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​永遠よりも遠いところ
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ハピエン後、同棲後のメガミド。

​公私ともに順調にすごしていた二人だが、克哉が事故で記憶を失い、御堂に対する愛も執着もなくなってしまい……。

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 秋晴れの高い空の下で、びゅう、と強い風が吹きつける。

 天気予報では強風注意とあったが、予報どおりの夏の残暑を一掃するような鋭い風だ。目の前の海から吹く風は潮の香りを孕んでいる。

 御堂の手元に持った広場の見取り図が風で大きくはためいた。吹き飛ばされないように小さくたたんで持ち直しながら、うんざりとした口調で言う。

 

「いくら天気が良くてもこの風では屋外イベントはやりにくいな。雨が降れば人出にも影響が出るだろうし」

「俺たちが担当するときは天気が良いことを祈りたいな。それと、どこか落ち着いて食事ができる屋根付の休憩場所を作った方が良さそうだ」

 

 強風のせいで読みにくいことこの上ない見取り図と格闘する御堂の傍らでは、克哉が涼しい顔をしながらタブレット画面を覗き込んでいる。克哉はタブレット端末に全ての資料を放り込んできたようだ。

 東京ベイガーデンと呼ばれる臨界副都心最大の大規模複合開発エリアであるこの一帯は、ホテル、マンションだけでなく劇場型ホールなどのエンターテイメント施設、各種スポーツ施設を兼ね備えた一大エリアだ。

 そして、克哉たちがいるのはそのエリアの中心、イベント会場として使われる屋外の広大なスペースだった。広い敷地を持つ屋外広場の足元は芝生が敷かれているが、目の前には人工の砂浜と東京湾の海があり、連日様々なイベントが開催されている。休日ともなればカップルや家族連れで賑わう場所だ。

 ちょうど今は、半期に一度の大型イベントであるフードフェスが終わり、新しいイベントに切り替わるタイミングだった。御堂たちのすぐ脇では風にもめげずにフェスの撤収作業が急ピッチで行われている。

 克哉率いるAA社は、ちょうど半年後に開かれる春のフードフェス企画のコンサルティングを引き受けていた。現地の状況を確認するために、昨日まで行われていたフードフェスに何度か足を運び、そして今日、全てのブースが撤去され更地になるところをひと目確認しておこうとこの場に出向いたのだ。

 社を挙げての大型の依頼になるため、御堂も克哉についてやってきたのだが、会場に到着してすぐに後悔し始めていた。あまりにも風が強い。よりによってこんな日に撤収作業をしなくても良いと思うが、次のイベントの設営作業も控えている過密なスケジュールである以上、これくらいの風では作業を中止できないのであろう。

 こうしてわざわざ現地まで来たのは、現地には現地でしか気付けない利点と問題点があるからだ。それは実際に自分の目で見てみなければ理解できないもので、克哉はそれをよく分かっていた。だから、持ち前のフットワークの軽さで、必要とあらば何度でも現地へ出向く。そして、毎回、斬新で大胆なプランを作り上げるのだ。それは実際に運用してみれば驚くほど現場にフィットして、これ以上のものはないと思わせるような成果を生み出す。結果、AA社は起業して二年しか経過してないにも関わらず、飛ぶ鳥を落とす勢いで快進撃を続けている。

 現場を重視する克哉の視点は、客観的な数字を重視する御堂にはないもので、今回もフェスの開催中から克哉はこと細かに視察をしていた。

 昨日まで行われていたフードフェスは大盛況で、エスニック料理からラーメンまで手軽に食べられる人気料理が提供されるだけでなく、中央に設えられたステージで芸人やアマチュアミュージシャンが登場し、場を賑わせていた。結果、歴代フードフェス最高の集客数となっている。AA社が企画担当する次回のフェスも、今回の企画を踏襲するだけでも十分な賑わいが期待できるだろう。だが、AA社に期待されるのは更なる発展と飛躍だ。

 克哉はイベント広場の中央、小高く盛られている箇所に歩みを寄せると、そこから海を眺めた。人工の砂浜と東京湾、その海にかかるレインボーブリッジと対岸にひしめく高層ビルが視界の中に美しく収まる。

 克哉が御堂に向かって言う。

 

「ここにチャペルを置くのはどうだ?」

「フードフェスにチャペルだと?」

 

 チャペルというのは結婚式場によくある教会だろうか。訝しんで聞き返したが、克哉は「ああ」と頷く。

 

「チャペルだと宗教色が強いからな。……そう、もっとシンプルな、誓いの鐘みたいなのでいい。海がきれいが見えるこの場所に台座を置いて、気軽に鐘を鳴らせて、SNS映えするようなスポットを作りたい」

 

 克哉が言わんとしていることは分かった。だが、その意図は理解できず、御堂は質問を重ねる。

 

「どうしてそんなものがフードイベントに必要になのだ」

「脳の中で食欲を感じる中枢と幸せを感じる中枢はすぐ近くにあるらしい。だから、食欲が満たされると幸せになる。食事を食べて、幸せを感じたところで、何かを誓える場所があったらいいと思わないか」

 

 克哉はニヤリと笑って言う。

 

「恋人同士なら愛を誓えばいいし、友人同士なら友情を誓えばいい。一人で何かを願ってもいいし、家族で家内安全を祈願してもいい。そんな場所がフードイベントのど真ん中にあったら面白いだろう?」

「随分とまた突飛な案を出してきたな」

 

 そう言いながらも克哉の案を吟味する。克哉の話では誓いの鐘と神社の鐘がまぜこぜになっているし、実際にフェスのど真ん中にそんな鐘があれば、神聖さは元よりなくなり、ファッショナブルな意味合いのものになるだろう。だが、克哉はあえてそれを狙っているので、荘厳さは必要としていない。美味しい食事を食べたついでに、今の幸せを噛みしめ、思い出に残せるような気軽で特別な場所作りだ。

 フードフェスにそんなものを設置するなど前代未聞だが、克哉が言い出す内容は常に御堂の想定を超えてくる。問題は克哉がどこまで真剣にそれを口にしているかで、その本気度を確認してからの検討で良さそうだ。

 だからそれ以上は口を挟まず、何も聞かなかったかのようにしてその場を後にする。風は強さを増しているし、さっさと会場をひととおり確認してAA社に戻りたい。だが背を向けた御堂を克哉の言葉が足止めした。

 

「御堂、鐘ができたら、俺たちも誓おうか」

 

 足を止めて振り返れば、克哉のレンズ越しの双眸は悪戯っぽい輝きを宿しながら、御堂に挑むようにまっすぐな視線を向けている。

 

「AA社の発展をか」

「違う。あなたと俺の永遠の愛を」

 

 さらりと言い放つ克哉にぎょっとして周囲に視線を走らせる。幸いふたりの周りに人はいない。少し離れた場所で撤収作業しているスタッフたちも御堂たちを気にしている様子もない。それでも、どこに人の耳があるか分からない。咎めるよう低い声音で言った。

 

「馬鹿、変な冗談を言うな」

「俺は冗談を言っているつもりはないが」

「……永遠などと口にして恥ずかしくないのか」

「そうだな。永遠は言い過ぎだ。命ある限りの愛を、と言い換えるか。これから何が起ころうとも、この命尽きるまであなたを愛することを誓います、でどうだ?」

 

『病めるときも健やかなるときも、喜びのときも悲しみのときも、命ある限り愛することを誓いますか』

 

 結婚式の常套句が頭に浮かぶ。克哉もそれが念頭にあるのだろう。

 チャペルや誓いの鐘を口にしたことで、御堂をからかう言葉を思いついたのだろうか。この男にかかれば神聖な愛の誓いも平日の昼下がりに他愛なく口にする口説き文句に成り下がる。そこに敬虔さは存在しない。御堂はうんざりとした顔をする。

 

「佐伯、しつこいぞ」

 

 軽口を叩く克哉にきつく釘を刺そうとしたところで、御堂を見つめる克哉の眼差しが驚くほどに真摯で優しいことに息を呑んだ。克哉はゆっくりと口を開く。

 

「俺は本気だ、御堂」

「……」

「あんたも俺と誓ってくれるだろう?」

「それは……」

 

 御堂は永遠を夢見るような年頃ではない。そして、そんな言葉を軽々しく口にするには経験と年齢を積みすぎている。

 御堂と克哉は男同士だ。この国では同性同士の結婚は認められていない。同棲こそしているが、ふたりには何の保証も誓約もなく、気持ちひとつであっさりと別れることができる。そんな不確かなつながりしかないのは事実だ。

 だからこそ、克哉は永遠の愛を言葉にして誓うことで、もっと確かなつながりを築きたいのだろうか。だが、誓ったところでどうなるというのだろう。永遠などというものは存在せず、いくら永遠の愛を誓ったところで所詮は一時の自己満足に終始する。

 御堂は確約できない約束などしないし、何の保証もない上っ面だけの約束を口にする者は軽蔑していた。

 それでもいま、克哉の言葉を戯れ言だと一蹴できなかったのは、そこに克哉の真剣さを見たからだ。

 口籠もり、気まずさから目を足元に伏せたその時だった。

 

「危ないっ!!」

「な……っ」

 

 突然、鋭い声とともに克哉が飛びかかる勢いで御堂を抱き込んだ。咄嗟のことにバランスを崩して後ろに尻餅をつくようにして倒れ込むと同時に、克哉が覆い被さってくる。次の瞬間、大きな音と鈍い衝撃が克哉の身体を通して伝わってきた。

 激しくぶれた視界は克哉の身体によって塞がれて何も見えない。何が起きたのか。反射的に克哉の身体を手で押しのけようとしたが、克哉の呻く声が聞こえ、ずるずると克哉の身体が傾ぎ、御堂の上からずり落ちていった。

 反射的に克哉の身体を抱えたが、克哉の頭が御堂の肩にぐらりと落ちる。

 

「佐伯……?」

 

 自分の上で動かなくなっている克哉を目にして、ぞっとする。克哉の明るい色の髪の中に、赤黒い血がひと目でわかるほどに溢れていた。

 

「おい、佐伯っ!!」

 

 悲鳴のような掠れた声で呼びかけるが、克哉の反応はなかった。瞼は閉じられたまま、ぴくりとも動かない。微動だにしない克哉を抱えていると、駆け寄ってきたイベントスタッフの男性に止められた。

 

「頭を打っている。動かさない方がいい」

 

 昏倒した克哉と御堂の傍には、人の背丈ほどの看板が転がっていた。固定を外された看板が強い海風で吹き飛び、御堂たちの方に突っ込んできたのだ。そして、咄嗟に御堂をかばった克哉の頭に角がぶつかった。

 撤収作業に当たっていた他のスタッフたちも血相を変えて集まってくる。そのうちの一人が救急へと連絡する。

 しばし、呆然していた御堂だが、ハッと思い出してポケットからスマートフォンを取り出すと四柳へと電話をかける。腕の立つ脳外科医で、御堂の大学時代からの友人だ。

 

 

 

 救急車に乗せられた克哉は四柳がいる病院へと搬送された。四柳の手配によって搬送先の病院が早々に決まったのは幸いだった。

 克哉の頭を直撃した看板はアルミ製で軽量のものではあったが、鋭利な角がぶつかったようで、克哉の頭の傷からはおびただしい血が流れていた。

 御堂も救急車に同乗して克哉に付き添ったが、克哉の意識は戻ることはなく不安ばかりが煽られる。病院に着くなり御堂は付き添い者用の控え室に案内されて、やきもきしながら待機する。その間に、明日からのAA社の業務をどうするかを検討しつつ、藤田に現況とAA社に戻れない旨を連絡する。

 克哉がこのまま入院になってもしばらくは残りのメンバーでどうにかこなせそうだったが、AA社は克哉の手腕によってここまで大きくなった。克哉不在の期間が長引くとしたらどうなるのか、周囲に及ぼす影響は甚大だろう。

 

「御堂」

 

 ようやく四柳に呼ばれて、御堂は緊張した面持ちで診察室入った。

 ひととおり検査を終えた克哉は、ベッドの上に寝かされていた。

 

「佐伯……」

 

 恐る恐る声をかけると克哉はベッドに手をついて起き上がった。その姿を見てほっと胸を撫で下ろす。どうやら意識は戻っているようだ。

 克哉の後頭部の創部を覆うガーゼが痛々しい。克哉は御堂の方へと顔を向けた。

 

「御堂さん……?」

 

 どこかまだ現実に戻りきっていないぼんやりとした口調だった。いつもと表情が違って見えるのは眼鏡をかけていないせいだろうか。

 克哉に声をかけようとしたところで、四柳が一瞬先に口を開いた。

 

「ひととおり画像検査も行ったが、検査上、異常はなかった。看板がぶつかったところの傷くらいだ。頭皮は血流が多いから出血量も多くてびっくりしただろうが、意識もこのとおり戻っている」

「本当に大丈夫なのか、佐伯?」

 

 四柳の話を遮るようにして、克哉の元へと寄った。克哉は俯いて枕元に置かれていた眼鏡をかけると顔を上げた。

 見慣れた克哉の顔に戻るが、その眼差しは微かな困惑が滲んでいた。首を傾げながら御堂に尋ねる。

 

「俺はなんでこんなところにいる?」

「……君は、東京ベイガーデンの広場で、飛んできた看板にぶつかったのだ」

「東京ベイガーデン? 俺はそこにいたのか?」

「覚えていないのか……?」

 

 傷が痛んだのか克哉は顔をしかめて後頭部にそっと手を当てた。そこには分厚く重ねられたガーゼがある。四柳は克哉に言う。

 

「傷は縫ってある。もう出血は止まっているが、ガーゼは明日まで付けていてくれ」

 

 と落ち着いた口調で声をかけて御堂へと顔を向けた。

 

「佐伯くんはこのとおり、外傷性ショックで直前の記憶を無くしている」

「どういうことだ、四柳。さっき異常はないと言っただろう」

 

 詰め寄る勢いで四柳に言った。。

 

「僕の話を最後まで聞け、御堂。検査上異常がないと言っただけで、正常だとは言っていない。頭部外傷で頭に強い衝撃を受けた場合、記憶を失うことはままあることだ」

「記憶は戻るのか?」

「脳に損傷はなさそうだから、一時的なものだと思うが…。何か治療法があるわけではないし、こればかりは様子をみないと分からないな」

 

 そこまで言うと、四柳は克哉に顔を向けて尋ねる。

 

「佐伯くん、どうする? 一晩、ここに泊まって経過観察をしても良いし、家に帰ってもいい。だが、その場合は、御堂、しばらくは一緒にいて様子をみてやってくれ」

 

 御堂が答えるより先に克哉が口を開いた。

 

「それなら帰ります。お世話になりました」

「佐伯、今晩一晩くらい、ここで様子をみた方が良いのではないか。何かあったときに病院にいた方が心強いだろう」

 

 慌てて克哉を説得しようとするが、克哉はもうここに用はないとばかりにベッドから降りて立ち上がった。その動作はスムーズで安定感もある。

 四柳が説明をする。今は問題なくても、あとから頭の中に血腫を作ることもあるらしい。だから、意識障害や痙攣を起こすようならすぐに病院に連れてくるように念を押された。とくに怪我から一ヶ月間は要注意だそうだ。

 心配は残るが、克哉は入院する気はさらさらないようだし、幸い御堂と克哉は同棲しているので、夜間も気を配ることはできる。

 仕事復帰は問題ないようだが、夜だけでなく日中もなるべくひとりきりにしない方が良いだろう。

 ひとまず克哉の怪我が大事にならなかったことに、御堂は胸を撫で下ろした。

 

 

 

 診察を終え、克哉は受け取った自分の荷物や服をひとつひとつ確認し身に付けていく。その間に、御堂は救急外来の窓口で会計を済ませた。視線を感じて振り向けば、帰る準備を終えた克哉が黙ったままじっと御堂の手元を見つめていた。

 病院にいる間にすっかり日は暮れて、御堂たちは時間外出口から出て、タクシーに乗り込んだ。克哉は奥へと座り、御堂は克哉の隣に座る。

 タクシーが発車して、御堂は克哉に声をかけた。

 

「とりあえず、君が無事で良かった」

「そうですね。心配をかけました」

 

 御堂は深く息を吐いて言った。

 

「……君は私をかばって、こんな怪我を負ったのだ。私のせいだ」

「俺が、あなたを?」

「ああ」

 

 御堂を見るレンズ越しの双眸がわずかに見開かれる。克哉は覚えていないのだから仕方がない。克哉は御堂をじっと見詰めると、しばしの沈黙を挟んで言った。

 

「まあ、『俺』がそうしたかったからそうしたのだろう。あなたが気に病むことじゃない」

 

 他人事のように克哉はそう言って、窓の外へと視線を流した。

 なぜだか心がざわめくような据わりの悪さを御堂は覚える。

 克哉のほんのわずかな仕草、御堂を見る眼差し、御堂との距離、御堂への口調、そのひとつひとつが今までの克哉とはどこか違うように思えた。

 克哉は窓の外へ顔を向けたまま黙っている。話しかけるな、と拒絶されているようで、御堂もまた沈黙を保った。

 AA社のオフィスも入っている自宅マンションのビルの前でタクシーを降りると、克哉はまじまじと高層ビルを見上げた。克哉につられて御堂も頭上を見上げる。都内一等地である周辺一帯のランドマークとも言える巨大なビルが、輝きながらそびえ立っている。

 

「どうした? 何かあるのか?」

「いいや、別に」

 

 克哉はそうは言ったものの、動こうとしないので、御堂が先導するようにして建物の中に入った。御堂がエレベーターの階のボタンを押す間も、カードキーを使って自宅ドアを開ける間も、克哉は御堂の挙動のすべてを観察するかのような鋭い視線で御堂を見ている。

 御堂の胸の内に沸き立つ違和感は益々色濃くなっていた。

 普段の克哉とは違う。だが、頭部外傷の影響で、まだ少し混乱しているのかも知れない。

 そう自分を納得させながら部屋に入り、ネクタイを緩め自分のジャケット脱ぎながら克哉に顔を向けた。

 

「ジャケット、染みができてしまったな。朝一でクリーニングサービスに出すか」

 

 克哉のジャケットは襟元に血の染みができていた。克哉が脱いだジャケットを受け取ると、ハンガーを通して分かるように別にしておく。本当なら一刻も早くクリーニングに出したいが、マンションのコンシェルジュサービスもこの時間では終了してしまっている。

 

「食事でも頼むか?」

 

 色々あって食事を取る暇もなかった。せめて温かな飲み物でも出すかとダイニングに向かおうとしたところで、動けなくなった。唐突に克哉が背後から御堂を抱きしめたのだ。

 

「おい、佐伯……っ」

 

 克哉の腕から逃れて向き直ると、驚くほど近くに克哉の顔があった。間近で視線が重なる。

 克哉に顎を掴まれて、唇を押し付けられた。

 

「ん……っ」

 

 唐突に始まったキスに御堂は瞼を閉じた。探るように入ってきた舌に口の中をざらりと舐められる。

 その瞬間、不快な電流のようなものが身体を走った。

 克哉の肉厚な舌が縮こまる御堂の舌を強引に搦め捕る。胸に沸き起こる微かな疑いを確かめたくて顔を背けようとしたが、克哉はそれを許さない。御堂の気持ちを置き去りにキスを深めていく。

 克哉とのキスはいつも蕩かされるほどに情熱的だ。御堂のすべてを熟知しているキスは、御堂の官能を巧みに呼び起こす。だが今、克哉とキスをしているはずなのに、御堂の身体はいつになく強張り、拭いようのない違和感が御堂を支配する。

 このキスは克哉のキスではない。

 違和感がピークを越え、うっすらと目を開いた。目の前には克哉の顔、自分を見つめる眼差しがある。だが、その眸は御堂を冷徹に観察しているかのような冷ややかな鋭さを持っていた。

 ぞくりと首筋に寒気を感じた。御堂はぐっと克哉の胸を押して距離を取ると、無理やりキスを解いた。整わない呼吸を抑えつけながら、問う。

 

「君は、誰だ……?」

 

 克哉は薄い笑みを湛えたまま答える。

 

「誰って、佐伯克哉だ。よく知っているだろう?」

「……いいや、君は違う。私が知っている佐伯克哉ではない」

 

 一度、言葉にして否定すれば、胸に確信が宿る。

 克哉は眼鏡を押し上げながら御堂を見返し、そして肩を震わせて低く笑った。

 

「さすがだな。あの脳外科医はだませたのに。あんたは無理だったか」

「どういうことだ?」

「あの医者は俺が失ったのは当日の記憶だけだと思っている。だが、俺が失った記憶は三年分だ。スマホの日付で確認した」

「三年分だと……?」

 

 克哉は平然と言ったが、御堂は理解が追いつかない。

 

「……俺の記憶では俺はキクチ八課の所属で、あなたはMGN社の部長だった」

「なんだと…」

「俺の記憶にある最後の日付は…」

 

 克哉が口にした日付、それは確かに三年前だった。克哉の中ではちょうどプロトファイバーの営業を引き受けた時まで記憶が遡っている。

 

「では、君は今までのことは何も覚えていないのか? AA社のことも、この部屋も?」

 

 御堂の言葉に克哉は頷きつつ、周囲を見渡した。

 

「随分と良いところに住んでいるんだな。あんたの部屋か?」

「君が選んだ部屋だ」

「へえ……」

 

 克哉の言葉が確かなら、克哉は御堂に接待を要求され、御堂の部屋に上がり込んだことさえも忘れてしまっている。だから、以前の御堂の部屋を覚えていない。となれば、御堂と恋人同士だという認識もないだろう。それなら何故、御堂にキスをしかけてきたのか。

 

「佐伯、私のことまで忘れてしまったのか……?」

 

 わらにもすがるような気持ちで聞けば、克哉はレンズ越しの双眸を眇めた。御堂の顔の前に手首を掲げると、腕時計を見せる。そして御堂の左手首をぐっと掴んで引き寄せた。

 

「見てください、これ。あなたも俺と同じパテックフィリップを付けている。そして、どうやらあなたと俺はここに一緒に住んでいる。つまり、そういうことだろう?」

 

 パテックフィリップ社製のトゥールビヨンのそれは、相似の兄弟とも言えるふたりの腕時計だ。御堂のそれはかつて克哉から贈られ、克哉が付けているものは、御堂が克哉にお返しとして贈ったものだ。

 病院で会計をするときに克哉から感じた視線は御堂の腕時計を見ていたのだろう。それにしても、御堂はこれほどまでに動揺しているのに当の本人の克哉が鷹揚に構えているのはどういうことだろうか。克哉が言葉を続ける。

 

「それにすべて忘れたわけじゃない。わずかだがぼんやりと覚えていることもある」

 

 克哉の口元が冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「……あなたが、俺に抱かれて善がる姿とか」

「……っ」

 

 御堂の手首を握る克哉の手が得体の知れないものに覚えて、御堂は咄嗟に振り払った。自分の手首を掴み、そこに残る克哉の指の余韻を消し去ろうとする。

 

「君は……私の佐伯ではない」

「当然じゃないか。俺は誰のものにもならない」

 

 克哉は低く笑いながら言い、そして御堂を見つめた。

 

「だが、あんたは『俺の御堂』なのか?」

 

 克哉の眼差しは御堂を値踏みしているかのように不躾で遠慮がなかった。

 そのまとわりつく視線から逃れるように後ずさりした。心臓が不穏なリズムを刻みだす。

 もし克哉が記憶をなくしているとしたら、この場にいるのは過去の克哉だ。御堂を蹂躙し尽くした克哉が、今まさに御堂に牙を剥こうとしているのかもしれない。

 当時の痛みは遠のいてきている。克哉との幸せな日々を積み重ねてきたおかげだ。だが、決して忘れたわけではない。

 克哉に向ける視線に怯えが混じり、御堂の意識が恐怖に染め上げられていく。

 しかし、克哉はそれ以上御堂を追い詰めることはしなかった。ふっと雰囲気を和らげて、軽い口調で言う。

 

「そんなに警戒しないでくれ。不本意なのはお互い様だ。だが、こうなった以上、上手くやっていくしかないだろう」

 

 そう言って肩を竦めてみせる克哉は、この事態を楽しんでいるようにも思えた。

 酷薄な笑みを滲ませた口元、油断のならない光を宿す双眸。

 御堂の目の前にいる克哉は、よく知っている姿形をしていながらも、恋人の克哉でもかつての嗜虐に満ちた克哉でもない。見知らぬ誰かのようだった。

(2)
2

 朝の気配がカーテンを通して伝わってくる。

 御堂は静かに目を覚ました。ゆっくりと起き上がり、ベッドの反対側へと視線を巡らす。

 そこには克哉が眠っていた。傷口が枕に当たるのが不快なのか、御堂に背中を向けた横向きの体勢で寝息を立てている。

 結局、昨夜はこのベッドの端と端で寝ることにしたのだ。

 記憶を失った克哉は御堂の知らない克哉で、克哉もまた御堂と恋人同士あることは頭では理解していても記憶を失っている。そんな克哉と昨日までのように一緒のベッドで寝るのは抵抗があった。

 昨夜、克哉は克哉で、寝室を覗いて、

 

「普段は一緒に寝ていたのか」

 

 と平然とした顔で言い、横で複雑な顔をしている御堂へと顔を向けた。

 

「あなたは俺と寝るのは嫌だろう? 俺はリビングのソファでもいいが」

「しかし……」

 

 この家にベッドはこの一台しかなく、ゲストルームや客用の布団もない。克哉の部屋にはソファベッド、リビングにはソファがあり、そこで寝ようと思えば寝ることができる。だが、頭に怪我を負っている克哉のことを考えると、四柳に言われたとおり、何かがあったときにすぐに気が付くように傍にいた方がよいはずだ。

 御堂の逡巡を察したのか克哉が口を開く。

 

「じゃあ、一緒に寝るか」

 

 その言葉にぎくりと身体を強張らせた御堂に、克哉が喉を震わせて笑う。

 

「別に何もしないさ。まあ、俺が信用できないなら別々に寝るが」

「……いいや、君を信じる」

 

 正直なところ、この克哉をどこまで信じることができるのか判断がつかない。克哉は御堂との忘れているにもかかわらず、御堂にキスをしかけてきたのだ。それ以上のことをされないという保証はない。しかし、記憶を失っているとはいえ元は御堂の恋人の佐伯克哉なのだ。疑うことよりも信じることから始めるべきだろう。

 覚悟を決めた御堂に克哉はちらりと目配せをする。その視線は御堂の反応を面白がっているようにも思える。

 

「じゃあ、お先に」

 

 部屋着に着替えた克哉はさっさと奥側のベッドに収まった。

 御堂もまた、克哉からなるべく距離を取るようにしてベッドの端に潜り込んだのだ。そして朝まで、克哉は言葉どおり御堂に触れることは一切なかった。

 ベッドに手をついて御堂は起き上がると、克哉の顔をまじまじと見つめた。

 こうして見る限りは普段と変わらない克哉の姿だ。昨日あった全ての出来事が全部悪い夢だったのではないかと思えてくる。

 そのまま克哉の寝顔を眺めていると、克哉の長い睫が震え、静かに目を開く。御堂は息を詰めるようにして様子を窺った。克哉は少し不思議そうな顔で天井を眺め、周囲を見渡し、呟いた。

 

「ああ、そうか。ここが俺の部屋か」

 

 眠気を振り払うようにして克哉は頭を振ると枕元の眼鏡を手に取り、御堂へと顔を向けた。

 

「……おはようございます」

「佐伯……おはよう」

 

 克哉は記憶を探るかのように目を眇めて強い視線で御堂を見つめ、無表情に挨拶する。その仕草から、克哉の記憶は昨夜のまま戻っていないことを知った。

 巻き戻ってしまった時間。今日にはすっかり元どおりになることを願っていたが、希望的観測は打ち砕かれる。だが、諦めたわけではない。明日こそ記憶を取り戻すのかも知れない。

 ふたりして起きると、シャワーを浴びたがる克哉のために、頭のガーゼを恐る恐る剥がしてみた。

 周囲の髪には血がこびりついていたが、傷口はしっかりと縫い合わされていて、痛々しさはあるものの、膿んだり出血したりはしていないようだ。傷痕が残ったとしても、髪に隠れて見えないのは幸いだった。

 克哉をバスルームに案内し、バスタオルを脱衣所に出すついでに着替えを準備しておく。

 御堂はキッチンへと戻り、コーヒーを淹れたところで、タオルで洗い髪を拭いながら克哉がバスルームから出てきた。

 ダイニングテーブルで向かい合ってパンとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませる。テレビのニュースを流せば、克哉はニュースの話題について御堂に質問してくる。三年間の世の中の変化は目まぐるしいようで克哉の興味は尽きないらしい。そして、ようやくひと息ついたところで、克哉が御堂に視線を向けた。

 

「それで、あなたにとって、俺はどんな関係なんだ?」

「公私ともに私のパートナーだ」

 

 御堂と恋人同士だというのは理解していても、いまだに実感が湧かないのだろう。それに、この部屋は自分の部屋だと教えられても、克哉は何故この部屋に住んでいるのかも知らないのだ。克哉は質問を重ねる。

 

「昨日、AA社(アクワイヤ・アソシエーション)とか言っていたな。それは何だ?」

「コンサルティング会社だ。君と私で共同経営している」

「ということは、あんたはMGNを辞めたのか?」

 

 わずかに驚いたような顔をして克哉は御堂を見た。

 何の衒(てら)いもなく御堂にそう尋ねる克哉に、この男は本当に記憶を失っているのだと実感する。

 御堂は感情を乗せない声で答えた。

 

「ああ。私の後任は君だった。だが、それも一年で辞めて、君はAA社を起業した」

 

 その間にあった紆余曲折を省略して御堂は答えたが、もちろん克哉はその部分に食いついてきた。

 

「それで、どうしてあなたと俺が付き合って、そして、一緒に会社まで経営することになったんだ?」

「それは、当事者が知っていればよいことだ」

 

 興味津々といった口調で聞いてくる克哉に、御堂は目を伏せて淡々と告げる。

 

「俺は当事者ではないと?」

「少なくとも今の君は違う」

 

 そう冷たく返せば、克哉は不満げに黙り込んだ。

 触れられたくない過去とは言え、克哉も記憶を取り戻したいからこそ、こうして御堂に訊いているのだ。配慮のない言い方だったと反省しながら話題を変えた。

 

「佐伯、今日は仕事を休んで、四柳のところに受診しにいかないか。もう一度よく調べてもらおう」

「四柳…? ああ、昨日の医者か……」

 

 克哉は小首を傾げて記憶を探る素振りを見せる。克哉は四柳とは顔見知りだったはずだが、それも当然忘れてしまっているようだ。

 ややあって、克哉は言った。

 

「行く必要はない」

「こうして三年分も記憶を失っているのだ。改めて診察してもらった方が良い」

「どうして? 頭部外傷で記憶を失うことはままあることだと言っていただろう。それに、治療法もないとも。だから、時間の無駄だ」

「しかし……」

 

 確かに克哉の言うことにも一理ある。それに病院に行く気がない克哉を説得するのは至難の業だ。ひとまず御堂が四柳に内々に連絡して対応を相談した方が良いだろう。

 頭の中でそう算段し、御堂は早々に譲歩した。

 

「分かった。それなら、今日は仕事を休んで家にいろ」

「どうしてだ?」

「どうして……って、君は記憶を失っているから今の仕事のことは分からないだろう」

「だからこそ、職場に復帰して仕事を学んだ方が良いだろう? いつ記憶が回復するかも分からないし、このまま記憶が戻らないことだってあり得るんじゃないか」

 

 そう言われてひんやりとした不安が御堂の胸をざわめかした。

 もし克哉の記憶が戻らなかったらどうなるのだろう。

 この克哉と上手くやっていくことができるのだろうか。

 だが、と思い直す。起こりうるか分からない未来のことに頭を悩ませても仕方がない。次の瞬間にはふとした弾みで克哉が記憶を取り戻すかもしれないのだ。

 それに、急変の可能性もあり得る。家に一人で残すよりは御堂や他の人間の目があるところで過ごさせた方が安心だろう。また、普段過ごしている環境に戻れば、何かしら思い出すこともあるかもしれない。

 御堂は頷きつつ言った。

 

「分かった。出勤しよう。社員やクライアントにも余計な不安は与えたくないからな」

 

 そう言って、大きなため息を吐く。

 

「それにしても……。君は随分と平気な顔をしているのだな。三年分も記憶を無くしているというのに」

 

 もし自分が克哉の立場だったらどうだろう。昨日までMGN社の部長のデスクに座っていた自分が、目が覚めたらコンサルティング会社を経営し、克哉と恋人になっていたとしたら恐慌に陥っているだろう。その翌朝に、こんな風に平然と出勤できるとは思えない。

 克哉は涼しい顔をしたまま言った。

 

「悩んでも仕方ないだろう。現実がそうだしな」

「まるでこういうことに慣れているかのようだ」

「そうかもな。俺にとっては良くあることなのかも知れない」

「……以前にもこのようなことがあったのか?」

 

 さらりと返された言葉に驚いて克哉を見返した。探る視線で克哉を見つめるが、克哉の表情は揺らぐことなく、冷ややかな口調で答える。

 

「当事者だけが知っていればいいことだ」

 

 

 

 

 始業時間前に御堂は克哉を連れて出勤した。執務室の克哉のデスクを教え、社員名簿を渡す。業務内容は多岐に渡り、ひとつひとつを細かく説明する余裕はなかったが、克哉の元来の頭の良さはそのままで、御堂の端的な説明でも飲み込みは早かった。

 克哉が頭部外傷を負ったことは昨日、藤田を通じて社員に伝えている。だが、記憶喪失になっていることまで知られたら社員だけでなくクライアントまでが動揺するだろう。だから記憶喪失については伝えず、調子が戻るまでしばらく仕事をセーブすると社員に説明している。

 ひとり、またひとりと社員が出勤してくる。皆、克哉を気遣い挨拶をするが、克哉はにこやかに挨拶を返している。

 御堂はなるべく克哉のフォローをする気ではいたが、克哉が抜けた分まで仕事をこなさなければならず、克哉に付きっきりになるわけにもいかない。どうなることかとやきもきしたが、克哉は立派に社長としての体面を保っていた。社員に話しかけられれば、にこやかに応える。自信に満ちあふれ落ち着き払った様子は、とても三年間の記憶を失っているとは思えないし、そう言われても信じられないだろう。四柳を騙しきったのもうなずける。

 克哉は他人の機微に聡く、すっと懐に入るのが上手いのだ。天才詐欺師のように、思いどおりの自分を相手に印象づけることができる。その能力は天性のものなのだろう、三年分の記憶を失ってもなお健在だった。

 結局、その日、怖れていたような事態は起きず、平穏に一日が終わった。

 本来のコンサルティング業務から外された克哉は、自分のデスクで過去の仕事についてまとめた資料を貪欲に読みあさっていた。自分が手がけた仕事の数々を確認し、丹念に読み込んでいるのだ。

 御堂は御堂で忙しい業務の合間を縫って四柳に連絡を取った。克哉が三年分の記憶を失っていることを告げると、電話口の四柳は驚いたようだったが、落ち着いた口調で言った。

 

『逆行性健忘だな』

「逆行性健忘?」

『受傷時から過去に遡って記憶を失ってしまうことだ。頭部外傷や脳の病気で起こる』

「治るのか?」

 

 四柳は考え込むように数秒沈黙し、慎重な口調で言った。

 

『回復する場合が多いが、残存する場合もある。記憶は個人差が大きくて評価が難しいんだ。……どちらにしろ、特別な治療法はないから様子を見るしかないな』

 

 と期待した言葉は得られないまま終わった。

 夕食は記憶の手がかりになればと、ふたりで時折行っていた自宅近くのレストランに連れ立って行ってみたものの、克哉の様子に変化はなかった。それでも、メニューを眺めた克哉が注文するものは普段と変わらず、食事やアルコールの好みはこの三年間変化がなかったのだと知る。

 自宅に戻ると克哉は自分の部屋やパソコンを確認していたが、そこにも記憶のめぼしい手がかりはなかったようだ。

 そして、翌朝になっても、さらに数日経っても、克哉が記憶を取り戻すことはなかった。表情に出さないようにして失望する御堂の前で、克哉は淡々とした顔でスーツを着込み、AA社に出勤する。

 AA社での克哉は、御堂が期待した以上に社長らしく堂々と振る舞っていた。記憶はなくても適応力は抜群でAA社の仕事も少しずつこなし始めた。

 試しにクライアント企業の業績や収支の資料を渡し、現状のアセスメントを任せてみれば、細大漏らさず的確に問題点をあぶり出してくる。三年分の知識と経験を失ってしまったが、持ち前の鋭い分析力や勘の良さで足りない部分をカバーしているのだ。

 克哉が書いたレポートを読んで、御堂は感嘆して言う。

 

「すごいな。以前の君と変わらない切れ味だ」

「これくらい当然でしょう」

 

 御堂は心から克哉を褒めたつもりだが、克哉は大して嬉しくもなさそうに返した。さらに、これ以上の無駄話は不要とばかりに、他の資料に目を通し出す。御堂は開きかけた口を閉じて、黙ったまま自分のデスクに戻った。

 やはりこの克哉は御堂の恋人の克哉ではない、と理解する。互いに口数が多い方ではなかったが、会話の節々や交わす視線に相手に対する愛情が見え隠れしていた。しかし、この克哉にはそれがないのだ。御堂に対してことさら冷たい態度を取るわけではないが、かといって必要以上に近寄ることもない。あくまでも他人に対する距離の置き方で御堂に接してくる。

 こうして表面上は平穏な日々が経過するが、御堂はこの克哉にどう接するべきか態度を決められないままだった。今日こそはと、起きてくる克哉の顔を見るが、克哉の御堂に向ける眼差しの冷淡さは変わらない。

 おかげで克哉との同棲生活はすっかり様変わりしてしまった。

 仕事を終え、共に食事を済ませたあとは、克哉は夜更けまで自分のパソコンの中のファイルを漁り、疲れが溜まるとシャワーを浴びてベッドの片側に寝る。御堂も反対側のベッドに潜り込む。互いに背中を見せるようにしてベッドに入ったが、御堂は落ち着かなかった。

 背後の気配を探っていると少しして克哉の規則正しい寝息が聞こえてきた。御堂はゆっくりと身体の向きを変えて、寝入る克哉を見つめた。疼くような熱が御堂の下腹の奥にわだかまっている。克哉の分まで仕事を負担しているおかげで身体は疲労の極致だ。それでも、淫らな欲求を感じてしまい目が冴え冴えとしてしまう。

 こうなる前までは毎晩のように身体を重ねていた。行為の最中に意識を失うようにして眠りに落ちるのもざらだ。だが、今、克哉の気配が隣にあるのに、まるで御堂に無関心なのだ。御堂に触れることも一切ないし、愛情を示すこともない。御堂に手を出さない、と克哉は言ったが、そもそも克哉にとって御堂に手を出す動機もないのだ。

 記憶を無くす前の克哉は理由もなく御堂に触れてきた。克哉は他人に対してはどこまでも冷淡であるのに、一度恋人になると、どこまでも濃密に愛を求めてくる。子どものような無邪気さと貪欲さで、御堂の心も身体も、そして魂までも深く求めてきたのだ。克哉にせっつかれるようにして同棲をして、甘く幸せな日々を過ごしていたのに、どうしてこうなってしまったのか。

 かつての克哉を思い出し、御堂は無意識に下腹に手を伸ばした。そのまま欲求不満にくすぶるペニスに触れそうになり、自らの淫らな衝動を必死に堪える。

 克哉に会いたくてたまらなかった。隣にいる佐伯克哉ではなく、御堂の恋人の佐伯克哉に。

 

 

 

 

 克哉が事故に遭ってから一週間ほど経過したその日、終業時間をとうに終えても御堂の仕事は終わらなかった。

 あの日以来、御堂の業務量はうなぎ登りに増えている。少しずつ克哉に仕事を教えているが、まだ克哉にすべての仕事を任せるわけにはいかず、その分御堂へ負荷がかかっているのだ。

 自分のデスクで一心不乱にキーボードを叩いていると克哉に声をかけられた。

 

「御堂さん、先に上がってもいいか?」

「少し待っていてくれ。すぐに仕事を切り上げるから」

 

 御堂は時間を確認し、随分と克哉を待たせてしまっていたことに気が付いた。

 手持ち無沙汰の克哉はもうパソコンをシャットダウンして、帰り支度を終えていた。

 御堂がいま取りかかっているのはクライアント企業の業績レポートのチェックで、社外秘の書類であるため、自宅に持ち帰って続きをやるということもできない。締め切りも迫っており、できれば早めに仕上げてしまいたい。

 そんな御堂の悩ましげな顔を察したのか、克哉が気を利かせて言う。

 

「俺は先に帰るから、あなたはひと段落つくまでやるといい」

「そうはいかない。君をひとりきりにするのは心配だ」

「俺がひとりの時に倒れるのを心配しているんだろう? もう一週間も経過したし、心配しすぎじゃないか」

「四柳は、一ヶ月間は注意しろと言っていた」

「だからといって、四六時中見張る必要はないんじゃないか」

 

 克哉は呆れたような顔で言う。御堂からすれば克哉を心配しての行動だったが、克哉としてみれば監視されているようで息苦しいのだろう。克哉は緩く首を振って、御堂を安心させるような口調で言った。

 

「少し気分転換に近くのカフェでコーヒーでも飲んでくる。それなら人の目もあるし良いだろう?」

「カフェか……。まあ、それなら…」

 

 御堂としても、この報告書を今日のうちにまとめてしまいたい。

 それに、克哉も御堂に四六時中傍にいられるよりは、気分転換の時間が必要だろう。

 御堂は克哉の提案を受け容れ、部屋に戻る時間を約束してオフィスを出ていく克哉を見送った。

 そして、時間きっかりに仕事を終えて部屋に戻る。玄関のドアを開けて中を覗いたが真っ暗だ。

 

「佐伯?」

 

 玄関に克哉の靴はなく、照明を付けて中に入ったが、部屋はもぬけの殻だ。まだ帰ってきてないのだろうか。

 携帯を確認したが、何の連絡も入っていなかった。

 あともう少しで戻ってくるのかも知れない。

 そうは思っても、最悪の事態が頭に浮かぶ。克哉は約束した時間を守らないような粗忽な人間ではない。不安に煽られて克哉の携帯に電話をかけた。コールの数を数えていると、八コール目でようやく克哉が電話に出た。

 

『御堂さん?』

 

 克哉の声に安堵するが、良く耳を澄ませば背後が騒々しい。音楽や人々の話し声が電話口から響いてくる。とてもカフェにいるとは思えない。

 

「佐伯、どこにいる?」

『気分転換に飲みに行っている』

「酒とタバコはなるべく控えろと四柳に言われただろう」

『俺なりに、なるべく控えているさ』

 

 克哉が含み笑いをしながら答える。その背後から「ねえ、誰? もしかして恋人とか?」と若い男性の媚びたような声が聞こえた。それに対して克哉が『同僚だ』と小声で答える。背後から聞こえてくる喧噪、そして、克哉の周囲にいる人種。想像力がなくても、克哉がどんな場所にいるかありありと頭に浮かぶ。

 

「佐伯、直ちに戻ってこい」

 

 強めの口調で言えば、克哉は面倒そうに『分かったよ、今から戻るから』とひと言残して電話を切った。

 苛々としながら待っていると、数十分経過してようやく玄関のドアが開いた。御堂はすぐに玄関に向かう。克哉はスーツ姿のままだが、首元のネクタイとシャツのボタンは外されて、しどけない姿になっている。御堂は片眉を吊り上げて問いただした。

 

「こんな時間までどこで飲んでいたのだ」

「こんな時間て、あんたは俺の保護者か何かか? それとも、この部屋には門限でもあるのか」

「ちゃんと戻る時間を約束したろう」

「それは、悪かったな」

 

 悪いとはまったく思っていない顔で克哉は御堂の脇をすり抜けてリビングへと向かう。その後を追った。

 

「佐伯、君は頭を怪我しているのだ。四柳も言っていただろう。一ヶ月は注意しろ、と。君が一人の時に倒れたりしたら、手遅れになるかも知れないのだぞ」

「あんたの言いたいことは分かっている。だから俺も相手が見つからなかったときは大人しく家に帰るつもりだったさ」

 

 克哉の言葉を理解すると同時に、もしやという不安が的中したことを知る。意識せずに低い声が出た。

 

「……君はそういう目的で店に行ったのか」

「それ以外に何の目的がある?」

 

 開き直ったかのような態度。言葉を失う御堂に、克哉は唇の端で笑う。

 

「安心しろ。この部屋には連れてこない。それなら良いだろう?」

「は?」

 

 克哉の直球の言葉に鼻白んだ。

 

「君は、他の誰かと寝るつもりなのか」

 

 怒りに声が険しくなる。だが、克哉は御堂の怒りをそよ風ほどにも感じないようだ。薄い笑みを保ったまま言う。

 

「そりゃ、俺は健康な成人男性ですからね。溜まるものだってある」

「私たちはこうして一緒に暮らす恋人同士なのだぞ」

「恋人ねえ」

「……少なくとも、元の君はこのような軽率な行動はしない。記憶が戻ったときに後悔するような行動は慎みたまえ」

 

 御堂の恋人だった克哉は、御堂以外の人間に目を向けることは決してなかった。ただ一人、御堂だけをどこまでも深く愛していた。ふたりきりの関係に、他の誰かを介在させるようなことは克哉が許すはずがない。

 克哉は鋭い視線を御堂に向けた。

 

「それだったら……あなたが『恋人』としての務めを果たしてくれるのか?」

「――っ」

 

 克哉は『恋人』という言葉を口の中で転がすようにして呟いた。

 言葉を詰まらせた御堂に、克哉は歩みを寄せた。

 克哉の指先が御堂の頬から顎へと滑る。顎を掴まれて正面を向かされた。すぐ間近に克哉の顔があった。レンズ越しの双眸が御堂を射竦める。すっと顔に顔を寄せられて、御堂は反射的に顔を背けた。耳元で克哉がククッと低く笑った。

 

「ほうら、あんたは俺とのキスを拒否する。もちろん、愛はなくてもセックスはできる。だが、そんな状態で、俺とセックスなんてあんたには無理だろう? だから、俺は外で相手を見つける。その何が問題なんだ?」

「それは、よせ……っ!」

 

 いくら目の前の克哉に御堂と恋人だった時の記憶がないとはいえ、佐伯克哉の肉体を有しているのだ。その克哉が他の誰かと寝ると想像しただけで息ができなくなる。

 

「俺はどちらでもいい。一夜限りの相手でも、あなたでも。快楽さえあればいい。男同士のセックスなんてそんなものだろう?」

 

 まじまじと克哉を見返した。そこにいるのは御堂を愛することも、無理を強いることもない、佐伯克哉の姿形をした克哉ではない別の誰かだ。

 御堂は身体の横に下ろした拳をぐっと握り込んだ。込み上げる感情を必死に抑え込む。

 克哉は御堂の反応を愉しんでいるように目を細めて御堂を見ている。

 克哉の言うとおりだ。この克哉とのキスは違和感しかなかった。そんな克哉とキス以上の関係を結ぶことができるのだろうか。それでも御堂は覚悟を決め、掠れた声で言った。

 

「私が君の相手をする。だから、私以外の人間に手を出すな」

「俺が、『あなたの佐伯』でなくても?」

 

 克哉の唇が酷薄な笑みを作った。御堂は克哉の目を見つめたまま頷いた。

 克哉が御堂へと歩みを寄せ、顔を覗き込んだ。その目元がふっと緩み、和らげた声で言う。

 

「まあ、これでもあんたには感謝しているんだ。世話になっているしな。だから、本番をしろとは言わないさ。あなたが俺を満足させてくれるなら、他には手を出さないと約束しますよ」

 

 

 

 克哉とともに寝室へ向かった。克哉の視線を感じながら服を脱いでいく。

 室内は空調が効いていてちょうど良い室温に保たれていたが、素肌に触れる肌はひんやりとして冷たく感じた。

 克哉はそんな御堂をじっと見つめている。服を脱ぐ気配はない。

 下着一枚になってどうしたものかと迷ったが、克哉に何かを言われる前にアンダーも脱ぎ去った。

 何一つ身に付けていない裸の姿で克哉の前に立った。

 

「悪くない身体だ」

 

 そう言いながら、克哉の視線が御堂の頭から爪先まで振られる。御堂を品定めしているかのような不躾な視線だ。克哉は御堂に一切触れることもなく、言う。

 

「じゃあ、俺の前で自慰してみてください」

「何……」

「オナニーですよ、オナニー。それともマスターベーションと言えば分かるか?」

 

 克哉の不躾な言葉に羞恥と怒りで顔が赤くなる。

 

「そんなことをしなくても、君がしたいようにすればいいだろう」

 

 ベッドの上で主導権を握っていたのはいつだって克哉だ。覚悟はしているのだ。かつての時のように、拘束するなり玩具でいたぶるなり、好きにすれば良い。

 そんな破れかぶれな気持ちで吐き捨てたが、克哉は表情を変えぬまま言った。

 

「別にあんたをどうかしたいと思ってない」

 

 克哉の口から温度のない言葉がこぼれ落ちる。

 金槌で頭を殴られたかのような衝撃に言葉を失った。この克哉にとって、自分は特別な存在でないことを痛切に思い知らされる。御堂の恋人の克哉でもなく、かつての御堂を蹂躙し尽くした克哉でもない。そこにいるのは御堂に何の興味も抱いていない克哉だ。

 

「早い話、気持ちよく出せればいい。つまり、あんたで俺が興奮することができるのか、確かめたいだけだ」

 

 克哉の本音に鳥肌が立つほどに身体が冷え切っていく。御堂は今の克哉にとって性的な対象にすらならない可能性もあるのだ。

 これほど侮辱的な言葉を吐かれて屈辱的な扱いを受けて、頭の中が真っ白になる。

 だが、御堂に断るという選択肢はなかった。自身が受ける恥辱以上に、克哉の身体を他の人間に汚させるわけにはいかない。それに、克哉は御堂とは本番行為はしないと言っているのだ。自分が痴態を見せることで克哉が満足するならそれで良いではないか。

 そう御堂は自分に言い聞かせる。そんな御堂をあざ笑うかのように克哉は言った。

 

「俺を引き留めたいのだろう? せいぜい色っぽく乱れてみせろよ」

 

 御堂は屈辱を飲み込み、だまったままベッドに乗り上がり、克哉に見えるように脚を広げて座る。そして、自分のペニスへと指を伸ばした。

 克哉は寝室の窓辺に置かれたチェアに腰かけて足を組んだ。

 ぎこちなく自身に指を絡めた。右手の親指と人差し指で輪を作り、根元から自分を擦りあげる。まだ柔らかい自分自身に刺激を与え始める。

 自分でするのはいつぶりだろう。

 克哉と過ごしている時は毎晩のように身体を重ねて、出すものもなくなるくらいに搾り取られていた。だから、自慰などする必要がなかった。

 しかし、克哉が記憶を失ってからは、御堂もまた克哉同様、欲求を感じても自らの内に押しとどめてきた。それが当然だと思っていたからだ。

 それなのに、こうして自慰をしてみれば、緊張からかいくら擦りあげても自身が硬くなる気配がない。

 痺れを切らした克哉がからかう口調で言う。

 

「あんた、性的不能(インポ)か? それとも抱かれすぎて男として機能しなくなったのか?」

「……黙っていろ」

 

 克哉にきつい語調で釘を刺し、目を瞑り、克哉を想像した。自分の手の感触に克哉の手を脳裏で重ねる。克哉が身に付けるフレグランスのかすかな香りが鼻先を掠めた。途端に、ざわりと肌が粟立ち、びくりとペニスが反応する。手の中でどんどん硬さを増す自分自身を巧みに刺激する。えらの張りだしを指の輪で弾き、幹に絡めた指を滑らかに動かし、敏感になっている亀頭を優しく擦る。

 頭の中で克哉を思い描き、克哉の指を、体温を重ね合わせるほど、後ろが切なく疼いた。

 

「は……、ぁ…っ」

 

 先端からは蜜があふれ出し、指を濡らしていく。その蜜を擦りつけるようにしてさらなる快楽を目指した。右手だけでなく、左手も使う。右手の輪で幹を扱きながら左の手のひらで亀頭を擦る。頭の中が霞み、呼吸が速くなり手のリズムに合わせて腰が揺らめいた。克哉に見られているということさえも忘れて、腰を浮かせながら激しく高みへと駆け上がっていく。

 全ての感覚が遠ざかり、ふっと意識が跳んで、弾けた。身体がぶるりと震えた。

 

「さ、えき……っ!」

 

 達する瞬間、克哉の名前を呼んでいた。前だけいじって得た絶頂は久々だったが、直線的で鋭い快楽に貫かれて、頭がクラクラする。肩で息をしながらぼんやりと顔をあげた。

 御堂を見ていた克哉と視線が合い、克哉に自分の自慰を見られていたことを思い出した。

 絶頂後の空しいような寂寥感が胸にぽっかりとした穴を開ける。

 克哉が立ち上がり、御堂の前に立った。

 

「見せて」

 

 克哉に言われて、手を開いた。ねっとりとした白濁が精臭とともにさらけ出される。

 

「あんたも随分とため込んでいたんだな」

 

 自分が出したものをまじまじと見つめられて顔がカッと赤くなる。克哉が枕元のティッシュボックスを御堂に渡した。手を汚した精液をティッシュで拭い取ったが、心には拭いきれない屈辱がこびりついている。

 

「じゃあ、次は俺のを舐めて」

 

 そう言って、克哉は自分の前を寛げた。そこにはアンダーを押し上げるようにして、形を成した克哉のペニスがある。御堂に興味がないと言っていた克哉も御堂の自慰姿を見て興奮したのかと思うと、複雑な感情が胸に宿る。

 克哉を見上げたまま動けないでいると、克哉が言った。

 

「本番はしないと言っただろう? これは本番じゃない」

 

 確かに克哉は、本番はしないといった。だが、これでは本番行為以外なら何でもすると言っているのと同じだ。

 動けない御堂を前に痺れを切らした克哉が言う。

 

「別に、嫌ならいい」

「……嫌だとは言っていない」

 

 御堂はのろのろとした動きで、克哉のアンダーに手をかけると、顔を寄せた。

(3)
3

 克哉が記憶を失ってから二週間が経過した。

 土曜日の日中、御堂は克哉と共に四柳の病院を訪れていた。頭の傷の抜糸を行うためだ。抜糸自体はスムーズに終わり、傷口もほとんど分からないほどきれいに塞がっていた。

 

「若いからかな。傷の治りが早いね」

 

 白衣姿の四柳はあっという間に処置を終えて、克哉に向き直った。

 

「御堂から聞いたが、三年分の記憶を無くしていたそうだね。何の記憶も戻ってこない?」

「ええ」

 

 克哉は四柳にその事実を隠していた。だが、四柳は責める様子もなくあくまでも穏やかな態度で克哉に尋ねる。

 

「断片的にも思い出したりしないのかな?」

「そうですね。何かを思い出しそうなこともありますが、これといったものは何も」

「そうか。生活に不便はないか?」

「いいえ、御堂さんが良くしてくれますからね」

「よかったな。頼れる相手が身近にいて」

「ええ、随分と俺のことを気遣って、あれこれ世話を焼いてくれています」

 

 克哉の言い方に含みを感じて、背後に付き添っていた御堂は緊張に身を強張らせた。

 そんなふたりの間の張り詰める緊張感に気付かぬ様子で、四柳は言う。

 

「検査で確認する限りは脳に異常はないようだから、記憶は失われたわけではなくて、思い出せないだけなのだろう。あまり焦らず、のんびり構えているといい」

「四柳、記憶を回復させる手段はないのか」

 

 御堂はたまらずに口を開いた。四柳から御堂へと視線を向ける。

 

「言っただろう、記憶のメカニズムは複雑で医学的にどうこうできるものではないんだ。ただ、待つしかない」

「……」

「四柳先生、お世話になりました。それでは」

 

 記憶は必ず戻るのか、いつ戻るのか。聞きたいことはたくさんあった。それでも、確たる答えはこれ以上返ってこないことも分かっていた。

 当の本人の克哉は、まるで他人事のような態度で立ち上がると、四柳に黙礼し診察室から出て行こうとする。

 診察室のドアに克哉が手をかけたところで、四柳が御堂に声をかけた。

 

「そうだ、御堂。来週末の川村のバチェラーパーティー、参加するだろう?」

「それは……」

「出ないのか? みんな、お前が出席するのを楽しみにしているぞ。たまには顔を出したらどうだ?」

 

 四柳から不意に投げかけられた誘いに、御堂は顔を曇らせた。

 バチェラーパーティー、結婚式前夜に新郎が友人たちと独身最後の夜を楽しむパーティーだ。今回、大学時代の友人である川村が結婚することになり、店を貸し切ってのバチェラーパーティーに誘われていた。

 だが、御堂はその参加を渋っていた。MGN社を辞めてから、友人たちとの会合にはほとんど顔を出していない。

 自分のことで精一杯だったこともあるし、克哉と再会してからは、独占欲の強い克哉が、御堂が友人たちと会うのを嫌がったからだ。

 それに今は、御堂は克哉が外に遊びに行くのを禁じている。そんな中、自分だけ飲みに行くとのはさすがに不誠実だろう。パーティーへの参加は断って、川村には個人的にお祝いの品を贈るのが妥当なところだろうか。

 

「四柳、悪いが今回は見送ろうかと……」

「行ってきたらいいじゃないですか」

 

 断ろうとしたところで克哉が口を挟んだ。驚いて克哉を見ると克哉はにっこりと社交的な笑みを浮かべている。

 

「御堂さんは、俺を心配してずっと俺につきっきりだからな。たまには気分転換してくれば良い」

「しかし……」

 

 御堂は口ごもる。

 むしろ克哉こそ、御堂が不在の間に遊びに出かけるのではないのか。そんな疑念を知ってか知らずか、四柳はのんびりとした声で言う。

 

「それなら、佐伯くんも一緒に来たらどうだ? 今回の主役の川村も再婚ということもあって、気軽で緩い飲み会だ。パートナーや参加者の友人も参加OKだ。僕以外にも君と面識がある奴も何人か来るはずだ……あ、すまない」

 

 そこまで言って、四柳は自分の失言に気付いて即座に謝る。記憶を無くした克哉にとって、見知っているはずの人間の方が見知らぬ人間よりも負担が大きいのだ。

 だが、克哉の返答はあっさりしたものだった。

 

「お気遣いなく。俺は酒もタバコも控えた方がいい身ですから、大人しく家にいますよ。御堂さんと四柳先生はどうぞ楽しんできてください」

 

 そうまで言われると断りづらい。御堂は乗り気ではなかったが、四柳に一次会だけ参加すると約束する。

 不意に、記憶が蘇った。

 桜が散る公園。偶然出会った友人の誘いを渋る御堂を、克哉が柄にもなく参加するように勧めたことがあった。あのあとから、克哉は不安定になり、御堂と克哉の間に多くのことが起こった。

 今の克哉があのときの克哉に重なる。一度は通じ合った心が、はるか遠くに隔絶されてしまうような感覚。

 また何か起こるのだろうか。

 いや、まさに今、その渦中に克哉も御堂も巻き込まれているのだ。

 

 

 

 

 克哉の部屋のリビングは秋の空の澄んだ陽射しに満ちていた。明るい光に晒されながら、御堂は口いっぱいに克哉の硬くなったペニスを頬張った。

 

「ふ……、んっ」

 

 ぴちゃぴちゃと淫らな水音が響く。ソファに座っている克哉の開いた脚の間に跪いた御堂は、一心不乱に舌を蠢かせる。口内の粘膜で克哉のペニスを扱くと、潮気のある液体が口の中に広がった。くびれを舌先でくすぐり、亀頭を口蓋の粘膜で擦る。

 克哉に口や手で奉仕することが日課になっていた。

 この日も、四柳の病院から帰ってくるなり、克哉に要求されて始まった口淫だ。

 頭を大きく上下に動かして奉仕していると、克哉の手が御堂の頭を掴んだ。克哉の腰が浮き、容赦なく口腔内に自身を突き込んでくる。喉の奥まで犯されて、嘔吐きたくなる自分自身を抑えて、克哉のペニスを深くまで迎え入れた。

 御堂を見下ろし、克哉は眼鏡の奥の目を細めた。

 

「随分と献身的だな。『俺』に仕込まれたのか? それとも、あんたはもてただろうからな。他の男のもこうやってしゃぶってやっているのか?」

「く……、んんっ」

 

 克哉の口調の端々に御堂をいたぶる愉悦が滲む。

 返事をしようにも、克哉に頭を強く押さえつけられて、口内深くを蹂躙される苦しさに喘いだ。

 それでも、克哉が御堂に奉仕を要求するときには、言葉に強制の響きはない。御堂がひと言断れば、この克哉はあっさりと退くのだろう。なぜなら御堂に対する執着もなにもないからだ。ただ、肉食獣の仔が本能の衝動に唆されるまま、目の前の獲物をいたぶって遊んでいるだけだ。

 この克哉にとって相手は御堂である必要はないのだ。御堂が断った瞬間に、克哉は御堂以外の別の相手を求めるだろう。

 克哉の身体が他の誰かに触れることを想像すると、吐き気にも似た嫌悪感が込み上げてくる。だから、弄ばれるような恥辱的な奉仕にも断ることなく即座に応じていた。

 克哉が記憶を失ってから、こうして半月も一緒に暮らしても、克哉との距離が縮まる気配はなかった。克哉にとって、御堂は一緒に暮らしている他人に過ぎず、こうして自分の性欲に御堂を奉仕させても、御堂に対しては都合の良いセフレ以上の感情は抱いていないのだろう。

 それでも今、口の中にある性器はまさしく克哉の形をしていて、滲みだしてくる蜜も克哉の味だった。苦しいはずなのに、口で繋がった部分から熱い痺れみたいな感覚が身体の奥底に流れ込んでくる。

 克哉が欲望のままに御堂の口内を乱暴に犯す。克哉の良いように口を使われている恥辱はあったが、御堂の股間は触れもしないのに痛いほどに張り詰めていた。克哉の欲情が伝染したのだ。

 

「――ッ」

 

 克哉が喉で低く唸る。御堂の口内でびくりとペニスが跳ねた。びゅくびゅくと濃い精液が吐き出され、御堂はそれを零さないように口で受け止める。

 

「見せてみろ」

 

 克哉に言われて口を開けた。精液の白濁に塗れた舌、それを見て克哉が満足げに唇の端を吊り上げる。克哉の見ている前でコクリと精液を何回かに分けて呑み込んだ。粘ついた液体が、ゆっくりと腹の中に落ちていく。変わらない、克哉の味だ。

 

「美味しそうに飲むじゃないか」

 

 そう言って、克哉の爪先が御堂の股間をなぞった。それだけで腰が砕けそうな疼きが走る。

 

「ひ、ぁ……っ」

「あんたも臨戦態勢じゃないか。お返しに俺がしゃぶってやろうか?」

「っ、結構だ…っ」

「じゃあ、あんたがするところ見てやろうか? それだけでも興奮するだろう?」

 

 拒否の返事代わりに克哉をきつく睨み付けて、濡れた口元を手の甲で拭った。

 克哉が求めれば、手や口で克哉に奉仕するし、克哉が見せろと言えば、克哉の前で淫らに自慰をしてみせる。それでも、克哉から自分の身体に触れさせることはしなかった。幸い、この克哉は御堂に対する興味も執着ない分、御堂が拒否すればそれ以上追ってくることはない。

 御堂の身体は克哉を深く覚えている。キスは拒絶できても、克哉に一度陥落させられた身体は、恋人ではない克哉であっても浅ましく媚びてしまうだろう。克哉に蹂躙されたときでさえ、あれほど反応してしまったのだ。そして今も、克哉のペニスを咥え、克哉の視線に晒されるだけで、御堂の身体は切なく疼いてしまう。

 克哉に反応してしまった身体を抑え込むようにして、御堂は足に力を込めて立ち上がった。克哉は御堂に顔を向けて言う。

 

「あんた、変わったな。俺の記憶にあるあんたは、死んでもこんなことはしそうになかったけどな」

「確かに私は変わったが、君だって変わったのだ」

「俺が? まあ、あんたと恋人になるくらいだから変わったのだろうな」

 

 大して興味もない素振りで返事をし、克哉は立ち上がって満足したペニスを下着の中に押し込めると手早く服の乱れを整える。御堂に向き直った克哉は、先ほどの淫らな余韻を微塵も感じさせない。

 一方の御堂は、解放できなかった欲望が下腹の奥にくすぶったままだ。

 口の中の惨めさを噛みしめる。シャワーですべてを洗い流して、自分の中にわだかまる熱も何もかも消し去ってしまいたい。

 克哉に背を向けてバスルームに向かおうとした御堂を、克哉の声が引き留めた。 

 

「なあ、御堂。いつまでこんなことを続ける気だ?」

 

 振り返ると克哉が怜悧な眼差しで御堂を見つめていた。

 

「……君の記憶が戻るまでに決まっているだろう」

「あんたの希望的観測だろう、それ」

「なんだと?」

「俺の記憶は戻らずに、あんたと恋人だった俺も戻らない。そんなことだってあり得るとは思わないのか?」

 

 御堂があえて考えないようにしてきた可能性を鋭く抉ってくる言葉だった。動揺を悟られないよう、御堂は克哉を正面からまっすぐに見返した。

 

「君は記憶を取り戻したくないのか」

「そうだなぁ……」

 

 と克哉は考え込む素振りを見せる。

 

「戻ってきた方が色々便利だろうが、ないならないでどうにかなりそうだしな」

「な……」

 

 唖然として言葉を失う。

 克哉の声音にはどこにも失った記憶を惜しむような響きがない。

 克哉は記憶と共に御堂とのつながりも失ってしまったのだ。それさえも不要だと言わんばかりの言い様にふつふつと怒りが込み上げてくる。

 克哉は口元に薄い笑みを張り付かせて言う。

 

「もし、あんたが心待ちにする俺の記憶が戻らなかったら、あんたは半年でも一年でも俺のモノをしゃぶり続けるのか?」

「それは……」

「仕事では常に、状況に応じてのプランを最低でも二つは用意するだろう? それなのに、なんであなたは俺の記憶が戻ると愚直に思い込んでいるんだ? あなたらしくない視野狭窄ぶりじゃないか」

 

 返す言葉はなかったが、それでも抗議の意を込めて克哉を睨み付けた。

 たしかに、克哉が記憶を取り戻す気配はなかった。

 克哉とよく行った店や場所に連れて行ってみたりしたが、克哉は何の反応も示さない。

 AA社では、日々、克哉に任せられる業務が多くなっている。しかし、それはかつての自分の仕事ぶりを思い出したと言うよりは一から新たに学んだと言った方が正しい。

 

「君が記憶を失って、たかだか二週間だ。結論を出すのは早すぎるだろう」

「この二週間で傷は治ったが、俺は何も思い出さなかった。二週間で得られなかったものがもっと時間をかければ得られると考えるのは短絡的じゃないか?」

 

 克哉が言う言葉がいちいち正しくて反論すら思いつかない。

 

「なあ、御堂さん。あんたにも俺が記憶を取り戻すという確証はない。ただ、そう信じたいだけなんだ」

「……信じては駄目なのか」

「信じてもあんたの期待どおりの結果が得られるとは限らない。そんなことは分かるだろう?」

 

 いつの間にか指先がかじかんだように冷たくなっていた。掠れた声を絞り出すようにして言う。

 

「……それならどうすれば良いのだ」

「こう考えればいいんじゃないか? 俺たちの恋人関係は終わったんだ」

「終わった?」

「ああ、良くあることだろう? 恋人関係はいつか終わりがやってくる。それが今だ。そう考えればあんたも納得いくんじゃないか」

「恋人関係を終わりにするには当事者同士の合意が必要だろう。君は私が付き合っていた克哉とは別だ。勝手に終わりにされても納得できるわけがない」

 

 当事者同士の合意が必要だと御堂は言ったが、恋人関係が終わるときは必ずしも合意があるわけではない。一方的に別れを告げられることもあれば、唐突に別れが訪れることもある。たとえば、恋人が突然亡くなったりすれば、心の準備もできないまま理不尽な別れを否応なく突きつけられるだろう。

 しかし、克哉は目の前にいる。記憶さえ回復すれば、以前のような幸せな日々を取り戻すことができるのだ。この克哉は御堂との間にどれほどの衝突があり、憎しみがあり、そしてそれを乗り越えてきたか知らない。だから、勝手なことが言えるのだ。

 御堂は、毅然とした態度で言った。

 

「私は諦めない」

 

 そう宣言する。

 

「佐伯は必ず戻ってくる。それまでの間、君に軽率なことはさせない。君を守るのが私の役目だ」

 

 強い視線で克哉を見据えれば、ややあって、克哉はすい、と御堂から視線を外した。

 

「まあ、あんたが諦めるか、俺が飽きるまではこの関係を続けるさ」

 

 そう言って、克哉は何がおかしいのか低く笑った。

 今度こそ踵を返してバスルームへと向かう。

 いつの間にか身体の昂ぶりはすっかり冷め切っていた。

 もし、克哉が記憶を取り戻さなかったらどうなるのか。

 克哉の言葉が心の中に重く沈み込んでいった。

4

 状況は何も好転しないまま時間だけが経過していく。

 克哉と御堂の関係は変わらぬままで、克哉は毎日のように御堂に奉仕を要求し、御堂もそれに粛々と応じている。

 幸いなのは、克哉は約束を守る律儀さは持ち合わせているようで、御堂の目を盗んで勝手に出歩くことはしなくなった。

 克哉はAA社でも御堂に割り当てられた仕事を文句も言わずにきっちりこなしている。他の社員に対する対応も完璧で、部下への指示やフォローの仕方を心得ている。クライアントへの折衝を克哉一人に任せることはしなかったが、きっと任せたら任せたで社長の肩書きに相応(ふさわ)しい役割をそつなくこなしてみせるのだろう。

 しかし、御堂の恋人だという自覚は皆無で、そうであったことは理解していても、御堂に対する恋慕の情は欠片ほども抱いてないし、それを隠そうともしない。もう少し互いに歩み寄ることができればと思うが、本人にその気がなければ御堂の努力も空回りするだけだろう。

 週末の夕方、御堂の友人のバチェラーパーティーが開催される日になった。御堂は克哉に改めて確認したが、克哉は御堂が友人たちと会うことに何の興味もないようだった。「どうぞお好きに」と言われて、御堂は一次会だけ顔を出そうと家を出た。

 立ち並ぶ高層ビルに切り取られた空には、灰色の雲が重たく垂れ込めている。夜半から雨が降りだすとの天気予報だったのを思い出した。傘は持ってこなかったが、いまさら上層階にある克哉の部屋まで取りに戻る気も起きない。雨が降る前に店を出ればいい、と道路の幅寄せで客待ちをしているタクシーに乗り込んだ。

 都心部にある貸し切りにされたレストランは、こぢんまりとしていながらも洒落た店で、御堂が到着したときには、すでに二十名近くが集まっていた。

 特にドレスコードなどはなかったが、御堂を始めとしてきっちりとスーツを着こなしている者がほとんどだ。東慶大学の同期を集めたこの手のパーティーは、友人同士の気軽な会といいつつ、ビジネスのための社交場としての側面も強い。東慶大出身者はいずれも政治や経済の要職に就くことが約束されている。コネクション作りにこのパーティーを活用しない手はない。だから御堂も懐には名刺を多めに忍ばせている。AA社にとって有益なつながりも期待できるはずだ。

 受付で記名し、店の中に入った。食事はブッフェスタイルのようで、中央のテーブルには豪勢な料理が並び、飲み物は各自がバーカウンターで受け取る形式だ。

 御堂が乾杯用のアルコールを受け取ったところで幹事の一人がマイクを取った。簡潔に挨拶をして、今夜の主役の川本にマイクを渡す。いっせいに拍手と冷やかしの言葉が飛び交う中、川本は参加者へのお礼と挨拶を述べる。そして乾杯の音頭と共にパーティーが始まった。

 あまり気乗りがしないままこの場に来たが、店の中は懐かしい顔ばかりで自然と顔が綻ぶ。

 御堂は忘れないうちに義理だけは果たそうと川本の元へと向かう。

 

「川本、結婚おめでとう」

「久しぶりだな、御堂。今日は参加してくれてありがとう」

 

 満面の笑みを返されて、さっそくホストの川本の歓迎を受ける。事前に用意していたご祝儀を渡そうとしたところであっさりと断られた。

 

「前の式の時にもらっているからな。今回は要らないって言っただろう?」

「だが……」

「むしろ、二回も祝ってもらって悪いな」

 

 そう言って、川本は屈託なく笑った。

 再婚を茶化されながらもこれほどの人が集まり、川本を祝うのは、本人の明るく快活な人柄故だろう。御堂も素直にご祝儀を懐に仕舞う。

 川本の式は再婚ということもあり、身内だけで挙げるとのことだ。川本は大学卒業と同時に交際していた女性と結婚したものの、互いに社会人になったあとはすれ違いが多くなり、数年で離婚していた。参加している面々は、いずれも御堂と同じ東慶大の同期で見知った顔が多い。今回のパーティーが川本主催でパーティーの費用もすべて川本が持っている。それは、前の式の時にもらったご祝儀のお詫び、ということらしい。

 川本の最初の式に、御堂は新郎側友人として参列していた。

 式場のチャペルに新郎新婦が入場し、神父の前へと進む。今よりも若い川本と美しく着飾った花嫁に神父が尋ねる。

 

『その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を分かつまで愛し慈しむことを誓いますか?』

『誓います』

 

 そう、二人は宣言し、生涯の愛を誓ったはずだ。

 それなのに、今や相手への誓いをなかったことにして、別の相手に同じ誓いを立てる。

 そんな形ばかりの誓いにどれほどの意味があるのだろう。

 もちろん、川本は現実を十分に知る大人だ。そんな口先だけの誓いに意味がないと分かっていても、必要とあればいくらでも口にするだろう。

 川本が御堂ににこやかに笑いかける。

 

「御堂は結婚の予定はないのか?」

「残念ながら今のところはないな」

「早く結婚しないと、俺に二周も差を付けられているぞ」

「それは自慢できることではないだろう」

 

 御堂の切り返しに、周囲が笑う。

 川本が自ら再婚をネタにしてしまうのは、周りに気を遣わせない彼なりの社交術なのだろう。

 

「そう言えば、前の奥さん元気か?」

 

 別の友人が横から口を挟んだ。尋ねる内容のきわどさにひやりとするが、そこは気の置けない友人同士だ。川本もにこやかな顔で答える。

 

「俺よりも先に再婚して、今は子どももいる。この前、彼女と一緒にお祝いにいったが、可愛かったぞ」

「へえ、良い関係を築いているのか」

「別に憎み合って別れたわけじゃないからな」

 

 前妻はすでに再婚し、別の家庭を築いているという。そして、驚いたことに、新旧カップル同士の交流もあるらしい。

 こんな風に、相手への愛を失っても、後腐れなく付き合える関係もあるのだと知る。

 御堂は克哉の前に付き合っていた相手は多かったが、いずれも短期間のみの付き合いだった。相手が自分にとって負担になる前に別れる。引き際はいつもあっさりしたもので、御堂の中に何の余韻も未練も残さない。そんな付き合い方しかしてこなかった。

 

『あなたは人の心が簡単に手に入りすぎるから、本気の恋ってしたことないのでしょう?』

 

 そう御堂に言ってきた女性もいた。寂しげな口調だったが、御堂の気持ちが自分にないと知るや、それ以上深く踏み込んでくることはなく、他同様、短い付き合いで終わった。

 その彼女の顔もはっきりと思い出せないのに、その言葉だけは御堂の心の深いところに突き刺さったようで、今でも鮮明に思い出せる。

 当時はそんな言葉は歯牙にもかけなかったが、今ではその言葉が正しかったと分かる。なぜなら、御堂は今、本気の恋をしているからだ。

 順風満帆に生きてきた御堂にとって、克哉は突然降って湧いた嵐のようなもので、克哉のためにすべてを失い、それ以上のものを手に入れた。生まれて初めての溺れるほどの恋は、終始胸が焦がれるような苦しさがあった。克哉からどれほど愛されようとも満たされるのは一瞬で、また次の瞬間にはさらに貪欲に求めてしまう。そんな自分の浅ましさを日々痛感させられるのだ。胸の中にはち切れんばかりに膨らむ感情に、苦しくて窒息しそうになるのに、それを手放したくない。

 もし克哉と恋人同士になることがなかったのなら、自分はどうしていたのだろうか。時折、そう考えることがある。

 そもそも克哉と出会うことがなければ、御堂はMGN社を辞めることもなかっただろう。そして、別の誰かを愛していたのだろうか。克哉は克哉で御堂以外の誰かを、御堂にそうしてきたように、どこまでも深く愛するのだろうか。

 それを考えると、どろりとした情動に灼かれそうになるが、所詮は仮定の話だ。克哉との間にあった多くのことを、なかったことなどできるはずがない。

 しかし、今の克哉はそれをなかったことにしてしまったのだ。

 記憶を失った克哉は、御堂に特別な好意を向けることはない。代わりに他の誰かに恋に落ちることだってあるだろう。そのとき、御堂は平静でいられるとは思えない。

 いっそ克哉への気持ちをあっさり失うことができたらどれほど楽なのだろう。仕事上のパートナーとしてだけ関わり、お互いに別の相手を見つけて。そして、その相手と結ばれることを祝福することができたら……。

 川本たちの輪から離れて、そんなことを考えていると「御堂」と声がかかった。振り向けば、さっきまで別の話題に興じていた数人が御堂に好奇の視線を向けている。そのうちの一人が口火を切った。

 

「御堂、MGN社辞めたんだって? それで今はベンチャーを起業したとか聞いたが、どうなんだ? 飲み会にも顔を出さないし、よほど忙しいみたいだな」

「ああ、参加できなくて悪かったな」

 

 またこの質問か、とうんざりしながらも答える。少し事情通であれば、御堂がMGN社を追われるようにして辞めたことも知っているはずだ。その後の御堂が、友人たちのほとんどと連絡を絶ったことで様々な憶測が飛び交ったという。

 友人の何人かとは個人的に会ったり、仕事関係で偶然再会したりして、今の立場を説明してきたが、多くの友人たちにとって、御堂の現況とそこにいたるまでの経緯は関心の的になっている。その動機には非の打ち所がないエリートだった御堂の零落を悦ぶ気持ちも混ざっているのだろう。今のポストをいちいち説明するのも面倒なので御堂は用意してきた名刺を配った。

 

「私は今、この社を経営している」

 

 友人たちは御堂からもらった名刺を確認し、首をひねる。

 

「アクワイヤ・アソシエーション……?」

「コンサルティング会社だ。ここの副社長を務めている」

「副社長? 社長は誰だ?」

「佐伯克哉という、以前同僚だった男だ」

「佐伯克哉……? 知らないな。出身は?」

 

 本来なら御堂が克哉のプロフィールをしっかり説明すべきだろう。だが克哉は経歴だけを見れば取り立てて言うほどのものもない。言い方は悪いが、出身大学も凡庸で、最初に入った社もキクチという、お世辞にも有名とは言えない地味な会社だ。克哉の経歴で特筆すべきは、キクチから引き抜かれ二十台の若さでMGN社の部長になったことくらいだろうか。

 しかし、克哉の実力は直接目にした者しか分からないだろうし、御堂もあえて言葉にして説明するつもりはなかった。

 友人の一人が口を挟む。

 

「佐伯って、前に御堂が飲み会に連れてきたやつじゃないか? ほら、結構若い……」

 

 どうやら、克哉を連れていったワインバーでの飲み会を覚えているようだ。御堂は頷いて、口を開く。

 

「七歳下だ」

「七歳下? 御堂はそんな若い奴の下についているのか?」

 

 驚いたような声が周囲から上がる。俄然、克哉に対する興味が湧いたようだ。

 この場にいる御堂の友人は全員東慶大出身のエリートだ。職種は違(ちが)えど、いずれも重要なポジションに就き、膝を折ることを知らない面々だ。だからこそ相手に対する格付けは敏感で、御堂が自分より格上なのかどうか、鋭く見極めようとしている。

 友人の一人が疑り深い表情で御堂に尋ねた。

 

「コンサルティングなんて、浮き沈みが激しい業界だろう? お前のところは大丈夫なのか? しかも、ベンチャーは失敗すると痛いぞ。そこからの転職も難しいだろうし」

「ほう……。もはや後の祭りとでも言いたいのか?」

 

 皮肉めいた口調で聞き返せば、相手は弁明するかのように、さらに言葉を重ねてくる。

 

「そうは言っていない。だが、わざわざ火中の栗を拾うような真似をしなくても、MGN社にいれば安泰だったろう。なんと言っても一流外資だしな。コンサルティングみたいな不安定な業界に飛び込まなくても……」

「そうだぞ、御堂。しかも、お前が副社長と言うことは、社長に引き抜かれたクチか? そんなに魅力的な誘いだったのか? その佐伯という奴に騙されているんじゃないか?」

 

 親切を装った口調で言う友人たちの目には御堂に対する侮蔑とも憐憫ともとれる色が見え隠れする。周りの友人たちもあからさまではないが同様の眼差しを御堂に向けていた。

 コンサルティングの市場は年々成長している。その分、数多のコンサルティング会社ができては消えていっているのも事実だ。コンサルティング会社の中には最近のコンサルティングブームに便乗してあくどい商売をしているところもあるという。話題性に富む分、悪いニュースも度々目にする業界だ。

 だが、他の平凡なコンサルティング会社と違い、AA社は社長の克哉の八面六臂の活躍で大躍進しているのだ。克哉はあの若さで、ゼネラリストさながらの見識の広さ、そしてあらゆる分野においてスペシャリストさながらの造詣の深さを持ち合わせている。自分があしざまに言われるのはともかく、AA社と克哉に対する誤解は解いておきたい。

 

「君らは勘違いをしているようだが……」

 

 御堂は友人たちに真正面から向き直った。声のトーンを低くし纏う雰囲気を変えると、友人たちは御堂から発する気迫を敏感に察して押し黙る。御堂が反撃に転じようとしたときだった。

 

「すまない、遅くなって」

 

 店の扉が開き、謝罪の言葉と共に入ってきたのは四柳だった。普段着姿の四柳の肩の辺りが濡れている。どうやら、外は雨が降り出したようだ。

 片手を上げて申し訳なさそうな素振りで入ってくる四柳は一人ではなかった。背後からもう一人、若い男が入ってくる。

 

「佐伯……?」

 

 すらりとした長身、怜悧な顔立ちを銀のフレームの眼鏡が引き締めている。照明を落としている店内だが、四柳と連れだって入ってきたのは見間違えようもなく克哉だった。御堂が部屋を出てくるときは私服だったが、今はネクタイもきっちりと結んだスーツ姿になっている。

 周囲の人間も四柳と見慣れぬ人物の登場に、会話を止めて興味津々の眼差しを注いでいる。

 大幅な遅刻でやってきた四柳だったが、すぐに川本がやってきて四柳を温かく歓迎した。

 参加してくれたことへの感謝を述べ、四柳もまた祝いの言葉を送る。その流れで、四柳が克哉を川本に紹介した。御堂の共同経営者と紹介したのだろう。川本や周りの人間が御堂へと顔を向けた。

 川本への挨拶を終え、四柳と克哉がバーカウンターでそれぞれ飲み物を受け取ると、御堂の方へと向かってきた。

 四柳は白衣姿のとき同様飾らない態度で、御堂に「僕が誘ったのに遅刻して悪かった」と謝る。脳外科医として第一線で活躍する四柳が急患で遅れたり、呼び出しで途中退席したりするのはいつものことだ。御堂も「お疲れ」と言葉をかけて四柳を労りつつ、小声で尋ねた。

 

「なぜ、佐伯と?」

「佐伯君とたまたま店の近くで会ったんだ」

 

 家で大人しくしていると言ってなかったか。

 咎める眼差しで克哉を見ると、克哉が軽く肩を竦めて言った。

 

「気が変わったんですよ。せっかくの機会なので、御堂さんのご学友にひと言ご挨拶でも、と来てみたら、店の場所が分からなくて。近くをうろうろしていたら四柳先生に会えて助かった」

 

 まったく興味がない素振りだったのに、どのような心変わりなのか。それとも何か企んでいるのだろうか。

 探る視線を克哉に向けたが、克哉は端正なマスクで真意を覆い隠し、周囲に向けて挨拶をする。

 

「御堂さんと一緒にAA社を経営している佐伯克哉です。盛り上がっているところに水を差して申し訳ございません」

 

 控えめな態度ながらも、克哉の挨拶にがらりと場の雰囲気が変わる。ちょうど克哉の話題になっていたところで、当の本人が映画のワンシーンさながらに登場したのだ。洗練された物腰、話し方、眼差し、どれをとっても七歳年下とは思えないほど落ち着き払っていて、自然と周囲の注目を集めてしまう。

 先ほどまで御堂にしつこく詰め寄っていた男が、克哉へと顔を向けた。場の主役を鮮やかに持っていかれたのが面白くないのだろう。意地が悪い口調で尋ねた。

 

「君が噂の佐伯君か。御堂の上司だという」

「正確には御堂さんと俺は共同経営者で対等の立場ですよ」

「だが、君が社長で、御堂は副社長なのだろう? 君はまだ二十台だというじゃないか。どうやって御堂を誑(たぶら)かしたんだ?」

「おい、やめろ」

 

 相手の言葉の節々に克哉への侮蔑が滲む。咄嗟に御堂が間に入ろうとしたところで、克哉は周囲を蕩かすような微笑みを浮かべてさらりと言った。

 

「この人が誰かに誑かされるような人間に見えますか?」

「っ……」

「あなたはよほど肩書きがお好きなようだ」

 

 思わぬ切り返しに、相手は言葉を詰まらせる。

 

「俺が社長で御堂さんが副社長なのも、互いに役割分担をしただけに過ぎません。肩書きなどいつでも付け替えられるし、不満があるならいつでも辞められる。ですが、それでも彼がAA社にいるということは、今の職務が御堂さんのお眼鏡に叶っているということでしょう」

 

 立て板に水のごとく、相手につけいる隙を与えず言い放ち、克哉は最後ににこりと笑う。

 

「御堂さんは分別のある大人ですし、誰かに心配されるような人には見えませんが、どうやらあなたは、御堂さんのことが心配で気が気でないようだ。もしお望みでしたら弊社の決算書でもご覧になりますか?」

「佐伯、それくらいにしろ」

 

 さすがにこれ以上は聞いていられなくて、克哉を諫めた。

 相手の顔が赤くなっているのは決してアルコールのせいだけではない。自分より七歳も下の若造に良いように言われ、恥をかかされた怒りを無理やり抑え込んでいるからだ。

 相手からしたら軽くジャブを放って様子をみるつもりが、いきなり痛烈なカウンターを何発もたたき込まれたようなものだ。

 克哉はプライドが高い相手の感情を逆なでする方法に熟知し、容赦がない。今の克哉であれば、自分の立場を弁(わきま)えてもっと穏やかに角を立てずに言い含めることもできただろう。

 御堂は、克哉をたしなめつつ、周りに向けてはっきりと言う。

 

「佐伯が言ったとおり、私は今の立場に満足しているし、この仕事にもやりがいを感じている。心配してくれるのはありがたいが、次からは結果を見て判断してくれ」

 

 憤懣やるかたないと言った表情の相手はまだ何か言いたそうだが、「まあまあ」と四柳が割って入った。

 

「AA社のオフィスって六本木のあのタワーに入っているのだろう? ものすごくテナント料高いらしいじゃないか。どれほど立派なところなのか、今度、僕にも見学させてくれ」

「もちろんです、四柳先生。もしよろしければコンサルティングも引き受けますよ」

「それなら、僕が開業したときにはよろしく頼むよ」

 

 そう言って、四柳は笑った。四柳の柔らかな雰囲気と穏やかな物言いに、高まりかけた緊張がみるみるうちに緩(ゆる)んでいく。

 四柳が口にしたタワービルは誰もが知っている六本木のランドマーク的存在で、そこにオフィスを構えている社はそれに見合うだけの勢いのある有名企業ばかりだ。AA社のオフィスがそのビルにあるということは、言わずもがなの業績だということを四柳はさりげなく示したのだ。

 四柳が場を和ませたところで、御堂や克哉に詰め寄っていた友人たちは「酒を取ってくる」と言って足早に立ち去っていった。場が険悪にならずに済んだことに、御堂は胸を撫で下ろした。克哉が嗜虐心に任せて相手を叩きつけたところで、本人は満足しても余計な遺恨を残す。

 来て早々に悪目立ちした克哉だが、その後の変わり身も早かった。天性の詐欺師のスキルを発揮して、御堂の友人たちににこやかに挨拶をして回っている。御堂が克哉を紹介すべきなのだろうが、自分がいなくても克哉は上手くやるだろうと、少し離れたところで見守っていると四柳に話しかけられた。

 

「佐伯君はどう?」

「どうって、見てのとおりだ。記憶が戻る気配はないが、周りにもそうと悟れずに上手くやっている」

「すごいね。普通なら記憶がないというのは、自分が立っている足場がないのと同じくらいの衝撃だから、もっと動揺してもおかしくないのに」

 

 御堂と四柳の視線の先では、克哉が数人の男たちに囲まれて談笑していた。時折笑い声が御堂の所まで響いてくるから、よほど盛り上がっているのだろう。スーツ姿で登場した克哉は抜け目なく名刺も持ってきたようで、着々と人脈を築いている。

 初対面の相手に、あっという間に打ち解けることができるのは御堂にはない才能だ。克哉は会話の巧みさのみならず、空気を読むセンスも抜群で、いつの間にか場の中心になり周囲の人間を惹きつける。これこそ、克哉本来の魅力、カリスマ性だろう。

 御堂はぼそりと呟いた。

 

「……佐伯は前にも同じようなことがあったのかもしれない」

「以前も記憶を無くしたことがあると?」

「詳しくは言わなかったが……」

 

 四柳に聞き返されて口ごもる。今更ながら、克哉について、自分はあまりにも知らないことが多すぎた。それでも、記憶を掘り起こしながら、かつて自分が覚えた違和感を言葉へと変換する。

 

「たまに佐伯が別人のように思えるときがあった。普段しないような言動をしたり、話が噛み合わなかったり……」

 

 思い返せば、最初にMGN社の執務室で対面したとき、そして、そのあとのプロトファイバーの営業のミーティングでも、克哉は気弱な態度を見せていた。それが一転して御堂を強姦し脅迫するような、非道な行為を行ったのだ。

 恋人同士になってからも、クリスタルトラストの一件のときの克哉は不安定だった。それがどうにか解決したあと、克哉は御堂に『人格の乖離』に振り回されていたと御堂に告白した。

 だが、克哉の言葉は抽象的で要領を得なかったし、御堂も深くは問い詰めなかった。

 四柳は御堂の言葉を吟味するように黙り込み、ややあって、口を開いた。

 

「記憶を失っても平然としている患者というのもたまにいる。そういう患者は共通した特徴がある」

「特徴?」

「失った記憶が自分にとって負担となる記憶だった場合だ。そういう患者は記憶を失うことで精神の安定を保っているから、自分が失った記憶に無関心だ。故意に自分の記憶を無くしているといってもいい」

「何……」

「古い記憶を脱ぎ捨てて、新しい自分として生きていく。その場合は、記憶を無理に戻させようとする周囲の努力は返って逆効果だ。むしろ禁忌と言ってもいい。患者の傷口を無理に開くようなものだからな」

 

 四柳の言葉に胸を撃ち抜かれるような衝撃を受ける。

 

「もちろん、佐伯君がそうだとは言ってない。だが、佐伯君よりお前の方が記憶を取り戻すことに執着しているように僕には見える。それが彼の負担にならないか心配している。もし、今、上手くいっているのなら、記憶についてはそっとしておく方がいいのではないか」

 

 違う。上手くなどいっていない。

 そう反駁(はんばく)したくなるのをどうにか堪えた。

 端(はた)からみたら良いパートナー、そう見えているのだろう。実際、そう見えるように取り繕っている。

 克哉が記憶を失っても平然としているのは、失った記憶が克哉にとって不要な、むしろ負担となる記憶だったのだろうか。

 なぜ、と考えて思い当たる。

 克哉が記憶を失う直前、克哉に永遠の愛を誓おうと言われ、御堂は頷くことができなかった。その御堂の拒絶が克哉を失望させ、そして、今にいたるまでの御堂との記憶を捨てさせてしまったのだろうか。それはまるで、脱皮を繰り返して成長する生き物のように、克哉は自分にとって要らない過去を切り捨てて、新たな人生を歩み出そうとしているのか。

 四柳は、友人である御堂よりも、自分の患者である克哉の立場からものを言っているのは分かっていた。

 四柳が言うように、御堂は克哉の記憶を取り戻すことを諦めた方が良いのだろうか。そして、それを克哉も望んでいるのだろうか。

 その可能性に胸を押し潰されそうになる。視線の先では克哉が堂々たる立ち振る舞いで、パーティーの参加者と名刺を交換し、会話を交わしている。

 御堂の視線を感じたのか、克哉がちらりと御堂を見た。レンズに体温を奪われてしまったかのような無機質な眼差しに、作り物めいた笑みが添えられている。その目を真っ直ぐに見返すと、克哉は何事もなかったかのように御堂から視線を逸らした。ふたたび周囲との会話に戻る。

 御堂は手に持っていたワイングラスを傾けて、赤ワインをひと息に飲み干した。久々のアルコールだったが、味も酔いもまったく感じなかった。

 克哉は御堂を記憶ごと捨てようとしているのだろうか。

 

――あいつはそんな男ではない。

 

 自分に言い聞かせる。

 克哉は御堂に、『責任を取る』と約束をしたのだ。

 再会して恋人同士になってからも、ふたりの仲は一筋縄ではいかなかった。ときに揺らぎ、激しく対立しながらも、克哉は御堂をひたむきに愛してくれた。

 だから、克哉はきっと戻ってくる。

 

『そう、信じたいだけなんだ』

 

 克哉の無情な言葉が耳の奥で蘇る。

 信じ続けることと、諦めること、どちらが正しいのだろうか。

 だが、正解に繋がる道が見えない以上、自分が後悔しない道を選ぶべきなのだろう。そうやって御堂は今まで生きてきたのだ。

 

 

 

 

 一次会を終えたところで、御堂は川本にひと言挨拶し、克哉を連れて店を出た。二次会は落ち着いたバーで飲むらしく、そちらにも誘われたが丁重に断った。

 店を出れば、雨が本降りになっていた。克哉は店のクロークに預けてあった傘を二本受け取り、そのうちの一本を御堂に手渡してきた。

 

「傘忘れていったろう?」

「まさか、傘を届けにここまで来たのか?」

 

 驚きつつも、「ありがとう」と礼を言って受け取った。

 雨が降ってもタクシーを捕まればいいと思って出てきたが、店の前にタクシーは一台も停まっていなかった。御堂同様一次会で辞した参加者が一足先に乗っていったのだろう。

 タクシーを呼んでも良かったが、それよりは自分たちで探した方が早いだろうと、傘を差して克哉と共に、大通りに向けて歩き出した。雨脚はどんどん強くなり、風と共に冷たい雨水が吹きつけてくる。どこかで雨宿りすべきか、と考え出したところで、運良くタクシーを捕まえることができた。

 タクシーの後部座席にふたりで乗り込んだところで克哉に改めて感謝した。

 

「傘があって助かった。この雨では店の前から動けなかった」

 

 克哉がニヤリと笑う。

 

「傘というのは建前で、東慶大出身者はどんな人間なのか見てみたかったという興味もある。家でただ待つのも暇だったし」

「それなら最初から一緒に来れば良かったのに」

「一次会の最初から最後まで出るのは、気詰まりするだろう。あんたの友人とやらは想像どおり、鼻持ちならない奴ばかりだったしな。だが、どいつもこいつも肩書きだけは立派だな。ああいう奴らが今後の日本を牽引するのかと思うとぞっとしないが」

 

 克哉の辛辣で歯に衣着せない言葉に苦笑する。

 

「私も、君が言う鼻持ちならない奴らの一人だったのだ」

「それが今や、身から出た錆か。古巣の連中から腫れ物扱いされて」

「まあ、そういうことになるか」

 

 淡々とした御堂の返しが意外だったのか、克哉はまじまじと御堂を見返した。

 

「あんた、あいつらに侮辱されたんだぞ。腹立たしくないのか?」

「私は彼らに評価されることを目標とはしていない。だから何を言われようと問題ないが、その矛先が君に向いたのは悪かった」

 

 克哉は御堂を挑発しようとしたのだろう。しかし、思ったように乗ってこない御堂に、克哉は眉を顰めた。

 

「あいつらと今まで全然会っていなかったのか? まったくあんたの事情を知らないようだった。何人もの奴らにあんたのことを聞かれた」

 

「ああ」と頷いて言葉を続ける。

 

「佐伯は私が友人たちと会うのを嫌がった。だから、こうして彼らと会うのも久々だ」

 

 克哉は意外そうな顔をした。御堂に執着していない今の克哉には、かつての克哉の独占欲を推し量るのは難しいのだろう。

 しかし、こうして実際に参加してみれば、克哉は妬心だけで御堂を束縛したのではないように思えた。

 ぼそりと呟く。

 

「佐伯はもしかして、こうなることを予期していたのかもしれない」

「こうなること?」

「かつての友人たちに会うことで、私が嫌な思いをするのではないかと」

 

 御堂はMGN社を不名誉な形で辞め、そしていま、いちベンチャー企業の副社長となっている。成功が約束された一流外資系企業から新興企業のL&B社に転職、そしていまや吹けば飛ぶようなベンチャー企業の副社長だ。それが、御堂の旧友の目にどう写るのか手に取るように分かったのだろう。旧友たちと会うことで、御堂がどのような目に晒されるのか。だから、御堂が侮辱を受けるのを防ごうとしていたのかもしれない。

 

「あいつは、私を守ろうとしていたのか……」

 

 小さく呟いた言葉に、克哉がチッと舌打ちをする。

 

「あんた、不祥事を起こしてMGNを辞めたんだってな。口さがない連中が噂していた」

「そうだ」

 

 無断欠勤が不祥事に分類されるなら、そのとおりだろう。御堂は素直に肯定する。克哉がじろりと黒目だけで御堂を見た。

 

「俺のせいか?」

「……どうしてそう思う?」

「あんたの後任が俺だ。キクチ八課の一介の営業マンだった俺がMGN社の部長という異例の昇進を遂げている。関係があると考える方が普通だろう」

「……」

 

 克哉の頭の回転の速さに内心舌を巻いた。御堂や周囲から得た断片的な情報から真実に迫ろうとしている。

 そして克哉は、返事をしないという御堂の返事から自分の推測が正しいと悟ったようだ。

 

「あんたにとって、俺は仇(かたき)のような存在だ。それがどうして、こんな関係になっている?」

「知りたければ、思い出せばいい。君は答えを知っている」

 

 すげなく返せば克哉は黙り込んだ。

 当時のことは自分から触れるには痛みの伴う記憶だ。

 だが、もし克哉が少しでも記憶を取り戻すきっかけを得るとしたら、やはりそれは失った記憶に深く絡んでいる御堂からなのだと思う。

 ちゃんと克哉と正面切って話し合ってみれば、今の状況を打開できるのかも知れない。

 

 

 

 

「佐伯、少し話し合わないか?」

 

 部屋に戻り、ジャケットを脱ぐと克哉に声をかけた。克哉はちらりと御堂を見たが、促されるままにダイニングテーブルに座った。御堂は温かなコーヒーを淹れて克哉の正面に座る。

 何かを話そうにも、何を話せば良いのか迷い、御堂は重く口を開いた。

 

「私は後悔しているのだ。あのとき、佐伯にちゃんと応えてやれば良かったと」

「あのとき?」

「君が記憶を失う直前、佐伯に求められたのだ。永遠の愛を誓おうと。だが、私はその場で返事をすることができなかった」

 

 だから、返事をする機会を失ってしまった。あのときにしっかりと克哉に向き合っていれば、こんなことは起きなかったのではないか。そのときの後悔が胸に棘のように刺さったまま、じくじくと膿んだような痛みを引き起こしている。

 克哉をじっと見つめた。見えないけれども、そこにいるはずの克哉に向かって語りかける。

 

「私は君と一緒にいる自分を決して悔いてはいない。君との間に色々あったが、これからも君の隣に立ちたいと思っている」

「……そうですか。昔の俺に言ってやれば良かったですね」

 

 克哉は御堂から目を逸らすと、コーヒーをひとくち飲んで、素っ気ない返事をする。

 

「そうだな。もっとちゃんと言葉にして伝えればよかった。私は君を愛していると。これからもずっと君の傍にいたいと」

「……今の俺には関係ない話だ。そんな話をして感傷に浸りたいのか?」

 

 すげなく言われて次に続く言葉を失う。

 御堂は克哉に向けて話しているのに、当の克哉はこの場にいない他人の話を聞くような素振りでいる。

 克哉は皮肉めいた口調で言う。

 

「永遠の愛なんか存在しない。あんたはそれを分かっていた。実際、あんたの佐伯とやらは、そう言った直後に消えたのだろう? とんだ言行不一致じゃないか」

「どうしてそんなことを言うのだ。君自身だろう」

「俺? あんたは俺とそいつが同じに思えるのか?」

 

 克哉の声音に苛立ちのようなものが混ざる。

 確かに、この克哉は御堂が知っている克哉とはまったくと言って良いほど違う。姿形は同じなのに、御堂を愛することもなければ執着することもない。御堂への接し方は赤の他人に対するそれだ。

 それでも、佐伯克哉の本質的なところは共通しているはずだった。だから、克哉の取り付く島もない態度にも怯まずに言った。

 

「君は先ほどのパーティーで私が侮辱されたと感じた。だから、私を守ってくれようとしたのではないのか」

「とんだ楽観的思考だな。あんたに必要なのは冷静な現状把握だ」

 

 単に御堂だけでなく自分にまで侮辱が及んだことに、克哉は腹を立てたのかも知れない。それでも、克哉は御堂をかばった。その後の克哉が自らあちこちに挨拶して回ったことで、結果的に御堂に向けられていた好奇の視線を自分に誘導させた。本人はそうと気付いていなくても、そこには御堂の恋人である克哉の意図が何かしら介在していたのではないか。だから、言った。

 

「佐伯も、あの場にいたら、君と同じ行動をしたはずだ」

 

 その瞬間、空気が一瞬で張り詰めた。

 

「俺の前で、俺とは無関係の『俺』の話をするな」

「――っ」

 

 御堂に向けられる克哉の眸、そこに昏い熾火のような怒りが燃えている。克哉がいつになく表情を険しくし、まとう気配を変えていた。

 何が克哉を怒らせたのか。

 底冷えするような声が響く。

 

「俺が現実を教えてやるよ」

「佐伯……っ」

 

 そう言って立ち上がった克哉はテーブルの向こうから長い腕を伸ばした。御堂の腕を掴むと無理やり立たせ、有無を言わせず引きずるように寝室へと連れていく。そのまま、ベッドへと乱暴に放られた。

 

「何をする!」

「セックスだよ、俺と」

 

 克哉は自分のネクタイの結び目に指を入れると斜め下に引いた。

 

「こんな乱暴なことをしなくても、私が……」

「勘違いするな。あんたにしゃぶってくれと言っているんじゃない」

 

 御堂の言葉に被せるようにして、ぴしゃりと言い切られる。

 

「今回は最後までだ。あんたは俺とヤるんだ」

「――っ、それは……」

 

 考えを見透かすことができない冷たい色の眼差しが御堂を見据える。

 

「もう、あんたのセックスごっこをするのはいい加減飽きた。俺がしたいのは本物のセックスだ」

「本気で言っているのか?」

「当然だ」

 

 先ほど潤したはずの喉が干上がる。困惑と混乱に包まれながらも声を絞り出す。

 

「君は、本番はしないと言ったではないか」

「気が変わった」

 

 克哉の眸は昏く据わっている。その口元が歪につり上がった。

 

「もちろん、あんたには拒否するという選択肢もある。それならそれで、あんたの意思を尊重するさ」

「……君は、私が君の要求を拒否するとは思ってはいない。だからこんな横暴なことを言っているのだろう」

 

 ふん、と克哉は鼻で嗤う。

 

「俺はあんたでなくてもいい。嫌がる相手を無理やりヤるのも好きだが、言っただろう? あんたには世話になっているから、選択の権利を与えてやる。だが、どちらの選択をしても、俺の責任じゃない。あんたの問題だ」

 

 心の準備もないままに抗うことのできない選択を突きつけられて、冷や汗が背筋を伝った。

 

「さあ選べ、御堂。俺とヤるか? それともいい加減、過去の男のことは忘れるか?」

 

 克哉は『過去の男』と吐き捨てるように言った。

 ようやく克哉の憤りの原因に思い当たる。四柳が言ってたではないか。故意に記憶を捨てた者にそれを取り戻させようとするのは禁忌だと。

 やはり、この克哉は自分の過去を取り戻す気はないのだ。むしろきれいさっぱり忘れ去りたいのだろう。新しい人生を歩むために。

 だが、そんな自分勝手な選択を御堂は受け容れられるわけがない。

 御堂もまた視線に圧をかけて克哉をにらみ返した。

 

「過去の男ではない。私の佐伯は君の中にいる」

「それなら、俺に抱かれるか? 恋人でない俺に。恋人の俺が戻ったときに後悔のないように」

 

 侮蔑を含んだ低い嗤いが響く。

 これでは克哉の不貞を許さない代わりに、自分の身体を売るようなものだ。

 こんな浅ましいことまでして克哉を引き留めようとしても、当の克哉は記憶を取り戻すかどうかさえ定かではないのだ。

 

 ――必ず佐伯は戻ってくる。

 

 ぐらつきそうになる自分に何度も言い聞かせる。

 あれほど御堂に執着し、強引な手段でもって御堂を自分のものにしようとした克哉だ。再会して恋人同士になってからも、克哉の御堂に対する執着の強さは変わらなかった。仕事でもプライベートでも、二四時間自分の傍に御堂を置きたがったくらいだ。

 覚悟を決めて、御堂は「ああ」と頷く。御堂の返事に、克哉は眸を眇めて、ひどく冷たい表情をして言った。

 

「脱げよ、御堂」

 

 ベッド脇に立った克哉が御堂を見下ろしながら、自分のネクタイを引き抜いた。ネクタイを床に落としたその指で、襟元のボタンを外す。御堂から視線を外さぬまま、わずかに傾げた首にはくっきりとした筋が浮き上がり、鎖骨までの美しい陰影を際立たせた。

 克哉のシャツの前がはだけられる。無駄のない筋肉が乗る引き締まった身体を目の前にして、ぞくぞくとした震えが身体の奥底から込み上げてくる。

 深く目を伏せて、御堂はわななく指でネクタイを解き、シャツのボタンを上から外していく。首元が楽になったはずなのに、首を絞められているような圧迫感があった。

 今からこの男に抱かれる。

 そう思うだけで恥ずかしさといたたまれなさにこの場から逃げ出したくなる。

 裸どころかあられもない痴態を何度も見られてきたはずなのに、それでも一枚服をぬぐごとに心を剥き出しにされていくようだ。

 克哉の視線が肌をざわめかせる。最後の一枚、下着を脱いだところで克哉は吐息だけで笑った。そこにある性器は期待に頭をもたげていた。御堂は羞恥に顔を赤くする。

 克哉がベッドに乗り上がってきた。唇だけを薄く吊り上げた顔で、御堂へと覆い被さってくる。

 すっと顔を寄せられて、御堂は咄嗟に顔を背けた。克哉の喉が笑いに震える。

 

「恋人のためにキスの貞節だけは守る気なのか。江戸時代の遊女じゃあるまいし」

 

 克哉はひとしきり笑ったあと、「まあ、いいさ」と呟いた。

 克哉の手が御堂の肌の上を滑る。胸の尖りを摘ままれ、爪を立てられ、鋭い痛みに悲鳴を上げそうになるがそれを呑み込んだ。

 

「痛くされるのが好きなのか?」

 

 そう言われて下腹を見下ろせば、ギチギチに硬くなった御堂のペニスが腹に付くほど反り返っている。

 

「脚を開け」

 

 命じられたとおりに脚をそろそろと開いた。克哉の視線に晒されたペニスがひくりと蜜を溢れさせる。耐えがたくなって俯くと、克哉が御堂に尋ねる。

 

「ローションはどこにある?」

 

 そう問われて、身体が強張った。答えたくないのに、反射的に視線がベッドサイドチェストへと流れた。克哉が御堂の視線を追ってチェストへと手を伸ばし、目的のものを手にする。

 ローションのチューブのキャップを片手で器用に開けながら、克哉が呟いた。

 

「使いかけか」

 

 そのひと言に唇を噛みしめた。恋人であった克哉との行為に使っていたそれを、恋人でない克哉が使おうとしている。それは自分と克哉のプライベートな部分に土足で踏み込まれたような屈辱だ。怒りに震えるが、そんな余裕もすぐになくなった。

 ローションを纏った指が脚の狭間に伸ばされて、御堂のアヌスへと触れた。そのまま中へと潜り込んでくる。

 

「っ、ぁ……っ」

 

 浅いところで蠢く指に腰が浮き上がってしまう。その隙に克哉がさらに深くまで指を潜り込ませた。指を食い締めて抗おうとする粘膜を克哉は巧みに馴らしながら、奥の襞を指の腹で擦りあげた。途端に腹部が引き攣る。

 

「――っ、ぁあ」

「きついな。あんたも久々だろう? しっかり解してやろうか? それとも痛い方が好きか?」

 

 笑い含みに尋ねてくる克哉を睨み付ける。

 

「君の好きなようにすれば良いだろう…っ」

「勘違いするなよ、御堂。あんたが俺に抱かれることを選んだんだ。被害者面するな」

「――ぅ」

 

 そのとおりだ。

 御堂は断ることもできた。だが、克哉を繋ぎ止めるために自ら身体を差し出した。

 克哉に肩を掴まれて身体をうつ伏せにされる。

 これから起こることを予感して、心臓が激しく鼓動を刻み出す。

 

「っ、――ぁ」

 

 熱く硬い肉塊が狭いところを押し拡げて中へと侵入してきた。内臓を押し潰されるような圧迫感に呼吸が浅くなる。

 それでも、克哉に抱かれ続けた身体は克哉の形を覚えていた。辛くて苦しいはずなのに、つながったところから甘苦しい痺れが広がっていく。

 

「ぁ、あ…ん、……あああっ!」

 

 ぐっ、と克哉の腰が押し込まれた瞬間、御堂は四肢を突っ張らせた。視界が明滅する。御堂のペニスが大きく跳ねて、白濁を勢いよく迸らせる。挿れられた瞬間に、果てていた。

 克哉が呆れたような口調で言う。

 

「感じやすい身体だな。それとも相当欲求不満だったのか?」

「違……っ」

「別に恥じることはないさ。どうせならお互いに愉しめた方が良いだろう? 俺たちはそういう関係だからな」

 

 そういう関係、つまり、互いの利害が一致した合意の上の関係だ。相手を愛しているからこそ欲しあう関係とは違う。甘さも何も必要としない。克哉にとっては性欲のはけ口として御堂を利用しているだけで、御堂もまたそれを受け容れている。

 絶頂の余韻が抜けきらないところで克哉に腰を抱え込まれて、犯しやすい角度に尻を上げさせられる。

 

「佐伯、待て……イったばかりで……っ、あ、よせ、っ、ぁああああ」

 

 前にずり上がって逃げようとしたところで、逃れられないように腰骨をがっちりと掴まれて肉を打ちつけられた。獰猛な勢いで突き入れられて、突かれるたびに声が漏れてしまう。

 放ったばかりの先端は、激しく揺さぶられながら白濁混じりの粘液をとめどなく散らしていた。

 

「っ、ぁ、あ、は…っ」

 

 克哉に抉られるたびに身体の芯をとろ火で炙られ、自分の喉から甘ったるい声が勝手に漏れてしまう。克哉にペニスに貫かれる馴染んだ感触。

 そこにあるのはまさしく快楽で、感じたくないのに、御堂の意思とは裏腹に、御堂の身体は勝手に昂ぶっていく。

 次第に克哉の律動が小刻みなものへと変化していく。その動きは極みが近いことを示していた。

 

「さえ……き、中に出すのは…やめてくれ……」

 

 切れ切れの声で懇願する。

 同じ男だからこそ、相手の中に射精することで得る征服感を知っている。その一方で身体の奥深いところを蹂躙されることで相手に支配を無理やり受け容れさせられる屈辱もまた知っているのだ。

 

「どうしようかなあ……」

 

 御堂を背後から犯す克哉が喉で笑った。

 次の瞬間、克哉の腰がぐっと押し付けられて最奥をこじ開けられる。中で膨れ上がった克哉の雄が跳ねた。体内にどろりとした熱い粘液を注がれる。

 

「ぁ……」

 

 克哉はみっちりと重なり合った腰を震わせた。二三度深く打ちつけるようにして御堂の粘膜で自身を扱き、最後の一滴まで注ぎ込む。

 下腹の奥にぶわりと広がる克哉の熱にさえ、御堂は感じてしまっていた。

 御堂のペニスからは糸を縒るように、しとどに粘液を吐き出している。

 ごまかしようがないほど、克哉に抱かれて何度も絶頂を迎えていた。

 御堂は眦から伝う涙を、シーツに押し付けるようにして拭う。

 克哉ではなく自分自身に嫌悪を感じていた。愛の欠片もない、性欲を吐き出すだけのセックスがどうしようもないほど御堂を乱れさせたのだ。

 むしろ強引な手段で陵辱された方が、ある意味、気が楽だったのかも知れない。責任を克哉に転嫁できるからだ。

 

「もう、離せ……っ」

 

 御堂の体内に自身を収めたままの克哉から這いずって逃げようとしたところで、覆い被さって来た克哉に身体を押さえつけられた。

 

「まだだ。俺はまだ満足していない」

「な……、っ――ああ」

 

 克哉が動いた弾みに体内をごりっと抉られる。克哉の雄はすでに硬さを取り戻していた。

 同時に遠のきかけた快楽が戻ってくる。御堂の口からは嬌声のような喘ぎが漏れた。

 苦痛と快楽にもみくちゃにされて、御堂は抗う術をもたなかった。

(4)
5

「どうした、御堂?」

 

 呼びかけられた声にハッと我に返った。

 顔を上げて、まばゆさに目を細める。暖かな陽射しが満ちあふれる部屋、目の前のダイニングテーブルにコーヒーが置かれた。御堂の顔を覗き込んできた克哉が視線を重ねて微笑んだ。

 

「まだ寝ぼけているのか? 昨夜、激しすぎたからか?」

 

 とからかう口調で言い、克哉は向かい合わせに座る。淹れたてのコーヒーが良い香りを漂わせていた。

 

「佐伯……?」

 

 おぼつかない思考を振り払うようにして克哉を見つめた。

 克哉の御堂に向ける眼差しには暖かな愛が込められている。変わらない、克哉の姿だ。

 先ほどまで胸の中にあった、形を成さない不安がみるみるうちに霧散していく。

 

 ――ああ、そうか。悪い夢を見ていたのだ。

 

 御堂の眸の中に何かを感じ取ったのだろう。克哉は口を閉じたまま御堂を見つめる。口元には柔らかな笑み、御堂だけにしか見せない寛(くつろ)いだ表情だ。

 無言の眼差しに促されるようにして、先ほどまで胸にあった昏い感情、それをぼそりと告げる。

 

「……君が消えてしまうのではないかと不安になった」

 

 吐露した言葉に、克哉はわずかに目を見開き表情を変えた。

 その克哉の顔を見て慌てたのは御堂だ。こんな穏やかな朝に何故水を差すようなことを行ってしまったのだろう。たちまち後悔に包まれる。釈明するように言った。

 

「違う、君を疑っているわけではない。ただ、幸せすぎて怖くなったのだ」

 

 克哉は黙り込み、ややあって、御堂を見つめたままゆっくりと口を開いた。

 

「言っただろう? 俺はあんたの傍にいる。永遠に、ずっと」

「そうだったな」

 

 どうしてこんな不安に襲われたのか馬鹿馬鹿しくなって御堂は笑った。

 克哉は椅子から立ち上がると、御堂の背後からそっと手を回して抱きしめた。肩越しに振り返る御堂に顔を寄せる。唇が触れる距離で囁いた。

 

「俺はあなたを愛している。今までも、これからも」

「……ありがとう、佐伯」

 

 克哉は少しの間動きを止めていた。御堂からの言葉……感謝ではなく愛の告白を待っているのだろう。それを分かっているのに、御堂は「愛している」のひと言を言えなかった。

 克哉はそんな御堂に小さく笑い、御堂の頬に手を添えた。

 ごく自然な軌道で唇が重なった。柔らかな重みがかかり、自然と口が開く。そこに克哉の舌がすっと差し込まれた。

 そう、このキスだ。

 この唇の柔らかさと温かさをずっと忘れていた気がする。

 高層階にあるこの部屋は、遮ることのない陽射しが注ぎ込む。静かで明るいこの部屋で吐息が重なり合い、鼓動が響き合った。壁一面の窓から見える青い空は澄み渡り、その下に並ぶ高層ビルは太陽を反射し宝石のようにきらきらと輝いている。心地よい光が温かくふたりを包み込んだ。

 もし幸福という抽象的な概念を可視化したとしたら、それは楽園のような光景ではなく、今、この瞬間のように何気のない日常の風景が光り輝いて見える光景なのだと思う。

 そんなことを考えながら御堂は終わることのないキスを交わし、克哉の背に回した腕に力を込めた。

 

 

 

 目が覚めると、そこは克哉の部屋の寝室だった。朝の薄い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 無意識に隣へと手を伸ばす。冷たいシーツが指先に触れた。

 夢が薄れると同時に、現実が重くのしかかってくる。

 たった今見た夢とのあまりの落差に打ちのめされる。

 克哉がいない世界はこうもよそよそしく冷たいものなのか。突きつけられる現実の冷酷さに耐えきれず、胸をかきむしる。

 昨夜、克哉は御堂を散々抱いたあと、シャワーを浴びに行ったままこの寝室には戻らなかった。自分の部屋のソファベッドで寝たようだ。

 御堂は克哉との情事の跡が残るベッドで気を失うように眠りに落ちた。

 そして、たった独りで目を覚ました。

 

「――っ」

 

 ベッドに手を突いてゆっくりと上半身を起こし、御堂は顔をしかめた。

 身体の節々が軋み、脚の奥にはまだ何か挿れられているような違和感と鈍痛が残っている。

 それでも、この痛みが御堂を感傷からこの世界につなぎ止めてくれる。

 自嘲気味に小さく笑った。

 

 ――ほうら、永遠などないだろう、佐伯。

 

 夢の余韻を笑い飛ばそうとしたところで、胸を塞ぐ想いの塊に息を詰まらせる。

 克哉の唇が永遠の愛などという言葉を紡いだ直後に、克哉は御堂との記憶も感情も一切合切を捨ててしまったのだ。

 永遠などという不確かなものは約束できない。

 その御堂の判断は、正しいか間違っているかでいえば、正しかったのだろう。

 それでも、拭いようのない後悔が胸を苛む。

 克哉が御堂への永遠の愛を口にしたあのとき、なぜ一笑に付したりせず真摯に応えることができなかったのか。克哉に永遠の愛を誓うと約束してやれなかったのか。

 克哉の愛を疑ってはいない。だが、その愛が永遠に続くことがあるのだろうかと疑ってしまったのだ。

 御堂は克哉を心から愛している。それは間違えようのない事実だ。だが、そんな自分を怖れた。

 これ以上、克哉の愛に深く溺れて、自分には克哉しかいなくなってしまったところで、突然放り出されてしまったらどうするのか。多分、心のどこかで克哉を信用しきれていなかったのだろう。そして、そのせいで傷つく自分が怖かったのだ。だから、怯んでしまった。

 事実、御堂が怖れたとおりの事態が起きている。

 恋人となった克哉は御堂に何度も「あなたを愛している」と囁いた。だが、御堂はその言葉を克哉ほど口にはしなかった。ベッドの上で克哉に乞われてようやく口にした程度だ。それでも、御堂の告白に克哉はいつも嬉しそうな顔をした。

 永遠の愛が不確かであることを知っていても、永遠を祈ることはできたはずだ。

 あの瞬間、御堂の中にある克哉の気持ちは確かに息づいていて、その気持ちは命ある限り続くだろうと、克哉の自らの想いを伝えることができたはずだ。それは真実なのだから。

 あの場でそれを伝えることができなかったばかりに、伝える機会を失ってしまった。

 愛の告白は照れくささもあるし、言葉にした途端、薄っぺらな嘘くさいものになってしまうようにも思えた。愛情は態度で示せば十分だと考えていた。

 

「……それでも、私は佐伯にちゃんと言葉で伝えるべきだったのだろうな」

 

 そう呟いて、すでに克哉がいなくなってしまったかのように考えている自分に愕然とした。

 

 

 

 

 一度、身体をつなげてしまえば、御堂は箍が外れたようにあっけなく陥落した。

 どのような場所でも、どのような状況でも、克哉に要求されれば断ることもできずに、身体をつなげてしまう。

 目の前の男は自分が愛していた克哉ではない、そう思い込もうにも、克哉の身体に馴らされきった身体は、はしたないほどに克哉に反応した。まるで淫らな獣に成り果てたように、最後には自ら腰を揺らめかして克哉をせがんでしまう。

 だが、克哉と身体の関係を重ねるほど、日常生活のひずみは大きくなっていくように感じた。

 あの夜以来、克哉と一緒のベッドに寝ることはなくなった。克哉は行為が終われば、寝室から出て自分の部屋で寝起きをする。同じ部屋で暮らし、セックスもしているのに、身体をつなげればつなげるほど、心の在り様は離れていくようだ。

 克哉との行為は、最初の時こそ強引さはあったが、それ以降は合意の上だ。この克哉は御堂を追い詰めることはしない。御堂に対する愛も執着もないからだ。

 だから御堂は拒否するという選択肢もあった。直接の行為を断っても、克哉の性欲を満足させる手段は他にもある。交渉して互いの妥協点を探ることだってできるはずだ。それでも、克哉の熱を直接感じたくて御堂は頷いてしまう。

 ひとときの快楽に身を委ねると、あとには嫌悪と後悔が待っていることを分かっているにもかかわらずだ。

 

 

 

 その日、スーツを着込み出勤の準備したところで、それは始まった。

 朝の光が溢れるダイニングで、御堂は克哉に命じられるがままスラックスのベルトを外し、下着を膝まで下ろす。

 テーブルに両手を突いて克哉に臀部を向けると、克哉は御堂の片脚を掴んで持ち上げた。

 脚からスラックスと下着が抜ける。そのままテーブルの上に片膝を乗せる体勢にさせられた。上体が倒れ、腰が上がる。克哉は挿入しやすい角度になった御堂の尻肉を掴むと、事務的な手つきでローションを垂らし、すぐさまぐっと腰を押し込んできた。

 

「っ……ぁ、あ――」

 

 ちゃんと解されもしないところを無理やり拡げられる苦しさに、御堂は細切れに呼吸を刻む。それでも連日の行為に馴らされているそこは、克哉を拒むことなく受け容れた。克哉は小刻みに腰を遣いながら、着実に深いところへと侵入してくる。

 

「っ、ぁ……、深……いっ」

 

 根元まで挿れられて、奥深いところを抉られた。熱く硬い克哉のペニスが窮屈な場所を蹂躙する。内臓を押し上げられるような圧迫感に喘ぐが、すぐさま痺れるような疼きがさざ波のように身体の隅々まで行き渡る。天板と腹の間に挟まれた御堂のペニスは透明な蜜を滴(したた)らせる。

 恋人ではない克哉に愛のない抱き方をされても、即座に反応してしまう自分の身体が忌々しい。

 克哉が腰を大きく動かし出した。肉が肉を打つ淫らな音が響き渡る。浮き上がりそうになる身体をテーブルにしがみつくことで必死に押さえつけた。

 揺れる視界に壁掛け時計が映り込んだ。その針は始業時間が迫っていることを示している。

 

「佐伯、もうすぐ会社が……っ」

「それなら、早く終わるように協力しろよ」

「ぁ、ああ……っ」

 

 こんなところでこんな風に犯されるのは嫌なのに、熟れきった粘膜が克哉を欲しがって収斂する。

 

「俺のを物欲しげに咥え込んで。あんた、相当な淫乱だな」

 

 克哉は御堂の腰を揺すり上げ、笑い含みに言いながら、克哉のものを咥え込んで限界まで広がったアヌスの縁をなぞり、爪の先を結合部に含ませた。

 

「物足りないなら指も挿れてやろうか?」

「よせ……っ」

 

 克哉のペニスだけでもこれほど苦しいのに、指まで咥えさせられたら裂けてしまう。

 拒絶の声を上げる御堂に克哉は喉で低く笑うと指を離した。安堵したのもつかの間、克哉の指は、アヌスから陰嚢の間をツウとなぞった。蟻の門渡りの部分だ。突如、その中心部をぐっと親指で押される。刹那、今までに感じたことのない感覚に貫かれ、御堂は身体をビクッと痙攣させた。

 

「な……っ、あ、やめ……っ、ひあっ!」

「ここを押されると効くだろう? 前立腺に響くからな。ほら、前もびしょびしょだ」

 

 御堂のペニスからとぷとぷと蜜が溢れ、テーブルの上に恥ずかしい溜まりを作っていく。

 克哉は御堂の蟻の門渡りを苛めながらも、尻肉を押し潰すようにして突き上げてくる。身体の深いところを克哉にいっぱいにされて気持ちよいところを責められて、頭の中が白む。

 克哉が御堂の上体に身体を被せるようにして、囁いた。

 

「あんたの佐伯でないのに、感じちゃうのか?」

「ぅ……っ」

 

 今の自分はさぞ快楽に蕩けた顔をしているのだろう。必死に自分を抑えていないとあられもなく克哉をねだってしまいそうだ。だが、幸い、背後から御堂を犯す克哉は御堂の顔を見ることはない。御堂も同様だ。

 克哉は御堂の顔を見ないで済む体位を好み、御堂もそれを望んでいた。

 行為の最中は互いに別々の相手を頭に浮かべている。御堂は恋人の克哉を。克哉は御堂以外の別の誰かを。そうして、相手に対する余計な想いが混ざり込まないように自分の中の快楽にだけ集中する。

 克哉の腰が忙しない動きへと変わった。克哉の極みがすぐそこまで来ていることを感じ取る。御堂は必死の声を上げた。

 

「佐伯……っ、中には出すな…っ」

 

 今までの行為では嫌がっても散々中に注がれている。だが、今、後始末している余裕はない。それは克哉も分かっているはずだ。

 克哉が少しばかり動きを止める。

 

「確かに汚すと面倒だからな。協力してやるさ」

 

 喉の奥で笑って、克哉は御堂のペニスの根元を掴んだ。はち切れんばかりに勃起したペニスを強く戒められて御堂は身悶える。

 

「ひ……っ」

 

 ふたたび克哉が腰を強く打ちつけだす。逃げようにも前を掴まれて、逃げることが叶わない。抽送が激しくなり、弱いところを抉られ擦りあげられて、御堂はガクガクと全身を震わせた。射精を封じられたまま、泥沼のような絶頂に引きずり込まれる。

 

「ぁ……、ぁ」

「ほうら、出さなくてもイけた」

 克哉がくすりと笑う。

 御堂の体内がぎゅうっと締まり、克哉のペニスが御堂の奥深いところに精液をびゅくびゅくと注ぎ込んでいく。最後の一滴まで御堂の最奥に吐き出すと、克哉はずるりと自身を引き抜いた。

 戒めを解かれたペニスから、うっすらと白い粘液混じりの液体が吐き出される。

 ぐったりとテーブルに倒れ込む御堂を尻目に、克哉は自分の後始末をさっさと終えた。きっちりとしたスーツ姿に身繕いをすると御堂に向けて言う。

 

「安心しろ、俺が先に行っているから。あんたはゆっくり出勤すればいいさ」

「佐伯……」

 

 恨みがましい目で克哉を睨んだが、克哉はもはや興味を失ったかのように、踵を返すとさっさと部屋を出て行った。少しして玄関のドアが開く音が聞こえた。自分ひとりで出勤したのだろう。

 御堂はのろのろとダイニングテーブルから脚を下ろした。下半身がぐっしょりと濡れている。これではシャワーを浴び直さないと駄目だ。シワになってしまったシャツも新しいものに着替えなくてはならない。

 御堂は深々とため息を吐いた。

 こんな日々を繰り返して、どこに辿り着くのだろうか。

 御堂と克哉はボタンを掛け違えてしまったかのように、どこまで進んでも一向に噛み合う気配はなかった。

 

 

 

 

 シャワーを浴び直し、克哉の残滓を体内から洗い流す。解放できなかった欲望が下腹に渦巻いていて、解き放ってしまいたい衝動があったが、そんなことをしている余裕はどこにもない。湯温を下げてむりやり自分の中の熱を凍えさせて、AA社に出勤した。

 とっくに始業時間は過ぎており、気まずさを感じながら御堂は社員たちが勤務するオフィスフロアを通り抜け、執務室に入った。

 執務室ではすでに克哉は自分のデスクに着席していて、克哉のデスクの前には藤田が立っていた。何かの書類をデスクに広げ、頭を突き合わせて何やら相談をしているようだ。

 

「藤田、どうした?」

 自分のデスクに鞄を置いて藤田に声をかけた。顔を上げた藤田が「御堂さん、おはようございます!」と元気よく挨拶をして、言った。

 

「新規のコンサル依頼があって、佐伯社長に相談していました」

「その件については私が聞く」

 

 顎を軽く上げ、こっちに来るよう藤田を仕草で促す。

 藤田は困惑したように克哉と御堂の間で視線を行き来させた。御堂は無言の圧をかけるようにして藤田を見据える。

 克哉に何かを言おうと、藤田は口を開きかけたが、克哉はさりげなく藤田に目配せをして、暗黙の内に御堂の方へ行くように指示をした。

 ようやく藤田は克哉のデスクの上から書類を掴むと、御堂のデスクへと歩みを寄せた。

 有無を言わせぬ口調で藤田に告げる。

 

「新規の依頼については、私が判断する。すべて私に報告するように」

「はい」

 

 当然、この言葉は克哉にも聞こえているはずだ。だが、克哉は何も聞こえなかったかのように自分の仕事に戻っている。

 藤田は何か言いたげな顔をしたが、依頼のあった会社について手短に御堂に説明を始めた。新しい飲料水の販売に関するコンサルで、AA社が得意とする分野だ。依頼を引き受けることを決定し、藤田を担当者に据える。

 

「では、それで進めます」

 

 そう言って、藤田は一礼すると執務室を出て行った。

 藤田の中には疑問と困惑が渦巻いていることだろう。今まで、新規の依頼については、克哉が引き受けるかどうか判断をしていた。それが今では、御堂がすべてを判断している。

 御堂はAA社の社員に、克哉が本調子に戻るまで仕事をセーブすると伝えてあった。端から見れば、克哉はもう完全に調子を取り戻したように見えているだろう。

 今の克哉は営業をやっていた頃の記憶しかない。MGN社で開発を手がけていたことも忘れている。それでも、コンサルティングという業種を自分で選んだくらいだ、相性は良いようで、仕事の勘を掴むのは早かった。今では、クライアント企業の業績資料の解析や提出する書類のチェックは克哉が行い、期待に応える辣腕ぶりを発揮している。

 誰しもが、同じ社内で仕事を共にする社員でさえ、克哉がAA社で働いていたという記憶をすべてなくしているという事実につゆほども気付いていない。

 しかし、クライアントとの折衝を始め、コンサルティングの方向性など社の基幹業務はすべて御堂が決定していた。克哉を差し置いて実質的なワンマン経営をしていると言っても過言ではない。社員も口には出さないが、疑問には思っているはずだ。

 御堂はデスクの上のパソコンを立ち上げ、仕事関係のメールをチェックしながら、ふと思い出して克哉に顔を向けた。

 

「佐伯、フードフェスの企画書、目を通したか?」

 

 克哉はキーボードを叩いていた手を止めて御堂に顔を向ける。

 

「ああ。ひととおり目を通した」

「それなら早く承認して戻してくれ。早めに先方の感触を掴みたい」

 

 フードフェスは克哉が企画を練る予定だったが、案を形にする前に事故に遭ってしまったため、代わりに御堂がプランニングをしていた。奇抜さはないものの、堅実で万人受けするようなプランを作っている。その方向性でクライアントの承認が得られれば、さらに細かいところを詰めて、より詳細な案を組む予定だ。

 提出する企画は社長である佐伯克哉の名前も責任者として併記するため、克哉に確認してもらうよう企画書を渡していた。内容に目を通し、明らかな問題なければさっさと承認して戻してくれれば良い、それくらいの意図だったが、仕事が早い克哉にしては中々返事が得られない。

 克哉は少し考え込むような素振りで言った。

 

「フードフェスの企画は、もう少し時間をくれないか」

「何か気になるところでもあるのか?」

「悪くはないが無難なプランニングに見える。AA社の名前で出すなら、もう少しチャレンジングな企画を入れても良いと思うが」

 

 克哉の言葉に御堂は眉を顰(ひそ)める。

 

「君に求めているのは追認のみだ。明らかな欠陥が見当たらないならさっさと戻してくれ」

「俺はこの社の共同経営者なのに?」

「君にはその記憶がないだろう。分かったような口を利くな」

 

 今度こそ露骨に不快感を滲ませて言い返す。

 このAA社を立ち上げてここまで大きくしたのは恋人の克哉と御堂であって、目の前の克哉ではない。

 御堂の言いたいことが伝わったのか、克哉は皮肉げに口元を歪めた。

 

「社長の俺は飾りというわけか」

 

 御堂と克哉の視線が拮抗し、緊迫した空気が張り詰める。

 当然、この克哉が座る社長の椅子は仮初めのものであって、本来なら御堂の恋人である克哉が坐すべき場所だ。この克哉は一時的な代理を務めているに過ぎない。

 御堂に対する好意も悪意も持たない克哉は、同僚として一緒に働くだけなら頼りになる男だと思う。だが、それを素直に評価できないのは、この克哉を完全に信用することができないからだ。今のところは御堂との約束を守っているが、この克哉はかつて御堂を蹂躙し尽くした克哉でもある。つまり相手を踏みにじることに何の躊躇もしないのだ。必要とあらば、御堂が隙を見せた瞬間に寝首を掻くこともするだろう。

 それでも、それを正直に伝えて克哉に臍を曲げられるのは困る。御堂は、幾分口調を落ち着かせて言った。

 

「もちろんこれは暫定的な処置で、いずれは君に社長の権限を戻すつもりだ。……ただし、君が名実ともに社長に相応しいと私が判断したときだ」

「今の俺では至らないと?」

「君の能力が優れていることは分かっている。それならば三年間のブランクがどれほどのものか君にも分かるだろう」

 

 克哉は舌打ちして黙り込んだ。

 自らが経験した全てを自身の血肉に変えていった克哉だ。いくら克哉の能力が卓越したものだとしても、逆にそれだけに、三年間の空白が決して埋められない差となっていることを分かっているはずだ。

 そして何よりも、この克哉にはAA社をどのように導いていくか、何を目指しているのか、未来に対する確固たるビジョンがない。「世界を手に入れる」かつて克哉はそう言った。だが、この克哉はそんな野心も野望も持ち合わせていないのだ。気が付いたらAA社の社長になっていて、流されるままに右から左に業務をそつなくこなしているだけだ。

 それは、この克哉はAA社を起業するまでの記憶がないから致し方のないことでもある。だからこそ、そんな克哉にAA社をかき回されたりしたら、克哉の記憶が戻ったときに合わす顔がない。克哉不在の期間にAA社を守るのは副社長たる御堂の当然の役目だ。

 だから、AA社の業務で、経営を左右する基幹業務については克哉に任せるつもりはなかった。AA社の主要な機密情報についても克哉には一切教えていない。そして、克哉もまた、御堂のそんな態度に気が付いている。

 克哉の記憶が戻るまでは、社長の肩書きとふさわしい待遇を与えておけば満足するだろう。

 御堂はそんな考えでいたし、克哉は克哉で、AA社では御堂に指示されるがまま一歩引いたところで黙々と仕事をしていた。

 そんな克哉の態度は、AA社自体に興味がないのだからだとも思っていたが、もし克哉が本気で御堂からAA社の実権を奪取しようと企んでいるなら、それは厄介な事態を引き起こす。

 プライベートでは克哉の欲望のために身体を捧げても、AA社では御堂が絶対的なリードを握る。それだけは決して譲れない一線だった。

 

 

 

 

 それから数日経って、御堂がトラブル発生の報告を受けたのは、打ち合わせのために出向いた相手先の企業でのことだった。

 外回りの業務のほとんどは、克哉ではなく御堂が引き受けていた。

 プライベートでは四六時中克哉と一緒にいるのだ。部屋の中では息苦しいほどの緊迫感が御堂に重くのしかかっている。以前はふたりきりの時間は心地よいものだったが、今では真逆に変わってしまった。職場では他の社員がいる分、いくらか緊張は緩和されるが、だからといって居心地が良いわけではない。克哉もまた同様だろう。

 今回はクライアントとの打ち合わせのため、担当者の部下と共に出向いていた。問題なければスケジュールと進捗の確認だけで終わる予定で、部下だけで行かせても良かった会議だ。だが、克哉の傍にずっといることの息詰まりから逃れたくて御堂も出向いたが、それが裏目に出てしまった。

 AA社にいる藤田からの連絡によれば、AA社のクライアント企業のひとつである会社社長がAA社に怒鳴り込んできたというのだ。事務員が怯えるほどの剣幕で、社長は担当者の藤田を出せと騒いでいるらしい。よほど切迫した事態なのだろう。電話口の藤田の声も動揺に震えている。

 御堂は努めて落ち着いた声で藤田に告げた。

 

「社長にはすぐに私が戻ると伝えてくれ。その間、なんとか場をつないでくれるか。ただし、佐伯には対応させるな」

 

 会議の最中だったが、御堂は途中退席する旨を取引先に告げて頭を下げた。打ち合わせの続きを部下に任せ、AA社へと直行する。

 頭に血が上(のぼ)っている相手を藤田一人に対応させるわけにはいかない。御堂が責任者として場を治めるべきだろう。何か不手際があったとしたら頭を下げるのは上司の役目だ。

 AA社には克哉がいるが、その役目を克哉に担わせるには不安があった。今の克哉は本人が望む望まないにかかわらず、AA社の顔だ。その自覚のない克哉は、あのパーティーのときのように嗜虐心に任せて相手を打ちのめすかもしれない。そうなれば、克哉本人の満足は得られても、AA社の評判を著しく落とすだろう。

 御堂はタクシーを急がせてAA社へと戻る。だが、オフィスに一歩入って気が付いた。AA社のオフィスは平穏さを取り戻していた。御堂に気付いた女性の事務員が足早に近付き、告げる。

 

「佐々木社長はちょうど先ほどお帰りになりました」

「帰った?」

 

 佐々木というのは怒鳴り込んできたというクライアントの社の社長だ。短気で激高しやすい職人気質であることは知っていたが、一体何があったのだろうか。

 わけも分からず困惑していると、藤田がオフィスの奥から出てきて御堂に向けてぺこりと頭を下げた。

 

「御堂さん、ご心配をおかけしました。佐伯さんが相手をしてくれて丸く収まりました」

「佐伯が? どういうことだ?」

 

 克哉が絡んでいると知って、言葉尻がきつくなる。

 藤田が慌てて説明をした。

 どうやら佐々木は、悪質な経営コンサルティングが問題になっているという話を聞いて不安になり、AA社のコンサルティングが適切かどうか、他のコンサルティング会社に相談に行ったらしい。だが、相談した先こそ悪質なコンサルティング会社でAA社についてあることないことを吹き込まれ、詐欺にあったと思い込んだそうだ。そして、その足でAA社に怒鳴り込みにきたということらしい。

 怒り心頭で喚(わめ)き散らす佐々木に応対したのは克哉だった。藤田が御堂に連絡している間に、佐々木を案内した応接室に入り、直接相手をしたという。

 藤田も急いで同席したが、克哉は終始落ち着いた態度で佐々木を宥め、穏やかで柔らかな口調で噛んで含めるように自社のコンサルティングが適切であることを説明した。最初は半信半疑だった佐々木も、すぐに自らの短絡的な思考に気が付いたようで、最後には恐縮しきりに平身低頭で謝りながらAA社を辞したという。

 藤田が感心しきりの態度で言う。

 

「俺、本気で怖かったんですけど、佐伯さん、まったく動じることなくて。すごく格好良かったです」

 

 場をさっと収めて見せた克哉の姿を思い起こしているのか、藤田の隣では事務員の女性も頬を染めながら大きく頷いている。

 想定外ではあったが、克哉のファインプレーにより事態が無事に収束したことに胸を撫で下ろした。

 となれば、御堂がこの場にいる理由もないので、抜け出してきた会議に戻ろうかとも思ったが、ちょうどそのタイミングで御堂のスマートフォンがメールを受信する。部下からの会議が無事終了した旨のメールだった。

 御堂は藤田たちの労をねぎらいつつ、執務室に向かった。克哉はデスクで澄ました顔をしてパソコンに向かっていた。克哉に向けて声をかける。

 

「佐伯、佐々木社長の相手をしてくれたそうだな。ありがとう、助かった」

 

 本心からの感謝を述べたつもりだった。だが、克哉はぴくりとも表情を変えず、睨めつけるような視線で御堂を見返した。そのレンズ越しの双眸には冷たい光が宿っている。

 

「何故あんたが俺に感謝するんだ?」

「それは……」

 

 何かまずいことでも言ったのだろうか。克哉の不機嫌さの理由が思い当たらず言葉が見当たらない。

 

「俺はいつまでもお客様扱いということか」

 

 そう言って克哉は口をつぐむと、御堂からパソコンに視線を戻してふたたびキーボードをたたき出す。

 御堂もまた克哉から視線を逸らすと、自分のデスクに戻った。最近の克哉との会話は万事この調子だ。今の御堂は何を言っても克哉の機嫌を損ねてしまう。だから、会話の数も自然と少なくなり、どんどん互いの距離が離れていっている。一番まともな会話をするのはセックスのときくらいだろうか。

 克哉にどう接すれば良いのか分からなくなっていた。

 自分は果たして正しい方向に向かっているのだろうか。

 そして、いつまでこの状況を耐え続ければ良いのだろうか。

 

 

 

 

 その日、就業時間を過ぎて、社員全員が退社したところで克哉はふらりと姿を消した。鞄はまだ置いてあるし、どこに行ったのかと気になったところで、タバコの匂いを纏わせて戻ってきた。どうやら喫煙スペースで一服してきたらしい。

 責める眼差しで克哉を見ると、克哉は平然と言った。

 

「もう、一ヶ月経ったろう? 酒もタバコも解禁だ」

 

 そのとおりだ。

 四柳が言った一ヶ月はちょうど昨日で終わっていた。そしてこの一ヶ月間、怖れていた急変はなく過ごしたが、克哉の記憶はまったく戻っていなかった。

 執務室に戻ってきた克哉は、プレジデントチェアにどさりと腰を掛けて背もたれを深く倒すと、両足を自分のデスクの上に投げ出した。

 あまりにも無作法な態度を目にして、御堂が不快感を眉に伝える。だが、克哉は薄い笑みを浮かべて言った。

 

「脱げよ、御堂。シたくなった」

「……本気で言っているのか?」

 

 突然の言葉に面食らう。

 社員は全員帰ったとはいえ、まだ早い時間帯だ。誰かが戻ってくるかもしれない。躊躇って動けないでいると、克哉が言った。

 

「脱ぐ気はないと?」

「せめて、部屋に戻ってからにしてくれないか。仕事はもう片付いている」

 

 ノートパソコンをシャットダウンし、帰り支度をしようとしたところで、克哉はバンと音を立てて、デスクの上の脚を組み直した。その大きな音にびくりと動きを止める。克哉はじろりと御堂を睨めつけた。

 

「俺は今、脱げと言ったんだ」

「……っ」

 

 御堂は唇を噛んだ。

 克哉は御堂が嫌がるのを承知の上で、要求している。むしろ、あえてそうしている節さえある。

 だからといって、御堂がひと言断れば、克哉はあっさりとこの場から去って別の相手を求めるだろう。

 元より御堂に拒絶するという選択肢はないのだ。

 御堂は覚悟を決めて立ち上がると、自分のネクタイのノットに指を入れた。そのまま指を下に降ろして、ネクタイを解く。襟元のボタンを外したところで克哉は御堂から視線を外し、これ見よがしのため息を吐いた。

 

「冗談だ」

「冗談……?」

 

 克哉は椅子を御堂の方にくるりと回してデスクから脚を降ろす。

 

「あんたはいつまで続けるんだ、こんな不毛なことを?」

「不毛だと?」

「もういなくなった男のために身体を差し出し続ける。これが不毛なことでなくて何なんだ?」

 

 その目にあるのは軽蔑でも憐れみでもない。何の表情も浮かべずに正面から真っ直ぐに問いかけられて、御堂は言葉を詰まらせる。それでも、無理やり絞り出すように言った。

 

「……佐伯はいなくなってなどいない」

「どこにいるんだ、そいつは? 空の彼方か?」

「やめろ……っ」

 

 克哉はどこにいるのか。どこかに存在しているなら、なぜ戻ってこないのか。もしかして消えてしまったのか。

 御堂もその不安を押し殺しているからこそ、克哉の言葉に傷ついた。

 克哉はたたみかける。

 

「あんただって、他の相手を簡単に見つけることができるだろう? それなのにどうして、過去の俺にこだわる?」

 

 それは言い換えれば、克哉ではなく他の相手を探せと言うことなのだろう。一ヶ月という区切りはついた。御堂が克哉を縛る建前もなくなった。それでも、目の前にいる克哉を簡単に諦めることができるはずなどなかった。

 

「……私が愛しているのは佐伯克哉だけだ」

 

 御堂は身体の横に降ろした拳をぐっと握りしめる。

 他の誰でもなく、克哉でなければ駄目なのだ。

 

「あんたがなぜ俺と付き合うことになったのか知らないが、それは単なる偶然かもしれないだろう?」

 

 克哉の言葉はどこまでも冷たい。

 

「あんたと俺が出会うのは必然だったとしても、あんたと俺が恋人関係になったのは単なる偶然ではないのか。何かがひとつでも違えば、俺とあんたはただ同僚で、それぞれが違う恋人を持つことだってあり得るだろう? 数多(あまた)の可能性のうちのたったひとつ、それが俺たちだ」

 

 それはそうなのかも知れない。

 御堂が克哉に再会したのはたまたまL&B社がMGN社の企画に応募したからであったし、元を辿れば御堂が克哉に性的接待を要求しなければ、そして、克哉がそれに応酬しなければ、御堂と克哉は仕事以上の関係にならないまま終わっていただろう。

 人は常に選択を迫られる。選ばれなかった選択肢の先に別の未来が広がっているとしたら、克哉と御堂が激しく憎み合う世界もすぐ隣にあるのかもしれない。

 それでも、おびただしい偶然と選択の積み重ねがこの世界を造り、そしてこの世界に御堂は存在している。

 

「……それでも、私たちは共に在ることを選んだのだ」

「『私たち』ねえ……」

 

 さも自分は無関係だと言わんばかりの口調だ。

 それでもなぜこのタイミングで克哉はそんなことを言い出すのか。

 克哉は御堂とのセックスに満足していないのだ。互いに違う相手を思い浮かべながらする性欲を排泄するだけの行為。決して満たされることはない。

 克哉の眼差しの先には御堂ではなく、別の人間がいる。それはまだ顔も名前も定かではない運命の相手だ。ただひとつ言えるのは、その相手は御堂ではないと言うことだ。

 結局この一ヶ月間、この克哉との距離は縮まるどころか、どうにも乗り越えられない壁の存在を痛感しただけだった。

 元々は恋人同士だった関係だ。多少なりともこの克哉が御堂に愛情を抱いてくれることを期待したが、そうはならなかった。そもそも元の佐伯克哉がなぜ御堂を好きになったのか、それさえも分からない。この克哉に自分への愛情を期待するのは間違っているのだろう。

 御堂は惨めさを噛みしめながら言った。

 

「君は、私ではもう満足できないという言うことか」

「あんたとのセックスは悪くない。ただ、不毛なだけだ」

 

 克哉は首を振り、自嘲気味に笑った。

 

「じゃあ、続きをしようか、御堂?」

 

 どこか投げやりに言って、克哉は自分のネクタイを抜き取る。御堂もまた克哉から視線を逸らしてシャツのボタンを外していく。

 AA社の空調が効いたオフィスが、ひどく寒々しく感じた。

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(6)
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 御堂が出勤して朝一番に行うことは、AA社が引き受けているすべての依頼の進捗状況を確認することだ。

 この日も御堂はデスクに着くなりすべてのコンサルティングをチェックしていった。

 大方順調に進んでいるが、一件だけ滞っているものがあった。フードフェスの企画だ。克哉が企画の承認を渋っているせいで、クライアント企業への提出ができていないのだ。

 

 ――いい加減、佐伯に企画書を承認するように言わねば。

 

 御堂は黒目だけ動かして、同じ執務室内で働く克哉の横顔を盗み見る。克哉は表情を消したまま、自分に与えられた仕事を黙々とこなしている。

 社長のデスクで仕事に勤しむ克哉の横顔は、若く有能な経営者としての冷徹さとカリスマ性を備えている。御堂でさえ、恋人の克哉がそこにいるのではないかと錯覚するほどだ。

 しかし、一日中傍に居るのにも関わらず、気安く声をかけることができないほど、御堂と克哉の間には色濃い影が落ちていた。

 四柳に注意するよう言われた一ヶ月を過ぎても、事態は何も好転しなかった。

 つい先日、克哉は経過観察のために四柳のところに受診したが、やはり検査で異常は認められず記憶喪失についてはこのまま様子見をみるように言われた。

 ふたりの生活は変わらないが、克哉は御堂とまともに視線を合わせようともしない。

 オフィスでも、他の社員の手前では普段どおりに振る舞うが、ふたりきりになった途端、重い沈黙が立ちこめる。部屋に戻ればすぐに克哉は自室に籠もった。唯一会話らしい会話を交わすのはセックスのときくらいで、そのセックスでさえただ単に性欲を排泄するだけの意味合いが強い。ふたりの関係は日増しに悪化しているとしか言いようがない。

 時折、克哉は何かに思い沈むような態度を見せる。

 もう克哉を引き留めるのは難しいのかも知れない。

 日々克哉を観察しても、記憶を取り戻すような気配はなく、自分は何のために頑張っているのか分からなくなってくる。それでも、克哉に抱かれている間は、胸の奥で淀む感情がふっと消え去り、頭の中が真っ白になるような快楽に浸る。そうして、絶頂の余韻が引くと同時に満たされない想いがくすぶる。

 もしかして、自分はとっくに克哉を取り戻すことを諦めていて、それでも、克哉から与えられる快楽を忘れられなくて、克哉から離れられないのだろうか。

 そんな弱気な考えにさえ囚われてしまう。

 克哉が言うとおり、ふたりの関係は不毛だ。袋小路に向かっているだけだ。しかし、だからといって、どうすれば良いのか。誰も答えを教えてくれない。

 

 

 

 

「お邪魔しまーす!」

 

 昼休憩に入る直前のタイミングで、AA社の執務室によく通る声が響いた。何事かと御堂は驚いてパソコン画面から顔を上げ、意外な客が訪れたことを知った。キクチ八課の本多憲二だ。

 

「ちょっと、勝手に入られては困ります……!」

 

 背後からうろたえた様子の事務員が本多を引き留めようとする。

 隣のデスクでは克哉もまた顔を上げて、目を瞬かせた。

 

「本多……?」

「克哉、久しぶりだな」

 

 本多はにこやかに笑いながら、克哉のデスクへと大股で歩みを寄せた。

 本多と初対面の事務員は、どうしたものかと御堂に助けを求めるように目配せをしたが、御堂は片手を上げて問題ないと示し、事務員を下がらせた。そして、本多に向けて非難を込めた視線を向ける。

 

「本多君、来るときは事前に連絡をくれないか。他の社員が戸惑っている」

「あー、すっかり忘れていました。次から気をつけます」

 

 と本多は反省のない口調で言って、頭をかいた。

 克哉の友人でもある本多は時折こうしてAA社に顔を出すが、いつも突然だ。そのたびに御堂は苦言を呈するが、本多は大して気に留める様子はない。

 上背もあり体格も良い本多はその場に立っているだけで威圧感を感じさせる。だが、性格は気さくでフットワークも軽い。臆することなく相手の懐に飛び込む度胸もある、腕利きの営業マンだ。そして、営業代行を行うキクチ八課のエースでもある。

 かつてのキクチ八課はリストラ候補生の寄せ集めと揶揄させるほどのお荷物部署だった。だが、プロトファイバーの営業を受託し、克哉と本多の活躍で飛躍的な業績を上げた。それがきっかけとなったのか、克哉が抜けても好業績をキープしているという。

 本多が克哉のデスクの上に身を乗り出すようにして言う。

 

「今度のフードフェス、企画がどうなっているかと思って。……ま、近くまで来る用事があったからついでに顔を出したんだけど」

「随分と気が早いな、本多」

 

 まだ企画の案も固まっていない段階だ。それでも、AA社がフードフェスの企画に絡んでいることを本多が知っているのは、スポンサー企業の関係でキクチ八課も営業で一枚噛んでいるからだ。

 

「フードフェスか……」

 

 克哉が黒目だけでちらりと御堂を見る。御堂が代わりに答えた。

 

「まだ企画は完全に出来上がっていない。先方のOKも出ていないから詳しい企画内容は話せない」

 

 冷たい口調で淡々と告げたが、本多は大仰に首を振った。

 

「そんな細かいことを聞きたいんじゃない。来場者をどれくらい見込んでいるとか、営業の話題になりそうな話を知りたいんだが、駄目か?」

 

 まだ企画も動いていない段階で、そんなことを知ってどうするのかと疑問に思ったが、本多のしつこさも分かっているので、御堂は渋々頷く。

 

「まあ、それくらいならいいだろう」

「それならちょうど昼時だし、一緒に飯行こうぜ、克哉」

「そうだな……。本多と食事しに行ってきていいか?」

 

 克哉は御堂へと伺う眼差しを向ける。

 当然、御堂も異存はなく、そのまま二人で行かせようとしたところで思い直した。本多は克哉をよく知っている。すなわち、克哉が記憶を失っていることが何かの弾みで露見する怖(おそ)れもある。だから、煙たがれるのは承知の上で言った。

 

「それなら、私も一緒に行っていいか?」

「もちろん、いいですけど……」

 

 本多は驚いたような顔を向ける。まさか御堂までついてくるとは思わなかったようだ。横では克哉が、ふう、と聞こえよがしのため息を吐いた。本多との昼休憩にまで付いてくる御堂のしつこさに辟易しているのだろう。克哉のため息を無視して、御堂は立ち上がった。

 AA社から少し歩いたところにある気取らない定食屋に三人で入った。案内されたテーブルに克哉と本多が隣同士に腰をかけ、御堂はその向かいに座った。

 お茶を置かれたところで、日替わり定食を三人分頼む。本多が横の克哉に顔を向けた。

 

「克哉、忙しいのは分かるが、たまにはキクチ八課に顔を出せよ。片桐さんが寂しがっていたぞ」

「そういえば、片桐さんは元気か?」

「相変わらずだな。発注システムの入れ替えがあって、その導入にバタバタしている」

「IT関係は苦手だからな、あの人は」

「そうだけど、これが結構まともに使えるようになってきているんだぜ」

「本人のスキルが上がったのか、システムが初心者向けに改善されたのか、どっちだ?」

「相変わらず厳しいな、お前は。片桐さんの実力を直接見に来いよ」

 

 そう言って、本多は克哉の背中をぽんと叩く。その力が思いのほか強かったようで、克哉は飲みかけのお茶を噎せながら本多を睨み付けた。当の本多は克哉の隣で豪快に笑っている。

 

「部外者の俺が勝手にキクチに行くわけにはいかないだろう」

「じゃあ、飲み会しようぜ。片桐さんや他の八課メンバーも誘ってさ」

「そのうちにな」

「お前、前もそう言ってうやむやにしていただろう」

 

 克哉と本多の会話が弾むが、一向にフードフェスの話題は出ない。どうやら、フードフェスについて聞きたいというのは建前で、本多は単に克哉に会いたかっただけなのだろう。

 克哉は表情を和らげ、本多に言う。

 

「本多、お前はまったく変わらないな」

「なんだいきなり」

「いいや、お前がお前で安心する」

「それは成長してないとでもいいたいのか」

「これ以上成長されても鬱陶しいだけだしな」

「何だと、克哉?」

 

 本多の遠慮のない口調に克哉は眉をひそめ迷惑そうな素振りを見せているが、それでもどこか楽しそうだ。

 御堂には時として敬語になる克哉だが、本多には砕けた口調になっている。

 克哉の記憶はキクチ八課に所属していたところで途切れている。この克哉にとっては御堂との日常よりも、本多や片桐との日常の方が地続きで馴染み深いものなのだ。

 食事が運ばれてきても、二人の会話は止まらず、話は本多が引き受けている営業へと変わった。取引先の企業の名前をひとつひとつ挙げては、あそこの担当者がどうだとか、キクチ八課の共通の話題で盛り上がっていた。

 相手に対する手厳しい批判も含めて、ぽんぽんと応酬を続ける二人は言いたいことを言い合える仲だということが分かる。

 こうなることは分かっていたのに、御堂一人、蚊帳の外に締め出された気分になった。むしろ、克哉はあえて本多と気の置けない仲であることを御堂に見せつけているのではないかと邪推してしまう。

 店に入って幾ばくもしないうちに、この三人で過ごす時間が御堂にとって苦痛になっていた。

 御堂は運ばれてきた自分の食事を黙々と平らげ、立ち上がった。

 

「私はこのあと用事があるから先に失礼する」

「あ、すみませんでした。長々と時間をとってしまって」

 

 本多が慌てた様子で御堂に謝った。御堂は首を振ると、二人に向けて言った。

 

「いいや、佐伯の午後のスケジュールは空いている。積もる話もあるだろうから二人でゆっくりしたらどうだ」

「いいのか、克哉?」

 

 克哉は御堂を一瞥し、本多に視線を戻す。

 

「俺がいなくても、AA社は御堂さん一人いれば十分だからな」

「さすがだな」

 

 克哉の皮肉に気付かぬ本多は、感心したような相づちを打つ。

 御堂は無言で自分の会計分の千円札をテーブルに置くとその店を後にした。じくじくと痛む胸を抱えながらAA社に戻り、仕事を再開する。

 ややあって、克哉からメールで連絡が入った。本多とフードフェスの現地視察に行くという。了承の旨をメールで返信した。

 そこは、克哉が倒れた日に視察に出向いていた場所だ。すでに足蹴く通ったところだが、いまの克哉にとっては初めての場所でもある。

 御堂と訪れた場所を、克哉は本多と訪れている。

 先ほどの二人の様子を思い浮かべた。克哉と本多はキクチの同期というだけでなく、大学時代からの友人だとも聞いている。同じバレーボール部に所属していたという。

 本多と二人でいる克哉を思い描いて、胸が衝かれる思いがした。

 克哉が本多に向けていた表情と、御堂に向ける表情には埋めることのできない隔たりがあった。気を張ることも飾ることもない、克哉の素の顔が出ている。克哉が事故に遭ってからは一度も目にしたことのない表情だ。

 胸が軋み、息が苦しくなってくる。

 書類を確認しようとも目は上滑りするばかりで内容がまったく入ってこない。

 あの二人の姿を目にして、自分はひどくショックを受けているのだと理解した。

 克哉が御堂には見せない笑顔を見せたことに。そしてその笑顔は自分ではなく本多に向けられていたことに。

 克哉が口にした御堂と克哉が恋人同士にならない世界では、克哉と本多が恋人関係になることだってあるのかもしれない。

 その克哉はきっと本多に向けて心からの笑みを浮かべ、愛を誓っているはずだ。そして実直な性格の本多もまた、克哉の愛に真正面から応えようとするのだろう。

 もしかしたら、その仮定の未来はこの現在(いま)につながっている可能性だってある。

 御堂との記憶を消した克哉は、新たな誰かと結ばれる。それは、本多かも知れないし、また別の誰かかも知れない。

 しかし、克哉が御堂と暮らす限り、そんな相手を見つけるのは難しいだろう。

 御堂が身体を切り売りすることで、克哉が未来の恋人と巡り会う日を先延ばしにしている。

 御堂はそれが当然だと思っていたし、最善であると信じていた。

 しかし、このまま克哉が記憶を取り戻さなかったらどうなるのか。

 御堂と克哉の間にあった何もかもが消え去ってしまい、存在しなかったことになってしまうのだろうか。

 忘れるというのは頭からきれいさっぱり失われるのではなく、どこか奥深いところにしまい込まれているだけなのではないか。それが何かの拍子に、泡のようにふわりと意識の表面に浮かび上がるのではないか。

 そう思うからこそ、御堂は克哉の傍から離れることができない。

 希望は絶望よりもタチが悪い。

 もし、克哉があの事故で死んでいれば御堂はひどく悲しんだだろう。それこそすべてに絶望し立ち上がれなくなるほどに。

 だが、それでもいつか、どん底から這い上がっていただろう。かつて誇りと自尊心を完膚なきまでに打ち砕かれたときも、こうして立ち直ることができたのだから。

 だが、克哉は死んでいない。ただ、見えなくなっているだけだ。そう思うからこそ諦めきれない。自分の元に引き留め続ければ、いつか記憶を取り戻し、自分を愛してくれるはずだ。そんな根拠のない希望にすがりついて克哉を縛り付けている。そして、御堂は御堂でひたすら失望を味わわされている。

 

 ――だから、こんなにも苦しいのだ。

 

 果てのない苦しみに、いっそ克哉が死んでいたら……と考えてしまう自分がいる。そんなさもしい自分に心底嫌気が差す。

 先ほど目にした克哉の笑顔を思い出す。今の克哉の幸せを奪っているのは間違えようもなく、この自分なのだ。

 御堂の行動は克哉の幸福には繋がっていない。その事実を自覚させられる。

 もう、克哉が記憶を失ってから一ヶ月経った。この一ヶ月という期間が長いのか短いのか分からないが、ひとつの結論を出すのに短すぎるということはないだろう。

 御堂は克哉よりも七歳年上だ。酸いも甘いも噛み分けた十分すぎるほどの大人だ。

 大人なら、自分の欲望よりも愛する者の幸せを願うべきだ。それなのに、なぜ自分は克哉の幸せを願うことができないのか。

 克哉を取り戻したい。以前のようにどこまでも深く御堂を愛して欲しい。

 手の内にあった幸せを失いたくない。

 だが、それはもうとっくに失われてしまっていて、自分がその事実を認めようとしていないだけなのではないか。

 胸にひんやりとした冷たさが拡がっていく。

 自分になびかない相手を強引に縛り付けているのは、かつての克哉の行為とまったく変わらない。

 こんなことを続けても何も得られないとは、御堂が一番分かっているはずなのに。

 克哉の記憶も愛情も戻らないのなら、このままずっと二人で居続けることは、より決定的な破滅を招くだろう。

 いい加減、身の処し方を考えなくてはいけない。

 それでも、克哉を諦めることができない自分が浅ましく惨めだ。

 心臓を握りつぶされるような苦しさに、御堂はきつく目を閉じた。

 

 

 

 本多と出かけた克哉は午後遅くに戻ってきて、自分のデスクで一心不乱にパソコンに向かっていた。あまりにも熱心な様子だったので声をかけるのも憚(はばか)られて好きにさせていたが、終業時間も大分過ぎて社内に御堂とふたりきりになったころ、ようやくひと段落ついたらしい。

 克哉はプリントアウトした書類を掴み、御堂へと歩みを寄せた。

 

「これを見てくれないか」

 

 そう言って克哉が渡してきたのは企画書だった。表紙に目を落とす。

 

「フードフェスのか?」

「ああ、俺なりに少し手を加えてみた。あんたの意見を聞きたい」

「随分と唐突だな」

 

 困惑しながらも書類を受け取った。

 

「今日、実際に現地に行って、あんたが作った企画をブラッシュアップできないか検討してみた」

 

 克哉の視線を感じながら、企画書をめくった。

 プリントアウトされた図面を確認し、また、文章に目を通しつつ自分が作成したものとの相違点をチェックしていく。

 克哉のところで止まっていた企画だ。いい加減、提出させなければと思っていた矢先に大きな変更をされても正直困るし、この企画書を巡ってふたたび衝突したくはない。体(てい)のいい断り文句はないだろうかと考えながらページをめくり、御堂は手を止めた。

 

「佐伯、これ……」

「何だ?」

 

 信じられない気持ちで何度も手元の企画書を具(つぶさ)に確認し、そして克哉を見上げた。

 

「これは、一体……?」

 

 会場の海辺、小高く盛られた位置に記されているポイント。御堂の企画書にはなかったモニュメントが配置されていた。

 克哉はこともなげに言う。

 

「鐘だ」

「鐘?」

「誓いの鐘ってあるじゃないか。それと同じコンセプトで鐘を設置したら面白いと思って」

「どうして、フードイベントにそんなものを……」

 

 抑えようにも声が震えた。そんな御堂の変化に気付かぬまま、克哉はニヤリと笑って続ける。

 

「食欲が満たされれば幸せになるだろう? その幸せな気分で何かを誓えばいい。そうすれば、このイベントはその客にとって特別なものになる」

 

 この会話は、あの日、あの場所でした会話そのままだった。だが、この克哉はそれを知らない。自分が、過去の克哉とまさしく同じ発想をしていることを。

 心臓が早鐘を打ちだしたが、御堂は務(つと)めて冷静な口調で問う。

 

「その鐘はどこから調達する? 一から造るとなると時間も予算もないぞ」

「そんなことは問題ない。取り壊す予定の結婚式場から鐘だけ引き取ってくればいい。キリスト教徒でもないのに、日本にはチャペルが腐るほどあるからな」

「取り壊す予定の式場だと? 仮に運良くそんな式場があったとしても、そんな縁起の悪い誓いの鐘ではケチがつかないか」

「それは問題ない。誓うのは鐘じゃなくて鐘を鳴らす人間だ。そこそこの音が鳴って、そこそこの見栄えがあればいい」

 

 淀みのない口調で自信満々に言う克哉の話を聞いていると、不思議と自分もその気にさせられてしまう。御堂はひとつ息を吐いて企画書を閉じた。

 克哉は御堂に挑むような視線を向けて、尋ねる。

 

「どうだ、御堂?」

「君の発想には驚かされる」

「無理か?」

「無理ではないが、無茶だ」

「だが、あんたならどうにかできるだろう?」

 

 そう言って、克哉が不敵に笑う。その顔に思わず見蕩れた。傲慢不遜なその笑顔には抗(あらが)いがたい魅力に満ちている。

 そのとき、御堂を見つめていた克哉が笑みを引っ込めて、不思議そうな顔をした。

 

「どうした、御堂?」

「何がだ?」

 

 何を聞かれたのか分からず聞き返すと、克哉は御堂から視線を逸らし、気まずそうな口調で言った。

 

「……笑っている」

 

 そう言われて気が付いた。

 御堂は無意識に微笑んでいた。そう言われれば、ここ最近、ずっと笑っていなかったことを思い出す。

 

「そうだな。君と仕事を始めたときのことを思い出していた」

 

 御堂の言葉に克哉が苦い顔をした。

 この克哉は自分の知らない過去を持ち出されることを嫌がっている。それを分かってはいたが、御堂は構わず続けた。

 

「AA社を立ち上げて、コンサルを引き受けてから、君はこんな風に無茶で想定外のプランニングばかりしていたのだ。君がMGNを辞めたのは、きっと自分がやりたいことがMGNという肥大化した組織では実現できなかったからなのだろう。そして、AA社を立ち上げてから、君はずっとクライアントの期待を超える成果を出してきたのだ。だから、今のAA社がある」

 

 御堂は克哉のプランを無茶だと表現したが、それは単なる無謀な挑戦ではない。克哉は徹底したリサーチと分析、そして綿密な計算をした上で言っているのだ。

 他の誰かができる発想など興味がない、そう言わんばかりの企画はいつも御堂の度肝を抜いたが、克哉はそのすべてを御堂と力を合わせて成功させてきたのだ。

 克哉は、御堂が自分のプランを実現してくれることを知っている。御堂なら、克哉の無理難題をより理想的で現実的なプランに落とし込んでくれることを分かっている。だからこそ、前代未聞の大胆で斬新な企画を御堂に吹っかけてくるのだ。

 克哉とふたりで企画を練り、具体的な形にしていくのは苦労の連続ではあったが、常に高揚感と共に在った。

 たったふたりだけで始めた会社。AA社には克哉と御堂しかいなかった。それでも、飛躍していくことを信じて疑わなかった。なぜなら、ふたりがいたからだ。

 当時の頃を思い出し、自然と目元が綻ぶ。

 

「誰になんと言われようとも、私は君と仕事をするのが楽しかったし誇らしかった。その時の気持ちを思い出していた」

 

 そう言って、御堂は微笑む。克哉は口を引き結んだまま、そんな御堂を見つめていた。

 半ば強引な形で誘われたAA社だが、御堂はAA社で働く自分を一度たりとも後悔したことはなかった。

 恋人としての愛しい気持ちを差し引いても、御堂は克哉の眩(まばゆ)いばかりの才能に惚れ込んだのだ。

 克哉はきっと辿り着くことができるだろう。ほんの一握りの成功した者たちだけが辿り着くことができる境地に。そこから克哉が見る景色を、御堂も克哉の隣で眺めたいと思った。

 

「悪かったな、昔の話を聞かせて。だが、伝えたかったのだ。私は君の才能と仕事ぶりを認めている。この企画は素晴らしいと思う」

 

 御堂はデスクから立ち上がり、克哉を正面から見据え、一拍おいて、告げる。

 

「君はAA社の社長にふさわしい男だ。……今まで申し訳なかった。君に社長の権限をすべて返そう」

 

 御堂の言葉に克哉は虚をつかれたような顔をした。

 視界を覆う濃い霧が晴れた面持ちで、御堂は克哉をまっすぐ見つめる。

 克哉は御堂への気持ちを失ってしまったが、決して才能を失ったのではない。目の前に立つ男は、御堂が認める力量を秘めた男だ。他の誰でもなく、克哉こそAA社の社長を務めるにふさわしい。

 だからこそ、自らの過ちを痛感し、御堂は目をわずかに伏せて言う。

 

「もし、君が許してくれるなら、これからも君と共にAA社で働きたい」

 

 この一ヶ月間、御堂は克哉を認めず、社長の肩書きを与えながらもずっとないがしろにしてきたのだ。克哉は怒って当然であるし、今更、釈明する気もない。どんな処分も受け容れるつもりではあったが、AA社から離れることを惜しむ気持ちもあった。

 御堂の話を黙って聞いていた克哉が静かに口を開く。

 

「あなたがなぜAA社の副社長なのか、俺には分かる。決して、恋人だからというひいき目でこのポストを得たのではない。あなたの能力はAA社に必須だからだ。あなたなしでは、この会社はこの短期間にこれほどの快進撃は成し遂げなかっただろう。あなたはこの社に必要不可欠な人材だ」

 

 思わぬ言葉に驚いて克哉をまじまじと見返せば、そこには真剣な眼差しをした克哉がいた。その顔から、克哉は巧言(こうげん)を弄(ろう)したわけではなく、克哉の本心をそのまま言っているのだと分かる。

 克哉が御堂を認め、必要だと言ってくれたことに、報われたような面映(おもはゆ)いような気持ちが込み上げ、頬が赤らむ。

 

「……ありがとう、佐伯。君にそう言ってもらえるのは嬉しい」

 

 面と向かって言う恥ずかしさにわずかに目を逸らして礼を口にすれば、視界の端で克哉が仄かに笑う。

 初めて腹を割って話し合ったような清々しさがあった。

 自分が克哉を認めたように、克哉もまた御堂を認めているのだ。こうして言葉にしてみればあっけないことだった。

 ふたりの間に立ちはだかっていた障壁がみるみるうちに霧散していくのを感じる。

 場の空気が緩んだところで、御堂は決心したように付け加えた。

 

「佐伯、君の部屋を出て行こうと思う」

「どうした、いきなり」

 

 克哉は訝しげに眉を顰(ひそ)めた。

 

「もう一ヶ月も過ぎたし、君の頭の怪我は大丈夫だろう。……君には言っていなかったが、あの部屋は、元々君が契約して君が一人で住んでいた部屋で、私は後から引っ越してきたのだ。だから、私が出て行けば元どおりの君の部屋だ」

 

 克哉は御堂の突然の翻意を疑っているのだろう。言葉の裏にある真意を見透かそうとするかのように鋭い眼差しで御堂を見据えてくる。その眼差しを受け止めながら口を開く。

 

「もちろん、何かしら困ったことがあればサポートするつもりだから安心して欲しい」

 

 と言いつつ、克哉は御堂のサポートなど必要としないだろうとは思っていた。三年ものブランクを周囲には一切悟らせないほどに、克哉は上手く立ち回れるのだ。

 感情をまじえず淡々とした態度で告げる御堂に、克哉は皮肉げな笑みを浮かべる。

 

「あんたがいなくなるのなら、俺はもう好きにしていいということか」

「ああ、そうだ」

 

 御堂の言葉が意外だったのか、克哉は言葉を失い、しばしの時間を挟んで言う。

 

「つまり、俺のことを嫌いになったのか」

「違う。私の君への気持ちは変わっていない。君のことが好きだから、そうすべきだと気付いたのだ」

 

 そう言葉にしてみれば、自分の中にはっきりとした覚悟が宿る。それは、胸を締め付けるほどに苦しくて切ない覚悟だ。それでも自らの痛みから顔を背けて、言葉を続ける。

 

「私は、君が記憶を失うことで、私が知る君ではなくなったと思っていた。だが、違うのだ。君は君で何一つ変わっていない。私がそれを分からなかっただけで」

「俺は、変わっていない?」

 

 眉間にしわを寄せた克哉にそう問い返されて、御堂は言葉が足りなかったことに気付き、言い改める。

 

「いいや、正確に言えば、君は確かに変わった。だが、本質的なところ、君は佐伯克哉であることは変わっていない」

 

 静かで落ち着いた声で御堂は克哉の顔を見つめながら言う。

 そう、克哉は何一つ変わっていないのだ。

 克哉は傲慢に御堂を振り回して、自らを御堂に深く刻みつけた挙げ句、勝手に去っていく。

 それが克哉だった。

 御堂はこの克哉がかつての克哉と異なる点ばかりに焦点を合わせていた。

 異なるのはただ一点だけ。

 この克哉は『御堂を愛さない克哉』であることだけだ。それ以外は今までの克哉となんら変わりがない。冷徹さも傲慢さも冴えた知性も御堂が知る克哉そのままだ。

 それでも、その違いが御堂は決して受け容れられなかった。

 克哉がわずかに困惑を滲ませた口調で尋ねる。

 

「あんたは俺の記憶が戻るのを待っているのではなかったのか」

「君の記憶が戻ることを期待していたのはそのとおりだ。君の記憶さえ戻れば万事解決すると信じていた」

 

 自分が期待する未来をひたすら信じ続けて、現在から目を背けてきた。

 

「しかし、君が言うとおり君の記憶は戻るかどうかも分からない。この世の中に絶対もなければ永遠などというものもない。だからこそ、この一瞬一瞬を大切にしなくてはいけない。それが今頃分かったのだ」

 

 御堂は克哉に注ぐ眸を和らげる。

 

「人の気持ちは揺らぐものだろう。だから、私のことを愛さなくなったからといって、君が君でなくなったわけではない。永遠の愛などなく、どれほど愛し合ったとしても、いつか愛は廃れる。それが今だったと言うだけだ。随分と時間がかかったが、私はやっとそれを認めることができた」

 

 一ヶ月以上苦しんでようやく得た結論だった。

 変わらなければいけないのは克哉ではなく、御堂だ。

 永遠などと言うものは存在しない。万物は流転し変わり続ける。一つとして同じであり続けるものはないのだ。そんなことはとうに分かっていたはずだ。克哉に永遠の愛など存在しないと否定しておきながら、自分こそ心の片隅でそれにすがろうとしていた。

 

「君がいつ、どうして、私を好きになったのかは分からない。類まれなる偶然が積み重なった結果、君は私のことを好きになったのかもしれない。となればまた同じ偶然を望むのは無理というものだろう」

 

 このままずっと身体の関係を続けていけば、克哉が記憶を取り戻さなくても、いつか、御堂に気持ちを傾ける時が来るのかも知れない。だが、それで得られる愛は、御堂が求めているものと違う。心の底から相手を求める気持ち、愛し愛される喜びを知ってしまった以上、同情や憐れみから生まれる関係では決して満足できないだろう。

 

「君が私を愛する前の自分に戻っても、私は君を愛する前の私に戻れそうにもない。だからこそ、君の部屋から出て行くし、君とは仕事のパートナー以上の関係は結ばない」

 

 克哉と再会したあの夜、決死の覚悟で告白をした。

 もし、あのとき、克哉にもう終わったことだと断られていれば、いまの自分たちは存在しなかった。となれば、いま胸にあるこの痛みも感じることもなかっただろう。しかし、自分はすべてをなかったことにしたいと望んではいない。

 克哉との時間があったからこそ自分は変われたのだ。そして御堂はその変化を受け容れている。克哉を心から愛する自分も否定するつもりはない。

 そして、克哉を愛しているからこそ、自分から解放する必要がある。このままでは自分が克哉の足枷になり、克哉の未来を奪い続けてしまう。

 そのためには当然、御堂が克哉を諦めなければならない。

 人生で初めての激しい恋だった。溺れるほどに誰かを愛したことなどなかった。

 そんなひとつの恋を終わらせるためには、身が千切れるほどの痛みがある。

 しかし、このままではふたりの幸せな記憶さえも苦しみに塗りつぶされてしまうだろう。それだけは避けなければならない。

 御堂は小さく笑って、詰(なじ)る口調で言った。

 

「酷い男だな、君は。私を散々弄(もてあそ)んで、一方的に捨てるなんて」

 

 御堂は克哉より七歳年上だ。年上の余裕を見せて後腐れなく別れたいところだが、御堂は克哉をどうにか引き留めようと必死な姿まで晒している。だからひと言くらい恨み言を口にしても許されるだろう。

 だが、克哉は御堂の想像に反して、安堵したような素振りもなければ、今まで束縛し続けた御堂に対して責める素振りも見せなかった。表情を消したまま、昏い翳(かげり)帯びた眸と低い声で問う。

 

「……あんたは、俺が他の誰かを愛しても平気でいられるのか」

 

 そんなこと、当然、平気でいられるわけがない。それでも、それを受け容れる決意はしたのだ。

 

「全ての恋が実るものではないことくらい知っている。……黙って涙を呑むさ。それが大人というものだ」

 

 冗談めかして笑い飛ばしたつもりだが、上手く笑えているかどうか分からない。

 ひとつの恋が終わろうとしていた。とうに終わっていた恋だ。ようやく、その恋にさよならを告げるときが来た。

 実る恋と実らない恋、どちらが多いのだろうか。だが、おびただしい数の人々が実らない恋を乗り越えてきたのだ。それなら御堂だって乗り越えられるはずだ。

 それでも、自分の中で決着がつくまではまだまだ時間がかかるだろう。往々にして恋の喜びよりも、失恋の痛みの方が胸に深く残り続ける。

 克哉との間にあった色々なことが思い出された。今までにないほどの感情が胸の中に渦巻いて、これ以上克哉の顔をまともに見ることができない。

 ふう、と大きく息を吐き、御堂は俯いてデスクの上を片付け始める。自分の覚悟が揺らぐ前に、と目を伏せたまま事務的な口調で告げる。

 

「今夜からホテルに移るつもりだ。荷物は今週末に引き取る」

「……駄目だ」

 

 思わぬ言葉にハッと克哉の顔を見返した。そこには驚くほど険しい表情をした克哉が御堂を見据えていた。

 克哉は鋭い声で繰り返す。

 

「駄目だ、御堂。出て行くな」

 

 切実な声音だった。切迫した表情だった。

 ようやく克哉を解放しようとしているのに、部屋から出て行くなと言う克哉の言葉に驚き、思い至る。もしかして、性的な相手としての価値は御堂に認めてくれたのだろうか。

 御堂はゆっくりと首を振って否定する。

 

「私はもう君の要求には沿わない。君は、君が本当に好きになれる相手と付き合うべきだ。私も、愛し愛される相手を探す」

 

 そんな相手が他に存在するのか、そんな日が本当に来るのか、まったく確証がないが、これ以上、愛が存在しない形ばかりのセックスはするつもりはない。

 克哉はゆっくりと口を開き、噛みしめるように言う。

 

「……だからだ」

「何?」

「あんたはようやく俺を見てくれた。過去の俺ではなくて、目の前にいる俺のことを」

「……っ」

 

 デスクの上に置いていた手。克哉はその手の上に手を重ね、御堂の顔を覗き込んだ。

 克哉の何かを訴えるかのような視線に搦め捕られたように御堂は動けなくなった。

 

「あんたが俺を見るときは、どんなときも――会話をするときもセックスをするときも、俺ではない俺を探していた。どれほど視線を重ねても、あんたはどこかに本当の俺がいるのではないかと、俺の深いところを覗こうとしていた。そして、無言で圧をかけてくる。早く戻れと。いまの俺ではなくて、あんたが求める俺に戻れと」

「佐伯……」

 

 克哉の言葉が胸の奥へと差し込み、深い痛みを引き起こした。

 続く言葉を失う御堂を前に、克哉は、ふっ、目元を緩めた。

 

「あんたが求めているのは俺でないことは、俺が一番分かっていた。だが、顔を合わせるたびに失望し続けるあんたを見るのはかなり堪(こた)えたな。正直、あなたと一緒に居るのが辛かった」

 

 克哉が御堂と目を合わそうとしなかったのは、そういう理由だったのかと思い知る。克哉はセックスのときも、御堂の顔を見ないで済む体位を好んだ。それは、てっきり、克哉は御堂を鬱陶しく感じ、御堂以外の誰かを脳裏に思い描いていたのかと考えていた。しかし、そうではなかった。御堂こそ克哉をまともに見ようとしてこなかったのだ。

 克哉は人の心の機微に聡い。御堂は心の裡を表に出したつもりはなかったが、聡明な克哉は御堂が自分をどう思っているのか分かりすぎるほどに分かって、ずっと自身の存在を否定されている気持ちになっていたのだろう。

 御堂は克哉にどれほど残酷な仕打ちをしていたのかと理解して、いたたまれなくなる。苦しんでいるのは自分だけかと思っていた。克哉こそめったなことで感情を表に出さない男だと知っていたのに、克哉の平然とした表面上の態度だけ見て、御堂は克哉の苦しみにまったく思いを馳せようとしなかったのだ。

 震える声で心の底から謝罪する。

 

「すまなかった……」

「失望されるくらいなら、いっそ嫌われた方がマシかと思った。しかし、あんたに過去の俺を忘れさせればすべてがうまくいくと考えた。それなのに、あんたの頑固さには正直参ったよ。過去の俺のためなら、ためらいなく自分の身体を好きでもない俺に差し出すくらいだからな」

 

 克哉の御堂に対する冷淡な態度は、御堂と過去の克哉を決別させようとしていたのだろう。

 

「あんたが部屋を出て行くと言ったとき、動揺した。いや、本当はそれを願っていた。あんたが過去の俺を忘れることで、一度関係をリセットして、また新しい関係を結ぶことができたら良いと思っていた。……だが、駄目だな」

 

 克哉はかすかに笑みを浮かべた軽い口調で言うが、御堂を見つめる克哉の眉根はきつく寄せられて、深いところの痛みを堪えるような表情に見えた。

 

「あなたがいなくなった部屋を想像した途端、あの部屋で俺一人で過ごすのは無理だと思った。あなたはようやく俺を佐伯克哉と認めてくれたのに、関係を一方的に終了させようとする。となれば、俺から離れて、別の相手を見つける可能性さえあるということだ。そんなこと許せるわけがない」

「君は……」

 

 克哉のこの告白がどこに向かうのか。克哉が何を言いたいのかを理解し、御堂の心臓が乱れ打ち出す。

 デスクの上で重ねられた手、そこに力が込められる。

 

「あなたのことが、好きだ」

 

 その言葉に込められた確かな重さ、そして熱は、御堂を揺らがせるに十分な衝撃だった。

 嬉しさよりもまさかという驚きの方が凌駕し、言葉もないまま呆然と克哉を見つめる。

 克哉は御堂からわずかに目を逸らして力なく笑う。

 

「俺はあなたとの記憶を取り戻せないかもしれない。それに、あなたが愛したかつての俺のようになれるかどうかも分からない」

 

 傲岸不遜に笑い、自信に満ちあふれるいつもの佐伯克哉はそこにはいなかった。

 御堂は軽々しく克哉の言葉を否定することはできなかった。克哉の不安と絶望が手に取るように分かったからだ。

 御堂と克哉の間にはあまりにも多くのことがありすぎた。再会して互いの愛を確認してから、少しずつ距離を詰めていったあの時間をもう一度再現しようとしてもきっとうまくいかないだろう。また一から積み上げていくのにどれほどの時間がかかるのか、それをしたところで、以前のような関係に戻れるのか。御堂にも分からない。

 それでも、理屈ではなく、自分が胸に抱くこの気持ちを伝えずに後悔はしたくない。

 

「佐伯、それはお互い様だ。だが、私が愛しているのは君であることは確かだ」

 

 大切に積み上げていったものが失われる。その喪失の痛みはある。それでも、その痛みに足を引っ張られて未来まで失いたくはない。

 先が分からないということは、今を諦める理由にはならないのだ。

 克哉が御堂を見る。御堂もまた克哉を見つめ返した。

 癖の強い髪、切れ長の眸は薄い色味の虹彩を持ち、真っ直ぐな鼻梁が顔の真ん中を走る。考えを見透かすことができない怜悧な面差しを、銀のフレームの眼鏡が引き締めている。

 そこにいるのは間違いなく佐伯克哉だ。

 見つめ合う眼差しから、互いが抱く愛しい気持ちがじわりと沁み込んでくる。

 込み上げてくる温かな気持ちに包まれながら、御堂は微笑んで言った。

 

「君は佐伯克哉だ。だが、私が知っている佐伯と違うところがある」

「何……?」

 

 御堂は一拍おいて、克哉に告げる。

 

「君はフェアだった」

「俺がフェア?」

「ああ、多少強引なところはあったが、私を脅迫したり無理強いをしたりしなかった。それに、約束はきちんと守った。君はフェアな男だと思う」

 

 克哉はその気になれば、卑劣な手段も使うことができた。だが、最後まで克哉はそうしなかった。御堂に自分を認めさせるために、正々堂々と企画を自らプランニングして御堂に挑んできた。

 そしてそれは、言い換えれば、御堂と克哉の出会い方がもう少し違ったものであったなら、あんな忌まわしい出来事など起こさずに、克哉と結ばれていたかもしれないという可能性も示していた。その事実にも思い至り、胸が切なく痛む。

 克哉は少し考え込み、口の端をわずかに吊り上げた。

 

「それがかつての俺との違いなら、以前の俺は最低最悪な男だったということだな」

「ああ。君は最低最悪で……私の最愛の男だ」

 

 そう言って、ふたりで目を見合わせて笑った。

 ひとしきり笑い合い、克哉は真顔に戻る。

 

「御堂、俺たちはやり直せるか?」

「やり直すも何も、君がこの関係を解消しない限りは、私たちは恋人同士だ」

 

 克哉は御堂の言葉に満足したかのように微かに笑う。どちらともなく歩みを寄せて正面から向かい合った。

 そっと唇を触れあわせ、相手の反応を窺いながらゆっくりと唇を重ね合わせていく。

 互いにぎこちないキスだった。あれほど身体を重ねたにもかかわらず、まともなキスはしてこなかったのだ。

 克哉らしくない慎重さでキスを進めていく。また御堂に拒絶されることを怖れているのかも知れない。

 しかし時間をかけて唇を触れあわせるうちに、唇が甘く痺れていく。うっすらと唇が開き、克哉の舌が差し込まれる。その舌先を受け容れ、吸い上げた。

 克哉の手が御堂の後頭部に回される。御堂もまた克哉の背を抱きしめるように両手を回した。隙間を埋めるように身体を密着させる。角度を変えて唇を噛み合わせ、より深く激しいキスへと変えていった。克哉が御堂の口内を荒々しく舐め上げる。相手の吐息までも奪うようなキスに御堂の身体も昂ぶっていく。

 たっぷりとキスを交わし、ようやくキスを解いたときには互いに息が上がっていた。じん、と痺れた唇に残る感触はまさしく克哉で、御堂の身体は克哉にあられもなく欲情していた。

 克哉が整わない息のまま、切れ切れの声で言う。

 

「あんたは…俺がいつ、どうして、あんたに惚れたか知らないと言ったな」

 

 克哉は御堂を見つめる目を柔らかく眇める。

 

「俺があなたを好きになったタイミングは、多分、二回ある」

「なんだって……?」

「最初は、あなたに初めて会った日。あの執務室で、あなたは窓から差し込む陽射しを背負い、目映いほどに輝いて見えた。あのときのあなたの姿は鮮烈で、今でも目に焼き付いている。そして二回目は、あなたに接待を要求されたときだ。あのときのあなたは、世界のすべてが自分に従うと信じて疑わないかのように高慢で、ひどく蠱惑的だった。そのとき、俺はあなたを心の底から欲しいと思った」

「え……」

 

 キスで白んだ頭でぼんやりと克哉の言葉を聞いていたが、理解した途端、身震いした。

 

「佐伯、……記憶が戻ったのか?」

「ああ」

 

 と言って克哉は悪戯っぽくレンズの奥の目を眇める。

 

「最低最悪で、あなたの最愛の、佐伯克哉だ」

 

 御堂は唖然としたまま、声を失う。今日一日で何度驚かされたことだろう。いまだ目の前の克哉が信じられなくて穴が開くほど見つめてしまう。

 克哉が口を開く。

 

「それに、御堂、あんたは永遠などないといったが、この今を無限に積み重ねていけば、それは永遠と言えるのではないか? あんたを永遠に愛する俺の気持ちは何一つ変わっていない」

「どうして……」

 

 声が震えて続かない。

 克哉はゆったりした笑みを形作る。

 

「あんたが俺を戻してくれた」

「私が?」

「俺は、俺の中で自分がばらばらに乖離(かいり)してしまって戻ることができなかった。表層に出てきた『俺』が頑なに記憶を取り戻すことを拒否していたからな」

「……それは私との記憶が負担だったのか?」

 

 胸がつくんと針に刺されたかのように痛んだが、克哉は首を振り、バツが悪そうに言う。

 

「違う。嫉妬していたんだ、俺に」

「君が、君に?」

「言っただろう? あんたに自分自身を見て欲しかったんだ。そして愛して欲しかった。だが、あんたの視線の先にあるのは、あんたと過ごした時間を持っている俺だったからな。嫉妬に灼かれて俺の記憶を取り戻すことを拒否した」

「君は私に興味がないのかと思っていた」

 

 克哉は頭をかきながら、「ああ、それか」と苦い顔をして呟く。

 

「最初は混乱していたからな。少しはあんたの記憶があると言っていただろう。それに、あんたと一緒に暮らしているんだ。あんたに惚れるなという方が無理だ。むしろ、お預けを食らわせられて、よほど悶々としていたさ」

「それならそうと早く言ってくれれば、良かっただろう」

「だが、あんたは過去の俺しか眼中になかっただろう?」

「それは……」

 

 反論できずに言葉尻を濁す。

 しかし、御堂は克哉が自分への気持ちをなくしてしまったと思ったからこそ、深く懊悩していたのだ。そして、克哉もまた御堂以上に苦しんでいたのだ。

 克哉が御堂に向けて甘く目を眇める。

 

「『俺』がどうしてあんたをバックからしか抱かなかったか知っているか?」

「それは……私の顔を見たくなかったからだろう」

 

 さっき克哉が言っていた。自分を見るたびに失望する御堂が辛い、と。だが、克哉は笑いながら否定する。

 

「違う。あんたに欲情している自分を見られたくなかったからだ。あんたを嫌っている素振りを見せているのに、その実、あんたに欲情しまくっている自分を見られたら元も子もないからな」

 

 克哉の指が御堂の頬に触れる。愛おしさを込めた触れ方に、さざ波のような感覚が触れられたところから拡がっていく。

 

「それでも、あなたがどれほど俺を愛してくれているのかよく分かったさ」

「馬鹿……。君を引き留めようと必死だったのだ」

「あなたがそんな俺を受け容れてくれて、さらに、俺は『佐伯克哉』以外の何者でもないと気付かせてくれた。あなたが過去も今もひっくるめて『佐伯克哉』を愛してくれたおかげで、『俺』が自分の過去を受け容れたんだろうな。留め金が外れたように記憶の蓋が開いて、本来の俺に戻れた」

 

 そこまで言って、克哉は深々とため息を吐いて、渋い表情を作る。

 

「どうした?」

「自分自身のガキっぽさに嫌気が差しているところだ。あんたの気を引こうと、あんたに嫌われることから始めるとはな。……三年前の俺は、あんなに幼稚だったとは」

「それでも、以前の君みたいに強引なことはしなかった」

「随分と言ってくれる」

 

 克哉は苦く笑う。

 

「あのときのことは、本気で反省したからな。記憶を無くしても、そのときの後悔や罪悪感が残って、自分が暴走するのを引き留めたのだろうな」

 

 記憶とは脳だけに形作られるものではないと四柳から聞いたことがある。臓器移植をした患者が、ドナーの嗜好や口癖を、知らずに受け継いでしまうことがあるという。その話を克哉にすると、克哉は納得したように頷く。

 

「そうかもしれない。『俺』があなたに惚れるのもあっという間だったしな。一度あなたを知ってしまった俺は、もう二度と昔の俺に戻れないということだな」

 

 そう言ってニヤリと笑う克哉はいつもの傲岸不遜な克哉だ。

 

「そういえば、君は以前にもこういうことがあったと匂わせていた。それに、君が言っていた『人格の乖離』とはこのことだったのか?」

「まあ……、大体そんなところだ」

 

 一瞬、返事をする克哉の眸が逡巡に泳いだのを御堂は見逃さなかった。何かまだ隠し事があるのかもしれない。咎める視線で睨み据えたところで、克哉が釈明するかのように言う。

 

「そのうち、しっかりと話すさ。まだまだ時間はたっぷりとあるからな。だが、今はあなたを堪能したい」

「おい、佐伯……っ」

 

 今だからこそしっかり話し合いをしたい、そんな御堂の希望は克哉に強く抱き寄せられて唇を塞がれたことでうやむやにされてしまう。

 

「あなただって俺が欲しいだろう?」

 

 そう言われれば反論できない。キスで昂ぶりきった身体は、もっと深い交わりを欲している。

 

「佐伯、せめて部屋で……」

「いいや、待てない」

 

 傲慢に言い放ち御堂の腰を引き寄せる克哉に、御堂は抗(あらが)わずしなだれかかった。そして克哉の顔を両手で包み込み、克哉の唇に唇を寄せて囁く。

 

「すぐ上に私たちの部屋がある。一晩中愛し合うなら、そちらの方が良いだろう?」

 

 克哉は目を瞬かせ、苦笑する。

 

「あなたの方が一枚上手のようだ」

「私の方が年上なんだ。これくらいの花は持たせてくれ」

 

 ふたりして笑い合い、それでも名残惜しさに身体をもう一度キスを交わしてから、ふたりの部屋へと向かった。

 

 

 

 AA社から上の階にある部屋までのほんのわずかな距離さえも途方もなく長く感じた。

 相手を欲する気持ちが昂ぶりすぎて克哉の言うように、いっそオフィス内でことに及んでしまった方が良かった気さえする。

 それでもどうにか寝室まで辿り着いて、ベッドの上でもつれあうように服を脱がせ合う。

 何度も唇を触れあわすキスを交わし、相手の素肌に触れたくて身体に手を這わした。

 どうしようもなく熱を煽られて、歯止めが利かなくなっている。

 

「御堂、あんたものすごくいやらしい顔をしているぞ」

 

 克哉にそう囁かれただけで、体中の血が沸騰するかのように熱が駆け巡る。

 一糸まとわぬ姿になった御堂に克哉が命じる口調で言う。

 

「自分で脚を抱えて、俺に全てを見せろ」

 

 御堂は上気した顔で頷き、ベッドの上に仰向けになると、ぎこちない手つきで自分の膝を抱えた。御堂のペニスは一刻も早く触れて欲しくて頭を大きくもたげている。

 そんな自分の欲望も、恥ずかしいところもすべてを克哉にさらけ出す体勢だ。

 克哉は御堂の身体に舐めるように視線を這わせて、目を眇める。

 

「あなたの身体は扇情的だ」

 

 こんな格好をさせられて耐え難いほど恥ずかしいのに、御堂のペニスは克哉の言葉に反応してひくりと震える。

 だが克哉は動こうとせずに、薄く笑みを浮かべたまま御堂に尋ねる。

 

「どこに触れて欲しい?」

「――っ、早く……」

 

 すぐにでも欲しいのに焦らされて狂ってしまいそうだ。克哉の意地悪さに歯がみするが克哉は笑みを深めるばかりだ。

 

「今まであなたに迷惑をかけたからな。御堂さんの好きなように尽くしますよ。だから、俺に命じろ。どこをどう触って欲しいのか」

「全部、触ってくれ……」

「指で? それとも唇で?」

 

 平然と聞き返してくる克哉が憎たらしい。睨み付けながらも「指と唇で……」と聞かれたとおり答えてしまう。

 

「仰せのままに」

 

 そう言って、克哉が御堂にキスを落とす。額に、唇に、頬に、首筋に。ひとつひとつのパーツを慈しむように唇を触れさせ、そして、指で輪郭を確かめるようになぞる。

 

「っ、ぁ……」

 

 克哉に触れられたところから淫らな熱が生まれてくるようだ。びくびくと身体が強張り、思わず脚から手を離してしまいそうになり、克哉に怒られる。

 

「駄目だ、御堂。ちゃんと脚は抱えていろ」

 

 尽くすといった割には横暴だ。だが、そんなことさえどうでも良くなって、もっと触れて欲しいと克哉にせがむような眼差しを向ける。

 克哉の指が胸の突起に触れた。あっという間に硬く凝る粒を優しく撫でながら、聞いてくる。

 

「ここは、どうして欲しい?」

「摘まんで、舐めて……」

 

 恥ずかしいことを要求しているのは分かっているのに自分を止められない。克哉が御堂の胸に顔を寄せて、御堂が命じたように片方の乳首を舌で舐(ねぶ)り、他方の乳首を指できつく摘まむ。

 

「ぁ、あ、は、ああっ」

 

 触れられるところの神経が怖いほどに研ぎ澄まされて、声が止まらない。胸を愛撫されるうちに、たまらなくなって乞うような声を出す。

 

「下も、触って……っ」

「触るだけで良いのか? しゃぶってやろうか?」

 

 克哉が乳首から口を離して言った。その克哉の唇が唾液で光り凄絶にいやらしい。

 こくりと頷くと、克哉は口を大きく開いてペニスを含んでいく。喉を鳴らし、舌を這わせ、口内の粘膜で扱かれると頭の芯が炙られるように痺れて、御堂は甘い喘ぎをあげた。

 

「ん、は……ぁ、ああ……」

 

 克哉の指先が尻の狭間へと滑り、ぬるりとアヌスに潤滑剤が塗り込められた。克哉は御堂のペニスを咥えながら、御堂の狭いところを指で馴らしていく。御堂は克哉がやりやすいように自分で抱えた脚を素直に開いた。

 感じる場所を中から触れられながらペニスをしゃぶられて、快楽は一直線に高みへと駆け上っていく。だが、果てる寸前のところで、克哉はすべての動きを止めた。

 

「――っ、……ぁ」

 

 切ない声が漏れてしまう。恨みがましい目で克哉を睨むと克哉がふ、と表情を和らげる。

 

「イくなら一緒に、だろ?」

「佐伯……」

 

 そのとおりだ。イくなら克哉と一緒が良い。

 克哉が御堂の腰を抱え込んだ。克哉の先端が焦らされたアヌスに触れる。それだけでアヌスが期待にひくついてしまい、羞恥に身悶える。

 

「ぁ、あ……っ」

 

 克哉のぬるついた先端がぐっと御堂の中を押し開いてく。粘膜に食い込んでくる硬さと熱に御堂は白い喉を仰け反った。

 克哉はひと息に貫こうとはしなかった。浅いところを何度も行き来させ、自身を馴染ませていく。甘苦しいじれったさに御堂は克哉の腕を掴んで、求める声を上げた。

 

「佐伯、早く……」

「あまり俺を煽ると知らないぞ…」

 

 克哉が余裕のない口調で返す。どうやら克哉も必死に自分を抑えていたらしい。だが、そんな自制心はいまは不要だ。もう一度、「早く、来てくれ…」とせがむ口調で呟くと、克哉は低く喉を鳴らした。そして、力強く、ぐうっと腰を進める。

 馴染んだ形に身体を押し拓かれていく感覚に御堂は身震いする。

 

「ぁ……っ、さえ…き、佐伯……っ」

 

 名前を幾度も呼びながら、覆い被さってくる克哉の背に両手を回すようにして、引き寄せる。

 疼いている身体の奥をぎっちりと克哉で満たされて、苦しさと共に甘ったるい痺れが身体全体に拡がっていった。克哉は額にうっすらと汗を浮かべ、御堂の顔を見つめている。

 その唇はきつく噛みしめられて、快楽を堪えているかのようだ。

 克哉が腰を遣い出す。身体の深いところを抉られる衝撃と悦楽に激しく揺さぶられながら御堂は克哉を見つめ続ける。

 克哉の唇から漏れる吐息、苦しげに寄せられる眉。

 自分の中で渦巻く快楽だけでなく、克哉が得る快楽も手に取るように分かる。

 身体だけでなく心までつなげる官能のすさまじさを一度知ってしまえば、もう単なるセックスでは満足できない。

 

「ぁ……っ、ぁ、佐伯…、悦(い)い……ッ」

 

 たまらなくなって、切れ切れの声で打ち明ける。

 克哉は御堂を見つめる眸を眇めたかと思うと、急に動きを激しくした。

 淫らで猛々しく腰を遣ってくる克哉を御堂は涙に濡れた視界で捕える。

 ときに揺れ惑いながらも、克哉と御堂は愛を深めてここにいたっている。ふたりの選択、そしてタイミング、何かひとつでも間違えば、ふたりの運命は噛み合うことなくすれ違っていただろう。

 そんなふたりが全てを乗り越え、いまここで深く交わっている。

 それを実感すると、御堂の身体の中が収斂し、より深く克哉を搦め捕ろうとうねる。

 

「っ、……く」

 

 克哉が低く唸る。御堂の身体に溺れきる自分をあと一歩のところで、どうにか踏みとどまろうとしているのだ。

 自分の身体に感じまくっている克哉を目にし、御堂は激しい喜悦を覚える。

 御堂は恍惚とした笑みを浮かべ、克哉の頬を両手で挟み、まっすぐに見つめて告げる。

 

「……克哉、愛している」

 

 告げた途端、克哉の身体が大きく震えた。同時に、最奥まで押し込まれた克哉の雄が硬度と体積を増してびくりと震えた。

 身体の奥深いところに粘液が注がれていく。同時に自分の下腹もぐっしょりと濡れていった。

 息を荒げながら克哉が呟く。

 

「先に言われてしまったな」

 

 そう呟いて、克哉は御堂の顔に顔を寄せて、告白を返す。

 

「孝典さん、愛している。今までも、これからも、ずっと、永遠に」

 

 言葉と共に唇を押し付けられる。そして、克哉はふたたび緩く腰を動かし出した。

 

「ん……っ、ふ、ぁ……」

 

 満たされる幸せに御堂は目を細める。

 寄せては返す絶頂の中に揺蕩(たゆた)う。

 永遠の向こう側を、御堂は克哉と共に視た気がした。

エピローグ

 春、桜が満開になるのと同じ時期に、海に面したイベント会場でフードフェスは開催された。

 克哉が提案した誓いの鐘は、ちょうど改装工事中の結婚式場から借りることができた。イベント広場の小高く盛られた場所に設置されたそれは、小ぶりなものであったが、洒落た雰囲気はイベントによく似合っていた。

 フードフェスの会場に鐘の音が鳴り響くのは奇妙な光景でもあったが、それが真新しさを求める人々の目には新鮮に映ったようだ。

 東京湾や満開の桜を背景にした誓いの鐘はSNS映えがするとのことで連日長蛇の列ができている。恋人同士だけでなく、友人、家族連れが思い思いの誓いを立てて、また鐘の音を楽しむために、鐘を鳴らしていた。

 御堂は克哉と共に、自分たちが企画したフードフェス会場に訪れていたが、期待以上の盛況ぶりだ。クライアント企業を始めとし、スポンサー企業からも絶賛の声が上がっている。

 本多も営業活動の一環と言いながら、会場に何度も訪れて、各ブースの料理を堪能して回っているそうだ。

 そして、この日もイベント開始前の朝の早い時間に御堂たちは会場を訪れていた。まだ周囲は静まり返っている時間帯だが、各商業ブースは準備に余念がなく、食材や物品の搬入に慌ただしい。

 頭上には青空が晴れ渡り、イベント会場を取り囲むように植えられた桜は、ピンクの花を満開に咲かせた枝を空に張り出している。今日もまた大盛況の一日になるのだろう。

 克哉と御堂はひととおり会場をチェックし、各責任者と打ち合わせをし、問題なく運営できていることを確認する。

 さて、帰ろうかと思ったところで、御堂は克哉に引き留められた。

 

「御堂、鐘のチェックが終わっていないぞ」

「鐘のチェック? 問題なかったと思うが」

 

 そう返事をしたところで克哉の意図に気付く。克哉は口元に笑みを浮かべて言う。

 

「せっかくだから俺たちも鐘を鳴らしていくか?」

「こんなところで愛でも誓う気か?」

 

 克哉が何をしたいかとっくに分かっていて、半分呆れつつ言うが、克哉は平然と頷いて言う。

 

「改めて、あなたに相応しいシチュエーションを用意するさ。だが、誓いは何度しても良いだろう? 予行演習だ」

「まったく、君は」

 

 御堂は苦笑しながらも頷いた。半年越しの克哉の願いだ。叶えないという選択肢はない。

 いい歳をした男ふたりが鐘を鳴らすのは気恥ずかしさがある。それでも、イベント開始前のチェックを装って、ふたりは鐘の前に立った。

 周囲のスタッフたちは自分たちの準備の余念がなく御堂たちに目を向ける者はいない。

 克哉は御堂の正面に立ち、畏まった口調で言う。

 

「俺は御堂孝典を永遠に愛することを誓う」

 

 そう、克哉は口にして御堂に微笑みかける。

 

「誓いを返してくれるか?」

「ああ」

 

 頷いて、克哉を見つめ返す。

 

「私も、君……佐伯克哉を永遠に愛することを誓う」

 

 克哉が嬉しそうに目を細める。場所が場所ならこのままキスをしてしまいそうな衝動に駆られるが、そこはどうにか自分を抑える。

 永遠とは人の理解が決して及ばぬ先にある概念だ。

 だが、人は永遠を祈り、誓うことはできる。

 誓いとは自分の中の覚悟を定めることだ。

 御堂の中に克哉を愛し抜く覚悟はすでにある。そして、克哉もだ。

 ふたりで誓いを立てて、共に鐘を鳴らした。

 同時に一陣の強い風が吹き、桜の花びらを舞い上がらせる。

 風に乗った鐘の音がどこまでも伸びやかに広がり、ほんのいっとき、会場の喧噪を消し去った。

 澄み渡る鐘の音と降り注ぐ桜の花びらが、まるでふたりを祝福しているかのようだ。

 見つめ合う眼差しには相手に対する愛と信頼が込められている。

 相手に対する想いは際限なく膨らみ続け、無限の彼方へと拡がっていく。

 この刹那、御堂と克哉の誓いは永遠よりも遠いところまで届いたのだろう。

 さりげない仕草で克哉と指を甘く絡め合わせた。

 ふたたび風が吹く。

 熱い想いが込み上げてきて胸を詰まらせそうになり、御堂は空を見上げた。

 桜の花びらが散りばめられた空の青さが、視界に滲む。

 ふたりの未来は、この空のように、この風のように、どこまでも果てがなく続いていくのだ。

 

 

END

Epi
あとがき

最後までお読みくださりありがとうございます。

本作は眼鏡克哉が記憶を無くすという私の作品の中では珍しいパターンです(御堂さんはよく記憶をなくす)。

着想のきっかけは鬼畜眼鏡をプレイして、念願のメガミド√を最初にクリアして、よし、他の√をプレイするかと最初からやり直したことでした。

さっきまで御堂さんにあれほど執着していた眼鏡が御堂さんに目もくれず、御堂さんは御堂さんで眼鏡にちょっかいを出されず平和に(?)過ごしていて。唯一、メガミドの記憶があるプレイヤーの私だけが違和感を覚えながらプレイしていました。いや、恋愛ゲームはそういうものなのですが。

でも、もし、御堂さんに前回の√の記憶があったとしたら、自分に見向きもせず他のキャラへとなびく眼鏡を目にしたら苦しく思うのではないかと。

ということで、メガミド√の眼鏡が記憶喪失で共通√(ただし御堂√以外に進む予定)の眼鏡に戻ったパターンで創作してみました。

記憶喪失眼鏡は鬼畜に戻るパターンではなく、御堂さんに対する愛も執着もなくなってしまうようなそんなお話です。

鬼畜行為はしない眼鏡ですが、結果的には鬼畜な眼鏡になってしまいました。

いつになく眼鏡に執着する御堂さんも出てきます。

私の長編作品の中ではいつもと違うパターンのお話になりましたが、どこかしら萌えていただいていたら嬉しいです。

ひとことでも感想などいただければ泣いて喜びます(マシュマロはこちら)。

それでは、また!

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