉に言い聞かせるように落ち着いた口調で四柳が言う。そして、四柳は御堂へ一言二言声をかけると克哉へと顔を向けた。

 

「驚かせたね。麻酔から目が覚めて、まだ安定してないようだ。だが、すぐに落ち着くよ。もう少し御堂と会っていくかい?」

「……いえ、今日はもう帰ります。また明日出直します」

 

 克哉を気遣って声をかける四柳の申し出を丁寧に断った。

 先ほどのするどい警告音がまだ耳の奥で響いている。あの音は克哉が御堂に触れたのをきっかけに鳴ったように思われた。まだ状態の安定していない御堂に自分が余計な刺激になったのではないか。そんな怖れが心を掠めたのだ。遠慮する克哉に、四柳もそれ以上引き留める素振りはなかった。

 

「わかった。明日には元の個室に戻れるから」

 

 四柳はちらりと御堂に視線を向けて柔らかな表情で言う。先ほどまで緊迫した空気が嘘のように解されていく一方で、克哉は四柳の顔をじっと見詰めた。

 本当に大丈夫なのだろうか。そんな微かな不安が胸を過(よぎ)った。

 この四柳という男は医師という職業柄、瀕死の状態の患者を前にしても、こんなふうに平然とした態度でいるのではないかと疑ってしまう。だが四柳は克哉の疑る眼差し視線を正面から受け止めても、穏やかな表情を崩すことはなかった。となれば、四柳の言葉は正しく、御堂は問題ないのであろう。克哉は視線を御堂に向けて言った。

 

「御堂、またくるから」

 

 ベッドに向けて声をかけるが、御堂は目を閉じたまま克哉の声に応えなかった。

 

 

 

 翌日、仕事が昼休憩に入ったところで携帯に御堂からのメッセージが入った。携帯が使えるということは、無事に一晩経過して病室に戻ったということなのだろう。安堵を覚えつつメールを確認した。

 

『手術は無事に終わって、先ほどICUから戻った。経過は問題ないようだが、まだ体調が優れないので来院は控えてほしい』

 

 御堂らしい簡潔な内容だった。問題ないと言いつつも体調が優れないという点が気になって、メッセージを返す。

 

『わかった。具合は大丈夫か?』

 

 電話をかけて直接尋ねたい誘惑に駆られながらも待っていると、数分も経たないうちに返事が来た。

 

『病院にいるから問題ない。リハビリにも専念したいから入院中の見舞いは不要だ。退院が決まったら連絡する。君は会社を頼む』

 

 簡潔な文面だった。

 会えなくて寂しいとか、克哉が恋しい、といった文言を期待していたわけではないが、御堂らしい一切の感情を乗せない事務的なメールにほんの少し落胆する。だが、すぐに思い直した。

 御堂も弱った姿を克哉に見せたくないのかもしれない。御堂のプライドの高さは百も承知だ。昨夜の御堂の姿はいかにも満身創痍の病人といったふうで、克哉でさえ胸を痛めたのだ。御堂も余計な心配を克哉にかけたくないだろうし、克哉に変に気遣われることも御堂のプライドを傷付けてしまうのだろう。となれば、克哉の果たすべき役割は、御堂が不在の間のAA社を守ることだ。

 しかし、そう自分を納得させて仕事に打ち込むものの、御堂に会えない日々が続くほどに、独りきりの部屋がことさら広く感じてしまう。

 毎日御堂に体調を気遣うメールを送ってみるが事務的な短い返事が返ってかえってくるばかりだ。『電話で話せないか?』とメッセージを送ったが、病室だから、と断られる。個室内は携帯電話の使用を許可されていたはずだと思ったが、かといって自分から無理に電話をかけるのもためらわれた。仕事の相談にかこつけて直接話をしたいと持ちかけることもできたが、しっかり休養しろと言ったのは克哉だ。あと数日経過すれば御堂に会えるのに、まるで聞き分けのない子どものような振る舞いはしたくない。

 それでも何か変だと感じた。何も問題はないはずなのに、言葉に言い表せない、自分でも理解できない違和感が頭をもたげて克哉を捉える。それは御堂に会えないという不満と寂しさからくるのだろうか。それともすべての原因が自分にあるという罪悪感からくるのだろうか。

 そんなじりじりとした不安に駆られながら日々を過ごし、手術から一週間経過して、ようやく退院日を迎えた。

 金曜日に『土曜日の午後に退院する』と御堂からメッセージが入っていた。『迎えに行く』とメッセージを送ると、『ありがとう』と返信が来て、午後一時に病棟まで来てくれと指示される。やっと御堂に会えることを思うと気持ちが浮き立ってきた。胸の奥底にある不安も焦燥も何もかも、御堂を目にした瞬間にきっと解消されるはずだった。

 

 

 土曜日の昼過ぎ、克哉は車で病院に乗り付けた。病院の地下の駐車場に車を止め、御堂の病室があるフロアに向かう。一般病棟の入り口でインターホンを鳴らして名前を名乗ると遠隔操作でドアが開いた。個室の部屋番号を確認し、ドアをノックしたところで、「どうぞ」と声が中から開いた。その声が御堂のものとは違うように思えて、違和感を覚えながらドアを開くと、ベッドの前に白衣の人物が立っていた。

 

「四柳先生……」

「こんにちは、佐伯君」

「御堂さんは?」

 

 部屋の中にいるのは四柳一人だけで、ベッドの上にもどこにも御堂の姿は見当たらない。御堂の私物もなく部屋はもぬけの殻だった。四柳は克哉を見つめながら静かに首を振った。

 

「御堂はもうここにはいない。午前中に退院した」

「はい?」

 

 たしか午後だと言っていたはずだが、何かの手違いだったのだろうか。もしかしたら克哉が気付かないだけで携帯に連絡が入っていたのかもしれない。そう思う一方で、心の中に急速に暗雲が立ちこめてくるのを感じた。形のない嫌な予感が現実になろうとしている。そんな直感から逃れるように、克哉は一歩足を退いた。

 

「入れ違いでしたか。じゃあ、俺は帰ります」

「佐伯君、少し僕と話をしないか?」

「四柳先生と? ……あの人に何かあったのか?」

 

 すぐさま踵を返そうとした克哉を四柳が引き留めた。克哉は振り返り、訝しげに四柳の顔を見返した。四柳はまっすぐと克哉を見据えて言う。

 

「まず最初に言っておく。御堂の手術は無事に終わり、経過も順調だった。御堂の体調にどこも問題はないし、脳の機能の損傷もない。頭痛もなくなった。記憶力、思考力、判断力も正常だ」

 

 話の意図が見えないまま、克哉は黙って聞いていた。四柳は言葉を切り、一拍おいて克哉に告げる。

 

「だが、心の変化が起こった。いままであいつにとって当たり前だったことが当たり前でなくなってしまった」

「どういうことです?」

「御堂からの伝言だ。『落ち着くまで時間が欲しい。それまでの間、距離を置きたい』だそうだ」

「どうして、あの人の伝言をあなたが伝える? 直接俺に言えばいいことだろう。メールも電話もあるのに」

 

 四柳の表情がほんの少し苦しげなものになる。患者に深刻な病名を告げるとき、この男はこんな顔をするのだろうと考える程度の沈黙の間があり、四柳は言った。

 

「……君のことが怖いのだそうだ」

「俺が、怖い?」

 

 思わず聞き返していた。四柳は「ああ」と頷く。

 

「手術を終えて、御堂はいままで恐怖を感じなかったものにも恐怖を感じるようになった。原因は不明だが、血腫は脳の側面、側頭葉を圧迫していた。側頭葉の内側には扁桃体という部位がある。主に、恐怖や不安といったマイナスの情動に関わる部位だ。血腫がなくなり圧迫が取れたことで、その部位が異常に活性化しだしたのかもしれない」

「……それなら、俺以外に対しても恐怖を感じるようになったということか?」

 

 四柳は克哉を見つめたままゆっくりと首を振った。

 

「いいや、君だけだそうだ。それ以外は問題ないが、なぜか君に関してだけ、恐怖のスイッチが入るような異常が起きてしまう」

「…………」

 

 克哉は黙ったまま身体の横に下ろした手をきつく握りしめた。

 御堂が克哉に恐怖を感じるようになった。

 もし四柳の話が事実だとしたら、それは異常ではない。

 手術で血腫を取り除いた結果、扁桃体が異常に活性化して恐怖が暴走したのではなく、正常な機能を取り戻して正しく恐怖を覚えるようになったと判断すべきだろう。

 かつて、克哉は御堂を拘束し、監禁までした。御堂は命の危険さえ感じた。あれほど強く誇り高かった御堂がまともな思考力を失い、克哉に泣いて懇願までしたのだ。御堂にとって克哉は自分を殺しかけた恐怖の象徴だったはずだ。それが、一年経って再会したとき、御堂は克哉を恐れてはいなかった。それどころか追いかけてきて告白までしたのだ。

 

 ――そうか、そういうことだったのか。

 

 すべての出来事に合点がいく。

 御堂の頭の中の血腫は時間をかけて大きくなった。見つかったのはいまだが、その前から存在し御堂に影響を及ぼしていた。

 すなわち、克哉を追いかけてきたときの御堂は正常ではなかった。

 血腫のせいで克哉への恐怖が抑え込まれていたから、克哉を怖れたりしなかった。

 そう判断すべきだろう。しかし、四柳はふたりの間に何が起こったのかを知らない。だから、いまの御堂の状態を異常だと考えている。

 黙り込む克哉を前に、四柳は頭を下げる。

 

「御堂の友人としてのお願いだ。御堂が落ち着くまで時間をくれないか」

「……なるほど。あなたの役割は俺をここに引き留めることか」

 

 四柳は答えなかった。だが返事をしないという返事は克哉の言葉を肯定していた。克哉は自嘲気味に笑う。

 

「いま、御堂さんは俺の部屋にいて荷造りをしているわけだな。そして、その間、俺を病院に足止めするようあなたは依頼された」

「だまし討ちをするような真似をしてしまってすまない。だが、御堂の主治医として、君にちゃんと説明しておきたかったのは本当だ」

 

 克哉は四柳を正面から見据え、静かな声で訊いた。

 

「四柳先生、脳の変化によって恐怖の感情が影響を受けるなら、同じように恋愛感情が引き起こされる可能性もあるのだろうか?」

 

 本来なら存在するはずの恐怖が消えたのなら、本来なら存在するはずのない感情が生まれたとしてもおかしくないだろう。

 克哉が投げかけた問いに四柳の目がすっと細められる。

 

「……君が聞きたいことはこういうことか。御堂は、脳の異常によって君のことを好きになたのではないかと」

 

 まっすぐと見返してくる四柳から克哉はわずかに視線を逸らした。四柳は慎重に言葉を選びながら克哉の問いに答える。

 

「偏桃体の上部にある視床下部からはオキシトシンというホルモンが分泌される。それは愛情ホルモンと呼ばれている。少量のオキシトシンを与えられた男性はパートナーをより魅力的に感じたという研究結果はある。だが、オキシトシンを与えれば見知らぬ相手に恋愛感情を持つというものではない。脳の構造は複雑で、情動のメカニズムは謎に満ちている。御堂の頭の中あった血腫が御堂にどんな影響を及ぼしたのか正確に推測することは不可能だ。だから、君の問いにはイエスともノーとも答えられない」

 

 安直な慰めも断定もしない。それが四柳なりの誠意に満ちた精一杯の答えなのだろう。四柳を責めるのは筋違いだ。だから、克哉はそれ以上問い詰めることはしなかった。

 四柳は克哉を慮る口調で言う。

 

「佐伯君、御堂は御堂で君にちゃんと向き合いたいと思っている。だから、君も御堂を信じてあげてくれないか」

「……わかりました。御堂さんに鉢合わせしないようにどこかで時間を潰してから帰ります」

「すまない。迷惑をかける」

「あなたが謝ることじゃない」

 

 克哉はそう言って、今度こそ四柳に背を向けた。部屋を出ようとしてもう一度四柳に向き直り、頭を下げた。

 

「四柳先生、御堂さんを治療してくれてありがとうございます。……あなたがあの人の友人でいてくれてよかった」

 

 そう礼を口にして頭を深く下げる克哉を四柳は複雑な表情で見返した。

 

 

 

 カフェで時間を潰し、空が鮮やかなオレンジ色に染まるころ克哉は部屋に戻った。

 

「ただいま」

 

 とドアを開けて声をかけてみるが、返事はない。静まりかえった部屋の中は家を出る前と一見変わりがなかった。だが、クローゼットの中を確認してみると、御堂の服がごっそりとなくなっていた。それに、出張用のトランクケースも。当座の分の着替えを回収していったのだろう。細かく調べれば、他にも持ち出した物があるだろう。だが、それを知ったところで空しさが深まるだけだ。

 御堂はどんな気持ちで同棲していたこの部屋から自分の荷物を回収していったのだろう。克哉に出くわさないようにわざわざ克哉を病院におびき出してまで。

 こんな回りくどいことをしなくても、御堂から事情を説明してくれれば、戸惑いはしただろうが御堂の希望を叶えただろう。だが御堂がそうしなかったのは、それだけ克哉に対する恐怖が大きいからだ。それがわかるから、騙されたからといって御堂や四柳に対する憤りは一切湧いてこなかった。

 社員に御堂が療養休暇を取ることは伝えてあった。期間は当初の四柳の見込みを元に二週間としてあったが、はたしてあと一週間で御堂は復帰できるのだろうか。いいや、正確には、克哉の元に戻ってくるのか、それが問題だった。そこはかとない不安に心細さを感じてしまう。

 御堂とふたりで暮らしていた部屋。克哉はリビングの中央で何をするわけでもなく立ち尽くす。壁一面の窓から差し込む西陽が部屋をオレンジ色に染め上げ、床に克哉の影を落とした。

 しんとした静寂に満ちたこの部屋を寂しいと思った。部屋の空気がひんやりと克哉の心に染み入ってくる。

 最初は克哉一人だけで暮らしていた部屋だった。御堂が引っ越してくることでようやくふたりの部屋になった。それがまた克哉一人の部屋に戻っただけなのに、かつてよりもずっと寂しく感じてしまうのは、ふたりで過ごす空間の温かさと柔らかさを知ってしまったからだろう。

 御堂が出ていったという事実が実感を伴って迫ってくる。

 

「これが元に戻ったということなのか」

 

 克哉は立ち尽くしたまま、夜に沈んでいく東京の景色をただただ眺め続けた。

 

 

 

 御堂不在でもAA社の業務量は変わらない。朝から夜遅くまで激務に追われるが、むしろ仕事に打ち込んでいる方が他のことを考えずに済んで気が楽だった。御堂が抜けた穴は大きかったが、以前より御堂が業務の手順や指針を具体的かつ明確にしてくれていたこともあり、社員は克哉がいちいち指示をしなくても自ら率先して業務を遂行してくれていた。他人に協力を仰ぐよりも独断専行に走りがちな克哉だけではこうはいかなかっただろう。御堂がAA社で果たしてきた功績の大きさを今さらながらに思い知る。御堂の不在こそが御堂の存在の大きさを際立たせていた。そしてそれは何も仕事に限ったことではない。

 執務室の克哉のデスクからは否応にも空席のままの御堂のデスクが目に入る。そのデスクで仕事に勤しむ御堂の厳しくも凜々しい横顔を思い浮かべようとするが、御堂を思い描くほどに心がキリキリと引き絞られた。あの日以来、御堂からの連絡は途絶えていた。どこに滞在しているのかもわからない。東京にあるという実家なのか、ホテルなのか。元気でいるのかさえも不明だが、きっと四柳が克哉の代わりに気を配ってくれているだろう。そう信じるしかない。

 

 

 

「佐伯さん、倉山酒造のレポートまとめました」

「ああ、ありがとう」

 

 藤田から手渡されたのは倉山酒造の現状分析をまとめたハンドアウトだった。ざっと中を眺める。

 北海道にある老舗の酒類メーカーである倉山酒造は新規のクライアントだ。元々御堂が担当するはずだった案件で、ウイスキーを以前より愛飲していた御堂が自ら引き受けることを決断していた。実際に契約がまとまったあとは、国内のウイスキーをコンサル用の資料だと言って買い集めだしたくらい気合が入っていた案件だ。だが、御堂が倒れたことにより克哉と藤田が代わりに担当することになったのだ。

 倉山酒造は元々日本酒を中心に製造していたが、新型感染症によるパンデミックが起こった際はいち早く消毒用アルコール製造に着手し、需要をよく読んだ手堅い経営を行っていた。感染症騒ぎも落ち着いてきたところで、今後の事業展開のコンサルをAA社に依頼してきたのだ。日本酒の消費量が年々減少する中、倉山酒造の上層部はウイスキー製造に力を入れたいと考えている。そんな中、わざわざAA社に相談したのは、のっぴきならない事情があったからだ。倉山酒造はかつてウイスキー製造を行っていた。しかし、十年前に火事でウイスキーを作るための蒸留所を焼失しているのだ。その当時に仕込んだ原酒は樽に詰められて熟成中だが、今後もウイスキー事業を存続するならウイスキーの蒸留所をいちから建設しなくてはならない。藤田がまとめた資料では、その設備投資だけで数億円が必要となる見込みだ。その一方で、十年前に仕込んだウイスキーの原酒はちょうど出荷の時期を迎えている。そして、いま、日本は空前のウイスキーブームで価格も高騰している。

 藤田がハンドアウトを元に説明を加える。

 

「現在の日本のウイスキーブームはクラフトウイスキーが牽引しています。世界的なウイスキーの品評会でもジャパニーズウイスキーが数多く入選し、いまや日本のウイスキーは投資や投機の対象として全世界から注目されていると言っても過言ではありません。倉山酒造は元々ウイスキーを製造していたこともあり、製造のノウハウは持っています。工場建設の投資金額がネックになりますが、それさえクリアできればウイスキー事業への参入は評価できると考えます」

「ほう……」

 

 日本でのウイスキーの売り上げのピークは三十年前だ。そこから右肩下がりになり、十五年前に底をうった。そのときの売り上げは最盛期の二割弱まで落ちたという。しかし、それから大手酒造メーカーがしかけたハイボールブームやNHKの朝ドラのおかげで、ウイスキーに注目が集まり、徐々に消費量が回復してきた。

 しかし、だからといって手放しでウイスキー事業を推し進めることはできない。

 ウイスキーは熟成期間がものを言う。仕込みから出荷まで十年以上かかるのだ。現在のウイスキーの品薄状態と値段の高騰は、売り上げが低迷した時期に仕込まれたウイスキーが出回っているのが原因だ。すなわち、生産数が少なく希少である分、需要と供給のバランスがとれていないのだ。そのために価格高騰が起こっている。

 一方、ここ最近のブームのおかげでウイスキーの生産量が増えて、倉山酒造のように新たにウイスキーの生産に乗り出す酒造メーカーも増えている。しかし、このままブームが去れば、十年後にウイスキーの在庫がだぶつくのは目に見えている。そうなれば一気に価格は下落するだろう。

 倉山酒造はウイスキー事業に参入すべきか否か。

 経営は常に挑戦を迫られる。守りに入れば衰退の道しかない。だが己の分を超えた無謀な挑戦は身を滅ぼす。

 このウイスキーブームが一時の熱なのか、それとも確たる潮流となるのか、見極めねばならない。

 いまの人々の熱狂を糧に十年先を信じることができるのか。

 

「佐伯さん、ウイスキー事業の再開を軸にプランを組もうと思いますが、どうでしょうか」

「そうだな……」

 

 藤田が思案に沈む克哉に恐る恐る声をかけた。

 ふと空席の御堂のデスクに視線が留まった。

 いくら未来を信じても、未来を予想することは不可能だ。どれほど愛し合ったとしても、抗うことのできない流れに巻き込まれてしまえば、修正不能な終わりを迎えることだってある。

 それは人間関係のことだけではない。会社だってそうだ。

 克哉と御堂が経営するAA社は起業してから破竹の勢いで業績を上げていた。だが、そんな業績にどれ程の意味があるのか。外資大手のコンサルティング会社と並べればAA社は規模も実績も比較にならず、浮き沈みの激しいこの業界で何かひとつでも躓けば、あっという間に凋落(ちょうらく)するだろう。そんな生き馬の目を抜くような人間達が競い合う世界だとわかっていて克哉は飛び込んだのだ。克哉には何もかもが上手くいく自信があった。世界を手に入れると息巻き、事実、めざましい実績を積み上げている。それなのにいま、胸にあった高揚は消え去り、どこか諦観めいた空しさが漂っている。結局のところ、すべては無意味だったのではないか。手に入れたと思ったものは幻覚で、虚栄を名声と錯覚し、ひとりよがりの満足を周囲に押し付けていただけなのかもしれない。それでも、そんな虚構の世界で克哉が立っていられたのは、隣に御堂が立っていたからだ。しかしいま、克哉にとっての寄る辺が揺らいでいる。

 ただひとつ確実に言えることは御堂が去ったとしても、克哉の世界は変わらずに続いていくということだ。

 そうなったら、克哉は御堂がいない世界を生き続けることができるのか。その世界はきっと、御堂に再会するまでのような色彩を失い灰色に沈んだ世界なのだろう。だが、克哉はあのときの克哉とは違う。御堂と過ごす幸せを知ってしまった分、その世界は克哉がかつて味わったものよりもはるかに辛く、胸をかきむしるような孤独を強いてくるはずだ。そんな世界を独りきりでさすらうことができるのだろうか。

 

「佐伯さん?」

「あ、ああ……」

 

 藤田の声に意識が呼び戻される。倉山酒造のレポートを前にして、とめどない思考の渦に流されていたようだ。

 

「倉山酒造の件、どうでしょうか?」

 

 藤田に促されるようにしてもう一度手元の書類を眺めた。

 やる気に満ちていた御堂なら藤田と同じように、未来を信じ、ウイスキー事業を再開させることを前提に考えるだろう。だが、自分はどうなのか。考えるほどに克哉の胸は暗く塞がれていた。

 

 

 

 御堂の退院から一週間経ち、当初予定していた療養休暇も終わりが近づいた頃だった。克哉の携帯に御堂からのメッセージが入った。『会って話をしたい』と書かれている。もちろん異存はなく了承の旨を返信すると、週末の日時と場所が送り返されてきた。

 指定された場所は外資系の五ツ星ホテルのカフェラウンジだった。御堂が滞在しているホテルなのかもしれない。時間きっかりに訪れてラウンジを覗けば、土曜日の昼間、ビジネスマンだけでなく観光や歓談目的の人々で混雑していた。それでも、御堂の姿はすぐに見つかった。窓際の席に一人で待っている。

 ベージュのリネンのサマージャケットを羽織る普段着姿の御堂は克哉の記憶にあるそのままの姿だ。頭の傷はちょうど窓側で確認できないが、傍目からは病人には見えない。久々に御堂を目にして図らずも胸が熱くなる一方で、御堂が自分に対してどんな反応を見せるのか、そして、何を告げられるのか、それを考えると腹の奥底が冷えてくる。

 どう声をかけるべきかためらっていると、御堂が顔を上げて周囲を見渡した。克哉と視線がぶつかる。ハッと御堂が表情を固くするが、克哉はそれに気付かないふりで軽く手を上げて、御堂の元へと向かった。

 

「待たせたか?」

「いいや」

 

 御堂はぎこちなさを隠そうとするような表情と口調で返事をする。その顔にあからさまな恐怖や怯えがないことに安堵した。だが、同時に、克哉を見るその眼差しは緊張や困惑が滲んでいて、そこには克哉に対する親愛さは微塵も感じられなかった。

 克哉は御堂の正面に座った。よく見れば、耳の後ろに小さなガーゼが張られていた。手術後に見たガーゼよりもさらに小さく薄くなっている。しっかり見なければ気が付かない程度のもので、この分だと、傷口も目立たないだろう。

 克哉はスタッフを呼び、コーヒーをふたり分注文した。会話のとっかかりと探し、当たり障りのない話題を切り出した。

 

「傷は大丈夫なのか?」

「ああ。昨日抜糸も済ませた。傷の治りはまったく問題ないそうだ。……それより、AA社の方は問題ないか」

「藤田を始めとした社員たちが皆、頑張ってあなたの穴を埋めてくれている」

「それなら良かった」

 

 話しかければ間髪入れず返事が返ってくる。一見、和やかな雰囲気に思えるが、御堂の視線は克哉を真正面から見ようとせず、ふたりの間の気まずさをどうにか取り繕うように無理に会話を続けているように思えた。すぐさま降りてくる沈黙を避けるよう御堂が言葉を続ける。

 

「いま、頭痛はまったくなくなった。術後のCTでも血腫がなくなって、脳の圧迫もなくなっていた。もう普段の生活に戻って大丈夫だろうと四柳に言われた」

「そうか。手術を受けて良かったな。安心した」

「安心した、だと……?」

 

 克哉の言葉に御堂は表情を強張らせた。尻すぼみの語尾は居心地の悪い沈黙を連れてくる。御堂はテーブルの上に視線をさまよわせ、おもむろに口を開いた。

 

「……四柳から話を聞いたのだろう?」

「ああ、聞いた」

 

 御堂は克哉から目を伏せたまま、言葉を続ける。

 

「手術が終わって麻酔から目が覚めたとき、君が来てくれた。そのときに異変を感じた。君の声を聞いても、顔を見ても、いままで抱いていた気持ちがなくなってしまった。むしろ、君が怖くてたまらなかった。君と恋人関係だと頭では理解していても、気持ちが追いつかなかった」

 

 四柳から聞いた内容と同じだった。御堂は克哉に抱いていた愛おしさを失い、代わりに恐怖を感じるようになったという。御堂の主観的な感情の正しさは、乱れた心拍と上昇した血圧を感知したモニターのアラーム音によって客観的に裏打ちされている。克哉は落ち着いた口調で尋ねた。

 

「記憶をなくしたりはしていないのか?」

「すべて覚えている。君と再会した日のことも、それからいままでにあったすべてを。もちろん、忘れていることに気付いていない可能性はあるが、パソコンや携帯の中身を調べた限り、自分の記憶に問題があるとは考えられない」

 

 そうか、と小さく落胆した。いままでの記憶が失われたせいで恋愛感情まで失われたのであれば因果がはっきりしている。記憶を失うという異常が引き起こした、異常な状態だと判断できるだろう。だが、記憶は正しくあるのに、克哉は恐怖や嫌悪の対象に戻り、同時に恋愛感情もまた失われてしまった。ふたりの親密な関係は失われ、御堂と克哉の距離感は最悪の状態まで戻ってしまった。これはやはり異常ではなくこれこそ正常な状態なのだろう。

 それでも、御堂は克哉に感じているであろう負の感情を表には一切出さなかった。理性的に感情を殺して話を続ける。

 

「自分でも信じられなくて、四柳に相談した。四柳は色々検査を追加してくれたが、どれも正常だという。そもそも感情の発露を客観的に評価する方法はないと言われた。四柳は、脳から血腫が取り除かれて脳の機能が戻り、急激に血流が回復したりしたから、一時的に混乱が起きているのではないかと言われた。だから、様子をみろと」

「それで、いまのいままで様子をみてどうだったんだ?」

 

 答えは聞くまでもなかった。

 御堂の何か苦いものを口にしたかのような険しい顔つき、克哉から逸らされた視線、膝の上に置かれた手はずっと固く握られている。目の前のコーヒーに手をつける気配もない。言葉が出ない御堂の代わりに、克哉が言った。

 

「あなたはかつてのように俺のことを怖れている」

「……すまない」

「どうして謝る? あなたは何も悪くない。むしろいまが正常な状態なんだ。ということはいままでが異常で、間違っていたということだろう」

 

 そう口にした瞬間に御堂は必死さを滲ませた眼差しを克哉に向けた。

 

「いままでが間違っていただと? 君はそれで納得できるのか」

「納得できないと駄々をこねれば現実が変わるのか」

「…………」

 

 御堂は黙り込む。長い沈黙はそのまま御堂の深い懊悩を示しているように思えた。

 克哉はため息を吐いて、話題を変えた。

 

「どうする? もう少し療養するか?」

「いいや、業務に復帰する」

「無理はするな。そんな状態で俺と仕事できるのか?」

「できる。いままでできたことが、できないはずがない」

 

 いままで愛していた相手は愛せないのに?

 そんな意地の悪い切り返しを呑み込んで、克哉は事務的な口調で言った。

 

「わかった。社員は皆あなたの復帰を待ちわびている。……じゃあ、俺はこれで」

「ああ……」

 

 克哉は立ち上がり、会計伝票に手を伸ばそうとしたところで、御堂もまた伝票に手を伸ばした。ふたりの指先が触れる。その瞬間、御堂の手が大げさなほどに震えて、克哉の手を振り払った。瞬間的に身体を引いた御堂の足がテーブルに触れて、ガタン、と派手な音が立ち、周囲の注目が集まる。スタッフがすぐさま駆け寄ってくるのを、克哉は「何でもない、大丈夫だ」と手を上げて制した。目の前では血の気を失った御堂が、自分自身の反応に信じられないかのように固まっている。瞳孔が拓ききり、呼吸は浅く、速くなっていた。蒼白な唇が戦慄く声を紡ぐ。

 

「違う……私は……」

「御堂、すまなかった。驚かせて」

 

 ゆっくりと抑えた口調で話しかけた。御堂は震えだそうとする自分自身をどうにか意思の力で抑えつけようとしていて、そんな御堂が哀れで抱き締めたい衝動に駆られたが、それは逆効果だということもわかっていた。御堂を助けたいのに、自分にはその資格はない。

 御堂は克哉との会話中、強固な意志の力で自分自身の恐怖を必死に抑えつけていたのだ。ホテルのラウンジを選んだのもそうだ。いまの御堂は克哉とふたりきりになることができないからだ。心に深く植え付けられた恐怖心のせいで。

 恋人でなくてもせめてフラットな関係を築けるかと問われれば、それさえもいまの御堂には危ういだろう。

 克服したと思っていた過去は、単に覆いを被されて視界から消されていただけで、注がれていた愛は幻覚だった。だが、だからといって御堂を責めることはできない。すべての責任は克哉にある。

 徐々に御堂の震えが治まってくる。御堂は克哉から視線を外したまま、打ちひしがれた口調で言う。

 

「すまない、佐伯……」

「あなたが謝る必要はない。……じゃあ、俺はこれで」

 

 後ろ髪を引かれる思いだったが、克哉は未練を振り切ってその場をあとにした。御堂が苦しんでいることが痛いほどに伝わってきたからだ。御堂は過剰に反応してしまった自分を嫌悪し、克哉に申し訳なく思っている。その反応こそ御堂の記憶も判断力もすべてが正常である証左だった。克哉とかつて深く愛し合っていた記憶もちゃんと残っている。だからこそ、御堂は煩悶している。

 こうしてみれば、記憶が残っているのは残酷なことだった。本来の御堂は克哉を怖れ、思う存分、憎む権利がある。しかし、克哉と恋人同士であった記憶がそれを妨げる。結果、御堂は自分の感情と折り合いをつけることができずに、苦しんでいる。いっそ記憶を失った方が何もかもを放り出して逃げることができた分、心は楽だっただろう。

 その一方で、御堂が現状と感情の狭間でもがいているのと同様に、克哉もまた突きつけられた現実の残酷さに感情をかき乱されていた。

 もう、御堂は克哉を愛していない。御堂の中にあるのは、かつて克哉を愛おしく思った心の残骸だ。克哉を愛した御堂は消えてしまったのだ。

(3)

 週が明けて、御堂は宣言どおり出勤した。

 身にまとうのは身体のラインにフィットした最上の仕立てのスーツとプレスの効いたシャツ、凜とした立ち振る舞いは病気で療養していたとは思えないど堂々としていた。社員が次々に御堂をねぎらう言葉をかけるが、その一人一人にそつのない対応をしている。まったく変わらない御堂の姿だ。

 御堂は迷うことのない足取りで執務室へと入ってきた。そして、克哉へと顔を向ける。

 

「また、よろしく頼む」

「こちらこそ。体調が戻るまでは無理をしないでくれ」

 

 復帰した同僚を気遣うごく自然な会話。それでも、ふたりの間にはいままでになかった緊張が張り詰めている。だが、社員はそうとは気が付かない。克哉も御堂も申し合わせたわけではないが、仕事と私情を切り離して周りに気取られないように平静を装っているからだ。

 手探り状態で再開された業務だが、復帰した御堂の仕事ぶりはブランクを一切感じさせないほど際立っていた。自身の不在時のプロジェクトの進捗状況を確認し、適切に指示を出している。冷徹な判断力も緻密な仕事ぶりも冴え渡り、まったく変わらない普段どおりの御堂の姿だった。たったひとつの点を除けば。

 御堂の克哉への接し方、距離の取り方、そして何よりも克哉に向ける眼差しはがらりと様相を変えてしまっていた。社員の手前上、露骨に克哉を避けることはしないし、挨拶も仕事上の会話も過不足なく返ってくる。それでも克哉を避けていることは態度の節々から見てとれた。

 御堂と克哉が在籍する執務室はパーティションで他の社員がいるフロアと区切っているだけだったのでまだ耐えられるようだが、別室で行われるミーティングでは社員が部屋を出るタイミングで御堂も部屋を出る。決してふたりきりにならないように慎重に行動しているのだ。いままでコンサルティングの方針はふたりで直接話し合って決めることが多かった。だが、いまはそれもできず必要最低限の会話に留めている。もどかしさはあるが、これでも御堂は自分の感情をどうにか抑えて冷静に振る舞っているのだろう。だから克哉も御堂のしたいようにさせていた。

 緊張感に満ちた始まりではあったが、御堂は休むことなくAA社に出勤してきた。AA社の業務も御堂が復帰したことで順調に回りだした。その姿に克哉はどこか安堵していた。社員に気付かれない程度には違和感なく業務を続けることができている。こんなふうに毎日顔を合わせることを当たり前のように続けていれば、そのうち元どおりの日常に落とし込まれていくのではないか。そして、かつての熱と幸福を取り戻せるのではないか。そんな甘い油断がひっそりと克哉を蝕んでいった。

 

「佐伯、書類のサインを至急で頼めるか?」

 

 自分のデスクでディスプレイに向かって一心不乱に資料を作っていると、デスク脇に立った御堂から声をかけられた。佐伯、と名前を呼ぶ声に微かな強張りが混ざっている。克哉は、ちょうど資料のデータの数字をチェックしているところで、御堂が押し隠す緊張を見過ごしてしまうほどには目の前の数字に熱中していた。

 

「ああ、いま書く」

 

 視線をディスプレイに留めたまま生返事をしながら、声の方向に手を伸ばした。だが、克哉の指先が触れたのは書類ではなかった。指先にぶつかったのは硬い男の手で、触れた途端にその手が大きく動いた。その瞬間、意識することのない反射的な動きで、克哉は御堂の手首を咄嗟に強く掴んでいた。次の刹那、乱暴に手を振り解かれる。

 

「――――ッ!」

 

 しまった、と思ったときには、バサリと乾いた音が立ち、何枚もの紙が視界に舞う。デスクから床まで派手に散らばる紙の中で、御堂は自分の震える右手首を左手で掴んでいた。克哉に掴まれた感触を拭うかのように、そして、自分の意のままにならない手をどうにか抑えようとするかのように指が食い込むほどの強さで自身の手首を握りしめている。その顔は蒼白で見開かれた目は焦点もおぼろげだ。

 克哉はデスクの上の散らばった書類をかき集めつつ、何事もなかったかのように素っ気ない口調で言った。

 

「御堂、少し休んで来い。顔色が悪い」

 

 その言葉に弾かれたように御堂は顔を上げた。克哉から視線を逸らせたまま軽くうなずき、ぎこちない動きで克哉に背を向けて執務室を出て行った。

 克哉は椅子から立ち上がると、床に散らばった書類を一枚一枚拾い集め始める。パーティションの向こう側にいる社員には気付かれなかったのは幸いだが、自分の迂闊(うかつ)さに歯噛みする。

 御堂がこの場にいるのは克哉への恐怖が色褪せたからでも、ましてや克哉への恋しさを思い出したからではない。ただ、自分が副社長を務めるAA社に対する責任感からだ。

 接待を要求された克哉が御堂の部屋に上がり込んで御堂を強姦した翌日でさえ、御堂は無理をしてMGN社に出勤してたではないか。何があっても自分の仕事は決してないがしろにはしない。御堂はそういう男なのだ。だから、自分の仕事を遂行するためなら自分を監禁して壊そうとした男と同じ部屋で働くことさえ厭わないのだ。だがそれは好んでやっているわけではない。AA社の副社長という立場と御堂孝典であるという矜持で、自制心の崖っぷちにどうにか踏みとどまっているだけだ。

 それなのに、自分は何を勘違いしていたのか。御堂が毎日出勤していることに一体何を期待していたのか。

 書類を掴む指先に力が入る。克哉は唇を噛みしめた。

 自分が御堂に拒絶される存在であることを思い知らされて心が暗く沈んでいった。

 

 

 克哉が殊更気を付けるようになったせいか、それとも御堂がいっそう慎重になったせいか、それ以降は大きな失敗もトラブルもなく過ごせていた。御堂は定時に出社し、定時に帰っていく。その日の内に終わらない仕事はホテルに戻ってからやっているようだった。手術を受ける前まではふたりして夜遅くまで残って仕事をしていたのだ。そんな御堂の変化は誰が見ても明らかだったが、療養明けだから仕事をセーブしているのだと社員には思われている。

 御堂が復帰後二週間ほど経過した日だった。終業時間を過ぎて仕事を切り上げた社員が次々と退社していく。大きな案件がひとつ片付いたところで、ちょうど週末ともあってAA社内はあっという間に人がいなくなり閑散としだした。克哉は最後まで残って戸締りをするので、全員退社するまでの時間つぶしに急ぎでないメールの返信などを片付けていたが、いつもなら他の社員に紛れて帰るはずの御堂がデスクに残っていた。

 気にしていない素振りで視界の端で御堂を窺う。もうすでに社内には御堂と克哉のふたりしか残っていない。いまの御堂なら絶対に避けていた状況だ。それなのになぜいるのか。

 訝しんでいると御堂がおもむろに立ち上がって、克哉のデスクへと歩みを寄せた。近付く気配にゆっくりと視線を上げると御堂が強張った顔で口を開いた。

 

「佐伯、もし予定がなければこのあと夕食を一緒にとらないか?」

 

 わずかに克哉の目から逸らされた眼差し。たかだか食事を誘うだけなのに御堂が柄にもなく緊張しているのがわかる。

 御堂は相変わらずホテルから通勤していた。克哉の部屋に足を踏み入れようともしないし、克哉からその話題を振ることもない。いままで一緒に食べていた食事も暗黙の了解のように当然別々だった。

 

「……いいですよ」

 

 何かしら御堂の思惑があるのだろうと察したので四の五の訊かずに了承する。克哉はパソコンをシャットダウンして手早くオフィスの戸締まりを行った。

 オフィスを出ると、夏の夜のじっとりと熱気を孕んだ夜気に包まれた。とくに店も決めていなかったのでビルの近くにある料理店に入る。こうなる以前は行きつけにしていた創作料理を出すダイニングバーで、入るなりいつも座っていたカウンター席を勧められたが、それを断りテーブル席へと案内してもらった。隣同士に座るカウンター席から距離を取れるテーブル席になったことで御堂は微かに安堵の表情を見せた。

 克哉はドリンクメニューを開きながら御堂に確認する。

 

「アルコールは大丈夫か?」

「ああ。四柳に節度ある飲酒なら大丈夫、と許可をもらっている」

 

 節度とは随分曖昧な表現で、それは制限してないのも同然な気がしないでもないが、それならと御堂に飲み物を訊く。御堂は克哉と同じものでよいというので、ビール二杯と本日のお勧めのメニューをいくつか頼んだ。すぐさまきめ細かい泡が乗ったビールが二人分運ばれてくる。克哉はピルスナーグラスを軽く掲げて言った。

 

「いまさらですが、仕事復帰おめでとうございます」

「……ありがとう」

 

 御堂は少し驚いたように目を瞬かせたが、克哉に礼を述べつつグラスを掲げてひとくち飲んだ。

 さっそく、新鮮なウニを乗せた鯛のカルパッチョや和牛の炭火焼きといった味も見た目もそそる料理が出てくる。それでも、久々のふたりきりの食事は味気ないものだった。沈黙を縫うように食事を口に運び、ビールを呷る。

 気まずさしかないとわかっているのに御堂が何の目的で食事を誘ったのか、理由を詮索してしまう自分が嫌になる。以前は下手したら一日三食、ふたりで共に食べていたのだ。フードデリバリーで注文し、部屋で食べることも多かった。あのときはふたりきりで食べる食事は気分が高揚する楽しい時間だった。こうして振り返ってみれば、一緒の卓で食事を分かち合うというのは、相手に対する信頼がないとできない行為なのだろう。

 重苦しい沈黙と緊張感の中で食事を進めるが、御堂は黙ったままなかなか話を切り出そうとはしなかった。克哉もまた自ら話を向けることはない。ふたりで食事しているのにひとりで食べているのと変わらない。いいや、ひとりの方が余程気楽だろう。それなのに御堂がわざわざこの場に克哉を呼んだのは、AA社では話しにくい話題だからだ。自ずと内容は察せられる。

 御堂のグラスが空になったところで御堂はメニューを眺め、ジャパニーズウイスキーの逸品を頼んだ。ジャパニーズウイスキーとはその名の通り、日本で作られたウイスキーで特定の条件を満たしたものを総称してそう呼んでいる。

 運ばれてきたグラスに口を付けて、御堂は思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、取り寄せたウイスキーを君の部屋に置きっ放しだったな」

 

 ふたりで暮らしていた部屋を『君の部屋』と呼んだことに、もうあの部屋は自分の部屋ではないと暗に宣告されているようで胸の奥がざわめいた。

 

「もし必要ならAA社に持って行くが。それか、日中の俺の不在時にでも部屋から持っていってもいい」

「いや……」

 

 御堂は言葉尻を濁した。こうなる前まではふたりで過ごしていた部屋。その存在を思い出したのが、その顔が複雑な翳りを帯びた。ふたりの間に漂う空気がいっそう重たく耐え難いものになる。御堂はどうにかこの重圧を避けようとしたのか唐突に話題を変えた。

 

「倉山酒造のコンサル、藤田がまとめたレポートを確認した。ウイスキー事業を再開することなく、完全に撤退する気なのか」

 

「ああ」と克哉は頷く。

 

「熟成中の原酒はウイスキーを扱う他の酒類メーカーに売却する。いまなら引き手数多だろう。高値で売れるはずだ」

「どういうことだ?」

 

 御堂が眉根を寄せて険しい表情をする。

 倉山酒造のコンサルティングは事業分析も終え、相手先にプランニングを提出する時期が迫っていた。元々は御堂が担当する案件だったものだ。だから、倉山酒造に提出する前に、御堂にも方針について報告だけはしておこうと考えていた。御堂から切り出してくれて手間が省けたとばかり、克哉は説明を加える。

 

「工場を新設してまでウイスキー事業に乗り出すのはリスクが大きい。現在の消毒用アルコールの事業が順調だから、それを主軸に事業展開を考えている。いくら新型感染症騒ぎが落ち着いたとしても、高まった衛生意識がすぐに戻ることはない。殺菌・消毒薬市場はまだまだ拡大が見込める」

「それはクライアントが望んでいる形ではないだろう。先方はウイスキー事業を再開させることを希望していたはずだ」

 

 そのとおりだ。クライアントの希望は事前に聞き取っていた。そしてまた、御堂もその考えに同調していたことも知っていた。だが、克哉は御堂とは真逆の方針を打ち出したのだ。御堂の反対は予想の範囲だ。克哉は淡々と意見を述べる。

 

「いまから仕込むウイスキーを出荷できるのは十年後だ。いまのウイスキーの流行が十年後も存続しているとは思えない。このウイスキーブームに乗ろうと新たに建てられた小規模蒸留所はこの十年ですでに20ヵ所以上ある。すでに蒸留所を持っているならともかく、新たに工場を建てるにはリスクが高すぎる」

「そんなことは先方も承知の上だろう。リスクを避けていたら挑戦はできない」

 

 AA社では克哉と面と向かって会話をすることなどほとんどなかったというのに、御堂はいつになく食いついてきた。アルコールが入っているせいなのか、それとも自分が手掛けるはずの仕事だという自負があるためか。だが、克哉は小さく首を振る。

 

「俺たちは神様じゃない。コンサルタントだ。事業の存続と拡大のための一番いい在り方を提案するのが仕事だ。後先考えずにクライアントの希望を肯定するだけのイエスマンなら俺たちの仕事はいらない」

「君が言うとおり、倉山酒造はウイスキー事業に手を出さず、いまの消毒薬事業を固めていくのが手堅い経営のかもしれない。……しかし、挑戦を避けて守りに入るなんていつもの君らしくないプランニングではないか」

「俺らしくない? あなたがそれを言うのか」

 

 意図せずきつい物言いになり御堂がびくりと身を竦めた。チッと心の中で舌打ちをして、御堂から視線を外し、静かな声で言う。

 

「なりふり構わず勝ちにいくことよりも、きれいに負けることの方が重要なこともある」

 

 倉山酒造にとって悲願のウイスキー事業を再開すべきという結論を出せば、倉山酒造に喜ばれるだろう。しかし、蒸留所の工場建設費用は大きな負債となる。いくらウイスキーが世界的な流行となっていても、十年後二十年後にその流行が保たれているのかどうか。もしウイスキー需要が落ち込んだとしたら、その中で生き残れるだけの品質と人気を保てるのかどうか。世界的な景気の先行きも不透明な中、求められるのはなるべく身軽であることだ。そうすれば、信じていた未来に裏切られても生き残ることができるはずだ。

 しかし、御堂はまだ納得していないといった顔をしていた。

 克哉は険悪になってしまった雰囲気を振り払うかのように、大きく息を吐いた。

 

「仕事の話は止めましょう。ここだと他の人間に聞かれる怖れもある」

 

 いくら声を潜めてもどこに人の耳があるかわからない。当たり障りのない情報であったとしてもクライアントに関する情報は厳密に守らなければならない。御堂も自分の軽率さに気付いたのだろう。バツが悪そうに「すまなかった」と謝り、目の前のグラスへと視線を落とした。

 結果、ふたりに残されたのは居心地の悪い静寂だった。食事の味も酒の味もまったく感じられない。もう限界だとばかり克哉から口火を切った。

 

「それで、用件はなんです?」

「用件?」

 

 御堂は目を瞬かせて克哉を見る。

 

「この食事の目的ですよ。仕事の話をしたかったんじゃないでしょう。あなたは俺といること自体がストレスなのに、どうしてわざわざ俺を誘ったんだ?」

「以前はこうしてよくふたりで食べていたではないか」

「以前はね。だがいまは違う。それはあなたが一番わかっているはずだ。それとも、これから毎日こうして俺と食事でもするつもりか」

「君は嫌か?」

「は?」

「私は、君との関係についてこのままではいけないと思っている」

 

 はっきりとした口調に御堂の顔を見返した。御堂はいつになく真剣な表情を克哉に向けていた。やはりこれが本題かと胸の内が冷え冷えと凍えていく。

 

「ああ、そのことですか」

 

 克哉はことさら乾いた口調で言った。

 

「部屋の荷物はいつでも取りに来てください。事前に日時を教えてくれれば部屋を空けておきますから」

「違う、そうではない。君との関係の結論を急がないで欲しい。部屋にある私の荷物もそのままにしてくれないか」

「どういうことだ?」

「時間が経てば手術の影響も薄れてくるかもしれないと四柳が言っていた。だから待って欲しいのだ」

「待つ? 何をだ? あなたは正常に戻った。これ以上何を期待するんだ」

「君との適切な関係のあり方を探している。君との間のことをなかったことにはしたくない」

「俺との適切な関係? 不適切な関係ではなく?」

 

 御堂の話の意図が見えないまま、克哉は自嘲気味に聞き返したが、御堂は真剣な表情を崩さずに言う。

 

「私は君の隣に立ちたい。いまでも私はそう思っている」

 

 それはかつて御堂から告げられた言葉そのままだった。

 驚いて言葉を失する。想定外の申し出だった。てっきり別れを切り出されると覚悟していたのだ。

 しかし、それは御堂の本心なのだろうか。

 単純にその言葉を信じきれない程度にはふたりの間に色濃い影が落ちていた。

 誰かに言わされているわけではないだろうが、心からそう望んでいるようにも思えなかった。

 御堂の真意を透かし見るように鋭く見据えると、御堂の表情がぎこちなく強張った。その不自然さが克哉の疑念に確信を抱かせた。

 そうか、と理解する。いまの御堂は克哉を愛してはいない。それに今後ふたたび愛が戻るという確信があるわけでもない。ただ、御堂から追いかけて告白して始まった克哉との関係を、自分の心変わりで一方的に解消することができないだけだ。

 

「なるほどね」

 

 克哉は薄く笑う。

 

「あなたは俺に責任を感じているわけだ。もしくは身勝手さを非難されることを怖れている」

「な……っ」

 

 御堂は弾かれたように顔を上げて克哉を見返した。だがその顔にあるのは動揺と焦りだ。

 御堂は克哉に『共に歩む』と約束した。そして、御堂はその約束を記憶している。だからこそ自分の言葉に縛られている。御堂にとって約束を守るのはごく当然のことで、そもそも約束を反故にするという発想自体がないのだろう。だからこそ、何が何でも克哉とふたりでいる体裁を整えようとしている。

 克哉は短く息を吐いて言った。

 

「あなたの責任感の強さは知っている。だからこそ言っておくが、すべての原因は俺にある。あなたは何も責任を感じることはないし、俺はあなたの心変わりを責めたりはしない。何もなくとも、気持ちが変わることなんて普通にある。正常な状態でなかったなら尚更だろう。俺はあなたを不誠実だとは思っていない」

「話を勝手に結論付けないでくれ」

 

 強張った顔のまま御堂は声をあげた。

 

「いますぐに元どおりに戻るというのは難しいかもしれない。だが、時間をかければどうにかなるはずだ」

「時間をかければ、だと?」

 

 克哉は鼻で笑う。

 

「それなら、あれからさらに様子を見てなにか変わったか?」

「それは……」

 

 御堂は言葉を詰まらせた。その顔が雄弁に答えを物語っていた。

 異常だったら正常に回復することもあるだろう。だが御堂はいまの状態こそ正常なのだ。なにを戻そうとしているのか。

 克哉は冷ややかな声で告げる。

 

「あなたは俺と恋人だった頃の関係に戻りたいんじゃない。本当は心置きなく俺を憎みたいんじゃないのか」

「君は何を言って……」

 

 御堂の顔から血の気が失せる。克哉の言葉は御堂の心の一番脆弱なところに突き刺さったらしい。克哉は自嘲の笑みを浮かべた。

 

「だが、いまの自分の立場と過去の自分の言動がそれを許さない。あれほど俺を憎み、怖れたあなたが、自分から俺を追いかけて告白した挙句、一緒に会社経営までしてしまったのだからな。あなたは重い責任と義務を負ってしまった。……俺はあなたに同情しますよ。憎い相手である俺に雁字搦めに縛られてしまっていることに」

「私はそんなふうには思っていない」

「あなたは自分にそう言い聞かせて、そう思い込もうとしているだけだ」

「佐伯……」

 

 克哉の言葉に御堂はひどく傷ついた顔をした。何かを言いかけて口を開き、悲しげに目を伏せる。

 テーブルに置かれた御堂の手の爪の先がきれいに整えられていた。きっちりと撫でつけられ髪はひと筋の乱れもない。いついかなる時も品格を失わない、それが御堂だ。そして克哉の目の前にいるのは紛れもなく御堂だった。

 ここにいるのが御堂によく似た別の誰かだったらどれ程良かっただろう。変わるならなにもかも変わってしまえば良いのに、目の前にいるのは克哉が愛する御堂そのままだ。

 御堂を目の前にして御堂への恋しさに押し潰されそうになる。

 克哉が愛する御堂はそこにいるのに、克哉を愛した御堂はもういない。その不均等が苦しいのだ。この御堂の存在はかつての御堂が消えてしまったという事実を容赦なく克哉に突きつける。

 どうせなら、克哉もこの気持ちを失ってしまえば楽になれるだろう。それはわかっているのに、いま胸の中にある想いを捨てきることができない。それどころか克哉は一縷の望みに縋っている。自分たちが愛し合った記憶はすべてを凌駕するのだと。憎しみも恐怖も乗り越えて、ふたたび愛を育むことができるのだと。

 だから、御堂が口にした結論に胸を撫で下ろしたのに、それを素直に言葉にできない。御堂は本心から克哉との関係を取り戻したいと言っているわけではなく、責任と義務からそう口にしているだけだ。そして、本人もそれをわかっている。だから、克哉に反論できない。

 言葉を失う御堂を前に克哉は静かに告げる。

 

「辛いんですよ。俺を怖がるあなたを目にするのが」

 

 御堂がハッと目を瞠った。

 もしここで御堂の提案を受け入れてしまったら、克哉は過去の約束をたてに御堂を自分に縛りつけることになる。それはかつて無理やり監禁していたのと変わらない。いまの自分が見たいのは怯える御堂の姿ではない。

 克哉は鋭い口調ですがる想いを断ち切った。

 

「だから、こんな恋人同士みたいな真似事はしなくていい。逆に迷惑だ」

「佐伯……」

 

 克哉は軽く手を挙げてスタッフを呼ぶと会計を頼んだ。代金を支払い、御堂を残して席を立つ。

 

「じゃあ、お先に」

 

 そう言って去ろうとする克哉に御堂が口を開いた。

 

「佐伯、これだけは信じてほしい」

 

 いつになく弱々しい口調だった。御堂は途方に暮れた子どものような表情で克哉を見て、言った。

 

「私は君といて、幸せだった。それこそ夢みたいな日々を過ごしていた。君からの愛を疑ったことはないし、君への愛を疑ったこともなかった」

「あなたの言うことは信じるさ」

 

 克哉は力なく笑って返す。

 

「つまり、それはすべて夢だったということだろう」

 

 

 

 あの夜以降、御堂は克哉を食事に誘うことはなくなった。克哉も当然御堂を誘うことはない。ふたりの間の空気は暗く重く沈んでいた。仕事中、時折御堂の視線を感じた。じっと克哉を見詰めている気配がする。御堂は御堂で、自分を試しているのだろう。自分がどこまで克哉に心を許せるのか。だが、それがどれほど無益な挑戦なのか見るまでもなかった。御堂は克哉が近づくと怯え、克哉が離れると安堵する。克哉に向ける眼差しの中にかつての御堂は存在しなかった。それを日々思い知らされて胸が痛くなる。いくら表面上は取り繕っていたとしても、ふたりの仲のぎごちなさは社員もさすがに気付き始めたかもしれない。

 結局、克哉の部屋に残された御堂の私物はそのままで、御堂が取りに来ることもなかった。

 何の進展もない膠着状態が続いたその日、AA社の戸締りを終えて誰もいない部屋に戻ろうとしたところで、携帯電話が震えて着信を告げた。表示を見れば四柳からだった。四柳とは今回の御堂の一件で連絡先を交換していた。だが、いまのいままで連絡が来ることはなかった。何の用だろうかと訝(いぶか)しみながらも電話に出ると、『もし時間があるなら一緒に飲まないか?』と誘われる。唐突さに戸惑うが、聞けば、病院近くのバーで一人で飲んでいるという。タクシーを拾えば十分程度の距離で、克哉は誘われるがままに告げられたバーへと向かった。

 四柳の行きつけだというそのバーはカウンター席を中心としたこぢんまりとした小さな店で、仄暗く調整された照明と品の良い内装で落ち着いた雰囲気の店だった。

 磨かれた黒い天板のカウンターの一番奥に四柳は座っていた。白衣を脱いだ普段着の姿だ。克哉もその隣のスツールに腰を下ろすと、老年に差しかかった品の良いバーテンダーが注文を尋ねにくる。克哉が口を開く前に、四柳が「僕と同じのでいいか?」と尋ねてくる。頷くと「自分と同じものを」と注文した。

 すぐさま克哉の元に四柳が飲んでいるのと同じ、ウイスキーのロックのグラスが置かれた。濁りのない球体の氷が浮かぶ琥珀色の液体で唇を湿らせたところで、四柳が口を開いた。

 

「久しぶり、というほどでもないが、その後どうだ?」

「どうだと訊かれても。四柳先生は、何が聞きたいんですか。それとも、俺に何かを言いたい?」

 

 わざわざこの場に呼んだのは純粋に克哉と酒が飲みたいからではないだろう。直截的な物言いに四柳が苦笑いをする。克哉はタバコに火を入れて、四柳がどう出るかを待っていると、四柳はグラスに口を付け、そしてぽつりと呟いた。

 

「先日、御堂から連絡があった」

 

 克哉はタバコを手にしたまま動きを止めて、四柳へと顔を向ける。反対に四柳は克哉から視線を手元のグラスに落として言った。

 

「御堂が、元の状態に戻してほしいと言ってきた」

「元の状態?」

「手術を受ける前の状態だ」

「何を馬鹿なことを」

「そのとおり。馬鹿なことを言うな、と怒ったよ」

 

 喉が急激に干上がるのを感じた。タバコの火をアッシュトレイに押し付けて消すとグラスに口をつけた。スモーキーで奥深い香りが鼻に抜けて、カッと胃が熱くなる。

 

「御堂らしくない短絡さだ。元に戻せるわけがないことも、そうしたところで何の解決にならないこともわかっているはずなのに、それでも僕にそう頼んできた」

「どうして、そんなことを……」

 

 絞り出した声は掠れていた。視線の先でグラスの中の氷が揺れて、ウイスキーが波紋を立てた。四柳はちらりと克哉を見遣る。

 

「君も知っているだろう。御堂の意志の強さは生半可なものではない。学生時代から、御堂にはこうであるべきという理想の姿が自分の中にあった。そしてその理想に向けて脇目も振らず努力してきた。その御堂はいま、失ったものを取り戻そうとしている。その危うさを僕は心配している」

 

 四柳の懸念は痛いほどに理解できた。御堂は自らの言葉の重みを知っている。決して軽口を叩くような男ではない。そんな御堂が元に戻りたがっているということは、そこまで切羽詰まっているということなのだろう。何が御堂をそれほどまでに追い詰めたのか。それはたぶん、ふたりが恋人だったときの記憶だ。

 御堂は恐ろしく強い男だ。どんな状態であっても立ち直り、自分の足で歩むことができる強靭な意思を持っている。そのしなやかな強さは、克哉は到底太刀打ちできないだろう。だから、いまの御堂も、揺れまどっていたとしても自分自身をそう遠くない日に取り戻すだろうと考えていた。それは御堂が本来得るはずだったものだ。

 しかし、御堂はいまの自分よりも、克哉に愛されていた自分を選ぼうとしている。それが御堂が出した答えなのだ。

 御堂は御堂にしかわからない苦しみの中でもがいている。御堂もまた戻りたいのだ。克哉と共に暮らし、未来に対する何の不満も不安もなく目の前にいる相手を全力で愛することができた過去に。自分の本心を忘れ去って、虚飾の幸せに浸っていたあの日々に。誰かを憎み怯えることよりも誰かを愛しその誰かに愛される方がどれほど幸せだろうか。

 しかし、御堂はそんな感傷的な理由で過去を取り戻そうとしているのではない。

 御堂は克哉に対する責任と義務に縛られているからだ。御堂は克哉に「共に歩む」と誓ってしまった。たとえそれが異常な状態で感情を狂わされていたからで、本来ならば有りうるはずのなかった事態だとわかっていたとしても、御堂は自分の一方的な事情で過去を放棄でないのだ。取り返しのつかない約束をしてしまい、自分のすべてを克哉に捧げてしまった御堂は、克哉から離れることができない。そのためにいまの自分を殺して、克哉を愛していたころの自分に戻ろうとしている。

 

「馬鹿だな……」

 

 絞り出した声は、掠れていた。

 御堂がそれを願い、克哉もまたそれを望んでも、あの時間はもう決して帰ってこないのだ。確かだと思っていたふたりの絆がこれほど脆く儚いものだとは想像だにしなかった。それもそうだ。そもそもが砂上の楼閣だったのだから。

 たっぷりとした沈黙のあと、四柳が言った。

 

「なあ、佐伯君。君も御堂も責任とか期待とか、自分以外のなにかをいろいろ背負いすぎているのではないか」

 

 落ち着いた声音で四柳は語りかける。

 

「御堂は手術してまだ間もない。拙速な判断は避けるべきだと僕は思う。自分の本音を殺して相手を気遣うことは尊いことだ。だが、君らはもう少し腹を割って話し合った方がよいのではないか」

 

 柔和な表情を保ちながらも、四柳の言葉はどこまでも鋭い。四柳は手元にあるウイスキーをひとくち舐めると、思い出したようにバーテンダーを呼んだ。

 

「このウイスキーのボトル出して」

「かしこまりました」

 

 バーテンダーが背後の棚に並べられた瓶からひとつ選んで取り出すと、二人の前に置いた。

 

「これはスコットランドのウイスキー、ラガヴーリン16年だ。佐伯君、ここを見てみて」

 

 そう言って、四柳はボトルのラベルの細かい英文の一文を指さした。薄暗いバーで克哉は小さい文字に目を凝らす。四柳が口を開いた。

 

「ここにはこう書かれている。『TAKES OUT THE FIRE but LEAVES IN THE WARMTH ――歳月は情熱の炎を消し去り、ぬくもりを残す』……ラガヴーリンの時間をかけて熟成された味わいを指す言葉だが、同時にこの言葉のおかげでこのウイスキーは愛のウイスキーとしても人気が高い」

 

 スコットランド発祥の蒸留酒であるウイスキーは蒸留された時点では無色透明のアルコールだ。しかし、それは香りも味も強烈でそのまま飲むには荒々しい風味だという。そんな蒸留酒が樽で長期間熟成されることによって琥珀色となり、またウイスキーならではの華やかで深い香りや複雑な風味が生まれるという。

 

「君たちの間ことは僕が口を挟むことではないだろう。だが、いま、君らに困難が起きていることはわかっている。それでも、君たちがいままでに築き上げてきたものがあるはずだ。焦らず待つことで解決できるかもしれない」

「確証もないのに期待を持たせることを言わないでください。俺にも、御堂さんにも」

 

 克哉は不愉快さを声音に乗せて言った。

 四柳が御堂のみならず克哉のことまで気にかけてくれているのはわかっていた。だが、四柳はそもそもふたりの間になにがあったのかを知らない。前提が間違っていたとしたら、そこからどれほど熟成させたとしても実を結ぶことはない。克哉は本来なら御堂に愛される資格はなかったのだ。だから、いくら時間をかけたとしても望む結末にたどり着くことはない。

 克哉の棘のある態度にも四柳は気を悪くしたふうではなかった。

 目を伏せてグラスに注がれた琥珀色の液体を見つめ続ける克哉に、四柳は静かな声で言う。

 

「僕は人間の可能性を信じている。君のことも、御堂のことも」

「あなたはそれで幾度裏切られた? 信じていたものから裏切られても同じことが言えるのか?」

 

 意地の悪い口調で訊き返せば、四柳は揺らぐことのない眼差しを克哉に向ける。

 

「僕は誰かを信じ抜くことができる自分を信じている。だから、誰に何度裏切られようと関係ない」

「狂信者めいているな」

「自分を強く持っていると言ってくれないかな」

 

 四柳は苦笑しつつも迷いのない口調で言い切った。それは、生死の現場でどれほど手を尽くしても自分の手からこぼれ落ちていく命を目にし続けたからこその言葉なのかもしれない。何かを強く信じなければ心が折れてしまうような過酷な現場なのだろう。

 四柳はちらりと克哉に目配せをして仄かに笑いかける。

 

「希望を奪うことは誰にもできない。最悪に備えながらも、最善を期待する。せめて、それくらいは許されるだろう?」

「……そうですね」

 

 気のない返事に聞こえたのだろう。四柳はじっと克哉を見詰めたが、それ以上は何も口にしなかった。

 

 

 

 四柳と別れて家へと帰った。御堂のいない空っぽの部屋、電気を点けることもなく窓の前にぼんやりと佇んだ。

 部屋の中は以前とは変わらなかった。それなのに、そのうち戻ってくるだろう、という気持ちと、もう戻ってはこないという気持ちの移り変わりだけでこうも部屋が寒々と見えてしまうのだろうか。

 この部屋には幸せな記憶があちらこちらに染み付いていた。ソファもテーブルも、部屋のありとあらゆるところで御堂がいたときの姿を思い浮かべることができたのに、いまは何もない。空っぽだ。もしかしたらずっとそうだったのかもしれない。ふたりで積み重ねてきたと思ったものは何もなくて、自分は幻影を視てきたのではないかとさえ思わせる。

 そもそも克哉があれほど踏み躙り何もかもを奪い取った御堂が自分を愛するなんて奇跡が起きるはずなかったのだ。それでも、克哉は自分を追いかけてきた御堂の言葉を信じ、疑うことをしなかった。それどころか自分の深いところまで御堂に明け渡してしまった。

 これが御堂の壮大な復讐の一環だとしたら、見事に成功している。克哉に自分を与えて、どっぷりと溺れさせたところで奈落へ突き落としたのだから。

 

「いいや、御堂はそんな無駄なことはしない」

 

 自分の妄想を一笑に付す。御堂は、過去の復讐よりも未来を掴み取ることを選ぶ男だ。自分が何をすべきかをどこまでも冷徹に判断し実行する。それが御堂だ。

 だから、これは御堂でさえ想定外の事態だったのだ。あのときの御堂は心から克哉を愛していた。それは間違いない。だからこそ、自分の感情と相反する克哉との記憶が御堂の負担になっている。そして、御堂はわが身を顧みずに自分の言葉を守ろうとしている。

 御堂の選択はわかった。それなら、克哉はどうすべきなのか。

 御堂が自分を見て怯えるようになっても、克哉はAA社で会えることを心の奥底で喜んでいた。顔を合わせるほどに、御堂の中に克哉に対する愛情の欠片さえ残っていないことを突きつけられても、それでも自分は御堂から離れられないのだと気が付いた。こうなってもまだ、御堂がまた克哉への気持ちを取り戻してくれることを、心をどこかで期待していた。

 御堂と一緒にいたい、抱き締めたい、キスしたい。

 すべてが自分のせいであることはわかっているのに、どうすれば御堂を引き留めることができるのかそればかりを考えている。

 視界の先では眩いほどに東京の夜景が輝いていた。その無数の光ひとつひとつに人々の営みが息づいているのに、どこにも御堂と克哉の光は見えない。

 克哉は目を閉じて重たい息を吐いた。

 

「……なりふり構わず勝ちにいくことよりも、きれいに負けることの方が重要なこともある」

 

 自分自身に言い聞かせる。

 かつて克哉は御堂を屈服させようとして御堂を監禁し壊そうとした。だが、ぎりぎりのところで克哉は自分が犯した罪と自らの敗北に気が付くことができた。あのとき、克哉が自分の本心に気づき負けを認めることができなかったら、御堂は再起不能なところまで壊されていただろう。

 今回だって同じだ。

 克哉は御堂を手離したくない。どうあっても手元に縛り付けておきたい。そんな誘惑と戦い続けている。

 御堂は自分がした約束から逃れられず、克哉は幸せだった時間への未練が振り切れない。

 だが、もう引き際だろう。

 このままでは決して手に入らない楽園を求めるあまり、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。

 もし、手術によって御堂が克哉への愛を失ってしまうと知っていたら、自分は御堂に手術を勧めなかっただろうか。

 いや、そんな選択肢は絶対に選ばない。自分を愛し続けてもらうために、御堂を命の危機にさらすことはできない。

 つまり、これは避けられない運命だったのだ。

 だから心残りがあるとすれば、克哉を心から愛してくれていた御堂とちゃんとしたお別れができなかったことだろう。

 目を瞑れば、あの手術の日の朝に見た御堂の姿をありありと思い出せた。あのときの空気の湿度や匂いまで頭の中で再現できる。あの瞬間が克哉を愛してくれた御堂の最後の姿だと気付けなかった過去の自分の愚鈍さに怒りを覚える。だが、同時にあのときの御堂をしっかりと記憶していた過去の自分に感謝する。

 脳裏に描く御堂に別れを告げる。

 ありがとう。あなたを愛していた。

 あなたからいろんなものを受け取った。あなたと恋人でいる間、俺は幸せだった。俺のことを愛してくれてありがとう。これからもあなたの幸せを祈り続けている。さようなら。

 ゆっくりと瞼を押し上げれば、そこには先程変わらぬ暗い水の底に沈んだような克哉の部屋があった。懇々と湧き上がる想いと苦しさが一緒くたになって心臓を締めつけた。

 こんなふうにはっきりとお別れを告げることができたら、いま胸に抱える未練と折り合いをつけることができただろうか。

 いいや、きっと無理だろう。克哉はこれからも数え切れないほど、起こることのなかった可能性に思いを巡らせ、手に入るはずだった未来に胸をかき乱されるのだ。

 御堂に別れを告げれば、御堂はきっと克哉の前から去っていく。籠の鳥が開かれた扉から飛び立っていくように。

 

「それでも俺は別れを告げるべきなのだろうな」

 

 過去が足枷となっている御堂を自分から解放するために。

 胸にぽっかりと開いた大きな穴は喪失感もしくは悲しさなのだろう。それなのに、涙さえ出ない。

 気を紛らわせようとタバコを取り出して、克哉は火をつけることなくタバコを握りつぶした。

 

 ――こんなときでさえ、俺はかっこつける気なのか。

 

 自嘲の笑いさえ零れた。泣いて縋ったって、現状を変えられるわけではない。御堂の心を取り戻すことはできない。自分が惨めなだけだ。だからせめて上っ面だけは澄ました顔でいる。御堂がいなくなっても微塵たりともダメージを受けないかのように。自分自身でさえ定かではない、不安定極まりない世界の中で御堂こそが克哉のよすがだった。いまさら何も守るもなんてないのに、こんなふうにかっこつけて、自分の沽券(こけん)を保とうとする。

 

「いつまで経っても俺はみっともないな」

 

 零れおちた言葉は部屋に満ちた夜気に溶け込んでいった。

『馬鹿なことを言うな、御堂。お前は自分が何を言っているのか、わかっているのか?』

「当然だ。その上で訊いている。私が知りたいのは可能かどうかだ」

 

 電話越しに四柳の叱責が響いてくるが、御堂も負けずに言い返すと四柳は押し黙った。数秒の沈黙のあと、四柳は硬い声音で言った。

 

『血腫を作ることは物理的に可能だが、お前の頭の中あった血腫がどういうメカニズムで影響を及ぼしたのか不明である以上、以前の状態を再現することもまた不可能だ。いろいろな偶然が重なった結果だろう。もしかしたら血腫は単なるトリガーで別の何かが主たる原因だった可能性もある。だから、また血腫ができたからといって術前の状態に戻れる可能性はゼロと言っていい』

「そうか……」

 

 想定内の返事だったから失望はなかった。だが、知らず知らずのうちに落胆が言葉に滲んでいたらしい。四柳は御堂を諭すよう落ち着けた口調で言う。

 

「佐伯君にも言ったが、脳の構造は複雑で情動のメカニズムは謎に満ちている。いまの状況が術後の一時的な変化ならまた変わる可能性が高い』

 

 四柳の口から出た『佐伯』という単語に反応する。

 

「佐伯にも同じことを訊かれたのか?」

『いや……』

 

 四柳は言いよどみ、そして口を開く。

 

『彼は、血腫によって恐怖が抑えられるのならば、恋愛感情もまた血腫によって引き起こされたのではないかと疑って、僕に訊いてきた。だが、正直にわからないと答えた』

「……」

 

 克哉がそう考えていることを知って胸の奥がひんやりとざわめいた。だからこそ、共に夕食を誘ったときにあんなふうに突き放されたのかもしれない。克哉はかつての御堂の愛を紛(まが)い物だと見切ったのだ。そして血腫とともに御堂の中から克哉への愛が取り除かれてしまったことも見切っていた。

 

『なあ、御堂。お前はいろいろ思い詰めすぎているんじゃないか。過去の自分に戻ることはできないとか、どこかの作家も言っていただろう』

「ルイス・キャロルだ」

『そうだったかな。御堂、お前は医学的にも僕から見ても正常そのものだ。お前は前に向かって進んでいくしかない。過去に戻るよりも未来を変えることを考えるべきだ』

 

〝私は昨日に戻ることはできない。なぜなら、昨日の私は別の人間だったのだから″

 

 イギリスの作家ルイス・キャロルの著作『不思議の国のアリスの中に出てくる言葉だ。四柳のいうとおりだ。万物は流転し、人も世界も日々変わり続ける。失ったものは取り戻せない。欲しければ新たに手に入れるしかない。だが、それは、手に入れることができたとしても、かつてのものとはまったく別のものなのだ。

 

『僕は自分のもてる技術と知識をすべて使ってお前の手術をした。僕は自分の判断を後悔してはいない』

「それはよくわかっている。四柳、君には感謝している。ありがとう」

 

 はっきりと感謝を告げれば、電話の向こうで四柳がため息を吐いた。幾分和らいた口調で御堂に言う。

 

『佐伯君に申し訳ないとか考えているのかもしれないが、くれぐれも自分を大切にしろ。早まったことは考えないでくれよ』

 

 何度も念を押すようにして言い、四柳は電話を切った。

 ホテルの部屋の一人用のカウチソファに腰を掛けながら、画面が暗転したスマートフォンを前に御堂は深々とため息を吐いた。顔を上げればすぐ傍の窓に御堂の顔が映り込んでいた。眩い夜景を背景に憂いが差し込んだ顔は紛れもなく記憶にある自分の顔そのままだった。

 四柳に連絡したのは短絡的だったと反省する。元に戻せないかと訊いたのは、四柳に余計な心配をかけただけだった。しかし、手術を受けなければ良かった、そう思ったのは事実だった。四柳を責めているわけではない。四柳の手術は完璧だったと自分でも思う。だがその結果、御堂は同棲していた恋人を怖れ、恐怖に感情が揺さぶられるようになった。それでも、いまの御堂が正常なのだという。御堂はこうなることは微塵も望んではいなかった。そしてそんな御堂の後悔は言葉にしなくても四柳に伝わってしまった。

 しかし、四柳の口調がいつになく強かったのは、自分の手術が非難されていると感じたのではなく、御堂の浅慮を怒っていたのだろう。

 やりきれない気持ちを抱えながら、御堂は部屋に備え付けのミニバーにあったウイスキーを、氷を入れたグラスに注ぎ、一口、口に含んだ。

 部屋に置かれているのは海外有名ブランドのウイスキーのミニボトルで、馴染んだ味わい舌の上に広がった。以前はよくホテルの部屋でウイスキーを嗜みながら仕事をこなしていたことを思い出す。時間が経つにつれて溶けた氷がウイスキーを薄め、刻一刻と変化する味わいと香りを楽しんでいたのだ。こうして誰にも邪魔されない空間で一人で過ごすことを御堂は好んでいた。

 それが気がつけば二十四時間克哉と共に過ごす生活になっていた。昔は自分のプライベートな空間に恋人を招くことさえ避けていたのに、信じられないほどの劇的な変化だ。朝ふたりで起きて、豆から淹れたコーヒーを飲みつつ当番制で作った朝食を食べ、ふたりで出勤する。寝食を共にして職場も同じ。二十四時間同じ場所で過ごすような生活だったが、それを息苦しいと思ったことはなかった。むしろ、どれほど克哉を与えられても満足は一瞬で、もっと克哉が欲しくて欲しくてたまらなくなる。それくらい自分は克哉に惚れ込んでいたのだ。

 あの雪がちらついた夜、一年ぶりに再会した克哉を目にして、自分は克哉のことを好きなのだと悟った。電撃に打たれたかのような衝撃だった。そのまま共に一夜を過ごし、翌朝にはAA社の共同経営者となることを即断していた。あのときの自分にはなんの迷いも不安もなかった。それは、いまから思い返せば相当浮かれていたのだろう。

 それがいま、あのときと同じくらいの激しさで、克哉のことを怖れている。そのとき胸を占めていた恋しい気持ちは影も形もなくなり、欠片さえ見当たらない。むしろ克哉を前にして思い出すのは、つい先日までの幸せだった記憶よりもかつての恐怖だ。

 なぜ自分を蹂躙しつくした男にこれほど溺れていたのだろうか。どれほど考えてもわからない。だが、当時の自分は、目の前の克哉を求めてやまず、克哉を信頼のおける公私のパートナーとして深く愛していたし、そんな自分に疑問も感じなかった。それがあの手術を境にすべてが変わってしまった。

 それはまるで鼻先でパチンと何かが弾けて夢から覚めたかのような感覚だった。

 手術を終えて、御堂を悩ましていた頭痛はまったくなくなった。それどころか霧が晴れたかのように思考は冴え渡っていた。その一方で、研ぎ澄まされた神経は過敏になり、御堂の克哉に対する感情は嬲り者にされていた頃へと引き戻された。

 そうなった途端に、見える景色ががらりと変わった。御堂の胸中にあった愛しさは霧散して、克哉を前にすると心臓が不穏に乱れ打ち、鳥肌が立つような寒気に見舞われた。それは紛れもなく、かつて克哉に抱いていた恐怖で、無理やり感情を抑えつけようとしても、克哉の前では指先が凍えるような悪寒が常にあった。

 だが、何よりも御堂を苦しめたのは、頭の中にしっかりと刻まれていた記憶だった。克哉と恋人同士として幸せな時間を過ごしていた記憶が確かな質量として残されていて、当初は思い出すほどにおぞましさに吐き気がした。

 御堂はこの男に強姦され、地位も名誉もすべてを奪いつくされ、挙句、壊れる寸前まで追い込まれたのだ。そのことを忘れたわけでもないのにあっさりと克哉を許し、あまつさえ恋人同士として甘い関係を築き上げていた。それは自分の記憶として思い出せるのに、まったく理解できない他人の振る舞いのようで、相反する感情と記憶が拮抗し不協和音のように御堂の中で軋みつづけている。

 とはいえ、あのときの恐怖を取り戻してもなお、こうして地に足が着いた日常を過ごすことができるのは、皮肉なことにそれもまた克哉との記憶によるものだった。御堂は克哉からの絶対的な好意を手にしていたし、いまの克哉は自分の脅威とはなりえないと知っているからだ。

 克哉と共に過ごした時間のおかげで、自分が知らなかった克哉の一面を知ることができた。克哉は過去を悔いて、御堂を心から愛していることもわかっている。克哉が御堂に向ける眼差しや言葉の節々からは揺るぎない愛情が伝わってきたし、御堂もまた同等以上に克哉を愛していた。御堂が克哉にすべてを曝け出したように、克哉も御堂に自分の弱さを見せた。互いが互いを信頼し、自らの魂を相手に差し出して共に生きることを誓った。ふたりがいれば充足する世界の中で御堂と克哉は過ごしていたのだ。そしてその時間がずっと続くものだと信じていた。

 それなのに、克哉を前にして荒れ狂う感情は御堂の平常心をいとも簡単に奪い去る。ジェットコースターのように急降下する感情に心が追い付かない。

 それだけのことをされたのだ。当然の反応なのかもしれない。かといって、克哉を前にして感情に任せてすべてを放り出して逃げ出すほど若くもなく、忌まわしい過去を水に流して素知らぬ顔をできるほど老成してもいなかった。佐伯克哉という自分の恋人の存在に、ただただ激しく混乱しただけだった。

 とても平静な精神状態で克哉と向き合える自信はなく、御堂は病院から退院したあと、克哉から逃げるようにしてホテルに移った。これからの身の振り方を考えたが、AA社への復帰を決断したのは、やはり記憶がすべて残っていることが大きな要因だった。コンサルティングはいままでの御堂のキャリアからしたら畑違いの業種だったが、御堂はその仕事にやりがいを感じていた。それはいま思い返してみても評価は揺らぐことはなく、自分は本心からAA社で働くことを愛していたのだと思い知る。それに、自分はAA社の共同経営者なのだ。自分の勝手な一存でAA社を辞めることはできない。克哉と毎日顔を合わせることに不安がないわけではなかったが、御堂はAA社に予定どおりに戻ることにしたのだ。

 

 

 実際、AA社復帰してから、克哉との関係を除けば仕事はスムーズに再開できた。日常業務に没頭している間だけは、感情を切り離して冷静でいることができたし、頭痛に悩まされることがなくなった分、仕事の処理速度も精度も上がったくらいだ。克哉もまた、御堂に不用意に近づいたりふたりきりにならないようにさりげなく気を配ってくれていた。

 もしかして、このまま当たり障りのない距離感でやっていけるのかもしれない。そう、ふと気が緩んだ瞬間に、克哉に手を掴まれて、意識するよりも先に克哉の手を振り払っていた。手に持っていた書類がその弾みで派手に宙に舞う。克哉は驚いた顔を向けたが、御堂もまた激しく動揺していた。震えだす自分の腕を掴んで抑えつけながら、自分の顔がみるみるうちに青ざめていくのがわかった。取り繕うことも出来ないほど血の気が引く。その反応は克哉と御堂の隔たりをそのまま現わしていた。

 

「御堂、少し休んで来い。顔色が悪い」

 

 克哉の声に止まっていた御堂の時間がようやく動き出した。克哉は御堂から目を伏せたままデスクに散らばった書類をかき集めている。御堂もまた克哉から視線を逸らしたままぎこちない仕草で頷き、踵を返した。執務室から出る間際、視界の端で克哉がデスクから立ち上がり、膝をついて床に落ちた書類を一枚一枚拾っていた。俯く克哉の横顔は、自分の中に湧き上がる感情を押し殺すように歪んでいた。恋人だったはずの御堂に手ひどい拒絶を受けてもなお、克哉は御堂に紳士的に接しようとしている。その姿を目の当たりにして、胸がひどく苦しかった。

 克哉との関係をどうすべきか、なにが正解なのか。そんなことを考えながら仕事に打ち込み、その中で、自分が担当するはずだった倉山酒造のコンサルティングの進捗を確認したのは当然の成り行きだった。当初、藤田がプランニングした案では、倉山酒造が希望するウイスキー事業を軸に新規の工場建築の資金繰り計画まで立てられていたが、克哉が現状分析から収支計画をシビアに判断した結果、ウイスキー事業は現在熟成中の原酒も含めて売却という提案になっていた。たしかに、克哉の判断は妥当といえるものだろう。ウイスキーは仕込みから出荷されるまで十年以上かかる。その間に流行が冷めて、ウイスキー人気が低迷している可能性は十分にあった。それでも、克哉らしくない、と違和感を覚えた。

 克哉が手掛けるコンサルティングは勝算があるならやる、ないならやらないというものではなかった。勝つために、手元のカードをどのように切って戦局を支配し、自分が求める未来をボードに描き出すか、克哉それを楽しむことができる男だった。克哉のプランニングが独創的で圧倒的なのは、克哉はコンサルタントを未来に沿わせるのではなく、未来をコンサルタントに沿わせるような大胆さがあるからだ。結果、克哉が繰り出す斬新なプランは一見突飛に見えても、すべてが計算しつくされていて、これ以上ないと思わせるような成果を生み出すのだ。そんな普段のプランニングからしたら、倉山酒造のそれは明らかに精彩を欠いていた。記載されている克哉の主張の根拠はもっともなものだが、悲観的な未来を予測し、守りに入った凡庸なプランニングに思えた。

 なぜなのか。

 御堂の記憶にある克哉は常いかなるときも高い能力を発揮し、どんなトラブルにも臨機応変に対応していた。滅多なことには動揺しない一方で、心の柔らかい部分を揺さぶられれば精神的に脆いことも記憶していた。もし、倉山酒造のプランニングが克哉の不調によるものなら、その原因は間違いなく御堂だろう。

 克哉が修正した部分を何度も読み直す。克哉が予測した未来は悲嘆に満ちていて希望の光はどこにもなかった。それはウイスキー市場に限った話ではあったが、克哉の予測は容赦がなく読む側に痛みさえ感じさせる書き方だった。

 これがクライアント側に提出されれば当然反発がでるだろうが、弁が立つ克哉はいかなる反論も理路整然と斬り捨てる。結果、克哉のプランどおり、倉山酒造はウイスキー事業を諦めることになるだろう。それをこのまま見過ごして良いのか。

 いままでの自分なら遠慮なく克哉と向きあって、厳しいことも含めて言いたいことを言い合ってきたはずだった。御堂の意にそぐわないプランは克哉と徹底的に話し合って互いの納得いく形にまとめていた。職場も家も一緒なのだ。どちらかが我慢すれば、不満はいずれ噴出する。だから手が付けられなくなる前に、仕事でもプライベートでも、どんな些細な不満であっても伝えるように心がけてきた。それが御堂と克哉が手探りで見つけた付き合い方だった。

 だがいまは違う。御堂はいまでもAA社の副社長という立場だが、パートナーとしての信頼、そして恋人としての親密さはなくしてしまった。そんな中でどうやって克哉に関わっていくべきか、その距離感を測ることは非常に難しかった。最初からビジネスだけのドライな関係ならともかく、最悪の始まりから恋人関係へと真逆の変化を遂げている。フラットで適切な関係のあり方がわからない。それは克哉にしても同じだろう。だから、倉山酒造のプランにしても、どこまで克哉の深いところに踏み込んで良いか迷った。

 いまの御堂は克哉を極力避けているし、克哉もまた御堂に対して腫れ物に触れるかのような態度でいる。結果、克哉との間には気まずさだけが残っている。このままでは仕事に差し障りがでるだろうし、実際、歪みはもう姿を現している。

 AA社を第一に考えるならば、社長と副社長ふたりの間に亀裂が走ったままであるのはまずい状況であるのは明らかだった。どうにかしなければ、と切実に思った。

「私から歩み寄るべきなのだろうな」

 自分の態度の豹変がすべての原因だとわかっている。克哉は御堂に振り回されているだけだ。

 しかしだからといって、簡単に以前のような関係に戻れるとは思えなかった。御堂にとって克哉は恐怖の対象に戻ってしまっている。いまの克哉はかつての克哉とは違うと自分に言い聞かせても、根深く巣食った恐怖は手強かった。なぜなら御堂は知っているからだ。いくら恋人として御堂に優しく振舞っていたとしても、克哉は相手の尊厳を踏みにじり、支配し、服従させるための残酷な方法を行使することに手慣れている男だ。

 あのとき、御堂は克哉の気分ひとつで御堂は無理やり犯され、苦痛を与えられ、快楽に引きずり込まれた。自分が味わわされた屈辱や絶望、恐怖は御堂が立っていた世界を狂わせた。自分がこの場に立っているのは単に運が良かっただけなのだと思う。

 それを痛感しているからこそ、克哉が怖い。それでも、これからのことを考えると、御堂がこの恐怖を克服しない限りはパートナーとしてAA社を率いていくことは難しいだろう。

 それなら少しずつ形から整えていけないだろうか。そうすることで、もう少し歩み寄ることはできないか。そう思って決死の覚悟で克哉を夕食に誘ったものの、すべて裏目に出てしまった。それどころか、御堂が克哉との関係にこだわるのは恋慕の情ではなく責任感と罪悪感からだと切り捨てられた。克哉の言葉は御堂の心の奥底にしまいこんでいた本音を抉り出そうとした。

 そうなのだろうか。御堂がAA社に復帰することを当然と考え、克哉との関係を取り戻そうとしているのは、自分の言葉を無意識に守ろうとしているからなのか。もし、あんな約束をしていなければ、御堂は克哉とAA社への未練にとらわれることなくあっさり見切りをつけて自ら別れを切り出していたのだろうか。

 あんな酷い仕打ちを受けたのだ。克哉が言うとおり、愛し合ったふたりの過去がなければ御堂は心置きなく克哉を怖れ、憎んでいたのだろうか。

 記憶にある自分は克哉を憎んでいなかった。克哉を赦し、愛していた。そして幸せだった。その気持ちに一点の曇りもなかった。だが、いまの自分は同じ気持ちを抱くことができない。

 克哉と同じ未来を見ることを信じていた自分。だがいまは何を目指せば良いのかさえわからなくなってしまった。

 

 

 互いに気まずさを抱えながら仕事を続けたある日のちょうど昼休憩の直前だった。よく通る快活な声がAA社内に響いた。

 

「おーい、克哉! 元気しているか?」

 

 事務員の女性が「キクチの本多さんがお見えです」と内線連絡が入るのと同時にスーツ姿の大柄な男がずかずかと執務室に入ってきた。短い髪と鍛えられた身体つき。外回りで陽射しを浴びているのかこの時期はよく日に焼けた健康的な肌色になっている。キクチ八課の営業マンの本多憲二だ。受話器の向こうで事務員の慌てた声が聞こえていたから、どうやら制止を振り切り勝手に入ってきたようだ。

 克哉は本多に冷たい視線を向けて、これ見よがしのため息を吐いた。

 

「また来たのか。暇な奴だな」

「たまたま近くに寄ったからさ。昼飯まだだろ? 一緒に飯食おうぜ」

 

 克哉の冷淡な態度も本多は気に留める素振りはない。本多が部屋に入ってきた途端、張り詰めていた執務室内の空気が緩んだのを感じた。本多はキクチ八課の営業マンで、克哉とは大学時代からの友人らしく、こうしてAA社の近くに来た際はちょくちょく顔を出してくる。不在のときもあるから事前に連絡しろと克哉は口を酸っぱく言っているが、いつもやってくるときは突然だ。克哉が不在であっても落胆することもなく「じゃあまた来ます!」と笑顔を振りまきながら去って行く。

 バレーで鍛えた大柄な体格なのに威圧感がないのは、こうした人懐っこさがあるからだろう。遠慮がなく相手に踏み込んでくるが野卑には見えない。だから他人にはどこまでも冷淡な性格の克哉ともウマが合うようだ。現に克哉は鬱陶しそうに本多の相手をしながらも、デスクから立ち上がって御堂に告げる。

 

「本多と昼を食べてくる」

「御堂さん、ちょっと克哉、借りますね」

「ああ、ゆっくりしてくるといい」

 

 克哉は表向き迷惑そうな顔をしているが、本多と交わす口調、そして表情は、気の置けない友人同士のような屈託さが滲んでいる。

言いたいことを言い合える仲なのだろう。

 克哉には本多という友人がいる。

 その事実を心のどこかで喜ばしく思ったそのときだった。執務室を出ようとする克哉が肩越しに振り返り、視線が重なった。克哉がレンズの奥の目をすっと細める。その瞬間、胸にさっとナイフを差し込まれたような冷たい衝撃が御堂を貫いた。ぎくりと身体が強張る。

 克哉にいましがたの御堂の心を見抜かれた。そう直感した。

 それはつまり克哉が御堂以外の世界を持っていることへの安堵だ。御堂がこんな状態になって、克哉への態度を豹変してしまっても克哉には頼ることができる友人がいる。だから大丈夫だと、自身に言い聞かせる自己保身の感情だ。自分の罪悪感を少しでも軽くしようとしている。そんな浅ましさを克哉に見透かされた。

 克哉は表情を消したまま本多と一緒に執務室を出て行った。だが、御堂は固まったまま動けなかった。いたたまれなさに爪が食い込むほど手を強く握る。

 以前の自分は、克哉が本多と昼食を取ることさえ面白くなかった。

 克哉を完全に独占したい。レンズ越しの眼差しに自分以外の誰かを見てほしくない。そんな独占欲を表に出さないように必死に殺していたのだ。それが、いまや、克哉が御堂から自然と離れることを心の奥底で望んでいる。自分の中の克哉への想いは死んでしまったのか。本当のところは克哉から逃げたいと思っていたのか。胸が切なく痛む。

 克哉を愛せない御堂が何を言ったところで克哉に届くわけがないのだ。

 

『御堂孝典……。俺は……あなたの心が、欲しかった』

 

 あの暗い部屋で克哉は御堂にこう告げて、御堂を解放した。

 

 ――あいつが求めているのは私の心だ。

 

 他人の心の機微に聡い克哉は、御堂が自分を怖れるだけでなく、かつての愛を失ってしまったこともとっくに気が付いている。それでもどうにか自分を取り繕って克哉との関係を築こうとしたところで、それは克哉が欲しているものではない。

 克哉を心から愛せる過去の自分でなければ克哉にとって価値がないのだ。

 

「私だって、こんな自分を取り戻したかったわけではない」

 

 虚しい笑みが零れる。

 御堂は指先で手術の傷痕にそっと触れる。すっかり塞がったそこはもう痛みもなく、指先で慎重に辿るとわずかに傷口の盛り上がりがわかる程度まで治っている。伸びてきた髪の毛に覆い隠されてしまえば、痕跡さえ見失ってしまいそうだ。

 もし、克哉が言ったように、この血腫が克哉に追い詰められたときにできたものだとしたら、ゆっくりと時間をかけて御堂を蝕んでいった血腫は、御堂にとって単なる害悪ではなかったのだと思う。克哉に解放されてからしばらくの間、御堂は克哉への恐怖と憎しみに支配されていた。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

 結局のところ、御堂が嫌悪し怖れたのは理不尽な暴力に屈した自分自身だった。だから、脆弱な自分に打ち勝とうと目の前の仕事に没頭した。その結果、過去を克服したと思っていたのに、それはすべてまやかしで、血腫によってマイナスの感情が抑えられていただけだったのだろう。

 だが、血腫は怯え続ける御堂の恐怖を抑え、周囲に目を向けるように促し、御堂が立ち直る手助けをしてくれた。殺したいほどまでに憎んだ相手に、魂まで根こそぎ奪い取られるような激しさで恋に落ちたのも、血腫が何かしら恋愛感情の回路に作用したせいなのかもしれない。それは異常な状態ではあったが、決して不幸ではなかった。むしろこのうえなく幸福な時間を過ごしていたし、すべてが上手くいっていたのだ。だが、血腫を除去したおかげで、過去に怯え感情に呑み込まれてしまう自分が舞い戻ってきてしまった。御堂が嫌悪し、変わりたいと強く願った過去の自分だ。そしてその結果、御堂は昨日までの日常から放り出されてしまった。

 蛇に唆されて知恵の実を口にしたアダムとイブが楽園を追放されてしまったように、御堂もまた楽園を追放されてしまったのだ。克哉を巻き添えにして。

 失ったものは取り戻せない。アダムとイブは知恵の実から得た叡知と引き換えに楽園で享受していた幸福を失ってしまった。しかし、もし知恵の実を放棄することであの楽園に戻れることができたなら、アダムとイブはきっと知恵の実を捨てて戻っていただろう。

 御堂もまた戻れるとしたらどうだろう。

 克哉との生活は幸福に満ちていたのは間違いない。だからといって、克哉の恋人であった自分こそ本当の自分だったのかと思い返せば、それも違うように思えた。紛れもない自分のはずなのに、自分だという実感が持てない。だが、いまの自分だって御堂が望む理想の自分からかけ離れている。

 それならいまの自分とそれまでの自分、どちらがこの世界にとっての最適解かと考えれば自ずと正解は導き出される。克哉が求めているのはいまの御堂ではなく、克哉を心から愛している御堂だ。

 荒れ狂う感情に支配され誰にも必要とされない自分よりも、自信に満ち溢れて誰かに必要とされる自分に決まっている。

 そのためには克哉を愛することができる自分に戻らなければならない。

 だから御堂は仕事を終えてホテルの部屋に戻ると、四柳に電話をかけたのだ。

 

 

 四柳に電話をかけた数日後、業務の終わり際に克哉から声をかけられた。

 

「御堂さん、このあと少しだけ時間をくれないか」

「……わかった」

 

 もちろん食事の誘いではないことはわかっていた。

 克哉の翳りのある表情は、いまから口にする話がふたりにとって切実なものになることを示していた。とはいえ、断るという選択肢は御堂になかった。

 終業時間を迎え、ほかの社員が全員退社すると克哉はおもむろに御堂に声をかけた。

 

「応接室に移りましょうか」

 

 そう言って克哉はクライアントとの面談に使う応接室へ移動した。克哉は御堂に断りを入れていったん部屋を退出し、コーヒーを二人分持ってくると、御堂の前に一つ置いた。ひと言礼を言ってコーヒーを口にする。

 克哉は御堂の正面に座ると、口火を切った。

 

「四柳からあなたが元に戻りたがっていると聞いた」

「それは……」

 

 四柳が克哉に話したのだろう。勝手なことを、と怒りが湧くがそれほどまでに四柳に心配をかけたのだろうと思い至る。もしかしたら四柳は御堂が故意に頭の中に血腫を作ろうとしているとでも思ったのかもしれない。どう釈明したものかと口を開きかけたところで、克哉の方が先に言った。

 

「御堂、あなたが何を勘違いしているのか知らないが、万一あなたが元に戻ったとしても、俺はあなたと元の関係に戻るつもりはない」

 

 冷たく振り払うような声だった。御堂は目を瞠り、息を呑む。

 克哉はいったん言葉を切って、御堂をますぐに見据える。

 

「もう、十分だろう。俺たちの関係を終わりにしよう、御堂」

「……それが、君の結論か」

 

 辛うじて絞り出した声は掠れて震えていた。克哉は「ああ」と頷く。

 克哉の顔は薄い氷が張ったかのように凍えていて、どんな感情も読み取れなかった。

 御堂は膝の上に置いた手をきつく握りしめる。やはりという諦念めいた気持ちとまさかという動揺が混じり合い、どう反応すべきかわからない。克哉の恋人であるはずの自分ならこんな一方的な宣告に憤るはずだと頭では理解しているのに、何の怒りも湧いてこなかった。代わりにどうすれば克哉を翻意させることができるのかと打算的な思考を巡らせている。そんな御堂の心情も思考もなにもかも克哉は見透かしているのだろう。腹の底が冷えてくるのを感じながら、御堂は言った。

 

「君はひと言も私を責めないのだな」

「あなたが責任を感じる必要は無い。責任があるとしたら俺だ」

 

 眼鏡の奥の目がほんの一瞬、苦しげに歪むのが見えた。

 まただ、と御堂は思う。御堂は克哉を責めるつもりはないのに、克哉は一貫して自分を責め続けている。

 

「私は、君を責めていないし憎むつもりもない。私は君を許した」

 

 それは正直な気持ちであり、御堂のそうありたいという望みだった。克哉に対する恐怖も憎しみも胸にある。だが、誰かに怯え憎み続ける日々には戻りたくなかった。しかし、克哉は御堂の言葉を否定するかのようにゆっくりと首を振った。

 

「本当のところを言えば、俺はあなたが頭を打ったところも目撃していたし、その後のあなたの異変に気が付いていた。ただ、それを結び付けて考えようとしなかったのは俺の怠慢だ」

「私の異変?」

 

 克哉の突然の告白に目を瞬かせる。克哉は続けた。

 

「再会したときのあなたは、なにかが変だった。俺が知っているあなたとは明らかに異なっていた。本来のあなたは揺るぎない意志の強さと表裏一体の冷酷さを持つ人間だった。だが、あなたはそうした強さを失っていた」

「……君は私に『変わる必要はない』と言っていたな」

「ああ、あのときの俺はあなたの変化が受け容れられなかったからな」

 

 AA社を設立してまだ間もないころの出来事を思い出す。克哉を立てて一歩退こうとした御堂を克哉は拘束して言ったのだ。「元に戻ってくれるのなら、俺は他に何も望まない」と。あのときは互いに誤解を解いて気持ちを通じあったつもりでいた。だが、それは御堂の独りよがりの勘違いだったのだろうか。

 

「俺があなたを強引な手段で変えてしまったのだと思った。だから、元に戻せるなら戻したかったが、それはもう望むべくもないことだった。あなたはもう変わってしまっていたし、あなたは戻ることを望まなかった」

「まさか、君は私を変えてしまった責任を取るために私と付き合ったとでもいうのか」

「責任……そうだな、責任を感じていたのはたしかだ。だが、俺に見向きもしない本来のあなたよりも、俺のことを愛してくれるあなたでなければ、俺のものにならなかっただろうからな。だから俺は、俺を愛してくれるあなたを愛して、あなたの変化からは目を逸らしていた」

 

 克哉は自分の言葉を噛みしめるようにして言う。

 

「俺のせいであなたは心身ともに傷を負った。それどころか人生まで狂わされた。俺は、あなたが本来得るべきだった地位や名誉、そして報酬を贖う義務がある。過去を取り戻すことはできないが、できる限り償うつもりだ」

「私はそんなことは求めていない。私は納得してこの場にいる」

「違う。頭にけがを負わなければ、あなたは俺と関係を結ぶことも、AA社の副社長になることもなかった。本来ならあなたはこの場にいるはずがない人間だ」

「やめろ、佐伯。私はすべてを覚えている」

 

 克哉の言葉に被せるようにして、御堂は声を上げた。

 

「私はひとつひとつの選択に対して、自分で決断して判断してきた。ここにいる自分を間違っているとは思わない」

 

 むしろ、間違っているのはいまの自分なのではないか。ずっとそんな疑念に囚われている。血腫さえ取らなければ何不自由なく幸せな日々を送れたのだ。

 厳しい声音で反論する御堂に対して、克哉はどこまでも平坦な口調で返してくる。

 

「こんなことになって、あなたが混乱しているのは理解している。だが、勘違いするな、御堂。いまが『元に戻った』状態なんだ。あなたは二年以上も異常な状態だった。だから、」

「私は自分を異常だとは思っていなかった」

「それなら、いまはどうだ? 俺といたときの自分の感情を理解できるか?」

 

 そう訊き返されて言葉に詰まる。自分が克哉といて幸せだったことは覚えているのに、なぜ幸せに感じていたのかは理解できない。前提である克哉への愛情を失ってしまったからだ。

 

「それなら……」

 

 御堂は呻くように言った。

 

「私が手術を受ける前のころに戻ればよいではないか。そうすれば、また君と私と以前のように過ごせるはずだ」

 

 克哉は静かに首を振る。

 

「言っただろう。俺はあなたに元に戻って欲しかった。それが叶ったんだからな。俺はそれ以上のことは望まない」

「この私が本当の私だと?」

 

 容易く感情が揺さぶられ、恐怖に慄く自分を抑えられない。自分の中心に虚ろな穴が開いてしまったかのように頼りなく、本来の自分自身がどうであったかさえ見失ってしまった。それが本当の御堂孝典だとでも言うのだろうか。

 克哉は御堂に静かに言い含めるような口調で言う。

 

「ああ。あなたが恐れているのは俺だけだ。それは当然のことだ。俺はそれだけのことをあなたにしたのだからな。俺さえいなければ、あなたは本来のあなたそのままだ。いまのあなたこそ、あるべき姿で、あなたはいまの自分に自信を持つべきだ」

「だから、私と別れるというのか」

「ああ、そうだ」

 

 克哉は淡々と言った。事務的な口調で告げる克哉の顔は、恐ろしいほど平坦で凪いだ目をしていた。何もかもを諦めてしまった、あるいは、覚悟したかのような、そんな顔だった。

 克哉も四柳と同じようにいまの御堂が正しいのだと言う。だが、正しさとは一体なんだろうか。正しさのためなら、他のものを犠牲にしても良いのか。終わりの見えない苦しみに煩悶し続けなければならないのか。

 ふたりの間に沈黙が降りる。御堂が唇を噛みしめていると、克哉はふっと肩の力を抜いてソファの背もたれに体重を預けた。そして表情を緩めて御堂に言った。

 

「ちょうどいい機会じゃないか。あんたは男でも女でもいけるだろう。それなら、ちゃんとした『家族』を作ることだってできるはずだ。それが普通の正しい幸せだろう。親にも世間にも顔向けができる。何度でも言うが、俺に責任を感じる必要はない」

「君は……」

 

 卑怯だ、と思った。だが、それを口にすることはできなかった。

 克哉には決して叶えることのできない正しい家族の形、それを盾に克哉は御堂に別れを納得させようとしている。

 御堂は世間一般の正しい幸せのあり方を望んでいるなどとひと言も言っていない。それに、克哉こそ世間一般などという考え方は歯牙にもかけない男だ。それなのに、なぜ突然そんな話を持ち出すのかといえば、誰よりも克哉こそ御堂の別れを納得したがっているのではないかと気付いたからだ。

 自分では叶えてやることのできない御堂の望み、それを理由に御堂をそして自分自身を説得しようとしている。

 克哉は御堂を責めることもなければ追い詰めることもしない。ただ、切々と御堂を言い含めようとしている。それはもう、克哉の中で覆すことのできない結論がでてしまっているからだろう。

 どれほど言葉を重ねてもお互いが納得する妥協点に行きつく気がしなかった。克哉は御堂と別れたがっている。それが御堂の最善だと信じているし、いまの御堂は克哉にとっての愛する対象ではなくなってしまっているからだ。このままふたりの関係を続けることは苦しむ時間を長引かせるだけの無駄な延命行為だと判断したのだろう。

 それでも御堂は克哉の言葉をそのまま受け容れることはできなかった。

 

「私は君との過去をなかったことにはしたくない。だから君の主張は受け入れられない」

 

 きっぱりとした口調で言い切ると、克哉は俯いて、はあ、と大きくため息を吐いた。強情な御堂に業を煮やしたかのようなため息だった。

 克哉はゆっくりと顔を上げる。その眸にはいままでにない危うい色を宿していた。克哉は纏う雰囲気をがらりと変える。

 

「御堂」

 

 抗うことのできないような低い声で名前を呼ばれた。

 

「それなら、俺とふたりきりで過ごせるか?」

 

 克哉とふたりきり、それを想像した途端、指先がすっと冷たくなった。克哉は唇の片端を淫靡に吊り上げる。

 

「俺と付き合うということはそういうことだ。記憶にあるだろう? あなたはよく俺のをしゃぶってくれていたよな。そんなに俺と別れたくないなら、俺のをしゃぶり、上に跨って腰を振ることができるか?  いままでのあなたがそうしていたように」

「よせ……」

 

 掠れた声が漏れた。克哉の上で淫らに腰を振っていた自分が思い出されて吐き気が込み上げる。色を失う御堂を前に克哉は冷たい笑みを深めた。

 

「じゃあ、御堂、せめてキスくらいはできるだろう? あなたが大好きなキスだ」

 

 克哉はすっとテーブルの上に上体を乗り出し、御堂の顔に手を伸ばした。頬に手を添えられる。克哉の顔が近づく。あ、と思ったときにはパチンと乾いた音が立ち、右手に熱と痛みを感じた。頬を張られた克哉は外れかけた眼鏡のブリッジを押し上げながら薄く笑う。

 

「ほら、もう答えはでているじゃないか。何をそんなにこだわる必要がある? それとも、いまさら惜しくなったのか? 俺たちが付き合った期間を無駄にするのはもったいないと」

「……私はそんな理由で君との関係を取り戻したいのではない」

 

 それなら、どんな理由で克哉との関係を保ちたいのかと問われれば、御堂は答えられなかった。ただ、それが一番ふたりにとって良い方法だと思っただけだ。しかし、こうして克哉に拒絶を突きつけられているいま、なぜみっともなく縋りつこうとしているのか。

 克哉は御堂に打たれた頬を擦りながらソファに腰を落とす。

 

「もし、AA社での立場を気にしているのなら、それは心配するな。恋人関係を解消したからといって、あなたを追い出したりなんてしない。あなたの能力を俺は高く評価している。だから、AA社に残りたければ残ってくれていいし、去りたければ相応の退職金を払う用意がある」

 

 能力の高さを評価しているというのは、言い換えれば御堂の代わりとなる人間がいれば御堂でなくても良いということだろう。

 

「君は私がいてもいなくても良いという口ぶりだな」

「元々、俺ひとりで起業するつもりだったからな。あなたは自由にすればいい」

 

 突き放す口調は氷水のように冷たく響いた。

 

「随分と冷淡なのだな、君は」

「俺の本性はよく知っているだろう? それさえも忘れてしまったのか?」

 

 克哉は酷薄に笑った。その声が低く剣呑さを帯びる。克哉は自分のジャケットの懐からタバコのケースを取り出した。ソファの背にもたれて、鷹揚な仕草でタバコを一本咥えると火を点けた。脚を組んでタバコの煙越しに御堂を見詰める克哉の姿は、恋人だった克哉とは明らかに異なっていた。

 緊張に喉が干上がっていく。場の雰囲気は不穏なものへと様相を変えていた。渇いた口を潤そうと、手元の冷めきったコーヒーをひとくち口に含んだところで克哉が言った。

 

「なあ、御堂。あなたはやっと元に戻ったというのに、相変わらず脇が甘いな。俺が持ってきたコーヒーを疑いもせずに飲んでいる」

「――――ッ」

 

 凍えた手で心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。ヒュッと喉が狭まり、頭の中が真っ白く染まる。コーヒーカップを持つ手が震えだす。辛うじてカップを落とすことはなかったが、ソーサーに置こうとしたカップがカタカタと不愉快な音を立てた。呻くように言った。

 

「俺はいまのあなたに未練はないが、正直なところあんたの身体に未練はあるし、あんたが嫌がる姿も興奮する。だから、最後に一回くらい抱かせてもらってもいいだろう?」

「……違う。君は、そんなことはしない」

「本気でそう思っているのか? 相変わらずおめでたい奴だな。俺があんたに優しかったとしたらそれはあんたが俺のものだったからだ。自分のものに愛着を持つのは当然だろう? だが今のあんたは違う。あんたに優しくする義理も道理もない」

 

 声が残酷な響きを含む。御堂を射貫く克哉の視線が、獲物を前にした肉食獣のそれになる。かつて幾度となく御堂を甚振った目だ。そのレンズ越しの眼差しが御堂の反応を愉しむようにゆっくりと御堂の全身を舐めていく。

 克哉はもう御堂に対して卑劣なことはしないはずだ、そう理性的に考えようにも、思い返してみれば、克哉は一口も自分のコーヒーに口を付けていなかった。一度悪い方向に傾いた想像は坂を転げ落ちるように最悪な結論を導き出す。

 

「佐伯……まさか……」

「最初にあんたの部屋のソファであんたをヤったときもクスリで動けなくしてたっぷり抱いてやったよな。あんたは初めてなのに俺に強姦されて感じていた。本当はひどくされる方が好きな男なんだよ、お前は」

 

 薄く形の良い唇が次々と御堂を辱める言葉を紡ぐ。

 額に脂汗が浮いた。心臓が激しく乱れ始めたのは、まさか薬が効いてきたせいなのだろうか。呼吸が浅く、せわしないものになる。絶望に青ざめた眼差しで克哉を見返した途端、克哉が太く短い息を吐いて言った。

 

「……嘘だ。何も入れてない」

 

 その言葉に身体の強張りが解けた。だが、安堵の代わりにこみ上げてきたのは激しい後悔だった。克哉との関係を続けたいと言いながら、克哉を信じることさえできなかったのだ。

 

「話は以上だ、御堂。俺は戸締りをして帰るから、先に帰ってくれないか」

 

 もはや御堂に対する何の感情も含まないような素っ気ない口調だった。克哉はタバコの火を消し立ち上がると、御堂に一瞥をくれることもなく応接室のドアへと向かう。

 御堂は打ちのめされてソファに腰を落としたまま動けなかった。それでも出ていこうとする克哉の背中に向かって呼びかけた。

 

「佐伯」

 

 克哉は肩越し振り返る。克哉に視線を重ねながら、問う。

 

「君は私と付き合っていることを後悔しているのか」

 

 はたして、その問いに克哉は初めて戸惑ったように言葉を詰まらせた。だが、ほんの一瞬ののち、克哉から放たれた言葉は御堂の未練を断ち切るものだった。

 

「もうよそう、御堂。思い出は思い出に過ぎない。……所詮は過去の話だ」

 

 過去を思い出と切り捨てる克哉の言葉は鋭利な刃のように鋭く、そして容赦がなかった。

 

「俺が愛した御堂は消えたし、俺はそれを受け容れている。あなたとの未来は存在しない。それがすべてだ」

 

 御堂に向けられる克哉の眸が癒えきらない傷口に触れられたかのように眇められる。

 そうか、と理解した。

 克哉は御堂を心の底から愛していた。だからこそ、過去の御堂の存在をいまの御堂の記憶で汚したくないのだ。

 そうまでして克哉に深く愛されていた過去の自分を思うと胸がキリキリと引き絞られるように痛んだ。

(4)

 AA社を出てからホテルの部屋に戻るまでの間、御堂はほとんど上の空だった。

 タクシーを捕まえるという発想も起きずに、ホテルに向かって夏の夜の湿った空気を掻き分けながら歩き続ける。

 元に戻りたいと思っているのは御堂一人で、克哉はもう御堂との関係に見切りをつけてしまっていた。御堂との別れをすべて呑み込んで、それでも前を向いて歩こうとしている。御堂を置き去りにして。

 克哉がそれで納得しているのなら、それでいいではないか。克哉の愛に贖(あがな)えるだけの感情は胸の内から消えてしまったというのに。

 そう、自分に言い聞かせようとするも、思いのほかショックを受けていたらしい。それは、絶対的な好意を向けられていたはずの相手から拒絶されたという痛みだろう。

 克哉がほんの一瞬見せるやりきれなさや深いところの痛みを堪えているような顔は、自分に対する未練があるからだと思っていた。しかしそれは自分が克哉に愛されていて、いまも当然愛されているはずだという傲慢さからくる思い込みだったのではないか。だから、自分さえ前の状態に戻れば克哉との関係を修復できると思っていた。だが、変わってしまったのは御堂だけではなかった。克哉もまた、否応なく変わってしまったのだ。

 どうして、そこまでして自分は克哉との関係にこだわるのか。

 たぶん、自分は克哉に認めて欲しかったのだ。自分が紛れもない御堂孝典であると。あれほど御堂に執着した克哉なら御堂を受け入れてくれると思った。そのためならかつての自分に戻ることさえも厭わなかった。

 

 ――あいつは全部見通していたのだろうな。

 

 結局のところ、元に戻りたいという願望自体が、不本意に居場所を失ってしまった御堂が利己的な感情で探し出した逃げ場だったのだ。克哉はそんな御堂の浅はかさをわかっていた。だから、御堂に釘を刺したのだ。御堂がどうなろうとももう、克哉との未来はないと。

 いずれにせよ、克哉のキスに応えられず、克哉を信じ切れなかった時点で御堂の覚悟の程度は克哉に計られてしまったのだ。

 惨めさといたたまれなさに身体の横に下ろした拳が戦慄く。

 

「私はいったい誰なのだろうな」

 

 空しさに言葉がひとりでに零れ出る。克哉との愛に溺れていたころにも戻れず、MGN社の部長として何の憂いもなくがむしゃらに上だけを目指していた頃にも戻れない。

 自分は御堂孝典であるということに疑問を挟む余地はないのに、どんな自分が本当の自分だったのか見失ってしまった。

 御堂はくすんだ夜空をぼんやりと見上げた。

 

 

 翌日以降も克哉の御堂に対する態度は変わらなかった。御堂に話しかけるのは必要最低限で素っ気ない。いままではそんな克哉の態度を自分に対する気遣いだと思っていたが、いまとなっては御堂に見切りをつけた克哉のごく当然の距離なのだと思えてくる。現実を受け容れられていないのはいまや御堂ひとりなのではないか。

 こうしてみると、ふたりで立ち上げた会社だからこその息苦しさが身に迫ってくる。MGN社のような大企業であれば、誰か一人と揉めたとしても、人の多さ、社の構造の複雑さが緩衝材となってくれる。だが、AA社は順調に事業拡大をしているとは言え、数える程度の社員しかいないAA社では克哉を避けようがない。共同経営者であれば尚更だ。

 AA社での仕事が以前のように心躍るようなものではなくなっていることに気付き、唖然とする。

 大学時代の友人から飲み会に誘われたのはそんな折だった。

 大学の同期メンバーで集まってワインを嗜む会は、以前は御堂もよく参加していた。だが、MGNを辞めてからは足が遠のき、克哉と付き合いだしてからは、独占欲が強い克哉が御堂が飲み会に出席するのを許さなかった。

 結果、断り続けて誘われる機会もなくなっていたが、どうやら四柳が気を利かせて御堂にも連絡を回してくれたようだ。いま、御堂が飲み会に参加することを反対する人間はいない。気分転換に参加してみたらどうだ、という四柳の後押しもあり、御堂は出席の返事をだした。

 当日、大学時代の友人たちにしばらくぶりに顔を合わせることに少し緊張しつつ、会場のワインバーに顔を出した。馴染みの店はこぢんまりとした変わらない雰囲気で、久しく没交渉だったにも関わらず友人たちは驚きつつも暖かく御堂を迎えてくれた。緊張したのは一瞬で、気心の知れた友人同士、離れていた時間を忘れてすぐに打ち解ける。

 四柳も会場にいたが、御堂が周囲と和やかに歓談している様子をみて安心したようだ。御堂から離れたところで別の友人と会話を交わしている。

 

「久々だな、御堂。元気にしていたか?」

 

 御堂の隣に座っていた友人が席を立ったところで、ワイングラスを片手に内河がやってきた。内河は外務省のキャリア官僚で、先日アメリカから戻ってきたばかりだ。同期の中でもずば抜けたエリートである内河はスマートな物腰かつ明朗快活な男で、御堂とは大学時代から学部もゼミも同じという仲だ。

 内河は数年ぶりに会う懐かしい顔を前にして嬉しそうに目を細める。御堂もまた笑みを返した。

 

「まあまあと言ったところだ。君はどうだ?」

「こちらも可もなく不可もなくと言ったところだ」

 

 内河のことだ。きっとそつのない立ち回りで出世の階段を軽々と上がっているのだろう。内河はワインをひとくち飲んで口を湿らすと、御堂に話を向ける。

 

「そういえばコンサル会社を起業したんだってな。順調か?」

「ああ、悪くはない」

「ずいぶんと謙遜するじゃないか。業界の話題をかっさらっていると聞いたぞ」

 

 すでに御堂の近況は聞き及んでいたのだろう。からりと笑いかける。

 

「お前のことだ。寝食も忘れて働いていたんだろう? 飲み会にも全然顔出さなかったらしいじゃないか」

「不義理をして悪かったな」

 

 またこの話かと御堂は眉根を寄せる。やはり多くの友人の関心は御堂が連絡を絶っていた期間にあるのだろう。御堂はMGN社を追われるようにして辞めた。そこからL&B社、そしてAA社と職を転々としている。御堂の話がどこまで伝わっているか知らないが、あまり良い噂ではなかっただろう。

 どこからどう話せば内河を満足させられるのかと考えながら口を開きかけたところで、内河は御堂の顔をまじまじと覗き込んできた。

 

「……なんだ?」

「いや、お前のキャラが変わったという奴もいたけど、安心した。全然変わってないな」

「私は、変わっていない?」

「ああ、俺が知っているお前そのままだ」

 

 内河は一点の曇りもないような顔で笑った。その笑顔が心苦しい。

 内河と最後にあったのは御堂がMGN時代の部長を務めていたころで、まだ克哉との問題が起きる前だった。克哉と出会い、あの忌まわしい出来事を経て自分は変わった。たった一人の人間を深く愛し、それ以外の世界への興味を失うようになっていた。友人たちからすれば、克哉に惚れ込んで周囲から距離を取っていた御堂は異質に変わってしまったように思えたのだろう。

 しかし、克哉への恐怖を取り戻し、克哉を愛する気持ちを失ったいま、内河が知っているかつての御堂に戻ってしまった。とはいえ、いまの自分はかつての自分と完全に同じではなかった。挫折を知ってしまっている。たった一人の男を恐れ、怯えるようにもなってしまった。出世の階段からも外れ、肩書きは副社長ではあるが起業したばかりのベンチャーだ。一流外資系企業であるMGN社の部長に並ぶものではない。この場に居る他の友人たちの輝かしい肩書に比べれば明らかに見劣りしてしまう。

 しかし、そんな御堂の零落ぶりを嘲笑されるのではないかと覚悟してこの場に来たものの、内河をはじめとした友人たちの態度は変わらなかった。たとえそれが表面上の取り繕ったものであっても、気を遣われるよりよほどいい。御堂とふたたび酒を酌み交わすことを喜んでくれている友人たちを前にして、御堂もまた懐かしい場所に帰ってきたような安らぎを感じていた。

 内河が口を開く。

 

「それで、いつまでその社にいるつもりなんだ?」

「いつまで……?」

 

 何を訊かれたのかわからず戸惑い気味に返すと、内河は言葉を足した。

 

「いまの社の上々のスタートアップができたなら、お前は次のキャリアを見据えて良い頃だろう」

「次のキャリア?」

 

 話の意図が見えず聞き返す御堂に内河はぽんと肩を叩いた。御堂の耳元に口を寄せると声を潜めて言う。

 

「知り合いのヘッドハンターが優秀な人材を探している。悪くない条件……いやそれどころか垂涎ものだ。できることなら俺がやりたいくらいだが、お前を推薦しておいた」

「何? 私は転職するつもりはないぞ」

 

 唐突な話に睨み付けるが内河は悪びれない口調で言う。

 

「お前にふさわしいポジションだ。そのうち話がいくと思うが、よろしく頼む」

「おい待て。私は良いとは言ってないぞ」

「ま、話を聞くだけ聞いてやってくれ」

 

 そう言って手をひらひら振ると、内河は自分のワイングラスを持って席を離れた。そしてまた別の相手に話しかけている。内河にとっては数年ぶりの同期会だ。参加者全員に挨拶して回るつもりなのだろう。

 内河を追いかけていって「勝手なことをするな」と問い詰めたかったが、御堂の横にはまた別の友人がすぐさま座り、「久しぶりだな」と御堂に話しかけてくる。御堂は内河を諦めて、隣に座った友人に向き直った。

 いま飲んでいるワインの品評から仕事の話、果ては世界経済まで話題は尽きることがなく、誰もが打てば響く知性の持ち主で純粋に友人たちとの会話を楽しく感じた。いつの間にか御堂も肩の力を抜いて、声を立てて笑っていた。

 かつての自分はこうした友人たちとの関係を大切にしてきたことを思い出した。しかし、克哉の恋人だったときの自分はこうした友人たちを、地位と肩書に拘泥した価値観を持つくだらない人間だと切り捨てていた。貴重な時間を友人との飲み会で無為に過ごすなら一時(いっとき)でも長く克哉と一緒に過ごしたいと考えていた。あのとき、高みから見下ろして彼らを不要だと切り捨てた自分はどれほど傲慢だったのだろう。

 友人たちと過ごす時間の貴重さ、そして楽しさを、どうして忘れてしまっていたのか。

 

 

 内河が予告したように、それから数日もしないうちにヘッドハンターからメールが来た。内河から紹介されたと書かれ、丁寧な文面で直接会って詳細を話したいと記載してある。

 即座に断ろうかとも思ったが、内河への義理立てもある。相手に会った上でしっかり断った方が良いだろうと仕方なくアポイントメントを受けた。さすがにAA社で面会するわけにはいかないので、休日にホテルのラウンジで会う約束をした。

 そして、当日、ホテルのラウンジに現れたのは、仕立ての良いスーツに身を包み、落ち着いた穏やかな物腰の男だった。

 

「はじめまして、御堂さん。ハートレイ・パートナーズ、プリンシパル・コンサルタントの中本と申します」

「アクワイヤ・アソシエーションの御堂です。初めまして」

 

 挨拶をして、互いの名刺を切る。

 中本と名乗った男は、歳は四十を少し超えたあたりだろうか。軽く会話を交わしただけで知性の高さを感じさせた。ハートレイ・パートナーズとは外資系大手のヘッドハンティング会社で、そこのコンサルタントとはすなわちヘッドハンターだ。部長級ともいえるプリンシパルを務めるということは相当のやり手なのだろう。中本の余裕と貫禄がある佇まいは確かに自信と実績に裏打ちされているように思えた。そして外資大手のプリンシパルレベルが直々に出てくるということは相応の大型案件なのだろうか。

 そんな御堂の探る眼差しに気付いたのか、自己紹介もそこそこに中本は口火を切った。

 

「もうご存じと思いますが、あなたをスカウトしたい」

「私を、ですか」

 

 事前に内河から予告されていたので驚きはなかった。だが、御堂はAA社の共同経営者という立場であるのに、御堂を引き抜けると本気で思っているのだろうか。胡乱な表情を返しながらもとりあえず話を聞くだけ聞こうと中本に話を促した。そして中本の最初のひと言が出た瞬間、御堂は目を瞠った。

 

「サノザー社、ご存じでしょう。日本では製薬会社として有名ですが、欧米では製薬事業だけではなく飲料水事業を展開している複合企業(コングロマリット)です。現在日本における飲料水事業は日本の飲料水会社とのライセンス契約のみですが、今後、日本およびアジアでの飲料水の開発販売事業に乗り出す考えです。そのため、サノザー社の飲料水事業の日本法人を設立する予定で、日本における飲料水事業のリーダーシップを取れる即戦力を欲しがっています」

「サノザー社だと……」

 

 こくりと唾を呑み込んだ。サノザー、製薬業界で世界一の売上高を誇る、知らぬ者はいない超一流企業だ。そのサノザー社が欧米だけで展開していた飲料水事業を、日本法人を設立することで日本を足がかりにアジア圏に進出するという。

 

「サノザー社でのポストはいまと同じ副社長のポストをご用意する予定です。もちろん、副社長ポストに相応しい待遇も。少なくとも、いまの待遇より良いものだと思いますがいかがでしょうか」

 

 中本は鞄から書類を取り出し御堂に手渡した。『Confidential(機密)』の透かし文字が入っているが、そこに書かれていた年俸は申し分ないものだった。いまの収入だってそれなりのものだが、そこにはいまよりも格段に高い数字が記されている。内河が口にした『垂涎もの』というという言葉は大げさでも何でもなかった。

 中本は現在の御堂と同じ副社長のポストというが、AA社とサノザー社では会社の規模も格もとても比較にならない。巨象と蟻レベルだ。中本はそんな御堂の内心の驚愕を見透かしているのだろう。口元に微笑みを乗せながら話を続ける。

 

「これ以外にストックオプション、そして成功報酬もお約束します」

「……どうして私に」

「サノザー社は、日本には日本独自の価値観や好みがあることをよく理解しています。ですから全世界同一商品が絶対であるべきという考えはなく、ブランドイメージを保ちつつ日本向けのオリジナルのフレーバーやパッケージの開発を期待しています。その一方で外資ならではの実績主義という厳しさもある。だからこそ、MGN社で異例の若さで開発部の部長職を務められていたあなたが適任だと考えております」

「しかし、私は……」

 

 MGNを無断欠勤という不祥事で辞めた身だ、そう口にしようとしたところで中本が被せるようにして言葉を継いだ。

 

「御堂さん、あなたはMGN社を辞められたあと、L&B社のプロジェクトマネージャーとしてL&B社の業績拡大に貢献しました。そして現在はコンサルタントとしてブランドの構築、店舗展開など的確なアドバイスで顧客の信頼を得、AA社はコンサルティング業界の風雲児として耳目を集めています」

 

 事前に詳しく調べていたのだろう。御堂の経歴を淀みなく口にする。

 

「いままであなたが手がけられた仕事を拝見しました。あなたの仕事のスタイルは奇をてらわない。良い商品をユーザーに届けるという正攻法で着実に業績を積み重ねている。MGN社での開発部の部長職での働き、L&B社での業績、AA社でのコンサルティングの手腕、そして経営者としてAA社の比類なきスタートアップを成し遂げました。MGN社は欠勤が続いて辞めたと聞いておりますが、このような丁寧で確実な仕事をなさる人物であるならば、やむにやまれぬ理由があったのだと推察いたします。それも踏まえて、サノザー社はあなたのキャリアと実績を高く評価しています」

 

 中本はMGN社を辞めた経緯を知っていると匂わせながらも、御堂を手放しに褒めそやした。安直なリップサービスはコンサルタントの資質を問われかねないが、そう思わせないのは中本の洞察力が的確で、手厳しい批判も必要とあらば口にするような厳しさが垣間見えたからだ。中本は続ける。

 

「元々、新商品の開発能力に長けたあなたが、L&B社でマーケッターとしての視点を磨き、AA社で卓越した経営手腕を身につけられた。マーケティング戦略の視点を持ちながら開発に携われ、そして社の方向性も考えることができる人材は大変貴重です」

 

 転々と職を変えながら自分の市場価値を高めていく。そんなビジネスキャリアのあり方は欧米では普通に認められている。御堂はそういうつもりで転職したのではなかったが、結果として超一流企業からヘッドハントを受ける人材となったのだ。

 しかし、中本からの熱の籠ったオファーを受けながらも御堂はいくぶん冷静さを取り戻し、首を振った。

 

「買いかぶりすぎだ。AA社の急成長は社長の佐伯の手腕によるところが大きい。むしろ、私よりも佐伯をヘッドハンティングした方がいいのではないか」

 

 いまこうして、夾雑物(きょうざつぶつ)のない眼差しで克哉の業績を振り返っても、克哉は傑出した才能を持つ男だと断言できる。誰もがうらやむ能力を兼ね備えているが、決して才能にあぐらをかくことはなく、陰では努力を怠らない面も知っている。努力が成功に実を結ぶとは限らない。だが、成功する人間は必ず努力をしている。そして、努力が成功に繋がるかどうかは才能次第だ。だが、克哉は努力と成功を確実に結び付けることができる、そんな才能に恵まれた希有な人材なのだ。

 もし御堂が、克哉と競い合い、対立する立場であったならば戦慄を感じていただろうし、克哉の能力を冷静に評価することも難しかったはずだ。現に、かつての自分は克哉に脅威と反感を抱いた。能力の差を立場の差でねじ伏せようとしたのだ。

 克哉に対する怯えや恐怖があっても、いまの御堂が克哉とAA社で共に働くことが出来るのは、そんな優れた能力に恵まれた克哉が、誰よりも自分自身に厳しく仕事に打ち込んでいることを知っているからだ。もし出会い方が違ったものであったならば、御堂は克哉と仕事の良きパートナーになれていたかもしれない。

 そんな感傷に囚われる御堂に中本は穏やかな笑みを崩さぬまま言った。

 

「過ぎた謙遜は嫌みに聞こえますよ、御堂さん。それに、もしあなたがそう思われているのなら、あなたは心置きなくAA社を佐伯さんに託すことができるのでは?」

「それは……」

 

 そう切り返されて御堂は言葉に詰まった。

 たしかに中本の言うとおりだ。克哉は御堂がいなくともきっと上手くやっていく。本来ならAA社は克哉ひとりで起業する予定だった。そこに御堂があとから加わったのだ。御堂はAA社に貢献してきたつもりではあったが、それは克哉からしたらあってもなくても変わらない些末なレベルの働きだったのかもしれない。現に、御堂は克哉からAA社を続けても辞めてもどちらでも構わないと言われている。

 AA社、そして、克哉のことを考えると苦い感情がとめどなく湧き上がってくる。御堂は話題を変えた。

 

「副社長のポストと言ったが、社長はすでに決定しているのか?」

「社長はアメリカ本社から派遣される予定ですが、任期は三年以内の予定です」

 

 それはつまり……。

 言葉を失う御堂を見詰める中本の目が細められる。

 

「すなわち、この副社長ポストは社長のバトンを渡すためのポジションです。そのため、実質的に経営を任せられる人材を求めています。つまり、サノザー社はあなたを社長に据えることを考えています」

「私を社長に……?」

「あなたは人を束ね、社を導く能力と行動力を兼ね備えている。あなたは副社長ではなく社長となるべき人材です」

 

 中本は御堂をまっすぐに見据え、そう言い切った。

 興奮と緊張に心臓が早鐘を打ち出す。だが、それを悟られぬよう表情を保った。

 御堂がこのままAA社に残ったとしても、社長になることはない。対等の立場の共同経営者として克哉は扱ってくれていたが、世間一般の見方は違う。御堂はあくまでもナンバー2のポジションだ。AA社は克哉が立ち上げた会社だし、克哉は希代の才能とカリスマを持つ男だ。だから、克哉が社長を務め、自分が副社長である立場に御堂は不満を持っていなかった。しかし、中本の言葉は御堂の深いところに刺さった。

 サノザー社のメイン事業である製薬部門ではないとはいえ、飲料水事業も欧米では業界トップレベルだ。そんなサノザーグループの日本法人の社長を務めるとあらば、周囲から注目を浴びるだろうし、その後のキャリアも輝かしいものになるだろう。

 

「サノザー社のブランド力は日本でも強いとは言え、飲料水部門に関してはゼロからのスタートになります。しかし、製薬部門で培った健康志向の高い商品などを上手く活用すればまだまだ成長が見込めると考えています。期待されているのは果敢な挑戦です。そういった点ではやりがいも大きいのではないかと思いますが、いかがでしょうか」

 

 中本は、いかがでしょうか、と尋ねながらも、御堂が断るとは思っていない自信に満ちた口調だった。実際、御堂は予想外に心揺さぶられていた。

 何のしがらみもない新しい場所で自分の力を試すことができる。そしてまた、他の誰でもなく自分が必要とされている。それも、御堂がもっとも得意とする飲料水市場で自分の力を試すことができるのだ。

 御堂はひとつ息を吐いて自分を落ち着かせて言った。

 

「いつまでに返事をすればいい?」

「すぐにでも、と言いたいところですが、いまのお仕事の引き継ぎなどもあるでしょうから、確約のお返事さえいただければ調整いたします」

「検討したい。少し、時間をくれないか」

「承知しました。またお目にかかるのを楽しみにしています」

 

 落胆した表情はいっさい見せずに中本はにこりと笑って面会を終了した。この一回で話がまとまるとは元より考えていなかったのだろう。

 中本が席を立った後も、御堂はラウンジのソファで思案にふけっていた。

 

 

 朝、着替えを終えると、御堂はホテル近くのカフェでコーヒーと軽食を取った。ホテルのルームサービスで朝食を頼むことはできるし、ロビーフロアに降りればブッフェで好きなものを好きなだけ食べられる。しかし、朝食のために時間と手間を取られることが煩わしくて、ホテルで朝食を食べることはほとんどなかった。かといってコーヒーだけで済ますには健康に悪いので、ホテルの近くのカフェで軽く朝食を食べてからAA社へと向かうのが最近の日課になっていた。ホテル暮らしも一ヶ月を超えてすっかり板についている。だが、いい加減どこかに部屋を借りるべきだろう。

 御堂はカフェの窓際の席に座り、コーヒーを啜りながら足早に出勤する人々の姿を眺めた。まだ残暑が厳しい季節で、道行く人々は照りつける日差しを避けるように俯き加減で歩いている。AA社の上のフロアにある克哉の部屋に住んでいた頃の通勤はエレベーターでオフィス階に降りるだけだったので、日々の季節の移り変わりも見過ごしがちだった。

 めまぐるしく世界は回っている。それを実感する。御堂が立ち止まろうと関係ない。永遠に流れ続ける時間の流れの中で過去への感傷に搦め捕られていれば、大きな流れから御堂一人だけ取り残されていくだろう。かつて御堂を縛っていたもの、御堂が得たもの、捨てたもの。過ぎ去っていったものすべてはもう手が届かないところにある。結局のところ、前へと歩き続けるしかないのだ。そうすれば、いま胸に抱えているすべてを、思い出のひとつとして郷愁の念とともに振り返るときがくるのだろう。

 中本からのオファーについてずっと考えていた。またとない好条件の話で、しかも飲料水開発は御堂が得意とする分野だ。外資のブランド力を活用し、日本の飲料水市場で自分の腕を試せるチャンスだ。いまのコンサルティングもやりがいがある。プランニングが上手くフィットして、企業が業績を上げていくのを見るのは純粋に嬉しい。だが、BtoBの企業相手のビジネスより、BtoCの個人に直接商品を届けるビジネスは消費者の顔が見える分、仕事の手応えが実感できるのはたしかだ。

 だが、サノファー社のポストに就けば、当然AA社は辞めざるを得ない。克哉は続けるも辞めるも好きにしろ、と言っていたが、起業からいままでずっと経営に携わってきた社だ。当然思い入れがある。

 だが……。

 

 ――私はAA社に必要とされているのだろうか。

 

 そして、克哉にも。

 克哉に別れを告げられてからも、ずっとそのことが胸に引っかかっている。克哉の恋人としての立場を失ったいま、御堂が克哉の隣に立つ意味は希薄になっているのは間違いない。それでも、すっぱりとAA社を辞めることにふんぎりがつかない。AA社の仕事に邁進してきたのは克哉が恋人だったからではない。AA社に誇りを持っていたからだ。そして、克哉の能力を認めていたからだ。過酷な競争の中で妥協を許さず、克哉の理想を実現すべく尽力してきた。自分の果たすべき役割を全うしてきたという自負がある。

 AA社の成長を目の当たりにするのは嬉しいし、このままいけば日本屈指の経営コンサルティング会社になることも決して夢ではないだろう。それを見届けたいという気持ちもあった。だが、AA社の事業が軌道に乗ったいま、御堂はもう必要のない人材なのかもしれない。

 いくら悩もうとも、自分の問題だから自分で決めるしかない。そして、オファーを承諾するにしても拒否するにしても、早いほうが良いだろう。

 その日、AA社に出勤した御堂は昼休憩に入るとすぐに克哉のデスクへと向かった。

 

「佐伯」

「なんですか」

 

 ためらいがちに克哉に声をかけると、克哉はキーボードを叩く手を止めてちらりと御堂を見遣る。声を潜めて言った。

 

「実は、ヘッドハンティングを受けている」

「ヘッドハンティング?」

 

 訝しげに聞き返してくる克哉に、ああ、と頷いた。御堂は周囲にさっと視線を走らせる。

 社員はめいめいランチを食べにオフィスを出たり、リフレッシュルームへと移動したりしている。執務室のふたりに注意を払うものはいない。機密性の高い話題を出しても大丈夫だろうと御堂は言葉を継ぐ。

 

「サノザー社だ。日本に拠点を置いてアジア圏への飲料水事業を展開するらしい。その日本法人の副社長に誘われた」

 

 克哉の瞳孔が見開かれ、御堂の顔をまじまじと見返した。その視線が居心地悪く、克哉から視線を外す。

 このヘッドハントはあまりにも絶妙なタイミングだった。いくらまたとない好条件であっても手術を受ける前の御堂なら歯牙にもかけなかっただろう。だが、克哉との仲が冷え込みきったタイミングを見計らったかのようなオファーだ。それをいま克哉に伝えるのは当てつけのように思われないだろうか。克哉の辛辣な反応を怖れたが、返ってきた発言は御堂の予想を裏切るものだった。

 

「すごいじゃないか」

 

 克哉の口から放たれたのは何の衒(てら)いもない純粋な賞賛の言葉だ。克哉は、キーボードに置いていた手を下ろし、チェアごと御堂に向き直る。

 

「サノザー社といえば製薬業界トップの社だし、飲料水も欧米では確固たるシェアを誇っているところだろう。……そうか、噂には聞いていたがアジア市場を次のターゲットとして見据えているという噂は本当だったのか。そして、その日本法人をあなたが率いることになるわけか」

「率いると言っても副社長ポストだ」

「どうせ社長は本社から派遣されたお目付役で、立ち上げを見届けたら戻る予定だろう? つまり、事実上のトップはあなたになる」

 

 御堂があえて口にしなかった事情も克哉はしっかり見通している。御堂は言い訳がましく付け加えた。

 

「L&B社での仕事や、AA社での成果を高く評価してくれたらしい」

「それは良かった」

「君は本気でそう思っているのか?」

「ああ、当然だ」

 

 克哉は頷く。そして御堂に対し完璧な笑顔を見せる。

 

「この社での経験が無駄にならなかったということだろう。それに、あなたにとってこれ以上ないくらいふさわしいポストじゃないか」

 

 だが克哉が褒めそやすほどに御堂は克哉を遠く感じた。目の前にいるのに、手を伸ばせばすぐに触れることができるのに、テレビ画面の向こう側にいるように現実感がなかった。

 

「私はこの話は君の方がふさわしいと思った。君は希有な人材だ。君に比べたら私は……」

「御堂さん」

 

 克哉は御堂の言葉に被せて強い口調で言う。

 

「あなたはサノザー社に認められたんだ。あなたを評価してくれたサノザー社を貶めたくないのなら、下手な卑下はしない方が良い」

 

 そうぴしゃりと言い切られる。中本と同じように克哉も御堂がサノザー社の副社長ポストにふさわしい人材だと評価してくれているのだろうか。恐る恐る尋ねる。

 

「……この話を引き受けて良いのか?」

「何を言っているんだ? 願ってもない話じゃないか。もしAA社のことを気にしているのなら心配無用だ。あなたが育てた部下は見ての通りしっかり育っている。あなたがいなくなれば寂しがるだろうが、皆、あなたの挑戦を祝ってくれるさ。俺もあなたが開発する商品を楽しみにしていますよ」

「佐伯……」

 

 御堂がサノザー社のオファーを受ければ、克哉と御堂は完全に道を違えることになる。隣に立ち、同じ方向を見詰めていた眼差しはそれぞれまったく別の未来へと向けられることになり、ふたりの世界は切り離される。そして、御堂と克哉の人生がこれから先深く交わることはもう二度とないだろう。

 だが、克哉は御堂を引き留めようともしなかった。未練の片鱗も見せない。代わりに、克哉の顔に浮かぶのは祝福と安堵だ。克哉が本多といるときに御堂が感じた安堵を克哉もまた感じているのだろう。

 克哉は御堂の人生を償(つぐな)いたいと言っていた。克哉のせいでMGN社の部長の椅子を失った御堂が、かつての地位よりもはるかに高い地位に就こうとしている。自らの罪悪感をようやく精算することができるからこそ喜んでだろう。御堂がこうして華々しくAA社を去ることは克哉にとって肩の荷を降ろすことと同義なのだ。

 自分は、克哉やAA社にとって、必要とされるどころか重荷であったという事実が御堂の心を暗く沈ませる。

 そんな御堂の様子を逡巡だと受け取ったのか、克哉は言い含める口調で言う。

 

「御堂、もしあなたが迷っているとしたら、それは正しい答えを探しているからじゃない。あなたはとうに正しい答えを見つけている。ただ、その答えを選び取る勇気がないだけだ。御堂、あなたは自分の夢を掴み取るために踏み出すべきだ」

「正しい答えか……」

 

 起業したばかりのベンチャーよりも、一流グローバル企業の副社長ポストの方が良いと誰もが言うだろう。御堂がMGN社にいたころにサノザー社のヘッドハントを受けたらなら一も二もなく引き受けていたはずだ。となれば、いまの御堂にとって正しい答えとはサノザー社のオファーを受けることなのだろうか。

 

「御堂、いままでAA社に貢献してくれて感謝する」

 

 どこまでも他人行儀な礼儀正しさでもって克哉は御堂へ感謝を口にする。まるで今日をもって御堂が辞めるかのようだ。

 

「……ありがとう、佐伯」

 

 そう返すのが精一杯だった。だが、克哉は首を振る。

 

「礼なんていらない。あなたは本来の道に戻るだけだ。AA社も本来の形に戻る。これが俺たちのあるべき姿だろう。いままでのことは忘れて、新しい場所で思う存分活躍してくれ」

 

 それが克哉にとっての正しい答えなのか。プライベートだけでなくビジネスでも御堂に別れを告げて、ふたりの世界を完全に分かつ気なのだ。

 言葉には形容できない感情が込み上げた。御堂は恐怖も怖れも忘れて克哉をまっすぐに見据える。

 

「忘れない。……私は、君のことを忘れない」

「御堂……」

 

 はっきりと告げられた言葉に克哉は驚いたようにレンズの奥の目を瞬かせている。

 御堂はそれ以上何も言わず、克哉に背を向けて執務室を出た。

(5)

「俺は…信じていたのに…」

 

 悲しかった、憎かった、腹立たしかった。

 ようやく絞り出した声にはまだ幼さが残っている。

 克哉は込み上げてくる感情を押し留めようと空を見上げた。幾多もの白く小さな花びらが揺れ惑いながら落ちてくる。

 胸の中で荒れ狂う感情が辛くて苦しくて、堪えようとしても視界が歪んだ。

 十三歳の春、悔しさと悲しさで心をズタズタに切り裂かれたこの日を、克哉はずっと抱えて生きていくのだろうと予感した。これは呪詛だ。親友だったあいつが離れていこうとする克哉にかけた呪いだ。

 

「あなたを苦しみからすくってさしあげましょう」

 

 背後から声がした。振り返れば黒衣を纏った長躯の男が立っている。

 男は輝く金の髪と同じ色の眸を持っていた。男は仄かに笑いつつも暗い夜に獲物を狙う肉食獣のように光る眸を克哉に向けて、克哉に向けて手を伸ばした。

 男の手には眼鏡があった。その眼鏡に強い既視感を覚える。

 どうして俺はこの眼鏡を知っているのか。

 克哉は男の手の上にある眼鏡を凝視する。男の歌うような抑揚の声が克哉の鼓膜を震わせる。

 

「あなたに必要なものは他の何ものでもなく、これなのです」

「これは……俺には必要ない」

 

 返した声は低く、大人の男へと変貌を遂げたそれだった。自分の姿を確認すればいつの間にか四肢が伸び体躯も成長した克哉の姿になっている。そして目の前に立っているのは紛れもないMr.Rと名乗った男だ。

 これは過去の記憶なのか、夢なのか。

 惑う克哉にMr.Rは微笑みかける。

 

「そうでしょうか。いまのあなたに一番必要なのはこの眼鏡でしょう」

「違う。俺はもうこの眼鏡には頼らない」

「それなら、何に頼るのです? あなたが頼っていたあの方は、あなたを捨てて去って行くというのに」

 

 Mr.Rは優美な笑みを深める。

 

「信じたものすべてに裏切られて、あなたにはもはや何も残されていないのですよ。この眼鏡以外は」

 

 体温を一切感じさせない酷薄な言葉。克哉はその言葉を塞ぐように首を振る。

 この眼鏡は克哉の運命の歯車を大きく回した。そしてまた、克哉に関わった人間の運命をも狂わせた。もう二度と、この眼鏡に振り回されたくはない。

 花びらが視界を覆う。真っ白く染め上げられた視界の中で、ぐらり、と足元が沈み込んだ。

 世界が崩れる。

 手を伸ばして必死に何かを掴もうとするが空を切るばかりで、克哉は暗転した世界に呑み込まれていった。

 

 

「っ……」

 

 朝起きたとき、昔の夢を見ていたという曖昧な感触だけが残っていた。だが、頭に残る余韻は感傷というよりは不快そのもので、その感覚だけで自分がどんな夢を見ていたのか察してしまう。

 詳細を思い出してしまわないように、克哉は覚醒しきらない頭を振りつつ寝返りを打った。

 ひんやりとしたシーツが肌に触れた。ひとりで寝るベッドはやたら広く感じる。手足を大の字に伸ばしてもぶつからないし、隣から聞こえてくる静かな寝息の音もない。朝から御堂の不在を痛感しつつ、克哉は夢の残滓を振り払うとベッドから抜け出した。頭が重く気分が悪いのは、まさしく二日酔いの症状で、昨夜ウイスキーを飲み過ぎたと後悔する。あんな夢を見たのもきっとウイスキーのせいだろう。

 昨日、御堂がヘッドハンティングを受けていると克哉に告げてきた。

 オファーをしたのはサノザー社、業界最大手の製薬会社だ。製薬事業に関しては全世界一位の売上高を誇る。そんな業界トップの社が新しく飲料水部門の日本法人を作るという。そこの副社長として御堂に白羽の矢が立ったのだ。

 もしオファーを受けるなら、当然、AA社を辞めることになる。

 ヘッドハンティングは明け透けに言えば引き抜きだ。候補者(キャンディデイト)も企業側も秘密裏に動き、すべてが固まってからようやくいまの雇用主に事情が明かされるのが常だ。辞表を提出されたときには引き留めることもかなわず、ただ見送るしかない。

 だが、御堂は律儀にも打診を受けた段階で克哉に打ち明けてきた。それは、御堂なりの責任感と誠実さだ。御堂はAA社の共同経営者で副社長の立場だ。克哉が「あなたに辞められるのは困る」とひと言告げれば、御堂はオファーを断るつもりだったのだろう。

 だからと言って御堂を引き留めるという選択肢はなかった。いくら飲料水部門に特化した日本法人とはいえ、サノザー社の日本法人の副社長ということは、MGN社の部長職より圧倒的に格が上だ。もちろんAA社の副社長ポストと比べるまでもない。かつて、克哉は御堂をMGN社の部長のポストから引きずりおろした。もし、御堂の原状回復を心から願うなら、これ以上望むべくもないオファーだ。順調にいけば数年以内に社長ポストに抜擢される可能性が高いし、むしろそれを見込んだオファーだろう。御堂は全世界を舞台にした出世コースに大手を振って戻ることができるのだ。

 それなのに御堂はその選択を迷っていた。引っかかっているのは克哉のことか、AA社のことか、それともその両方か。御堂は冷徹なようでいてその実、情に厚い男だ。克哉から別れを告げたとは言え、御堂は自分が手術を受けて変わってしまったことがすべての原因だと考えている。いまここでAA社を捨てて別の社に移ることは不実を重ねてしまうとでも思っているのだろう。

 だから、克哉は心から喜んでいるふりをする。それも、御堂が克哉に見せたような安堵感も乗せて。本多が克哉をランチに誘いに来た日、本多と並んで執務室を出る克哉を見て御堂は安堵の表情を浮かべていた。御堂と視線が繋がった瞬間、御堂はわかりやすくうろたえていた。自分がひた隠しにしていた感情を見透かされたという焦りだろう。だから、克哉もそれを利用した。御堂が自分にとって足枷となる存在であったと暗に知らしめる。克哉が狙ったとおりに御堂は克哉の顔を見て表情を強張らせたが、それが御堂の決断の後押しになったことは間違いなかった。御堂はサノザー社のオファーを受けるだろう。

 執務室を出ていく御堂の背中はいつもどおりまっすぐで、AA社最後の日も、こんなふうに揺るがぬ足取りで出て行くのだろうと、克哉は御堂の後ろ姿を見送った。

 その日の夜遅く、仕事を終えた克哉は自分の部屋に戻ったが、なにもやる気が起きなくて、リビングのソファにただぼんやりと座っていた。何も考えたくなかった。何かを考えれば気持ちがこれ以上なく沈んでしまいそうで。

 そんなときには酩酊するにかぎる。

 視線を部屋の中にさまよわせている内に、ふと御堂が買い集めていたウイスキーの存在を思い出した。気怠(けだる)い身体を奮い立たせてキッチンに向かい、ウイスキーが保管されていた棚を開く。

 棚の中には数十年熟成された高級ウイスキーからクラフトウイスキーと呼ばれる小規模蒸留所の生産数の少ない貴重なウイスキーまで多種多様に取り揃えられていた。コンサルティングの資料のためにと言っていたが、御堂本人の趣味もだいぶ混ざっているのだろう。御堂が集めたものだからと手をつけなかったが、いまさら必要のないものだ。

 克哉が手に取ったのは一番手前にあった桐箱で、中には赤みがかかった琥珀色のウイスキーが入っていた。初めて見るウイスキーだ。克哉は取り出したウイスキーとグラスを手に持ちリビングへと戻り、深く考えずにストレートで呷る。次の瞬間、口の中に広がる香りに克哉は息を呑んだ。複雑な味わいを堪能することなく無理やり嚥下し、ウイスキーの瓶を手に取りラベルを確認した。

 関東の田舎にある老舗の酒造が作るウイスキーだった。ウイスキーを出荷しだして日は浅いが、なるべく国産の原料にこだわり、品評会でも賞を取っている。御堂がウイスキー事業のモデルケースとして注目していたところだ。そのウイスキーのラベルに書かれている『SAKURA CASK』の文字は、このウイスキーが桜の樽で熟成されたことを示していた。克哉の舌の上に残る柔らかく艶やかな余韻はまさしく桜そのもの香りで、不意打ちで桜を味わわされた忌々しさに舌打ちをした。

 カッと熱くなった腹の底から衝動めいた強い感情が沸き上がり、克哉をじりじりと内側から焦がしていく。まだ幼かったころの、そして、因縁がある幼馴染と再会してからの色々な思い出がよみがえりそうになり克哉はぐっと奥歯を噛みしめた。

 

 ――何もかも過ぎたことだ。

 

 かつて克哉に自分を捨てさせるまでに至った出来事は、十数年もの時を経て自分なりにケリをつけたはずだった。過去の亡霊と向き合う勇気を与えてくれたのは御堂だった。御堂を信じ、背中を預けることで、克哉は変わることが出来たのだ。

 御堂との出会いが克哉を変えた。御堂がいたから、この克哉が克哉として、いま、ここにこうしているのだ。もし、隣に立つのが御堂でなかったら自分はまったく違う存在になっていただろう。まるで熟成する樽によって風味がまったく変わるこのウイスキーのように。

 ふいに胸の中を寂寥感のようなひと筋の感情が掠めていった。

 

『なにがあっても君は君のままだし、私は君のそばにいる』

 

 あの日、ホテルの部屋で御堂を抱きしめ、また、御堂に抱きしめられながら告げられた言葉を思い出す。

 もう克哉は変わることはないだろう。かつてのどす黒い衝動に支配されていた自分に戻ることはない。だからこそ、御堂は自分の役目を終えて克哉の元から去っていくのかもしれない。

 だが、自分はそんなに強い存在だろうか。いまだって寄る辺ない心細さから酒に逃げているというのに。

 手に持ったグラスに注がれたウイスキーからは桜の芳香が仄かに漂っていた。

 

「やはり俺は桜を好きになれそうにないな」

 

 このままこのウイスキーを捨ててやろうかと考えて思い直した。たかだかウイスキーだ。桜の香りと風味をまとっただけの。

 克哉はグラスに口をつけ、そのままウイスキーを流し込んだ。別に味わいなんかどうでもいい。酔うことができればいいのだ。グラスが空になるたびに瓶から無造作にウイスキーを注ぎ、それを呷った。

 これが正解なのだと自分自身に言い聞かせる。御堂は本来歩むべき道に戻ろうとしている。他者からの干渉を一切許さず、遥か高みへと向けて一直線に駆け上っていく壮烈なまでのひたむきさ。どれほど打ちのめされようが傷つけられようが、決して揺らぐことのない意志の強さ。克哉が畏怖し、眩く思った御堂本来の姿だ。

 

 ――それでも、俺は……。

 

 酔うほどに建前が崩れ、本音が露わになってくる。いたずらに杯を重ねることで、自分の本心を自覚する。

 どれほどの好条件だったとしても、サノザー社のオファーを御堂に蹴って欲しかった。克哉自ら拒絶したにもかかわらず、それでも御堂が克哉を選んでくれることを期待していた。あの雪の日に、なりふり構わず克哉を追いかけてきてくれたように。

 自分の未練がましさに嫌気がするが、負の感情に搦め捕られた思考はとりとめのない悪循環へと引きずり込まれていく。

 御堂が去ったAA社をいまよりももっと大きくすれば、御堂は自分の選択を後悔するだろうか。克哉と共にいれば良かったと思うだろうか。

 そこまで考えて、克哉は自嘲の笑いを零す。

 御堂は自分が選んだ道を決して後悔することはない。悔恨も未練もすべて呑み込んで、前だけを向いて歩いて行く。御堂が克哉の元を去ろうとするならば、それは克哉への想いをすべて切り捨てるのと同義だ。

 何杯飲んだかわからなくなってきたあたりで尖りきった神経がぼんやりとしてくる。克哉は懐からタバコを取り出し、火を点けると胸の奥まで苦い煙を吸い込んだ。

 

 

 昨夜の記憶はそこで途切れていた。

 ガンガンと痛む頭を押さえつつ、克哉は夏の朝の輝きに満ちた光が満ちるリビングに足を踏み入れると、テーブルに空になったウイスキーの瓶が転がっていた。

 季節外れの桜の香りをまとったウイスキーを浴びるように飲んだせいで、忌々しい過去へと引き戻されたのだろう。やはり飲まずに捨てればよかったと後悔しながら、コーヒーメーカーに一人分のコーヒーをセットしつつバスルームへと向かった。

 セットするコーヒーの量は一人分だ。一人分だからといって二人分にくらべてコーヒーを淹れる手間が半分になるということはない。自分しか飲まないコーヒーだ。いま使っている豆は御堂の好みに合わせている豆で、この豆が切れたらいっそインスタントコーヒーに切り替えようかと考える。朝食にしてもそうだ。当番制で作っていた朝食は御堂がいなくなった途端に朝食抜きの生活になった。ふたりがいたからこそ成り立っていた生活というものを実感する。

 御堂がこの部屋に引っ越したとき、御堂はわずかな私物しか持ち込まなかった。だから克哉の部屋は形をほとんど変えなかった。それを物足りなく感じたが、こうしてみればいつの間にかふたりの生活習慣が混じりあって、恋人らしい同棲生活を送っていた。それが克哉一人の生活になったいま、あっという間に御堂がいたという痕跡が洗い流されていくかのようだ。結果、その変化を実感するたびに、御堂がかつてこの部屋にいたという事実が突きつけられる。

 いまも御堂の私物はいくらか残されているが、もう御堂はこの部屋に足を踏み入れることはないだろう。残った物は思い出ごと処分してくれと言われるような予感がしている。ふたりは互いの気持ちだけで成り立っていた関係だ。だから、気持ちが途切れた瞬間に、いとも容易くつながりは切れてしまう。

 御堂は強い。そして友人にも恵まれている。御堂のこれからの人生に克哉は必要ない。克哉から離れて新しい生活を送れば、すぐに御堂は自らのあるべき姿を思い出すだろう。そしてもう、揺らぐことはない。克哉から与えられた痛みも傷も薄れていくはずだ。

 それでも、御堂は「君のことを忘れない」と言ってくれた。それが克哉へ送る精一杯の餞別なのかもしれない。

 本当に忘れないでいてくれるのだろうか。新しい仕事をして、新しい恋人ができて、日々の忙しさの中で過去が遠く色褪せてしまっても、克哉のことをずっと覚えていてくれるのだろうか。

 チッ……、と克哉は小さく舌打ちをする。

 朝っぱらから感傷に囚われている自分が苛立たしい。克哉はもう一度頭を振ってわだかまる感情を振り切ると、熱いシャワーを浴びた。

 

 

 克哉に何があっても一日は始まって時間は刻一刻と過ぎていくわけで、皮肉にもふたりで仕事をする日々の終わりが見えたせいか御堂の仕事に勤しむ姿勢はいつにも増して冴えていた。

 倉山酒造に出した提案は案の定、先方から渋い顔をされ、再度ウイスキー事業への参入を前提にもう一度考えてくれないか、との返答だった。とはいえ、何を言われても結論は変わらないし、相手のいかなる反論をも立て板に水のごとくねじ伏せる自信はあった。だが、藤田から「ウイスキー事業再開のための工場を建てた際の負債のシミュレーションをしてみれば説得力があるのでは?」と提案されたので、とりあえず藤田の案を採用した。結局、自分たちが納得できるかどうかが重要なのだ。数字という客観的で取り付く島もないデータを突きつけられれば、先方も自分たちの見込みが甘いことを思い知るだろう。

 御堂はあれ以降ヘッドハンティングの話をしてこなかった。いつまで御堂がAA社にいるのかも謎のままだ。ある日突然、今日が最後の出勤日だと宣言されるのではないかと内心で怖れている。

 水面下で何が起ころうともAA社の日常は変わることがない。コンサルティングの件で頭を突き合わせて議論しなくてはいけない場面はあれども、いまとなっては御堂を強く意識してしまっているのは克哉の方で、御堂に余計な感情を悟られないよう対峙することを極力避けている。休憩時間に入れば、御堂と同じ空間にいることが耐えられず、声をかけられる前にビル内の喫煙スペースに逃げていた。だから当然タバコの本数も増えている。明らかに不健康だとは理解しているが、仕事はきっちり回しているのだ。文句を言われる筋合いはないだろう。

 瞬く間に八月が終わり、九月に入った頃、AA社に出勤するなり夏期休暇明けの藤田が克哉を見て小首を傾げた。

 

「佐伯さん、見ないうちに痩せたんじゃないですか?」

「そうか?」

 

 素知らぬ顔でとぼけたが、藤田の見立ては正しい。体調はお世辞にも良いとは言えなかった。食事もろくにとっていない。夜、部屋に戻ると部屋に染みついた御堂の気配に耐えられず、御堂が置いていったウイスキーを次から次に空けている。

 食事も取引先との会食があればそこで食べるが、自分一人だと食べに行くのも面倒で、かといってデリバリーサービスを利用する気にもならずに、ウイスキーを胃に流し込んで無理やり神経を鎮めて眠りについている日がざらにある。

 ここ最近は毎朝、胃のあたりがキリキリ痛み、最悪な気分でベッドから這い出ている。酒には強いという自負はあったが、毎晩ウイスキーを呷り続ける暴飲と言ってもいい飲み方は確実に克哉の身体を痛めつけていた。

 起きた後は熱いシャワーを浴びて身体に染み付いたアルコール臭を洗い流し、目覚まし代わりに濃い目に淹れたコーヒーを飲んでAA社に出勤している。何か胃に入れた方が良いのはわかってはいたが、食欲もすっかり失せていた。身だしなみはきっちりと整えて身綺麗にして出勤したつもりだったが、出勤するなり顔色の悪さを藤田に見咎められたのだ。

 

「佐伯さん、痩せたというよりやつれたという感じですよ。顔色も悪いですし」

 

 白を切るつもりだったが藤田は克哉の顔をまじまじと覗き込みつつ言う。克哉はアルコール臭に気付かれやしないかとさりげなく一歩退いて藤田から距離を取った。

 オフィス内の社員もチラチラと克哉の方を見ながら藤田の言葉に小さく頷いている。皆、口にしないだけで同じことを思っていたのだろう。

 

「自覚はないが、夏バテかもな。精が付くものでも食べるさ」

「そうですか…。あまり無理をしないでくださいね」

 

 藤田の懸念を軽くいなすように克哉は笑い飛ばした。暦上はもう九月だが、まだ日中の気温は30度を超える日は珍しくなかった。とはいえ、通勤で外に出ることもなく、取引先にもドアツードアで向かう克哉は常に冷房が効いた室内にいるも同然だ。それにいままで体調を崩したことがない克哉が夏バテだということに藤田は違和感は覚えたようだがそれ以上追及をしなかった。

 執務室のデスクに着くと、先ほどの藤田との会話を聞いていたらしい御堂も何かを言いたげな顔を克哉に向ける。克哉はその視線を無視してパソコンを立ち上げた。すぐさま仕事に没頭するふりをすれば、御堂は黙ったまま克哉から視線を外した。

 

 

「っ……」

 

 その日の午後、執務室のデスクで克哉は込み上げる気持ち悪さに何度も生唾を呑み込んだ。

 朝の不調が改善するどころか時間が経つほどに悪化してきた。昼頃には胃の痛みはさらにひどくなり、昼食を食べる余裕もなかった。昼休みに部屋に戻り、御堂が頭痛に使っていた痛み止めを飲み、少しだけ休憩してAA社に戻る。だが、痛みは一向に良くならず、椅子から立ち上がろうとすると眩暈がする始末だ。幸いこの日は外に出る用事もなく、克哉は大人しく自分のデスクで仕事をこなしていたが、体調はいっこうに改善する気配がなかった。

 藤田の言葉を思い出す。これは本格的にまずい状態かもしれない。そんな予感に襲われたあたりで、胃が鋭く痛み、強い吐き気がこみ上げる。克哉は思わず上体を屈め、手で口を押さえた。

 

「……佐伯、どうした?」

 

 克哉の異変に気付いたのが、同じ執務室にある御堂のデスクから声が響く。だが、「大丈夫だ」と返事をしようにも声を出すこともできないくらい切羽詰まっていた。

 俯いた姿勢のまま黒目だけを御堂に向けるが、明らかに尋常ではない顔色をしているのだろう。御堂が立ち上がり克哉へと歩みを寄せる。

 もう限界だ。

 ここで醜態は晒せない。一刻も早くこの場を去ろうと、どうにか立ち上がった瞬間、何かが決壊した。胃がせり上がり激烈な嘔吐感が克哉を襲う。

 

「っ、……ぅ」

 

 次の瞬間、口を押えた手の隙間から真っ赤な液体が勢いよくあふれ出した。克哉のデスクにぼたぼたと血だまりができる。御堂がひゅっと鋭く息を吸った音が聞こえた。急いで克哉に駆け寄る。

 

「おい……っ」

 

 口を押さえても指の隙間から鮮やかな赤い血がしたたり落ちる。空っぽのはずの胃がパンパンに張っている感触があった。それはすべて血液なのだろう。手で塞ごうにも塞ぎきれない血で克哉のデスクがどんどん赤く濡れていった。

 

 ――しまった……っ。

 

 こんなときでさえ、デスクの上の重要書類が気にかかる。克哉は空いている方の手を書類に伸ばそうとしたところで足から力が抜けた。崩れ落ちた身体はそのまま背後のプレジデントチェアへと受け止められた。チェアが軋み音を立てる。そのチェアからもずり落ちそうになったが、御堂が咄嗟に克哉の身体を抱きかかえるようにして無理やりチェアへと戻す。

 

「佐伯…っ、―――おいっ!」

 

 克哉を覗き込む御堂の顔が蒼白だった。自分とどっちが血の気を失っているのだろうかと場違いなことを考えてしまう。身体に力が入らず、激しい目眩もする。ダメ押しのごとくごぷりと口からあふれ出した血とともに、命までがこぼれ落ちていくような錯覚に陥った。

 手足が冷たくなってくる。呼吸すらままならず、嘔吐くように何度も血を吐き出した。意識がもうろうとしてくる。

 もしかして、このまま死ぬのだろうか。

 悪い予感に頭の芯がすっと冷える。

 

「救急車を……!」

 

 御堂が克哉のデスクの端にある電話に手を伸ばそうとした。その御堂の手を克哉は咄嗟に掴んだ。血塗れの手がぬるりと滑ったがそれでもしっかりと握りしめた。

 御堂がぎょっとして克哉を見る。口の中に血の味が広がっている。まともに喋れるかどうかもわからない。必死にもつれる舌を懸命に動かして言った。

 

「行く、な」

「な……」

「御堂……、どこにも…行くな。……俺のそばにいろ」

 

 冷え切ってかじかんだかのように凍えた手で、最後の力を振り絞るかのように御堂にすがる。

 御堂が呆然とした顔で、まじまじと目を見開いて克哉を見詰める。

 

「頼む……」

 

 格好悪く見えたっていい。軽蔑されてもいい。だが、御堂に自分の切実な気持ちを告げずに、このまま死んでしまったらきっと後悔する。

 きれいに負けることは重要だ。だが、それは本当に勝つべき戦いが他にあるときの話だ。もう後がない克哉にとって一番大事なことは、二度と後悔しないことだ。

 運命だと割り切って諦めようとしていた想い。だがいざ、二度と御堂に会えないのかもしれないと思うと、自分の中で最後の悪あがきといってもいい強い衝動が込み上げる。もうあとのことはどうなってもいい。ただ、自分の胸にある感情をそのまま伝えたい。

 周囲が騒然としていた。他の社員が集まってきたのだろう。「早く救急車を!」と怒号と悲鳴が飛び交う。その中で、御堂は克哉の手をぐっと強く握り返した。

 

「わかった。君のそばにいる」

 

 御堂が頷いて、克哉を見詰めて強い口調で告げた。安堵と共に、ふ、と意識が途切れた。「佐伯!」と叫ぶ声がどこか遠くから聞こえた。

 

 

 

 桜が散っていた。

 次々と視界に舞い散る白い花びらの輪郭がジワリと滲み、溶け合い、視界一面が白く染め上げられる。

 ああ、またこれかと他人事のように思う一方で、胸をかきむしるような苦しさが込み上げてくる。

 どうして、これほど辛く苦しい思いをしなくてはいけないのか。

 もう二度とこんな思いはしたくなかった。信じていたのにどうして裏切るのか。

 真っ白な視界の中に黒衣の男が浮かび上がる。男は親切そうな顔をして克哉へと手を伸ばす。

 

「信じるから裏切られるのです。あなたはあなた以外を信じなければいい。そうすればもう、誰にも裏切られることはありません」

 

 男の言葉は甘い毒のように蠱惑的に響いた。男は眼鏡を克哉に差し出す。

 

「あなたに必要なものは他の誰でもなくこれなのです。この眼鏡で新しいあなたとして生まれ変わればいい。何もかもを捨てて、これ以上傷つくことのないように。あなたは楽園で過ごすことができる選ばれた人間なのです」

 

 克哉は黙ったまま眼鏡を凝視する。

 もう傷つきたくはなかった。自分の弱さを直視したくはなかった。

 自分だけを信じれば、誰かに裏切られることも拒絶される痛みを感じることもないだろう。そのためはこの眼鏡が必要なのだ。

 だが、はたして、本当にそうなのか。それは逃げているだけではないのか。闘うことを怖がり放棄しようとしているのではないか。

 それでも、この胸が千切れそうな苦しさから救われるというなら……。

 克哉が震える手を眼鏡に伸ばそうとしたそのときだった。

 

「佐伯」

 

 眼鏡に触れる寸前、深みのある声が克哉を引き留めた。声の方向に振り向くが白い闇に包まれた視界は何の像も結ばない。気のせいだったのだろうか、と思った刹那、

 

「佐伯、いくな。戻ってこい」

 

 ふたたび克哉を呼ぶ声が響いた。切羽詰まった声は切実な響きでもって克哉を呼んでいた。その声は克哉の澱んだ記憶をかき混ぜる。ふわり、とあたたかな体温に背後から抱き締められる感覚が蘇る。

 

『君が君でいてくれるから…』

 

 そう克哉に告げたのは誰だったのか。

 電撃に打たれたかのような衝撃が克哉の中心を駆け抜ける。

 俺が信じるべきものは、背中を預けると誓った相手は誰だ?

 あの眼鏡なのか。それとも、違うのか。

 胸の内に問いかける。

 いまお前が本当に望むものは何なのだ?

 

 ――俺が、本当に望むものは……。

 

 手を差し伸べられるのを待っているだけではだめなのだ。自分から手を伸ばさなければ。そして、掴み取らなければ。

 

「御堂!」

 

 鋭く叫んで、声の方向に身体を向けた。白い闇の中に迷いなく手を伸ばす。手を伸ばした先に触れる淡い感触があった。手だ。闇に霞み、溶けようとしているその手を迷いなく掴んだ。途端に儚く霞みかけていた手は力強い輪郭を描く。その輪郭は手から腕、肩、首へと輝線を伸ばし、握った手の向こうに焦がれた姿が鮮やかに浮かび上がる。

 そう、俺が渇望していたものは、御堂孝典。あなただ。

 視界が眩く弾けた。

 白い闇は無数の白い花びらに姿を変え、いっせいに弾けて散った。押し寄せてくる過去の記憶、かけがえのない日々。これはもしかして走馬灯ではないか、と頭の片隅で克哉は思う。どこまでも下に落ちていく感覚。地面に墜落するような衝撃に克哉は目をきつく瞑った。

 それでも怖くはなかった。なぜならひとりではないからだ。御堂が隣で手を握ってくれている。楽園から追放された克哉が迷うことのないようにと。

 

 

「御堂……」

 

 無意識に呟いていた声はひどく掠れていて喉も痛かった。

 意識を取り戻したときに克哉の視界に映り込んだのは白い天井と天井に向かって伸ばされた自分の手だった。重い瞼を押し上げて黒目だけを動かせば、ベッドの脇には点滴のバッグがぶら下がり、その横に置かれたモニターがピッピッと電子音が規則正しいリズムを刻んでいた。

 まじまじと自分の手を眺める。この手で掴んだ御堂の感触はみるみるうちに消え失せた。あれは夢だったのだろうか。

 

「……みっともないな」

 

 掠れた声で呟いた。乾いた笑みが漏れる。触れるべきではないとわかっていたのに、その手を掴んでしまった。それでも、御堂の手のぬくもりの記憶はしっかりと克哉に寄り添っていて、克哉を満たしている。ほんのわずかな痛みと共に。

 意識を取り戻してすぐに、病室にやってきた医者から出血性の十二指腸潰瘍だったと告げられた。

 AA社の執務室からすぐさま病院に救急搬送され、緊急の内視鏡手術を受けてどうにか止血に至ったらしい。克哉が運ばれた病院は御堂が入院したのと同じ病院、すなわち四柳が勤務する病院で、意識を取り戻したその日のうちに四柳が顔をだして見舞いの言葉をかけていった。

 白衣姿の四柳は克哉を目にするなり「危なかったね。生きてて良かったよ」と物騒な言葉を口にする。だが、それはあながち冗談ではなかったようで、内視鏡で出血が止められなかったら開腹手術になっていた、と聞かされた。血圧も下がっていて危ない状態だったという。だが幸い、内視鏡で治療できたおかげで腹を切られることもなく、入院期間も短くすむとのことだった。四柳は克哉に言った。

 

「御堂が救急車で君に付き添ってきたんだ。意識がない君の手を握って必死に君の名を呼んでいた。死の淵から君を呼び戻してくれたのは御堂だぞ、きっと」

 

 ということは、あれは夢ではなかったのだろうか。

 

「ずっと付き添いたいようだったが、仕事があると会社に戻った。またあとで顔を出すと言っていたから」

 

 それだけ言って四柳は出て行った。

 個室に入院させられた克哉の腕には点滴が繋がれて、数日間の絶食生活になってしまった。とはいえ、しばらく元からまともな食事も食べていなかったから絶食でもつらくはないし、むしろ、点滴に糖分が入っているためか空腹感もさほど感じなかった。再出血がなく順調に経過すれば、一週間ほどで退院できるらしい。

 消化器科の克哉の主治医は克哉の荒んだ生活を知って、ふかぶかとため息を吐きながら、タバコと酒は二ヶ月控えるようにと厳命した。できることなら一ヶ月くらいは仕事から離れて療養した方が良いと言われたが、それは適当に頷きつつ、右から左へと聞き流しておく。

 中途半端に放り出した仕事のことが頭を過ったが、緊急入院だったせいでパソコンも何も持ってくることができなかった。何もすることができず、手持ち無沙汰のままベッドの上で上体を起こしどうしたものかと考えていたら、個室のドアがノックされた。返事をすると御堂がキャリーケースを引いて中に入ってくる。見覚えのあるキャリーで、どうやら克哉の入院生活に必要な物品を部屋から持ってきてくれたらしい。御堂はベッドサイドの椅子に座り、克哉の横で荷解きをしながら言う。

 

「君の部屋に入って君の荷物を漁らせてもらった。悪かったな」

「いいえ、助かります」

 

 そう返事をすると、御堂は手を止めて、克哉の顔を見た。

 

「佐伯、大変だったな。だが、無事で良かった」

 

 労(いたわ)りの声をかける御堂は、社交辞令ではなく本心から安堵したような表情をみせた。

 

「心配をかけてすまなかった。だが、あなたのおかげで一週間くらいで退院できそうだ。ありがとう」

 

 そう礼を口にしながらも倒れたときの自分の醜態が思い出されていたたまれない。それでも、素知らぬふりをして軽く頭を下げれば、御堂のほうがバツが悪そうな顔をして克哉の言葉を訂正する。

 

「救急車を呼んでくれたのは藤田だ。応急処置をしながら迅速にこの病院まで運んでくれたのは救急隊員だし、的確な治療を施してくれたのは、この病院の医療従事者たちだ。私は何もしていない。気が動転して君の手を握って君の名を呼んでいただけだ」

 

 その言葉に、やはりあれは夢ではなかったのだな、と確信する。夢と現実の狭間で過去の記憶に呑み込まれそうになる克哉をこの世界に引き留めてくれたのは、紛れもなく御堂だったのだ。

 

「何か見舞いの品を、と思ったのだが、君は絶食中だからな。食べ物のたぐいは持ってこなかった。何か欲しいものがあれば言ってくれ」

 

 そう言いながら克哉の横で、御堂はキャリーの中身を手早くベッドサイドの棚に整理してしまうと、克哉の携帯や充電器、ノートパソコンを床頭台に置いた。これで書きかけだった報告書の続きを書くことができる、とぼんやりと考えながらノートパソコンに手を伸ばしたところで、御堂が一瞬早くノートパソコンを克哉の手から遠ざけた。克哉を睨みつけるようにして言う。

 

「君はまともな食事を食べていなかったそうじゃないか。部屋に入ったら、ウイスキーの空き瓶とたばこの吸い殻が大量にあったぞ。今回の十二指腸潰瘍は酒とタバコと激務によるストレスが原因だと四柳から聞いた。ひと言でまとめれば君の不摂生が原因だ」

「……この病院の個人情報はどうなっているんだ」

 

 御堂の言葉がいちいち正しくて反論もできずに、克哉は呻くように言った。

 いまさらながらに御堂に部屋に入られて荒(すさ)みきっていた生活を見られたことに思い至り、頭が痛くなる。御堂はさらに延々と説教をしそうな雰囲気だったが、病人にこれ以上負担をかけたくないと思いなおしたのか、ため息をひとつつくと克哉にノートパソコンを返す。

 

「入院中の暇つぶし代わりにパソコンはおいておくが、君からの社へのネットワークアクセスは遮断する。仕事のことは私に任せて、君はしっかり療養しろ。仕事中に吐血されても迷惑だ」

 

 いつか御堂に言った台詞がそのまま返ってくる。実際、迷惑をかけたのだから反論もできない。

 

「わかりましたよ。AA社のことはあなたに任せます」

「ああ、任せてくれ」

 

 克哉の返事に御堂は満足そうに頷いて、克哉に「何か不足があったら連絡してくれたまえ」と言って椅子から立ち上がった。

 

「ああ、そうだ」

 

 御堂はふと思い出したように何気ない口調で言った。

 

「ヘッドハンティングの話は断った」

「は? 断った?」

 

 驚いて聞き返せば、御堂は平然とした顔で告げる。

 

「君がそばにいてくれと言ったではないか」

「それは……」

 

 記憶にないと言い逃れることも可能だったが、しっかりと記憶に残っているし、返事を言い淀んでいる時点で記憶があると白状しているようなものだ。治療したはずの胃がキリキリと痛むような感覚に克哉は顔をしかめて言う。

 

「まさか、今際(いまわ)の際(きわ)の人間の戯言を真に受けたのか」

「戯言だったのか? あれは気の迷いだったと訂正するつもりか?」

「……いいや、本心だ」

 

 意地の悪い口調で聞き返す御堂に観念して白状する。あのときは、まさかこうして生き延びるとは思っていなかったから、後先考えずに告白をしてしまった。だが、いまこうして見れば決死の告白も先走った挙げ句の失言になってしまう。御堂は「君のそばにいる」と克哉に告げた。それが死に瀕する人間に対する咄嗟の励ましの言葉であっても、御堂は約束を守るだろう。そういう男なのだ。

 ようやく御堂を過去の克哉との約束から解き放ったというのに、これでは新たに足枷をはめてしまったようなものだ。克哉は眉をひそめて強い口調で言う。

 

「だが、それはそれ、これはこれだ。あんたはサノザーに大抜擢されたんだ。期待に応えるべきだろう」

「まだ言うか。君は往生際が悪いな」

「往生際が良ければいまごろあの世にいるさ」

「こんな場所で不謹慎だぞ、佐伯」

「あんたが言い出したことだろう」

「そうだったか?」

 

 白々しくとぼける御堂に場違いな笑いが込み上げる。

 満身創痍といった状況で、それも殺伐とした病室の中で、かつての距離感のやりとりが顔を覗かせたことに、ふたりの間の空気が緩んでいくのを感じた。

 御堂は怜悧な目元を和らげる。

 

「別に君に責任を負わせるつもりはない。私の判断だ。君はAA社に残るのも去るのも好きにしていい、と言っただろう。だから残ることを選んだ。私が評価に値する人材ならまた話が来るだろう。今回は縁がなかったというだけだ」

「まったく。馬鹿なことを言うな。あれほどの条件はそうないぞ」

 

 いまならまだ撤回が効くだろう。御堂が得るはずだったものを考えれば、またとないオファーだったはずだ。だが、御堂は緩く首を振る。

 

「私は、君に、そして、AA社に必要とされていないのかと思った。変わってしまった私は無価値なのかと。だから、君が私を求めてくれてうれしかった。たとえそれが気の迷いで、変わる前の私を求めていたのだとしても、一番私の傍にいて、一番私を見てくれた君が私を必要としてくれたのだ。それだけで十分だ」

「あなたはまったく変わっていませんよ」

 

 即座に告げれば、御堂は目を大きく見開いて克哉を見た。御堂からわずかに視線を外して小さく笑う。

 

「変わってくれたらよほど諦めがついたさ」

「しかし、私は……」

 

 御堂が視線を泳がせて言い淀む。克哉は言葉を選びながら静かに告げる。

 

「俺のことを好きか嫌いか、ということは些細な違いだ。それがあなたの本質を損なうものではない。あなたはあなただ。何一つとして変わっていない。だから戻る必要もないんだ」

 

 御堂にとっては世界が一変するほどの大きな変化だったのかもしれない。しかし、克哉にとって御堂が自分を愛するかどうかは関係ない。御堂は御堂だ。そして、克哉は御堂を愛している。それが真実だ。

 御堂は克哉の言葉を吟味するように黙り、ややあって、仄かに笑う。

 

「ありがとう、佐伯。私はやはりAA社に残ろうと思う」

 

 静かな声だった。だが、揺るぎない芯を持った声だった。

 こうなったらもう、御堂の意思を覆すことは無理だろう。残念さとそれを少しだけ上回る高揚感を感じながら、克哉は素っ気なく言った。

 

「御堂、後悔するなよ」

「私は後悔しない。……君はどうだ?」

 

 御堂の視線が問いかける。克哉は間髪を入れず答えた。

 

「俺が後悔するわけないだろう」

 

 あなたがそばにいてくれるのだから。

 

 

 翌日の日中には四柳がふたたび克哉の病室にやってきた。

 

「佐伯君、体調はどうだい?」

 

 仕事の合間に顔を出したのだろう。白衣姿でにこやかな顔をして訊いてくる四柳を克哉は思いきり嫌そうな顔で睨みつけた。

 

「俺の個人情報をあの人に色々吹き込んだでしょう。職務上知り得た患者情報を他人に吹聴するのは医師法違反では?」

「手厳しいな。高度に政治的な判断だと考えてくれ」

 

 四柳は苦笑しながら克哉に許可を求めることもなくベッドサイドの椅子に座る。

 

「君たちはまだ恋人同士だと御堂から聞いたが」

「……見解の相違だ」

「じゃあ、君としては違うと?」

 

 克哉から別れを告げて当然別れたつもりでいたが、そういえば御堂の返事を聞いていなかったことに思い当たる。もしかしたら御堂の中では決定事項になっていないのかもしれないが、いちいちそれをこの男に告げるのは癪だ。克哉はうんざりとした顔と口調で言う。

 

「あなたは何がしたいんだ。俺のことは放っておいてくれないか」

「御堂は僕の友人で僕の患者だ。そして君は御堂の大切な人間だからね。心配するのは当然だろう」

「俺のことはいいから、あの人のことだけ心配していてください」

 

 はあ、とこれ見よがしにため息を吐くが、四柳は気分を害した様子もない。

 

「なあ、佐伯君。君は血腫のせいで恋愛感情が起きたのではないかと疑っていたが、もしそれが本当だとしたら、果たしてそれは間違っていることだろうか」

「はい?」

「誰かを好きになるのに、ちゃんとした理由も間違った理由もないんじゃないか、と僕は思う。たとえば、たまたまそこにいたという理由だけでその人を好きになることはダメなのかい?」

 

 突然何を言い出したのかとまじまじと四柳を見返すが、四柳はいたって真面目な顔をして言う。

 

「結局きっかけなんてわからないし、もし、血腫が原因だということが許せないなら、いつだかの瞬間にたまたま君が御堂の前にいたから、御堂は君のことが好きになったと考えるのはどうだ?」

「……それはそれでどうかと思うが」

「別になんだっていいじゃないか。御堂が好きになったのは他の誰でもなく君なのだから」

 

 そう言って屈託なく笑う四柳に克哉は眉間の皺を深くした。

 

「それなら術後に感情が真逆に変わったのはどう説明するんだ」

「男性にもマリッジブルーやパタニティブルーはある。なにかのストレスをきっかけに感情が揺れ動くことはあるだろう。人の心は複雑だからね。それが永続的に続くなら互いの関係を考え直す必要があるが、まだそうと決まったわけではないだろう?」

 

 克哉に向けられた御堂の恐怖に染まった顔を思い返せば、それは『ブルー』というひと言で説明できるような生やさしいものではない。しかし、四柳は四柳なりに、御堂と克哉の関係に気を揉んで、克哉を励ましてくれているのだろう。だから克哉は反論せずに黙っていた。

 四柳は克哉に優しげな眼差しを向ける。

 

「なあ、佐伯君。人は弱さと強さが両立すると僕は思っている。人は弱いから、予期せぬ不幸で挫け心が折れることが多々ある。だが、人は強いから、どれほど絶望しても何度でも立ち上がることができる。諦めさえしなければね。だから、君らふたりがふたりの関係を諦めなければ、きっと良い結果に結びつくと僕は思う」

「……」

 

 人間は脆く、弱い。どれほど困難に襲われても、諦めさえしなければ立ち上がることができる。意思の力でもって自分を変えることができる。人の限界を決めるのはその人自身だ。

 克哉はかつて、自分の弱さから逃げるために眼鏡に頼った。しかし、弱さに挫けそうになったとき、克哉を支えて導いてくれたのは御堂だった。

 そして、克哉は眼鏡を捨てることを選んだ。だから、みっともなかろうがかっこ悪かろうが、自分が自分でいるためには足掻き続けるしかないのだ。それは御堂との関係においても言えるのかもしれない。

 御堂に掴まれた手の感触を思い出しながら、克哉は言った。

 

「あなたは御堂さんに似ていますね」

「そうか?」

「説教くさくて、頑固なところが」

 

 四柳は目を瞬かせると、肩を揺らして笑う。

 

「随分と言うじゃないか。まあ、年下に説教できるのは年上の特権だからね。大目に見てくれ。それに、それだけ元気なら退院もすぐにできるだろう」

 

 四柳は腕時計に視線を落とすと椅子から立ち上がった。休憩時間は終わりらしい。最後に克哉に笑いかける。

 

「そうだ、佐伯君。あいつは一度何かを決意したら、あっという間にことを進めるぞ。置いていかれないように気をつけろよ」

 

 そう言って四柳は軽く手を上げて部屋を出ていった。

(6)
7

 絶食は続いていたが、入院生活は順調だった。身の回りのことは自分でできるので見舞いは不要と伝えていたが、御堂は仕事の合間を縫ってちょくちょく克哉の病室に顔を出した。長居はせずに、ほんの少しの間、部屋に滞在して帰っていく。互いに無言のまま時間が過ぎることもままあったが、御堂は気にしていないようだった。
 御堂が克哉との距離を少しずつ詰めているようにも見えたが、それは御堂の自制心のなせる業か、それとも克哉が弱っている分、御堂が警戒心をほんの少しだけ解いているのかもしれない。
 数日で食事も再開され味気ない病院食に早晩飽きたところで退院許可が下りた。
 退院の日、克哉は朝から退院手続きや会計に追われていると、ドアがノックされた。退院の書類一式を持ってきた看護師かと思い「どうぞ」と声をかけると、「失礼する」と御堂が入ってきた。手には病院名が書かれた封筒を持っている。
 退院は最短の日を選んだので平日の昼間だ。まさか御堂が現れるとは思っていなくて目を丸くする。
 呆気にとられている克哉に御堂は封筒に入った書類を手渡した。

「退院書類を受け取ってきた」
「俺のを?」
「ほかに誰がいるのだ」

 御堂はぞんざいにそう返すと、部屋の中の荷物を手早くキャリーバッグの中に詰めていく。まるで退院日が今日だと知っているかのような動きだ。克哉は御堂に退院日を伝えていなかった。驚かせたかったわけでもなく、ただ、伝えること自体が何かしらの反応を期待しているようで気が引けたからだ。どこから克哉の退院を伝え聞いたのだろうと考えるも、すぐに四柳の顔が目に浮かぶ。そんな克哉の心の内を読んだかのように、御堂が言う。

「四柳が連絡をくれた」
「あいつか……」

 忌々しげに小さく呟く。四柳と御堂の仲の良さを見せつけられているようで内心面白くない。

「仕事はどうした?」
「少しだけ抜けてきた。佐伯が退院だと伝えたら社員も喜んでいたぞ」
「そんないちいち伝えなくても良いだろう。騒がれるのは苦手だ」
「派手に倒れておきながら何をいまさら」

 ひっそりと退院して何事もなかったかのように仕事に復帰するつもりだったが、デスクで吐血して倒れたときのことを持ち出されると分が悪い。
 御堂はあっという間に克哉の部屋の荷物をキャリーに詰め込むと、

「では行こうか」

 と言って克哉の荷物が入ったキャリーバッグを引いて歩き出した。慌てて追いかける。

「荷物は俺が持つからいい」
「なぜ?」

 そう聞き返されて、ため息を吐きながら言う。

「手術して間もない病み上がりの人に持たせられませんよ」
「それは私のセリフだろう。人の親切にたまには甘えろ」

 荷物を奪い返そうにも、御堂は克哉のキャリーをがっちりと掴んでいるし、下手に御堂に近付くのもためらわれる。それに、いい大人がふたりして荷物を奪い合うような醜態は避けたい。
 あきらめて、ふたりしてナースステーションに退院の挨拶をした。よそ行きの笑みを浮かべて礼を述べる御堂に多くの看護師が熱っぽい視線を向けている。見舞いに通っている間にすっかり顔を覚えられてしまったようだ。だからこそ夜遅く見舞いにきても融通を利かせてもらっていたのだろう。四柳といいこの病院は御堂を贔屓しているのではないかと内心面白くない。病棟を出て、御堂は地下の病院駐車場に向かった。付いていくと、駐車場に御堂の車が停めてある。
 たしか、御堂の車はAA社のマンションの駐車場に置きっぱなしだったはずだ。克哉を迎えにいくために車を回収してきたのだろう。御堂は車のトランクケースを開けて克哉の荷物を放り込んで、運転席へと回り込んだ。御堂の車はセダンだ。克哉のクーペタイプの車とは違って、後部座席にも十分なゆとりがある。この場合はどこに座るのが正解なのか。御堂との距離感を図りかねて助手席のドアを開けて、尋ねる。

「隣に座っても?」

 御堂は克哉をちらりと見返して、「好きなところに座ればいいだろう」と言ってさっさとシートベルトを着けている。数秒悩み、隣の助手席に収まると、御堂は前を向いたまま車を発進させた。低いエンジン音が響き、車が動き出す。滑らかなハンドルさばきで御堂は克哉の自宅マンションへと向かって、駐車場の定位置に車を停めた。トランクから克哉のバッグを取り出すと、迷いない足取りでふたりの部屋へと向かった。
 入院している間に季節はすっかり秋へと移り変わったらしい。克哉を取り巻く空気は心地よく爽やかで、こころなしか道行く人々の顔も晴れやかだ。
 キャリーを引いている御堂の代わりにエレベーターのボタンを押し、鍵で部屋のドアを開けて中に入ると御堂もついてくる。どこまで付いてくるのだろうかと訝りながらリビングに入り、違和感に気がついた。
 部屋の中に放っていたウイスキーの空き瓶や吸い殻がきっちり片付けられているのは御堂のおかげにしても、しばらく不在にしていたにも関わらず、部屋の空気にどこか生活の匂いがする。なぜだろうかと部屋の中を見渡したところで、御堂が「コホン」と咳払いして言った。

「実は、数日前にこの部屋に戻ってきた」
「それは……迷惑をかけたな」

 この部屋に戻ってきた御堂に驚きつつも、すぐに理由を察した。克哉の不在を埋めるために長時間の業務を余儀なくされた結果、AA社の上階にあるこの部屋に戻ってきたのだろう。この部屋からだと通勤時間を節約できる。それに克哉が入院しているなら、この部屋で気兼ねなく過ごせるだろう。
 入院中、AA社の仕事は御堂に任せきりで、どうなっているかまったく把握していなかった。御堂も克哉に報告しなかったし、克哉もまた訊かなかった。もし問題があれば御堂から言ってくるだろうし、御堂に任せると言った手前、自分から尋ねるのも無粋だろう。克哉はAA社でやりかけていた仕事を思い出しつつ言う。

「体調も問題ないし、明日から復帰するか?」

 克哉は主治医からは一ヶ月ほど仕事から離れて療養しろと言われたが、とてもそれだけ休めるほどの余裕はなく、一刻も早く仕事復帰をしたい克哉と克哉の身体を心配する御堂の間で協議を行った結果、御堂が休んだのと同じ期間、二週間の療養休暇をとることで話が付いていた。しかし、予定どおり一週間で退院できたことだし、克哉としては残りの一週間を自宅で暇を持て余すよりは一刻も早く復帰したいのが本音だ。
 しかし、御堂は難しい顔をして首を振る。

「君はしっかり療養すべきだ。AA社の業務はいまのところ問題もなく順調だから安心してくれ。副社長に社長と続けざまに倒れたせいか、社員全員、私たちに任せきりはしてられないと奮起して頑張ってくれている」
「怪我の功名ってやつか。まあ、あなたがいるから、心配はしていませんでしたよ」

 巷(ちまた)のワンマン企業同様、AA社は克哉と御堂の働きが大きく、このふたりで成り立っているといっても過言ではない。それなのに短期間の間にトップふたりが入院したとなっては、クライアントの信用にも関わるし、業績にも響く。だが、御堂のことだ。きっと上手くフォローしてくれていたのだろう。
 御堂が、「そうだ」と思い出したように言う。

「ひとつ報告がある」
「なんですか?」
「倉山酒造だが、君が作ったプランニングを差し替えた」
「はい?」
「ウイスキー事業は再開する。工場は新設するのではなく、近くの閉鎖予定の工場を取得し転用するから初期投資を抑えられる」

 御堂の話によると、倉山酒造からほど近いところにある電化製品の製造工場が閉鎖される予定で、その工場をウイスキーの蒸留所へと造りかえるという。それにより大幅にコストダウンが可能とのことだ。

「本気か?」
「もちろんだ。シミュレーションもいくつかのパターンで作成したが、リスクを最小限に抑えることが可能だ。すでに先方に提案書を出して内諾も得ている。好感触だったぞ」

 自信満々な口調の一方で御堂の顔がほんの少し強張っている。克哉の不在時に克哉のプランニングを勝手に差し替え、内容をほとんど書き換えたのだ。克哉の反応を気にしているのだろう。
 もしや、藤田が言い出したシミュレーション作成は御堂の差し金だったのかもしれない、と思い当たる。それで時間稼ぎをしている間に、ウイスキー事業再開の道を模索したのではないか。
 そうこうしているうちに克哉が倒れ、御堂がAA社の全権を任された。言い方は悪いが、その隙を利用してプランを差し替えた。結果、御堂の目論見どおり、倉山酒造の希望が通った提案になったが、それでウイスキー事業がとん挫して倉山酒造の存続にかかわる事態になったら目も当てられない。
 差し替えられたプランの詳細を確認したわけではないが御堂のプランニングには楽観的な期待が多く混ざっていることだろう。御堂の主張を踏まえても、倉山酒造のウイスキー事業が成功するかどうか実際のところ不安は残る。それでも、克哉の答えは決まっていた。

「あなたの主張はわかりました。それでいきましょう」

 すると御堂は目を瞬かせ、意外そうに言った。

「反対されるかと思った」
「あなたに任せると言った自分の言葉は守りますよ。俺はあなたを信用している」
「そうか」

 御堂は満足そうに微笑む。それはかつて数え切れないほど目にした笑みで、胸が切なく痛んだ。
 そんな自分の胸の内から目を逸らすように改めて部屋を見渡した。
 一週間ぶりに戻ってきた部屋は記憶にあるよりも明るく輝いて見えた。空気が柔らかく感じる。それは御堂がいるからだろう。だが、御堂が部屋を去ったらまた冷たい無機質な空間へと逆戻りするのだろうか。

「御堂、俺はしばらく職場復帰はしないから、その間、あなたがこの部屋を使えばいい」
「佐伯それは……」

 どちらにしろ、あと一週間は仕事を休むのだ。どこで療養しても変わらない。それならこの部屋は御堂に使ってもらった方が有意義だろうし、克哉としても御堂の不在を痛感しながら生活をしないで済む。

「それじゃあ、また。一週間後に」

 そう言って、御堂が運び込んだキャリーケースを掴んで部屋を出ようとした瞬間、「待て」と御堂が慌てた様子で克哉を呼び止めた。振り向けば御堂が克哉をまっすぐに見つめていた。御堂が、口を開く。

「佐伯、一緒に暮らそう」
「なんだって?」
「私がこんなことを言える立場ではないが、もう一度やり直さないか」

 それは克哉がたじろぐほどの毅然とした口調だった。潔い眼差しだった。いまだに克哉との関係をあきらめない御堂の意固地さに呆れるが、御堂はいたって真剣だった。克哉は、ふ、と力のない笑みを返す。

「またその話か。あなたは大概しつこいな」
「私のあきらめの悪さは知っているだろう」
「身に染みているさ。俺はあなたがAA社に残ってくれるだけで十分以上に嬉しいですよ。それ以上は求めていない」
「私は君のパートナーだろう?」
「仕事上だけだ」

 返事と共に克哉は御堂を真正面から見返した。いままで怯えさせまいと御堂をまともに見据えることはしていなかったが、克哉は遠慮しなかった。レンズ越しの視線をまっすぐに御堂にぶつける。

「――っ」

 御堂の身体に露骨な緊張が走るのが見て取れた。だが、御堂は一歩も退かなかった。揺らがない眼差しを克哉に返してくる。ふたりの視線が拮抗し、緊迫した空気が張り詰める。克哉は意識して低い声で言う。

「あなたは俺と一緒に過ごすことができるのか。もし、俺への同情や責任からそう口にしているなら結構だ」
「私は私の意思で決めた。一方的な言い分なのは百も承知だ。君が出て行けというのなら、出て行く。だが、もし、君がまだ私を信じ、私に賭けてくれるならもう一度チャンスをくれないか」

 克哉はうんざりとした口調で返す。

「ずいぶんと酔狂だな。ようやく目を覚ましたというのに、サノザーからの誘いも断り、厄介な恋人の元に戻ろうとする。あんたはいつからそんな保守的な人間になったんだ?」
「守りに入っているのではない。果敢に挑んでいると言ってくれ」
「一体あなたは何に挑んでいるんだ」
「君が予測した未来に決まっている。計算できる未来などないことを証明してみせる」

 未来は予測するものではなく、創り出すものだ。
 力強い輪郭で放たれた言葉は御堂の覚悟の表明で、まさしく宣戦布告と言っても良いほどの強さを持っていた。
 言葉を失う克哉を前に、御堂はすっと視線を外し、抑えた口調で続ける。

「正直なところ、以前みたいな気持ちに戻ったわけではない。それでも、君に、傍にいてくれ、と求められたとき嬉しかった。同時に君を失いたくないと思った。それが君に対する同情なのか、自分自身への打算なのか、それとも恋なのかは正直わからない。だから、君と一緒に過ごすことで自分の気持ちを確かめたいし、できることなら以前の関係に戻りたい」
「ずるい言い分だな。明日には意見が変わって、やっぱり無理だとなっているかもしれない」
「それは……」

 と御堂は言葉を濁し、小さく「否定できない」と付け加える。あまりの正直さに肩の力が抜ける。

「そこはせめて口先だけでも否定すべきだろう」
「自分の言葉には責任を持ちたいのだ。だから、君には包み隠さずに言う」

 半ば呆れつつ克哉は言ったが、御堂は確証のない約束はしない。これが克哉に対して精一杯誠実であろうとする御堂の姿なのだ。
 御堂はふたたび克哉に視線を重ねた。

「佐伯、信じるしかないんだ。人の気持ちは変わる。どれほど愛を誓っても、法的な関係を結んでも、心までは縛ることはできない。愛するということは信じるということだ。自分を信じて、相手を信じる。それを繰り返していくしかないのだと思う。君は、私は変わっていないと言ってくれた。だからこそ私はいまの私を信じている。君も私をもう一度、信じてはくれないか」

 静かな声だった。だが嘘偽りなく伝わってくる真摯さがあった。
 克哉は怜悧な眼差しで御堂を見返したまま、口を引き結ぶ。たっぷりとした沈黙が重苦しい緊張感に成り代わったころ、御堂の表情がわずかに揺らいだ。苦しそうに眇められた目は、意志の強さが消えてどこか不安の色が滲んでいる。

「……佐伯、どうしてもだめか?」

 負けず嫌いでプライドがおそろしく高い男が、自信なさげに克哉に乞うてくる。
 踏み出すべきか、退くべきか。
 御堂が言うように信じぬいたところで何の保証もないのだ、愛が永遠に続くなど。
 自分が後悔するのは慣れている。いまさらだ。だが、御堂を後悔させないだろうか。それが克哉の一番の気がかりだった。
 それでも、御堂を信じるか信じないかと問われたら、答えはとっくの昔に決まっていた。御堂はもう覚悟を決めているのだ。それなら克哉も腹をくくるべきだろう。
 克哉はふう、と大きく息を吐いた。この沈黙は逡巡のためではなく、踏み出す覚悟を決めるための沈黙だ。

「あなたの判断に任せると言ったんだ。あなたを信じますよ、いままでも、これからも」

 裏切られようが関係ない。自分が御堂を信じ抜くことに意味があるのだ。
 克哉の言葉に御堂の目許が綻ぶ。

「では、またよろしく頼む」

 そう言って御堂は克哉に手を伸ばした。その手を握っていいものか迷い、かといって無視することもできないだろうと軽く握ったところで強く握り返された。御堂の手のひらは熱を持って汗をかいていて、克哉を前にしてどれほど緊張していたか実感する。握った手を離さぬまま、御堂は言った。

「おかえり、佐伯」
「……ただいま」

 どこか虚ろだった部屋に優しく温かなものが満ちていく。ふたりの部屋が戻ってきたのだ。


 こうして退院したその日から御堂との同棲生活が再開された。名目上は恋人関係であるが、実質的にはルームシェアと変わらない。
 いまだに克哉を前にして緊張が抜けきらない御堂のために、寝室は別にして克哉は自室のソファベッドで寝起きをすることにした。翌朝起きてコーヒーをセットするときは二人分セットする。いままですっかりさぼっていた朝食も交代で作り始めた。ふたりで暮らしていたときの習慣はあっという間に元の形に戻った。
 とはいえ、一緒に暮らし始めてもふたりの関係が一朝一夕に戻るわけでもなく、恋人らしい行為も当然なかった。もどかしさはあるが、御堂なりに歩み寄ろうとしている努力は痛いほどに感じるため、克哉も慎重に距離を取って接している。夕食も時間が合えば一緒に取るようになった。弾まない会話にぎこちない空気。そんな食事も一日三食こなしていれば慣れてくる。思い返せばお互い口数が多い方ではなかったし、無理して会話を続けるのも違うように思われた。
 そして、退院後一週間は自宅療養するはずだった克哉が、部屋で大人しくできていたのは結局最初の二日だけだった。
 御堂が克哉と共に暮らしだしたのは、克哉の生活態度を改めさせるのが本当の目的だったのではと勘ぐってしまうほど、酒とたばこはすべて取り上げられて、三食規則正しい食事を食べさせられる。挙げ句、仕事まで取り上げられると何もすることがなくなるので、御堂に直談判してリモートワークの許可をもらった。それでも直接確認したい資料があり、三日目には短時間だけだからと言って会社に顔を出した。
 克哉がAA社のフロアに足を踏み入れた瞬間、社員から歓声が上がった。デスクから立ち上がり集まってきた社員に口々にいたわりの言葉と回復を祝う言葉をかけられる。御堂のときよりも仰々しいが、勤務中に社員の前で派手に血を吐いたのだ。社員のショックも大きかったのだろう。涙ぐむ女子社員に混じって藤田も「よかったです!」としゃくりあげながら克哉に抱きつく勢いで復帰を喜んでくれた。そのまま快気祝いのパーティーでも始めかねない雰囲気で、なし崩し的にその日からフルタイム勤務にしてしまう。御堂は苦々しい顔をしていたが、結局克哉と周りの雰囲気に押し切られる形で復帰を前倒しで認める形になった。
 克哉が不在にしていても、御堂が上手く切り盛りしてくれていたおかげでAA社の業務は滞りなく進んでいた。トップふたりが次々と倒れたせいで、社員全員不安を感じたことだろう。それでも、御堂が言っていたとおり、自分でやらなければならないという自覚が芽生えたのか、ひとりひとりがコンサルタントとして驚くほどに成長していた。だから、克哉と御堂の関係が多少ぎこちなくとも困った事態に陥ることはなかったし、仕事は順調すぎるほどに回っていた。
 自分がいなくてもちゃんと機能しているAA社に少し寂しさも感じたが、自分の居場所はここだという心地よさもあった。


 克哉が仕事に復帰して二週間ほど経過した休日の朝、朝食を食べているところで御堂が言った。

「天気も良いし、江ノ島までドライブしないか」

 さらりとした気負いのない誘いだった。

「ドライブ? 俺と?」

 思わず聞き返してしまう克哉に御堂は片眉を吊り上げた。

「この場には私と君しかいないだろう。私はいったい誰と話しているのだ」
「……つまりそれはデートの誘いか?」
「そう受け取ってくれて構わない」

 茶化して言ったつもりが御堂は大真面目な顔をして頷いた。他の予定が入っているわけではないが、夏以降ふたりきりで遠出をしたことはなかった。一応、恋人関係は継続しているものの、かつての甘ったるい空気はすっかり霧散している。ふたりの関係は恋人というよりも同じ目的を持つ同志といったほうがしっくりくる。
 ふたりでの暮らしも、いまのところは破綻してはいないが目立った進展もない。長い目で見れば、御堂が克哉を前に取り乱すようなことはなくなったし、少しずつふたりの仲は縮まっているのかもしれない。それでも、キスはもちろん相手に触れることさえなかった。
 同じ部屋で暮らしているのだ。普通に生活しているだけで肩が触れあったり指先が相手を掠めたりすることは度々ある。そのたびに、御堂はびくりと身体を強張らせ、すぐに罪悪感に顔を曇らせる。克哉はそうした反応のひとつひとつに傷ついているほど柔(やわ)ではないし、むしろ御堂こそ思いどおりにならない自分に傷ついていると理解しているから平然とした顔を保っている。こうした日々を重ねながら、薄皮を剥ぐようにして自分たちの関係のあり方を模索しているのだ。その努力を自らの迂闊な行為で台無しにしたくはない。
 朝食後の食器を片付けて、部屋の掃除を終えたあとドライブに出た。どちらの車で行くのか少しだけで揉めたがすぐに決着し、克哉のアルファブレラでドライブに出ることになった。首都高に入り東京湾沿い沿って走る。からりと晴れた空は高く澄んでいて、絶好のドライブ日和だ。
 神奈川に入ったところで首都高を降りると一般道を走りつつ江ノ島に行った。どうやら御堂の目的は江ノ島にあるフレンチレストランで、事前に予約までしてあった。南仏風の青と白で統一された内装のレストランで遅めのランチを取る。御堂はハーフボトルのワインをオーダーしていたが、克哉は医者からまだ酒は禁止されているし、そもそもドライバーなので飲むこともできない。それを見越して克哉が車を出すことにしたのだ。窓辺の席で海を眺めながらゆったりと食事をしたあとは海沿いをドライブすることにした。
 湘南から大磯海岸に抜けると車を停めた。海岸沿いの遊歩道をふたりして歩く。うららかな陽射しがきれいな秋晴れの空から降り注いでいた。高く透きとおった青空にうっすらと雲が浮いている。
 シーズンを終えた海辺にはウェットスーツを着込んだサーファーが数人いるくらいで他に人気(ひとけ)はなく、のどかな光景だった。打ち寄せる波が白い飛沫を散らしている。あんなに熱かった夏が嘘のように消え去り、吹きつける海風は冷たく波は高かった。冬の海へと変貌を遂げようとしている。
 速くもなく遅くもないペースで歩き続けた。肩が触れるか触れないかの距離で黙ったまま歩き続けていると、強い海風が吹きつけた。同時に強い潮の香りを感じる。御堂が海の方に顔を向けて呟いた。

「ボウモア12年。このスコッチウイスキーを飲んだときに潮の香りを感じたんだ」
「潮の香り?」
「ああ。ボウモアはスコットランドのアイラ島で作られている。蒸留所は海に面し、海抜0メートルの場所で熟成される。潮風をずっと浴び続けて、海の影響を強く受けたウイスキーだ」

 スコッチウイスキーはスコットランドで作られたウイスキーだ。その中でもアイラ島はウイスキーの聖地として古くからの歴史と人気を有している。突然何の話をしだしたのかと面くらう克哉に御堂は続ける。

「ウイスキーを通じてその酒が造られた土地を感じることができる。それはワインではテロワールと呼ばれていて、ワイン産地の土地の風土や気候、土壌から生まれる地域の味わいの個性を指す」
「なるほどな。倉山酒造のウイスキーにもテロワールの概念を取り入れて差別化を図ろう考えている訳か」

 だんだん話の方向性が見えてくる。御堂が頷く。

「テロワールにこだわり、地域性を出すことによってウイスキーに個性と付加価値を付ける。そうすることで、国内のあちこちでウイスキーが作られても独自のブランド力を持たせることができる。具体的には使う穀物の一部を地元産にして、樽を地元の木を用いたものを使う」

 ワイン好きな御堂らしい発想だ。だが、悪くない。御堂はジャパニーズウイスキーへの人気が出ている海外市場を見据えている。地域性、すなわち日本らしさを出すことは国内のみならず海外からの関心も引くだろう。「さらに」と御堂は付け足す。

「ウイスキーは元々スコットランドの地酒だった。地域で飲まれるための酒だ。だから、地元の飲食店にしか提供しないウイスキーも作る。ウイスキーを地域経済の活性化に活用することで地元の商工会議所や役所と話をつけた。町内の道有林に生えている樹齢二百年を超すミズナラの木も樽材として提供してくれることになった」

 御堂の熱弁はとどまるところを知らない。アルコールが入っているせいで饒舌になっているのもあるのだろう。克哉は半ば聞き流しながら相槌を打つが、御堂はいたって真剣だ。
 ふだんは無駄口を叩くことなどない御堂だが、酒と仕事に関することに関しては落ち着いた声が独特の熱を帯びる。となれば、酒が絡んだ仕事となれば、語るなというほうが無理だろう。
 それにしても、御堂がワインの蘊蓄を語るのは今に始まったことではないが、ウイスキーもこれほど熱意を注いでいるとは知らなかった。感心半分、呆れ半分で言った。

「随分と入れ込んでいるじゃないか」
「十年先まで倉山酒造を存続させなければウイスキーを飲むことが出来ないからな。当然だ」
「気の長い話だな」

 コンサルティングでは当然、五年後、十年後と長期的なプランニングを考えるが、先の話になればなるほど確実性は失われる。どんな状況にも臨機応変に対応できるような柔軟なプランを織り込むが、それでも予想外のできごとがすべてを打ち壊していくことはある。
 克哉が御堂を解放したとき、再会して恋人関係になるとは夢にも思わなかった。そしてまた、恋人同士としてAA社を起業し順調なスタートを切った数か月後にかつての親友だった澤村と再会し、佐伯克哉という自分の存在を揺らがすことになろうとは想像だにしなかった。そんな危機をふたりで乗り越えて心から信頼し合う関係になったはずなのに、その絆を失って振り出しに戻るとはどれほど波乱に満ちているのか。自分たちの十年後すら覚束ないというのに、はるか遠い土地のいち酒造の十年後のために心砕かなくてはいけないとはなんと因果なことだろう。
 だが、こうして御堂と同じ方向を向いて語り合う関係も悪くないのではないかと思った。恋人同士でないとしても、御堂と仕事のパートナーとして共に歩むことができたとしたら、その未来はきっと輝かしいものになるはずだ。それこそ、世界だって手に入れられる。
 そんなことを考えながら歩いていると、いつのまにか御堂が立ち止まっていた。克哉も足を止め振り返れば、御堂がじっと克哉を見つめていた。御堂がおもむろに「佐伯」と口を開く。

「十年後、我々がプランニングした倉山酒造のウイスキーを一緒に飲もう」

 そう口にする御堂の目許はほんのりと朱に染まっていた。それがアルコールのせいなのかそれとも別の要因なのかわからないけれども、心の中で仕事のパートナーでもいい、と思ってしまった自分を軌道修正する。仕事のパートナーだけで満足なんかできるわけがない。必ずこの人を手に入れたい。身も心も何もかも。

「ああ、そうだな。楽しみにしている」

 そう答えれば、御堂は目元を緩めた。ふたたび歩き出して克哉に肩を並べる。御堂の顔はどこか嬉しそうだ。

 ――やられたな。

 ふたりの未来を人質に取られたら本気で取り組まなくてはならないではないか。
 何が何でも、倉山酒造の十年後を創り出さねばならない。創り出すのはウイスキー市場の未来だ。十年後に御堂とふたりで倉山酒造のウイスキーを飲むために。
 そう胸の中で誓ったところで、克哉は気が付いて周囲を見渡した。「しまった」と呟く。御堂は克哉の言葉に目を瞬かせたが、すぐに克哉の意を察して苦笑する。

「ずいぶんと遠くまで来てしまったな」
「ああ。迂闊だった」

 自分たちが歩いてきた道を振り返れば、駐車場ははるか遠くだ。延々と続く一本道の遊歩道を後先考えずに歩き続けた結果だ。克哉はうんざりとした口調で言う。

「また同じ道を戻るのか。このまま一周して元の場所に戻れればいいのに」
「そう言うな、佐伯。同じ道でも違った光景があるさ」

 御堂は踵を返すと来た道を颯爽と戻り始める。克哉も隣に並んだ。帰る道は互いにほとんど口を利かず黙々と歩き続けたが、御堂の言うとおり苦には感じなかった。
 いつの間にか浜辺からサーファーの姿が消えていた。空の色が徐々に翳り、たなびく雲が空のオレンジ色に染まり始める。海の向こう側に無数の光が瞬き始めた。寄せては返す波の音がふたりの隙間を埋めてくれる。同じ道を辿っても同じ景色を目にするわけではないと実感する。この一瞬一瞬がもう二度と取り戻せないかけがえのない瞬間であることを教えてくれたのは御堂だ。
 ようやく駐車場に辿り着いたときには周囲の車は既になく、克哉のアルファブレラだけが一台ぽつんと取り残されていた。

「これでやっと帰れる」
「まあ、良い運動になったな」

 暗くなった駐車場に自分の車を見つけてため息混じりに呟いて横を見た。御堂の形の良い唇が優美なラインを描いている。キスしたい、と不意に思った。
 肩が触れ合う距離を急に意識した。その微かな緊張はあっという間に御堂に気付かれて、御堂はハッと克哉を見た。吹き付けていた風が途切れる。世界から音が遠ざかる。ごく自然に身体を寄せて、口づけていた。ほんの軽く唇が触れあう。御堂は動かずに克哉の熱を受け止めた。
 もっと熱を深めたい衝動に駆られたが、これ以上迫ったら御堂の仄かな熱はたちまち冷えてしまうだろう。だから、克哉はすっと身体を引いた。互いに無言になる。御堂は、ふ、と詰めていた息を吐いた。
 間違えたのか、それとも、間違いではなかったのか。
 唇には柔らかな感触とぬくもりが残され、胸には微かな後悔とそれを上回る高揚があった。御堂を見れば、御堂は目を伏せていた。薄闇に染まる御堂の顔は曖昧な表情をしている。感情をそぎ落としたのとは違う、複雑な感情を堪えるような顔。
 そっと手を伸ばして御堂の頭に触れる。御堂は克哉の手を嫌がらなかった。御堂に触れる指先からは微かな緊張と困惑、そして覚悟が伝わってきた。
 たぶん、このまま流れに任せて抱いても御堂は克哉を受け入れるだろう。御堂は異性同性問わず経験値がある男だ。身体の関係だけというドライな付き合い方も数多くしてきたはずだ。ひと言で言えば遊び慣れている。それはつまり、何かしらの取引の代償として自分の身体を差し出すこともできるということだ。かつて御堂が克哉に接待と称して身体の関係を要求したように。
 克哉は御堂の髪を指先で軽く梳きながら言った。

「安心しろ。これ以上は止めておく」
「……君らしくないな」

 御堂は緊張を解いたのか微かに表情を緩ませる。克哉は、ふ、と吐息で笑った。

「なんだ、期待していたのか?」
「馬鹿を言うな」
「あなたが心の底から俺を欲しがるまでは気長に待つさ」

 御堂はうろたえたような顔で克哉を見た。意外だったのだろう。
 克哉も自分らしくない慎重さだと自覚している。御堂の身体は隅々まで知り尽くしている。身体を重ねれば御堂が望む以上の快楽を与え、自分も得ることができるはずだ。
 御堂を抱きたいという欲求は常にある。しかし、幸か不幸かやり直す機会を得たのだ。無理やり身体を組み敷くところから始まってしまった関係だからこそ、今度こそちゃんとした手順を踏みたい。
 積み重ねてきたものを失う喪失感はあった。同じ結末に辿り着けるかどうかもわからない。それでも焦って同じ轍は踏みたくない。ふたたび同じ道を辿るのだとしても違う光景をふたりで眺めながら歩いて行きたい。
 御堂を見つめる目を優しく眇め、甘さを孕んだ声でささやく。

「言っただろう。俺はあなたの身体だけじゃ満足できない。身も心も、魂まで全部、俺に寄越せ」
「強欲だな」
「とっくに知っているだろう?」
「ああ、知りすぎている」

 御堂は笑った。克哉も笑う。ふたりで笑い合いながらアルファブレラに乗り込んだ。
 星がまたたく空の下、ふたりの部屋へと車を走らせた。


 それから少しして、克哉はAA社の執務室で御堂のデスクまで行くと書類を差し出した。御堂は訝しげな顔で着席したまま克哉から書類を受け取り、表紙に視線を落とした。

「企画書か? 何のだ」
「クラフトビールだ。アルテア飲料がクラフトビール製造を検討していると聞いて、一枚かませてもらうことにした」
「どういうことだ?」
「倉山酒造のウイスキーに使われた樽、それをビールに使う」

 御堂はさっと書類をめくって中身を確認し、目を瞠る。
 クラフトビールとは地ビールとも言われ、中小メーカーが作る小規模生産のビールだ。個性的なフレーバーも多く、頭打ちになったビール市場で存在感を増している。アルテア飲料は各地のビール醸造所(ブルワリー)と提携し全国各地のご当地クラフトビールの生産販売の乗り出すという。
 倉山酒造では十年前に仕込んだウイスキーの原酒が出荷の時期を迎えている。となれば空になる樽が出てくる。長期にわたりウイスキーが熟成された樽でビールを仕込めば、ウイスキーの風味を持ったビールができるはずだ。それはインパクトのあるビールになるだろう。

「倉山酒造の知名度も上がるし、クラフトビールをとっかかりにしてウイスキーに興味を持つ消費者が増えればウイスキー市場の開拓にも繋がる」
「ビール市場の活性化を計りつつ、ビールを飲む消費者をウイスキーに取り込む戦略か」
「ああ。現在は個人の嗜好が多様化している。アルコールも新しい飲み方をデザインしなければ新たな層を取り込むことができない。ウイスキーはこうあるべきという価値観をなくし敷居を下げることで、ウイスキーとは無縁だった層にアピールする」

 かつてウイスキーの売り上げがどん底まで落ちたとき、サントリーはハイボールというウイスキーのソーダ割という飲み方を流行(はや)らせた。その結果、高アルコール飲料だからとウイスキーを敬遠していた層を取り込むことに成功したのだ。

「あと、ノンアルコールウイスキーの開発にもとりかかる。大手メーカーの研究所のいくつかに打診して好感触を得ている」
「それはまた大きく出たな。ノンアルコールビールに続くつもりか」
「ああ。十年後までウイスキーブームを持続させるためには、付加価値を付けて差別化を計るだけではなく、ウイスキーを飲む人口そのものを増やすことが不可欠だ」

 御堂が打ち出したテロワールを前面に出す戦略は評価できる。ワイナリーやブドウ畑を訪れるワインツーリーズムならぬウイスキーツーリズムも計画されているそうで、地元を大きく巻き込んでの地域おこしが盛り上がってきている。ウイスキーを愛飲する層へのアピールは十分だ。だが十年という月日を生き抜くためには常に新しく若い層を取り込んでいく必要がある。
 御堂は書類を最後までざっと読んでデスクに置くと、感嘆の息を吐きつつ克哉を見上げた。

「さすがだな」
「これくらい当然だろう」

 コンサル料をはるかに超えたタダ働きをさせられている気がしないでもないが、澄まし顔で返した。そんな克哉を前に御堂はくくっと声を殺して笑う。

「どうした?」
「調子を取り戻したではないか」
「何?」
「いつもの君らしくなった、ということだ」
「っ……」

 言葉を失った。
 どうやら上手い具合に焚きつけられてしまったようだ。御堂の思惑どおりに動くのは癪だが、御堂が嬉しそうなので大人しく引き下がることにする。だが、それでも、ひと言言わずにはいられない。

「これで満足いくウイスキーができなかったらタダじゃおかない、と蔵本酒造に言っておけ」
「ああ。肝に銘じるよう伝えておく」

 ふん、と鼻を鳴らしてデスクに戻る。
 AA社の窓からは透明感のある陽射しが注いで執務室に満ちていた。心地よい光はどこか硬質で、もうすぐ冬が来るのだな、と克哉は窓から空を見上げた。
 

(7)
8

 短い秋はあっという間に冬に移り変わった。日の出ている時間も短くなり、あっという間に夜が訪れるようになった。夏もそうだが冬もオフィスと自宅が同じビル内にあって良かったと思う。凍えた外気に晒されずに通勤できるので、コートもマフラーも必要ないからだ。とはいえ、仕事で外出することもあるので常にコートを携えて出勤していた。

 

「おーい、克哉!」

 

 AA社内に威勢の良い声が響いたのはちょうど昼休憩に入るタイミングだった。本多が現れるのはいつも突然だが、ほぼ毎月現れているので最近はそろそろ現れる頃だと予測できるようになってきた。事務員ももう慣れたもので、困惑気味のため息と共に克哉に内線電話がくる。そしてその数秒後には本多が我が物顔で執務室に顔を出す。

 

「お邪魔しまーす!」

 

 と大声で入ってきた本多に、御堂が顔を上げて眉をひそめた。一方の本多は満面の笑顔で手を上げる。

 

「よう、久しぶりだな! 元気してたか? あ、御堂さん、お邪魔します」

 

 御堂は本多の言葉を無視して、何事もなかったかのようにパソコンのキーボードをたたき出す。克哉は聞こえよがしに大きなため息を吐いた。

 

「キクチ八課は社員の勤怠管理が野放しになっているんじゃないか」

「何言ってるんだ。いまは昼休憩だろ。それに歳末商戦の営業も終えたし、あんまりやることはないんだよ。することといったらせいぜい神頼みくらいだ」

「じゃあ、こんなところに来ないでお参りでもしてくればいいだろう」

「そんなこと言うなよ。それより飯まだだろ? 昼飯食いに行こうぜ」

 

 本多は克哉の皮肉をからりと笑って受け流し、克哉をランチに誘う。

 

「ここの近くで旨い定食屋を見つけたんだ。ほら、混む前にさっさと入ろうぜ」

「おい、本多。俺はお前と一緒に行くなんてひと言も言ってないぞ」

「なんだ、用事でもあるのか?」

「いや、そういうわけではないが」

「なら決まりだな」

 

 このまま話していても埒(らち)が明かなそうなので、克哉はあきらめてデスクから立ち上がるとコートを手に取った。この悪気のない強引さが本多の短所だが、それが営業では成績に結びついているからたいしたものだと思う。御堂にちらりと視線を向けて言った。

 

「ちょっと、本多と飯食ってくる」

「御堂さん、克哉借りてきますね」

 

 御堂はちらりと本多を一瞥したものの無言のまま視線をパソコンに戻した。冷ややかな横顔は誰も寄せ付けないような厳しさが漂っている。

 御堂に露骨に無視されて、さすがの本多も歓迎されていないことに気が付いたらしい。言葉を失っている。克哉は立ちすくむ本多に「行くぞ」と声をかけて、部屋から連れ出した。

 AA社のオフィスを出たころで、本多が「なあ」と克哉に話しかけた。

 

「今日、御堂さん機嫌悪いのか?」

「そうか? いつもアポなしでやってくるお前に腹を立てているだけだろう」

「そんなのいまさらじゃないか」

「その開き直った態度が逆鱗に触れたんじゃないのか」

 

 素っ気なく返しつつも、いつにも増して御堂の本多に対する態度が厳しく感じたのは事実だ。御堂と本多は水と油の仲だ。反りが合わないのはいまに始まったことではない。

 友人と呼べる人間が少ない克哉だが、本多はその数少ない友人のひとりだ。克哉が入院していたことを本多はだいぶ遅れて知ったようで、秋頃に退院祝いとして実家の酒屋からとっておきの日本酒を取り寄せて持ってきてくれた。もちろん、その日本酒は御堂に取り上げられていまだに封をあけていない。事情を知らず、悪気はなかったとは言え、アルコールのせいで十二指腸潰瘍をつくった克哉に日本酒を渡したことを御堂は快く思ってはいなかったようだ。そのことを御堂はいまだに怒っているのだろうか。

 退院後、克哉は医者に指示されたとおり、二ヶ月間大人しく健康的な生活を送り、ようやく酒とタバコは解禁された。それでも、いまだに御堂は酒とタバコに対しては良い顔をしない。外でも家でも、許されるのは最初の一杯だけで、二杯目からはやんわりと止められる。お互いいい歳をした大人だ。個人の嗜好をいちいち指図されるのは鬱陶しくもあるが、御堂なりに克哉の健康を気遣っているのがわかるから大人しく御堂の言うことを聞いている。

 ふたたび一緒に暮らしだしてからもうすぐ三ヶ月になる。食事や外出も共にして、雑談もするようになった。当初に比べれば明らかにふたりの距離は縮まっていると思う。AA社でも忌憚のない意見を交わし、主張が激しく対立することもままあった。端から見れば以前どおりの関係に見えるだろう。それでも、いまだに克哉と御堂の間にはガラスの壁が存在している。

 海辺でのキスを最後に、克哉から御堂に触れることはなかったし、御堂から求めることもなかった。同じ部屋での生活は続いているが、恋人らしい甘やかさはいまだに取り戻せていない。

 待つ、と言ったものの、いつまで待てばいいのだろうか。そもそも待ったところでかつてのような関係が戻るのか。正常な判断力と思考を取り戻した御堂にとって、克哉はせいぜい良い同僚止まりで恋愛対象にはならないのではないか。行き先の見えないあてどない不安が心を掠めていく。それでも強引にことを進める気は毛頭なかった。自分らしくない忍耐強さだが、それが誠実に御堂と向き合うということだと自分を戒めている。御堂が結論を出すまで、克哉は根気強く待ち続けるしかないのだ。

 本多と共にビルから出た途端、鋭く冷たいビル風が吹きつけてきて克哉は首を竦めた。空を見ると重たい灰色の雲が立ち込めている。本多が白い息を吐きながら言う。

 

「今日雪が降るらしいぞ。交通が乱れなきゃいいけど」

 

 克哉も夕方ごろに先方の社での会議を予定している。帰りはちょうど帰宅ラッシュの時間と重なり、さらに悪天候となると帰りのタクシーを捕まえるのは難しいかもしれない。

 どうしたものかと暗鬱な面持ちで空を見上げると、ちらちらと白い雪が降り始めてきていた。

 

 

 天気予報どおり午後から東京は雪に見舞われた。それも大雪だ。

 克哉と御堂はクライアントの社で重要な打ち合わせがあり、降りしきる雪の中、都内にあるクライアントのオフィスに訪れていた。

 悪いときに悪いことは重なるもので、先方との会議は順調とは行かず、大幅に時間をオーバーしてしまった。とはいえ、どうにかお互いが納得いく形にまとめて会議を終え、ビルの外に出たところで息を呑んだ。一面の雪景色で、さらに空からはひっきりなしに雪が降り続けている。

 あたりはすでに真っ暗で道行く人も疎(まば)らだ。AA社の社員には早めに帰るように言付けてあったが、克哉たちはすっかり出遅れてしまった。御堂は腕時計に視線を落としながら小さくため息を吐く。

 

「ずいぶんと時間がかかってしまったな」

「これじゃあ流しのタクシーは捕まらない。迎車を頼んでどこかで時間を潰すか?」

「いいや、この分だと迎車も時間がかかるだろう。むしろ、大通りに出て探した方が早い」

「雪の中を歩くのは気が進まないが」

「ここで待っているほうが時間の無駄だ」

 

 そう言いながらも、御堂は傘を差して歩き始める。克哉も傘を差して御堂に続きながら声をかけた。

 

「足元、気をつけろよ」

 

 昼から降り続いた雪は夜の冷え込みで凍り始め、路面の状態は最悪だった。こんなところを歩いたら磨かれた革靴も台無しになる。普段の御堂なら避けて通るような道だ。大人しくどこかの店で時間を潰してタクシーを呼ぶのが正解ではないか。

 克哉は目の前を歩く御堂を眺めた。本多に対する態度といい、今日の御堂はどこかおかしいように思う。

 本多とのランチを終えて戻ったあと、いつにも増して御堂の態度がよそよそしかった。クライアントの社に向かうタクシーの中でも、御堂は窓の外に視線を流しながらずっと黙り込んでいた。

 以前は御堂の瞬きひとつ指先の動作ひとつに神経を張り巡らせて御堂の思考を読み取ってが、いまはそれが上手くいかない。御堂が克哉に以前ほど心を開いていないせいだろう。二十四時間共に暮らし、御堂の嗜好や仕草がまったく変わっていないことに気が付いても、御堂と克哉の関係は決定的に変化してしまっている。

 これはもうどうしようもないことだ、と自分自身に言い聞かせてはいるが、御堂が何を考えているのかわからないもどかしさは常にあった。

 前方を歩いていた御堂が足を止めた。横に伸びる狭い脇道に顔を向ける。

 

「ここを抜ければ環状線に出るから、タクシーが捕まえられるかもしれない」

「坂か……」

 

 御堂の隣から脇道を覗き込めば、見るからに急な下り坂があった。東京は坂が多い。二十三区内に名前がつけられた坂だけで九百以上あるという。雪で足元が悪い中、坂を下るのはまったく気が進まないが、この抜け道を通らなければ環状線まで遠回りになるのもたしかだった。環状線に出れば交通量は多くなる分タクシーは捕まえやすいだろう。それでも進むべきか迷っていると、御堂は雪を踏みしめながら坂を下り始めた。

 登り坂よりはマシかと克哉も覚悟を決めて御堂の後ろを進む。狭い坂道で、時折、ふたりの脇を速度を落とした車が通っていく。黄色いヘッドライトが降りしきる雪を闇の中に次から次に浮かび上がらせた。

 御堂はうつむき加減で黙々と歩いていた。人通りはほとんどなく、ふんわりと積もった雪の上に御堂の足跡が刻まれていく。

 坂道の半ばを過ぎたときだった。

 背後から坂道に入ってきた車が不安定に蛇行していることに気が付いた。雪とアイスバーンにタイヤを取られているのかもしれない。後ろから迫ってくる危なっかしい動きの車に御堂は気が付かない。その車が横滑りをして前を歩く御堂に幅を寄せてきた。

 

「危ないっ!」

「――――っ!」

 

 克哉は大きく叫んで御堂の腕を掴むと力任せに引き寄せて御堂を抱き込んだ。車はキュルキュルとタイヤが空回りする音を立てて、克哉のコートを掠めるようにしてすんでのところを車が通り過ぎていく。危なかった、と詰めていた息を吐いたときだった。

 

「よせ……っ!」

 

 御堂に乱暴に胸をぐいと強く押された。克哉は尻餅をつきそうになり背後にたたらを踏んだが、どうにかバランスを立て直す。いまの弾みで御堂の傘が克哉の足元に転がった。

 驚いて御堂を見た。御堂もまた降りしきる雪の中で愕然とした顔で克哉を見ていた。

 

「……わるかった」

 

 そう言って、克哉はのろのろとした動作で屈み、地面に転がった傘を拾った。手を伸ばして傘を御堂に渡そうとするが、御堂は呆然としたまますべての動きを止めていた。御堂の双眸は克哉を見ているようで見ていない。御堂に向かって差し出した傘に静かに雪が積もっていく。

 これが御堂の素の反応なのだろう。理性をかき集めることで克哉と一緒に暮らして、恋人としての体面を保つことまではできる。だが、心の奥底では克哉に対する恐怖と嫌悪が根深く巣くっている。

 わかっている。

 わかってはいるが、そんな御堂のあからさまな態度を目の当たりにして、傷つかずにいられるほど自分は鈍感でも強くもなかった。それでも、一番辛い思いをしているのは自分を抑えきれなかった御堂だとわかっているから、克哉は受け取ってもらえない傘を御堂の傍らにそっと置いた。

 ふたりの間にひらひらと雪が舞い落ちている。空気が重苦しい沈黙に均(なら)されて、足元がどこまでも沈んでいくようだ。ようやく我を取り戻した御堂が克哉に視線を固定したまま、唇を戦慄かせてなにかを言おうとしていた。いまの自分の行動に対する弁解だろうか、それともやっぱり君とは無理だ、と宣告されるのだろうが。だが、いまここで終わりを受け止める覚悟は克哉になかった。克哉は御堂から無理やり視線を外し、突き放す口調で言った。

 

「俺は先に行く。風邪を引かないように、早くタクシーを捕まえて帰ってくれ」

 

 御堂がどんな顔をしているのか見る勇気もなく、御堂に背を向けて歩き出した。暗い夜道をあてどなくさまようように、雪を踏みしめ、歩み続ける。

 どこに帰ればいいのか。自分の居場所はどこにあるのか。

 雪に霞む高層ビルを見上げた。ランダムに明かりが灯り、その灯りひとつひとつに人々の営みがある。そんな単純な事実が自分には遠く感じ、胸が締め付けられた。冬の冷気が身体の内側に染み入ってくる。凍えた塊が胸の奥からせり上がってくるような圧迫感に息を短く吐いた。息が詰まりそうなほど苦しくて、急かされるように早足になる。

 そのときだった。

 

「佐伯!!」

 

 背後から鋭い声で呼ばれて振り向いた。暗い夜の中、克哉の方に一直線に駆け出してくる人影があった。それが御堂だと気付いて目を瞠った。

 御堂は、傘を地面に打ち棄てたまま、降りしきる雪をものともせずに、何もかもを置き去りにして、解き放たれた矢のように全速力で克哉に向かってくる。

 足元の雪が跳ねる。口から吐き出される息が白い。すべてをかなぐり捨てて、鮮やかなフォームで克哉に向かってくる姿の鮮烈さに思わず見蕩れそうになるが、路面は滑りやすくしかも下り坂だ。

 

「馬鹿、走るな!」

 

 そう叫んだところで御堂の勢いは衰えることはなかった。むしろ急な斜面を駆け下りているおかげでどんどん加速している。御堂が一直線に目指しているゴールは自分だった。だから、克哉も傘をその場に捨てて御堂に向かって走り出した。

 走ることを想定していないコートとスーツに動きを邪魔されながらも、克哉は全身を振り絞るように駆ける。突然の激しい運動に鼓動が振り切れそうになった。これ以上ない速さで坂を駆け上り、御堂に接触する三歩前で急ブレーキをかけた。脇目も振らずに突っ込んでくる御堂に向かって両手を拡げたのと、御堂が足を滑らせて前に飛び込んでくるのがほぼ同時だった。

 

「御堂っ!」

 

 間一髪のタイミングで御堂を胸に受け止めた。重たい衝撃に息を止め、そして、大きく息を吸うと思わず怒鳴った。

 

「何をやっているんだ! 危ないだろう!」

 

 克哉がいなければ、御堂は派手に転倒して怪我をしていたかもしれない。克哉の両腕の中で御堂はぜえぜえと息を荒げていた。いきなりの全力疾走のせいで膝も震えている。

 わけがわからぬまま、衝撃が落ち着いてくると御堂を強くかき抱いている自分に気付いた。拒絶される前にさりげなく御堂の身体を離そうとしたが、御堂は克哉の服の袖をぎゅっと掴んだまま動かない。

 克哉の肩に額を押し付けながら、御堂が切れ切れな声で言う。

 

「全速力で走ったのは、久々だ」

「俺もだ。……まったく、あなたらしくもない」

 

 いかなるときにも品格を保って崩さない男がが、こんななりふり構わない必死な姿を晒すなんて。

 何があったのか、どうしたのか。訊きたいことはいっぱいあったが、御堂の背中を軽く叩いて落ち着かせつつ、御堂の頭や肩に積もる雪を払った。

 ようやく落ち着いてきたのか御堂は両脚に力を籠め、笑っている膝をどうにか鎮めると、克哉からそっと身体を離した。そして、ゆっくりと顔を上げる。

 克哉の目と鼻の先に真剣な表情をした御堂の顔があった。星のない夜空のような双眸が克哉を真ん中に捉える。御堂が口を開く。

 

「佐伯、違うのだ……」

「……?」

「さっき君を振りほどいたのは、嫌だからではなくて……。突然だったから、驚いて、混乱して……」

 

 御堂の視線が言葉を探すように頼りなさげにさまよい、ふたたび克哉へと固定される。

 

「君が遠ざかるのを見て、追いかけなければと思った。そして、いま、伝えなくてはいけないと思った」

 

 御堂は頬を上気させながらもひどく切羽詰まったような顔をしていた。何かを懸命に伝えようとしている。乱れた前髪から溶けた雪がぽたぽたと滴り、御堂の顔を濡らしていた。雪は遠慮なくふたりへと積もる勢いで降ってくるが、御堂はまったく気にかけていなかった。このままでは身体が凍えて風邪を引くかもしれない。克哉は言う。

 

「わかったから、せめて部屋に戻ってからにしないか」

 

 御堂は首を振った。それならせめて、克哉か御堂の傘を取りに戻りたいが、それさえも許してもらえなさそうだ。どうしてもいまこの場でなくてはいけないのだろう。それくらい切実な表情だった。克哉は傘をあきらめて、御堂の続きを待つことにする。

 

「……今日、本多君が来ただろう。そのときから、変だったのだ」

「変だった?」

「本多君と共にいる君を見て、許せなくなった」

「俺を? 本多を?」

「どちらもだ。君に馴れ馴れしくする本多君に怒りが湧いたし、君は君で本多君を甘やかしすぎると腹立たしかった」

「まさか本多に嫉妬したのか」

 

 図星だったようで御堂は黙り込む。

 なるほど、それであれからずっと様子がおかしかったのかと思い当たる。同時に、胸が震えた。

 もしかして、御堂は……。

 克哉はまじまじと御堂を見つめ、ふ、と口元を緩めた。

 

「あなたがいるのに俺が他の誰かを好きになるわけないだろう」

「私が君を好きになるまで、私を好きでいてくれと厚かましいことを言っているのだ。となれば、君がしびれを切らして、他の相手に心を向けてしまうことだってあるだろう」

 

 御堂は眉根を寄せて苦しげな顔をする。

 こんなふうに嫉妬を吐露する御堂は新鮮だった。もしかして、かつての御堂も表に出さなくとも強い嫉妬に駆られていたのだろうか。わからない。

 克哉がどれほど御堂に執着しているのか、御堂は知っているはずだった。だからそんな心配は無用なのに、と思ったところで、そうか、と気付いた。

 克哉が御堂の気持ちを読めなくなったのと同様、御堂もまた克哉の気持ちがわからなくなっていたのだ。克哉は御堂の決断を待つために辛抱強く距離を保っていた。それが逆効果となり、本多とランチに出かける克哉の姿を見て、不安と嫉妬に襲われたのだろう。

 御堂はもどかしさに苛立つ表情で言葉を続けた。

 

「君への気持ちを取り戻したいと思っていた。だが、いざ取り戻してしまったらどうしてよいかわからなくなって。心の準備をしてから、どこかのタイミングでちゃんと君に伝えようと思っていた。それなのに、突然、君が私を抱きしめたから……」

 

 だから、驚いて、混乱して、咄嗟に克哉を突き飛ばしてしまったと言いたいらしい。

 御堂は回りくどく言い訳を重ねてなかなか結論にたどり着かないが、こうやって言葉を重ねることで自分の気持ちを整理しているのだろう。克哉は優しく促す。

 

「それで、何を伝えたいんですか」

「わかるだろう」

「わかりませんよ。ちゃんと言葉で言ってくれないと」

 

 また御堂の頭に新たな雪が積もっていた。御堂の頭を撫でるようにして雪を払うと御堂が腹立たしげに言った。

 

「佐伯、私は真剣なんだ」

「それはわかっていますよ。そんなあなたを愛おしく思っただけです」

「それならもう少し配慮しろ」

 

 克哉は御堂を見つめる目を甘く眇める。

 

「言いたくないなら、俺から言うか?」

「馬鹿。そんな気の利かせ方があるか。もういい。私が言う」

 

 御堂は大きく息を吸った。それで覚悟を決めたらしい。御堂の揺れ惑っていた双眸が克哉にすっと固定される。至近距離で瞬きもしない眸が克哉を射るような強さで見据えてくる。形の良い唇が力強い輪郭の言葉を紡ぎ出す。

 

「佐伯、私を好きでいてくれて、ありがとう。そして、私を信じていてくれて、ありがとう。私も君のことが………」

 

 そこまで言って御堂が言葉を詰まらせた。いや、詰まったのは言葉ではなくて昂ぶった気持ちかも知れない。

 言いたいのに言葉が出ないもどかしさに御堂は身体の横に降ろした拳をきつく握りしめて、無理やり言葉を絞り出した。

 

「……君のことが、好きだ」

 

 懸命に紡がれた言葉は小さく、掠れていた。だが、その一言からは量りきれないほどの気持ちが伝わってきた。

 薄暗い路地で、雪が視界にちらついているのに、御堂が顔を真っ赤にしているのがわかった。

 このひと言を告げるためだけに、雪の坂道を全速力で走って克哉を追いかけてきたのだ。気位が高く、何事もスマートに対処する男が必死な姿を晒してまで。そんな御堂をみっともないとは思わなかった。それどころか、一点の曇りも迷いもない気持ちをまっすぐに告げられて、熾火が一瞬にして激しく燃え上がったかのように胸が熱かった。克哉はただただ圧倒されて、言葉も出せずに、瞬きもせずに御堂を見つめていた。

 御堂はいたたまれないのか、片手で顔を覆った。呻くように言う。

 

「いまさらこんなことを言っても信じてもらえないかもしれない。……だが、本当なんだ。信じてくれ」

 

 いじらしさを感じるほどの声と顔で懇願されて、克哉は無意識に呟いていた。

 

「……反則だろう」

 

 もう一度、御堂の告白を聞きたかった。いいや、一度と言わず、何度でも。散々焦らされたのだ。聞こえないからもう一度、と多少の意地悪をしても許されるはずだ。しかしそんな余裕など吹き飛ぶくらいの衝動に突き動かされる。

 

「ん……っ!」

 

 御堂の手を掴んで引き剥がし、唇を押し付けた。御堂の唇はひんやりと冷えていたがすぐに熱を持った。くちゅり、と濡れた音が立って、舌先が柔らかく触れる。

 ふるえる身体をきつく抱き締めて腕の中に閉じ込める。冷気が入り込む隙がないくらい、ぴったりと身を沿わせながら緩急をつけたキスをする。唇に舞い落ちてきた雪をキスの熱で溶かして舐め合った。吹きつけてくる凍える風に冷やされながらも、身体の芯に火を灯されるような熱っぽい感覚を覚えた。

 息苦しくなってきたところで、ゆっくりと顔を離した。呼吸を荒げながら言う。

 

「なぜか既視感があるな」

 

 かつてもそうだった。去ろうとする克哉を御堂が追いかけて告白したのだ。あの日も雪が降っていた。

 克哉の言葉に御堂はぽかんとした顔をしていたが、すぐに思い出したらしい。口元を拭いつついっそう顔を赤くした。小さい声で「馬鹿」と克哉に悪態を吐く。

 夜は始まったばかりで、この先の愛を交わすにはこの路地は寒すぎた。

 克哉は御堂に悪戯っぽく笑いかける。

 

「となると次の行動は決まっているな」

「ホテルには行かないぞ」

 

 御堂がむすっとした顔で釘を刺す。

 

「ああ、俺たちの部屋があるからな」

 

 早くふたりの部屋に帰ろう。雪に埋もれつつあるふたりの傘を回収するのが多少億劫ではあるけれど。

 

 

 

 環状線に出たところで、ちょうど客を降ろしたタクシーを捕まえることができた。まっすぐに自宅へと帰る。家に着くまでは自制心を総動員していたが、玄関に入ってドアに鍵をかけるなり、濡れたコートを脱ぎつつ玄関先でキスを交わした。重くなったコートをその場に脱ぎ捨て、スーツを脱がせ合いながらリビングへと向かう。本当は寝室のベッドまで辿り着きたいが、とてもそこまで自制心が持たずにリビングのソファにふたりして倒れ込んだ。こんなに余裕がなく互いを求め合っている。

 純粋に相手の存在を感じたくて仕方がない。唇だけでなく髪や額にキスを落としながら、肌をまさぐる。御堂の手が絶えず克哉の身体を這いまわり、克哉の熱に直に触れようとしていた。いてもたってもいられないような動きに御堂もまた克哉と同じ気持ちになっていることがわかる。

 擦れ合う身体の狭間でふたりの昂ぶりを重ね合った。呼吸が乱れ、御堂の両手が克哉の背中に回される。御堂の背のくぼみに指を沿わせて辿り、双丘の丸みを撫でた。

 御堂を膝の上に乗せたまま上体を起こすと、潤滑剤をまとった指で窮屈なところに触れた。御堂は眉根を寄せて苦しげな顔をしたが息を浅く吐いて力を抜き、克哉にその先を許した。

 

「ぁ、あ……っ」

 

 濡れた音を立てながら内側から撫でるようにして馴らしていく。数え切れないほど繰り返した行為なのに、御堂の身体はこわばりきつく閉ざそうとする。ひさしぶりの交わりで、御堂が手術を受けてからは初めてだ。身体も心も緊張している。あまり身体に負担はかけたくない。克哉は労る口調で言った。

 

「無理はするな。これ以上はやめておくか?」

「大丈夫…だ。私は君としたい」

 

 そう言って、御堂が克哉にしがみつくようにしてキスを求めてきた。ともすれば逃げようとする身体をどうにか抑えて克哉に差し出そうとしている。

 恐ろしくプライドが高い男が、こうして克哉を懸命に受け容れようとしている。そしてその先にあるものをふたりで手に入れようとしている。

 たまらないほどの愛しさを感じた。克哉はキスを繰り返し、時間をかけて指を増やし、慎重に拓いていく。

 克哉の首に縋り付く体勢のまま、御堂は克哉の下腹に手を伸ばした。御堂の長い指が克哉のペニスに絡みつく。軽く根元から擦りあげられて、それだけで腰が砕けそうな愉悦が込み上げる。

 御堂に視線を向ければ、微かに笑った御堂が顔を寄せて、克哉の唇を挑発するように舐めた。

 

「俺を煽るとどうなるか知らないぞ」

「それくらいわかっている」

 

 なまめかしい声で答える御堂には凄絶な色気と飢えが滲んでいる。克哉だってそうだ。あまりに渇きすぎてこれ以上は我慢できない。

 克哉は自分の膝の上に跨がらせた御堂の腰を抱え直した。御堂が腰を浮かせて克哉を受け容れる体勢を取る。

 体面坐位の体勢で窄まりに自身を宛(あて)がい、ゆっくりと押し込んだ。先端にかなりの圧がかかるか、抜き差ししていると徐々に御堂の中に埋め込まれていく。御堂が喘ぎながら白い喉を反る。張り出したエラを呑み込むと、あとはひと息に奥深くへと沈んでいった。

 

「きついな……」

 

 甘い吐息を吐きながら 御堂の腰を抱き寄せる。御堂のペニスに指を絡めて扱きあげると御堂は濡れた声をあげた。

 唇でつながりながらゆるやかに腰を遣いだす。突き入れるごとに少しずつ窮屈な場所を自分の形に押し拓いていく。御堂が浅い呼吸を繰り返し、克哉の首にしがみついた。甘い痺れがさざ波のように身体を巡る。

 下から何度も突き上げると、御堂も腰を遣い始めた。ふたりの動きが次第に噛み合い、大きな波となる。濡れた粘膜が克哉に絡みつき引き絞るように蠢いた。

 

「ぁ……、あっ、あ、さ、えき……っ」

 

 甘く上擦る声が克哉を呼ぶ。その声を塞ぐようにキスをして、弾むようなキスの合間に囁いた。

 

「孝典さん、俺の名前を呼んで……」

「さえ…き……、も…、イきそうだ…」

「そうじゃない」

 

 うっすらと開かれた濡れた目が乞うように克哉を見つめる。四肢を克哉に絡みつかせるようにして先をせがむ御堂を揺さぶって、寸でのところで決定的な刺激を止める。

 それを繰り返していると焦らされた御堂がたまらないといったように声を上げた。

 

「か、つや……、――克哉っ」

 

 ねだるように名前を呼ばれて堪えきれないほどの衝動に襲われる。

 御堂の上体をソファへと倒し、片脚を抱え込むと腰を噛み合わせるようにしてさらに奥へと自分を送り込んだ。まだ拓かれていない最奥をぐっとこじ拓けられて御堂が掠れた悲鳴を上げる。御堂の先端からは透明な粘液がしとどに溢れ続けている。

 

「あ、あ……っ」

 

 これ以上なく深く繋がって、克哉は大きな動きで自身を送り込むと、御堂は四肢を引き攣らせた。切羽詰まった愉悦で克哉ももう余裕をなくしている。

 

「孝典……」

 

 克哉はいったん動きを止めた。名前を呼べば濡れそぼった視線がつながる。どこまでも深く繋がっているこの瞬間を御堂と共有したくて御堂の顔を覗き込む。

 

 御堂の手が克哉の頭に伸びる。癖の強い髪に指を絡めて、御堂は恍惚と微笑んだ。

 

「あいしてる、克哉」

「俺も、あなたをあいしている」

 

 快楽が始める寸前まで膨らんで、克哉は猛然と腰を遣い出した。御堂の口から嬌声が零れ続ける。官能と苦痛に揺さぶられる御堂の白い肌は紅潮し、光る汗を刷いている。

 

「ぁ、あ――っ」

 

 御堂が身体を突っ張らせるようにして達する。克哉もまた、激しく渦巻く悦楽に中心を貫かれるようにして、御堂の最奥に放った。鮮烈な快感が克哉の中心を突き抜け、強烈な絶頂に指の先まで満たされる。

 最後の一滴まで放ち、御堂を強く抱き締めた。御堂もまた克哉を抱き締め返す。

 

「克哉……」

 

 かすかな声で呼ばれて、克哉は求められるままにキスを返した。

 めくるめく興奮に頭の芯を炙られながらも、なぜかこうなることを知っていた気がした。

 初めて御堂と執務室で出会った時から、克哉は御堂のもので、御堂は克哉のものだった。それはとっくに決まっていたのに、ずいぶんと遠回りしていまこの瞬間に辿り着いた気がする。

 たとえようのない充足感に包まれるが、ここはゴールではない。スタート地点なのだ。

 人は少しずつ自分を入れ替えながら生きている。昨日の自分と今日の自分は決して同じではない。いま胸を占める愛しさはいまだけのもので、誰も未来を保証してくれない。この気持ちが永遠に灯り続けることを信じることしかできない。

 それでも、御堂となら望む未来を創り出せると確信できた。それはまったく根拠のない自信だが、きっとこの思い込みを人は恋と呼ぶのだろう。それでもいい。御堂とふたりならどんな世界だって生きていける。

 御堂をきつく抱き締めた。

 いましがたの快楽をふたたびふたりで引き寄せに行く。何度でも、満足するまで。

 

 

 夢を見た。

 真っ暗な夜に雪がしんしんと降っていた。いいや、桜の花びらかもしれない。

 降りしきる花びらはだんだん増えて目を開けても閉じても視界一面真っ白に染め上げる。

 まるでホワイトアウトしたように、自分がどこに立っているのだかわからなくなる。

 これはあのときと一緒だ。桜の花びらが降りしきる公園で自分自身の位置を見失ったときと。

 寄る辺のない心細さに襲われる。こんなとき、自分は何をよすがにしていたのだろう。無意識に胸ポケットを探ろうとして、克哉はその手を止めた。

 

 ――もう俺には必要ない。

 

 かつて、克哉の運命の歯車を大きく回した眼鏡はその役目を終えた。

 不意に、克哉の目の前に黒衣を纏った長身の男が現れた。濃い金色の髪と同じ輝きの眸が克哉を見つめる。

 

「良いのですか? それは決してあなたを裏切らないというのに」

「ああ。もうこれは必要ない。お前に返すさ」

 

 男は金の眸を眇める。

 

「あなたは不安定で儚いものに自身を擲(なげう)とうとしている。差し出した手は振り払われるかもしれない。そうなればあなたはまた、絶望に襲われる。次こそは立ち上がることさえできなくなるやもしれません」

「これからはせいぜい悪足掻きするさ」

 

 幸福は常に儚さと隣り合わせだ。前触れもなく失われる恐怖は常にある。それでも、それが相手を信じない理由にも愛さない理由にもならない。暗闇の中で克哉の標(しるべ)となるべき相手はたったひとりだ。運命だと割り切って諦めるよりも、自分が信じたものを信じ抜く方がずっといい。格好悪くても、未練がましくても、別にいいではないか。これが眼鏡を捨てた佐伯克哉の生き方だ。

 

「俺は、何よりも誰よりも、あの人の傍にいたい。そして、あの人に俺の傍にいて欲しいと願っている」

「本当に懲りない方ですね……残念です。あなたには期待していましたのに」

「懲りないのは、俺が人間だからだろうな」

 

 自然と笑みがこぼれた。先の保証は何もないのに、なぜか清々しい気持ちだった。

 黒衣の男――Mr.Rに眼鏡を返そうと胸ポケットに触れたが、そこにはもう何もなかった。顔を上げれば、Mr.Rの手に見覚えのあるメタリックフレームの眼鏡が握られている。

 

「それでは、さようなら。佐伯克哉さん」

 

 ひんやりとした笑みをひとつ残してMr.Rは白い闇の中に溶け込んでいった。

 またひとりきり白い闇の中に取り残される。克哉はすっと目を閉じた。

 克哉は脳裏に思い浮かべる。たったひとりの男を。信じるべき男の姿を。

 闇を見ようとするから迷うのだ。正しい選択肢を選ぼうとするから見誤るのだ。

 大切なのは正解を探すことよりも、どう生きていくかだ。それが正しかったのか間違っていたのかはいつか時間が教えてくれる。

 

「佐伯」

 

 そのとき、耳になじんだ柔らかい声が響いた。指と指を搦めるようにして手を握られた。じわりと伝わってくる確かな温もりと存在感。目を開いて隣を見ると、会いたかった人が微笑んで克哉を見ている。愛しさを籠めた眼差しで。

 克哉も微笑みを返す。

 どれほど遠いところでも、暗いところでも、何が起こっても、この人の隣が俺の居場所なのだ。

 たとえこの先に抗うことのできない運命が襲ったとしても、克哉は御堂を信じ続けたい。あきらめることよりも逃げることよりも、信じ抜くことでひと筋の未来を掴むことができるのだ。

 

 

 目を覚ますと透明な朝の光が部屋に満ちていた。克哉はぼんやりと天井を眺める。いままでずっと自分の部屋のソファベッドで寝起きをしていたから、こうして寝室の天井を見たのは久しぶりだ。そっと隣に手を伸ばすと御堂の温もりに触れた。

 枕元の眼鏡を手に取りつつ、そっと体を起こして御堂の寝顔を眺めた。寝乱れた髪に縁取られた鮮やかな輪郭。すべてのパーツが完璧な精度でこの男の顔を形作っている。どれほど見ても見飽きることのない美しい顔だ。

 時間を忘れて御堂の寝顔を眺めていると、眼球の丸みを覆う瞼、瞼を縁取る長い睫が震えた。うっすらと開かれた眸がぼんやりと左右に揺れて視界の中に克哉を捉えた。真っ黒な瞳孔が拓き、意識と視線が繋がる。

 

「おはようございます」

「……君は何をしているのだ」

「あなたが好きだなと噛み締めていた」

 

 御堂はじろりと克哉を見返した。何か言われるのかと思ったが、御堂は黙ったまま肘をベッドマットについて上体を起こした。克哉と視線の高さを合わせ、まっすぐに見据えて告げる。

 

「私もだ」

「はい?」

「君のことが好きだと言っている」

 

 まさか御堂が率直に告白するとは思わなくて、言葉を失してしまう。御堂は眉根を寄せた。

 

「なぜそんな目で見る」

「いや……、少し驚いた」

「私らしくないと思っているのだろう」

 

 克哉の心をずばり見透かしてくる。御堂は、好きだ、とか、あいしてる、と軽々しく言うような人間ではなかった。ベッドの上で克哉に乞われてようやく口にする程度だ。いくら克哉から吹っかけたとはいえ、朝の挨拶のごとく克哉に自分の好意を告げてくるとは、克哉が知る御堂の姿からかけ離れている。昨夜、克哉に告白してなにかが吹っ切れたのだろうか。

 御堂は額にかかった前髪をかき上げながら、短い息を吐いた。

 

「いやなのだ。過去の私と比べられるのは」

「どういうことだ?」

「……私にとって君と一緒に過ごしていたときの記憶は幸福そのものだったのだ。それこそまるで楽園で過ごしていたような時間だった。君だって同じように思ってくれていたのだと思う」

 

 遠い過去に思いを馳せるかのように御堂の焦点が霞んだ。

 

「だが、もう決して戻ることができない楽園に囚われたくはない。あのときの方が良かったと思い続けたくない。私は君と、いまを、そして未来をともに生きていきたい」

 

 御堂は揺らぐことのない眼差しで克哉を見据える。言葉が熱を帯びる。

 

「これから先へと続いていく気持ちが、失ってしまった気持ちより劣っているなどと私は思っていない。だから、私は君への気持ちを伝えることを怖れない」

「……あなたらしいな」

 

 御堂らしくないなんてとんだ間違いだ。この男は間違いなく御堂孝典だ。

 この徹底した負けず嫌いとプライドの高さ。過去の自分に対しても激しい対抗心を燃やしている。そんな姿さえ愛おしい。

 

「俺もあなたのことを愛していますよ。いままでも、これからもずっと」

 

 甘く濡れた声で囁くと御堂はわかりやすく顔を赤らめた。

 そっと御堂の頬に手を添えて顔を上げさせると、口づけをした。触れあうだけの軽いキスのつもりが御堂の手が克哉の首に回されて、より深く唇を噛み合わされる。気持ちを交わし合う丹念で雄弁なキスだ。

 いつの間にか、朝の光は輝きを増していた。ふたりに注ぐ冬の陽射しはどこか柔らかで、克哉は名残惜しく顔を離す。

 胸は疼くような熱と昂ぶりで満ちている。

 外は凍えた冬の空気に取り囲まれているが、この場所は心地よく暖かだ。

 ここが楽園であっても楽園でもなくても、克哉はもう決して見失うことはない。自分が帰るべき場所を。

 このあと、ふたりでシャワーを浴びて、コーヒーを淹れよう。トーストと卵料理の朝食を食べたあとは、ワイシャツを羽織って、スーツを着て、ネクタイを締めて。そしてふたりでAA社に出勤する。今日も仕事は山積みでスケジュールも分単位で詰まっているだろう。

 また、いつもと変わらない、それでいて昨日とは違う一日が始まる。

 

END

(8)
あとがき

 最後までお読みくださりありがとうございます。
 今年初の長編連載となりましたが、計12万字になりました。長かった…(普段は7-8万字くらい)。
 昨年『永遠よりも遠いところ』というメガミド長編を書いたのですが、こちらは克哉が記憶と御堂への愛情を失ってしまう物語でした。これを書いていたときから、反対のパターン、御堂さんが眼鏡への愛を失うパターンを書きたいなと少しずつ構想を練っていました。
 とはいえ、御堂さんの記憶喪失ものは既に何作か書いており(記憶喪失ものは好きすぎていくらでもいけるのですが)、たまには味変してみようと、記憶はあるけど愛を失うパターンで話を作ってみました。そうしたら、思いのほか萌えました…。
 記憶はあるからこそ、なぜ自分が克哉を愛してしまったのか、そしていま愛せなくなってしまったのか、煩悶する御堂さんもおいしかったですし、そもそも自分に向けられていた愛情は、本来なら存在するはずのないものだったと知ってしまう眼鏡の苦悩も書きながら萌えました(ごめんね、眼鏡…)。
 結果、しんどい展開が長々と続くことになりましたが、私なりに満足がいく物語が書けたように思います。
『永遠よりも遠いところ』と対をなす物語として書きましたので、本多がAA社に遊びに来るシーンや同期組との飲み会など同じような場面をあえて作っています。それぞれの話での御堂さんの心情の違いなど比べていただければ。
また、今回四柳先生を多く書けて嬉しかったです。眼鏡は四柳先生を信頼はしているものの信用はしていないので、あんな感じにちょいちょい失礼ですが、ふたりの掛け合いは書いていて楽しかったです。
 こちらの御堂さんはワインバー仲間との交流を復活させているので、これからは眼鏡もワイン会に連れて行かれそうです。
 それでは、もし萌えたところなどありましたらひと言教えていただければ嬉しいです。
 では、また!

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