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【サンプル】柘榴綺譚

2020年4月26日発行『柘榴綺譚』サンプル

あらすじ:ハピエン、君臨エンド、嗜虐の果てエンドの克哉(眼鏡)が別ルートの自分へと入れ替わる。三人の克哉×三人の御堂の物語。

​サンプルでは、享楽の果実、絶望の果実、救済の果実の第一章を公開します。

A5/P140 1200円

(表紙:フルカラー箔押し付、本文モノクロ)

享楽の果実  
Pro
赤い部屋

 

 その部屋はいつも淫靡な空気が立ち込めていた。窓はなく、四方の壁を重たく赤いカーテンが緞帳のように垂れこめている。

 扉がどこにあるのかも一見して分からないが、人の出入りは常にあり、佐伯克哉はこの部屋をいつでも訪れることができた。この世界は、かつて克哉が生きていた世界と似ているようで一線を画している。この部屋こそ、克哉が王として君臨し、支配する世界であり、クラブRと呼ばれていた。

 何人もの奴隷が玉座に座する克哉の足元にはべり、克哉の歓心を得ようと媚を売った。克哉が一言命じればどんな痴態でも見せたし、それこそ鞭を振るえば、恍惚に包まれながら我先にと鞭の前に身を投げ出した。

 飽きやすい克哉のために次から次へと新しい奴隷が連れてこられた。克哉はその奴隷たちを欲望の赴くままに、凌辱し、虐げる。克哉によって使い物にならなくなった奴隷は気付かぬうちに視界から片付けられていた。だが、それに心を痛めることもない。ここはそういう場所なのだ。淀んだ欲望を掻き立て、消費する巨大な装置。それがここ、クラブRだ。

 しかし、どんな欲望も叶えられる場所であっても、同じような日々が続けば次第に倦んでくる。

 そんな克哉の鬱屈した感情を察したのだろう、黒衣をまとう男が静かに玉座の傍に寄り、恭しく頭を下げた。

 

「我が王、新しい奴隷を連れてきましょうか。あなたがお望みとあらば、誰であろうとあなたの従順な僕(しもべ)として傅(かしず)かせましょう」

「不要だ」

 

 鬱陶しそうに手を振ったが、その男はそれくらいでは引き下がらなかった。彼こそ克哉をここ、クラブRに連れてきた男、Mr.Rだ。濃い金色の長髪は緩く編みこまれ、丸眼鏡の奥の眸も髪と同じ金色だ。克哉に忠実な執事のように振舞いながらも、レンズ越し見詰められるその眸は爬虫類のように体温を感じない。Rは慇懃な笑みを浮かべながら、別の提案をしてみせる。

 

「それでは、久々に古い奴隷はいかがです?」

 

 そう言ってMr.Rは指をぱちんと打ち鳴らした。次の瞬間、克哉の足元に裸の男が蹲っていた。克哉はその男の名前を知っていた。

 

「……御堂か」

 

 御堂と呼ばれた男はなぜこの場にいるのか、胡乱げに周囲を見渡し、克哉と目が合った瞬間、怯えたように頭を下げた。首には黒いエナメルの首輪と鎖。体躯には首輪と同色のベルトが回されて、裸体を淫らに飾っている。

 

「人の身であったかつてのあなたを知る、稀有な存在。感傷に浸ってみるのも一興では?」

「どうだか」

 

 Rの言葉を鼻で嗤った。

 この男は、克哉が王になったとき献上された奴隷の一人だ。かつての勤務先の親会社の上司。それが彼だった。今は他と識別するために名字であった『御堂』と呼ばれているが、人間社会でエリートビジネスマンとして生きていた頃の御堂の面影は微塵もない。それもそうだ。今や御堂はクラブRの所有物である奴隷に過ぎない。奴隷としてふさわしい手入れをされている。従順さを叩き込まれ、不要であると判断された人格はそぎ落とされ、当時のことは何も覚えていないだろう。克哉の名前さえ、今の御堂には分かるかどうか怪しいものだ。言葉を発することもほとんどない。奴隷に会話など求められないのだ。口は悲鳴か喘ぎを紡ぐだけの器官だ。

 そんな御堂を連れてこられたところで、克哉の心は何ら動くことはなかった。ただ、この男を貶め、奴隷へと引きずり落とした時の興奮を思い出し、ほんの少し懐かしみを覚えただけだ。当時はなぜ、あれほどまでに愉悦を覚えていたのだろうか。

 ちらりと御堂を見ただけで、それ以上の興味を示さない克哉に、Rはわざとらしくため息を吐いてみせた。

 

「これも、我が王を満足させるには程遠いですか」

「ふん」

 

 返事をするのも億劫だ。ここでは、克哉が望むものが何であろうと献上され、思うがままに振舞えるこの世界。ここに来てからどれ程の時間が経ったのか分からなくなっていたが、ありとあらゆる享楽を味わい尽くし、もはや心を躍らせるようなことは無くなってしまった。思えば、Rも退屈していたのではないだろうか。だから、人間の世界に赴いては、自らが仕えるにふさわしい人物を選び、この世界に連れてきているのだろう。そして、克哉はRに認められてこの世界に王として据えられている。Rにとっては克哉こそ、退屈しのぎなのだ。克哉が、傲慢に、そして、残虐に振舞えば振舞うほど、Rは「それでこそ我が王にふさわしいお方」と喜び、いっそう頭(こうべ)を垂れる。だから遠慮などするつもりはなかった。

 

「退屈だ」

 

 そう冷たく言い放つ克哉に、Rは困ったように、それでいて、嬉しそうに笑みを零した。

 

「それでしたら、こちらはいかがでしょうか」

「なんだ?」

「今のあなた様におあつらえ向きの果実です」

 

 すると、Rはどこから取り出したのか、柘榴を克哉の目の前に差し出した。

 

 

「柘榴か」

 Rに手渡された果実を顔へと寄せた。甘酸っぱい香りとともに、茶色の果皮の間から真っ赤な果実が魅惑的に煌めいている。

 

「この果実は、むげんの果実」

「むげん?」

「夢幻でも、無限でも。お好きなように」

「何が起こる?」

 

 Rが持ってくる果実は単なる果物ではない。必ず、人知を超えた何かをもたらす。

 

「あなたの一人に享楽を、あなたの一人に絶望を、あなたの一人に救済を与える果実。いかがですか、試されてみてはいかがですか?」

「その言い方だと俺が複数いるように聞こえるな」

「ええ、その通りです」

 

 平然とMr.Rは肯定してみせる。

 

「可能性は無限にあり、その可能性の数だけ世界があり、あなたが存在します。この世界を基点に考えれば、可能性の世界は確率として存在するだけの夢幻(ゆめまぼろし)の世界ではありますが、他の世界を覗きみたいとは思われませんか?」

「他の世界か。想像がつかないな」

 

 自らが君臨するこの世界。玉座に座す今の自分以上に高みにいる自分は他の世界にいないだろう。となると、王ではない自分がいるというのだろうか。だが、誰かに使役されている自分というのは想像がつかないし、それが事実だとしたら受け入れがたい。

 

「俺に地上で這いつくばえと言うのか?」

「もちろん、食べないという選択肢もございます」

 

 そう言いながらもRは克哉が果実を口にすることを確信しているかのように、薄い笑みを保っている。

 

「いいだろう」

 

 と答えると、Rは唇を優美な弧の形にゆがめた。

 

「さあ、あなただけの果実をご堪能ください」

「ふん」

 

 この男が腹の奥底で何を考えているのか分からなかったが、だからといって誘いに乗らない手はなかった。結局のところ退屈しているのだ。この変わり映えしない世界に。行く先がどこであろうとも、自分はそこで望むものを手に入れることが出来るだろう。もちろん、望むものがあればの話だが、それだけの自信があった。

 そして、なんといっても柘榴は克哉の好物だ。こうしてRと契約を交わし、人からRの眷属となった今でも、人間だったのころの好みはそのままで、柘榴はひどく魅力的だった。たとえ、その柘榴が予想を超える出来事をもたらそうとも。

 手で柘榴を二つに割った。ルビーのような果実がいくつか零れ落ちていく。構わずに、柘榴に歯を立てた。

 鮮烈な酸味と甘み。硬い果肉から弾ける果汁が克哉の口の中をしとどに濡らし、溢れた汁が口の端を伝った。熟れきってない、青臭さがある柘榴だ。それでも、美味しく感じた。咀嚼すればするほど、新鮮で酸っぱい果汁が口内を浸し、唾液と混じりあった。気付けばすべてを忘れて柘榴を貪っていた。久しく忘れていた感覚が蘇ってくるかのようだ。

 唐突に、気が付いた。自分が求めていたのはこれなのだ。完璧に調律されたこの世界が物足りなかったのは、不完全なものがなかったからだ。自分の思い通りにならないもの、自分に抗うもの、それこそが克哉を興奮させるのだ。

 そう、かつて自分の周りにいた男たちを完膚なきまでに蹂躙し、屈服させたときのように。

(1)
​絶望の果実
二人の部屋

 

 間接照明の仄かな灯りに照らされた白い肢体がうねる。無駄のない筋肉が乗った男の身体だ。男を揺さぶるたびに、ベッドに投げ出された長い四肢が突っ張り、シーツに幾重もの影を波打たせた。

 

「さ、え…き、もう、無理だ……っ」

「もっと乱れて見せろ、――御堂」

 

 何度も繰り返し果てた身体をゆすり上げると、御堂は拒絶するように首を振った。

 頬は紅潮し、乱れた前髪は汗でべったりと額に張り付いている。

 

「よせ……っ」

「まだだ。俺は満足していない」

 

 御堂は涙で潤んだ眸で克哉を睨み付けた。その顔は、もう限界だと訴え、克哉にこの行為を終わりにするよう乞うている。だが、そんな表情こそ克哉を煽るのだ。

 御堂が忘我の境地に陥り、あられもなく泣き叫ぶところを見てみたい。快楽に溺れさせ、克哉をがむしゃらに求めさせてみたい。だから、御堂の訴えに気づかないふりをして、弱いところを狙って抉り抜く。「ひっ」と御堂が喉に閊えたような声を上げて、四肢を突っ張らせた。激しく揺さぶられて跳ねるペニスの先端からは透明な蜜が散らされている。御堂の眸の焦点がふっと遠のいた。これが御堂がドライで達するときの徴(しるし)だ。

 さらに突き上げると、御堂の身体がなまめかしく跳ねた。同じ場所を執拗に擦り、突き上げる。その度に、ビクビクと大袈裟なほどに痙攣する。絶頂の渦に取り込まれて、逃れられなくなっているのだ。

 

「も……やめて、くれ。さえ…き」

 

 哀願を帯びた掠れた声が何度も発せられた。もう、これ以上は無理だと御堂が告げている。だが、御堂を追い詰める動きを止められなかった。

 快楽を通り越して苦痛に歪む御堂の顔に嗜虐心を刺激される。もっと鳴かせたい。御堂を完膚なきまでに組み伏せて屈服させたい。そんな獣欲に唆されるその時だった。御堂の身体がくたりと弛緩した。揺さぶっても反応がなくなる。気を失ったかと動きを止めて、御堂の顔を覗き込んだ。

 

「御堂?」

 

 頬を軽く叩く。御堂の重たい瞼がうっすらと開いた。「大丈夫か」と声をかけようとした寸前、御堂の目が大きく見開かれた。

 

「――痛(つ)っ!」

 

 パシン、という乾いた音と共に、片頬に痛みを感じた。御堂に思い切り頬を張られたのだ。

 ハッと我に返った。御堂が真っ赤な目をして、克哉を見上げていた。しかし、視線が重なった途端、御堂が気まずそうに目線を落とした。

 

「……」

 

 ずるっと腰を引いた。粘膜が捲れて引き抜かれる感触に御堂が小さく呻く。

 

「シャワーを浴びてくる」

 

 行為を中断されて、劣情に重たくなっている身体を奮い立たせてベッドから降りた。

 

「佐伯」

 

 背中に御堂の声がかかった。

 

「私はこんなやり方は嫌なんだ」

「これが、俺だ。嫌なら俺との付き合いを考え直せばいい」

 

 それだけ言って、振り向きもせずに部屋を出た。背中には御堂の声が張り付いているようだ。

 

 ――やりすぎたか。

 

 後悔が心を掠めるが、それと同じだけの割り切れなさが込み上がってくる。克哉はバスルームでシャワーを浴びると、御堂がいる寝室には戻らず、自分の部屋のソファベッドで夜を明かした。

 

 

 

 巷(ちまた)ではコンサルティング会社が乱立し、仕事にあぶれたコンサルタントが乱暴な契約や質の悪いコンサルティングを行って社会問題になっていたりするが、克哉が経営するAA社(アクワイヤ・アソシエーション)はそんなトラブルとは無縁だった。起業以来、右肩上がりの、それも、快進撃と呼ばれるほどの業績を更新中だ。

 起業した当初は克哉と御堂の二人で始めた会社だったが、すぐに人手が足りなくなり、前の勤務先のMGN社から部下だった藤田を引き抜き、他にも事務員や社員を数人雇った。それでも最近は捌ききれないほどのコンサルティングを抱えている。事業の拡張は予定の内だ。だが、急ぎ過ぎると統制が利かなくなる。今でさえ克哉の独断専行で強引に仕事を進めているのだ。それでも問題なく仕事が回っているのは、副社長である御堂のかじ取りに依るところが大きい。御堂はなくてはならない人材だ。AA社にとっても、克哉にとっても。

 それなのに。

 克哉は、ふう、とため息をついて日帰り出張の新幹線の中でノートバソコンを開いた。出張の成果についての簡単な事務報告と、このまま直帰する旨を御堂のパソコンメールに送る。御堂はこの仕事の成否を気にかけていた。だから、電話で一報を入れてやれば喜ぶだろう。しかし、そうしないのは昨夜のわだかまりがまだ残っているからだ。

 克哉の強引さは今に始まったことではない。それでも、昔に比べて随分とマシになったことは御堂が一番分かっているはずだ。

 二人の間には口にするのも憚られるような出来事があった。すべては克哉の行き過ぎた行為のせいだ。しかしそんな克哉の元に御堂が自ら戻ってきたのだ。だからこそ、こうして共に会社を興し、二人で暮らしている。だが、ここ最近、ちょっとしたことで諍いが起きていた。プライベートの場でも仕事の場でもだ。大抵は強引に事を進める克哉を御堂が諫めようとして、衝突が起きる。自分に非がないとは言わない。しかし、もうこれは佐伯克哉という男の根幹なのだ。ちょっとやそっとでは性格は変わらないし、それを分かっていて御堂は克哉に付いてきたのではなかったのか。

 

 ――俺がその気になれば……。

 

 御堂を力づくで好きにできるのだ。そんな暗い嗜虐心をどうにか手懐けて抑えているから、二人が上手くいっているのを御堂は本当に理解しているのだろうか。

 苛立ちが燻ぶったまま克哉は新幹線から降りると、タクシーを拾って、会社兼自宅のあるビルへと向かった。外は茜色の光に染まっている。まだAA社に御堂も含めた社員の多くは社内に残っているだろう。それでも、むしゃくしゃした気持ちから、AA社のフロアは飛ばして自宅へと足を向けた。誰もいない部屋へと帰る。

 ドアを開けてコートを脱いだ。リビングの扉を開けて中に入る。ふとそこに、見慣れぬものが自宅のダイニングテーブルに置かれているのを見つけた。

 柘榴だ。

 柘榴が一つ、無造作にテーブルに乗っていた。

 なぜ、柘榴がこんなところに。

 御堂が用意したのだろうか。しかし、包装されているわけでも、皿に盛られているわけでもない。柘榴は克哉の好物だが、そうだと御堂に教えたことはない。

 不自然さを感じながら、テーブルに近づいて柘榴を手に取った。身が詰まった柘榴はずしりと重かった。茶色い果皮から覗く、熟れきった艶やかな赤さが目に眩しい。甘酸っぱい柘榴の芳香に誘われて、口の中に唾がたまる。唐突に、喉の渇きと飢餓感を感じた。瑞々しいこの果実を味わいたい。

 素性のしれない柘榴だ。もしかしたら、御堂のかもしれない。だが、そんなことを気に掛ける余裕はどこかに消え去っていた。抗いがたい誘惑に駆られ、柘榴の果皮をむしり取って噛り付いた。

 歯に果実がぷちっと潰される。果汁が弾け、克哉は顔を大きく歪めた。期待した果実の味ではなかった。口の中を占めるのは苦さと渋さだ。思わず果実から口を離して、口に含んだ果実を吐き出した。手の甲で口の中を拭う。あまりのまずさに口の中が麻痺したかのように痺れている。

 

「なんだ、これは」

 

 腐っていたのだろうか。それとも、渋柿のように、生では食べられない種類の柘榴だったのだろうか。見た目はごく普通の柘榴だった。それも、食べごろの。

 呻きながら手にある柘榴に視線を落とし、そして、視線を上げた。

 次の瞬間、目の前に広がる光景に克哉は息を呑んだ。

(2)
​救済の果実
御堂の部屋

 

 窓から夕暮れの光が差し込み、静寂が満ちる部屋をオレンジ色に染めていった。地平線を埋め尽くす高層ビル。そこに陽が沈もうとしている。それをじっと窓辺で見つめる車いすの人影が部屋に長い影を描いていた。

 

「眩しいですね。カーテンを閉めますか」

 

 克哉はカウンター式のキッチンから声を掛けた。だが、返事はなく、分断された静寂がすぐに戻ってくる。克哉は腰に巻いていたエプロンで手を拭くと窓辺へと足を寄せた。

 車いすに腰掛ける人物は表情なく窓の外を虚ろに見ている。やつれた顔、落ちくぼんだ眼窩は濃い陰影を刻んでいる。また、痩せたようだ。

 克哉は窓へと歩みを寄せ、御堂が虚ろな視線を向けているその先を見遣った。いくつもの高層ビルが立ち並び、空をいびつに切り取っている。高層階から見える景色は、生き物の気配を感じさせない。そして、沈む陽が空もビルも何もかもをオレンジ色に染め上げていた。きっと、世界が滅ぶときも、今、目にしているものと全く同じ黄昏を迎えるのだろう。

 この世界に何の未練もない。だから、次の瞬間に世界が消滅したとしても自分には何の感慨も湧かないだろう。だが、何のあと腐れもなく御堂と一緒に死ねると考えると、それは魅力的かもしれない。

 ほんの少しだけ感傷に浸りながら、克哉はカーテンを閉めた。高層階のリビングのカーテンは完全な遮光ではない。薄くなった陽の光は室内をかろうじて照らしている。車いすを押してリビングの真ん中へと御堂を連れて行った。

 ふう、と小さくため息をつく。そのため息でさえ、この部屋の中では大きく響いた。

 自分に残されているのは際限なく暗い闇と、息が詰まるほどの絶対の静寂。世界から取り残された疎外感はどこまでも深く、この部屋の隅々まで絶望感を染み渡らせているようだ。

 カーテンの隙間から西陽が部屋の真ん中にオレンジの線を引いた。克哉と御堂を分断し、そして、暗い世界へと沈ませていくかのようだ。

 御堂は微動だにしないまま、部屋の薄闇に染まっている。

 リビングの灯りを点けた。温かみのある暖色系のライトであるにも関わらず、リビングの寒々しさは変化がない。

 代わり映えのない日々を過ごす覚悟はとうの昔に決意したはずなのに、時折、どうしようもない想いがこみ上げることがある。

 いつまでこの生活を続ければいいのだろう。

 かつての華やかさと精悍さを兼ね備えた男は、どこかに消えてしまった。魂を失った、抜け殻のような身体を克哉への置き土産として。ガラス玉のような黒い瞳と力を失った身体はまるで人形のようだ。

 御堂は目覚めるのだろうか。

 数え切れないほど自問自答した問いは、答えを出せないまま胸の中にずっと淀んでいる。

 御堂がこうなった当初はすぐに意識が戻るはずだと思っていた。

 だが、その期待は日に日に削られていった。

 その一方で、自身がその事実に痛みや苦しみを感じているのかというと、むしろ無感覚に近い。すでに人間らしい感情を失ってしまったのではないかと思う。

 自分は、御堂に本当に目が覚めてほしいと思っているのだろうか。それさえもはっきりと答えられない。

 この生活から解放されたいと望む一方で、こうなってもまだ御堂を手放したくないと心の奥底で望んでいることも分かっていた。そして、克哉のこの歪な願いは克哉と御堂をこの部屋に捕らえて離さない。

 それでも、かつての御堂の姿を思い浮かべるたびに、無機物と化した心のどこかが軋む。

 

「そうだ、食事にしましょう」

 

 粘ついた思考の渦から逃れようと、克哉は一人呟いた。

 目の前のことに集中した。てきぱきと動き、御堂が嚥下しやすいようにと、とろみのついた流動食を準備する。自分の食事は二の次だ。御堂を優先するあまり、食事を抜くことも多々ある。

 御堂の首周りにタオルをかけ、食事が適度な温度になっていることを確認して、一口分ずつ匙に掬う。それを御堂の薄く開かれた唇の間に差し入れ、口の中にどろっとした食事を流し込むと、少し遅れて御堂の喉が上下する。それを確認して、次の一匙を掬う。そんな単調な作業を根気よく繰り返して食事を済ませる。

 ようやく食事を終えて、食器を片付けようとした矢先、克哉はダイニングテーブルに置かれた、見慣れぬ物体に目を留めた。

 

「柘榴……?」

 

 柘榴が一つ、テーブルの上に乗っていた。それは突然そこに現れたといっても過言ではない。ついさっきまではなかったはずだ。

 茶色く乾燥した硬い果皮とは対照的に、皮の裂け目から熟れてみずみずしい真っ赤な果実が覗いている。

 大きなそれを手に取った。ずっしり重く、甘やかな柘榴の香りが漂っている。

 その果実は自ら発光しているかのごとく、妖しいまでの艶やかな輝きを放っていた。

 克哉はごくりと生唾を呑み込んだ。

 この果実を味わいたいという、生々しい欲求が突き上げてくる。

 突然現れた果実は、明らかにこの部屋の中では異質な存在だ。理性が警鐘を打ち鳴らすのに、克哉は果実の誘惑を跳ねのけることができなかった。この静寂に包まれた部屋も、車いすに座らされたままの御堂も、どこか遠い出来事のように思えるくらい、柘榴の瑞々しい果肉は鮮烈に際立って克哉を誘ってくる。

 たまらなくなって、果皮を力任せに剥ぎ取ると、果実に歯を突き立てた。引き締まった果肉がぷつりと弾ける。口の中いっぱいに果汁が弾けた。熟しきった柘榴の味だ。それは、今まで食べたどんなものよりも美味しく感じた。

 貪るように口の中の果実に歯を立てる。実と汁が混ざりあい、どろどろのジュースになったそれを、喉を鳴らして嚥下する。目を瞑って味覚以外の感覚を遮断し、口の中の果実に全身の神経を集中する。

 こんなに夢中になって何かを食べるということはなかった。

 口の中の最後の果実を名残惜しく呑み込み、ゆっくりと目を開いた。

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