
プロローグ
月が煌々と輝く夜だった。夜になっても暑さが残っていて、むわっとした湿度の高い空気のおかげでシャツの下は不快な汗をかいていた。街灯が疎らに闇を薄めている公園は人の気配なく、静寂が満ちていた。御堂は音を立てないよう忍び足で歩き、自分が追っていた男の姿を探した。幸い佐伯克哉の姿はすぐに見つかった。
御堂は静かに佐伯の背後に忍び寄るとポケットの中に忍ばしていたフォールディングナイフを取り出した。小ぶりのナイフの刃を広げた瞬間、カチッと音がした。気付かれたかと焦ったが、佐伯はぼうっと立ち尽くしたままだった。
なんの警戒もせずに突っ立っている姿はある意味滑稽だった。
御堂はナイフを握り駆け出した。その足音に佐伯が振り向いた瞬間、体当たりする勢いで佐伯にナイフを突き立てた。ざくりと布地が切り裂かれる感触に続いてずぶずぶとナイフが脇腹の肉の中に沈んでいく。
「なんだ、これ、は……?」
佐伯は信じられないような顔で自分の脇腹に突き刺さっているナイフを見た。そして視線は、ナイフの柄、その柄を握る手、その手を辿るようにして御堂の顔へと向けられる。
「誰だ、お前……は…一体……」
満月を背負った御堂の顔を凝視する佐伯の目が見開かれる。驚愕に満ちたその顔を御堂は憎悪を滾らせて見返した。
「お前のせいだ……。お前のせいで、私は……」
怒りが身体中の血を沸騰させた。手に握ったナイフの柄を力を込めてねじると、克哉の口から悲鳴とも呻きともつかない声が零れる。
ようやくこの男に恨みを晴らすことができるのだ。
凶悪な興奮に包まれて、御堂は高らかに笑った。
この男に強いられた恥辱、踏み躙られた矜持。なにもかもを奪われて、残っていたのはひたすらに研ぎ澄まされた憎悪だ。
「ぐ……、ぅ……」
内臓を引き裂く感触と共に克哉の脇腹から溢れた生温かな血が御堂の手を濡らした。それは不愉快な感覚などではなく、血のぬめりと生温かさはむしろ母親の胎内を思い起こさせるような心地よさがあった。
ここ数日はずっと寝ても覚めても復讐ばかりを考えていた。怨嗟の泥沼に引きずれ込まれたいま、こうして復讐を遂げ、恨みを晴らせて、胸には言葉に言い表せぬほどの高揚に満ちている。
「はは……っ、ざまあみろ」
「み、どう……」
佐伯がなにかを言おうと口を動かした。だが、それはかろうじて御堂の名前をつぶやいただけで、克哉の身体は糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちていった。地に伏す身体からずるりとナイフを引き抜いた。とたんに傷口からとぷとぷと真っ赤な血が溢れてくる。
この時点で放っておいても佐伯に残された時間は限られた者だっただろう。だが、御堂は佐伯に馬乗りになるようにして遮二無二ナイフを振り下ろした。柔らかい肉にぐさりと刺さる手応え、また硬い骨にナイフの切っ先が弾かれる感覚。ナイフを突き立てるたびに佐伯の口からはうめき声が漏れて、顔が苦悶に歪む。口元に血しぶきが飛び、それを舌で舐め取った。鉄の味と匂い、五感すべてで味わう感覚のどれもが御堂を昏い嗜虐に駆り立てた。
「お前さえ、お前さえいなくなれば……、はは…っ」
御堂の哄笑が空気を震わせる。
佐伯の顔がピクリと動くが、投げかける言葉に反応する力も残されていないようだ。克哉の手がなにかを探すかのように地面の上をさまよったが、それもすぐに動かなくなった。
御堂はゆっくりと立ち上がると、血塗れのナイフをその場に捨てた。ハンカチで手についた血を拭うとそのハンカチもその場に捨てた。意気揚々とした足取りでその場をあとにする。もう振り返ることもしなかった。
いつになく足取りが軽かった。いままでの身体の重苦しさも神経を掻きむしるような焦燥感も、なにもかもが消え去り、なんでもできそうな気がした。口元には淡い笑みさえ浮かぶ。
大きくて青白い月が御堂の歩む道を煌々と照らしていた。
1
佐伯を刺したあとの御堂の記憶は途切れ途切れだった。興奮しすぎてどうやって帰ってきたかさえも覚えていない。朝起きてちゃんと自室のベッドで寝ていたことを考えると、きっとタクシーを捕まえたのだろう。
朝になっていくらか冷静さを取り戻すと、自分がしでかしたことの重大さを理解した。
とはいえ、佐伯を刺し殺したことへの悔恨や罪悪感よりも、殺人を犯したことで自分の人生が台無しになることへの怖れのほうが大きかった。
あまりにも無鉄砲で無計画だったと反省する。凶器も血を拭ったハンカチも足跡も、何もかもをあの場に残してきてしまった。日本の警察は優秀だ。いくら目撃者がいなかったとはいえ、あれほどの証拠を前に犯人を突き止めるのはひどく簡単なことだろう。こうして振り返ってみれば、いくら激しい憎悪に駆られての突発的な犯行だったとは言え、完全殺人の計画を練る余地があったのではないかと後悔する。自分の頭脳をもってすれば、佐伯一人くらい誰にも気付かれずに消し去ることは可能だったのではないか。
とはいえ、後悔先に立たずだ。やってしまったことは仕方がない。
御堂はキッチンに向かうと、コーヒーメーカーを操作して熱いコーヒーを淹れた。豆からこだわった淹れたてのコーヒーは良い香りがして、味わいも格別だった。コーヒーを飲みながら、こうしてゆっくりとコーヒーを味わうのはずいぶんと久しぶりだと思い当たる。
そう、あの男が現れてから、御堂はすべてにおいて余裕を失っていた。あの男の気配に怯え続け、まともな睡眠も取れず、仕事では些細なミスを繰り返し、そのミスのせいでさらに仕事量が増えるという悪循環に陥っていた。だがもうあの男、佐伯克哉の脅威から解放されたのだ。
そうだ、佐伯だ。
御堂はマグを持ちながらリビングへと移動した。家で大人しく警察の手が及ぶのを待つべきか、と考えつつテレビをつけた。どのチャンネルもニュース番組を流している時間帯で、チャンネルをザッピングしながら適当な番組を選ぶ。しばらく眺めていたものの、画面に並ぶニュースヘッドラインに殺人事件は取り上げられていなかった。いぶかしく思いながらスマートフォンでニュースを検索した。だが、公園名で検索しても殺人事件で検索しても佐伯克哉の死体が見つかったというニュースはまったくヒットしなかった。御堂は死体を隠したりはしなかった。それに、人気(ひとけ)がない公園とはいえ、東京のど真ん中の公園だ。いまだに死体が見つかっていないなどということがありうるのか。とはいえ、まだ朝の早い時間帯だ。ニュースとしての一報が流れるまでにはもう少し時間がかかるのかもしれない。
首をひねりながら御堂はいつものようにシャワーを浴びてスーツに着替えた。悩んでいても仕方がない。
いずれ捕まるのだったら、その前に仕事の引き継ぎなどがスムーズにすむよう準備していたほうがいいだろうと考えたのだ。
MGN社に出勤すると、すれ違う御堂の同僚や部下が次々と挨拶をしてきた。御堂もまた軽く会釈をして挨拶を返す。
若くしてMGN社の部長に就いた御堂への嫉妬と羨望が入り混じった眼差しを浴びながら、これが明日には一転して嫌悪と蔑みの眼差しに変わっているのだろうと思うと複雑な気持ちが芽生えた。だが、心は不思議と凪いでいた。佐伯は諸悪の根源だった。佐伯のせいで御堂の世界は脅かされた。だから佐伯を排除したのは当然の帰結だった。もう少しスマートなやり方はあったかもしれないが、自分のした行為に何ら悔いはない。それどころか、ナイフを振り下ろしたときの佐伯の苦痛に歪む顔を思い浮かべると、性的な快感に似た高揚が沸き起こる。
執務室の自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。今日一日のスケジュールを確認する。
ともすれば昨夜の興奮に耽りそうになる自分を軌道修正しつつメールを確認していると、ドアがノックされ、藤田が入ってきた。
「御堂部長、そろそろミーティングのお時間です」
声をかけられて、キクチの定例ミーティングの時間が差し迫っていたことを思い出した。
「ああ、いま行く」
会議室へと向かう。先週まではあの男と顔を合わせるかと思うと気が重くなり胃がきりきりと痛くなったミーティングだ。だが、もう佐伯はいない。堂々とした足取りで会議室へと入った。
「では、始めようか」
「よろしくお願いします」
先に着席していたキクチ八課の面々が御堂へと顔を向けて頭を下げる。御堂も軽く会釈をして席に着こうとしたところで、瞳孔が拓ききった。
「まさか……」
掠れた声が漏れる。
冷たい手で心臓を鷲掴みされたような衝撃だった。驚きと恐怖で、文字どおり金縛りにあったかのようにその場から動けなくなった。自分の顔がみるみる青ざめていくのが分かる。突然冷たい川に放り込まれたかのように全身が凍り付き、思考が真っ白に染め上げられる。
視線の先には、いるはずのない男が着席していた。男は、御堂と視線が重なるとやわらかで邪気のない笑みを返した。
どうして、佐伯克哉が生きているのか。どうして、この場にいるのか。
席に着席しようとして固まったままの御堂に片桐が首を傾げて言う。
「御堂部長、いかがされましたか?」
「いや……」
声が震える。片桐は御堂を心配そうな顔で見返した。周りからも分かる程度に動揺が顔に出ているのだろう。佐伯もまた御堂に顔を向けていた。その表情は自分を殺した相手に対する憎しみや怯えが込められたものではなく、ごく単純に御堂の不審な態度を訝しむものだ。
さきほどまでの冷静さは吹っ飛び、自分がいまなにをすべきかさえ判然としない。指の先が凍えたかのようにかじかみ、 背筋を悪寒が這い回る。
「部長……?」
藤田がおそるおそるといったふうに声をかけた。
一向に始まる気配を見せないミーティングに、参加者の誰もが御堂へと顔を向ける。注目を浴びてしまっていることに気付き、御堂はむりやり視線を佐伯から振りほどいた。ガタガタと音を立てて着席し、動揺を押し殺した声で言う。
「では、ミーティングを始めよう」
「それでは、私からご報告いたします」
御堂の開始の合図に佐伯が答えた。血の気の失ったまま顔で怖々(こわごわ)と佐伯を眺めた。夢でも幻でもなくそこに佐伯が存在している。その声も仕草もすべてが御堂の記憶にある佐伯克哉と一致していた。
会議をどうにか終えたものの、ほとんど上の空だった。「御堂部長」と声をかけられてようやく自分の意見を訊かれていると気付く始末だ。
ミーティング中、御堂の頭の中を占めていたのはただひとつの疑問だ。
この男はなぜ生きている?
昨夜、御堂はたしかに佐伯克哉を刺したのだ。到底助かるような状態ではなかった。万一助かったとしてもこんなふうに平然と会議に出席していられるはずなどないのだ。
いまの御堂は、佐伯を殺してしまったことよりも、佐伯が蘇っていることに激しく動揺していた。
佐伯はミーティングの間中ず涼しげな表情を保ち、立て板に水のごとく売り上げ報告をする。その声を聞くほどに、頭の芯が痺れ、吐き気さえ覚えた。
その姿はふだんの佐伯とまったく変わらない。御堂に向ける視線も接する態度も、まるで昨夜のことなどなかったかのように、下請け会社の社員を完全に演じきっている。この会議室の中にいる自分以外のすべての人間が、この佐伯が『佐伯克哉』であることを露程(つゆほど)も疑っていなかった。ただひとり、御堂を除いて。
どうにかミーティングを終えると、御堂はすぐさま立ち上がり会議室を出た。これ以上理解不能な事態を目の当たりにしていると頭がどうにかなってしまいそうだ。速足(はやあし)で執務室へ戻ろうとした途端、背後から近付いてきた足音に呼び止められた。
「御堂部長、先ほどのプロトファイバーの在庫の件ですが……」
ぎくりと脚が止まった。おそるおそる肩越しに振り返った。ちょうど会議室から出てきた佐伯が御堂の元に足早に駆け寄ってきた。
佐伯は御堂の前で足を止めるとまじまじと御堂の顔を見返した。おかげで御堂もまた、佐伯の顔を間近で見ることになった。目と鼻の先にある佐伯の顔はどこからどう見ても佐伯の顔で、周囲の温度が一気に氷点下に下がったかのような寒気を覚えた。
佐伯はそんな御堂を前に声を忍ばせて言う。
「顔色が随分と悪いようだが、大丈夫か?」
その声音も表情も心から御堂を案じているようだった。御堂は怯えていることを悟られないように気力を振り絞り、牽制する声を出した。
「……貴様は誰だ」
佐伯はレンズ越しの眸を大きく瞬かせた。
「誰って、本気で言っているのか?」
周囲に他の人間がいないせいか、佐伯はビジネススマイルを引っ込めて、いくらか砕けた口調で聞き返してくる。なれなれしい態度に憎悪を燃やした視線でにらみ返すが、佐伯の表情は不可解なものだった。いままで御堂に見せていた悪意が滴るような顔とは違って親密な相手に見せるような優しさを含んだ眼差しと口調で言う。
「あんたは恋人の顔を忘れてしまったのか?」
「はあ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。佐伯は口元に笑みを浮かべたまま御堂をいなすように言う。
「そんな反応されるとさすがの俺でも傷つきますよ、御堂さん」
「そんなふざけた言葉、冗談でも口にするな」
佐伯をきつく睨み据えた。地を這うような低い声を出す。
「だいたい、なんでここに貴様がいる。……いいや、貴様は佐伯ではないな」
「何を言っているんだ? 俺のことはよく知っているだろう?」
「馬鹿を言うな! 佐伯がこんなところにいるはずがない!」
「それなら俺はどこにいるはずなんだ」
地獄に決まっているだろう。
呆れ笑いを噛み殺す佐伯を前に、御堂は言いかけた言葉を呑み込んだ。
御堂は佐伯を刺し殺した。正確には死んだかどうかは確かめてなかったが、どう見ても死んだか死にかけている状態だった。あの時点からの回復はまず無理だ。
しかし、御堂が知っているのはそこまでだ。
そのあとの佐伯の死体はどうなったのか。佐伯の死体が見つかったというニュースはいまだ見ていない。まさか、本当に、あの状態から生き返ったというのだろうか。
腹の底が急激に冷えていく。血の気を失った顔色がますます青ざめたところで、大きな声がふたりの間の空気を乱した。
「おーい、克哉! ここにいたのか!」
キクチ八課の本多が手を振りながらやってきた。その背後には片桐の姿も見える。佐伯が本多へと顔を向けた瞬間、止まっていた時間が動き出したかのように感じた。御堂は素早く踵を返した。
「失礼する」
「おい……、待てっ」
佐伯の呼び止める声が聞こえたが無視をした。
執務室に戻るなりパソコンを立ち上げた。ニュースを検索し、佐伯克哉の死体が見つかっていないのかと検索する。だが何のニュースも見当たらず、公園名や死体遺棄といった検索ワードをいろいろ変えて試してみるが、どれほど探しても佐伯の死体が見つかったというニュースはなかった。
――死体が消えた?
死体が消えて、代わりに殺したはずの佐伯が平然と出勤して御堂の前に現れている。
これはどういうことなのか。
考えれば考えるほど胃がキリキリと痛み、心臓が不穏なリズムを刻む。朝の平穏は消え去り、胸中に暗雲が広がって、不安に喉が締め付けられた。
そのとき、デスクの上の内線電話が鳴った。それだけで心臓が止まるかと思うほど驚き、動揺が治まらない状態のまま電話を取った。内心の混乱を悟られないよう、努めて落ち着いた声をだす。
「はい、御堂です」
『大隈だが……』
御堂の直属の上司の大隈専務からの電話だった。プロトファイバーの流通管理についていくつかの質問を受ける。それは朝のミーティングの議題に上がっていたこと覚えているが、なにを話し合ってどういう結論にしたのか記憶から抜け落ちていた。普段ならすらすらと答えられる内容なのに、あからさまにうろたえてしまい、デスクの上の資料を慌てて漁る。だが、あるはずの資料をどこに置いたかさえ覚えていなかった。
そんな御堂の動揺ぶりが伝わったのだろう、電話口の向こうで大隈がため息を吐いて言った。
『あとでで構わないから、メールで要点を送ってくれたまえ』
「申し訳ございません……」
自分のふがいなさに打ちひしがれて電話を切った。電話を切った瞬間に手元に探していた書類が置かれていたことに気付いて、さらに落胆する。のろのろとした動きで書類を手に取った。
資料を確認しながら内容を簡潔にまとめ、資料ファイルを添付して大隈にメールを送った。
とても仕事が手につかない状態で、これでは昨日までとなにも変わらない。むしろそれ以上に悪かった。それもこれもすべては佐伯のせいなのだ。
その日、満足にタスクをこなせないまま、御堂は定時に帰宅することにした。
とても仕事をこなせる精神状態ではなく、御堂にはなによりも考える時間が必要だった。
MGN社を出てタクシーを捕まえようと道路沿いを歩いていたところ、前方の木陰からぬっと人影が現れた。
その姿を目にして身体が強張り、息が止まった。現れたのは佐伯克哉だ。佐伯は場違いなほどのにこやかな顔で言う。
「御堂さん、お帰りですか?」
「佐伯……」
干上がった喉から嗄れた声が出る。佐伯は御堂との距離を詰め、じっと御堂を見つめる。
「どうして、そんなに俺を避けるんですか。居留守まで使って」
佐伯が言うとおり、ミーティングを終えたあとも、佐伯から御堂宛ての電話連絡があった。その取り次ぎをすべて拒否していたら午後には直接尋ねてきた。当然それも居留守を使って事務員に断らせた。その結果、佐伯はMGN社の前で御堂を待ち伏せるという強硬手段に出たのだ。
佐伯の顔は完璧な笑みを保ったままだ。だからこそ空恐ろしかった。この男は腹の内を一切見せない。一点の曇りもない笑顔のまま、どこまでも非情なことをやってのけるのだ。
「そんなこと……分かるだろう」
「いいえ、分かりませんね。今日のあなたはずいぶんと変だ」
レンズの奥の目が眇められる。御堂の心を透かし見るような鋭い眼差しに全身が総毛立った。
「私をどうする気だ……」
心臓がひしゃげそうなほど激しく乱れ打ち、ひどく息苦しくなる。蛇に睨まれた蛙とはまさしくいまの自分ではないか、と頭の片隅で他人事のように思った。佐伯は小首を傾げる仕草をする。
「どうするって、……ここではなんですからふたりきりで話しましょうか」
そう言って佐伯はさっと車道側に身を乗り出すと手を上げた。ちょうど通りかかった流しのタクシーが佐伯の前に停車する。佐伯が背中を向けているあいだ、御堂は静かに一歩ずつ後ずさって距離を取った。
「ほら、タクシー探してたんでしょう?」
佐伯が御堂へと顔を向ける。そのふいを突いて御堂は走り出した。
「おいっ、待て!」
鋭い声がした。背後から佐伯が追いかけてくる気配が迫る。この男とふたりきりになればどうなるか火を見るより明らかだ。
必死に走って逃げようとしたところで、ぐらりと地面が沈んだ。
視界が傾き、不安定に揺れる。世界が崩れていくような感覚に吐き気が込み上げた。めまいが起きたのだ、と気付いたときには天地が分からなくなり、バランスを失った身体が大きく傾く。
「御堂っ!」
佐伯が声を上げる。まっすぐ走れているかも分からない状態で、それでも佐伯から逃がれようと足を動かした。だが、なにかに躓き、身体が前のめりになった。地面が一瞬で目前に迫る。身体がたたきつけられる寸前、反射的に右手をついた。おかげで顔面から激突するのは免れたものの、手首に鋭く重い痛みが走り、支えきれなかった身体がどんと地面に打ちつけられる。衝撃と痛みに御堂は呻き、そのまま意識を手放した。
2
ひどく身体が重かった。御堂は寝返りを打とうとしたところで全身が痛んだ。その痛みに意識が引き上げられる。
「ぅ……」
重たい瞼を押し上げると、見覚えのある天井が視界に入った。状況が把握できず黒目だけを動かせば、どうやら自室のリビングのソファの上に寝ているようだ。温かみのある照明に照らされた室内、窓の外は夜の帳が下りている。もう夜も更けた時間帯のようだ。
なにか悪い夢を見ていたような酷い気分だった。
それにしても、どうして自分はソファの上で寝ているのだろう。視線を戻して服装を見れば、ワイシャツとスーツのズボンのままだ。シャツの襟元のボタンは外されて息苦しさはないが、いつジャケットを脱いでネクタイを解いたのか記憶がない。それに全身を打ち付けたような痛みはなんなのか。
靄がかかったような思考を巡らせて記憶を辿る。
たしか自分はMGN社の前で佐伯に待ち伏せをされて……。
その先を思い出そうとしたところで、声が聞こえた。
「気が付いたのか」
声が聞こえてきたほうに顔を向けて凍り付いた。そこにいたのは佐伯克哉だ。いつの間に部屋に入ってきたのか佐伯はジャケットを脱いだ格好でリビングに立っていた。
視線がまともにあった瞬間、なにが起きたのか思い出した。佐伯に待ち伏せされて、それで……。
そしていま、佐伯と同じ空間にいるという事実に一気に恐怖が蘇る。震える声を絞り出した。
「どうして、お前が……」
「覚えてないのか。俺の目の前で派手に転んだんだ。俺がここまであんたを運んだんだ」
はあ、と佐伯は大仰にため息を吐く。
「あんたは今朝から様子がおかしかった。顔色も悪かったし、なにかに気を取られているようだった。それに俺をあからさまに避けているし」
当然だろう、と叫び出したいのを堪えた。
殺したはずの相手が目の前に現れて平然としていられるはずがない。
そしていまや御堂は最悪の状況に陥っていた。
殺したはずの相手と部屋にふたりきりだ。佐伯からすれば自分を殺そうとした相手とふたりきりなのだ。佐伯はどのような復讐してやろうかと、胸の内で嗜虐に満ちた舌なめずりをしているに違いない。
要は絶体絶命の状況だった。散々嬲られ、蹂躙された出来事が鮮明に思い起こされ、悪夢の続きを見ているような悪寒に襲われる。
この男から逃げなければ。
幸い、拘束はされていなかった。佐伯は弱り切っている御堂を見くびっているのだろう。佐伯が油断しているいまなら逃げられるかもしれない。
御堂は、佐伯の気を引かないように静かな動作でソファの座面に手を突いて起きようとした。だが、右の手首に力を込めた瞬間、強い痛みが走り思わず呻く。
「どうした?」
佐伯が怪訝な顔をして御堂の元に寄った。床に膝を突いて屈み込み、御堂の右手を取ろうとする。
「手首が腫れている。見せてみろ」
「私に触るなっ」
佐伯の手を鋭く振り払った。その刹那、ふたたび手首が悲鳴を上げて、御堂は苦痛に顔を大きく歪めた。それでも、憎悪を燃やして佐伯を睨み付ける。
御堂の激しい拒絶に佐伯はたじろいだように両手をあげた。
「落ち着け、御堂。俺はなにもしない。ただ、あんたのことが心配なだけだ」
「心配だと? 心にもないことを」
はは、と乾いた笑いが漏れた。
「貴様は私がこうして落ちぶれて無様な姿を晒すのを楽しんでいるのだろう」
「……なにを言っている?」
佐伯は大きく目を瞬かせた。不可解だとでも言わんばかりに御堂の顔をまじまじと見詰めた。その眼差しを怒気を込めた表情で見返すと、佐伯はゆっくりと口を開いた。
「御堂、ひどい顔色をしているぞ。根を詰めすぎだ。ミスを挽回しようとして無理をしすぎて余計にミスを増やしている。あんたらしくもない」
佐伯は淡々と言い含めるような口調で言う。
「プロジェクトのトップだからと言って気を張りすぎているんじゃないか。トップとしての責任を取ろうとしているのかもしれないが、もっと上手いやりようがあるだろう。少なくとも自分の体調管理くらいちゃんとやれ」
佐伯の言葉がいちいち正しくて、苛立ちが込み上げてくる。御堂は衝動に突き動かされるように声を荒げた。
「誰のせいだと思っている!」
握りしめた拳が無意識に震えていた。
なにもかもが順調だったのに、それをこの男がすべてを台無しにしたのだ。佐伯は御堂にとって人の姿をした災厄だった。この男が現れてからなにもかもが悪い方向に向かっている。この男は御堂を何度も凌辱し、いたぶり、御堂の築き上げてきたすべてを奪い取ろうとしている。
「……誰のせいって、俺のせいか?」
佐伯が首をひねりつつ言う。そのとぼけたような仕草に更なる怒りが爆発した。
「貴様以外に誰がいる! 貴様のせいで、私は……、私は…………」
その先の言葉が続かなかった。嗚咽のような呻きが漏れる。
佐伯克哉のせいで自分がどんなふうに変えられてしまったのか。それを口にすれば、それが事実だと認めてしまうことになる。憎しみがじりじりと身体を内側から焦がすのに、頭の中ではどうしようもなく惨めな自分を俯瞰している。悔しくて、苦しくて、吐き気がした。
御堂はあふれ出す負の感情を堪えようと俯いた。ぎゅっと目を瞑り、爪が食い込むほどに手を握りしめた。そうでないと、余計にみっともない姿を晒してしまいそうだった。
御堂が胸の内で吹き乱れる感情をひたすら堪えているあいだ、佐伯も黙ってその場に立っていた。御堂をじっと伺う視線を肌で感じる。ふたりの間に重苦しい沈黙が降り立った。
どれほど時間が経ったのだろう。御堂の感情がようやく落ち着いてきたころを見計らうかのように、佐伯は言った。
「……御堂、いまは休め。一人でなにもかもを抱え込もうとするな。あんたには部下もいるし仲間もいる。正直、いまのあんたは心配だ」
それはまるで御堂を心の底から労るような声音だった。
――心配? この男が私を心配しているだと?
困惑に包まれながら顔を上げた。佐伯はレンズ越しの眼差しを御堂に向けていた。嘲りでも蔑みでもなく、純粋に御堂を慮るような眼差しだった。
佐伯がなにを考えているのかまったく理解できず口を引き結んだままでいると、佐伯は、ふ、と諦め混じりの息を吐いた。
「デリバリーを頼んでおいた。夕飯と朝食分だ。最近まともな食事も取っていなかったんだろう。ちゃんと食べて、寝ろ」
そう言って佐伯はダイニングテーブルを顎で指した。そこになにかが置かれているのが見えた。どうやらデリバリーで頼んだという食事らしい。
「あと、明日朝イチで整形外科受診しろ。その手首を診てもらえ」
「……仕事がある」
かろうじてそれだけ言うと、佐伯は首を振った。
「明日の午前中はとくに会議もなにも入っていなかっただろう。あんたの部下は優秀だ。あんたがいなくてもちゃんと動ける。信用しろ」
それだけ言って佐伯は床に置いていた鞄とその上にかけていたジャケットを掴むと部屋から出て行った。
玄関のドアが開き、閉まる音がした。ガチャリと鍵がかけられる音がして、あの男が自分の部屋の鍵を持っていることを思い知らされる。
しばらくソファから動かずにいたが、佐伯が戻ってくる気配はなかった。
御堂はそろそろとソファから立ち上がった。ちらりと玄関を覗き、佐伯がどこにもいないことを確認する。御堂に何の手も出さず、あっさり部屋を出ていった佐伯に拍子抜けしながらも、ダイニングへと向かった。
テーブルの上に置かれていたのは予想どおり佐伯がデリバリーで頼んだという食事だった。中華粥と惣菜が2セット用意されていた。明日の朝分もということだろう。
食事を見て、ようやく自分の空腹に気が付いた。最後にまともな食事を取ったのがいつだったのかさえ思い出せない。心身ともに逼迫(ひっぱく)していた自分に気付く。
見た目からして食欲をそそる食事にそろそろと手を伸ばしかけて、我に返った。
これは佐伯が用意した食事だ。
ワインに薬を忍ばせるような男の食事を御堂が食べるとでも思っているのだろうか。
「忌々しい」
使い捨ての容器に盛られた食事を怒りにまかせて引っ摑み、すべてキッチンのゴミ箱に叩きつけた。勢いよく叩きつけたせいで右手首がズキズキ痛む。倍増された痛みにさらに憎しみが沸き立ち、左手で残りの容器をためらうことなくひと息で捨てた。ゴミ箱から溢れかけたそれを無理やり中に押し込むと御堂はようやくひと息ついた。
ぐったりとダイニングの椅子に座り込む。
「それにしても、一体どうなっているんだ」
自分の記憶と現実の乖離に愕然とする。正しいのは御堂か、佐伯か、どちらなのか。
もしかして、佐伯を刺したというのは御堂の幻覚だったのだろうか。
はっと思い立って、御堂は立ち上がった。倉庫代わりにしている空き部屋に入りクローゼットを開いた。その中に片づけていた荷物を漁る。
「ない……」
佐伯を刺すときに使ったフォールディングナイフが見当たらない。
大学時代、友人にキャンプに誘われたときに購入したナイフだった。小ぶりなもので調理には向かなかったが、折りたたんでしまえばコンパクトで、ジャケットの懐に入れて持ち歩くにはちょうどよかった。
社会人になってからはキャンプに行くこともなくナイフを使う機会はなかった。他のキャンプ用品と一緒にクローゼットに押し込んでいたが、あの夜、御堂は明らかな殺意を持ってそのナイフを持ちだしたのだ。そのナイフが見当たらないということは、やはり御堂はあのナイフを使ったのではないか。
「あとは服とハンカチか……」
ハンカチで手についた血を拭った記憶がある。そのハンカチはあの場に捨ててきてしまった。どんなハンカチだったか記憶は曖昧だ。そしてまた同じブランドのハンカチは何枚も持っているから、無くなったかどうか判別はつかないだろう。着ていた服はどうだろうか。返り血を浴びていたように思うが、服は朝一番に他の服とまとめてマンションのコンシェルジュに預け、クリーニングに出してしまっていた。
御堂が佐伯を殺したという唯一の根拠は、あるはずのナイフが無くなっている、ただそれだけだった。だがそれはあまりにも頼りない根拠だった。
翌朝、御堂は病院に向かった。佐伯の言うとおりにするのは癪だったが、佐伯が帰ったあとも、右手首の痛みは治まるどころか少しでも手首を動かそうものなら激しい痛みを伴うようになっていた。着替えるだけでもひと苦労で、これはさすがに早めに受診したほうが良いだろう、と観念した。
夜も遅い時間だったが、大学時代からの友人で医者の四柳に連絡した。転んで手を突いたことを話し、整形外科を受診したいと告げると、四柳の伝手で整形外科の予約を取ってくれた。MGN社には午前休を取ることをメールで連絡し、常備していた鎮痛薬を飲んでベッドへと入った。考えることはいっぱいあった。だが、鎮痛薬が効いてくるとあっという間に御堂の意識は深い眠りへと攫われていった。
朝起きるとだいぶ気分はすっきりしていた。久々にまともな睡眠を取ったおかげだろう。もしかして手首の痛みは良くなっているのではと一瞬期待したが、痛み止めが切れた手首はずきずきと痛み、御堂はおとなしく整形外科を受診した。受診するなりさっそく画像検査を受けさせられて、右手首の靱帯損傷と診断された。幸い、手術まではしなくて大丈夫のようだが、手首を動かさないようにする装具をつけられてがっちりと固定される。整形外科医からは極力右手を使わないように言われ、そのためにこの装具も二十四時間、できるだけつけるようにと念を押された。
午前中いっぱい病院に費やしてしまい、御堂は昼過ぎからMGN社に出勤した。右手首に巻き付いているがっちりとした装具はジャケットの袖からはみ出していて、すれ違う同僚や部下の注意を否応にも引いた。大抵は好奇心を抑えて何事もなかったかのように御堂に挨拶をしてくるが、直接訊いてくる者には渋々、転んで手首の靱帯を損傷したことを伝えた。明日までには御堂の不注意による怪我がMGN社の社員全員に知れ渡っているだろうと憂鬱な気分になる。
御堂は執務室に入って、大きく息を吐いた。なにもかもがうまく噛み合わずに悪い方向に転がり落ちていくような予感がある。これでは佐伯を殺す前と何ら変わらないではないかと鬱々と思考を巡らせてふと冷静になった。
なにも変わらないのは、殺したはずの佐伯が死んでいないという矛盾のせいではないか。
急いでパソコンを立ち上げて、ニュースサイトを確認した。佐伯を刺し殺して二日目の朝を迎えたもかかわらずあの公園で死体が見つかったというニュースはどこにもなかった。さすがに都内の公園で血を流している死体が丸一日見つからないという事態は考えられないだろう。これはいよいよ死体が消えたという事実を認めなくてはいけない。
死体が消えている、そして、殺したはずの佐伯がぴんぴんと生きている。
この二つの事実だけ考えれば、佐伯を殺したという記憶は御堂の幻覚でリアルな夢を見ていたという可能性がもっとも現実的なのかもしれない。ここのところまともな睡眠も取れていなかったし、肉体的にも精神的にも危うい状態にあったことは自覚している。
しかしあれが夢だったとは到底思えなかった。
スーツの布地を切り裂く甲高い音と、肉にずぶずぶと沈むナイフの感触、がむしゃらに振り下ろしたナイフが硬い肋骨に弾かれる衝撃、手を濡らす血の温かさ、むわっと迫りくる血の匂い。それだけではない。驚愕に見開かれる佐伯の双眸と苦痛に歪む顔。そのどれもがまだ生々しい記憶として脳裏に刻まれている。
もしその記憶が真実なら、いま御堂が一番怖れているのは、佐伯克哉ではない別の誰かを殺してしまったという可能性だ。それを考えると背筋がぞっと凍えるが、いくら記憶を思い返しても、あれは佐伯だったとしか思えなかった。
御堂は佐伯克哉をたしかに殺したはずなのだ。
となれば死体はどこに消えたのか。誰かが隠したのか、それとも蘇ったのか。もしくは、すべてが御堂の幻覚だったのか。
現場に行ってたしかめたい気持ちは強かったが、それこそ犯人は現場に戻ってくるという鉄則ではないかと自重(じちょう)する。昨日までは警察に捕まることを覚悟していたのに、いまとなっては保身の気持ちが見え隠れしてしまっている。
佐伯が死んでいないのなら、御堂の目的は達成されなかったということになる。それで警察に捕まるというのは不本意極まりない。どうせ逮捕されるなら、自分は間違いなく佐伯を殺したという確信を持って逮捕されたい。
昨夜、御堂の部屋にいた佐伯の姿を思い出す。
いっそ、昨日から御堂の視界にうろちょろと入ってくるあの佐伯を殺せばいいのではないか。すでに一人殺しているのだ。佐伯を二人殺しても誤差の範囲だ。
そこまで考えて首を振った。
それはさすがに乱暴な考え方だ。佐伯克哉がこの世界に二人存在しない限り、二人殺せば御堂は無関係の他人を一人殺してしまうことになる。それではさすがに間違って殺してしまった相手に申し訳ない。
まず検討すべきは、自分は佐伯を殺したのか、殺してないのか、それが問題なのだ。結果、思考は振出しに戻る。
御堂はこめかみを押さえた。
もうなにがなんだが分からなくなってきた。
いったん考えることを放棄して、仕事を再開した。佐伯が言うとおり、御堂が休みを取っても部下たちが自分の頭で判断し動いてくれていたようで、午前中休みを取ったくらいで仕事が滞っているということはなかった。安心すると同時に、自分は替えが効く存在なのだと空しく思った。もし御堂よりも相応しい人材がいれば、すぐに首をすげ替えられるだろう。……たとえば、佐伯とか。
結果を出さなければいまの地位から簡単に転がり落ちる。そんなのは当たり前だ。停滞は許されない。この場にずっと留まることはできない。御堂の選択肢は昇進するか辞めるか(UP or OUT)だ。そんな厳しい実力主義が徹底されている外資系企業だからこそ、御堂は若くしてMGN社の部長職に就くことができたのだ。
開発部部長に最年少で抜擢されたとき、御堂は嬉しかった。だが、そのときは部長というポジションを得たよりも、どのような商品を開発すれば新たな需要や市場を開拓できるのか、自分の一存で自分のプランを実現できることに胸を躍らせていた。ゆくゆくは世界の市場にインパクトを与えるようなイノベーターになりたい、そんな高い視座と野心を抱いていたはずで、部長職は御堂にとって過程に過ぎなかった。それがいまや、自分の保身に汲々(きゅうきゅう)として、必死に自分のミスの尻拭いをしながら、部長の座にしがみつくみっともない姿を晒している。これは自分の目指していたことだったのだろうか。
「私はいったいなにをしたかったのだろうな」
空虚な気持ちが沸き起こり、御堂は椅子の背に深くもたれた。
その日、広報との打ち合わせを終えて廊下を歩いていたときに大隈と鉢合わせした。軽く会釈をして済ますつもりが大隈に呼び止められた。
「御堂君、その右手はどうしたんだね」
大隈の視線がじろりと御堂の右手に巻き付く重々しい装具に留まる。隠しようもないので正直に言った。
「昨夜転倒した際に手首をひねってしまいまして。手首の靱帯損傷との診断でしばらくの間、装具をつけることになりました」
「ふむ……。それならそのあいだ、休暇でも取ったほうがいいのではないか。最近君は疲れているようだしな」
冷淡な大隈の言葉にぎくりと身を強張らせた。大隈の発言は御堂の怪我を慮ってのものではなかった。言葉の節々に、御堂のパフォーマンス低下を責める響きがある。
すなわち、ここで休暇を取ろうものなら完全な戦力外とみなされるのは火を見るよりも明らかだ。だから、御堂は反射的に言った。
「いえ、大丈夫です。多少の不便はありますが仕事は問題ありません」
実際のところ、指は動かせるものの手首を動かせないというのは思った以上に不便で、キーボードを叩くスピードも落ちていた。物を掴む、ドアノブを握る、箸を使う、こういった日常動作ひとつひとつが、手首が使えないだけでこうも不便になるものかといちいち実感している。
「本当かね……?」
疑る眼差しと声音が返ってきた。ただでさえミスを重ねて信用をなくしているところに怪我までしたのだ。疑り深くなる大隈の気持ちももっともなものだ。
反論のための口を開きかけて御堂は逡巡した。御堂がいなくても仕事は回る。いまさら御堂が出勤し続けることになんら意味はないのかもしれない。大隈が勧めるとおり、しばらく休みを取ったほうが会社にも周りにも迷惑がかからないだろう。それに御堂はいつ逮捕されてもおかしくないのだ。ここで無理に抗ったところでどれほどの価値があるというのか。鬱屈した感情と共に諦念が込み上げ、休暇を取ります、と言いかけたそのときだった。
「大隈専務、御堂部長の怪我は私の責任です」
突然背後から声が割って入った。振り向けば佐伯が立っていた。大隈が御堂から佐伯へと視線を移す。
「君は……たしかキクチの佐伯君か」
「お世話になっております」
佐伯は大隈と御堂に頭を下げつつ、大隈に向けて畏まった口調で言った。
「昨夜、私が御堂部長に突然声をかけたせいで驚かせてしまい、部長は足を滑らせてしまったんです」
「そうなのか」
「御堂部長には大変申し訳なく思っております」
佐伯はふかぶかと頭を下げると大隈に向けて言葉を続ける。
「御堂部長のおかげでプロトファイバーは最高のスタートダッシュを切っています。ここで御堂部長が戦線離脱したら全体の士気に関わります。できることなら御堂部長にこのまま陣頭指揮を取っていただきたいのが我々キクチ八課の総意です」
「しかし、御堂君はあまり体調も良くなさそうにみえるぞ。だからこんな怪我を負ったのでは?」
「御堂部長の怪我の責任はすべて私にあります。ですから、私が御堂部長の手足となりサポートする所存です」
「まあ、君がそこまで言うなら……」
訝しげだった大隈も、佐伯の真摯な口調と態度に説得されたようだ。呆気にとられて二人のやりとりを見ていたが、大隈は御堂のほうにくるりと顔を向けると、
「くれぐれも気をつけてくれたまえ」
と言って、踵を返して去って行った。
廊下に佐伯とふたり、残される。キッと佐伯を睨み付けた。
「なぜあんなことを言った」
このまま御堂が休職すれば、御堂を部長職から引きずり降ろす絶好のチャンスだったはずだ。それをどうして助け船を出すような真似をしたのか。
「あんなこと? なにか問題だったか?」
佐伯は自然体で御堂に視線を向ける。その平然とした顔からなにかの企みを読み取ることは不可能だった。
「……私を助けたつもりか」
低い声で吐き捨てるように言った。
「心にもないことを」
「なにを言っているんだ。口だけじゃないさ。当然、あんたのサポートをするつもりだ。もちろん仕事だけじゃなくてプライベートでも。だから安心しろ」
「は?」
当惑している御堂を前に、佐伯は、ふ、と笑うと、「では、失礼いたします」と他人行儀な挨拶を残して立ち去った。
――貴様こそなにを言っているのだ。
御堂は去って行く佐伯の背中を呆然と眺めた。
3
その日、御堂は自由にならない手首でどうにか仕事をこなし、深夜、タクシーを使って自宅まで帰った。ドアを開けた瞬間、部屋の電気が点けっ放しであることに気が付いた。いや、出かけるときに消灯したはずだから、誰かが点けたのだ。
玄関には自分のものではない革靴がある。部屋の中の気配を慎重に伺おうとしたところで、リビングから人影が出てきた。予想したとおり、佐伯だった。スーツのズボンとワイシャツという姿で、玄関に立ちつくす御堂を見て眉根を寄せた。
「随分と遅かったな。こんな時間まで残業していたのか」
「私の家でなにをしている」
剣呑な眼差しと口調で牽制する。だが佐伯はすました顔で言った。
「夕飯の準備をして待っていたが、これだったら執務室まで持っていったほうが早かったな。そんな不自由な手で残業しても無駄に効率悪いだけだろう」
「夕食だと?」
言われてみれば食欲をそそる良い匂いが部屋の中から漂ってきている。
「ああ。といってもデリバリーで頼んだのを温め直しただけだが。あんたが遅かったせいですっかり冷めた。もしかしてもう食べてきたのか?」
そう聞き返されて、思わず首を振った。
「それなら温め直してくる」
そう言って、佐伯はふたたび部屋の奥へと戻っていった。
このまま部屋に入るべきかどうか迷ったものの、結局、靴を脱いで部屋に入った。自分の家なのに佐伯が我が物顔で闊歩(かっぽ)しているのは許しがたいが、ダイニングに入ったところでテーブルの上に食事が用意されているのが目に入った。箸が置かれ、温めなおしたご飯や惣菜を佐伯が手際よく並べていく。
「和食にしてみたが、これなら食べられそうか?」
佐伯が御堂の顔を伺いつつ言った。
けんちん汁にひじきご飯、サラダに生姜焼きといった献立で、元はデリバリーの弁当だったのかもしれないが、ちゃんとした食器に移し替えられているおかげか、見栄えは悪くなかった。
しかし、御堂は吐き捨てるように言った。
「私が貴様が触れた食べ物を食べると思うのか」
デリバリーの容器のままなら昨夜同様そのままゴミ箱に突っ込むところだ。だが、利き手が使えないのと自分の部屋の食器を台無しにはしたくないので辛うじて思いとどまる。
佐伯は御堂の言葉にわずかに視線を伏せてつぶやいた。
「そうか……」
それが傷心しているように見えて、御堂はなぜだか居心地が悪く感じた。
キッチンのゴミ箱をちらりと見れば、溢れかえっていたゴミもきちんと片付けられていた。昨夜、御堂が一切手をつけずに捨てた食事も跡形もない。佐伯はそれに気付いたはずだ。それを黙って処分した佐伯の心の内はどうだったのだろう。
自分の行動は間違っていないと思いつつも罪悪感にも似た得体の知れない苦しさを感じて、御堂は佐伯から視線を外して部屋の中を見渡した。リビングも朝とは変わっていた。もともと物は多くなかったが、いままで余裕がなかったせいで部屋の中は物が散乱したままだった。それが、きちんと片付けられて、紙の資料や本はちゃんとまとまっている。
これをすべて佐伯がやっただろうのか。
それだけではない。御堂に食事を食べさせるため、食事の種類を変え、味気ないプラ容器から食器に盛り付け直したのだ。しかし、いったい何のために。大隈の前で宣言したとおり、本気で御堂のサポートを公私にわたってするつもりなのだろうか。
いまとなっては御堂の部屋で好き勝手していることへの怒りよりも佐伯の行動に対する困惑が先立っている。
ややあって、佐伯がおもむろに口を開いた。
「御堂、いまからデリバリーを頼む。直接あんたが受け取るなら、俺の手は触れない。それなら食べるか?」
「そうまでして私に食事をさせたいのか」
「ああ。あんた、自分の顔を見てないのか? 相当やつれているぞ。頬もこけているし」
そう言われてみれば、最近まともに鏡を見ていなかった。
自分の頬に手で触れた。頬骨が触れる。それは自分の記憶にあるよりも尖っていた。よほどひどい顔をしているのだろう。大隈に休暇を取れと言われるのも当然なのかもしれない。
「あんたにいま一番必要なのは栄養と休養だ。俺が邪魔なら出て行くから食事はちゃんと食べろ。あと、食べられそうなものを言え。いまから頼むから」
そう言って佐伯はスマートフォンを取り出した。デリバリーを頼む気なのだろう。どうやら御堂になにかを食べさせたいというのは本心のようだ。そして、御堂が食事を口にするまではしつこく付きまとってきそうな気配があった。となれば御堂が食事を食べればこの男はおとなしく退散してくれるのだろうか。
御堂は首を振って言った。
「その必要はない。これを食べればいいのだろう」
半ば捨て鉢の気持ちになって食卓についた。この男の目的が分からない。大して食欲はなかったし、装具のせいで箸を使うのに手間取りながらも少しずつ胃に収めていく。
佐伯は御堂が食事に手を付けたのを見て満足したのか、「さっさと風呂に入って寝ろよ」と言いおいて、脱いでたジャケットを羽織り鞄を掴むと部屋を出て行った。
佐伯が帰ったのを確認して、ドアに内側からチェーンをかけた。ふと思い立ってバスルームを覗くと、風呂が沸かされている。タオルも新しいものが出されていた。
「あいつは何がしたいんだ」
佐伯の行動の意味が分からず首を振った。昨日から佐伯は御堂の部屋に押し掛けても、御堂を襲おうとはしなかった。それどころかいままでの佐伯とは真逆の行動をとっている。殺したはずなのに生き返っていることといい、御堂を気遣う言動といい、御堂を混乱の淵に叩き落して愉しんでいるのだろうか。
考え込みながらダイニングへと戻る。食べかけの食事が目について、どうしようかとしばし逡巡したが、御堂はふたたび食卓に着くと一人きりの食事を再開した。
翌日も会社から帰宅したら佐伯がいた。食事も用意されていた。今度はカレーだ。箸の代わりにスプーンが用意されている。
眉をひそめる御堂を前に佐伯が言った。
「箸は使いにくそうだったからな。スプーンとかフォークが使える食事のほうがいいだろう」
「べつに箸も使える」
罵詈雑言を吐く前にそんなことを言ってくるものだから、思わず真面目に返答してしまう。
昨日、御堂が箸を使いづらそうにしていたところを見ていたのだろう。痛めた手首でも食べやすい食事を考えたようだ。佐伯は御堂の前の椅子を引いて座るように促す。
「ほら、冷める前に食べろ」
「どういうつもりだ……」
唸るように言った。佐伯は首を傾げる。
「もしかして、辛いのは苦手だったか? 辛さレベルは普通にしたが」
「違う!」
御堂は声を荒らげ、佐伯を睨み据える。
「貴様、なにが目的だ」
「目的……?」
「専務の前では私を庇うようなことをして、挙句、私の家に勝手に上がり込んで家政婦の真似事までしていったい何のつもりだ」
「それのなにが問題なんだ?」
佐伯は目を丸くする。どうして御堂が怒っているのかまったく理解できていないかのようだ。
「あんたが困っているなら助けるのは恋人として当然だろう。あんたのプライドの高さは知っているが、こういうときくらい、恋人らしいことをさせてくれ」
「黙れ……! そんな馬鹿げたことを言って、私からなにもかもを奪う気だろう!」
佐伯の言葉に怒りの針が振り切れる。右手が自由だったら、そして、手に届く範囲にナイフがあったら、ためらわずこの男を刺していただろう。一度はそうしたのだ。二度目はもっと簡単にできるはずだ。
突然の御堂の怒りに佐伯負けずと声を張り上げた。
「そうじゃない。何度言ったら分かるんだ」
一歩も退く気のない眼差しが御堂を射る。佐伯は静かだが強い口調で言った。
「あんたこそ一体どうしたって言うんだ。記憶喪失にでもなったのか?」
違う。記憶喪失になったとしたら、それは佐伯のほうだ。御堂にした仕打ちの数々を忘れてしまったのだろうか。それだけではない。ありもしない事実をねつ造している。
「貴様は私になにをしたか覚えていないのかっ!」
激昂する御堂を前に、佐伯は、ふ、と表情を変えた。眉根を寄せてどこか苦しそうな表情で言った。
「たしかに、俺は接待と称してあなたを襲った。あのときの俺はどうかしていた。だが、あなたが俺を気付かせてくれた。俺を真っ当な道に戻してくれた」
「はあ? 真っ当な道だと? これ以上私を愚弄するなっ!」
馬鹿馬鹿しい。この男はなにを言っているのだ。
頭の芯が焼ききれそうなほど感情が高ぶり、言葉が堰を切ってあふれる。
「それだけじゃないっ、貴様は会議室でも、私の部屋でも……っ」
「御堂、落ち着いてくれ。俺が許されないことをしたのは事実だし、どんな釈明もできない。あんたがそれをやはり許せない、と怒る気持ちももっともだ。どんな償いでもするつもりだ。だが、あんたはそんな俺を赦してくれたからこそ、俺たちはいまの関係になれたと思っている」
「赦すわけないだろう!」
佐伯がなにを言っているのか理解が追い付かない。まったくかみ合わない会話にめまいがする。冷静さを失ったほうが負けだ。それはわかっているのに怒りで頭が煮えたぎる。一方の佐伯は荒ぶる御堂を前にしても感情を乱れさせる気配はまったくなかった。頑是ない幼子をなだめるような余裕さえ感じさせる。怒鳴りすぎて乱れた息を整えつつ、訊いた。
「……それで、いまの私たちの関係とはなんだ。恋人同士とかいうたわごとか」
「そうだ」
佐伯があまりにも堂々と言うものだからふたたび怒りにまかせて怒鳴ろうとしたが、いくら声を荒げても軽くいなされるのは目に見えていた。感情的になっている自分が馬鹿らしくなり、深く息を吐いて自分を落ち着けつつ言った。
「佐伯、シャツを脱げ」
「はい?」
「いいから、シャツを脱いで上半身裸になれ」
佐伯はなにか言いかけようとしたが、いまの御堂になにを言っても無駄だと悟ったのだろう。おとなしくワイシャツを脱いで御堂に向き直った。
「これでいいか?」
まじまじと佐伯の身体を見つめた。散々犯されたにもかかわらず、佐伯の裸の上半身を見るのはこれが初めてだった。佐伯は御堂を犯すときは自分の服を決して脱ごうともしなかったからだ。それは蹂躙する側とされる側の立場の差を分からせるためだったのだろう。
こうして佐伯の身体をあらためて見れば無駄のない筋肉に覆われた均整の取れた身体だった。そして、滑らかな肌のどこにも御堂がつけたはずの傷はなかった。信じられない気持ちでまじまじと見た。佐伯は御堂の視線をくすぐったそうにしつつも、御堂の前で身体の向きを変え、胸も背中もすべて好きなように観察させつつ言った。
「これで満足したか? なんなら下も脱ぐが」
「もう十分だ!」
ベルトに手をかけた佐伯を慌てて制する。ゆっくりと深呼吸して思考を整理する。
御堂が刺したはずの傷がないということは、この男は佐伯克哉ではない。それなら御堂に対する言動が佐伯克哉らしくないのも納得できる。だが、姿かたちはどう見ても佐伯克哉だ。こめかみに手を当てて考え込みつつ言った。
「……君には双子の兄弟か似た顔の親戚がいるのか?」
「俺に? いや、兄弟もいないし、親戚は年の離れたいとこだけだな」
佐伯はなんでそんなことを訊くんだ、と言わんばかりに怪訝な顔をしながら答えた。
佐伯の言葉をそのまま信用はできなかった。そもそも別人のくせに佐伯克哉と名乗っていることからして信用ならない。
合理的な説明をつけるなら、双子の兄か弟がこっそりと入れ替わったのだろう。なんらかの理由でその片割れは佐伯克哉に成り代わる機会を狙っていた。そんなとき、佐伯が殺される、もしくは死んでいるのを目撃した。だから、佐伯の死体が見つからないように隠し、自身が佐伯克哉として入れ替わった。
そこまでは説明がつくとして、どうして御堂の恋人だと名乗っているのか。
佐伯克哉に入れ替わる機会を虎視眈々と狙っていたのなら、佐伯克哉の情報を詳しく調べていただろう。キクチ八課の同僚さえも騙しきるほどに。それほどまでに調べているなら、御堂と恋人関係にないこと、それどころか御堂に避けられていたことは知っていて当然だ。しかし、と御堂は思い直す。佐伯が御堂をいたぶるときは常に一人だった。それどころか、本多の前では御堂と仲が良いとさえアピールしていた。
もしや、御堂を凌辱するために佐伯が何度もマンションを訪れていたことで、御堂と佐伯が恋人関係にあると勘違いしたのだろうか。とはいえ、もし御堂が佐伯を殺した場面を目撃していたのなら、そんな馬鹿げた勘違いはしないはずだ。御堂は執拗に佐伯を刺し続けた。どう考えても憎しみを募らせたうえでの犯行であるのは一目瞭然だろう。
それなのに、この男がこうして御堂の恋人だと臆面もなく言い放ち、御堂に接近してくるのはなぜなのか。この男が佐伯克哉の死体を迅速に片づけているなら、御堂がこの男を殺したことを知らないとは考えにくい。
疑問は尽きないが、佐伯克哉と瓜二つの人物が入れ替わったと考えるのが、一番自分を納得させる説明だった。となれば御堂の犯罪隠蔽に加担した『共犯者』とも言える。
だが、そう結論付けたところでゾッとした。この男がなりふり構わずに御堂の恋人としてふるまうのは、御堂が殺人を犯したと事実をネタに脅しをかけるつもりなのではないのか。いつ何時(なんどき)、態度を翻し寝首を掻きにくるかもしれない。警戒心を露わに言った。
「お前は何を企んでいる? 私になにを要求する気なんだ。欲しいのは金か、出世か……?」
その言葉は図らずもかつて御堂が佐伯にかけた言葉と同じだった。
だが、佐伯は目を瞬かせて御堂見る。一瞬驚いた顔をしたが、呆れた口調で言った。
「金や出世……? 俺そんな俗な理由であんたと付き合っていると?」
「それならなぜこんな真似をする。なにを望んでいるのだ」
威圧するように鋭く問うが、佐伯は御堂に向ける表情をやわらげた。
「そうだな、俺があんたに望んでいるのはもう少し俺に頼って欲しいということだ」
「頼る……? どういうことだ」
想定外の答えに不意をつかれ、聞き返した。佐伯はまっすぐに御堂を見つめて言う。
「あんたは働き過ぎだ。もっと部下や同僚を信用して頼れ。それに、俺にももっと甘えてくれていい」
「は? なんでお前に甘えなくてはいけないのだ」
佐伯に甘える自分を想像しただけで虫酸が走る、と付け加えそうになったが、佐伯があまりにも真剣な顔をしているのでそのひと言はどうにか堪えた。
「それはそうだろう。俺はあなたの恋人だからな。俺だと不満か?」
優しい笑いを含ませた声にどきりとした。佐伯の表情が見たことのないような甘やかなものに変化した。
こんな男は知らない。
佐伯がこんな顔をするはずがない。
やはり、この男は御堂が知っている『佐伯克哉』ではない。思わず疑る声が漏れた。
「貴様は誰なんだ……」
「佐伯克哉だ。分かって訊いているんだろう?」
「どうあっても佐伯克哉だと言い張るのか」
「ああ、当然だ」
佐伯でないことは御堂にとっくにバレているのに、それでもなお佐伯克哉だと主張し続けることは不可解だ。厳しく問いただす口調で言った。
「嘘を吐くな」
「嘘かどうかどうか試してみるか?」
「どうやって……んんっ」
言い終わる前に唇に唇を押し付けられた。咄嗟に逃げようとしたところで後頭部を掴まれて、がっちりと唇を深く噛み合わせてくる。強引に熱い口内に舌をねじ込まれ、歯列を舐められる。口蓋をくすぐられ、逃げようとした舌を搦め捕られた。佐伯の背中を叩いて引き剥がそうとしたが、そんな御堂の抵抗もお構いなしに遠慮のないキスは続いた。吐息も唾液も混じり合い、口腔に響く水音がひどくふしだらに聞こえる。
お互いの息も上がり苦しくなったところで、ようやくキスから解放された。
「どうだ、思い出したか?」
「思い出すって……」
ひたすらに佐伯のキスに圧倒されつづけ、酸素不足で朦朧とした思考のまま佐伯を見た。
「思い出すもなにも、君とはキスなんかしたことなかっただろう!」
しかも、これほどまでに激しく情熱的なキスなんて。
「そうだったか?」
「どうして貴様とキスする理由があるのだ!」
「それを言うならキスしない理由もないだろう?」
佐伯はしらばっくれるように言い、さらにニヤリと口角を吊り上げる。
「じゃあ、他のことで俺を思い出してみるか?」
「それは……やめろ……」
ぎくりと身を強張らせる御堂に佐伯がじりじりと迫ってくる。思わず後退りしたが、背後にあるソファに阻まれ、そのままソファに腰を落としてしまう。佐伯は御堂を腕の中に閉じ込めるようにソファの背に両手をかけて覆いかぶさり、御堂の退路を塞ぐ。
恐怖に染め上げられた目で佐伯を見上げた。その眼差しを佐伯は笑って受け止める。
「安心しろ、あんたの嫌がることはしないさ」
それなら、いままでやってきたことはなんだったのだ。そう抗議しようにも、開きかけた口をふたたび塞がれた。二回目のキスは一回目よりさらに遠慮がなかった。抗おうにも佐伯は体重をかけて御堂をソファの背と座面に押さえ込む。そうして、御堂の唇を味わうようにねっとりと貪ってきた。
「は……っ、ぁ……っ」
絡みついてくる舌が熱い。それだけではなかった。半裸の佐伯に強く抱きしめられて、佐伯の筋肉の微細な動き、そして体温までが直に伝わってきた。自分より若くて強い雄の巧みなキスに追い詰められながら、佐伯の濡れた舌を受け入れさせられる。呼吸を忘れ、苦しさに喘ぐと、ようやく唇を離された。急いで酸素を取り込もうとするが、何度もキスを繰り返される。
キスに気を取られているうちに、佐伯の手が御堂のシャツにかかった。手際よくボタンを外され、狭間から大きな手が忍び込んできた。
「よせ……っ」
肌を撫でまわす手に鳥肌が立つ。それでも佐伯の指は的確に御堂の熱を煽ってきた。乳首の尖りを摘ままれ身体の輪郭を辿られる。その手が御堂のベルトにかかったとき、御堂は必死の声を上げた。
「それ以上は、やめろ……っ」
佐伯に凌辱された恐怖がよみがえり、一瞬のうちに身体が凍り付く。こみ上げてくる怯えと恐怖を必死に抑えてつけていると、佐伯が言った。
「一方的にイかされるのは嫌か? それなら一緒にするか」
佐伯は上体を起こし、自分のベルトを外し下着を押し下げた。興奮に張り詰めたペニスが弾み出る。御堂を散々犯した肉の凶器を前に思わず目を逸らすと、佐伯は御堂に下半身を押し付けてきた。布越しに佐伯の欲情をゴリゴリと擦りつけられる。
「つ……、よせ……」
佐伯の身体の下で身を悶え打った。布を挟んで佐伯の熱と昂りを感じる。それは同時に、御堂の兆(きざ)した欲望も佐伯には手に取るようにわかっていることだろう。窮屈な場所で張り詰める自身が苦しくなってきたところで、佐伯の手が御堂のベルトにかかった。片手で器用にベルトを外され、前を開けられれば黒々と濡れた染みを広げた下着があらわになる。下着の縁に佐伯の指がかかる。亀頭にひっかかるゴム部分を伸ばしながら押し下げられると腫れきったペニスが頭を振って出てきた。
佐伯が吐息で笑う。恥ずかしさを通り越して恥辱に血の気が引いた。
根元から先端まで佐伯の手が御堂のペニスの形を辿る。やわやわと触られる感触に息を詰めると佐伯は自身のペニスをそこに押し付けてきた。
直にペニス同士が触れ合う生々しい感触に息を呑んだ。触れ合ったところから痛いほどの熱と痺れが身体中に響く。耐え難さに身を捩じって逃げようとしたが、佐伯にきつく抱きしめられた。そうしてさらに強くペニスを擦りつけてくる。
「ぁ、……く」
「御堂……」
耳元で熱っぽい吐息とともに囁かれる。佐伯が性交の動きのように腰を揺らしだした。裏筋がこすれ合い、エラがひっかかる。腰がじん、としびれた。もっと強い刺激が欲しいのに強張ったペニスがこすれては逸れるもどかしさにたまらなくなって、御堂も気付けば佐伯に腰を押し付けるようにして揺らしだしていた。
「ぁ……あ、あ」
佐伯の大きな手がふたりのペニスを掴み、二本重ねて根元から擦り上げられる。その強烈な刺激に上擦った声が漏れる。ペニスの先端からは大量の先走りが漏れて、扱かれるたびにぬちぬちと粘った音を立てた。
御堂は佐伯の背中にしがみつくように手を回した。弾力のあるなめらかな皮膚の下にあるしなやかな筋肉に触れる。寄せては返す波が大きくなり、御堂は足を突っ張らせてつま先を丸めた。
「っ、あ、あああ」
がくがくと身体が痙攣し、ペニスの中心を濃い粘液が通り抜ける。びゅるっと音が聞こえるほどの勢いで放たれたそれは自分自身だけでなく佐伯のペニスや腹にまでかかった。
「――ッ」
佐伯もまた喉で低く唸り、苦しげに眉をひそめた。御堂に伸し掛かる身体がぶるりと震えた。同時にどっと熱い飛沫を下腹に感じた。互いに果てて荒い吐息だけが行き交う。
全身がぐにゃぐにゃになって蕩けるような感覚に佐伯の背中をきつく抱きしめたまま動けないでいた。
佐伯に犯されるセックスでもなく、一方的な快楽を与えられて貶められるセックスでもなかった。ただふたりで快楽を分かち合うという行為にひたすらに感じてしまっていた。
あまりにも激しい絶頂に朦朧(もうろう)となっていると、佐伯がのっそりと身体を離した。ティッシュボックスを持ってきて、汚れてしまった下半身をティッシュでぬぐわれる。ついでに服を全部脱がされていた。
もしやこのまま犯されるのか、と身を固くしたところで、佐伯は御堂の左腕を取ってソファから身体を起こさせて言った。
「風呂が沸いているから入ってこい」
「なに……?」
訳も分からないうちに右手首の装具を外されて裸のままバスルームに追いやられる。
風呂はいつの間にか湯が張られていた。
呆然としながら湯船に浸かっているとバスルームのドアが開いた。ぎょっとして振り向くと、佐伯がシャツの袖をまくり、ズボンを膝までまくり上げた状態で入ってくる。御堂は眉を吊り上げてきつい口調で言った。
「何しに来た。出て行け」
「あんたの頭を洗いにきたんだ。その手だと洗いにくいだろう。頭だけこっちに出してくれ」
たしかに佐伯が言うとおり、右手が使えないと頭を洗うのも一苦労だった。そもそもシャンプー液をポンプから出すだけでも大変なのだ。それでも痛みを我慢して洗髪していたのだが、右手に負担をかけている自覚はあった。
佐伯は湯船の傍に立ったまま動かない。本気で御堂の頭を洗う気なのだろうかと半信半疑で身体の向きを変えてバスタブの縁に頭を出した。するとシャワーヘッドを手にした佐伯がざあっとお湯をかけて頭を濡らす。シャンプーを手に取った佐伯が地肌を揉みこむようにして髪を洗い始めた。理容室でやるように、両手で頭を包み込んでマッサージするように強弱をつける。その手つきは意外なほどに優しく的確で、疲れが頭から抜けてくるようだ。
緊張に強張っていた力が抜けて、自然と目を瞑っていた。
顔にお湯がかからないように額に手を当てられた。シャワーのお湯で泡を流される。最後に軽く髪を押さえて水気(みずけ)を切ると佐伯が言った。
「じゃあ、後は自分でできるな。無理するなよ」
佐伯は立ち上がり、バスルームのドアを開けて出て行った。ぼんやりと目を開く。なにか屈辱的なことをされるのではないかと身構えていたはずなのに、佐伯に頭を洗われてすっかりくつろいでいた自分に気付く。相手は得体の知れない男だ。それなのに、なぜ自分はこんな風に大人しく言いなりになっているのか、反発する気持ちはあったが、疲労感と眠気に襲われてなにもかもどうでもよくなってくる。御堂は右手を使わないようにして身体を洗ってシャワーを浴びた。
バスローブを羽織ってバスルームから出ると佐伯が待ち構えていた。ぎょっとするが、佐伯は御堂の手首の装具を手に持っていて、「手を出せ」と言う。おとなしく右手を差し出すと、手際よく装具を付けられた。マジックテープできつめに固定される。
「これくらいで大丈夫か? 痛くないか?」
「ああ」
言葉少なに答えた。正直なところ自分一人では、利き手の手首に装具を付けるのも外すのも大変で、ずれないようにきっちりと固定するのに多大な時間と労力がかかっていた。佐伯はそこまで見越していたのだろう。
装具の締まり具合をたしかめながら、佐伯が言う。
「明日の朝も準備を手伝おうか」
「必要ない、結構だ」
突き放すような固い口調で言えば佐伯はあっさりと引き下がった。
「わかった。食事は冷蔵庫にサンドイッチを入れてあるから。夜更かしをせずに寝ろよ」
佐伯はそれだけ言うと、ジャケットを着込んで部屋の片隅に置いてあった鞄を掴み出ていった。
「誰なんだ、あいつは……」
佐伯の後姿がドアの向こうに消えるのを確認して呆然と呟く。いまだに理解が追い付かない。
佐伯は御堂の家を出たあと、丁寧なことに鍵まできっちりかけていった。もちろん、御堂の部屋から勝手に持ち出したスペアキーを使ってだ。
翌朝、冷蔵庫を開けると中にサンドイッチが用意されていた。片手で摘まめるそれを食べ、手首の装具のせいで着替えや準備に手間取りながらもどうにか着替えを終えて家を出た。
4
朝、出社するなり、緊迫した顔の藤田から工場トラブルの報告を受けた。
「製造ラインが停止した?」
「はい、機械の故障のようです。いま原因を調べていますが、いつ復旧するか未定です」
故障で停止した製造ラインはよりにもよってプロトファイバー専用の製造ラインだ。
在庫はまだあるが、ちょうど先日、キクチ八課から増産の要請をされたところだった。このまま製造が再開出来なければ早晩品切れを起こすだろう。そうなれば、売れに売れているプロトファイバーの販売機会を失ったとのことで御堂が機会損失の責任を追及されることは想像に難くない。
どうすべきか。
焦りが顔に浮かぶ部下を前に、御堂はわずかな間、考え込んだ。判断に足る情報がほとんどない状態だ。それでも、決断を下さなくてはならない。
御堂は顔を上げて、藤田に告げる。
「キクチ八課を呼べ」
「はい」
藤田はすぐに身を翻し、執務室から出て行った。
MGN社の会議室に、片桐、本多、佐伯の三人が召集されたのはそれから間もなくだった。事態が分からず困惑している三人を前に御堂はひと言告げた。
「プロトファイバーの製造ラインが故障して、生産量が確保できなくなった。出荷調整をかける必要がある」
「出荷調整ですか……?」
片桐は息を呑んだ。佐伯は黙ったままじっと御堂を見つめる。
本多は椅子を乱暴に引いて立ち上がり、抗議の声を上げた。
「こっちは増産をお願いしていたのに出荷調整とはどういうことですか!」
「致し方あるまい。……それで君たちには在庫と需要のバランスを取り、出荷調整による混乱を最小限に抑えてもらわねばならない」
「そんな、昨日まではもっと売れって言っていたのに勝手すぎやしませんか」
語気を荒くして息巻く本多の隣で片桐が不安げな表情で訊いた。
「出荷調整はどれくらいの期間になる見込みでしょうか」
「分からん。まだ故障原因さえ不明だ」
「他のドリンクの製造ラインを回してもらえないんですか!」
怒りが治まらないのか本多は食って掛かるように言う。それを佐伯が制した。
「本多、製造ラインの確保については御堂部長がなんとかしてくれる。部長には部長の仕事があるように俺たちは俺たちの仕事があるだろう」
「っ……、そりゃそうだけどさあ……」
佐伯の冷静な言葉に、本多は口を引っ込めた。佐伯は御堂へと顔を向ける。
「承知しました。我々が販売チャネルへの在庫分配を調整し、品切れは最小限に食い止めます」
佐伯の静かな眼差しが御堂を射る。途端に落ち着かなくなった。佐伯は決然たる口調で告げる。
「ですから、販売に関しては俺たちに任せてください。御堂部長は部長としての責務を果たしてください」
「言われるまでもない」
御堂は憤然と言い、ミーティングはそれで解散となった。
執務室へと戻りながら考えた。
佐伯が口にした、御堂の責務、すなわち部長の仕事とはなんだろうか。
プロトファイバーの製造ラインが復旧するまでのあいだ、代替の製造ラインの確保は喫緊(きっきん)の課題だ。それこそが自分のいますべき仕事だろう。御堂は全国各地に点在するMGN社の各工場と折衝を行うつもりだった。そして別の飲料の製造ラインをプロトファイバーに割り当ててもらう。当然、割を食う商品についても担当部署からの了承を得る必要があった。自分がやればできるだろう。その自信はあった。だが、そのすべてを御堂がこなしていたら時間も身体も足りない。まずどこから手を着けるべきなのか。もし、なにか一つでも間違えれば、今度こそ御堂は周囲からの信用もポジションも失うだろう。
やるべきことは頭の中にリストアップできているのに、気ばかり急(せ)いて動けなくなる。そのときだった。
『もっと部下や同僚を信用して頼れ』
ふいに佐伯の言葉が耳の奥で響いた。
そう。御堂は御堂にしかできない仕事を優先すべきだ。
自分にしかできない仕事、それは自分より上の立場との交渉だ。すなわち大隈に説明し了解を得なければいけない。それが最優先事項だ。
製造ラインを統括するトップは大隈だ。
御堂が心を決めパソコンを立ち上げたところで新着メールの通知が来た。佐伯からのメールだった。ファイルが添付されていて、開いてみるとプロトファイバーの売上レポートと出荷調整の期間に応じた販売数の予測がまとめられていた。
出荷調整の期間が長引けば長引くほど、MGN社にとって大きな損失となることがグラフでわかりやすく図示されている。それだけではない、MGN社が製造しキクチに販売委託している他の飲料の在庫量と販売数まで記載されていて、どの飲料の製造ラインをプロトファイバーに割り当てるべきか一目瞭然だった。
メールの文面は必要最低限だが、この資料は大隈を説得するのに十分すぎるほどの内容だ。御堂が大隈との交渉に当たることを見越していたのだろう。
御堂は内線電話をかけて、直ちにSCM(サプライチェーンマネジメント)部門の責任者を呼び出した。佐伯から送られてきた資料を提示しながら事前の打ち合わせを行う。SCM部門の責任者は佐伯が作った資料の正確さと説得力を前に、一も二もなく製造ライン確保の重要性を納得した。そうして代替の製造ラインの候補を決めると、御堂は大隈の執務室へと向かった。
大隈は自身の執務室で、アポイントを取らずに押しかけてきた御堂を前に露骨に不機嫌な顔をして言った。
「他の製造ラインをプロトファイバーに割り当てろだと?」
「ええ。このままでは、プロトファイバーが品切れを起こし、MGN社の損失が拡大します」
御堂は大隈に佐伯の資料を示しつつ、プロトファイバーの製造ライン故障に伴う他の工場の製造ライン確保の重要性を説明する。
大隈は黙って聞いていたが、専務としての冷静かつ客観的な判断力を発揮した。すぐさま御堂が提案した通りの決定を下す。そしてその決定は御堂がいくつかの部門や部下に指示を出すだけで、あっという間に現実の仕事へと変化した。
他の工場の製造ラインがただちにプロトファイバー用に確保され、SCM部門が原材料や容器の輸送手配に素早く動き出す。代わりに生産量が減らされる飲料の調整については御堂の部下たちが調整に回った。
御堂が報告を受けてから半日も経たないうちに事態は収束の方向へと向かった。プロトファイバーの生産量確保の見通しがつき、御堂はキクチ八課の片桐に電話をかけた。出荷調整期間の見込みを伝えると片桐は分かりやすく安堵の息を吐いた。
どうにか耐えしのげる範囲の一時的な品薄状態で済むと予想したのだろう。キクチ八課に任せた販売調整がどうなっているが聞きたい気持ちはあったが、御堂は我慢した。キクチ八課に一任したのだ。なにか問題があれば報告が上がるはずだ。
御堂は電話口でコホンと咳ばらいをして言った。
「その……佐伯に礼を伝えてくれ。彼の資料のおかげでスムーズにことが進んだ」
『分かりました、伝えておきます。佐伯君も喜びますよ。御堂部長のお役に立ちたがっていましたからね』
「佐伯が?」
『ええ、ここ最近は部長のお怪我の話を聞いて、自分に責任があると痛感していたようで』
そう言われてみれば、御堂の右手首の怪我には同情的な言葉や視線が向けられるようになっていた。いつの間にか、佐伯が原因で御堂が怪我をしたという話が広まっている。
御堂自身はなにも言っていないので、佐伯自らが自身に責任があるように話を触れ回ったのだろう。
片桐との電話を切って、御堂はデスクの椅子に深く腰を掛けた。目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
程よい疲労感と達成感が胸にあった。
いままでの自分は空回りばかりして焦り、なにをして良いのか自分を見失っていた。やらなくてはならないことが多すぎて、それが御堂を縛っていた。
自分がなにをすべきなのか、ようやくわかった気がした。
パソコンのスリープ画面を解除した。御堂がやるべきタスクがずらっと並んでいる。御堂はしばし考え、部下を呼び出した。自分が抱えていた仕事を次々に部下に割り振っていく。
予想外に部下からは割り当てられた仕事に対する不平も不満もなかった。むしろ前向きに取り組む姿勢を見せてくれている。御堂が右手首を怪我したという理由もあるだろうが、責任のある仕事を任せてもらえたという単純な事実に喜んでいるようでもあった。
部下は任された仕事を失敗するかもしれない。だが、それはそれで仕方がない、と不思議と焦りはなかった。 御堂はいつ警察に捕まるかわからない。となれば、仕事を自分一人で抱え込むよりも部下に割り振っておいたほうが、混乱が起きてもどうにかなるだろという合理的な打算もあった。
何はともあれ、御堂は的確な判断をして最良の選択をしたのだ。その結果については御堂が責任を負うのは当然なことだ。そう思いきるとどこか清々しい気持ちだった。
その日、帰るなり明るい部屋と食事の匂いに出迎えられたことには、さすが驚かなかった。これで三日連続だ。
ほんの少し玄関で様子を窺ったが誰も出てくる気配はないので無言で部屋に入った。ダイニングを覗くと、ワイシャツ姿の佐伯がキッチンでなにやら作業をしていた。届いた料理を盛り付け直しているのだろう。
御堂のほうをちらりと見て言った。
「もう少しで用意できるから待っていてくれ」
テーブルにはスプーンが置かれている。どうやら、食事はオムライスのようだ。
「君は食事はどうしているんだ」
いまさら気付く。用意されている食事は常に一人分だ。
「俺か? 俺は適当に食べているからいい」
佐伯はこともなげに言うが、朝から夜まで働き詰めでこうして御堂の世話までしているのだ。佐伯こそまともな食事を取っているのか怪しい。
「それなら次からは君の分も頼めばいい。一緒に食べれば手間がないだろう」
「へえ、いいのか?」
振り向いた佐伯の顔が分かりやすく喜色にあふれた。その顔を見て、しまったと後悔した。佐伯が部屋に上がり込んでいることを赦したも同然の言葉だからだ。だが、いまさらだと思いなおす。
「君は私の家に来るなと言っても、勝手に入ってくるのだろう」
「あんたの右手が治ったら退散するさ」
「本当か?」
意外な言葉に御堂は克哉を見た。克哉はポケットの中に入れていた御堂の部屋のスペアキーを手に取ってひらひらと振る。
「てっきり、俺に好きに部屋に来て良い、という意味でこれを渡してくれたのかと思ったが、あんたはそういうつもりじゃなかったみたいだしな。いまは預かっておくが、怪我が治って俺が必要なくなったら返すさ」
「勘違いするな、スペアキーは君が奪っていったものだ。それを返すのは当然だろう」
「そうだったか?」
佐伯は相変わらずとぼけたように言う。
どう解釈すればそんな都合のよい記憶になるのか。頭が痛くなるが、この佐伯を問い詰めたところですべてをのらりくらりと躱されるのは目に見えていた。
この男は本当のところ誰なのか、御堂はいまだに正体も掴めていないのだ。
御堂は佐伯を追及することをあきらめてテーブルに着くと、スプーンを手に取ってオムライスを食べ始めた。
佐伯が部屋に上がり込んだのは御堂が帰る少し前だったようだ。佐伯は御堂に食事をとらせているあいだも、風呂を入れたり部屋を片付けたりとせわしなく動き回っている。
そんな佐伯を横目で見ながら、タイミングを見計らって呼び止めた。
「佐伯」
「どうした?」
佐伯が動きを止めて御堂を見た。わずかに佐伯から視線を逸らして言う。
「今日は資料をありがとう。おかげで助かった」
御堂が率直に感謝を口にしたことを驚いたのか、佐伯が言葉を失ったまま御堂を見つめる。
「どうした?」
「あんたに礼を言われたのは初めてだと思って」
「人を冷血漢みたいに言うな。片桐課長にも君への伝言を頼んだ」
冷血漢を否定しつつも、自分は殺人鬼ではあることを思い出す。そっちのほうがよほどひどいと心の中で独りごちる。佐伯はそんな御堂に気付かぬ顔で言う。
「訊いている。俺の資料が役に立ったのなら何よりだ」
役に立ったところではない。佐伯が作った資料はあらゆる方面に多大な影響力を及ぼしたのは言うまでもなかった。佐伯はプロトファイバーを始めとしたMGN社の飲料水の販売量や在庫量のデータを持っていたとはいえ、短時間にあれほどの説得力のある資料を作るのは、御堂でさえ難しいだろう。
「正直、君がプロトファイバーのプロジェクトにここまで貢献してくれるとは思わなかった」
むしろ、かつての佐伯ならこの機会を利用して御堂を引きずり落としていたはずだ。
御堂の言葉に、佐伯は喉を短く鳴らして笑った。その笑い方が御堂の記憶にある佐伯の嗜虐に満ちた笑い方と一致していて反射的に身を固くしたが、佐伯は御堂に意味深な眼差しを向けた。
「俺がプロトファイバーのために資料を作ったと思っているのか?」
「違うのか?」
「本当に鈍いな、あんたは」
呆れたような笑いと共に告げられてこめかみがピクリと震えるが、「あんたのために作ったに決まっているだろう」という続く佐伯の言葉に息を呑む。
「私のために?」
「あんたじゃなければ放っておいたさ」
「どうして……」
「恋人の窮地を助けるのは当然のことだろう?」
まただ。
御堂は不快感に眉根を寄せた。この佐伯の中では御堂と佐伯は恋人同士ということになっている。こんなふうに御堂の部屋の家事や御堂の世話を甲斐甲斐しくしているのも、自分が御堂の恋人だという自負があるからだろう。
それにしても、自分たちが恋人同士だなんて冗談だとしてもたちが悪いし、本気だとしたら、なおさらたちが悪い。それでも、佐伯のおかげで今回のトラブルを円滑に切り抜けることができたのはたしかで、こうしてプライベートでも甲斐甲斐しく御堂に尽くしてくれる佐伯の好意を無下に撥ねつけるのはためらわれた。
といっても黙っていれば佐伯の主張を受け入れているようにとられかねない。反論せねばと口を開きかけたところで、一足早く佐伯が言葉を発した。
「もし本当に俺に感謝をしてくれているなら、ご褒美をもらっていいか?」
「……何が欲しい?」
声に警戒の響きが混じった。いままで、この佐伯が御堂になにかを要求してきたことはなかった。ついに、この男が秘めていた企みをさらけ出すのかもしれない。それを利用してこの男の魂胆をうまく探り出してやろう、そんな冷徹な計算をしながら佐伯の表情を鋭い眼差しで見据えた。
「そうだなあ」
佐伯はたっぷりと期待を持たせるだけの間をおいて言う。
「あなたを抱かせてほしい」
「な……っ」
御堂は絶句して、数拍のちに声を荒らげて言った。
「そんなこと承服できるわけないだろう!」
「駄目か?」
「当然だ! 大体貴様は私にいままで何をしてきたと思っているのだ!」
この男の本心を見抜いてやろうという冷静さはとっくに消え去っていた。この男に強いられた屈辱は一朝一夕で拭い去れるものではない。怒りに頭が沸騰する。
御堂の気迫に面食らったのか、佐伯が両手を上げた。
「分かった分かった。あんたが嫌がることはしたくない。それは本心だ。あんたが心を赦してくれるまで気長に待つさ」
「そんなこと永遠にあるものか!」
「それなら永遠に待っているさ」
忌々しげに吐き捨てる御堂の口調も佐伯は意に介していないようだった。失望も反論もなく何食わぬ顔で御堂の怒りを受け流している。
御堂はあからさまな嫌悪を込めて佐伯を睨み付けたが、つい昨夜は佐伯とセックスの真似事までしてしまっていた。このまま佐伯の口車に乗せられてしまう可能性もありうるのではないかと危機感を覚える。
とはいえ、佐伯はこんなふうに許可を取ってきたことなど一度もなかった。自分の欲望のままに御堂を蹂躙してきたのだ。ということはやはり佐伯は別人がすり替わったに違いない。どうすればこの男の正体を暴けるのか。
そんなことを考えだしている間に佐伯は御堂が食べ終わった食器を手早く片付けて言った。
「次は風呂だ。早く入れ」
「なぜ君に指図されなくてはならない」
「俺がいる間にその装具を付け外ししたほうが楽だろう?」
そのとおりだ。がっちりと手首を固定してあるそれは付けるのも外すのも一人では簡単にできない。不満はあるが、佐伯が手伝ってくれるのならありがたいのは間違いない。
御堂は黙ってテーブルの上に右手を置いた。佐伯はそれを了承の返事と受け取って、御堂の右手の装具を取り外した。
軽くなった右手をたしかめるように軽く動かすと鈍い痛みが響いた。思わず顔をしかめる。佐伯が御堂の表情を見咎めて言った。
「まだしばらくかかりそうだな」
そう言いながら佐伯は両手で御堂のシャツのボタンを外しだした。慌てて椅子から立ち上がる。
「服くらい自分で脱げる」
「パパっと脱がしてやるから。人に頼れるところは素直に頼っておけ」
佐伯は手を止めようとせず、御堂のシャツの裾をズボンから引き出してあっという間にボタンを全部外した。ついでにベルトのバックルも外す。そのままズボンを脱がされそうになって、さすがにそこは抵抗した。
「もう結構だ!」
佐伯の手を振り解くようにして、しどけなくはだけた服のまま脱衣所に駆け込み、残りの服を脱いでバスルームに入った。
たっぷりと張られた温かな湯に肩まで浸かると心身の緊張が解れていくのを実感した。お湯の中で固く凝った手足を伸ばしているとバスルームのドアが開いた。
「ほら、頭、洗うぞ」
昨日と同じようにシャツの袖とズボンの裾をまくり上げた佐伯が入ってきた。
またか、と呆れつつも、佐伯に頭を預ける。
佐伯は昨日同様、御堂の頭を洗うだけ洗って出て行った。そのあとゆっくりと湯につかり、バスローブを羽織って出るとふたたび佐伯が待ち構えていた。ソファに腰をかけた状態で佐伯に装具を付けてもらった。佐伯は装具をきっちり固定しながら締まり具合を念入りに確認している。その熱心な仕草に何気ない口調で言った。
「この手の装具に随分と慣れているようだな」
「大学時代バレー部だったからな。同じ怪我をしている奴がいて、着け外しを手伝ったことがある」
「バレー部だったのか」
「本多もチームメイトだ。俺は途中で辞めたが」
「ほう……」
そうだ、本多に確認してみるのもいいかもしれない。この男が本当に佐伯克哉なのか、佐伯の話に齟齬がないかたしかめてみよう。そう頭の中にメモを取る。
そのときだった。ふいをついてバスローブの合わせからするりと中に手が滑り込んできた。大きな手の指先が御堂の胸の突起を探り当てて軽く爪弾いた。抗おうとしたところで、唇を塞がれて抗議の声ごと舌を吸われた。
「ん! んんっ」
胸を押して距離を取ろうとするが、佐伯はおかまいなしに御堂の唇を奪ってくる。舌を搦めとられ、混ぜ合わせた唾液を佐伯がこくりと喉を鳴らして呑んだ。
佐伯のキスはあからさまに御堂の欲情をかきたてるようなキスで、頭の芯がジンジン痺れて何も考えられなくなってくる。抵抗が弱まった御堂の身体を佐伯の手が撫でていった。風呂上がりのしっとりと濡れた肌の感触を楽しむように、背筋の溝を指先でなぞり、筋肉の流れに沿って掌を滑らせる。
息が苦しくなってきたところでようやく唇が離された。ふたりの唇の間で、唾液が長く糸を引く。キスを解(と)いて見下ろしてくる佐伯の唇がてらてらと濡れて光っていた。それが妙になまめかしくて目が離せなくなる。その隙を縫って、佐伯の手がはだけたバスローブ下にある御堂のペニスを握り込んできた。その感触に思わず声を上げる。
「君はなにをするんだ!」
「右手が使えないのは困るだろう? だから手伝ってあげようかと」
「下世話なことを言うなっ」
すっかり頭をもたげたそれを触れられて、撫でられる。キスだけで欲情してしまったことを知られる恥ずかしさもあり、御堂は顔を赤くして怒鳴った。佐伯は目を眇めると、御堂の耳元に口を寄せて名前を呼んだ。
「御堂」
急に声が滴るような甘さを帯びて、御堂はぞくりと背筋を震わせた。その震えは決して恐怖だけではなかった。淫靡な期待も混ざり込んでいる。
「嫌だったら言え」
そう言って佐伯は御堂の股座に顔を埋めた。
「――ッ」
熱い口腔に迎え入れられ、裏筋を舌で辿られながらしゃぶられる。すぼめた唇が根元から先端まで動き、ぬるっとした粘膜に扱かれて膝が震えた。それでも佐伯は動きを止めない。それどころか御堂のモノを咥えたまま上目遣いで御堂を見た。
佐伯の乱れた髪が額に落ちて、唇がいやらしく濡れている。レンズ越しの視線が重なったとたん、佐伯はいやらしく笑った。ずくんと腰が重く痺れる。
「ぁ……」
漏れ出た声を手の甲で塞ぎ、もう片手で佐伯の頭を掴んだ。佐伯は御堂の手を嫌がりもせずに動きを再開させる。佐伯の頭を押さえて動きを止めようとするが、佐伯は指と唇で御堂のペニスやその周辺を巧みに愛撫してくる。
陰嚢を揉まれながら口内の粘膜で強く締め上げられると、堪えきれない衝動で腰が浮く。ひと言「やめろ」と言えばこの佐伯はためらうことなく一切の刺激を途絶えさせるだろう。それが分かっているから言えなかった。
自分の口をひたすら手で塞ぎながら、喘ぎもなにかも堰き止める。佐伯はぐっと深くまで咥え込んだ。ぬめる粘膜でしごき上げられ、先端を絶妙なタイミングで吸い上げられて、鈴口に尖らせた舌先をねじ込まれる。それを執拗に繰り返されて御堂は陥落した。
「ぁ、――ん、っんあ」
佐伯の頭を押さえたまま腰を突き入れる。佐伯の粘膜に絞られるようにして精を放った。佐伯の喉奥に向かって吐き出された粘液を佐伯は喉を鳴らして嚥下していく。
男らしい喉仏が上下するのを放心状態で眺めていると、まだ緩く放出が続いていたそこをじゅるっと吸い上げられた。最後の一滴までしぼりだされて御堂は熱っぽく呻きつつ腰を震わせた。
佐伯がようやく頭を離した。形の良い唇から精液と唾液が混じり合ったものがあふれて、顎を伝って尖った喉仏へと滴り落ちた。佐伯は濡れた口元を手で拭いながら、言った。
「美味しかったですよ、御堂さんの」
熱を迸らせたあとの魂が抜け落ちたような弛緩に、陶然としたまま動けなかった。
「喉、乾いたろ」
そう言って佐伯は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターの蓋を開いて渡してきた。ぼうっとした眼差しを向けると、御堂を抱きかかえて飲ませようとしてきたので、「やめろ」と拒絶した。佐伯は素直に身を引いてボトルだけ渡してくる。
風呂に入って汗もかいたし、他の液体も搾りとられたせいか、ひどく喉が渇いていた。良く冷えた水はおいしくて、半分ほどを一気に飲んで、ひと息ついた。ペットボトルを脇に置こうとすると佐伯が受け取る。御堂が飲み残した水を佐伯はごく当然のように飲み干した。それを唖然として眺めた。他人の飲みかけに口をつけるとは、潔癖な御堂からしたら許せないが、佐伯の口の端からひと筋の水が伝い落ちて、先ほどの口淫を思い出して一人顔を赤らめる。
空になったペットボトルをゴミ箱に放って、佐伯は言った。
「これですっきりしたろ。もう寝ろ」
「いや、まだ寝ない」
食事をして風呂に入って快楽を与えられて、眠気はすぐそこまで迫ってきていたが、持ち帰った仕事はいくつかあった。
「眠れないなら、眠くなるまで付き合ってやろうか?」
「結構だ!」
即座に断ると佐伯は肩を震わせて笑った。
「あんまり夜更かしするなよ」
そう言って佐伯は部屋の隅に置いてあった自分の鞄とジャケットを掴んだ。なんの未練も見せずに御堂に背中を見せる佐伯に思わず声をかけた。
「帰るのか?」
「ああ」
佐伯はジャケットを着込みながら肩越しに振り返る。
「どうした? やっぱり添い寝して欲しくなったか?」
「馬鹿なことを言うな」
「はいはい、おやすみなさい」
佐伯は手をひらひら振って部屋を出て行った。ぱたんと扉が閉まり御堂は一人取り残される。
てっきりこのまま抱かれるのかと覚悟しただけに拍子抜けした気分だった。
緊張が解けて身体がくったりと弛緩する。疲労感が染み渡り御堂はふらふらとベッドへと向かった。ほんの少しだけ仮眠を取ろうと思ったが、そのまま朝まで深い眠りの中に陥落していった。
5
翌日も、さらにその翌日も、佐伯は御堂の部屋にやってきた。 家に帰ると佐伯がいて、甲斐甲斐しく御堂の世話を焼いてくる生活にも否応にも慣れてしまった。佐伯は食事を用意し、部屋を掃除して家事をこなしていく。風呂や着替えも手伝うし、そのあとの性的な行為についても積極的に手伝ってくれる。もっともこれについては御堂は一切望んでいないが、佐伯の誘導があまりにも巧みで気が付いたときには流されてしまっている。
しかし、佐伯は「待つ」と宣言した言葉どおり、手や口で御堂の快楽を導いてもそれ以上のことは強いてこなかった。その気になれば、佐伯はいくらでも御堂を思いのままに弄ぶことができたはずだ。
やはり、いまの佐伯はかつての佐伯克哉とは別人であり、あの夜に入れ替わったのではないかと思う。御堂が刺したはずの傷痕が残っていないのも別人であることを裏付けている。
御堂はこの男が佐伯克哉とは別人だという決定的な証拠を見つけようと細心の注意を払っているが、御堂に対する態度が180度変わったこと以外、別人であることを裏付ける客観的な証拠はなにも見つからない。
たまたま本多と二人きりになったときに「最近、佐伯の様子がおかしいと思わないか?」と話を振ってみたこともあった。本多は驚いたように目を瞬かせて「克哉がですか? どこら辺がですか?」と聞き返してくるので、「いや、気のせいだったか」と言葉を濁す始末だ。ただ、本多と佐伯が大学時代に同じバレー部に所属していたのは事実のようだ。
本多は粗野な第一印象とは裏腹に営業マンとしては優秀で佐伯に次いで抜群の成績を誇っている。それは、万事を素早く察知しきびきびと動くことができる男だからだ。その本多が佐伯が別人になったことを気付かないはずがない。
御堂が殺したはずの佐伯の死体が見つかったというニュースもいまだにないし、もしかしたら、おかしいのは佐伯ではなく御堂自身ではないかと疑ることもある。自分の記憶の正しさを肯定するなら、あの夜に御堂はよく似た別世界に迷い込んでしまったのかもしれない。佐伯は理解ある御堂の恋人として存在していて、当然、御堂に殺されたという事実も存在しない世界に。
いいや、そんな奇想天外な話があってたまるかと思うが、殺したはずの佐伯の死体が跡形もなくなっている時点で御堂の理解を超えるなにかが起こっているのは事実だった。
毎日、自宅で佐伯と顔を合わせているが、仕事でも週に一度はミーティングで佐伯から報告を受けるし、それ以外でもたびたび佐伯とやりとりしなくてはいけない場面があった。慣れというのは恐ろしいもので、佐伯に対する嫌悪はいくらか緩和されているものの、それでも佐伯と面と向かうと調子を崩してしまう。この日も、キクチ八課に販売データやマーケティングの詳細な資料を頼んだら、よりにもよって佐伯が御堂の執務室までやってきた。
「御堂部長、失礼します。資料、お持ちいたしました」
「……君か。私は片桐課長に君以外でお願いしたはずだが」
「ですので、俺が参りました。片桐課長には、それは遠回しに俺を指名しているので言葉どおりに受け取らないよう伝えておきました」
「次からは言葉どおりの意味だと片桐課長に言っておく」
片眉を跳ね上げて不快感を示すが、佐伯はどこ吹く風のようだ。
佐伯はすたすたと御堂のデスクに歩み寄ると資料を広げた。佐伯が慇懃な態度で言う。
「資料の内容について、簡単にご説明してもよろしいでしょうか」
「……いいだろう」
MGN社の首脳陣を前にしたプレゼンテーションが控えていた。そのため、販売データをもとにプロモーションや販売戦略の修正を行い、今後のプランを示す必要があった。前回のプレゼンはこの男のせいで御堂は大失態を犯す羽目になったのだ。挙句、会議室で佐伯に犯されるという屈辱的な目に遭わされた。だが、この佐伯にはどうやらそんな記憶はないらしい。
御堂の恋人だと言い張る佐伯がどういう認識をしているのか不可解で、何度か過去に関するそれらしい会話を交わしたところ、佐伯と御堂のの共通の記憶は御堂に接待と称して薬入りのワインを持って家に押し掛けてきたところまでだった。佐伯はそのワインを飲んで動けなくなった御堂を襲ったが、御堂に説得されて改心して紆余曲折を経て御堂と恋人同士になったらしい。いくらアルコールで理性と冷静さを失ったとしても、自分がこんな卑劣な行為をする男を恋人にするはずがない。まったくもって納得がいかないが、佐伯の中ではそれが揺るぎない真実であるらしい。
さらに佐伯の中では御堂を大事な会議中にローターで弄んだことも、御堂の家に本多と押し掛けてオリーブでいたぶったことも存在しなかったことになっている。その話を持ち出しても、佐伯は「いったい何の話だ?」と怪訝そうな顔をする。佐伯の記憶によれば、会議中に御堂が倒れたのは御堂の体調不良で、御堂の部屋に本多と遊びに行ったことは認めるがワインをたらふく飲んで寝落ちした本多を連れて帰っただけの話になっている。佐伯のその反応が演技だとしたら相当の演技力だろう。詐欺師としての才能がある。
この男はいったい何者なのか。
資料をひとつひとつ示しながら手際よく内容を説明する佐伯の横顔をじっと眺めていると、ふいに佐伯が黒目を御堂のほうに向けた。
「御堂さん、俺の話、聞いてます?」
「すまない。続けてくれ」
逸れていた意識をこの場に戻し、詫びの言葉を口にした。ふたりで資料をざっと確認していく。佐伯が説明を再開した。
「競合商品との差別化を図り、市場シェアを拡大するためのアプローチはいたって順調だ」
「ターゲット層のリピート率はどうなっている?」
「それはここの資料に記載されているが……」
御堂の質問に対しても佐伯は即座に的確な答えを返してくる。ほんの少し会話しただけでもこの男の能力の高さが分かる。取引先との折衝も上手いし、頭の回転も速い。そんな男が御堂に全面的に協力してくれるのは頼もしいことだった。最初こそ警戒していたが、いまでは佐伯の仕事ぶりを認めている。
ここのところの御堂の立て続けの失態はリカバーしつつあった。製造ラインの故障もすぐに原因が判明し、一週間も経たないうちに製造が再開された。
プロトファイバーは一時的な品薄状態になったものの、製造ラインの切り替えとキクチ八課の在庫調整が上手くいったこともあり、品切れを起こすこともなく無事に危機を乗り越えることができた。むしろ品薄状態がさらなる購買意欲を煽ったようで、需要は急増している。一時的な措置として使っていた別工場の製造ラインもそのままプロトファイバー専用のラインとなることが決定され、すばやく増産体制が整えられた。結果として製造ラインの故障が怪我の功名になったとも言える。
また、御堂がひとりで抱え込んでいた仕事も積極的に部下に割り振ったことで、自身にかかる負荷も軽くなっていた。御堂は定期的に部下の仕事の進捗状況を確認し、状況に応じて追加の指示や軌道修正を行っている。こうして振り返ってみれば、若くして部長になったこともあり、部下を信用しきれていなかったのだと思う。自分でこなしたほうが早いし確実だった。だから、物事が切迫すればするほど部下に任せることなどできなかった。そんなスタンスで仕事を続けていれば、佐伯に追い詰められなくても、いずれタスクが回りきらず破綻していただろう。的確な判断をくだし、部下を信用し、責任を取る。それが部長の役割だとようやく理解できた気がする。
「この方針で問題なさそうだな」
説明をひととおり聞き終えて御堂は言った。「ああ」と佐伯は頷く。
「これだけの売れているんだ。文句を言うやつはいないだろう」
「君たちキクチ八課が一丸となって販売調整を上手くこなしてくれたおかげで、大きなクレームもなく、逆に販促効果もあったようだ。君たちの協力には感謝している」
正直、お荷物部署と揶揄されていた八課がここまで有能だとは思わなかった。その本音は胸にしまっておく。
佐伯は、表情を和らげ淡い笑みを口元に浮かべて言った。
「あんたがどれほどプロトファイバーに熱意を注いでいるのか、みんなわかっている。誰もが、あんたを、そしてあんたの仕事を認めているから、自分が足を引っ張ってはいけないと頑張ったのだろう」
「そうか……」
佐伯の言葉がかさついていた心にじわりと沁みていく。誰かに認められたくて仕事をしてきたわけではなかった。それでも、自分を認めてくれる人間がいるというのはこうも心強いのかと気付く。
どうも、佐伯と話していると自分が年上で上司であるということを忘れてしまう。この男は洞察力に優れていて機転も利く。侮ることを止めて素直に耳を傾けてみれば、佐伯の正鵠を射た言葉にハッとさせられることも多い。だから、強がることをやめて、言った。
「私はもっと君たちや部下を信用すべきだったな」
「あんたはずっと高いところを目指しているんだろう? あんたの運命はあんたに諦めることを許さない。だからこれからも、あんたは多くの敵を作るだろうが、同時に味方も多くいることを忘れるな」
御堂の柔らかいところに触れるかのように佐伯は言葉を続けた。
「運命だなんて、君は随分とロマンチストだな」
「あなたと出会ったせいで運命を信じるようになったのさ」
「私が運命の相手とでも言いたいのか」
「よく分かっているじゃないか」
「私は運命などという言葉は嫌いだ」
茶化すように言う佐伯の言葉を遮ると、御堂は佐伯をじっと見据えた。
「それで、君は私の味方だと信じていいのか」
「ああ、俺はあんたの味方だ」
「私は君をどこまで信じていいのかも分からないのに」
軽い口調で返す佐伯の真意を見透かす視線で見返せば、佐伯の双眸に一瞬複雑な色が過った。それがなんなのか見極めようとする前に、佐伯は決然たる響きで言った。
「じゃあ、この言葉だけは信じてくれ。俺は、あんたの味方だ」
「信じていいのか?」
返事代わりに佐伯はデスクの上に上体を乗り出すと御堂の唇に唇を押し付けた。唇が温かな体温と柔らかな感触に押し潰される。誘うようにちろりと唇の狭間を舐められるが、深く唇を噛み合わせることなく佐伯は顔を離した。
その間ぎくりと身を強張らせていたが佐伯らしくないあっさりしたキスに思わず佐伯を見返した。佐伯は笑い含みに言う。
「そんなに物欲しそうな顔をするな。この場で抱きたくなるだろう」
「な……っ、誰がっ!」
「それじゃあ、また」
御堂の怒りが爆発する前に佐伯は素早く執務室を出て行った。
その日、御堂が帰るとドアの前にデリバリーの食事が配達されていた。袋の中を覗くと二人分の食事だ。佐伯が注文したものだろう。そして、ここに置きっ放しということは佐伯はまだ帰ってきてないのだろうかと、食事を回収しドアを開けた。すると玄関には自分のものではない革靴が揃えられていて、部屋の電気も点いている。だが部屋の奥からはなんの気配も物音もしなかった。
「佐伯……?」
声をかけながら部屋に上がった。リビングに入ると、ソファの背にもたれるようにして佐伯が寝ていた。御堂が帰ってきたことにも気付かないくらい深く寝入っているようだ。
ダイニングテーブルにデリバリーの袋を置きつつ、どうしたものかと考える。
佐伯がこんなに無防備に寝入る姿を見せるのは初めてだった。
佐伯は御堂の部屋に泊まろうとはしなかった。食事こそふたり分頼んでふたりで食べるようになったが、佐伯はどれほど遅くなっても自分の家へと帰っていく。朝から晩まで仕事をこなし、御堂の部屋に通って御堂の世話を焼くという生活を繰り返しているのだ。御堂の前ではそうと見せないが疲労もたまっているだろう。
御堂は佐伯を起こすことをあきらめて、クローゼットからブランケットを取り出した。それをそっと佐伯にかけてやろうとして気が付いた。佐伯の顔が苦しげに歪んでいる。額に脂汗が浮き、歯を食いしばってなにかを耐えているかのようだ。具合でも悪いのだろうか。
「佐伯?」
左手で肩を揺さぶる。佐伯の頭がぐらりと揺れた。うっすらと佐伯が目を開く。次の刹那、佐伯はがばっと身を起こした。肩に置いていた左手を掴まれ血走った眼が御堂に向けられる。
「ッ、痛い……」
容赦のない力でぎりぎりと左手を締め上げられて、呻く声が漏れた。佐伯の眸の焦点がハッと定まり、ふっと力が抜けた。
「悪い……」
手を離される。左手の手首を摩った。じん、と血流が戻ってくる感覚がある。右手首でなくて良かったと思うが、佐伯は御堂から気まずそうに視線を逸らした。
「うたた寝してしまった。ちょっと驚いて……すまない」
言い訳じみた言葉で謝られる。佐伯は重たくまとわりついたなにかを振り払うように首を振ると、さっと立ち上がった。
「手首、大丈夫か?」
「……ああ」
「そうか、よかった。左手首まで怪我させてしまったら大変だからな」
御堂に向ける表情と口調は、いつもの佐伯だ。佐伯の視線が御堂を通り越してダイニングテーブルへと投げかけられる。
「もう食事、配達されたのか。いまから準備するから待っててくれ」
キッチンへと向かう佐伯の背中をじっと見つめた。先ほどの佐伯はいままでに見たことのない姿だった。野生の獣のような殺気と気迫をまとっていた。それはまるでかつての佐伯を彷彿とさせた。
だが気のせいだと自分に言い聞かせる。あの佐伯は御堂が殺したはずだ。だから存在するはずがないのだ。
食事を終えて、風呂に入る準備のため佐伯に装具を外してもらおうとしたときだった。ソファに座り、佐伯に向かって右手を出しながら、御堂は口を開いた。
「佐伯、君がこうして手伝ってくれるのは助かっているが、かなり負担がかかっているだろう」
「別に。あんたの怪我は俺の責任でもあるし、期間限定だしな」
そう言いながら、佐伯は手際よく御堂の手首を固定していた装具のマジックテープを外していく。御堂はコホンと咳払いして言った。
「もし君さえ良ければ、この部屋に泊まったらいい。余っている部屋も寝具もある」
いまだに正体を明かさない男を家に泊めようとするなんて正気の沙汰ではない。そんなことはわかっている。だからこそ、近くで観察する時間を長くすることでこの男の魂胆を見極めてやるのだ。決してこの男に気を許しているわけではないし、ましてや恋人だと認めているわけでもない。そう自分に言い訳をする。
御堂の言葉に佐伯は虚を突かれた顔をした。そして、外しかけてた装具をふたたび御堂の手首に装着させる。
「なにをするんだ?」
「あんたの手首に負荷をかけるわけにはいかないからな」
「はい?」
佐伯のレンズ越しの双眸にある種の熱が宿っていた。ふたりの間の空気の色が変わっている。佐伯のなにかのスイッチを押してしまったと気付いたときには、ソファに押し倒されていた。
「な……、なにを……」
あっという間にシャツのボタンを外され、ベルトを緩められた。単に風呂のために服を脱がせたわけではない証拠に、佐伯の手が御堂の腹から下半身へと滑り込んでくる。同時に、キスを落とされた。唇や舌を甘噛みしながら、手で御堂の乳首やペニスを愛撫してくる。いままでにない性急な行為に慌てた足が宙を蹴った。
「んんっ、……はっ」
アンダーに潜り込んだ佐伯の手が御堂のペニスを握り込んだ。根元から擦りあげられ張り出したエラを指の輪で弾かれると甘ったるい吐息が零れてしまう。思わず腰が浮いてしまったところでアンダーごとズボンを脱がされてしまった。
佐伯は御堂の脚を開かせると、その間に自分の身体を割り込ませてきた。その体勢にある種の明確な意図を感じ取って、御堂は身を固くした。
「私が嫌がることはしないと言ったではないか」
「ああ、そう言った」
御堂に覆いかぶさった佐伯の指先が御堂の髪をやさしく梳いた。そして、くするぐように頬を撫でてくる。その手つきはまるで恋人にするような甘い仕草で、そう思った瞬間、鼓動が速くなる。
真上から見下ろしてくるレンズ越しの切れ長の双眸と視線が重なった。
「だが、こんな色っぽい姿で誘ってくる恋人を欲しくてたまらないというのも俺の本心だ」
そうまっすぐに告げられて、佐伯の中では自分と佐伯が恋人同士になっていることを思い出す。御堂は微塵たりとも承諾した覚えはないが、佐伯の御堂に対する態度は一貫して恋人に対するそれだ。
「誘ってなどいない!」
「そうか? この家に泊まっていいというのは同棲の誘いだろう?」
「違う、それはただ、君の負担を考えて……」
「分かった、分かった」
「いや、なにも分かっていないだろう! ……んっ」
御堂の抗議はキスで封殺される。佐伯の手が御堂のペニスに伸びた。舌で舌を舐(ねぶ)られながらペニスの張り出したえらを指の輪で弾かれると、あっという間に発情を導かれてしまう。先端からは盛んに粘り気のある液体が溢れ、佐伯の指と絡んで粘ついた音を立てる。毎度このパターンに持ち込まれてなし崩し的に佐伯のペースに持ち込まれてしまうのを分かっているから、御堂はぐいと佐伯の胸を押して顔を離し、距離を取った。佐伯の動きが止まり、薄い虹彩が御堂を見下ろした。佐伯のレンズには発情に頬を上気させた自分が映り込んでいる。そんな自分を意識の外に追いやって、佐伯を真剣な眼差しで見据えた。
「私は、君にとって一体何なのだ」
「俺の、ほかの誰よりも大切で特別な存在だ」
佐伯はその言葉を迷いなく口にする。しかしこの男の言葉を信じて良いのか。本心はどこにあるのか。だから、改めて、問う。
「君は誰だ……?」
「俺は佐伯克哉だ」
「違う」
「違わないさ。俺のことが信じられないのか?」
「ああ」
正直な御堂の反応に佐伯は笑った。
「それならたしかめて見ればいい。俺が佐伯克哉かどうかを」
そう言って佐伯は自分の服を脱ぎ捨て、御堂を抱き締めた。素肌が直に触れあい、体温と鼓動が重なり合い溶け合っていき、ふたりの間に淫らな熱がしみだしていくような感覚が生まれた。その熱はさざ波のように全身に行き渡りいても立ってもいられなくなる。
「御堂」
甘く蠱惑的な声で名を呼ばれた。佐伯は顔を寄せて唇をそっとなぞるようにしてから深くかみ合わせてくる。わずかに開いた唇から滑り込んできた舌に舌をくすぐられた。下半身の張り詰めた勃起同士が触れあい、押し合う。
佐伯が身体をずらし、御堂の首筋から乳首を口で愛撫した。同時に先端のぬめりを帯びた指が奥の窄まりへと潜り込んでくる。
「ん、……っ、よせっ、や……」
蹂躙された記憶にぎゅっと力が入り佐伯の指を拒もうとする。佐伯はそれ以上無理に進めようとせずに、周囲の襞をやわやわと揉みながら、頭を下に降ろし御堂のペニスを口に含んだ。
「……ぁ」
先端を濡れた舌に包まれて舐られたかと思うと、茎を口腔の粘膜に扱かれる。ペニスに気を取られているうちに、こぼれ落ちた唾液のぬめりを借りて窮屈な穴に指が潜り込んできた。身体がきゅうっと反応する。
忌まわしい記憶があるからこそ、その部分で感じるすべてを嫌悪していた。それなのに、ペニスを巧みに舐められながら、その根元にある凝りを身体の内側から刺激されると、生殖器をまるごと揉みしだかれるような強烈な刺激に身体が跳ねた。
「っ、ぁ、あああ」
足が爪先まで丸められてときどき痙攣したように突っ張った。あっという間に快感のボルテージが上がる。佐伯は御堂の快楽を巧妙にコントロールして、絶頂の一歩手前に留め置いた。
あと一歩で達することができるのに、迫り来る絶頂の気配に息を詰めた瞬間に刺激が途絶える。遠のく極みに身悶えているうちに、体内の指を増やされた。一刻も早く達したい苦しさに、切羽詰まった声で佐伯を呼んだ。
「さ、えき……っ」
「御堂さん、俺も苦しくてたまらない」
熱っぽい声とともに、窮屈な場所から指が抜けた。代わりに内腿に破裂寸前の固さと熱さを持ったものを押し付けられた。その感触に身震いする。
「イくなら一緒にイきましょう、御堂さん?」
蜜が滴り落ちそうな蠱惑的な声と眼差しで誘われる。
「佐伯……」
ぜえぜえと荒い呼吸を刻みながら、潤んだ眼差しで佐伯を見返した。佐伯と視線がつながる。この男を信じていいのか、この男に自分を明け渡してしまっていいのか。理性は警鐘を鳴らし続ける。
イきたくて苦しくて、白む思考のまま自分のペニスへと右手を伸ばした。その手も佐伯に掴まれて防がれる。いやなのに、そんなこと絶対許したくはないのに、御堂の快楽の手綱は佐伯に握られている。
佐伯が口の端を吊り上げて薄い笑みを浮かべて言った。
「俺を信用してください、……孝典さん」
名前を呼ばれてなにかが決壊した。「ああ」と頷いていた。佐伯がすっと息を吸う。その身体に力が漲るのが分かった。
緊張に耐えかねて、御堂は右腕を斜めに当てるようにして顔を覆った。佐伯に腰を引き寄せられる。強張りきった先端がヒクつくアヌスに宛がわれる。そこにぐうっと圧がかかった。
「あ、あああああ」
佐伯に貫かれ濡れた悲鳴が迸る。だが、佐伯の指に手懐けられた場所は佐伯を難なく受け入れていた。佐伯は根元まで押し込むと御堂の腰を抱え直して、さらに奥まで自分自身をねじ込んだ。これ以上なく深い結合に声にならない声を上げる。限界まで拡げられた身体の深いところで佐伯の形と熱を生々しく感じた。それが凌辱の記憶を呼び起こした。
「さ、えき……あ、んあっ」
止めてくれと言う前に、佐伯は腰を動かし始めた。御堂の中をすっかり自分の形にしてしまうと、先ほどまでの甘い愛撫とは打って変わって、佐伯の律動は容赦がなかった。重く腰を打ち付けて、深く、強く、突き入れられる。身体の奥深くまで佐伯に穿たれる衝撃に、開きっ放しの唇からは絶え間なく喘ぎが零れ続けた。
「っ、はっ、ああっ、ん、あああ」
佐伯の手がペニスに絡み、律動に合わせて擦りあげられる。身体の内側で感じさせられるのは屈辱でしかないのに、佐伯男としての快楽を煽りながら巧みに屈辱を快楽に塗り替えていく。腹の奥から痺れるような愉悦が込み上げてきた。
佐伯の動きが次第に忙しないものになっていく。佐伯は歯を食いしばり、眉間にしわを寄せる。レンズの奥の目許に朱が差して、欲情に濡れたが御堂を見つめる。その顔から余裕が消えていた。間際まで迫る絶頂を必死に堪えている。その顔があまりにも淫らで目が離せなくなった。佐伯は御堂の腰を鷲掴みにして引き寄せながらひときわ強く腰を打つ。
次の瞬間、ふわりと身体が浮き上がるような感覚の直後、一気に墜落した。
「っく、ぁ……ああ…っ」
四肢を突っ張らせながら腰を震わせる。大きな波に攫われるように熱を迸らせた。びくびくと粘膜が収斂し、それに誘われるように中に重たい奔流が注がれる。あまりに激しい体感に息が止まった。
身体をつなげたままぎゅっと抱き締められる。佐伯の熱い吐息を耳元で感じながら、この男とセックスをしているのだ、と実感した。
そっと佐伯の背中に手を回した。我知らず佐伯の引き締まった身体を抱き寄せる。
ひたりと隙間を埋めるように身体を沿わせ、長い時間、ふたりは抱き合っていた。
6
「は……っ、あ……っ」
御堂はベッドの上で尻を掲げた状態で背後から貫かれる。
激しく揺さぶられる身体を堪えようと力を入れると、受け容れたところがきゅうっとしまって、いっそう佐伯の形を鮮やかに知覚してしまう。根元まで埋め込まれれば圧迫感に苦しくて深く息をすることもままならない。それでも行為を重ねるごとに、自分の身体の内側に快楽の源(みなもと)が埋め込まれていることを実感する。そこを佐伯の熱で擦られるとたちまち圧倒的な快感が弾け、情欲の真っ只中にたたき落とされる。
御堂は性には貪欲なほうだったし、異性も同性も抱いた経験は多かった。ベッドでは常にリードする側だったのに、自分がこうして抱かれて快楽に翻弄される日がくるとは夢にも思わなかった。
一度、身体を許してしまえば、二度目三度目はなし崩し的だった。いままで強引に御堂を組み伏せていた男が、甘やかで執拗なまでの前戯で御堂を蕩けさせてから、おもむろに身体をつないでくる。佐伯は御堂を焦らすのも求めさせるのも巧みで、甘い愛撫を繰り返されて気付いたときにはその先を許してしまっている。
「――っ、ん……、ぁ、ああっ」
内側を抉られるごとに淫らな音が立ち、深く犯される屈辱を忘れる。総毛立つような快感に喘ぎ続けることしかできない。装具をつけた右手でシーツを掻きむしる。甘い痺れが全身に行き渡り、御堂はびくりと背筋を仰け反らせて放った。
佐伯の手が御堂のペニスをまさぐって濡れた鈴口を指の腹で擦りあげた。
「もう達したのか。感じやすいな、あなたは」
「ぅっ、……っ」
佐伯は喉を満足げに鳴らしながら御堂のペニスを根元から扱く。びゅくびゅくと精液の残滓を佐伯の手に吐き出してしまう。それを佐伯は茎になすりつけるようにして達したばかりのペニスを刺激する。
「よせ……っ」
敏感になっているところに快楽を強制されて身悶えるが、佐伯は一度つながりを解くと御堂を仰向けにひっくり返した。そうして腰を抱え直す。
「やっぱり顔が見える体勢のほうがいい」
「もう無理だ……っ」
首を振って拒絶を示すが、佐伯のそれはまだ放ってなくて隆々としている。佐伯は問答無用に御堂の綻んだアヌスに自身を沈めていった。
「ひっ、ぁ……あ、あ」
佐伯が奥を突くたびに、無防備な喘ぎが漏れる。取り繕うことも出来ないほどに声が上擦っていた。達したはずのペニスは硬さを保ったままはしたなく揺れ続け、先端からは精液とも先走りともつかない粘液が溢れ続けている。
佐伯がぐっと上体を屈め、御堂に顔を近づけて囁いた。
「あいしてますよ、孝典さん」
克哉が囁く言葉に鳥肌が立つ。克哉が喉を震わせて笑った。
「いま、あなたの中すごく締まった」
「ひあ…っ」
中の具合を確かめるようにゆるく腰を動かした。その弾みに感じるところを擦り上げられて、御堂はあえかな声を上げた。ふたたび佐伯は甘く目を眇めて囁く。
「あなたを一目見たときから恋に落ちていた」
「嘘を吐くな…!」
眦を上げてきつく睨み付けるが、佐伯はゆるく笑って御堂の目許に軽く口づけをした。
「本当だ。あなたを俺だけのものにしたかった。どんな強引な手を使っても」
佐伯が口にする甘ったるい言葉のひとつひとつを頭から信じているわけではない。正体さえ分からない男だ。
それなのに、佐伯に胸焼けするような言葉を蠱惑的な低い声で鼓膜に流し込まれ、身体を愛撫されれれば、いとも簡単に身体も心も佐伯になびいてしまう。憎しみと怒りこそが御堂が佐伯に対抗するための駆動力だった。それが、徹底的に甘やかされた結果、自分を支配しようとする佐伯を受け入れようとしてしまう。
「は……っ、ふ、んっ」
佐伯の背中に手を這わせた。汗ばむ肌はなめらかで皮膚の下に佐伯の熱を感じた。佐伯がまとっている煙草とフレグランスの香りが汗と混じり合って、馥郁(ふくいく)な香りとなって御堂に迫る。
佐伯が呼吸を短く刻む。腰遣いが激しくなる。
「御堂、舌を出せ……」
命じられるままに舌を出すと、佐伯の舌先に舐められた。こすれ合う舌で唾液を混じり合わせながら、身体の深いところを深くかき回される。
自分を抱く佐伯の顔を見ていると、ふいに自分が殺した佐伯のことを思い出した。いまや意識しないとかつての佐伯のことは忘れてしまいそうになるくらい、目の前の佐伯に思考が占められている。
御堂が殺したはずの佐伯はいったいどこに消えたのだろうか。自分はたしかに佐伯を殺したはずなのに、その記憶さえあやふやになってしまう。
そして、御堂の眼前で苦しんで死んでいった佐伯を思い出すと以前は高揚さえ感じたのに、いまややるせない気持ちも一緒くたになって込み上げてくる。きっと同じ顔と声をした男にほだされてしまっているからだ。
だからといって、佐伯を殺したことを後悔したくはなかった。あの男を殺したからこそ、御堂は周囲の信用も仕事も取り戻せたのだ。いまのところ御堂が犯した罪は発覚していないし、新しい佐伯は御堂を献身的にサポートしてくれるようになった。良いことずくめなのに、得体の知れないなにかが潜んでいるような不安がある。
「御堂」
逸れた思考を呼び戻された。視線を佐伯に戻せば佐伯が咎めるような顔つきで御堂を見ている。
「誰のことを考えていた? 昔の恋人か?」
「そうじゃない」
「じゃあ、誰のことを考えていたんだ?」
自分が殺した男のことだとは言えない。どう答えるべきか迷って、何度も繰り返した問いをふたたび口にする。
「君は……誰なんだ」
「またそれか。俺は佐伯克哉だと言っているだろう」
「佐伯は、死んだはずだ」
思わず心の中に仕舞っていた本音が口をついて出た。だが、佐伯は驚いたふうもなく、言い含める口調で言う。
「あんたは悪い夢を見たんだ」
「しかし……」
「御堂、俺のことだけ考えてろ」
それでもなお言い募ろうとする御堂を佐伯は遮った。真正面から見据えられて、佐伯のレンズに自分自身の顔が写り込んだ。つまり、自分の眸の中にも佐伯がいるし、きっと佐伯のレンズの奥の眸にも自分が存在しているはずだ。そう思って佐伯の双眸を覗き込もうとしたが、ふたりの間に存在する薄いレンズのせいで良く見えない。
いっそ、佐伯が語る言葉をそのまま信じることができたらいいと思う。何もかもが悪い夢で、御堂は佐伯を殺さなかった。そして、佐伯克哉は最初からいまの佐伯克哉だった。そうであればいいと願うが、自分の記憶を頭ごなしに否定できるほど、御堂は夢見がちな人間ではなかった。佐伯克哉は死んだ。そして別の男が佐伯克哉に成り代わった。だから御堂はこの男に抱かれるのを許している。本来の佐伯克哉は忌むべき男だった。だから殺されて当然なのだと開き直る。
佐伯のペニスが御堂の深いところで脈打ち、びゅくびゅくと精液が吐き出されていくのが分かった。たっぷりと濃密な精液を注がれる感触に感じてしまい、御堂もまた極みを迎えた。
激しいセックスでくたくたになった御堂を風呂に入れて、ベッドメイキングまでしたあと、佐伯は脱いでいたスーツのジャケットを羽織った。
「帰るのか?」
「ああ。明日、朝イチで取引先と打ち合わせがある」
淡々と言う佐伯はハンガーに掛けていたネクタイを丸めてジャケットのポケットに入れる。
「いまから帰るのも大変だろう。ここに泊まっていけばいい。シャツやネクタイなら貸すが」
まだ残暑の厳しい季節だ。夜とはいえ、外は熱気が立ちこめている。蒸し暑い部屋に帰るよりも冷房が効いた御堂の部屋で過ごしたほうがいいに決まっている。
とはいえ、佐伯を求めているように思われたくない。だから素っ気ない口調で言った。佐伯はちらりと御堂を見てにやりと笑う。
「やっぱり一人で寝るのは寂しいか?」
「馬鹿を言うな!」
怒り返すと佐伯は短く声を上げて笑う。そうして鞄を持った。
「お誘いは嬉しいが、家で準備したいものもあるからな。じゃあ、また明日」
そう言って御堂に背中を向けて部屋を出ていった。あまりにもあっさりした去り際になぜだか一人取り残されたようなさみしさを感じた。
そういえば、と思い返す。家に泊まればいい、と佐伯を誘っても、佐伯は一度も御堂の部屋に泊まっていない。どれほど遅くなっても帰っている。御堂と恋人同士だと主張してるわりには随分と他人行儀ではないだろうか。なにか、御堂の部屋で夜を明かしたくない理由でもあるのだろうか。そう考えてふいに思い出した。
御堂は一度だけ佐伯が寝ている姿を目にした。うっかり佐伯を起こしてしまったときの、豹変したかのような姿。もしかして佐伯は無防備に寝入る姿を見せたくないのかもしれない。だが、なぜなのだろう。
疑問には思ったが、どうしても佐伯と夜を明かしたいわけではない。無理に誘って気があるように思われるのも腹立たしい。それ以降、御堂は帰ろうとする佐伯を引き留めるのはやめた。佐伯もまた、御堂の部屋に泊まろうとはしなかった。
仕事はいままでの不調が嘘のように上手く回り出していた。MGN社の首脳陣へのプレゼンも無事に終了した。キクチ八課から佐伯も同席していたが、前回のように無様な失態を見せることもなく、佐伯も出番がないまま大人しく自分の席に控えるだけで終わった。
プロトファイバーはこのままの調子でいけば年間売り上げ目標を三ヶ月も経たないうちに達成する見込みだ。大隈を始めとした首脳陣に御堂の開発プランやマーケティングの手腕を手放しに褒められた。プロトファイバーの販売から予期せぬ出来事が立て続けに起きて神経をすり減らしていただけに、ようやく肩の荷が下りた気分だった。営業を委託したキクチ八課の評判も上々で、リストラの話もなくなるだろう。佐伯から話を伝え聞いた片桐たちも胸を撫で下ろしたはずだ。
プレゼンを終えたその日。退勤してフロアを出たところで、藤田に出くわした。浮き足立っている様子に声をかけると、キクチ八課の納涼会に誘われているという。ビアガーデンで行われるらしい。
MGN社のビルを出ると蒸し暑い湿気に包まれた。納涼会を行うにはぴったりの夏の夜だ。佐伯もそちらに参加するのだろうかと思いつつ家に帰ってみると、佐伯はすでに御堂の部屋にいた。テーブルにはビアグラスが二つ置かれている。佐伯が御堂を見て言った。
「ビールを冷やしている。こんな暑い日はビールに限るだろう?」
「キクチ八課は今日、納涼会だと聞いたぞ。君は参加しなくていいのか?」
「そういう気分じゃなかったからな。むしろ飲むならあんたと飲みたい」
そう言って佐伯はふと思い出したように御堂の右手首を見て、訊いた。
「ところで酒は飲んでも大丈夫なのか?」
「ダメだと言われてないから問題ないだろう」
「それなら良かった。準備してくるから待っていてくれ」
御堂の言葉に満足したのか佐伯はキッチンへと向かった。
キッチン台に置かれているのはデリバリーで頼んだオードブルだった。使い捨てのアルミの皿に盛られているが、佐伯はそれを御堂の食器棚から出した皿に並べ替えている。マメなことだと感心半分、呆れ半分でその様を眺めた。
そのまま使い捨ての皿で出されても御堂は気を悪くしたりはしないが、佐伯は容器を移し替えることにこだわっているようだった。もしかしたら、御堂が佐伯の用意した食事を手を着けずに捨てた原因を使い捨ての皿に求めたのかもしれない。いまとなっては、佐伯の善意をそんな形で踏み躙ってしまったことを悔やむが、あの時点では仕方のないことだった。ワインに薬を混ぜて飲ますような男が用意した食事を食べられるわけがない。
佐伯が冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを持ってきた。御堂と自分のグラスに注ぐ。きめ細かい泡が立ったそれを軽く掲げて乾杯をした。佐伯がひと息にグラスのビールを飲み干して言う。
「プレゼン、非の打ち所のない出来だったな」
「プロトファイバーの販売数を見れば誰も文句は言えないだろう」
ふん、と鼻を鳴らして言えば、佐伯は笑いながら手酌でビールを注いで飲む。ふたりの間には盛り付け直したオードブルが置かれていた。それを摘まもうとしたところで、違和感を覚えた。キッチンに置かれていたオードブルと目の前にあるそれは中身が変わっている。
御堂は静かにグラスを置いて言った。
「オードブルからオリーブを抜いたのか?」
御堂の言葉に佐伯ははっと御堂を見た。その顔に一瞬なにかが過るのが見えたが、すぐにいつもの澄ました顔になる。
「よく見てたな。実はオリーブが苦手なんだ」
御堂が見たオードブルの使い捨ての皿にはオリーブのピンチョスが入っていた。ちらりと覗いただけだが記憶にはしっかり焼き付いている。なぜなら佐伯にオリーブでいたぶられた経験があるからだ。アヌスに何個ものオリーブを挿入され、挙げ句、オリーブの瓶を抜き差しされて恥辱に塗れた絶頂を晒した。あのあとにバスルームで惨めさに打ちのめされながら、オリーブを掻き出したこともはっきりと覚えている。だが、この佐伯はそんなことをした覚えはないという。
佐伯の言葉の真偽を慎重に計りつつ、重ねて問う。
「見るのも嫌なのか」
「まあな。クセがある香りと味だろう? もしかしてあんたはオリーブ好きだったか?」
「いいや」
「それなら良かった」
そう言って、佐伯は何事もなかったかのように、ふたたびビールを口にした。じっと佐伯の顔を見守るが、不自然な点はない。
本当に、佐伯はオリーブが苦手なのだろうか。
それとも御堂にとってオリーブは忌まわしい記憶と結びついていることを知っているから、さりげなく御堂の視界から取り除いたのではないか。
手元のビールが注がれたグラスを見る。このビールもそうだ。もしこれがワインだったら、御堂はこれほど平然としてられなかっただろう。
佐伯は、御堂の前からふたりの間で起きた忌まわしい過去を思い出させるものをさりげなく取り除いているのではないか。もしその御堂の考えが真実だとしたら、佐伯は間違いなく御堂と同じ記憶を共有している。それはすなわち御堂が殺したはずの佐伯克哉だ。
目の前の佐伯は、完璧で甘やかな表情と態度で御堂に接している。そのどこにも綻びはない。
気のせいだ、と自分を納得させつつも、その不信の芽は御堂の心の奥に仕舞いこまれた。
ビールで気持ちよく酔ったところで、佐伯が用意した風呂に入った。湯船に浸かっていると、バスルームのドアが開く。また佐伯が御堂の頭を洗いにきたのだろうと思っていただけに、タオルを片手に裸の佐伯が入ってきたのを見てぎょっとした。
「なんだ、その格好は。どうして裸なんだ」
「風呂に入るのに裸になったらおかしいのか?」
「なぜ、お前が入ってくるんだ」
「恋人同士なんだ。一緒に風呂くらい入るだろう」
「前提からして間違っている」
「それに一緒に入ったほうが、時間と光熱費の節約になると思わないか?」
「元々この家は私一人で住んでいたのだ! 君が出ていったほうがよほど節約になる」
「今日は随分と冷たいじゃないか」
「私は最初から一貫して同じ態度だ。距離感が狂っているのは君だ」
「わかったわかった。続きはいくらでも訊いてやるから」
佐伯は悪びれず笑い、さっとシャワーを浴びると湯船に入ってきた。ざあっと湯船から大量のお湯が溢れる。広いバスタブだが、男ふたりが入れば手狭になる。御堂は憤然と立ち上がった。
「君はゆっくり入っていろ。私は出る」
「そう言うな。頭を洗ってやるから」
「っ、何をする」
佐伯に背中から羽交い締めにされてお湯に沈められる。後ろから抱き締められる体勢で佐伯とふたり風呂に入っていることに慌てるが佐伯は手を伸ばしてシャワーヘッドを掴むと御堂の頭を濡らし始めた。
「やめろ、湯が汚れる」
「泡は外に流すから文句言うな」
御堂の髪を濡らしたあと佐伯はシャンプーを手に取り、御堂の頭を洗い始めた。湯の中で肌と肌が密着する感覚にいたたまれなくなるが、佐伯の頭皮マッサージの気持ちよさは身体に覚え込まされている。佐伯を置いてさっさとバスルームを出ようと思うのに、気が付いたら佐伯の胸に頭をすっかり預けていた。佐伯は時間をかけて御堂の頭を丁寧に洗うと、御堂の頭をバスタブの外に出させてシャワーで洗い流した。濡れた髪をぐいっとかき上げて水気を落としつつ、佐伯のほうを振り向いて違和感を覚えた。佐伯の印象が違って見える。それは眼鏡をかけてないせいだと気付く。バスタブの反対側に移動しながらまじまじと佐伯を見つめた。
「どうした、俺の顔をじろじろ見て。そんなに俺の顔が好きか?」
「違う! うぬぼれるな!」
眼鏡をかけていない佐伯の顔を自分の記憶と照合していたのだ。
佐伯が頑なに御堂の家に泊まろうとしないのは、眼鏡を外した素顔を見られたくないのでは、と思い当たったからだ。眼鏡で変装しているのかもしれない。そう思ってよく見てみたが、よくよく思い返せば、眼鏡をかけていない佐伯の顔もうろ覚えで参考になりそうになかった。
しかし、こうして改めて見ても佐伯の顔は造作の整った美しい顔立ちだと思う。ともすれば作り物めいていて人形のような冷淡さも感じるが、ここぞというときには相手を呑む迫力をまとい、その場を支配する魅力がある。レンズ越しの冷ややかな眼差しは他の人間を遙か高みから見下ろしているような傲慢さを感じさせた。だからこそ御堂はこの男の顔を屈辱に歪ませたいと思ったのだ。だが、佐伯のほうが一枚も二枚も上手だった。
振り返れば、自分が佐伯を殺そうと決意したのは、窮鼠猫を噛む状況まで追い詰められたからだ。佐伯の圧倒的な狡猾さや残忍さ、そして力の前に、御堂は肉食獣にいたぶられる獲物でしかなかった。御堂が接待を要求した時点で勝敗はすでに決していた。御堂が進む先に救いようのない運命がこの先に口を開けて待っていることを予感した。だからこそ抗ったのだ。最悪な手段でもって。
結局、御堂は運命に抗うことが出来たのだろうか、それともただ運命に翻弄されただけだったのだろうか。
考えてはみたものの、殺したはずの佐伯にまとわりつかれているいまの状況は、理解の範疇を超えているがそれほど悪くはなかった。悪くはないどころか、この男が佐伯克哉でなければ満ち足りているとも言える。
しかし、一方で、この男はどう考えているのだろう。目の前で湯に浸かる佐伯に訊いた。
「……君は現状に満足しているのか?」
「いきなりどうした? 人事面談みたいなことを言いだして」
「茶化すな。君はこんなことをして愉しいのかと訊いているのだ」
佐伯が御堂の元に通い出してからもう二週間以上経つ。そのあいだ、佐伯はずっと同じ調子で御堂の食事や風呂の面倒を見て、セックスをするようになってからは恋人のように甘ったるく身体を重ねてくる。気まぐれにしても、なにかしらの企みがあるにしても、ひたすらに御堂を甘やかしてくる態度はもはや酔狂の域を超えている。佐伯は濡れ落ちた前髪をかき上げながら言った。
「俺は満足してる。こうしてあなたと一緒に過ごせるからな」
「現状のままでずっといられると思っているのか」
少なくとも、御堂の手首の怪我が治れば佐伯の手助けは必要なくなる。そうなれば、この佐伯はどうするのか。このままずっと御堂の恋人だと言い張るのか。佐伯の考えが読めないからこそ、御堂は自分と佐伯の間の距離を計りかねている。
「どうだろうな。だが、そうあれたらいいと思う」
そう答えた佐伯の顔が愁いを帯びたように見えた。決して叶えられないとわかっている望みを口にするような、諦めと期待が交錯する表情だ。だがそれもほんの一瞬で佐伯は、ふ、と笑って御堂のほうにぐっと上体を被せてきた。咄嗟に逃げようにも狭いバスタブの中で追い詰められて、壁と佐伯に挟まれるようにしてキスを受け止めさせられた。
「なにを……っ、ぁ」
あ、と口を開いた隙に入ってきた舌に舌を舐められる。ぬるりと触れあい粘膜同士が絡む感触に頭の芯がじんと痺れる。舌が行き来するたびに欲情が呼び起こされて、息が弾み、心臓が強く打ち出した。混ざり合った唾液が溢れて口の端を伝う。佐伯の手指が御堂の胸をまさぐる。乳首を爪弾かれるとそこに芯が生まれ熱が宿る。佐伯の濡れた手に硬くなった乳首を摘ままれ、擦られるたびに身体がビクビクと跳ねる。バスタブの中で折った足に佐伯の下腹の兆した欲情を押し当てられた。
「ん……っ、ふ……ぁ、ぅ――っ」
厚みのある舌に喉の奥まで犯される感覚に頭が朦朧としてくる。大きく動いた身体にざぶんと大きく湯が波打つ。佐伯にのし掛かられた身体が湯の中に沈みかけて、咄嗟にバスタブの縁を右手で掴んだ。
固定されてない右手を不安定な体勢で使ったせいか、鈍い痛みが走った。いままでのような強い痛みではなかったが、御堂の身体にぐっと力が入ったことに気が付いたのだろう。佐伯はさっと身体を離した。バスタブの縁を握ったままの御堂の右手にそっと触れてくる。
「悪かった。俺が無理強いした」
佐伯が御堂の右手を両手で包み込むと、それこそ腫れ物に触れるかのようにそっと口づけをした。反省した顔つきで言う。
「これからは風呂では止めよう」
「当たり前だ……っ」
唾液で濡れた口元を左手で拭いつつそう返したものの、昂ぶった身体をこのまま放置されるのは苦しかった。だがそれを口にすることもできずにいると、佐伯がにやりと笑う。
「続きは風呂から出てからだ」
そのあとは御堂の身体を必要以上に丁寧に洗われて、バスルームから出るとタオルでしっかり水滴を拭われた。そして手首を装具できっちり固定される。しっかりと準備をして、佐伯は言った。
「待たせて悪かったな」
「馬鹿を言うな。待ってなどいない」
「お詫びにたっぷりと奉仕しますよ」
佐伯の濡れて乱れた髪や上気した頬、そしてしっとりと湿った肌がなまめかしくて御堂は佐伯から目を逸らした。
御堂の身体は期待に火照ったままだ。だが素直に欲しがることなどプライドが許さない。
佐伯は口元を綻ばせると、そっと御堂の唇の端にキスを落とす。繊細で優しいキスにもどかしさを覚えて御堂自らキスを深く噛み合わせた。
7
朝、起きてすぐにニュースを確認するのは御堂の日課になっていた。テレビのニュース番組を流しながらスマートフォンのニュースサイトも細かくチェックする。その日も国内ニュース、特に都内の出来事はくまなく確認した。もうあの夜から一ヶ月近く経っている。佐伯の死体は白骨死体になっている頃かもしれない。だが、変死体も白骨死体も発見されたというニュースは見当たらない。
佐伯の死体の代わりに現れた佐伯克哉と名乗る佐伯克哉と瓜二つの男は、相変わらず御堂の家に我が物顔で出入りして、頼んでもいないのに御堂の世話を焼いている。御堂の恋人だとかいう荒唐無稽な主張を、御堂は断固として認めていないが、いまこうしてつつがなく毎日を過ごしているのは、この佐伯のおかげだということは認めざるを得ない。
ニュースサイトをひととおりチェックすると空腹を覚えた。キッチンに向かい、佐伯が昨夜セットしておいたコーヒーメーカーから淹れたてのコーヒーをマグに注ぎつつ、冷蔵庫を開く。中には佐伯が朝食用に用意してくれたサンドイッチが入っていて、それを取り出した。
佐伯を突っぱねるつもりなら、このサンドイッチだって手を着けずに捨てれば良いのだ。それなのに、サンドイッチに罪はないからな、とか自分に言い訳をして食べてしまう。
だが、いまの過不足なく整えられた生活に流されている自分に危うさも感じていた。満たされた生活は批判的思考を鈍らせる。あんな得体の知れない男など信用すべきでないのは分かっているのに、佐伯は着実に御堂の日常の重要なパーツとして組み込まれつつあった。
金曜日の午後、御堂は仕事を早めに切り上げ、病院へと向かった。手首の診察を受けるためだ。
医者の前で装具を外し念入りに診察される。軽く手首を動かすように言われ、痛みはないかと訊かれた。自分で手首をねじってみたり曲げたりするが、以前のような痛みは消えていた。
「大丈夫です。痛みはありません」
「そうですか。画像所見も改善していますし、もう装具は必要ないですね」
と医者に装具を外すことを許可された。予想以上に早く治癒したようで、装具をできるかぎり長時間着けて手首に負荷がかからないようにしていたことが治癒を早めたのだろう、と褒められた。
順調に治ったのは佐伯のおかげだろう。怪我をした日からずっと身の回りの細々とした世話をしてくれた。それだけではない。仕事でも御堂の負担が減るように営業の領分を超えて立ち回ってくれている。
御堂は主治医に礼を言って診察室を出ると、軽くなった右手で会計を済ませた。右手の動きは以前同様スムーズでこれなら元どおりの日常生活が送れるだろう。
佐伯に怪我が治ったことを報告しようかと、スマートフォンを取り出した。わざわざ報告するまでもないと思いつつも、御堂が今日病院を受診することを佐伯は知っている。やはりひと言くらい伝えておくべきかとスマートフォンの画面を確認すると、佐伯からのメールが届いていた。今夜は御堂の部屋に行くことができないと詫びている。理由は書かれていないが、きっと仕事だろう。プロトファイバーは爆発的に売れている。業務量もかなりの負担となっているはずだ。
それにしても、詫びるもなにも御堂は佐伯に来てくれなどと一度も頼んだことはない。
なにを勘違いしているのだ、と腹立たしく佐伯のメールの文面に目を通しながら、同時に残念に思っている自分に驚いた。
佐伯は一日も欠かさず御堂の部屋に通っていた。今日一日いないくらいなんだというのだ。それに、右手の自由を取り戻したいま、佐伯がいようがいまいが、もはや御堂の生活になんの影響はないのだ。ようやく静かで自由な夜を過ごせることをむしろ喜ぶべきだ。
そう自分に言い聞かせ、せっかくだからどこかで軽く食事をしていこうかとも思ったが、結局、まっすぐに家に帰った。
ドアを開けると部屋は真っ暗だ。佐伯の気配はなかったが、テーブルには食事がちゃんと器に移されてラップをかけた状態で用意されていた。温めて食べろということだろう。
佐伯はいったん御堂の家に来て食事を用意してから、また出ていったのだ。ご苦労なことだと思う。
結局、佐伯になんの連絡していなかったことを思いだし、御堂はスマホのメール画面を開いた。
『怪我は治った。もう来なくて結構だ』
そう佐伯にメールを送ろうとして思いとどまった。
佐伯がこうまで御堂に尽くしてくれたのは、この新しい佐伯にとって御堂は恋人だからだ。
だがもちろん、御堂はそんな関係を認めていない。成り行きで佐伯とセックスを繰り返しても、佐伯が口にするように「好きだ」「あいしている」といった類(たぐ)いの言葉を御堂が告げたことはなかったし、ことあるごとにその間違った認識を正してきた。いい加減、佐伯も自分の勘違いに気が付いているはずだ。
佐伯は、御堂の怪我が治ったらもう御堂の家には来ないと言っていた。だから、メールを送れば佐伯との関係を断ち切ることができるはずだ。だが、それにしても、佐伯に礼のひと言くらいは述べるべきだろう。
御堂はメールの文面を何度も消しては書き直し、このままでは埒が明かないといったんメール画面を閉じた。
いくら文章を推敲しても、送ることをためらってしまう自分に大いに呆れ、ため息を吐いた。
佐伯が用意した食事をレンジで温め、テーブルについて一人で食べ始めた。味気ない食事だ。佐伯がいないだけで部屋が随分と広く、寂しく感じた。
いい加減、ふたりの関係をきっちりと精算すべきなのだ。手首が使えるようになったいま、これ以上佐伯の世話になる必要はなかった。佐伯はもう御堂の傍にいる必要はない。だから、もう来るな、と佐伯にちゃんと告げるべきだ。
それなのに、御堂は佐伯がいる空間の心地よさに慣れきってしまっていた。それどころか、自分を凌辱し尽くした男に身体を許している。この男が佐伯克哉であるはずがないと自分を納得させて。事実、佐伯克哉は御堂がこの手で殺した。だから同一人物のはずがなかった。それでもあの佐伯が佐伯克哉を名乗り続ける限り、御堂の殺人は露見することはないだろう。だから、御堂は新しい佐伯の存在を許している。
これからどうするべきか、逡巡する。
怪我は治ったのだ。それでももしこの先も佐伯とともにいることを望むなら、相応の理由が必要だった。
御堂はぼんやりと窓の外に目を遣った。すっかり夜の帳(とばり)が降りて、高層ビルの合間に真円の月が周囲を明るく照らしていた。
はっと思い立った。
あの公園を見に行こう。ちょうど佐伯を刺した日から一ヶ月経過した。あの夜も満月がこんなふうに煌々と輝いていた。
あの夜に一体なにが起きたのか、もう一度自分の目でたしかめてみよう。
思い立ってからの行動は早かった。御堂は家を出るとタクシーを捕まえた。公園の前で降ろしてもらう。
周囲のビルの明るさに反して、公園の入り口だけ闇が濃い。こんな夜の公園になんの用事があるのか、ドライバーは不思議に思っただろうがなにも訊いては来なかった。
夜の公園に足を踏み入れる。あの夜、御堂は足音を忍ばせて佐伯のあとをつけていた。そのときの自分の行動をなぞりながら公園の奥へと足を進めていると、突然背後から呼びかけられた。
「こんばんは、御堂孝典さん」
びくりと身体を強張らせる。恐る恐る振り向けば、いつの間にいたのだろう、一人の男が立っていた。
その男は尋常ならざる風体だった。身長は一八〇センチある御堂より頭ひとつ分高く、夏の終わりの暑さが残っているにもかかわらず黒いロングコートを羽織っている。髪は目を瞠るような美しく長い金髪で、髪と同じ金の眸が丸眼鏡の奥で光っていた。そして、完璧と言って良いほどの精緻な顔立ちは美しすぎて人間味を感じなかった。
なにかおかしい、と本能が警鐘を鳴らす。御堂は牽制するように低い声を出した。
「誰だ……?」
「私のことは、Mr.Rとお呼びください」
Mr.Rと名乗った男は蠱惑の笑みを口元に浮かべた。どう見ても日本人とは思えない顔立ちなのに、形の良い唇からは流ちょうな日本語が紡がれる。
「そんなに警戒なさらないでください。あなたが落とされたものを、お返ししようと思っただけなのですよ」
「私が落としたもの?」
Mr.Rは優美な仕草で、懐(ふところ)からなにやら取り出して御堂に差し出した。革手袋に包まれた手、その上に乗せられた二つの品を見て御堂は瞳孔が拓ききる。
「これは……」
「そうです、あなたが、あの夜に落とされたものです。あなたが佐伯さんに突き立てたナイフと佐伯さんの血を拭ったハンカチです」
折りたたみナイフときっちりと四折りに畳まれたハンカチ。そのどちらも見覚えがあるものだった。Mr.Rが口にしたとおり、あの夜、御堂はこのナイフを佐伯に突き立て、そしてこのハンカチで血に濡れた手を拭った。
だが、ナイフもハンカチもきれいなままで、どこにも血の染みはない。御堂は呻くように言った。
「どうしてこれを……」
Mr.Rはゆったりと微笑みながら訊く。
「それは、なぜ私がこれらを持っているのかとお尋ねになりたいのですか? それとも、なぜこれらの品が『使われる前』の状態なのかお尋ねになりたいのですか?」
血の気を失い言葉を詰まらせる御堂を前にして、Mr.Rはどこか愉しげな口調で言葉を続けた。
「どちらのご質問でも、答えは同じです。私があの夜、あなたと佐伯さんのあいだに起きた事象について介入したからです。それはすなわち、あなたが佐伯さんにナイフを突き刺した事象です」
Mr.Rが平然と指摘した事実に、御堂は動揺を押し殺しながら言った。
「私はやはり佐伯を殺していたのか」
「正確には死ぬ一歩手前の状態でしたが、あのまま放っておけば間違いなく死んでいたでしょう」
Mr.Rはレンズの奥の眸を眇めた。
「それともご自分が佐伯さんを殺してないと思われましたか」
「……いいや、私は佐伯を殺したはずだった。ただ周囲との整合性が取れなかった」
「そのとおりです。あなたはやはり理知的な方。問題はあなたが佐伯さんを殺したかどうかではなく、あなたが佐伯さんを殺したという事象が事実としてこの世界に顕現しているかどうか」
「事象が事実にならないということなどあるのか」
「観測者たる私なら可能です。平行世界の事象平面(イベントホライズン)と座標変換を行いました。それにより、あなたが佐伯さんを刺したという事実は消され、おふたりの記憶の中のみに存在する事象となりました」
「どういうことだ?」
「佐伯さんに私が賭けを持ちかけたのです」
Mr.Rの眸が妖しい輝きを増した。その目に魅入られそうになりながら、御堂は訊いた。
「賭け? なにを賭けたのだ」
「佐伯さんの命を」
ぞっとするような笑みを深め、Mr.Rは続けた。
「一ヶ月間の猶予を与えました。次の満月の晩までに、御堂孝典さんの中から佐伯克哉さんへの殺意を完全に拭い去ることができれば、この出来事をなかったことにしましょうと」
この男の言う内容は理解を超えているし、理性的に考えればそんなことができるはずがない。だが、目の前の男は御堂にそうと信じさせてしまうような凄みがあった。
「それで佐伯は賭けに乗ったのだな」
「ええ、あの方は喜んで賭けに乗りました。もちろん、そうでなければ死という事象が確定してしまいますからね。あなた方はそれを運命と呼ぶのでしょうが」
闇に響くMr.Rの声はどこか愉しげだった。人の生死を操りながらもそのことになんの感慨も抱いていない。
この男は悪魔なのだと直感した。先ほどから鳥肌が立ちっぱなしなのは、人ならざるものが持つ底知れぬ闇の気配を肌で感じ取っているからだ。そして、瀕死状態の佐伯はこの悪魔が持ちかけた賭けに乗ったのだ。
Mr.Rは人差し指を立てて天を指した。
「そして今日がその満月の夜です」
その言葉に呼応して、Mr.Rの頭上に浮かぶ月がひときわ強く輝いたように思えた。
「どうでしょう、佐伯さんの一ヶ月間の努力は実を結ばれたのでしょうか」
「そういう、ことだったのか」
心の中をひどく乾いた風が吹き抜け、きりきりと胸が痛んだ。
「私は騙されていたのだな」
ようやくすべてを理解する。なぜ刺したはずの佐伯が傷ひとつなく御堂の前に現れたのか。また、それまでの非道な仕打ちなどなかったかのように振る舞い、挙げ句、御堂の恋人だと言い張ったのか。
佐伯は知らないふりをしていたが、なにもかも記憶していた。その上で自分を殺そうとした御堂に尽くし続けた。御堂を籠絡し、御堂が佐伯に抱く憎悪を消し去るために。そのためには、御堂の恋人として愛し合う関係になるのが手っ取り早いと考えたのだろう。
そして、あれほど佐伯が佐伯克哉であることにこだわったのは、Mr.Rの賭けの条件が御堂の佐伯克哉に対する殺意をなくすことだったからだ。御堂がしつこく疑ったように、自分は佐伯克哉でないと言ってしまえば、御堂への佐伯克哉への殺意は凝(こご)ったままになる。
「はは……、そうだったのか」
空疎な笑いが漏れて、どうしようもなく胸が締め付けられた。心臓を鋭い刃で貫かれたことを時間差で気が付いたような感覚だった。あまりに鋭すぎて、刺さった瞬間それとわからなかった。
なぜなら、いまようやく自分の本心を悟ったからだ。
御堂は佐伯を疑いながらも、いつの間にか佐伯を信じてしまっていた。自分と佐伯が本当の恋人同士であればいいと切実に願っていた。
私は、あの男が好きだった。
どろどろに融けた鉛を胸に流し込まれたかのように苦しくて、息がまともにできなくなる。
御堂への献身的な行為も、甘い言葉も優しい仕草も、なにもかもが偽りだったのだ。
佐伯は自分の本心を完全に隠しきり、いとも容易く他人を騙すことができる男だと御堂はいやというほど知っていたではないか。
佐伯は最初から御堂を騙すつもりだった。自分が生き延びるために。そして、Mr.Rとの一ヶ月の約束が過ぎれば、御堂に対する態度を豹変させるのだろう。自分を殺そうとした相手だ。それでいて、いまやすっかり騙されて佐伯に心を許してしまっている。高く持ち上げたところから突き落とすのはきっと愉しいはずだ。いまごろ御堂の心身を完膚なきまでにたたきのめすような残虐極まる復讐を練っているところだろう。
自分の心が徐々に死んでいく。足元の地面がぐらりと傾いた気がした。だが、身体はまったく動いていなかった。
Mr.Rは完璧な笑みを貼り付けたまま御堂に話しかけた。
「どうでしょうか。あなたの中の殺意が本当に消え去ったのか、あなたにお伺いするのが一番でしょう。ですからこちらをお返しします」
Mr.Rは動けないでいる御堂の手を取るとハンカチとナイフを渡した。そしてそっと顔を近づけて耳打ちする。
「この先に佐伯さんがいらっしゃいます。どうぞあなたのお答えをあの方に教えてあげてください」
自分の手の中にあるフォールディングナイフを見つめた。記憶どおりのナイフだ。御堂はハンカチとともにそれをジャケットのポケットに仕舞う。黙ったままMr.Rに背を向けて足を踏み出した。
「さあ、どうぞ、あなたのお心のままに」
背後から投げかけられた声に御堂は振り向かなかった。
月は青白い光を公園に降り注いでいて、真っ暗な夜でも迷うことなくまっすぐに公園の奥へと向かうことができた。なぜかこの先に佐伯がいることを確信していた。なにもかもがあの夜と同じだった。
いくばくも歩かぬうちに、視線の先に男が背を向けて立っているのが見えた。シルエットからして間違いない。佐伯だ。
御堂は足音を忍ばせて、ポケットからフォールディングナイフを取り出した。ナイフを開く。カチリと音がしてロックがかかる。この一連の動作も既視感があった。
ナイフを自分の身体の前に構える。しっかりとナイフの柄を掴んだが右手は痛まない。御堂は地面を強く蹴り、佐伯へと一直線に駆け出した。
信じた分だけ失望は深くなる。愛した分だけ憎しみは強くなる。腹の奥が煮え滾り、発火しそうな憤怒に衝き動かされて御堂は声を上げた。
「佐伯!」
佐伯が驚いたように振り返り、御堂の顔を見て、目を見開く。
「御堂……」
あのときの佐伯はナイフが刺さるまで御堂の存在に気付かなかった。だが、今回は自分を殺す男の顔をちゃんと目に焼き付けてほしかった。御堂は体当たりする勢いでナイフの切っ先を向けたまま佐伯の懐に飛び込んだ。佐伯はナイフを避けようとはしなかった。それどころか、身体を御堂に向けて真正面からナイフを受け止めた。どんとした衝撃が手から身体に伝わってくる。
「――っ」
「やはり貴様は死ぬべき人間だ」
ありったけの憎悪を込めて言った。ナイフがずぶずぶと佐伯の腹に沈んでいく。
あの夜と同じように、いやあの夜以上に簡単だった。あまりにもあっけなさ過ぎて拍子抜けする。御堂はぜいぜいと荒い息を吐いた。ナイフの柄を強く握りしめすぎて手が痛い。そのナイフを引き抜こうとしたときだった。
「……Mr.Rから聞いたのか」
耳元で囁かれる言葉にはっと顔を上げた。目と鼻の先に佐伯の顔があった。レンズ越しの眸が静かに御堂を見つめていた。ナイフは佐伯の腹に突き刺さったままだ。だが、刺された衝撃も痛みもその表情からは読み取れなかった。
「お前は、私を騙すことで生き延びようとした。だから、私の恋人などと偽って……」
感情が高ぶり声が震えた。佐伯はただ御堂を見つめている。
「なにか言え……っ、佐伯っ」
佐伯はゆっくりと口を開く。
「……あんたの言うとおりだ。俺はあの男と賭けをした。あんたを騙して生きながらえるつもりだった」
「やっぱりそうか。私はお前にすっかり騙されたのだな……」
はは……、と笑ったつもりがひび割れた声だけが漏れる。自分はどこまで惨めで無様なのだろう。最初から最後までこの男の手のひらの上で弄ばれただけだったのだ。それを信じ込んでしまった自分が悔しい。散々蹂躙されたにも関わらず、御堂は佐伯に心まで明け渡してしまっていた。Mr.Rが御堂に真実を告げなければ、御堂は佐伯を信じ切って、奈落の底に突き落とされていただろう。自身と佐伯に対する侮蔑と嘲笑を含ませて告げた。
「だが、残念だな、佐伯。最後の最後に貴様は負けた」
返答はなかった。代わりにふわりと抱き締められた。そして唇を塞がれる。唇を合わせるだけの軽いキスだった。だが、佐伯の唇の重みと温かみがしっかり伝わってくるキスだった。
突然のことに動けなくなる。佐伯はゆっくりと唇を離して言った。
「俺はあんたを嵌めるつもりだったのに、逆に俺があんたに嵌まるなんてな……」
「なんだって……?」
自嘲気味に呟かれた言葉は御堂の耳には切れ切れに届いて、その意味をはっきりと理解できなかった。佐伯は先ほどとは打って変わって強い調子で御堂に言う。
「御堂、俺の言うことを訊くんだ。……ハンカチを出せ。ナイフの柄を拭いて指紋を拭え。まだナイフは抜くな」
「なにを……言っている……」
佐伯の言葉の意味が分からず声が掠れた。
「落ち着くんだ、御堂。あんたは大丈夫だ。なにも心配しなくていい」
公園の中を一陣の風が吹き抜けて木々をざわめかせた。耳元で告げられた佐伯の声は風の音と重なって、愛の告白のように優しく響いた。
「さあ、できるだろう?」
佐伯の言葉は穏やかだったか、レンズ越しの眼差しは拒否することを許さぬ強さがあった。
戦慄く手でポケットからあのハンカチを取り出した。言われたようにナイフの柄を慎重に拭う。ナイフの切っ先が動いたのか佐伯が呻いた。思わず手を止めたが、佐伯は「早くしろ」と御堂を急かした。
ようやくナイフの柄をきれいに拭ったところで佐伯はふっ、と弱々しい息を吐いた。そして、御堂が刺したナイフの柄を自分の手で強く握った。その顔が激しい苦痛に歪む。
「佐伯っ!?」
額に脂汗を浮かべた佐伯は、口元を無理やり笑みの形にした。
「これでいい。これが俺の運命だ。だから、あとは俺がすべてを負う。あんたは、もう行け」
そしてナイフを握ってないほうの手でポケットの中からなにか折りたたまれた紙を取り出した。
「あんたに容疑はかからない。俺は自分で自分の腹を刺した。そのために遺書も用意した。これは自殺だ。俺ひとりでやったことだ」
佐伯が握っている紙はどうやら遺書らしい。
ようやく理解する。佐伯が御堂のナイフを避けずに真正面から受け止めた理由を。自分で自殺したように見せかけるためには、自分で刺すことができないところにナイフが刺さってはいけないのだ。つまり、佐伯は御堂に刺されることを予期していた。だからすべてを周到に準備して、御堂が自分を刺しに来るのを待っていたというのか。
膝が震え、その場から動けなくなった。眸が頼りなく闇をさまよう。
「なぜ、そんな……。私は君を刺し殺そうとしたんだぞ、それなのに……」
「目を覚ませ、御堂!」
佐伯の激しい熱を帯びた言葉が見えない掌となって御堂の頬を打った。
「あんたはこのまま俺に人生を台無しにされていいのか? あんたは俺にすべてを奪われて蹂躙されたんだ。これで恨みを晴らしたとしても、その後の人生を塀の中で過ごしていいのか。あんたは自分の人生を取り戻したいと思わないのか」
御堂の弱気を叱咤し、それでいて突き放すような声だった。それでも動けないでいると、佐伯は言葉を重ねた。
「俺はあんたの味方だ、って言っただろう。それだけは信じてくれと」
佐伯の必死の眼差しは言葉以上のものを語っていた。急速にすべての色を失っていく夜の公園で、佐伯はまっすぐに御堂を見つめる。次の刹那、レンズ越しの双眸がぐっと眇められた。佐伯が腹を押さえて低く唸る。御堂が刺したナイフは着実に佐伯の命を削っていた。思わず佐伯へと踏み出しかけた足を鋭い声が縫い付けた。
「近寄るな! ……さっさと行け。決して振り返るな」
佐伯の鬼気迫る表情に、御堂はよろめくようにして数歩後退る。
「早く、行ってくれ!」
苦痛を堪えながら御堂を奮い立たせようとする声は、懇願するような響きがあった。その声に鞭打たれたように御堂は踵を返した。そして走り出す。背後でどさりと佐伯が地面に崩れ落ちる音が聞こえた。だが、振り返らなかった。
夜の公園を駆け抜ける。Mr.Rの姿はどこにもなかった。一連の出来事がすべて悪い夢のように思えたが、もうこれは確定してしまった事象なのだと理解していた。
ようやく公園の出口が見えたところで、御堂は息が切れて歩調を緩め頭上を見上げた。
夜空の真ん中で月が煌々と輝いていた。あの夜のように明るい満月の晩だ。
そして、あの夜と同じように御堂は佐伯を刺した。それなのに、あの夜と違って、胸の内には高揚も興奮もなにも見当たらなかった。
自分は一体何をしてしまったのか。いままでにない感情が溢れそうになり、御堂は手で口を塞いだ。月が二重に滲んでぼやけた。
Epilogue
翌朝、公園での事件はニュースにもなっていた。とはいえ、佐伯が自分で自分をナイフで刺したという形で処理され殺人事件の扱いとはならなかったため、事件としてはひどく小さな取り扱いだったし個人名も出なかった。
そして、週が明けて行われたキクチとのミーティング、会議室に佐伯の姿はなかった。
前回のように、平然とした顔で出席しているのではないかと思ったりもしたのだが、さすがに今回はなかったことにはならなかった。
事件はキクチやMGN社にも広まっていて、御堂が部屋に入ると、片桐も本多も直立不動のまま神妙な顔をしていて室内の空気は重く沈んでいた。
「御堂部長、このたびは大変申し訳ございませんでした。弊社の佐伯があのようなことになりまして……」
片桐は開口一番、ふかぶかと頭を下げた。
「ご迷惑をおかけし、お詫びの言葉もありません」
隣で本多もまた柄にもない詫びの言葉を述べて深く腰を折った。御堂は片手を軽く上げて二人を制する。
「いなくなった人間のことはもういいだろう。ここでなにを言っても無駄な時間を費やすだけだ。ミーティングを始めよう。君たちも座りたまえ」
冷たく切り捨てる言葉に片桐たちは複雑な顔をする。
「待ってください、御堂部長!」
本多が声を上げた。
「俺は克哉が、あんな馬鹿げたことをするようなヤツだとは思えないんです! なにかの間違いじゃないですか……!」
御堂は表情を変えず、本多を一瞥して言った。
「君は佐伯の良い友人だったようだな。だが、君には人を見る目がなかったようだ」
「っ、な……」
「本多君!」
気色ばむ本多を片桐が慌てて宥める。御堂は大きくため息を吐きつつ、ひとこと付け足した。
「心配しなくていい。キクチ八課はこのままプロトファイバーの営業を続投できるよう、私から申し入れるつもりだ」
「あ……、ありがとうございます」
片桐は額の汗をハンカチで拭いつつ、何度も頭を下げた。内心では佐伯がいなくなったことを深く悲しんでいるのだろうが、キクチ八課を率いる立場として、それを表に出すことはできないのだろう。
「さてミーティングを始めようか」
御堂の言葉を皮切りに、本多は弾かれたように売上レポートを手に取り説明を始めた。
本多の低い声は会議室によく響いた。
佐伯はもうこの場に現れることはない。本多のいつもと違う調子の声を聞きながら、その事実を実感したのだ。
そして、それから二週間経過した。御堂はいまだMGN社の開発部部長の座に居続けている。誰も御堂が佐伯を刺したとは思っていない。佐伯が身を挺して御堂をかばったからだ。
佐伯の一件はキクチやMGNに衝撃を与えたが、それが御堂やプロトファイバーのプロジェクトに影響を与えることはなかった。それどころか、御堂は子会社の社員が犯した不祥事を上手くカバーしプロトファイバーのブランドや売り上げを守ったということで、MGNの上層部からは称賛の声が上がっているほどだ。
プロトファイバーの売り上げも変わらず順調で、このままいけば大ヒット確実といわれている。御堂の評価は盤石なものになるだろう。
あの事件のあと、御堂はマンションの郵便受けの底に自分の部屋のスペアキーが落ちているのを見つけた。事件の日、佐伯が御堂の部屋を出る際に入れていったのだろう。
佐伯はなにもかも分かって覚悟を決めていた。もう二度と御堂の部屋を訪れることがないということも、自分が本来の運命に屈してしまうことさえも。
運命とは抗うことのできない大きな力だ。Mr.Rはそれを知っていて、運命という濁流に呑み込まれ溺れる人間たちに仮初めの希望という藁を与え、必死にもがく姿を愉しんでいたに違いない。
それでも佐伯は、Mr.Rの気まぐれによって与えられた猶予(ロスタイム)で、御堂を待ち構える運命から救い出した。佐伯が願ったとおり、御堂は自分の人生を取り戻した。輝かしい出世の道は御堂の前に何事もなかったかのように開かれている。
しかし、その代償として佐伯克哉の名は口に出してはいけない禁句のように扱われている。佐伯の存在もなかったことにされ、本多や片桐は御堂の前でうっかり佐伯の名前を口走っては気まずく謝罪をしている。
佐伯は自分が死んだあとのことはどうなってもいいと自分自身を見限ったのだ。だから、すべての罪と中傷を引き受けた。結果、御堂はいままでと変わらぬ日々を過ごせている。佐伯一人が消えても、こうも普通に社会は回っていくのだな、と複雑な気持ちを抱いた。それは佐伯に限ったことではない。御堂にしてもそうだ。ほんの一瞬、川の水面に波紋を立てることができたとしても、絶え間ない巨大な流れに呑み込まれて、川は何事もなかったかのように流れ続ける。自分を見失ってしまえば、瞬く間に川底へと沈んでしまう。そのなかでどれほどの人間が自身の座標を見失わずに生きていけるのだろう。
御堂は帰り支度を終えてMGN社のビルを出たところで藤田とすれ違った。
「御堂部長、お疲れさまです!」
「ああ、お疲れ」
藤田の手には近くにあるコンビニの袋が握られている。残業用の夜食を買ってきたのだろう。御堂はいたわる声で言った。
「あまり無理をしすぎないようにな」
「あ、はい! さっさと終わらせて帰ります」
疲れを感じさせない快活な声で返事をして、藤田はビルの中へと入っていった。
振り返ってその背中をちらりと見送りつつ、MGN社のビルを見上げた。開発部のフロアはまだ灯りが点いている。藤田以外にも多くの社員が退勤時間を過ぎても仕事に勤しんでいる。いつもと変わらぬ光景だ。
御堂はMGN社の前で客待ちをしていたタクシーに乗り込み、行き先を告げた。車は滑らかに走り出して、二十分ほどで目的地へと着いた。
都内の総合病院の夜間通用口にタクシーで乗り付けた御堂は、エレベーターに乗って入院病棟の個室を訪ねた。面会時間外だが、大学時代からの友人が務めている病院ということもあって、特別に時間外の訪問を許可してもらっている。
ドアを控えめにノックすると「どうぞ」と返事が返ってきた。幾分緊張しつつも、静かにドアを開けて中に入る。
「失礼する」
「なんだ、また来たのか」
殺風景な病室の真ん中に置かれたベッドの上で上体を起こした佐伯が御堂を見て眉をひそめた。
「あまりここに来るのはよせ。あらぬ噂を流されるぞ」
「君の顔を見に来ただけだ。すぐに退散する」
とは言ったものの、次にかける言葉も思い浮かばず、かといってこの場を立ち去ることもできず、御堂は病室のドアの前で立ち尽くしたままでいた。重苦しい沈黙が場を支配する。
佐伯は、はあ、とため息を吐きつつベッドサイドの椅子を勧めた。
「あんたも懲りないな。そんなところに突っ立ってないで、座ったらどうだ」
「ああ、ありがとう」
椅子に腰掛けると、どこからともなく消毒薬の匂いが漂ってきた。佐伯の腕には点滴が一本つながっているだけだ。見舞いに来るたびに、佐伯につながれている点滴やモニターのケーブルの数が減っている。たぶん順調な経過なのだろう。
ベッド脇の床頭台(しょうとうだい)にはエナジードリンクが置かれていた。これはなんだろうと怪訝な眼差しを向けていると佐伯が言った。
「本多が見舞い代わりに持ってきたんだ」
「本多君らしい選択だな」
半ば呆れながら言ったが、自分自信は手ぶらで来てしまったことに気付く。佐伯に顔を向けて謝った。
「すまない、なにも見舞いの品を持ってこなかった」
「持ってこなくていい。あとで誰からもらったのかと訊かれたら答えに困る」
「それで、傷の具合はどうだ?」
「回復は順調でリハビリも始まっている。驚くべき回復力だそうで、そろそろ退院も可能らしい」
「そうか。それは良かった」
「あんたのおかげだな。……本来なら俺はあそこで死ぬ運命だった」
佐伯は小さく笑って言った。
あの夜、御堂は公園から逃げだそうとした足を止めた。このまま佐伯に自分の運命も押し付けて逃げる気なのかと自問自答する。佐伯がそう口にしたように、これが運命だと割り切って諦めて良いのか。
耳の奥でいつか告げられた言葉が響いた。
『あんたの運命はあんたに諦めることを許さない』
運命を運命として従順に従うよりも、常に最善を目指して悪足掻きし続けるのが御堂孝典の生き方ではなかったか。これが自分にとっての『最善』だと胸を張って言えるのか。
御堂は拳を握りしめ、ぐっと歯を食いしばる。自身の視界を曇らせるしがらみや怯懦(きょうだ)や他のすべてを振り払い、ジャケットの懐からスマートフォンを取り出した。震える指で操作して救急番号に連絡する。
すぐに電話がつながって、御堂は乱れ打つ心臓を宥(なだ)めながら公園の名前を伝え、刃物で刺された男がいることを伝えた。
電話の向こうにいる救急司令員は、怪我人を目にして動揺しているであろう御堂に落ち着いた声で話しかけながら情報収集をし、出血している人間に対する適切な処置方法を教えた。
御堂は自分が逃げた道を全速力で駆け戻った。佐伯はすぐに見つかった。右手は剥き身のナイフを握り、左手は腹の傷を押さえるようにして地面に伏していたが、足音に気が付いたらしい。苦痛に歪む顔を上げて、御堂を見た。そして目を見開いた。御堂は佐伯の横に膝を突いた。必死の声をかける。
「佐伯、もう少しで救急車が来る。だから、死ぬな」
御堂は指紋を拭くのに使ったハンカチを取り出すと、とぷとぷと血が滲み出す傷口に宛がった。佐伯が苦悶に呻きつつ、掠れ声で御堂に問いかけた。
「どうして……」
「黙っていろ」
佐伯の問いに答える余裕は御堂にもなかった。傷口を強く圧迫する。佐伯の口が動き、なにかを言いかけたが言葉を発することはなかった。血の気を失った顔の瞼がゆっくりと落ちる。
「佐伯!? ……佐伯っ!」
明らかに反応が鈍くなった佐伯に何度も呼びかけるが反応はない。視界が滲む。両手で懸命に傷口を押さえていると、ぽたぽたと上から落ちてきた水滴で手の甲が濡れた。それが自分の涙だと気付くまで時間がかかった。出血を抑えることに必死で、涙を拭うこともできない。
永遠にも近い時間を耐えていると遠くからサイレンの音が聞こえてきた。ややあって、通報者を探す声が聞こえる。御堂は「ここだ!」と大声で叫んだ。
それから佐伯はすぐさまこの病院に搬送され緊急手術を受けた。御堂は通報を受けてやって来た警察に事情を聞かれた。御堂は自分が刺したことを素直に告白したが、逮捕はされなかった。佐伯が、自分で自分を刺したと手術の麻酔をかけられる間際まで、意識朦朧となりながらも執拗に主張したからだ。
佐伯が遺書を持っていたこともあり、ひとまず御堂は解放された。そして、緊急手術は成功した。佐伯が意識を取り戻してからあらためて事情聴取が行われたが、佐伯は自分で刺したという主張を撤回することはなかった。とはいえ、御堂が戻ってきてしまったせいで、多少の筋書きの変更は余儀なくされたらしい。
佐伯の説明では、親会社の上司である御堂に逆恨みをした佐伯は、御堂を公園に呼び出して目の前で狂言自殺をしようとした。それを止めようとした御堂ともみ合いになり、思わず自分の腹を刺してしまった、ということだそうだ。佐伯の主張は警察から確認を取られて初めて知ることとなった。御堂の証言と食い違っていた部分は多々あったが、結局、佐伯が自筆の遺書を持っていたこと、ナイフの柄には佐伯の指紋しかついていなかったこと、そして、ナイフの購入履歴が決め手となって、御堂には何のお咎めもなかった。むしろ、巻き込まれた被害者として周囲からの同情を集めたくらいだ。佐伯は遺書だけでなく、同型のナイフも事前に購入し、御堂の罪を引き受けるための万全の準備をしていたということもあとから知った。
佐伯は入院生活を余儀なくされたが、ICUから一般病棟の個室に移されたと聞いて、御堂は人目を忍んでこうして夜に見舞いに通っている。被害者であるはずの御堂が加害者であるはずの佐伯のもとに頻繁に顔を出すことを、佐伯は良しとは思っていないので、訪れるたびに露骨にいやそうな顔をされて帰れと言われたが、それでもしつこく通っていたらどうやら根負けしたようだ。御堂だって佐伯に連日部屋に押しかけられたのだから、これでイーブンだ。とはいえ、御堂が病室に来ても、ただ佐伯の様子を見て一言二言会話を交わすしかできないのだが。
この日も会話が途切れた静けさを耐えていると、佐伯がふと思い出したように言った。
「そういえば、キクチ八課、存続の方向で働きかけてくれたそうだな。本多が言っていた。だいぶ無理を通したんじゃないのか」
「君たちとの約束を守っただけだ。売り上げ目標を達成すれば存続させるという約束だった。目標はとっくに達成されている」
「片桐さんや本多がクビになったら寝覚めが悪かったところだ。礼を言う」
「君に礼を言われる筋合いはないし、むしろ、君のほうが大変なことになっているだろう」
佐伯は警察から厳重注意を受けるだけですんだが、事件発覚後、キクチから即日懲戒解雇となった。直属の上司である片桐の監督責任を問う声があがり、キクチ八課の解体および所属メンバーのリストラの話まで出たが、御堂が一切を不問にし、キクチ八課への営業委託継続の方針をとったことで、責任追及の声は立ち消えた。結果、八課はいまでもプロトファイバーの営業を請け負っている。とはいえ、佐伯が抜けた穴は大きく、本多は佐伯の病室に見舞いがてらに顔を出しては忙しさを愚痴っているらしい。本多は佐伯の狂言自殺自体がなにかを隠すための狂言だったと疑っている節(ふし)があるが、深くは追求せずに佐伯の良き友人であり続けているようだ。
「それで、君はこれからどうするつもりだ」
「退院後もしばらくは自宅療養が必要みたいだから、そのあいだに新しい会社でも立ち上げようかと思っている」
「起業する気か?」
「ああ、いくつかプランはある」
そう口にする佐伯の顔は不敵な笑みを浮かべていた。佐伯の卓越した仕事のセンスと能力を知っている御堂からすれば、佐伯の言葉は見栄でもはったりでもなく、なにか大きなことをやり遂げるのだろうという予感さえある。
それでも素直に佐伯の挑戦を応援できないのは、自分の中に罪悪感と後ろめたさが重たく沈殿しているからだ。佐伯は御堂の心情を察したのか、軽い調子で言う。
「そんな思い詰めたような顔をするな。俺よりあんたのほうが重症患者のようだ」
「すまない、佐伯。私のせいで君は……」
「勘違いするな、御堂」
佐伯が有無を言わさぬ強さで御堂の言葉を遮った。
「あんたが刺したんじゃない。俺が自分で刺したんだ」
佐伯は何度も繰り返した主張をふたたび口にする。
佐伯にナイフを突き立てたとき、御堂は激情に駆られながらも自らの罪を裁かれる覚悟はできていた。それでもこうして真実を胸にしまい込んでいるのは、佐伯の命を賭(と)した決意を無駄にしたくないからだ。だが、これで良かったのかという葛藤は御堂の中でずっとくすぶっている。
「佐伯」
意を決して、御堂は口を開いた。
「君はなぜ私を助けようとした? 君はあのとき、すでに覚悟を決めて準備までしていた。つまり、なにが起こるのかを君はすでに予測していたということだ」
Mr.Rが御堂の前に現れなければ、御堂は佐伯を信じ切ったままで、あのような事態は起きなかったかもしれない。すなわち、佐伯はMr.Rの行動さえも見越していた。
佐伯は肩を竦めて答える。
「言っただろう。最初はあんたを騙し切るつもりだったし、そうできる自信があった。しかしあんたは俺が佐伯克哉なのかどうか何度も聞いてきた。それは、俺が佐伯克哉ではないと疑っていたからだろう?」
御堂は頷く。
「君はまるで別人のように変わっていたからな。それに、佐伯克哉は私がこの手で殺したはずだと信じていた」
「あんたは俺を殺したことを後悔してなかっただろう?」
「ああ。あのときは自分の行為は正しかったと信じていた」
御堂の素直な言葉に佐伯は苦笑する。
「それはつまり、あんたは頑なに俺と佐伯克哉は別人だと思っていたし、佐伯克哉は死ぬべきだという気持ちを覆せなかったということだ。その時点で、俺はもう賭けに勝てる見込みはなかった。どうせ運命から逃れられないなら、せめてあの男(Mr.R)の鼻を明かしてやろうと考えた」
そこまで言うと佐伯はしばし黙り込んだ。言葉を選ぶような間を置いて、佐伯は静かに語り始める。
「結局のところ、自分が仕掛けた嘘に自分が嵌まった。あんたの傍にいればいるほど、もっと傍にいたいと願うようになった。自分で自分が制御できなくなっていた。恋人なら一緒に暮らしたっていい、と思うのに、そうしたらもう後戻りできなくなると感じた。あんたを陥れようとしたのに、俺のほうがすっかり身動きが取れなくなっていた」
「君が私の家に泊まろうとしなかった理由はそれか」
「それだけじゃない。一度、寝ぼけたときがあっただろう。あのときはあんたに殺される夢をよく見てたからな。それで自分の計画が破綻することを怖れた。だが、それ以上にあんたに嫌われることを怖れていた。あんたが真実を知れば俺を決して許さないだろう。だからだ」
そのとおりだ。御堂は騙されていたことを知り、佐伯への殺意を滾らせた。佐伯は言葉を継ぐ。
「あんたを騙して傷つけたのはたしかだし、いままで俺がしてきたことを思えば、こうなるのが自業自得、あるいは因果応報だろう。だからあんたを恨む気持ちも恩に着せる気持ちもまったくない」
淡々とした語り口だったが、御堂は首を振った。
「違う。君は別の解決法を取ることもできたはずだ」
語気を強めて言った。佐伯は黙ったまま御堂に視線を向けた。
「Mr.Rは、私の中の君への殺意を完全に消し去ることができれば君は助かる、と言ったのだろう。それならば、君が私を殺せば、手っ取り早くて確実だった」
殺意を消し去る方法はなにも御堂を心変わりさせることだけではない。殺意を抱く本体ごと消し去ってしまえばいい。そうなれば佐伯を殺す人間自体がいなくなるのだ。それこそが間違いのない手段だったはずだ。
御堂でさえ、完全犯罪で佐伯を殺せたのではないか、と考えたのだ。同じことを佐伯が考えなかったはずがなかった。それに、途中から御堂は佐伯への警戒をほぼ解いていた。佐伯がその気になれば、周囲に悟られずに御堂を始末することは容易だっただろう。
佐伯は御堂の顔をまじまじと見て、感心したように言った。
「なるほど。やっぱりあんたは頭が切れるな」
「思いつかなかったとは言わせない」
そう言い切って佐伯を見据えれば、佐伯は、ふ、と笑った。御堂を見つめる視線を柔らかく眇めると、と気負いのない口調でさらりと言った。
「そんなの簡単なことだ。好きな相手を殺せるわけがない」
「――っ」
佐伯の言葉が、とん、と胸に触れた。それは、嘘でも媚びでもない真摯な告白として、御堂の心の深いところに落ちていった。じわりと胸が熱くなっていく。
自分が一番欲しかったのは佐伯のこの言葉だったのだと気付いた途端、御堂はうろたえたように佐伯から視線を逸らした。
「……君を二度も殺そうとした相手でもか」
「それ込みで好きになったのだろうな」
「君は酔狂な男だな」
「それは俺のセリフだ」
佐伯が呆れたように言う。
「あんたこそどうして戻ってきた。あのまま逃げおおせてくれれば、俺はあとのことを考えずに済んだんだ」
佐伯の口調には御堂を責める響きが混じっている。佐伯としては、予想外に生き延びてしまったことで警察からしつこく聴取されたし、病院で不自由な入院生活を送る羽目になったのだから、御堂に恨み言のひとつでも言いたいのだろう。御堂は片眉を吊り上げる。
「君は無責任すぎる。片桐課長も本多君もかなり参っていたぞ」
佐伯を二度も殺そうとした御堂がそれを言える義理などないのだが。
御堂はひとつ息を吐いて、力を込めて言った。
「私は運命などは信じない。だが、進まざるをえない道を運命と呼ぶならば、大切なのはどんな道を進むのかではなく、どう歩くのかが大切なのだと思う」
「あなたらしいな。……だが、答えになってないぞ、御堂」
佐伯は悪戯っぽい目配せをして言葉を続ける。
「俺が知りたいのはなぜ、あんたが戻ってきたかだ」
「それは……」
あの公園でも瀕死の佐伯に同じことを訊かれた。あの場ではとても答える余裕はなかったが、ちゃんと佐伯に告げるべきだろう。腹を括る。
「君と同じ答えだ。好きな相手をこのまま死なせたら後悔すると思った。ただそれだけだ」
「ただそれだけね」
佐伯は満足げに喉を短く鳴らした。
「そうだ、やっぱり見舞いをもらってもいいか?」
「必要なものがあれば用意する。なにが欲しい?」
「キスを、たっぷりと」
佐伯の要求に言葉を失う。唖然としていると佐伯が笑い含みに言う。
「やりやすいように目を瞑ってやろうか?」
「馬鹿、必要ない」
御堂はベッドの柵越しにぐいっと身を乗り出すと、佐伯の唇に唇を重ね合わせた。佐伯の手が御堂のネクタイの結び目にかかり、首元を緩められた。そしてネクタイごと引き寄せられて深く唇を噛み合わせられる。綻んだ隙間から挿し込まれる舌を受け容れた。ぬるりと粘膜同士を触れあわせ、舌を絡ませる。吐息も唾液も混ざり合い、口の中でふしだらな水音が立った。病室だというのに佐伯のキスは遠慮がない。
角度と深度を変えながらキスを重ねた。そして、佐伯の指が御堂のワイシャツのボタンを外しだしたところで、はっと我に返って佐伯の手首を掴んだ。顔を離して告げる。
「これ以上はしない。君の傷が開いたら大事(おおごと)だ」
「もうすぐ退院できるのに?」
「退院が延びたら困るだろう」
「違いない」
佐伯は素直に手を引っ込める。御堂は身体を戻し、乱れた服を正しつつ、それとない素振りで話を切り出した。
「佐伯、退院したらしばらく自宅療養をする言っていたな」
「ああ」
「その……君さえ良ければ、私の家に来ないか? 君をこんな目に遭わせた私が言える義理ではないが」
言い訳がましく付け加えた。
「私の責任でもあるし、完全に体調が戻るまで私の家で療養してもらっていい。もちろん君の負担にならなければだが……」
佐伯は押し黙ったまま御堂を見つめ続けるものだから語尾がしどろもどろになる。
御堂が二回も殺しかけた相手だ。そんな相手を家に誘うなどどう考えても間違っている。佐伯の視線の圧に耐えきれなくなって言った。
「すまなかった。私が君を誘うなんてどうかしている」
「そうじゃない。あんたにしてはずいぶんと回りくどい説明をすると思っただけだ」
「どういう意味だ?」
佐伯は笑う。
「俺はあんたのことが好きだし、あんたも俺のことが好きだってさっき認めたろう。ということは俺たちは恋人同士で、恋人同士が同棲するのは普通のことだ。あんたは延々と御託を並べずに堂々と誘えばいい」
「は?」
「なんだ、違うのか?」
ところどころ論理の飛躍があるような気がするが、結局のところ結論は同じになる気がする。だから、四の五の言わずに佐伯の主張を受け容れることにした。
「わかった、そういうことにしておこう。……退院したら私の部屋に来ないか、佐伯」
「御堂さんにそこまで誘われたら断るわけにはいかないな」
佐伯はにやつきながら承諾する。……なぜだろう、とても悔しい気がする。
こうして、ふたりの間の空気が緩んだところで佐伯がなにかに気付いたように神妙な顔をした。
「ひとつ心配なのは、俺があんたの部屋に転がり込んだことが知られたら、周りからこの件が痴話喧嘩だったんじゃないかと思われることだな」
「ち、痴話喧嘩!?」
「まあ、いまとなっては間違ってないが」
「まったく、君は……」
御堂はふかぶかとため息を吐いた。
そんな軽い言葉で片付けられる出来事でないのは互いにわかっている。それでもあえて佐伯が軽い調子で話すのは、過去をふたりから遠ざけたいからだ。御堂はいまだに佐伯にナイフを突き立てたときの感触を生々しく覚えているし、佐伯にされた仕打ちも忘れていない。佐伯もまた御堂に二度殺されかけた事実を決して忘れることはないだろう。それでも御堂たちはこうして共に歩むことを決めたのだ。
あの夜、佐伯は自分の運命を受け容れた。御堂は崖っぷちで、運命の歯車に巻き込まれることを拒絶した。その結果、ここにふたりがいる。もしかしたらそれさえも、運命の紡ぐ糸に操られたのかもしれない。
それでも、運命だと割り切って諦めるのではなく、抗い続けることで新しい運命を切り拓けるのだと信じたい。きっとその諦めの悪さを人は希望と呼ぶのだろう。希望はきっと御堂たちの未来を導いてくれるはずだ。
腕時計に視線をちらりと落として御堂は言った。
「そろそろ消灯の時間だな。邪魔したな」
「気をつけて帰れよ」
「――佐伯」
立ち上がり、部屋を出ようとする素振りを見せて、御堂は素早く佐伯へと覆い被さるようにして身体を傾けた。不意を突いて佐伯の唇を奪う。薄い皮膚同士を合わすだけの簡素なキス。唇をほんの少しだけ離して御堂は囁いた。
「あいしてる」
佐伯は吐息で笑うと、深く鮮やかなキスで返事をした。
END
あとがき
最後までお付き合いくださりありがとうございます。
ここから読み始める方はいらっしゃらないと思いますが、ネタバレを含みますのでご注意ください。
いままでバドエン補完を数多く書いてきてたのに、因果応報エンドは一作だけで、それもミドメガのもの(『檻』)しか書いてなかったのですよね。たぶん、『檻』の自分なりの満足度が高くて、それ以外の話が思い浮かばなかったのかもですが。
本作のきっかけは、殺したはずの佐伯が翌朝ピンピンして御堂の前に現れる、という妄想ネタからです。Xでつぶやいてたら思いのほか反応が良かったので小説にできるか練ったのですが(小説にするためにはちゃんとした起承転結が必要で、特に転~結が決まらないと私は書けないのですよね)最初に思いついたシーンは、刺された佐伯が御堂さんを抱き締める場面でした。メガカタの刺殺エンドがとても好きなのですが、刺した相手を恨むことも憎むことなく、愛おしく思いながら死んでいく眼鏡萌えますよね。
ということで、そんな雰囲気のシーンを軸にストーリーを組み立てました。途中、甘々メガミドをたっぷり書けたの楽しかったです。全体的には甘めになっているのではないかと思います。
昨年後半からスランプ気味で、先日の新刊を血を吐きながら書き上げて、もう創作できないかも…と思っていたのですが、また書きたい気持ちが湧いてきたのでリハビリがてらにこれからもポチポチ書いていきたいです。
感想やコメントなどいただけるとモチベーションにつながりますので、よろしければ気軽に送ってくださいませ。
5
翌日も、さらにその翌日も、佐伯は御堂の部屋にやってきた。 家に帰ると佐伯がいて、甲斐甲斐しく御堂の世話を焼いてくる生活にも否応にも慣れてしまった。佐伯は食事を用意し、部屋を掃除して家事をこなしていく。風呂や着替えも手伝うし、そのあとの性的な行為についても積極的に手伝ってくれる。もっともこれについては御堂は一切望んでいないが、佐伯の誘導があまりにも巧みで気が付いたときには流されてしまっている。
しかし、佐伯は「待つ」と宣言した言葉どおり、手や口で御堂の快楽を導いてもそれ以上のことは強いてこなかった。その気になれば、佐伯はいくらでも御堂を思いのままに弄ぶことができたはずだ。
やはり、いまの佐伯はかつての佐伯克哉とは別人であり、あの夜に入れ替わったのではないかと思う。御堂が刺したはずの傷痕が残っていないのも別人であることを裏付けている。
御堂はこの男が佐伯克哉とは別人だという決定的な証拠を見つけようと細心の注意を払っているが、御堂に対する態度が180度変わったこと以外、別人であることを裏付ける客観的な証拠はなにも見つからない。
たまたま本多と二人きりになったときに「最近、佐伯の様子がおかしいと思わないか?」と話を振ってみたこともあった。本多は驚いたように目を瞬かせて「克哉がですか? どこら辺がですか?」と聞き返してくるので、「いや、気のせいだったか」と言葉を濁す始末だ。ただ、本多と佐伯が大学時代に同じバレー部に所属していたのは事実のようだ。
本多は粗野な第一印象とは裏腹に営業マンとしては優秀で佐伯に次いで抜群の成績を誇っている。それは、万事を素早く察知しきびきびと動くことができる男だからだ。その本多が佐伯が別人になったことを気付かないはずがない。
御堂が殺したはずの佐伯の死体が見つかったというニュースもいまだにないし、もしかしたら、おかしいのは佐伯ではなく御堂自身ではないかと疑ることもある。自分の記憶の正しさを肯定するなら、あの夜に御堂はよく似た別世界に迷い込んでしまったのかもしれない。佐伯は理解ある御堂の恋人として存在していて、当然、御堂に殺されたという事実も存在しない世界に。
いいや、そんな奇想天外な話があってたまるかと思うが、殺したはずの佐伯の死体が跡形もなくなっている時点で御堂の理解を超えるなにかが起こっているのは事実だった。
毎日、自宅で佐伯と顔を合わせているが、仕事でも週に一度はミーティングで佐伯から報告を受けるし、それ以外でもたびたび佐伯とやりとりしなくてはいけない場面があった。慣れというのは恐ろしいもので、佐伯に対する嫌悪はいくらか緩和されているものの、それでも佐伯と面と向かうと調子を崩してしまう。この日も、キクチ八課に販売データやマーケティングの詳細な資料を頼んだら、よりにもよって佐伯が御堂の執務室までやってきた。
「御堂部長、失礼します。資料、お持ちいたしました」
「……君か。私は片桐課長に君以外でお願いしたはずだが」
「ですので、俺が参りました。片桐課長には、それは遠回しに俺を指名しているので言葉どおりに受け取らないよう伝えておきました」
「次からは言葉どおりの意味だと片桐課長に言っておく」
片眉を跳ね上げて不快感を示すが、佐伯はどこ吹く風のようだ。
佐伯はすたすたと御堂のデスクに歩み寄ると資料を広げた。佐伯が慇懃な態度で言う。
「資料の内容について、簡単にご説明してもよろしいでしょうか」
「……いいだろう」
MGN社の首脳陣を前にしたプレゼンテーションが控えていた。そのため、販売データをもとにプロモーションや販売戦略の修正を行い、今後のプランを示す必要があった。前回のプレゼンはこの男のせいで御堂は大失態を犯す羽目になったのだ。挙句、会議室で佐伯に犯されるという屈辱的な目に遭わされた。だが、この佐伯にはどうやらそんな記憶はないらしい。
御堂の恋人だと言い張る佐伯がどういう認識をしているのか不可解で、何度か過去に関するそれらしい会話を交わしたところ、佐伯と御堂のの共通の記憶は御堂に接待と称して薬入りのワインを持って家に押し掛けてきたところまでだった。佐伯はそのワインを飲んで動けなくなった御堂を襲ったが、御堂に説得されて改心して紆余曲折を経て御堂と恋人同士になったらしい。いくらアルコールで理性と冷静さを失ったとしても、自分がこんな卑劣な行為をする男を恋人にするはずがない。まったくもって納得がいかないが、佐伯の中ではそれが揺るぎない真実であるらしい。
さらに佐伯の中では御堂を大事な会議中にローターで弄んだことも、御堂の家に本多と押し掛けてオリーブでいたぶったことも存在しなかったことになっている。その話を持ち出しても、佐伯は「いったい何の話だ?」と怪訝そうな顔をする。佐伯の記憶によれば、会議中に御堂が倒れたのは御堂の体調不良で、御堂の部屋に本多と遊びに行ったことは認めるがワインをたらふく飲んで寝落ちした本多を連れて帰っただけの話になっている。佐伯のその反応が演技だとしたら相当の演技力だろう。詐欺師としての才能がある。
この男はいったい何者なのか。
資料をひとつひとつ示しながら手際よく内容を説明する佐伯の横顔をじっと眺めていると、ふいに佐伯が黒目を御堂のほうに向けた。
「御堂さん、俺の話、聞いてます?」
「すまない。続けてくれ」
逸れていた意識をこの場に戻し、詫びの言葉を口にした。ふたりで資料をざっと確認していく。佐伯が説明を再開した。
「競合商品との差別化を図り、市場シェアを拡大するためのアプローチはいたって順調だ」
「ターゲット層のリピート率はどうなっている?」
「それはここの資料に記載されているが……」
御堂の質問に対しても佐伯は即座に的確な答えを返してくる。ほんの少し会話しただけでもこの男の能力の高さが分かる。取引先との折衝も上手いし、頭の回転も速い。そんな男が御堂に全面的に協力してくれるのは頼もしいことだった。最初こそ警戒していたが、いまでは佐伯の仕事ぶりを認めている。
ここのところの御堂の立て続けの失態はリカバーしつつあった。製造ラインの故障もすぐに原因が判明し、一週間も経たないうちに製造が再開された。
プロトファイバーは一時的な品薄状態になったものの、製造ラインの切り替えとキクチ八課の在庫調整が上手くいったこともあり、品切れを起こすこともなく無事に危機を乗り越えることができた。むしろ品薄状態がさらなる購買意欲を煽ったようで、需要は急増している。一時的な措置として使っていた別工場の製造ラインもそのままプロトファイバー専用のラインとなることが決定され、すばやく増産体制が整えられた。結果として製造ラインの故障が怪我の功名になったとも言える。
また、御堂がひとりで抱え込んでいた仕事も積極的に部下に割り振ったことで、自身にかかる負荷も軽くなっていた。御堂は定期的に部下の仕事の進捗状況を確認し、状況に応じて追加の指示や軌道修正を行っている。こうして振り返ってみれば、若くして部長になったこともあり、部下を信用しきれていなかったのだと思う。自分でこなしたほうが早いし確実だった。だから、物事が切迫すればするほど部下に任せることなどできなかった。そんなスタンスで仕事を続けていれば、佐伯に追い詰められなくても、いずれタスクが回りきらず破綻していただろう。的確な判断をくだし、部下を信用し、責任を取る。それが部長の役割だとようやく理解できた気がする。
「この方針で問題なさそうだな」
説明をひととおり聞き終えて御堂は言った。「ああ」と佐伯は頷く。
「これだけの売れているんだ。文句を言うやつはいないだろう」
「君たちキクチ八課が一丸となって販売調整を上手くこなしてくれたおかげで、大きなクレームもなく、逆に販促効果もあったようだ。君たちの協力には感謝している」
正直、お荷物部署と揶揄されていた八課がここまで有能だとは思わなかった。その本音は胸にしまっておく。
佐伯は、表情を和らげ淡い笑みを口元に浮かべて言った。
「あんたがどれほどプロトファイバーに熱意を注いでいるのか、みんなわかっている。誰もが、あんたを、そしてあんたの仕事を認めているから、自分が足を引っ張ってはいけないと頑張ったのだろう」
「そうか……」
佐伯の言葉がかさついていた心にじわりと沁みていく。誰かに認められたくて仕事をしてきたわけではなかった。それでも、自分を認めてくれる人間がいるというのはこうも心強いのかと気付く。
どうも、佐伯と話していると自分が年上で上司であるということを忘れてしまう。この男は洞察力に優れていて機転も利く。侮ることを止めて素直に耳を傾けてみれば、佐伯の正鵠を射た言葉にハッとさせられることも多い。だから、強がることをやめて、言った。
「私はもっと君たちや部下を信用すべきだったな」
「あんたはずっと高いところを目指しているんだろう? あんたの運命はあんたに諦めることを許さない。だからこれからも、あんたは多くの敵を作るだろうが、同時に味方も多くいることを忘れるな」
御堂の柔らかいところに触れるかのように佐伯は言葉を続けた。
「運命だなんて、君は随分とロマンチストだな」
「あなたと出会ったせいで運命を信じるようになったのさ」
「私が運命の相手とでも言いたいのか」
「よく分かっているじゃないか」
「私は運命などという言葉は嫌いだ」
茶化すように言う佐伯の言葉を遮ると、御堂は佐伯をじっと見据えた。
「それで、君は私の味方だと信じていいのか」
「ああ、俺はあんたの味方だ」
「私は君をどこまで信じていいのかも分からないのに」
軽い口調で返す佐伯の真意を見透かす視線で見返せば、佐伯の双眸に一瞬複雑な色が過った。それがなんなのか見極めようとする前に、佐伯は決然たる響きで言った。
「じゃあ、この言葉だけは信じてくれ。俺は、あんたの味方だ」
「信じていいのか?」
返事代わりに佐伯はデスクの上に上体を乗り出すと御堂の唇に唇を押し付けた。唇が温かな体温と柔らかな感触に押し潰される。誘うようにちろりと唇の狭間を舐められるが、深く唇を噛み合わせることなく佐伯は顔を離した。
その間ぎくりと身を強張らせていたが佐伯らしくないあっさりしたキスに思わず佐伯を見返した。佐伯は笑い含みに言う。
「そんなに物欲しそうな顔をするな。この場で抱きたくなるだろう」
「な……っ、誰がっ!」
「それじゃあ、また」
御堂の怒りが爆発する前に佐伯は素早く執務室を出て行った。
その日、御堂が帰るとドアの前にデリバリーの食事が配達されていた。袋の中を覗くと二人分の食事だ。佐伯が注文したものだろう。そして、ここに置きっ放しということは佐伯はまだ帰ってきてないのだろうかと、食事を回収しドアを開けた。すると玄関には自分のものではない革靴が揃えられていて、部屋の電気も点いている。だが部屋の奥からはなんの気配も物音もしなかった。
「佐伯……?」
声をかけながら部屋に上がった。リビングに入ると、ソファの背にもたれるようにして佐伯が寝ていた。御堂が帰ってきたことにも気付かないくらい深く寝入っているようだ。
ダイニングテーブルにデリバリーの袋を置きつつ、どうしたものかと考える。
佐伯がこんなに無防備に寝入る姿を見せるのは初めてだった。
佐伯は御堂の部屋に泊まろうとはしなかった。食事こそふたり分頼んでふたりで食べるようになったが、佐伯はどれほど遅くなっても自分の家へと帰っていく。朝から晩まで仕事をこなし、御堂の部屋に通って御堂の世話を焼くという生活を繰り返しているのだ。御堂の前ではそうと見せないが疲労もたまっているだろう。
御堂は佐伯を起こすことをあきらめて、クローゼットからブランケットを取り出した。それをそっと佐伯にかけてやろうとして気が付いた。佐伯の顔が苦しげに歪んでいる。額に脂汗が浮き、歯を食いしばってなにかを耐えているかのようだ。具合でも悪いのだろうか。
「佐伯?」
左手で肩を揺さぶる。佐伯の頭がぐらりと揺れた。うっすらと佐伯が目を開く。次の刹那、佐伯はがばっと身を起こした。肩に置いていた左手を掴まれ血走った眼が御堂に向けられる。
「ッ、痛い……」
容赦のない力でぎりぎりと左手を締め上げられて、呻く声が漏れた。佐伯の眸の焦点がハッと定まり、ふっと力が抜けた。
「悪い……」
手を離される。左手の手首を摩った。じん、と血流が戻ってくる感覚がある。右手首でなくて良かったと思うが、佐伯は御堂から気まずそうに視線を逸らした。
「うたた寝してしまった。ちょっと驚いて……すまない」
言い訳じみた言葉で謝られる。佐伯は重たくまとわりついたなにかを振り払うように首を振ると、さっと立ち上がった。
「手首、大丈夫か?」
「……ああ」
「そうか、よかった。左手首まで怪我させてしまったら大変だからな」
御堂に向ける表情と口調は、いつもの佐伯だ。佐伯の視線が御堂を通り越してダイニングテーブルへと投げかけられる。
「もう食事、配達されたのか。いまから準備するから待っててくれ」
キッチンへと向かう佐伯の背中をじっと見つめた。先ほどの佐伯はいままでに見たことのない姿だった。野生の獣のような殺気と気迫をまとっていた。それはまるでかつての佐伯を彷彿とさせた。
だが気のせいだと自分に言い聞かせる。あの佐伯は御堂が殺したはずだ。だから存在するはずがないのだ。
食事を終えて、風呂に入る準備のため佐伯に装具を外してもらおうとしたときだった。ソファに座り、佐伯に向かって右手を出しながら、御堂は口を開いた。
「佐伯、君がこうして手伝ってくれるのは助かっているが、かなり負担がかかっているだろう」
「別に。あんたの怪我は俺の責任でもあるし、期間限定だしな」
そう言いながら、佐伯は手際よく御堂の手首を固定していた装具のマジックテープを外していく。御堂はコホンと咳払いして言った。
「もし君さえ良ければ、この部屋に泊まったらいい。余っている部屋も寝具もある」
いまだに正体を明かさない男を家に泊めようとするなんて正気の沙汰ではない。そんなことはわかっている。だからこそ、近くで観察する時間を長くすることでこの男の魂胆を見極めてやるのだ。決してこの男に気を許しているわけではないし、ましてや恋人だと認めているわけでもない。そう自分に言い訳をする。
御堂の言葉に佐伯は虚を突かれた顔をした。そして、外しかけてた装具をふたたび御堂の手首に装着させる。
「なにをするんだ?」
「あんたの手首に負荷をかけるわけにはいかないからな」
「はい?」
佐伯のレンズ越しの双眸にある種の熱が宿っていた。ふたりの間の空気の色が変わっている。佐伯のなにかのスイッチを押してしまったと気付いたときには、ソファに押し倒されていた。
「な……、なにを……」
あっという間にシャツのボタンを外され、ベルトを緩められた。単に風呂のために服を脱がせたわけではない証拠に、佐伯の手が御堂の腹から下半身へと滑り込んでくる。同時に、キスを落とされた。唇や舌を甘噛みしながら、手で御堂の乳首やペニスを愛撫してくる。いままでにない性急な行為に慌てた足が宙を蹴った。
「んんっ、……はっ」
アンダーに潜り込んだ佐伯の手が御堂のペニスを握り込んだ。根元から擦りあげられ張り出したエラを指の輪で弾かれると甘ったるい吐息が零れてしまう。思わず腰が浮いてしまったところでアンダーごとズボンを脱がされてしまった。
佐伯は御堂の脚を開かせると、その間に自分の身体を割り込ませてきた。その体勢にある種の明確な意図を感じ取って、御堂は身を固くした。
「私が嫌がることはしないと言ったではないか」
「ああ、そう言った」
御堂に覆いかぶさった佐伯の指先が御堂の髪をやさしく梳いた。そして、くするぐように頬を撫でてくる。その手つきはまるで恋人にするような甘い仕草で、そう思った瞬間、鼓動が速くなる。
真上から見下ろしてくるレンズ越しの切れ長の双眸と視線が重なった。
「だが、こんな色っぽい姿で誘ってくる恋人を欲しくてたまらないというのも俺の本心だ」
そうまっすぐに告げられて、佐伯の中では自分と佐伯が恋人同士になっていることを思い出す。御堂は微塵たりとも承諾した覚えはないが、佐伯の御堂に対する態度は一貫して恋人に対するそれだ。
「誘ってなどいない!」
「そうか? この家に泊まっていいというのは同棲の誘いだろう?」
「違う、それはただ、君の負担を考えて……」
「分かった、分かった」
「いや、なにも分かっていないだろう! ……んっ」
御堂の抗議はキスで封殺される。佐伯の手が御堂のペニスに伸びた。舌で舌を舐(ねぶ)られながらペニスの張り出したえらを指の輪で弾かれると、あっという間に発情を導かれてしまう。先端からは盛んに粘り気のある液体が溢れ、佐伯の指と絡んで粘ついた音を立てる。毎度このパターンに持ち込まれてなし崩し的に佐伯のペースに持ち込まれてしまうのを分かっているから、御堂はぐいと佐伯の胸を押して顔を離し、距離を取った。佐伯の動きが止まり、薄い虹彩が御堂を見下ろした。佐伯のレンズには発情に頬を上気させた自分が映り込んでいる。そんな自分を意識の外に追いやって、佐伯を真剣な眼差しで見据えた。
「私は、君にとって一体何なのだ」
「俺の、ほかの誰よりも大切で特別な存在だ」
佐伯はその言葉を迷いなく口にする。しかしこの男の言葉を信じて良いのか。本心はどこにあるのか。だから、改めて、問う。
「君は誰だ……?」
「俺は佐伯克哉だ」
「違う」
「違わないさ。俺のことが信じられないのか?」
「ああ」
正直な御堂の反応に佐伯は笑った。
「それならたしかめて見ればいい。俺が佐伯克哉かどうかを」
そう言って佐伯は自分の服を脱ぎ捨て、御堂を抱き締めた。素肌が直に触れあい、体温と鼓動が重なり合い溶け合っていき、ふたりの間に淫らな熱がしみだしていくような感覚が生まれた。その熱はさざ波のように全身に行き渡りいても立ってもいられなくなる。
「御堂」
甘く蠱惑的な声で名を呼ばれた。佐伯は顔を寄せて唇をそっとなぞるようにしてから深くかみ合わせてくる。わずかに開いた唇から滑り込んできた舌に舌をくすぐられた。下半身の張り詰めた勃起同士が触れあい、押し合う。
佐伯が身体をずらし、御堂の首筋から乳首を口で愛撫した。同時に先端のぬめりを帯びた指が奥の窄まりへと潜り込んでくる。
「ん、……っ、よせっ、や……」
蹂躙された記憶にぎゅっと力が入り佐伯の指を拒もうとする。佐伯はそれ以上無理に進めようとせずに、周囲の襞をやわやわと揉みながら、頭を下に降ろし御堂のペニスを口に含んだ。
「……ぁ」
先端を濡れた舌に包まれて舐られたかと思うと、茎を口腔の粘膜に扱かれる。ペニスに気を取られているうちに、こぼれ落ちた唾液のぬめりを借りて窮屈な穴に指が潜り込んできた。身体がきゅうっと反応する。
忌まわしい記憶があるからこそ、その部分で感じるすべてを嫌悪していた。それなのに、ペニスを巧みに舐められながら、その根元にある凝りを身体の内側から刺激されると、生殖器をまるごと揉みしだかれるような強烈な刺激に身体が跳ねた。
「っ、ぁ、あああ」
足が爪先まで丸められてときどき痙攣したように突っ張った。あっという間に快感のボルテージが上がる。佐伯は御堂の快楽を巧妙にコントロールして、絶頂の一歩手前に留め置いた。
あと一歩で達することができるのに、迫り来る絶頂の気配に息を詰めた瞬間に刺激が途絶える。遠のく極みに身悶えているうちに、体内の指を増やされた。一刻も早く達したい苦しさに、切羽詰まった声で佐伯を呼んだ。
「さ、えき……っ」
「御堂さん、俺も苦しくてたまらない」
熱っぽい声とともに、窮屈な場所から指が抜けた。代わりに内腿に破裂寸前の固さと熱さを持ったものを押し付けられた。その感触に身震いする。
「イくなら一緒にイきましょう、御堂さん?」
蜜が滴り落ちそうな蠱惑的な声と眼差しで誘われる。
「佐伯……」
ぜえぜえと荒い呼吸を刻みながら、潤んだ眼差しで佐伯を見返した。佐伯と視線がつながる。この男を信じていいのか、この男に自分を明け渡してしまっていいのか。理性は警鐘を鳴らし続ける。
イきたくて苦しくて、白む思考のまま自分のペニスへと右手を伸ばした。その手も佐伯に掴まれて防がれる。いやなのに、そんなこと絶対許したくはないのに、御堂の快楽の手綱は佐伯に握られている。
佐伯が口の端を吊り上げて薄い笑みを浮かべて言った。
「俺を信用してください、……孝典さん」
名前を呼ばれてなにかが決壊した。「ああ」と頷いていた。佐伯がすっと息を吸う。その身体に力が漲るのが分かった。
緊張に耐えかねて、御堂は右腕を斜めに当てるようにして顔を覆った。佐伯に腰を引き寄せられる。強張りきった先端がヒクつくアヌスに宛がわれる。そこにぐうっと圧がかかった。
「あ、あああああ」
佐伯に貫かれ濡れた悲鳴が迸る。だが、佐伯の指に手懐けられた場所は佐伯を難なく受け入れていた。佐伯は根元まで押し込むと御堂の腰を抱え直して、さらに奥まで自分自身をねじ込んだ。これ以上なく深い結合に声にならない声を上げる。限界まで拡げられた身体の深いところで佐伯の形と熱を生々しく感じた。それが凌辱の記憶を呼び起こした。
「さ、えき……あ、んあっ」
止めてくれと言う前に、佐伯は腰を動かし始めた。御堂の中をすっかり自分の形にしてしまうと、先ほどまでの甘い愛撫とは打って変わって、佐伯の律動は容赦がなかった。重く腰を打ち付けて、深く、強く、突き入れられる。身体の奥深くまで佐伯に穿たれる衝撃に、開きっ放しの唇からは絶え間なく喘ぎが零れ続けた。
「っ、はっ、ああっ、ん、あああ」
佐伯の手がペニスに絡み、律動に合わせて擦りあげられる。身体の内側で感じさせられるのは屈辱でしかないのに、佐伯男としての快楽を煽りながら巧みに屈辱を快楽に塗り替えていく。腹の奥から痺れるような愉悦が込み上げてきた。
佐伯の動きが次第に忙しないものになっていく。佐伯は歯を食いしばり、眉間にしわを寄せる。レンズの奥の目許に朱が差して、欲情に濡れたが御堂を見つめる。その顔から余裕が消えていた。間際まで迫る絶頂を必死に堪えている。その顔があまりにも淫らで目が離せなくなった。佐伯は御堂の腰を鷲掴みにして引き寄せながらひときわ強く腰を打つ。
次の瞬間、ふわりと身体が浮き上がるような感覚の直後、一気に墜落した。
「っく、ぁ……ああ…っ」
四肢を突っ張らせながら腰を震わせる。大きな波に攫われるように熱を迸らせた。びくびくと粘膜が収斂し、それに誘われるように中に重たい奔流が注がれる。あまりに激しい体感に息が止まった。
身体をつなげたままぎゅっと抱き締められる。佐伯の熱い吐息を耳元で感じながら、この男とセックスをしているのだ、と実感した。
そっと佐伯の背中に手を回した。我知らず佐伯の引き締まった身体を抱き寄せる。
ひたりと隙間を埋めるように身体を沿わせ、長い時間、ふたりは抱き合っていた。