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Pomegranate Memory はじめに

 小説の概略です。
 小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも大丈夫という方のみお進みください。

 本作は、御堂さんの果実シリーズの一つ、記憶の果実(御堂ver.)です。
 接待の時からやり直せたらのIF設定で、眼鏡と御堂さんが恋人同士として恋に仕事に奮闘します。
 イケメンで優しい眼鏡が登場します。凌辱も監禁もないメガミド。
 過去は変えることが出来るのか。 甘く切ないお話(御堂視点)です。

 ブログサイト時代、一番拍手をいただいた作品です。​

 また、現実世界の克哉視点『Pomegranate Memory -side S-』、リクSS『Pomegranate Memory 再会』もあります。

 登場人物:御堂孝典、佐伯克哉(眼鏡)、謎のバーテンダー(Mr. R)

『Pomegranate Memory』の現実世界の眼鏡視点。(2016.04.08)
Pomegranate Memory 再会
​ 挿絵有挿絵無
    (1)(2)イラスト付( さや)。Pomegranate Memoryの後日談。甘く切ない。御堂視点。(2016.07.30)
Pomegranate Memory(1)
(1)

「そうですか。最悪の出会いだったのですね」

 

 歌うような抑揚で変わった喋り方をする男だった。

 ああ、と御堂は頷いた。

 薄暗いバーのカウンターに腰を掛けながら、話しかけてきたバーテンダーに視線を向けた。

 見事なブロンドの長い髪を垂らし、丸眼鏡をかけた変わった風貌の男。

 日本人とは思えないが、流暢な日本語を少し奇妙な抑揚で操る。

 

「今でこそ公私のパートナーとして共に過ごしているが、当時は……正直、思い出したくはないな」

 

 御堂はそう返しつつも、何故、こんな話題になったのか、何故、この男にこんなことを正直に話しているのか疑問に襲われた。

 克哉との出会いから今に至るまでの話は、近しい友人にも話したことはない。初対面の相手に、こんなに無防備に話すような事柄でもない。

 周囲を見渡すと、このバー自体に見覚えがなかった。

 いや、そもそも、なぜこのうら寂れたバーにいるのかさえ記憶が覚束ない。

 

「どうしましたか?」

「いや……」

 

 目の前のバーテンダーが、気が逸れた御堂を誘導し、再び前を向かせた。

 何処か足元が落ち着かないような浮遊感に襲われながら、御堂はバーテンダーに視線を戻した。

 自分は酔っているのだろうか?

 いや、自制を失うほど飲んではいない。

 だとすると、こんな話をしているのはアルコールが原因ではなく、目の前のこの男のせいだろう。いつの間にか警戒心を解かされてしまったのだ。

 

「見知らぬ相手の方が、心の裡のわだかまりを話しやすいものです」

 

 御堂の心を見透かすように、そのバーテンダーは艶然とした笑みを浮かべた。

 

「もし、始まりが普通の恋人たちのように甘やかで素敵な思い出だったら良いと思いますか?」

「所詮は仮定の話だ。過去は変えられない。……だが、たまに、そうだったら、と考えることはあるな」

「不安になるのでしょう? 今の貴方と恋人の関係に。そんな忌まわしい過去を持ちながら恋人を愛していいのか、あなたは悩まれている」

 

 その言葉がすっと心の隙間に入り込み、御堂の思考を縫い止めた。

 

「……変えて差し上げましょうか? あなたの望む過去に」

 

 男が美しく深みを増した声で囁く。

 御堂はまじまじと相手を見返した。

 その男の顔は笑みを保ったまま表情は崩れることはない。

 

「過去は変えられない。その通りです。ですが、記憶は変容するもの。あなたの過去はあなたの頭の中にある。その記憶を書きかえれば、あなたは辛い過去から解き放たれます」

「それは詭弁だ。自分一人の主観的な記憶を変えても、客観的な事実は何も変わらない」

「そうでしょうか。あなたはこの世に、純粋に客観的な事実というものが存在するとお考えで? 見方を変えれば全ては変わる。そもそも、あなたが記憶しているような出来事は起きていなかったかもしれません。……シュレディンガーの猫、をご存知ですか?」

「量子力学の思考実験か?」

 

 ええ、と男は頷いた。

 シュレディンガーの猫。

 密封された箱の中に猫を閉じ込め、半分の確率で猫が死ぬ装置を作動させる。その瞬間、箱の中は『猫が死んだ世界』と『猫が生きている世界』が重なっていると考えられる。その重なり合った世界は、箱を開けた瞬間にどちらかの現実へと収束するのだ。

 猫の生死は装置が作動した瞬間ではなく、観察された瞬間に決まる。観察されるまでは複数の世界(パラレルワールド)が同時に存在すると解釈する考え方だ。

 

「大切なのは起きてしまった出来事ではなく、箱を開ける前のあなたにとっての真実。箱を閉じて、もう一つの世界を体験されてはいかがですか? あなたの望むような佐伯さんとの過去を」

 

――何故、佐伯の名前を知っている?

 

 自分はその名を口にしただろうか。

 訝しむ御堂の前に、すっとカクテルグラスが差し出された。

 その男が着用する白い絹の手袋が、グラスの中の透き通った紅色の液体を鮮やかに煌めかせる。

 甘酸っぱい果実の香りが御堂の鼻腔をくすぐって誘惑した。

 

「柘榴のリキュールを使ったカクテルです。名は『失われた時を求めて』。あなたにぴったりだと思いませんか?」

「À la recherche du temps perdu(失われた時を求めて)……プルーストか。いただこう」

 

 面白いことを言う男だ。

 この男の、妖しい光を放つ眸に、そして甘い毒を持つ言葉に捕らわれる。引き寄せられるようにカクテルグラスを手に取り、口にした。

 冷たい液体が、ふわりと御堂の舌を浸す。

 だが、柘榴の香りと味を思い浮かべて口に含んだそれは、御堂の想像を裏切った。

 これは、カクテルではない。ワインだ。しかも、覚えがある。

 多種の果物や杉、モカを立ちくゆらせるエレガントな香り。ダークチェリーとチョコレートを呼び起こさせる肉感的な味わい。

 このワインを御堂は知っていた。記憶に刻み付けられたこの香りと味。

 そう、これは、ヴェリテ・ラ・ジョワ。

 飲んでいるのは柘榴のカクテルではなかったのか、と手元に視線を落とせば、御堂が持っていたカクテルグラスはいつの間にかワイングラスにすり替わっていた。

 手元が震え、中の濃く赤い液体が揺れて小さな波紋を立てた。

 

――どういうことだ?

 

 混乱して顔を上げた。

 途端に、明るい人工の照明に包まれた。

 その眩さに瞳孔が絞られる。

 そこは先ほどまで御堂が居た場末の薄暗いバーではない。御堂はかつての自宅のリビングのソファに腰を掛けていた。

 そして、目の前にスーツ姿の男がいた。

 克哉だ。

 

「佐伯……?」

「どうです? お気に召していただけましたか?」

 

 克哉が御堂に話しかける。

 目の前の克哉はどこか他人行儀な振る舞いだ。その顔には一点の曇りもない端正な笑みを浮かべている。

 二人の間にあるセンターテーブルに、ヴェリテ・ラ・ジョワの名を冠したワイン瓶が置かれていた。

 瞬時に記憶が蘇った。

 今は、そう、あの時だ。克哉に接待を要求したその日、克哉がワインを持って自宅に押し掛けてきた時だ。

 そうか、これは夢なのだ。

 自分は夢の中でもう一度あの時に戻ったのだ。

 

「あ、ああ……」

 

 深く考えることなく、この状況を夢だと納得すると、御堂は改めてテイスティングするように、じっくりともう一度口に含んだ。

 微かに雑味が感じられる。

 これは、克哉が仕込んだ薬に違いない。

 克哉の視線が御堂に一挙手一投足にまとわりついているのを感じた。

 御堂が薬に気が付いたかどうか、注意深く伺っているのだろう。

 もう一口、ワインを飲み下すと、克哉を安心させるように笑みを浮かべた。

 

「流石、パーカーポイント98点をたたき出したワインだ。噂にたがわぬ味だな」

「味が分かる御堂部長にそう言っていただけるとは、光悦至極です」

 

 克哉は少し表情を緩めた。

 思った通りに事が進んでいるので安心しているのだろう。少し意地悪い質問を投げかける。

 

「ところで、君は飲まないのか? 貴重なワインだから君も飲んでみるといい」

「接待する側が酔っ払う訳にはいきません。お気持ちだけで十分です」

 

 軽くかわされる。

 そう、これは克哉の接待だ。

 二人の関係が強引に結び付けられ、運命の歯車が回り始めた時。

 御堂は、ワイングラスをテーブルに置くと、目の前の克哉の顔をよくよく見てみた。

 精緻で精悍な顔を眼鏡が引き締める。そして完璧な笑顔の裏に隠された、全てが自分の思い通りになると信じて疑わない傲岸不遜さ。これは恋人関係になった克哉と変わらない。

 だが、受ける印象が違うとしたら、御堂に向ける視線が、獲物を目の前にした肉食獣のような冷徹さを滲ませているところだろうか。

 御堂の態度に不自然さを感じたのか、克哉が口を開いた。

 

「どうかしましたか?」

「いや……」

 

 歯切れの悪い御堂に、克哉の探る眼差しが注がれる。

 軽く目を閉じて、克哉の視線を遮った。

 これは、御堂の記憶の中の過去なのだ。そして、自分は今、夢の中でその過去をやり直すチャンスを手にしたのだ。

 ゆっくりと瞼を開き克哉の眼差しを受け止めた。疑うことを知らない軽い調子で話しかける。

 

「ところで、君は、誰かを好きになったことはあるか?」

「誰かを好きになったことですか…?」

 

 いきなりの御堂の質問に克哉は少し戸惑った風の表情を浮かべた。だが、御堂を接待している立場で会話を合わせる必要性を感じたのだろう。すぐに笑みで取り繕う。

 

「そうですね。誰かを本気で好きになったことは、今までないかもしれません。……そうおっしゃる御堂さんはどうです?」

「私もなかったよ。今までは」

「御堂さんでしたら、どんな相手でも選り取り見取りでしょうに。そのルックスと若さでMGN社の部長という実力もお持ちですし」

 

 歯の浮くようなお座なりの世辞。この後、御堂の地位と生活、その全てを克哉は奪い取るのだ。

 

「ですが、そんな御堂さんが好きになる女性はどんな方なのでしょうね。気になります」

 女性ね、そう口の中で克哉の言葉を復して笑みを零した。克哉が訝しげな顔をする。

 ワイングラスを再び手に取った。

「私が誰を好きになるか、いずれ君も分かる」

 

 そう言うと、ワイグラスの中身を一息で煽った。

 その姿を見て克哉が小さく笑った。嫌な笑みだ。

 グラスを置いて、克哉に向き直り、薬が身体を侵す前に、と口を開いた。

 

「佐伯、君に言いたいことがあるんだ」

「言いたい事?」

「君たちに要求した売り上げ目標だが……」

「もしや、この程度の接待でご満足いただけない、とのお話でしょうか」

「いや、違う。そうではない。君たちに謝りたいんだ」

「謝る?」

「ああ。あの売り上げ目標は……」

 

 その時、世界が回った。

 片手で額を押さえる。まさか、もう薬が効いたのか、と思った時には身体がぐらりと傾いた。

 支えることが出来ずに、座ったまま前のめりに倒れ込む。

 傾いだ身体を立ち上った克哉が、素早く手を伸ばして支えた。ソファの上に横たえられる。

 不安定に揺れる視界に克哉の顔が映り込んだ。

 

「接待はこれからが本番ですよ。御堂さん」

 

 克哉は自分の思惑通りに事が進んでいることに、込み上げる笑いを必死に抑えているようだ。

 目を瞑り、眉間を指で押さえ、失った平衡感覚を取り戻そうと試みる。だが、身体が痺れ、思うように動かせない。

 

「もう、薬が効いたのか……」

「何だと?」

 

 御堂の言葉に克哉が表情を僅かに変えた。

 冷ややかな眼差しが注がれる。

 

「ワインに薬を仕込んだのだろう」

「気が付いていたのか?」

「ああ」

 

 克哉の顔から笑みが消える。

 

「それなら何故飲んだ?」

「君たちに、腹いせで無理な条件の引き上げを要求したのは事実だ。そして生意気な君を懲らしめようと接待を要求したのも。悪かったと思っている。だから君にこうされても仕方がないと考えた」

 

 克哉が顎を上げて、御堂を見下ろす目を細めた。

 

「何だ。単なる嫌がらせだということを認めるのか。それで、今更謝罪して命乞いか?」

「違う! ……ただ、私は、君と和解したかったんだ」

 

 和解、という言葉に克哉は、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「あんた、これから俺に何をされるのか、分かっているのか?」

「君は、私を貶めようと考えている」

「その通りだ。正確に言えば、あんたを強姦しようと思っている。犯すと言った方が分かりやすいか?」

 

 はっきりと告げられた言葉に、心臓が早鐘を打ち出し、肌が粟立った。

 克哉が禍々しい笑みを浮かべる。

 口の中が水分を失いカラカラに乾いていくが、意思の力で自らを奮い立たせた。

 

「私は君の行為を受け容れる。だが、その前に私の願いを一つ聞いてほしい」

「何だ?」

「……私にキスをしてくれ」

「はあ? あんた、気は確かか?」

 

 冷ややかな表情を崩さなかった克哉が、御堂の言葉に驚き、目を見張った。

 この後の克哉の行動は、記憶通りに事が進めば、言葉通りに御堂を凌辱する気だ。

 あの時受けた屈辱と痛みは、その後もずっと色褪せることなく御堂に刻み付けられている。

 もう一度、同じ行為が繰り返されるのは真っ平だが、今の御堂は克哉を凌辱者ではなく、のちの恋人だと認識している。せめて恋人らしい振る舞いをして欲しい。

 克哉は御堂の顔をまじまじと伺いながら口を開いた。

 

「俺の舌を噛み切る気か?」

「そうではない。普通のキスをして欲しいんだ。……恋人同士がするような」

 

 克哉に胡乱気な眼差しと表情を向けられる。

 御堂を貶めることしか考えてない今の克哉に、自分は何をねだっているのだろう。

 自分の気持ちが伝わらないもどかしさに、唇を噛みしめた。

 

「それは、俺を誘っているのか?」

 

 からかうような、嘲るような口ぶりだ。

 破れかぶれな気持ちで言い返した。

 

「そうだ」

「あんたは本当にあの御堂部長か? 酔っているのか?」

「君のことが好きなんだ」

「本気か?」

「ああ」

 

 正確には、この時点では克哉に対して、好意なんか微塵たりとも持っていなかった。

 だが、これは自分の過去の記憶の夢の中だ。この際、どうにでもなる。

 それにしても、自分の夢のはずなのに、克哉はこうも思い通りに動いてくれないことが歯がゆい。

 克哉はどうだったのだろう。

 御堂に対していつ好意を持ったのかは定かではないが、少なくともこの時点では御堂に対する愛があったとしても気付いていないだろう。嗜虐心だけで衝動的に動いているだけだ。

 この瞬間、御堂は克哉を愛しているが克哉は御堂を愛していない。その事実が悲しく苦しい。

 御堂のなけなしの告白を聞いて、克哉が面白いものを見つけたかのように、もう一歩、御堂に近寄り、真上から顔を覗き込んだ。

 その眼に加虐の光を宿すのを見て、背筋がすうっと冷えた。

 

「ふうん。それなら、むしろ俺にこうされることを期待していたのか」

「ああっ!」

 

 克哉に股間を強く掴まれ、悲鳴をあげた。

 この後に引き起こされる惨状を正確に予期し、身体が震えはじめる。

 

「なんだ。やっぱり怖いのか。口ばかりだな」

「……怖いのは仕方ないだろう。君は乱暴なやり方で私から全てを奪おうと考えている」

「その知った風な口ぶり、気に入らないな。いいだろう。あんたが望む通り抱いてやる」

 

 克哉は御堂の上に覆いかぶさり、顔の脇に両手をついて間近で見下ろした。

 逆光で克哉の顔が翳り、その表情は判然としない。

 このまま再び忌まわしい記憶が寸分違わず繰り返されるのだろうか。

 そう覚悟した時、克哉がニヤリと笑った。

 

「キスから始めればいいんだろう?」

「……ああ」

 

 克哉が自らのネクタイのノットに指をかけ、衣擦れの音と共に引き抜いた。

 縛られるのかと身を強張らせたが、克哉は手を伸ばしネクタイをテーブルに置き、自らの襟元のボタンを外した。

 そして、御堂のネクタイのノットに指をかけて同じように引き抜いた。首元を寛げられる。

 克哉が纏うフレグランスが、熱を帯びた吐息と共に肌を撫でつつ迫る。目を瞑った。

 静かに唇が重ねられた。

 唇の表面を合わせ、押し潰す。克哉らしくない慎重なキスだ。

 本当に、御堂に噛みつかれると警戒しているのだろうか。

 唇を薄く開く。自分から舌を出して、誘い出すように克哉の唇の隙間をなぞっていく。

 薬でほとんど動けない以上、克哉が顔を背けた時点でキスは終わる。克哉の反応を見極めながら、柔らかくゆっくりとキスを紡いでいく。

 

「ん……ふっ……」

 

 唇の隙間から吐息が細く漏れた。

 徐々にキスを深めていく。

 克哉の舌にそっと触れてくすぐると、そのもどかしいキスに煽られたのか、唐突に克哉が自ら御堂の口内に舌を入れてきた。

 口の中を蹂躙するように舌を押し込められ、歯列から口蓋を舐められる。攻撃的なキスだ。

 そのキスを受け止め、舌を絡め唾液を啜る。次第に本来の克哉らしい情熱的で激しいキスに変わっていく。荒ぶるキスの手綱を取りつつ、互いの熱を高めていく。

 どれ程の時間キスを交わしていたのだろう。溺れるような執拗なキスを交わしているうちに、肌が密着し克哉の熱い体温を全身に押し付けられた。克哉に頭を掴まれて髪に指が絡みつく。

 唐突に、ふっと克哉が何かを思い出したように顔を離した。

 この瞬間、初めて御堂の存在に気付いたかのように、御堂の眼を覗き込んだ。

 克哉の双眸は欲情の光が滲んでいた。自分も同じ眼差しを克哉に向けているのだろう。

 克哉の濡れた唇が開いた。

 

「あんたは……どうして……」

「どうした?」

「いや……。あんたはいつもこういう事をしているのか?」

「こういう事?」

「よく知らない相手とのセックス」

 

 克哉の言葉を理解し、一瞬遅れて怒りで顔が赤くなった。

 

「失礼なこと言うなっ! 君が初めてだ!」

「ふうん。なんだか慣れている感じだったから」

 

 悪びれもせず克哉が返す。

 それはそうだろう。克哉と恋人関係になってから、数えきれないほどキスは交わしている。慣れていて当然だ。

 克哉はペロリと自分の唇を舌で濡らした。

 再び克哉の顔が落ちてきた。

 軽く目を閉じる。今度は最初から激しい熱がぶつけられる。それを受け入れ、同じだけの熱量を返す。

 交し合った唾液をこくりと喉を鳴らして飲み込むが、口の端から溢れた唾液が伝い頬を濡らしていく。

 言葉では伝えられない精一杯の気持ちを込めてキスを交わした。

 ぞくぞくとした痺れが沸き起こり、身体の中心を走る。克哉の下腹部が御堂の下腹部に重なった。そこに硬くなった互いの欲望を感じ取る。

 克哉が御堂から顔を離して、喉を鳴らした。

 

「キスだけでイきそうだな」

「人のこと言えないだろう」

 

 克哉の指が御堂の顔に伸びて、頬に滴る唾液を拭った。その顔が真顔になる。

 

「なあ、あんた、本気で俺のことが好きなのか?」

「何度も言わせるな」

 

 御堂を見詰めるその眸が、少し考え込むような憂いを帯びた。そのまま克哉の動きが止まる。

 

「御堂さん、やっぱりやめようか」

「は?」

 

 この男は突然何を言い出すのだろう。

 互いの体も欲望も既に十分高められている。自身の欲望に忠実な克哉らしくない物言いだ。

 克哉が御堂の髪を指で梳いた。その手つきが妙に優しくて、心臓がとくんと鳴った。

 

「あんたは今、正常な状態じゃない。酔っているし、薬で身体も動かせない。このまま抱くべきではないな」

「佐伯……」

 

 その言葉に胸が震えた。

 この瞬間、克哉にとっての御堂は、嗜虐の対象から対等な相手に成り代わったのだ。

 ようやく御堂の気持ちが克哉に届き、克哉がそれを受け止めてくれたのだ。

 胸の奥底から焦がれるような熱情が衝き上がる。

 だが、感動したのも束の間、身体に乗っていた重みがすっと軽くなった。

 克哉が身体を起こし、御堂から離れようとしていた。

 このまま克哉に帰られては元の木阿弥だ。

 慌てて克哉を引き留めようと口を開いた。どうしてこの男はこうも扱いづらいのだろう、と胸の中で悪態をつきながら。

 

「佐伯、待ってくれ。このまま放っておかれると辛い」

 

 事実、下腹部は痛いほどに張りつめてきていた。それは克哉も同じはずだ。

 克哉の動きが止まった。御堂を見て小首を傾げる。

 

「確かに、それはそうだな」

 

 克哉の指が御堂のベルトにかかった。

 下着ごとスラックスをずり下ろされ、屹立したペニスを露わにされる。羞恥に包まれるが、克哉は自分の前も寛げると自らのペニスも出して、御堂のそれと重ねた。二人のものを手で握り込むと扱き始める。

 

「あ、…ふっ……佐伯っ」

 

 合わせたペニスから熱い脈動が伝わる。

 先端から次々ととろりとした雫が零れ、克哉の手を濡らしながら水音を立てる。御堂の身体は克哉から与えられる刺激に悦び、敏感に反応していく。

 

「はっ、あっ…佐、伯……は」

 

 高まる射精感に身体が引き攣れる。互いの鼓動と呼吸が登り詰めていく。

 

「――御堂」

「ふっ、……あっ!?」

 

 突如、ペニスの根本を克哉に強く握られた。克哉が低い声を喉から出した。

 

「まだだ。このままイかせない」

「ぅ、ああっ!」

 

 放つ直前で、堰き止められ押し止められ、その苦しさに身を捩った。

 

「佐、伯……?」

 

 荒い息を吐きながら克哉の顔を見上げると、獰猛な眼差しが自分に向けられていた。その眸から克哉の激しい欲望を感じ取る。

 胸の奥が淫らな期待と不安にざわめき、心臓が激しく乱れ始めた。

 克哉は自分の指を口に含み唾液を塗した。そのまま、双丘の狭間に濡れた指が這わされる。

 後孔を割って、ずっ、と指が一本入ってくる。

 

「ぅ、あっ!」

 

 その強い異物感に腰を摺り上げて逃げを打とうとするが、克哉にペニスの根元をしっかり掴まれてそれが叶わない。

 

「きついな。ここを使うのは初めてなのか?」

 

 頭の中では克哉と何度も身体を重ねたことを覚えているのに、今のこの身体はまだ克哉を受け容れた経験がなく、克哉の指にさえ激しい拒絶を示した。

 

「く、うぅ」

「息を吐け。力を抜いて」

 

 言われた通りにしようとするが、克哉の指が少し動くだけで、反射的に身体が強張る。

 二本目の指をねじ込まれた時には、悲鳴を上げないようにするのが精一杯だった。

 せめて身体が自由に動かすことができれば、克哉を受け入れやすいように自分で調整出来たが、この痺れた身体で克哉に組み伏せられていれば到底無理だ。

 

「本当に、初めてなんだな」

 

 その指先が止まり、克哉の眸が惑うように揺れた。

 克哉の迷いを感じ取り、その戸惑いを払拭させようと努めて平気な振りを装う。

 

「私は、大丈夫……だ。このまま、続けてくれ」

 

 初めてだったにもかかわらず、斟酌なく強姦されたあの時だって、達することは出来たのだ。

 それに比べれば、今のこの克哉の行為は御堂に対する気遣いがある。

 問題ない。

 自分は耐えられる。

 そう確信し、覚悟した。

 

「力を抜いていろ」

 

 克哉の指先が再び中を触った。その感触を耐えようと目をきつく閉じたが、予想は裏切られ、その指先は柔らかく中を愛撫した。時間をかけて、丁寧に狭い内腔を解していく。

 

「んんっ……ぁっ」

「ここがいいのか」

 

 深く挿し込まれた、指が腹側の一点をなぞると、たまらずに堪えていた声が漏れた。

 その凝りをゆるゆると撫でられる。途端に濃密な快楽が湧き上がってきた。その快楽に囚われ、ペニスの先端からぬめる液体がしとどに零れだす。

 再び、絶頂へと追い立てられる。

 

「佐、伯っ。駄目だ……。イくっ」

「イけばいい」

「嫌、だ。イくなら、君とがいい……。っ、もう、いいから、挿れろ」

「……あんた、本当に初めてなのか?」

 

 克哉の声に、呆れと疑いが混ざった。

 初めてなのに挿れろと急かすのは流石に無理があったか、と一瞬後悔がよぎるも、既に身体の中に滾る欲情は解放を求めて切羽詰まっている。

 

「いけるか……?」

 

 幸い克哉も御堂と同じ状態で堪えていたようで、呟きながら御堂の脚を抱え込んだ。後孔に熱い硬直を押し当てられて、緊張に息を詰めた。それを克哉に咎められる。

 

「息を吐け」

 

 記憶している克哉との行為を思い出して、出来るだけ身体の力を抜くように心掛けながら、深く息を吐く。

 それでも、今の御堂の身体にとって克哉の昂ぶりは、受け入れられる限度を超えていた。

 苦しさに喘ぐ。

 

「うっ、ぁっ」

「きつい。もっと力を抜いて」

「くぅっ、佐伯……やっぱり、無理だっ」

 

 克哉が少し進む度に身体が強張り、中から引き裂かれるような衝撃が走る。

 そもそも男の身体は男を受け入れるようには出来ていない。思わず弱音が漏れた。

 

「今更、無理だと言われても困る」

 

 にべもない返答。

 克哉の手が御堂の性器に伸びた。苦痛で萎えかけたそこに指を絡めてリズミカル扱かれれば、克哉の手の中で再び頭をもたげる。

 克哉は御堂の気を逸らしながら、じわじわと隘路を進ませ身体を拓いていく。

 

「っん、あ」

 

 身体の力が抜けた隙に、最奥まで突き入れられた。

 かなり時間をかけて、懐柔されたにも関わらず、その圧迫感に内臓がせり上がり、苦しさに眦から涙が伝う。

 克哉のキスが眦に落とされ、涙を拭われた。

 

「動くぞ」

「ふっ……ぅあ」

 

 克哉がゆっくりと腰を使いだした。

 指で探り当てた快楽の凝りを狙われ抉られる。

 痛みが主体だった感覚は徐々に下腹部の疼きへと変わっていった。

 一度、その刺激の中から快楽を感じ取ると、後はそれを次々と手繰り寄せるようにして、より深く濃い悦楽が湧き上がり身を包まれる。

 

「あ、佐……伯っ」

「御堂」

 

 徐々に律動が大きくなり、その刺激に翻弄された。克哉にしがみつきたい衝動に駆られるが、薬に侵された身体は言う事をきかない。

 克哉の名前を縋るように呼ぶと、名前を呼び返され、指に指が絡められた。掌を合わせ、全ての指で克哉の手にしがみつく。

 

「もうっ、あっ……イく、ああっ、佐伯!」

「――っ」

 

 克哉も息を止め、低い呻きを漏らし、ほぼ同時に放った。

 

「さえ、き、……佐、伯」

「…御堂」

 

 上ずった声で切れ切れに克哉の名前を呼んでいると、喘ぐ唇を唇で塞がれた。

 下半身を繋いだまま、片手を握り合ったまま、音を立てて唾液を吸い、深いキスを交わす。

 克哉の他方の手が御堂の身体に這わされた。シャツのボタンを一つ一つ外し、肌の上を滑らせてその輪郭を辿りつつ、胸の突起を弄られる。

 

「んんっ」

 

 合わせた唇の隙間から喘ぎが漏れる。

 唇から、肌から、細やかで強い刺激を与えられて、一度放った性器が質量を回復させていく。同時に、腰を軽く揺すられて、身体の中に挿れられたままの克哉のペニスもまた、完全に勢いを取り戻していることを知らされる。

 精液で中を濡らされて、柔らかくなった肉襞を擦られると、勝手に腰が揺れてしまう。

 

「ん、はっ、佐伯っ」

 

 一度克哉を受け入れた身体は潤んで解れ、克哉を再び受け入れることは容易かった。

 ソファの上で再び果てる。

 互いの体を重ねながら至福に近い愉悦に包まれて、時を忘れたように互いの唇を貪り合った。

 

 

 

 

 カーテンの隙間から挿し込む光が瞼をくすぐり、誘われるように目を開けた。

 視界には寝室の天井。かつての御堂の部屋だ。裸の背中にはベッドのスプリングの感触。そして、身体の片側には熱い体温が素肌を通して触れる。

 

「……っ!」

 

 上半身を跳ねるように起こしたところで、身体の骨が軋み、その痛みに顔を顰めた。

 恐々と横を見下ろせば、淡い色の髪を乱れさせた男の端正な寝顔が飛び込んでくる。

 

「……佐伯?」

 

 昨夜、ソファで二回果てた後、ベッドまで克哉に抱えられて連れてこられたのだ。そのまま置き去りにされないように、自分から克哉を引き留めてねだって、ベッドの上でもう一度。

 そこまで思い返して、自分の浅ましさに頭が痛くなった。全て忘れてしまいたい。

 

「ん……」

 

 克哉の睫毛が震えて瞼が薄く開く。

 寝ぼけたように手だけ動かして、枕元の眼鏡を探り当てると前髪を掻き上げつつ、眼鏡をかけた。

 その目が大きく開かれ、レンズを通して視線がぶつかる。

 

「おはようございます」

「……おはよう」

 

 気まずさに、わずかに視線を外した。

 克哉が手をついて上体を起こし、辺りを見渡した。

 克哉も昨夜の記憶を辿っているのだろう。寝室内を彷徨っていた克哉の視線が、ひたりと御堂に固定された。

 克哉の眸が真っ直ぐと御堂を捉える。

 反射的に身を固くするが、克哉の口調は穏やかだ。

 

「身体、大丈夫ですか?」

「問題ない」

 

 気遣う声にぞんざいに返す。

 実際のところ、大問題だった。

 初めての身体に無理をさせ過ぎた。克哉に盛られた薬は抜けているようだが、とても歩ける自信がない。

 克哉がそんな御堂の本心を見透かしたように、クスリと笑う。

 

「あんたは、ちぐはぐな男だな」

「ちぐはぐ?」

「一方的に目標値を吊り上げて接待を要求した割には、和解したい、とか言ってくる。今だって、虚勢を張る。それに……」

 

 克哉の視線が御堂の裸体を上から下まで撫でていく。その不躾な眼差しから身を守ろうと上掛けを引き寄せた。

 

「抱かれるのは初めてのくせして、もっと、とねだるし。この身体は、よほど貪欲で淫乱なのか」

「思い出させるなっ!」

 

 含羞に顔が真っ赤になる。

 わざわざ本人の目の前で口にすることないだろう、この無神経男め。

 心の中で文句を吐いていると、うつむいた顎に静かに指を添えられた。

 顔を上げれば克哉の双眸が強い光を湛えて御堂の顔を覗き込む。

 その口から耳に心地よい低い声が紡がれた。

 

「……俺もあんたのことが、好きなのかもしれないな」

 

 克哉の言葉に心臓が跳ねたが、眉をひそめてみせる。

 

「好きなのかも、ではない。君は私のことが好きなんだ」

 

 御堂のプライドを曲げてまで捨て身の告白をしたのだ。そんな曖昧な返事は困る。

 そう訂正を入れると、克哉がふっと相好を崩した。

 初めて見せた隙のある笑顔だ。

 愛おしさを感じて克哉の後頭部に手を回すと、克哉から唇を重ねてくる。

 そっと瞼を閉じて光を遮り、その熱を受け止めた。温もりに包まれる。

 柔らかなキスを交わしていると、克哉が吐く息に紛れてぽつりと呟いた。

 

「……良かった」

「何だ?」

 

 目を開いて克哉を見れば、克哉が何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

 

「あんたに酷いことを……取り返しのつかないことをする前に、気付けて良かった」

 

 克哉の顔には、御堂に対する甘やかな感情に混じって、崖っぷちで足を止めることが出来た安堵、御堂を陥れようとした罪悪感、このまま足を踏み出した時に起こりうる惨状への恐怖、多くの感情が境なく混じりあっていた。

 目が熱くなる。

 御堂を深く傷付けて禍根を残したあの出来事は、同じ強さで克哉の心を抉っていた。

 御堂が救われることは、同時に克哉を救うことになったのだ。

 

「そうだ。良かったんだ。私たちは、気付けて良かった」

 

 視界が滲んで、歪んだ。

 涙が溢れだす。

 克哉が驚いて目を見開いた。

 

「どうしたんだ?」

 

 克哉の手が頬に添えられた。

 その手に涙ごと顔を擦り付けると、克哉が御堂の身体を強い力で引き寄せ、あやすように優しく抱きしめた。

 

「克哉……、私は君を愛しているんだ」

 

 自然と克哉を名前で呼んだことに、克哉が目を丸くした。

 だが、すぐに御堂の顔に頬を寄せた。唇が柔らかい弧を作る。

 

「俺も愛していますよ、孝典さん」

 

 朝の暖かな日差しが、部屋の中に満ちていく。

 

 その瞬間より、失われた時を取り戻す日々が始まった。

 

 

              ◇◇◇◇

 

 

 薄暗いところに御堂は一人で佇んでいた。

 ここは何処だろう。周囲を伺うと近くに一人の男が背を向けて立っている。

 

――ああ、彼は……。

 

「佐伯?」

 

 その声に男が振り向く。

 やはり、克哉だ。

 そう、安堵しかた寸前、背筋に氷を差し込まれたように息が止まった。

 振り向いた顔は確かに克哉であるのに、その表情はどこまでも冷たく、その双眸は嗜虐の光を湛える。

 御堂を視界に納めて、ニイ、と唇が淫靡に吊り上がった。

 膝が震えだす。恐怖に怯む声を必死に絞り出した。

 

「お前は……佐伯ではない」

 

 いや、この男は紛れもなく克哉だ。

 自分の言葉を自分の心が否定する。

 記憶にある二人の克哉。

 優しい笑みを御堂に向ける恋人と、どこまでも御堂を冷徹に追い詰め嬲る凌辱者。

 どちらが、本当の克哉だったのだろう。記憶が混乱する。

 その時、すっと目の前の克哉が消えた。代わりに一人の男が立っている。金髪を垂らして帽子を深めに被る男は何処か見覚えがあった。

 丸眼鏡の奥から御堂を覗き込む。

 

「どうされました?」

「今、佐伯が……」

「ああ、もう一人の佐伯さんですね。あなたのもう一つの過去にいる」

「私のもう一つの過去?」

 

 目の前の男が口元に薄い笑みを刷いた。

 

「忘れてしまいましょう。今の貴方には必要のない過去の記憶です。貴方は目の前の佐伯さんだけ見ていればいい」

「忘れる?」

「ご安心ください。後で全てお返ししますから」

「お前は、何を言っている?」

 

 聞き返したときには、目の前の男は消えていた。

 同時に何か大切な記憶も一緒に消えてしまったような喪失感に包まれる。どこか遠くから、あの男の声が響いた。

 

「忘れたことさえ忘れてしまえばいいのです」

 

 何もない空間に、男の乾いた笑い声が反響する。

 自分の中から零れゆく何かを捉えようと、目の前の空間に手を差し出してぎゅっと掴んだ。

 ゆっくりと指を開いてみるがそこには、何もない。

 自分は一体何をしていたのだろう。そう訝しんだところで、意識がふっと遠のいた。

(2)
Pomegranate Memory(2)

 MGN社の執務室のデスクで仕事をしていると、ノックの音が響いた。

 

「御堂部長、キクチの販売データの資料を持ってきました」

 

 分厚いファイルを手に、克哉が執務室の中に入ってくる。

 デスクの椅子に腰を掛けたまま克哉からファイルを受け取り、ざっと中を検めた。

 ファイルの中には、プロトファイバーの売り上げについて店舗別の詳細なデータが記載されている。今回のプレゼンテーションのグラフの元データだ。

 ファイルを閉じて、克哉に返した。

 

「佐伯、君はこの会議に出席するのは初めてだったな」

「ええ」

「君は私の隣でただ座っていればいい。プレゼンも質疑応答も私が行う。必要に応じて指示するから、そのファイルの該当資料部分を私に示してくれ」

「はい」

 

 ちらりと腕時計を確認する。

 

「時間だ。行こうか」

 

 椅子から立ち上がる。

 会議室に向かうため執務室を連れ立って出ようとし、視線を感じ振りむいた。

 克哉が突っ立ったまま、しげしげと御堂を見詰めていた。

 

「何だ?」

「いや、あんたはそうしていると、やっぱり偉そうだな」

 

 克哉の言葉に眉を顰めた。

 

「佐伯、社内では私に対してその言葉遣いは慎みたまえ。……それに」

 

 御堂は克哉との距離を一歩詰めると、とん、と克哉のネクタイのノットを指で押し、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「私は、“偉そう”なのではない。“偉い”のだ」

「承知しました」

 

 克哉がニヤリと笑った。

 

 

 

 

「それでは次のページをご覧ください」

 

 御堂の言葉に、一斉に手元のハンドアウトをめくる音が響く。

 MGNの首脳陣を相手にした、プロトファイバーの営業戦略についてのプレゼンテーションは滞りなく行われていた。

 プロトファイバーは商品自体の完成度もさることながら、キクチ8課の営業により、販売直後から驚くほど順調に売り上げを伸ばしている。

 御堂がスクリーンに示すデータの一つ一つに重役達の感嘆の声があがる。

 このまま問題なく終わるだろう、そう安堵しかけた時に、出席者の一人が発言した。

 大隈専務の隣に座るその男は、小林専務だ。

 大隈専務と同期の入社で、激しい出世争いをしていると聞く。そのためか、大隈専務に引き立てられて今の部長職についている御堂にも、以前から厳しい目を向けていた

 

「今回の営業の委託先はキクチだそうだが、いつもの1課や2課でないのは何故だね?」

 

 勿体ぶった口調で、じろりと御堂を睨む。

 

「売り上げは好調みたいだが、コンビニによっては販売数が少ない系列がある。営業に慣れない部署に委託したからではないのか。君がこの部署を選んだのだろう?」

 

 指摘されている販売データは確かにその通りだ。

 あるコンビニエンスストア系列が他と比べて売り上げが悪い。だが、それを踏まえても、要求される数字を十分に上回る販売数だ。

 御堂が口を開きかけた時に、隣の克哉が御堂を制して先に答えた。

 

「ご質問の点につきましては、当方よりお答えします」

「君は?」

「キクチ・マーケティング8課の佐伯克哉と申します。今回のプロジェクトについて、御堂さんの補佐をしております。それでは、資料の38ページをご覧ください」

「佐伯……!」

 

 小声で克哉を咎めたが、それを無視して克哉は滔々と説明を始めた。

 

「ご指摘のコンビニ系列では現在プロトファイバーの競合商品の大々的なプロモーションが、販売元と提携して行われております。それにシェアを取られる形で、プロトファイバーの販売数が少なくなっておりますが、そのプロモは来週終了するため、その後はプロトファイバーを全面に推していただく確約を貰っております。ご心配には及びません」

 

 克哉はプロモーション開始前の販売数データを比較し、プロモ終了後の予想販売数を示して見せた。

 淀みの無い的確な答えに、出席者の面々が感心の声と共に頷き合う。

 

「……それなら別にいい」

 

 小林専務もそれ以上の言葉を継げずに、決まりの悪そうな顔をして引き下がった。

 反論の隙を与えない克哉の回答は、普段ならば見事だと感心するところだ。

 だが、御堂は克哉のあざとさを見逃さなかった。

 克哉の回答は全て、配布されたハンドアウトを一つ一つ丁寧に参照しながら答えている。すなわち手元の資料をよく見れば質問するまでもない、と暗に、かつ、はっきりと小林専務に示しているのだ。

 このままでは小林専務の心象をより悪くするだけだ。

 御堂は克哉から発言権を取り戻した。

 

「ですが、小林専務にご指摘いただいた通り、今後、競合商品のプロモーション予定について詳細に検討し、プロトファイバーの販売に影響を及ぼしそうなものについては、事前に対処をいたします」

「ああ、そうしてくれ」

 

 これで、小林専務の体面を保ち、無用な敵意を買わなくて済む。

 隣に座る克哉に視線を向けると克哉もこちらを見ていた。

 これ以上余計な真似はするな、と冷ややかな視線で釘を刺すと、すい、と視線を逸らされる。

 幸いプレゼンテーションはその後、問題なく終了した。

 出席者が席を立ち、御堂に一言二言、賛辞を伝えながら部屋から出ていくのを、起立したまま克哉と共に見送る。

 

「御堂君、プロトファイバーは順調だね。私も嬉しいよ」

「ありがとうございます」

 

 にこやかな笑顔を浮かべて大隈専務が近寄ってきた。克哉に視線を向ける。

 

「君がキクチの佐伯君か。君の噂は聞いているよ。プロトファイバーの販売実績に多大なる貢献をしているそうじゃないか。それに、先ほどの質問の受け答えも立派なものだ」

「お褒めに預かり光栄です。ですが、営業については、商品の完成度と御堂部長の営業戦略に助けられておりますので、私の貢献など微々たるものです」

「君みたいな優秀な人材がキクチにいるとはな。わが社も君のような人材が欲しいよ」

 

 一歩引いて上司を立てる克哉の態度も大隈専務のお気に召したようだ。大隈専務は満面の笑みを浮かべながら克哉を褒めそやし、機嫌よく会議室を後にした。

 御堂と克哉の二人が会議室に取り残された。

 会議室の扉が閉まるのを確認し、御堂は克哉に向き直った。

 克哉が口元に刷いていた端正な笑みを消す。途端に、感情も体温も乗せない顔つきになる。表には決して見せない素の顔だ。

 

「佐伯、さっきの質疑応答、君は答えなくていいと言っただろう」

「……あの男の発言は言いがかりだ」

「それはその通りだ。小林専務は大隈専務と対立しているからな。プロトファイバーが順調であることが面白くない。いわば、単なる妬みで、君ら、キクチ8課をけなしたかったわけではない。私に対してのあてつけだ。だから君が相手をする必要はない」

「だからだ」

「何?」

「俺やキクチ8課が文句を付けられるのは別になんてことはない。実際、その程度の業績しか積んでこなかったからな。だが、あなたが非難されるのは許せない」

「佐伯……」

「それでも、俺のしたことが迷惑だったというのなら謝る」

 

 そう返されて言葉に詰まった。

 克哉は御堂が不当に非難されたと感じて、御堂を援護しようとしたのだ。

 今まで、誰かに守られるという事は経験したことがなかった。

 自分の身は自分で守ってきた。それに対して不安も不満も感じたことはない。誰かの手を借りなくてはいけない状況にならぬように、常に慎重に事を進めてきた。

 なぜ、この男はこんなことをしたのだろう。7歳も年下の部下である克哉に守らなくてはいけないと思わせる程、自分は頼りなく見えたのだろうか。

 そう考えるとプライドが傷付く。

 そこまで思考を巡らせて、御堂は考え直した。

 いや、克哉はそう見えてしたたかなところがある。今回も、結果として克哉の発言は、大隈専務のみならずMGNの重役達を感心させ、克哉自身のキクチでの販売実績と合わせて、優秀さを広くアピールするに至った。

 先ほどの大隈専務の発言を勘案すれば、MGNからのヘッドハンティングも夢ではないだろう。

 もしや、自分の今後のキャリアアップまで含めての発言だったのかもしれない。侮れない男だ。

 深く考え込みだした御堂の顔を克哉が覗き込んだ。

 

「どうしました?」

「いや……。ところで、君は何故キクチに就職したんだ。君の実力を持ってすれば、キクチなどでなくても、もっと大手を狙えただろう」

 

 無意識に子会社への侮蔑が染みだす御堂の言葉に、克哉はクスリと笑みを浮かべた。

 

「そこしか採用されなかったんですよ」

「そうなのか? 君の希望の社や職種はどこだったんだ?」

「特にないですね」

「何処でも良かったのか?」

「ええ、まあ」

 

 あっさりと返された。

 考えれば考える程、不思議な男だ。これ程の能力を持ちながら、キクチのお荷物部署に籍を置いているのだ。

 だが、出世に興味がないのかと思いきや、非のうちようのない見事な営業トークで、プロトファイバーの営業の委託を掠め取ってみせた。

 克哉の野性味あふれる鋭い双眸には、自分に対する自信と野心が見え隠れする。

 

「君は、MGNに転籍したいと考えているのか? もし、希望しているなら、今回の君の業績次第では私から推薦をするが」

 

 その腹の内を探ろうと、直球で聞いてみた。慎重に克哉の表情を伺う。

 克哉が少し驚いた顔をしたが、すぐに御堂の発言の真意に気付いたようだ。

 

「ああ、先の発言についてですか。そんな意図はないですよ」

「それならば、何故だ? 私に任せるのが不安だったのか? ――んんっ!」

 

 追及を重ねようとする御堂の唇を、克哉が唐突に塞いだ。

 コンマ数秒の僅かな時間触れ合わせて、顔を離す。

 何が起きたのか分からず唖然として、次の瞬間、心臓が跳ねた。

 

「な……っ」

「それは、俺があんたの恋人だからだ。それが理由じゃ不満か?」

 

 目の前の克哉の強い眸が御堂を射抜く。

 顔が燃えた。

 頭の中が真っ白になり、口を開くも言葉が出てこずにパクパクと魚のように口を開閉させた。

 克哉が耳元で囁く。

 

「御堂さん、そんな顔、俺以外には見せないでくださいね」

「お、お前はっ、社内でキスなんかするなっ!!」

 

 克哉の挑発的な態度に思わず声を荒げた。

 

「声が大きいですよ。聞こえてもいいんですか?」

 

 ハッと我に返り、慌てて口をつぐむ。

 さっと周囲に視線を走らせたが、幸い会議室は克哉と二人きりで、部屋の扉はしっかり閉まっている。

 ほっと安堵の息をついた。

 

「それでは、お先に失礼いたします」

 

 克哉は、笑いに肩を揺らしながら、御堂が怒りの声を上げるよりも素早く、踵を返して部屋から出ていった。

 裏表の激しい性格で、傲岸不遜な態度。

 それでいて、御堂に対しては、虚飾も欺瞞もない等身大の真っ直ぐな気持ちをぶつけてくる。

 今までの自分の周りにはいなかったタイプだ。

 そして、あの厄介な男が自分の恋人なのだ。

 克哉が出ていった扉を見ながら、御堂は嘆息した。

 だが、そんな克哉だからこそ、自分は惹かれているのだろう。

 御堂は、もう一度、深く嘆息をした。

(3)
Pomegranate Memory(3)

 日曜日の夕方、御堂は自宅の書斎でパソコン画面をきつい眼差しで睨み付けていた。

 広報から上がってきた、プロトファイバーの新たなプロモーション企画の案が気に入らないのだ。どれも、今までの型を過不足なく踏襲した企画で、一言でいえば陳腐で新規性がない。

 かといって、代替案が思いつかず、この週末はこの企画案をどう手直しすべきか、プロトファイバーの今までの販売データを参照しながら頭を悩ませていた。

 プロトファイバーの販売数は今のところ順調すぎる程に売れている。

 初年度百万ケースが合格点と言われる飲料水業界で、このままいけば優に百万ケースを超えるだろう。ならば、さらにその上を目指したいという欲が生まれる。

 新たに目標として考えている販売数は、先に御堂がキクチ8課に引き上げを要求し、その後、撤回した数値であったが、実際、それすら達成可能と思わせる。そのためのテコ入れのプロモ企画を検討していた。

 だが、この作業も一時間程前から集中力が途切れ、完全に中断していた。

 原因は明白。御堂の自宅に厚かましく上がり込んできた男、佐伯克哉だ。

 克哉は接待の時に自宅に押し掛けてからと言うもの、事あるごとに何かと理由を付けては御堂の自宅に上がり込んでくる。

 今まで御堂は、恋人といえども自宅に招いたことはなかった。いくら親しい関係とは言え、御堂の中の優先順位ははっきりしている。一番は仕事で、二番は自分のプライベートだ。恋愛はそれ以下だ。

 女性関係で身を持ち崩す男を何人も見てきたが、あれは自分を律することが出来ない故の成れの果て、と心の中で軽蔑してきた。

 自分の生き方は自分で決める。他人に掻きまわされるのは到底許容出来ない。だからこそ、相手の存在が自分に重なってこないよう、距離(マージン)を維持した付き合い方をしてきたし、相手にもそう求めてきた。

 男性の恋人は克哉が初めてであったが、今までの通り、会うときはホテルを指定していた。

 だが、困ったことに、御堂が指定したデート以外で克哉はふらりと御堂の自宅に現れるのだ。

 今日もインターフォンに出たら、克哉が近くまで来たので部屋に上がらせろと言ってくる。

 もちろん御堂は断わったのだが、汗をかいたからシャワーを浴びたいとか色々理由を付けられ、インターフォン越しに言い合うこともできず、シャワーだけなら、と許可してしまったのだ。

 書斎の扉がノックと共に開かれ、タオルで濡れた髪を拭きながら克哉が顔を覗かせた。

 

「御堂さん、俺が冷蔵庫に入れていたビールは?」

「処分した」

「ふうん。なら、ミネラルウォーターもらっていいか?」

「好きにしろ」

 

 ビールというのは、先日克哉が上がり込んだ際に、勝手に持ち込んで御堂の部屋の冷蔵庫に入れていったものだ。

 ある日冷蔵庫を開けたら見慣れぬビールが入っていて不審に思い、少し考えて原因に思い当たり、腹を立てながら全て捨てたのだ。

 勝手に処分したことに克哉が怒るかと思いきや、特に気に留める風でもなく淡々としている。その態度が逆に御堂に罪悪感を引き起こした。

 ビールくらい取っておけばよかっただろうか、大して邪魔でもなかったし、と後悔の念がよぎるが、その一方で、なぜ克哉の勝手な行動に自分が気を遣わなくてはならないのだ、と相反する感情とせめぎ合う。

 御堂は距離をしっかりと維持して克哉と関係を持ちたいのだが、どうもこの年若い恋人は御堂が保ちたい距離を無遠慮に詰めてこようとする。

 そしてまた、御堂がちょっと気を緩めると克哉との優先順位が覆りそうになってしまう。このままだと御堂の部屋に住み着きかねない。

 早めに克哉に釘を刺しておいた方がいいだろう。どのタイミングで、どのようにそれを伝えるか、とか考えているうちに、自分の思考が目の前のプロモーション企画から完全に逸れてしまっている事に気付き、やはり克哉を自宅に上げるのではなかったと深く悔やんでいるのだ。

 そして、毎度、同じことを後悔しているのに、懲りずに克哉を自宅に上げてしまう自分が解せない。何故だ、と思考は明後日の方向に益々逸れていく。

 再び書斎の扉がノックされ、服を着替えた克哉が顔を出す。

 

「シャワーありがとう。さっぱりした」

「使ったタオルはそのままでいいから。勝手に帰ってくれ」

 

 振り返りもせずに答えると、シャワー上がりの湿り気を帯びた気配が近付き、背後から両腕をふわりと肩越しに巻き付かせた。

 清潔なボディーソープの香りが肌をくすぐり、思わず身を固くした。

 耳元を吐息が撫でる。

 

「飯、まだだろう? 食いに行かないか?」

「断わる」

「なんで?」

「仕事が残っているんだ。これを週明けまでに仕上げないといけない」

「どうせ行き詰っているんだろう? 切り上げて、外に食べにいこう」

 

 なまじ克哉の言っていることが的を射ているので、誰のせいだ、と苛立ちが倍増する(とはいえ、週末に仕事を持ち帰ってから克哉が現れるまでの進捗も微々たるもので、それに関しては克哉の責任でないことは明白だったが)。

 硬い声で言い返した。

 

「佐伯。私はこのプロジェクトのリーダーだ。製品は作って終わり、というわけではない。先の先を見通して、商品を売るための開発と戦略を継続的に考えていかなくてはいけない。外回りの君ら営業と違って、休日に休めるわけではない」

 

 嫌味も混ぜた御堂のきつい物言いにも、克哉は気分を害する風はない。

 

「週末ずっと家にこもりきりは健康に悪いぞ」

 

 何故それを知っている?

 疑問が頭をもたげた。

 

「君に言われなくとも、体調管理はしっかりしている」

「レトルトばかり食べてか?」

「……何故知っている?」

 

 今度は口をついて出た。

 

「キッチンのごみ箱に空の容器が捨ててあった。外出もせずに食べていたんだろう」

「他人の家のごみ箱を漁るな」

 

 だから、他人を家に上げるのは嫌なのだ。プライベートを勝手に詮索されてしまう。そして、更に口出しされる。

 克哉はそんな御堂の機嫌の悪さに気付かぬふりで、耳元に唇をぐっと近づけ、声を深めて半音低くし囁いた。

 克哉の濡れた気配が、御堂の視界を曇らせる。

 

「なあ、御堂さん。俺と今からヤるか? それとも食事に行く? 俺はどちらでも構わないが」

「んっ……。馬鹿なこと……、言うな」

 

 克哉が御堂の耳朶を柔らかく食む。長い指が御堂のシャツの胸元のボタンを外して、中に忍び込んだ。産毛を逆立てるように繊細に肌を撫でていく。

 湿った指が触れた端から、肌が熱を持ち疼き始める。

 触覚を淫らに煽る克哉の腕を抑えて、型通りの抗議をした。

 

「……ッ。シャワーだけだと、……言ったじゃないか」

「気が変わった」

 

 しれっと返されて、反論の言葉を失う。

 すらりと長い腕が深く絡みついてきた。

 背後にある精悍な身体がシャツを通して密着し、そこに意識を持っていかれる。

 

「どうする?」

「ぅ……っ」

 

 克哉の喉が甘く鳴る。

 自分の身体がどれ程与えられる快楽に脆いか、克哉にしっかりと教え込まれていた。

 快楽に流されるのは自分を律することが出来ない者だけだ。そう、言い聞かせて、散らばった自制心を必死に掻き集める。

 このままベッドに連れ込まれたら、残りの休日は全て克哉に奪われてしまう。

 

「分かった! ……分かったから、食事に行こう」

「ああ」

 

 克哉に白旗を上げたわけではない。そろそろ食事にしようと考えていたところだったし、食事に付き合うだけなら数時間の損失で済む、と自分自身を無理やり納得させる。

 克哉の手がすっと離れた。

 触れ合っていた体温が遠のくことに、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。

 

 

 

 

 克哉がお勧めの店を案内してくれるそうだ。

 マンションの正面玄関をくぐると、夏特有のじっとりとした熱が籠った空気に包まれた。

 タクシーを捕まえようとして、克哉に阻まれる。

 

「地下鉄で行こう。気分転換も兼ねて」

 

 遠くないから、と言われて、渋々、不快な熱気の中を歩き、克哉と連れ立って地下鉄に乗りこんだ。

 目的の地下鉄の駅を降りてから、克哉は不可解な行動を始めた。

 目につくコンビニに片っ端から入っていく。

 少し待っていてくれ、と言われて、その場で佇んでいると、克哉は何を買う訳でもなくすぐに出てくる。

 5件目のコンビニから克哉が出てきた時、流石に我慢できなくなった。

 

「さっきから君は一体何をしているんだ」

「ああ、すみません。プロトファイバーの確認です。ここら辺はまだチェックしていなくて」

「プロトファイバー? コンビニは全ての系列の全店舗で仕入れているのだろう。君の報告書にそう書いてあったが」

「ええ、だから、陳列されている位置の確認です」

「位置を?」

「陳列棚の端に置かれていたら、週明けに訪ねて真ん中に置き換えてもらう。極端性の回避ですよ」

「極端性の回避?」

「極端なものや端にあるものは、選ばれにくい。迷ったら真ん中を選ぶ。人間の心理なんて単純だからな。だから、プロトファイバーは陳列棚の真ん中に置いてもらうように営業している」

「それ程、差が出るものなのか?」

 

 感心半分疑問半分で聞いてみたが、克哉はニッと笑った。

 

「プロトファイバーはあんたの自信作なんだろう? 一本でも多く売ってやるよ」

 

 自信満々な口調と表情。

 克哉の言う通り、プロトファイバーは社内コンペを勝ち抜いて開発された商品で、御堂はアイデアを出すところから商品の開発、そして営業戦略まで全てを主導してきた。

 開発にかかるあらゆる過程において、プロジェクトに関わるスタッフは自ら選び抜き、納得いくまでGOサインを出さなかった。それだけに、この商品の完成度には自信があった。

 今回のプロジェクトにおいて、不安要素があるとしたら、営業の委託先をキクチ8課にしてしまったことくらいだ。

 

「当たり前だ。あの商品が売れなかったとしたら、営業の怠慢だと思え」

「空前のヒット商品にしてやるから期待していろ」

 

 御堂の居丈高な言葉にも、臆することなく克哉は返す。その口角が不敵に上がった。

 またこの男は大言壮語を。どこからその自信が出てくるのだ、と呆れかけて思いとどまった。

 ヒット商品は決して営業努力だけで生まれるものではない。商品自体の新規性や社会への影響力が営業と上手く噛みあった時に、ヒット商品として爆発的に売れるのだ。

 克哉もそのことは当然承知しているだろう。

 ということは、克哉の自信は、商品への高い評価と深い信頼に裏付けされているといえる。

 今の言葉は克哉なりのプロトファイバーへの最大限の賛辞だったのかもしれない。

 そして、裏を返せば、プロトファイバーが秀逸な出来栄えだからこそ、克哉は営業に自信を持っているわけで、元をたどれば御堂自身の優れた手腕がこの男を増長させているのだ、と閃く。

 有能すぎる上司を持つことで部下が委縮するのも困るが、自信過剰になるのもいかがなものか……。

 

「ふむ……」

「どうした?」

「君をこんな風にしてしまったのは私の責任でもある、と反省しているのだ」

「こんな風? ……ああ、俺がいい男だってことか。惚れ直したか?」

 

 前言撤回。

 この男の傲慢な自信家っぷりは単なる地だろう。

 不遜な笑みを浮かべながら歩き出す克哉を追った。

 だが、この男なら言葉通りにやり遂げそうだ、そんな根拠のない確信が湧いてくる。

 どうも克哉に毒されているようだ。

 御堂は苦笑を零しながら歩を速めた。

 

 

 

 

 克哉に連れていかれたのは、駅前の大通りから奥まった小道に入ったところにあるスペイン料理店だった。

 店の中に響く音楽と程よい騒がしさが、自宅の張りつめた静寂の中で疲労していた神経を和らげる。

 オリーブや生ハム、チーズのピンチョスをつまみながら、きりっと冷えた発泡白ワインを傾ける。爽やかな喉越しに思わず言葉が漏れた。

 

「旨いな」

「先月開店したばかりの店だが、評判良いんだ」

「来たことあるのか?」

「いいや。外回りをしていると、こういう情報が良く入ってくるからな。自社輸入しているスペイン産のワインも色々あるそうだ」

 

 そう言いながら、克哉はスペインの地ビールを喉を鳴らして飲む。

 ワインリストを開いてみると、克哉の言う通りスペインワインが珍しいものまで多種揃えてあった。

 いつもの癖でヴィンテージを細かくチェックする。

 オリーブオイルとニンニクで煮込んだ新鮮なタコと海老のアヒージョも絶品だ。食欲が刺激され、ワインもすすむ。

 程よくアルコールが回ったところで、克哉が聞いてきた。

 

「それで、何をそんなに頭を悩ませているんだ?」

「ああ。プロモーション企画だ。プロトファイバーは順調に販売数を伸ばしている。だが、ここで更にもう一つ起爆剤が欲しくてな」

 

 克哉に広報から上がってきたプロモ企画の概要と問題点をかいつまんで話した。

 現在行っているマーケティング戦略は、消費者向けのCMやポスターを多く使っていた。プロトファイバーの味や機能性のアピールを中心に行っていて、実際にブランドイメージを確立し、効果を上げている。

 新たに広報から上がってきたプロモ企画は、それを更に強化するという案だったが、その対象も媒体も今までと変わりがなく行き詰まりを感じていた。

 克哉に話をしたところで解決策が生まれるとは思っていなかったが、誰かに話をすることは客観的に問題を見ることが出来、思考の整理が出来る。

 克哉は営業畑の人間だけあって、聞き上手だ。余計な口を挟むことなく、適度に相槌を打って話を促してくれる。

 話し終わったところで、克哉が御堂のワイングラスにワインを注いだ。

 

「なあ、御堂さん。もし、今、アルコールを飲めなかったらどうする?」

「なんだ、いきなり?」

「車で来ているとか、この後、仕事があるとかで、アルコールが飲めない。でも、食事に合う飲み物が欲しい。そんな時どうする?」

「ノン・アルコール飲料を頼むだろう。食事の味を損ねないような、くどくなくてさっぱりしているものを。……ああ、君の言いたいことは分かった」

「プロトファイバーは、食事に合わせて飲むのに適していると思う」

「そこまで考えてはいなかったな」

 

 確かに、プロトファイバーは子供向けではなく大人向けの飲料として開発したために、甘さを抑えて飲み口をすっきりさせている。グレープフルーツの爽やかなフレーバーも、食事の口直しとしても申し分ない。

 

「コンビニに営業に回った時に話を聞いたら、プロトファイバーは昼時によく売れるらしい。弁当やサンドイッチと合わせて買う客が多いそうだ」

「成程。つまり君は、プロモーションをかける対象を変えろと言うんだな」

「そうだ。外食産業に売り込みをかけるのはどうだ?」

「ニーズ・オリエンテッドか。悪くない」

 

 飲むシーンをデザインし、顧客の満足度を高めることを優先する戦略だ。

 今まではブランドイメージを確立することを優先した営業戦略で、飲み方については消費者任せであった。それに加えて、外食時に食事と一緒に飲むという飲み方を提案することで、潜在需要を掘り起こすことが出来るだろう。

 

「だが……」

「俺達のことなら心配するな。新たな売り込み先が増えた方が、張り合いがでる」

 

 小売店だけでかなりの数になるというのに、外食産業への営業が加わったとしたら、今のキクチ8課にとっての負担になるのではないだろうか。

 御堂が言い淀んだ先を読んで、克哉が先制をした。

 

「分かった。ひとまずは君が言っている事の客観的な裏付けが必要だ。コンビニの合わせ買い商品についての販売データを取り寄せる。その上で、外食産業をターゲットとしてシェアの拡大が可能かどうか検討する」

 

 克哉の意見は、行き詰まっているプロモ案のブレイクスルーになりそうだ。

 頭の中で、案の概要と広報への指示内容を組み立て始める。

 外食産業と一言でいっても、多種多様だ。その全てに営業をかけるのは効率が悪い。

 プロトファイバーのブランドイメージを一番活かせるといえば、カフェやレストラン、特に青山や表参道など流行に敏感な地域の洒落た店に置かれれば、話題作りに適しているだろう。プロトファイバーは容器のデザインも凝った造りにしている。テーブルに料理と一緒に置かれても決して見劣りはしない。

 また、飲酒に厳しい現在の風潮を反映して、外食におけるノン・アルコール飲料の市場が拡大していることを考えると、この時期、アルコールフィールドであるビアガーデンなどを対象とするのも悪くない。衰退しつつあるアルコール市場からシェアを奪うことが可能かどうか、広報に検討させる必要がある。プロトファイバーを使ったノン・アルコールカクテルを提案するというのもいいかもしれない。

 アイデアが次から次へと浮かんでくる。

 黙りこくったまま目まぐるしく思考を羽ばたかせるが、克哉は気を悪くするわけでもなく静かにタバコを咥えて、マイペースにビールを飲み下している。

 美味しい食事に適度なアルコール。店内のBGMに客が織りなす会話が溶け込んで耳触りの良いざわめきとなる。

 五感を適度に刺激されながら、心地良い時間が流れていく。

 不意に目の前の克哉の存在に気が付いた。

 どれ程の時間、考え込んでいたのだろう。

 同席者を放り出したまま自分の世界に籠るとは、らしくない失態だ。慌てて取り繕う。

 

「すまない。気が逸れていた」

「いいや。こっちはこっちで勝手にやっていたから気にするな」

 

 克哉は涼しい顔で笑みを浮かべた。

 その含みのない柔らかな笑みに惹かれて、胸の閊えがすとんと落ちる感覚がした。

 ああ、そうか。

 楽なのだ。この男と同じ空間で同じ時間を過ごすことは、自分にとって楽なのだ。

 余計な気を遣わずに、自分を飾る必要もない。克哉は御堂の欲しいものを欲しいときに与えてくれる。

 だから、ついつい克哉を自宅に上げてしまうのだ。

 そこまで気付いたところで、心の奥深くで警鐘が鳴った。

 この男は危ない。

 知らず知らずのうちに御堂に重なって入り込んでくる。

 砂に沁み込む水のように、姿かたちを変えながら、どこまでも奥深く御堂の中に浸透してくるだろう。

 

――大丈夫だ。私は誰に対しても決して揺らぐことはない。

 

 そう自分に言い聞かせ、危うさを喚起する自分自身に目を瞑ると、目の前の克哉に笑みを返した。

 

 

 

 

 食事を終え、店を出たところで克哉がタクシーを拾い、御堂だけを乗せた。

 当然克哉もついてくるのだろうと思っていたので、意表を突かれる。肩透かしを食らった気分で、車内から顔を出した。

 

「君は?」

「俺は、少しこの辺を回ってくる。せっかくここまで来たからな。じゃあ、また明日。あんまり根を詰めすぎるなよ」

 

 それだけ言って、克哉は片手を上げて身体を返した。

 その後ろ姿をタクシーの中から見遣ると、近くのコンビニの中に消えて行った。周辺のコンビニをしらみつぶしにチェックしていくのだろう。

 営業といえども休日に休んでいるわけではないのだ。

 キクチ8課の驚異的な売り上げは、決して商品頼みなのではない。営業マンの面々が御堂の見えないところで奔走しながら、手間を惜しまず丁寧な営業をしているからであろう。

 自分の思い上がりを恥じる。

 

「私も負けていられないな」

 

 そう小さく呟いて、御堂は自宅に向けてタクシーを走らせた。

Pomegranate Memory(4)

 挿し込む日差しが薄い早朝。

 ホテルの部屋で、御堂は隣で眠る男を起こさぬように、そっとベッドを抜け出した。

 振り返ると、二つあるベッドの片方はベッドメイキングされたままの状態で乱れていない。

 わざわざツインの部屋をとっているのに、これでは意味がない。

 一つのベッドに男二人が身を寄せ合うように眠っていた。

 付き合いだした当初は一緒に寝ようとする克哉の腕を振り払って隣のベッドに移っていたが、触れる克哉の熱い体温は神経を緩ませ、眠りを深くする。

 いつの間にやら、すっかり気を許してしまい、朝まで克哉の寝息を感じる距離で過ごしている。

 特に昨夜は何度も極めさせられ、意識を失う形で眠りに落ちた。そして目が覚めたらこの時間だ。

 気怠い身体を熱いシャワーで叩いて起こす。

 同時に克哉との逢瀬の後には、必須の作業を行う。

 壁に手をつき指を後孔に沈め、昨夜注がれた克哉の欲情の残滓を慎重に掻き出す。

 念入りに行わないと後で被害を被るのは自分だ。

 

「んっ……ふっ」

 

 自分の指先が昨夜の濃密な情事を思い起こさせる。

 甘い喘ぎが漏れてしまいそうになり、喉で押し殺した。

 今日の予定を頭の中で復唱し、淫らな熱でうかれそうな身体を鎮める。

 この後、朝食をとって、部屋に戻って着替えて、会社では部内のミーティングを終えた後に、研究部門の会議に出席を……。たしか、午前中に決裁が必要な書類もあったはずだ。

 その時、バスルームの扉が開いた。

 

「御堂さん、おはようございます」

 

 ぎょっとして振り向くと、裸の克哉が立っていた。咄嗟に克哉とは反対側のバスルームの壁際に退く。

 

「何しに来た。私が出るまで待っていろ」

「何しに、って一緒にシャワーを浴びようと思って」

 

 克哉は一歩ずつ御堂の元に歩みを寄せる。

 逃げようにもバスルームの壁に背中を阻まれた。

 このまま克哉に襲われたら、せっかく清めた身体と鎮めた熱が水の泡だ。

 

「私に近寄るな」

 

 流しっぱなしのシャワーがザーッと、湯気を立ち込めさせる。克哉はシャワーの湯が頭や顔にかかるのも気にせずに御堂との距離を詰めた。

 どうやってこの場を切り抜けようかと視線を動かした先に、視界を塞ぐように克哉の伸ばした手が顔の脇の壁を突いた。

 ぐっと顔を近づけられる。

 眼鏡をかけていない顔が新鮮で、どきりと胸が高鳴ったが、それどころではない。

 

「佐伯、やめろ」

 

 迫る唇を避けようと、顔を背けた。

 だが、顎をもう片方の手で掬われ、正面を向かされると強引に唇を合わせられる。

 唇を結んだまま、両手で克哉の肩を押して抵抗するが、克哉が御堂の唇を綻ばせようと唇の隙間を舐めるたびに、力が奪われていく。

 くくっと克哉が喉を鳴らした。

 克哉の手が首から胸元までいやらしく撫でまわす。

 その指が乳首に引っかかった。指で摘ままれ弄られる。胸の突起が形を持ち、ジンと疼く。

 

「んっ、あ、」

 

 堪えていた声が漏れた。

 その瞬間、克哉の肉厚な舌が口内に侵入した。

 舌は歯列をなぞり、口蓋をくすぐるように舐めると舌を絡めてくる。

 こうなると、御堂の理性は手綱をかけようにも、砂糖菓子のようにほろほろと崩れ溶けていく。克哉を押し退けようとしていた手は、気づけば湯で濡れた克哉の肌にしがみついている。

 御堂自ら克哉の舌を受け入れ、唾液を混ぜ合わせて啜る。

 シャワーの音に負けないほどの濡れた音が重ねられた唇の隙間から響く。身体を密着させ、肌を合わせる。克哉が顔を少しだけ離した。

 

「熱い肌だ。シャワーのせいか?」

「これは、君が……」

「俺のはもっと熱い」

 

 克哉が含み笑いを漏らしながら御堂の手首を掴んだ。

 既に大きくなった克哉のものを触らされる。自分の肌以上に熱くなった性器を握らされ、火傷しそうな熱が身体を巡りはじめる。

 たまらなくなって、腰を押し付け互いのものを擦り合わせる。理性は既に跡形もなく洗い流されてしまった。

 克哉に促され、自分と克哉のものをまとめて扱きだす。

 ぐちゅぐちゅと淫猥な音が艶を含んだ喘ぎと合わさりバスルームの中に反響する。

 

「うっ、は……」

 

 克哉の手が、御堂の双丘を掴んで開いた。

 お湯で濡れそぼっている窄まりに指を挿しこむ。

 先ほどまで自分で処理をしていたそこは、容易く克哉の指を2本、3本と呑み込んでいく。

 

「あ、ああっ」

「前も後ろも朝から臨戦態勢じゃないか。そんなに俺が欲しかったのか? 貪欲な身体だな」

「違うっ……。それは……っ」

「分かっていますよ。俺のを掻き出していたんでしょう?」

 

 クスリと笑った克哉に身体を後ろ向きに返され、壁に両手を突かされた。

 後ろから回された克哉の手が御堂のペニスのカリ首のくびれを指で絡め軽く締め付けた。

 張りだした部分を弾くように扱かれて、擦り上げられるたびに、先端から透明な雫がとろとろと流れ落ちていく。

 

「ぅ、……んんッ」

「御堂さん、このカリの部分て、何のためにあるか知っています?」

「く、あっ……、何……っ?」

「前の男の精液を中から掻き出すためだそうですよ。俺が掻き出してあげますよ。昨夜の俺を」

「よせっ……、ふッ」

 

 克哉が御堂の腰を掴んで引き寄せ、後孔に熱く怒張した屹立があてられた。

 掻き出すといっても、昨夜の克哉の名残を今の克哉が上塗りするだけだ。

 抗議の声をあげようとしたときに、ぐうっと一息に突き上げられる。

 

「あ、ああ……っ!」

 

 克哉の張りだした亀頭が粘膜を大きく抉り、苦しさと共に昨夜の情欲の埋火が燃え上がった。

 身体を灼いていく衝撃と快楽に耐えようと、身体を強張らせバスルームの壁のタイルに爪を立てた。

 克哉の手が御堂の手に重なった。

 一本一本指を絡めて手の甲を握りしめられ、そのまま壁に押し付けられる。

 克哉は根元深くまでペニスを埋め込むと動きを止めた。

 

「ぅ、あ、……くぅ」

 

 下半身をつながれたまま、背中に克哉の熱い肌を重ねられ、荒い鼓動を刻まれていく。

 身体を穿った肉塊が徐々に身体に馴染んでくると、より強い刺激が欲しくなる。

 深く強く抉ってほしくて、腰を揺らめかせて克哉を誘おうとするが克哉は気付かぬふりで動こうとしない。

 

「佐伯……っ!」

 

 動かぬ克哉に焦らされて、乞うように名を呼ぶ。

 克哉は、御堂の肩口に顔を埋めて、意地悪く囁いた。

 

「御堂、俺が欲しいか? 欲しいならねだってみせろ」

「嫌、だ……ッ」

「強情だなあ。自分に、快楽に、素直になれよ」

「く、……はっ」

 

 克哉が御堂を唆すように、首筋をねっとりと舐めあげていく。ぞくぞくとした甘い痺れが全身を駆け巡る。

 無理やり襲われている体なのに、何故自分からせがむ形になるのか、全く納得がいかない。

 だが、今の状態のまま留め置かれるのは辛い。

 縋るように声を上擦らせた。

 

「克哉っ、お願いだから……っ!」

 

 その御堂の言葉に背後の気配が動いた。

 満足げな吐息が漏れる。

 

「孝典さん、愛していますよ」

「ふ、うっ……あああっ!」

 

 甘やかすように囁くと、克哉は大きく腰を突き上げた。

 奥深く挿れられ大きく引き抜かれる律動に、背と喉を思い切り仰け反って白濁を迸らせた。

 同時に、最奥に注ぎ込まれる熱い克哉の欲望を受け止めた。

 

 

 

 

 ルームサービスで頼んだ朝食を窓際のテーブルに並べて向かい合わせで食べる。

 バスルームからどうにか解放され、シャツとスラックスを纏った御堂は不機嫌さを隠そうとはしなかった。

 コーヒーを口にしながら、これみよがしにため息をつく。

 

「お前は何回すれば気が済むんだ。今日も会社があるんだぞ。少しは、抱かれる側のことも考えろ」

「御堂さん、忙しくて中々会ってくれないしな。となれば、一回の密度を濃くするしかないだろう」

 

 反省の欠片も見られない言葉。

 やはりこの男に小言を言っても無駄だったか、とため息を深くする。

 とはいえ、忙しいのは本当だった。

 御堂が率いる商品企画開発部第一室は、いくつものプロジェクトを抱え、同時進行で開発を行っている。

 特にプロトファイバーの販売が始まってからは息もつけぬほどの忙しさで、今回、克哉とプライベートで会ったのも2週間ぶりだった。

 

「こう見えても、俺は寂しがっているんですよ。あなたに会いたくて飢えている」

「仕方ないだろう。仕事が立て込んでいる」

 

 これでも御堂なりに激務の合間を縫って、克哉との逢瀬を重ねているのだ。

 我慢しているのは克哉だけではない。そんなことは推して知るべし、だ。

 こんな時、自分の欲望を素直に口にしてみせる克哉は得な性分だと思う。年下だからだろうか。

 だが、御堂から求めているようには思われたくない。

 だから、克哉に決して悟られぬよう、上辺だけは平静を装う。

 それにしても、こんな逢瀬を続けていたら、身体が持たない。

 食事を終えて、ナフキンで口元を拭った。

 

「もう君とは、休前日以外には会わない」

「そんなに怒るな。代わりに御堂さんが欲しいものを持ってきたから」

「なんだ?」

 

 克哉は自分の鞄に手を伸ばすと、中から書類を取り出して御堂の前に掲げた。

 

「販売データの速報値だ。この後、正式版を作るが数値の大きな変更はないはずだ。あんたに見せようと思って、昨日、死ぬ気で作った」

「寄越せ」

 

 ひったくるようにして中身を確認する。

 ギリギリまで集められるデータを掻き集めたのだろう。速報版の内容はかなり正確な値を示しているように思えた。

 正式版は今日までのデータを集めて明日リリース予定だから、速報版を作っても二度手間になるだけだ。

 それでも、御堂のために、忙しい営業の合間に、手間ひまをかけて克哉が作ったと考えると、この男も意外と健気なところがあるではないかと胸が熱くなる。

 と、危うく感動しそうになったが、すぐにあることに気付き、込み上げかけた感動に蓋をして胸の奥深くに仕舞いこんだ。

 

「佐伯。これ、昨夜から持っていたのなら、会うなりすぐに渡せ。今の今まで隠し持つとは……」

「これを渡したら、御堂さん、俺のことそっちのけになるからな」

「どういうことだ?」

 

 悪びれずに言ってのける克哉の言葉の意味はすぐに分かった。

 

「これは……まずいな」

「ああ。このままだと近いうちに受注本数が生産本数を上回る」

 

 先日、克哉の提案を受けて、プロトファイバーの営業のターゲットを外食産業にまで手を広げた。

 元々、消費者向けに浸透していたこともあり、すぐに千を超える店に採用された。話題性もあり、売り上げは即、数値として現れていた。

 

「出荷停止はなんとしても避けたい。品薄感までは許容するが品切れは駄目だ」

 

 売れに売れている商品を出荷停止にしたら、その勢いが一瞬で失速しかねない。

 運良くそうならずに市場の飢餓感を上手く煽れたとしても、わざと出荷停止にしたのではと勘繰られ、品切れ商法、とのそしりを受ける可能性がある。

 今の時代、ソーシャルメディアの爆発的な普及によって、個人が情報発信能力を得た結果、賞賛も非難も極端な方向にぶれやすい。

 在庫も含めて後どれくらい受注に対応できる余力があるのか、頭の中で素早く計算する。

 

「御堂さん。最短でいつ出荷本数を増やせる?それに合わせて営業を調整するが」

「工場の生産ラインの責任者は大隈専務だ。今日にでも相談する。在庫も含めて今日の夕方までに一度そちらに連絡をいれよう。それと……」

 

 ちらりと克哉を見て言葉を継いだ。

 

「君たち営業と私で行っていた週1のミーティングだが、次回より出席者を増やして内容を変更する」

「どういうことだ?」

「このプロジェクトに関わる業種をすべて集め、研究部門から広報まで横断的に参加させる。単なる報告と方針の確認だけではなく、今後の戦略について業種を超えて顔を合わせ、忌憚なく意見を交わせるミーティングにしたい」

 

 小さく一つ咳払いする。

 

「今回の外食産業をターゲットとしたプロモ企画は君の提案によるところが大きいし、実際に成果として数値に反映されている。外回りの君たちこその視点は、このプロジェクトには重要だ。こういう、各々の現場でしか分からない、貴重で有用な意見が埋もれないようなミーティングにする」

 

 しゃべりながら視界の端で克哉を伺うが、特に表情を変えずに御堂の話を聞いている。

 御堂なりに感謝の意を伝えたつもりだったのだが、婉曲過ぎて伝わらなかったのだろうか。

 克哉は特に感慨もなく、ふうん、と相槌を打つと、おもむろに口を開いた。

 

「なあ、御堂さん。俺から、もう一つ提案があるんだが」

「何だ?」

「これからは、ホテルじゃなくて御堂さんの部屋で会わないか? そうすれば、もう一時間長く一緒にいれるだろう?」

「はあ?」

「……ああ、俺の部屋でもいいけど、狭いからな。むしろ、一緒に住むか? そうすれば、わざわざ会う日時を調整しなくて済む」

 その口元には、何を想像しているのかニヤニヤと愉悦に満ちた笑みが浮かんでいる。

 この男は人の話を聞いていたのだろうか。

 真面目な話を混ぜっ返されて、どう反応していいか惑う。

 戸惑いながらも、克哉の提案を一応検討してみる。が、考えるまでもなく結論は出た。

 この絶倫男と共に過ごす時間が長くなるという事は、それだけ今以上に襲われるリスクが高くなるという事だ。

 仕事に支障をきたすどころではないかもしれない。

『ヤり殺される』、不穏な言葉が脳裏に浮かぶ。

 

「却下だ。……金輪際、私の部屋の敷居は跨がせない」

 

 バン、とテーブルに両手をついて、御堂は勢いよく立ち上がった。

 一刻も早くこの部屋から逃げなければ、と軋む身体を踏みしめてジャケットを羽織った。

(4)
Pomegranate Memory(5)

 出社するなり、御堂は大隈宛に生産ラインの確保と増産について、至急相談したい旨のメールを送った。同時に大隈の秘書にアポイントの依頼をする。

 だが、大隈のスケジュールは埋まっており、本日中に時間を割いてもらうは難しそうだった。

 それでもあきらめずに、現在のプロトファイバーの受注数と今後の見込みをグラフにして、増産を説得するための資料を作成し、メールに添付して送信する。

 終業時間を過ぎて社内の人気もまばらになる。

 今日は大隈専務を捕まえるのは無理かもしれない、そう諦めかけた時だった。フロアの廊下を執務室に向かって歩いていると、背後から声をかけられた。

 振り向いたら大隈が立っていた。

 

「御堂君、プロトファイバーの販売は順調のようだな」

「大隈専務、お疲れ様です。ところで、メールでご相談申し上げた件ですが……」

「ああ、増産できるように必要な生産ラインを確保しよう」

 

 心強い言葉をかけられ、ほっと胸を撫で下ろす。

 大隈が軽く咳払いをして、話題を切り替えた。

 

「ところで、今日、工場でプロトファイバーの出荷ミスが判明した」

「出荷ミス?」

 

 大隈の話によれば、東海地方のコンビニエンスストア系列の倉庫に入荷する予定のものを、北海道のスーパーマーケットの支店に出荷してしまったとのことだった。

 その数量の桁数を聞いて息を呑む。

 当然のことながらどちらの社も困惑し、またMGNへの不信感をあらわにしているとのことだ。

 双方とも大事な大口の取引先だ。失う訳にはいかない。

 直ちにとるべき行動を頭の中にリストアップする。

 大隈はおもむろに口を開いた。

 

「キクチ8課がこの両社への営業と受注を行っている」

「存じております」

 

 そもそも、キクチ8課に営業を委託したのは御堂だ。

 ミス自体は単純だったが、どうしてこんなミスが起きてしまったのか疑問が沸く。

 スーパーマーケット1店舗に入荷する数量ではない。誰も気が付かなかったのだろうか。

 受注から発注、そして出荷にかかるプロセスのどこかに、見過ごすことのできないシステムの不備があるのではないだろうか。

 大隈が声を忍ばせた。

 

「……御堂君、もう、ここまで来れば後はどの部署が営業を担当しても変わらないだろう? プロトファイバーの増産を速やかに行うためには、この件を大事にせずに治めた方がいい。謝罪に関しては、わが社から誰か行かせるように私が手配しよう。キクチには任せておけん」

 

 大隈の表情と声音から、水面下に潜む真実を御堂は悟った。

 このミスはキクチによるものではなく、工場の中で起きたミスだ。

 そして、大隈は責任をキクチ8課に押しつけて、ミスを検証することなく、このアクシデントを収束させる気だ。

 それを御堂が見逃すことを、出荷ラインとの引き換えに求めている。

 この取引を飲めば、プロトファイバーの増産は速やかに可能となるだろう。だが、キクチ8課は責任を取らされ営業から外される。そうなれば、8課自体が解体されることは予想に難くない。

 一方で、プロトファイバーは一刻も早い増産が求められている。そして、このプロジェクトの成否は自分の進退がかかっている。

 どうすべきか。

 自問自答する。

 答えはすぐに降りてきた。

 

――この取引は呑めない。

 

 御堂は毅然とした態度で大隈の顔を見返した。

 

「大隈専務、出荷ミスに関しては私が謝罪も含めて手配いたします。キクチ8課に営業を委託したのは私です。本件については私に一任いただけませんでしょうか」

 

 御堂の一言に大隈の気配が変わった。

 顔が険しくなり声に凄みが増す。

 その迫力は、激しい出世競争を勝ち抜き、MGNの専務にまで登り詰めた人物に相応しい威圧感だ。

 

「君は余計なことはするな。ミスはミスだ。誰かが責任を取らねばなるまい」

「承知しております。私が責任を取ります。ミスがなぜ起きたのか明らかにしなくては、また同じミスが起きかねません。営業の委託先を変えたところで解決はしません」

 

 御堂の言う事は紛れもない正論だ。

 だが、正論が常に正しいとは限らない。それでも、躊躇はない。

 

「君がしようとしていることは、君のためにならんぞ」

 

 顔も視線も逸らさずに、大隈の言葉を黙ったまま正面から受け止めた。

 返答しないことが御堂の返事を大隈に知らしめる。

 

「生産ラインについては保留にする」

 

 大隈は吐き捨てるように言うと、御堂に背を向け、足を踏み鳴らして歩き去っていった。

 

 

 

 

――どうしたものか。

 

 現時点で増産の見込みがつかないことをキクチに連絡しなくてはならない。

 その前に、出荷ミスの処理も迅速に行う必要がある。

 大規模な出荷ミスだ。自ら出向いて謝罪する必要があるだろう。それに伴う時間のロスと詰まっている他の業務をどう段取り付けるか。

 それ以上に、大隈が握る生産ラインの確保をどう行うか。

 解決しなくてはいけない問題が山積みだ。そして、最善の解決策が見えてこない。

 重い足取りで執務室の扉を開けた。

 部屋の中に人の気配がする。

 執務室のソファに座っている人影が立ち上り、こちらを向いた。克哉だ。

 

「来ていたのか」

「ああ。出荷ミスがあったそうだな」

「情報が早いな」

 

 既に大隈からキクチに連絡がいったのだろうか。

 

「……あんたがそのミスの処理を引き受けたのか」

 

 ここまで知っているとなると、情報の出どころは必然的に限定される。

 廊下であの手の話を行ったのは不用心だった。

 

「盗み聞きとはいい趣味をしている」

「センスが良いとよく言われる」

 

 御堂の嫌味を、克哉はしれっと字面通り受け取って躱す。

 

「それで、どうするんだ?」

「ひとまずは直ちに謝罪に向かう。発送はMGNの工場が行っているからな。双方には私が出向いて謝罪する。入荷数が足りないコンビニの方には余剰在庫をまわすように手配する」

「ミスについてはどう処理するんだ? それに、増産の件は?」

「どの過程でミスが起きたか詳しく調査をして、責任の所在を明らかにし、再発防止策を取らせる必要がある」

 

 克哉を一瞥し、努めて平然とした風を保ち、もう一言付け加えた。

 

「出荷ラインも私が押さえるから、君は余計な心配をしなくていい」

「正しい事を正しい方法で、か。あんたが好みそうだが、あんたらしくないやり方だな」

「私らしくない?」

「ああ、あんたなら、名を捨てて実を取る判断が出来るはずだ。今、一番優先すべきことは何だか分かっているだろう。大隈の言う通りにして、さっさとこの件を片付けろ」

 

 克哉の眼差しと言葉が、御堂が下した判断の是非を問う。

 かつて、御堂はプロトファイバーの営業をキクチ8課に委託したときに、提示した売り上げ目標を達成できなければキクチ8課をリストラすると言い放ったのだ。

 その言葉に偽りはない。もし、満足いかない結果だった場合は、非情な判断を行うことに迷いはなかった。

 だが、今回、キクチ8課を切り捨てることを御堂は了承しなかった。

 それは、御堂らしくない判断なのだろうか。

 キクチ8課に恋人の克哉がいることが、自分の判断を鈍らせたのだろうか。

 

――いや、違う。私は何一つ変わっていない。

 

 常に誰におもねることなく、自らの理(ことわり)に従って判断を下してきた。

 御堂の理が立場の上下に関わらず支持されてきたから、どの派閥に属すことなくこの地位を得ることが出来たのだ。

 その軸は、今回もなんら、ぶれてはいない。

 大隈の言葉に従って、目先の利益目的に他人に濡れ衣を被せることは、御堂の理に反する。だから、御堂は大隈が持ち掛けた取引を一蹴したのだ。

 この決断に克哉の存在は影響していない。

 揺らがぬ眸で克哉を見据える。

 

「君は、自分が言っている意味が分かっているのか。今回のミスはわが社に甚大な逸失損益をもたらす。誰かが責任を取らなければならない」

「このままだと、あんたの業績に傷がつくんだろう。俺がその2社を担当している。俺の責任にすればいい」

 

 克哉は事もなげに言う。御堂は眉を顰めた。

 

「君の、そしてキクチの責任にしたとして、君は責任を取れるのか? 君だけの責任ではすまないぞ。君の上司、君の同僚、全てに累を及ぼす。出来ないことを口にするな」

 

 克哉の言うそれは責任でもなんでもない。単なる無責任だ。

 その克哉の申し出が、御堂に対する個人的な感情からきているのであれば、尚更大きなお世話だ。

 

「私はプロトファイバーのプロジェクトリーダーだ。このプロジェクトに関わる全ての人と物事に責任を持つ立場にある。君に気遣われる筋合いはない」

「責任、責任て、馬鹿の一つ覚えみたいに。一人で抱え込むことが責任の取り方じゃないだろう。あんた一人が責任を取って何か解決するのか」

 

 追従だけの部下はいらない。だが、己の職務を大きく逸脱する傲慢さは見逃すことは出来ない。

 冷ややかに言い放つ。

 

「私のやり方に不満があるなら、君はこのプロジェクトから降りろ」

 克哉は御堂に向ける目を眇め、挑戦的に唇の端を吊り上げた。

「プロジェクトは降りない。あんたこそプロジェクトのトップならもっと上手くやれ。そんな不器用なやり方でよく部長になれたな。いいから、あんたは俺の言う事を聞け」

 

――この男は……っ!

 

 返す克哉の不遜な言葉に、身体中の血が沸騰した。

 血管の中を怒りが滾り駆け巡る。憤怒に戦慄かせた拳を強く握る一方で、眼差しと声は全てを凍てつかせるほどに冴え冴えとしていく。

 腹腔の奥底から声を出した。

 

「貴様は私を抱いた位で、私に命令できる立場になったとでも思ったか!」

 

 有無を言わさぬ冷然とした態度は、付け入る隙を与えない鉄壁さだ。それを前にすればどんな者でも気圧され怯まずにはいられない。

 だが、向かい合う克哉も一歩たりとも退かなかった。

 克哉を射抜く眸で強く睨みつけると、それ以上に獣のように鋭い眼光で正面から睨み返してくる。

 互いの視線が拮抗し、見えない火花が散った。張りつめた沈黙が部屋の空気を凍えさせていく。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 先に沈黙を破ったのは克哉だった。

 すい、と御堂から視線をわずかに外し、苦味を含んだ表情で静かに口を開いた。

 

「……俺はあんたの恋人だ。だから、あんたを抱くし、あんたに言いたいことも言う。抱いたから意見するわけじゃない。勘違いするな」

「……」

 

 複雑な感情を抑えこんだ低い声は、何処か苦しげに響く。

 均衡が破れ、凍りついた時間と空気がゆるやかに動き始めた。

 克哉の心から零れ落ちた言葉が御堂の胸を衝いた。

 静かな言葉が心に深く沁みわたり、御堂の裡に渦巻く苛烈な怒りが凪いでいく。

 振りかざした激情を折られ、感情の据わりの悪さに御堂は目を伏せた。

 

「私は仕事に私情は交えない」

「そんなことは百も承知だ。……だが、あんたも俺の恋人なら、少しは俺の話を聞け。あんたが出荷ミスも生産ラインも、全く妥協する気がないのは、よく分かった。それでも俺は、あんたを仕事と心中させる気はないんだ」

 

 今まで、どんな状況でも表情も態度も保って動じなかった男、克哉の口調が次第に熱を帯びていく。

 

「あんたはもっと偉くなるんだろう? それなら、こんなところで躓くな。このプロジェクトはチームでやっているんだ。もっとチームの仲間を、部下を信用しろよ。あんたはあんたにしか出来ないことをやれ」

 

 この男がここまで感情を露わにしたことはあっただろうか。

 克哉の強い意思が凝縮された眸が、御堂を突き刺す。

 押し寄せる克哉の熱と言葉の波に攫われそうになり、御堂は足を踏みしめた。

 

「私はこんなところで躓く気はない」

「そうだ。あんたは何が何でも生産ラインを押さえろ。出荷ミスの謝罪と事後処理には俺が行く。MGNから一名出してくれ。藤田でいい」

「藤田は新人だ」

「MGNからも謝罪に来ているという体裁が大切なんだ。MGNの人間なら誰でもいい。いなくなっても一番影響が少ない奴で十分だ。後は俺が上手くやる。あんたは出荷ミスの件については動かなくていい。俺を信じて待っていろ」

 

 克哉は隙の無い気迫に満ちて、その言葉は芯の強さと溢れる自信をうかがわせる。

 信じていいのだろうか。克哉の言葉を。克哉自身を。

 今まで、御堂は誰を信じることなく自分一人を信じてきた。

 自分は自分を裏切らない。他人を信じなければ失望させられることもない。それは自分の信条であり生き方だ。

 だが、克哉は固く閉ざした御堂の扉を開かせようと、その内側に入り込んで頑丈な留め金を外そうとしている。

 御堂の迷いを拭い去るように、克哉の両手が御堂の肩にかかった。

 互いの吐息が交わる距離で、克哉が真っ直ぐで真摯な眼差しを向けた。声音を深め速度を落とす。

 

「俺を信じろ、御堂」

「……それは、部下としてのお前をか? それとも恋人としてのお前をか?」

「どちらもだ。俺という人間を信じろ。そして委ねろ。あんたは俺に命令するだけでいい」

 

 多分、もう結論は出ているのだ。後は、それを自分が認めるだけだ。

 深く息を吸って、心を決める。

 背筋を伸ばし、姿勢を正す。

 克哉もそれに倣って、御堂から手を離し姿勢を正した。

 この男を信じ、懸けてみよう。それで駄目でも後悔はしない。自分が選んだ男なのだ。

 佐伯の双眸をひたと見詰めた。

 克哉もまた、続く御堂の言葉を期待して、深い眸で御堂を促す。

 

「佐伯、お前に命ずる。出荷ミスの件、確実に処理しろ」

「かしこまりました。俺にお任せください、御堂部長」

 

 その顔が不敵に笑った。

(5)
Pomegranate Memory(6)

 克哉に出荷ミスの処理を任してから三日、克哉は言葉通り鮮やかな手際で丸く治めて見せた。

 先方への謝罪を行う傍ら、入荷数が足りなかったコンビニエンスストアへは近くの倉庫から余剰在庫を速やかに回し、大量に入荷してしまった北海道のスーパーマーケットの支店から商品の引き揚げの処理も手早く行った。

 御堂からも双方の社の責任者にお詫びの電話を入れたが、クレームを受けるどころか「これからも是非よろしくお願いします」と下手で丁寧な挨拶を受けた。克哉の迅速かつ丁寧な対応と謝罪が功を奏したのだろう。

 そして、何故ミスが起きたのか、検証のレポートも既に出来上がっていた。

 なんてことはない、単純な人為的なミスだった。出荷前の検品がスタッフによる目視によって行われていたことが原因だ。

 御堂は個人の責任を追及することはせずに、システムの問題として報告書を仕上げた。

 再発防止策として、バーコードを用いた検品システムの導入を提言する。検品作業を機械的に行うことで、誤出荷を防げるだろう。システム導入の経費はかかるが、この種の誤出荷を防ぐことが出来れば、メリットは大きい。

 一方で、1週間経過したにも関わらず出荷ラインの確保は難航していた。粘り強く大隈との面会を求めたが、多忙を理由に拒否されている。

 それならば、と増産を説得するための詳細な資料を添付してメールや社内便で送付するも、こちらも反応はない。

 工場のシステムの不備を御堂が指摘したことが、大隈の態度をより頑なにしたのは確かだろう。だが、大隈といえどもMGNの重役の一人だ。冷静に考えれば、御堂の提案がMGNだけでなく、大隈自身にとっても益のある提案であることは分かるはずだ。

 出荷ラインを諦める気は全くない。

 この1週間、穏便な方法で大隈を説得しようと試みていたが、いつまでも手をこまねいていられない。そろそろ強硬手段に出る必要がある。

 本日行われる幹部会で、御堂はプロトファイバーの現状報告を行う予定だった。その場において、MGNの重役の面々の前で大隈にプロトファイバーの増産の必要性を訴え、出荷ラインをまわすように迫る腹積もりを固めていた。

 MGNは先のサンライズオレンジの販売が低迷したこともあり株価の動きが思わしくない。ここでプロトファイバーが出荷停止となれば、上昇しかけた株価が下落する可能性が高い。それを盾にしてプロトファイバー増産の正当性を主張する。

 どんな反論も論破できる自信はあった。ただ、大隈の面目を丸潰ししてしまうことになり、今まで自分を引き立ててくれた大隈を、今後、敵に回してしまうことになる。

 それが心苦しいと言えるが、出荷ラインを押さえるのは、自分がこのプロジェクトに置いて果たすべき最優先の使命だ。

 

――何を迷う事がある? 私は今まで一人で生き抜いてきた。これからも、それは変わらない。

 

 御堂が決意した時だった。事態の解決は、唐突に向こうからやってきた。

 デスクの内線が鳴る。

 電話を取ると、大隈からだった。

 受話器の向こうの大隈の口調は予想に反して上機嫌だ。

 

『御堂君。君の報告書、読んだよ。連絡が遅くなってすまない。方々に手を回していてね。出荷ラインをプロトファイバー用に押さえた。君の裁量で好きに使ってくれてかまわない。頑張りたまえ』

「大隈専務……。ご配慮いただきありがとうございます」

 

 御堂は呆気にとられながら大隈に礼を言い、電話を切った。

 方々に手を回していた、というのは方便だろう。

 どういう理由で心変わりしたのか不明だが、大隈は突然、御堂が希望した通りの出荷ラインを全て、プロトファイバーに回してくれたのだ。

 大隈の真意が掴めないことが気にかかるが、強硬手段に出ることなく事態が好転したのは有り難い。

 御堂は工場に連絡を入れ出荷ラインの確認を取ると、すぐにキクチへ一報を入れた。

 これで、出荷停止に陥ることはないだろう。克哉との約束も無事に果たせる。

 御堂は大きく息を吐いて、椅子の背もたれに深く体重をかけた。

 

 

 

 

「失礼します!」

 

 張りのある声と共に、藤田が執務室に顔を出した。

 サインを求めてデスクの御堂に書類を差し出す。克哉達と共に出荷ミスの謝罪に行った際の出張報告書だ。

 内容にさっと目を通してサインをする。

 藤田の顔を見上げた。

 

「藤田、新人なのに、初っ端からきつい出張で申し訳なかったな」

 

 クレーム対応は本来なら新人にさせる仕事ではない。特に、今回は大手の取引先だった。

 克哉の口車に乗せられたとはいえ、MGNから新人一人を出すのは無謀な判断で、一つ間違えればより状況を悪化させていた。

 御堂の詫びの言葉を、藤田は首をぶんぶんと大きく振って否定する。

 

「いえ、とても勉強になりました! 佐伯さんの話術を間近で見られたのは貴重な経験でしたし」

 

 裏表のない元気な声で返事をされる。本心なのだろう。

 

「佐伯の話術?」

「ええ、もう、凄かったですよ。謝罪に行ったはずなのに、先方に叱責されるどころか、同情されて、感心されて、感謝されて。帰り際には先方と固い握手を交わしてきました」

「なんだそれは」

 

 確かに御堂が相手先に連絡した時も、妙に友好的な態度だった。

 訝しがる御堂に、藤田も小首を傾げた。

 

「何が何だか……。僕も狐に包まれた感じです。あれは話術と言うより人心掌握術とでも言うのでしょうか。佐伯さん、誰とでもすぐに打ち解けますし。MGNでも顔が広いですよ。……そういえば、昨日、小林専務と仲良さそうに会話しているのを見かけました」

「小林専務と?」

「ええ。どこで知り合ったんですかね」

 

 藤田が発した単語に反応する。

 昨日、克哉はMGNに来ていたのだろうか。

 キクチとの打ち合わせは予定していなかったし、御堂のところにも寄っていない。

 そもそも、克哉と小林専務は先の会議の質疑応答でやり合ったくらいで仕事上の関係はなく、それ以上の面識もないはずだ。

 サインした書類を返し、部屋を出ていく藤田を視線だけで追った。

 何かきな臭さを感じる。

 そして、その自分の感はおそらく正しい。

 

 

 

 

 夜、御堂の執務室に克哉が顔を覗かせた。

 連日、夜遅くまで業務を行っているせいか、克哉も連絡を入れずに夜間に顔を出す。

 MGNの社員証を持っていない克哉が、どうやって時間外にMGN社内に潜り込んでいるのか疑問だが、克哉のことだ、上手く守衛を丸め込んでいるのだろう。

 そう言えば、先日、克哉は御堂の住所を社員から上手く聞きだしていた件もある。MGNのセキュリティシステムのチェックをしなければ、と頭の中にタスクを追加する。

 

「御堂さん、生産ラインの目途がついたようですね。良かったです」

 

 にっこりと端正な笑みを浮かべる克哉をデスクから見遣る。感情を込めない声で尋ねた。

 

「佐伯、君は私に隠れて一体何をした?」

「何のことです?」

「小林専務に近付いて何を唆したんだ」

 

 克哉の眉が微かに動く。

 言い逃れは難しいと瞬時に判断したようだ。薄い笑みを湛えていた表情を仏頂面に挿げ替える。

 

「別に、大したことはしていませんよ。プロトファイバーの営業を抑えたせいで暇になったので、2課の営業をこっそり手伝っただけです」

「キクチ2課の? 何をだ?」

 

 克哉が缶コーヒー飲料の名前を上げた。

 MGNのロングセラー商品で、小林専務が開発部に所属していた時にプロジェクトリーダーとなって開発したものだ。

 販売当時、一世を風靡する大ヒット商品となり、その業績が評価されて専務の役職を得たと聞く。今となっては当時の勢いはないが、それでもその缶コーヒーは主軸ブランドとなり、好調な売れ行きを維持している。

 小林専務は既にそのプロジェクトの一線から外れているものの、その商品への思い入れはひとしおだ。

 成程。克哉の行動が見えてきた。

 

「缶コーヒーの売り上げが上向きになったので、小林専務に耳打ちをしたんですよ。缶コーヒーの売上が増える冬に向けて、今のうちに生産ラインを確保しては如何ですか、と」

「二人の対立を煽ったのか」

 

 克哉は返事の代わりに小さく口角を上げた。

 大隈専務の突然の翻意の理由が分かった。

 小林専務が生産ラインを缶コーヒーに割くように大隈専務に迫ったのだろう。大隈専務はライバルである小林専務と御堂を天秤にかけるまでもなく、プロトファイバーへ生産ラインをまわす方が自分にとっての益になると判断した。そして、小林専務に付け入る隙を与える前に動いたのだ。

 克哉の行動の一つ一つはMGNに貢献しており、何ら問題はない。だが、二人の争いに油を注いでおり(正確にはそれを目的にして動いていたのだが)、このまま二人の出世争いに巻き込まれると面倒なことになる。

 

「佐伯。君がしたことは、下手したら君の立場を悪くするぞ」

「俺は、MGNの社員ではないからな。問題ない」

 

 諍いの気配を敏感にかぎ取って、上手く利用する。そんな老獪な処世術を克哉は何処で身に着けたのだろう。

 だが、火中の栗を突いて弄ぶような行為は褒められたものではない。

 余裕の笑みさえ浮かべてみせる克哉に言い募ろうとして、思いとどまった。

 今、御堂が克哉に言うべき言葉は苦言ではなくて別の言葉だ。

 

「だが、今回の件は色々助かった。……ありがとう、佐伯」

 

 克哉に向けて、真っすぐと、はっきりと、感謝を伝える。

 しかし、克哉は、ぷい、と御堂から視線を逸らして顔を背けた。

 

「自惚れるな。あんたのためじゃない。俺のためだ。出荷停止のお詫び行脚は御免だったからな」

 

 思わぬ克哉の反応に、目を丸くする。

 工場の発送ミスの謝罪と処理を自ら引き受けただけでなく、わざわざキクチ2課の営業を手伝ってみせたのだ。

 そんな克哉が出荷停止に陥った際の販売先への謝罪回りを苦にするはずがない。

 臆面もなく御堂の恋人だから、と言って口も手もだす割には、礼を言うとそっぽを向く。

 よく見ると、その横顔は拗ねているようで、頬は微かに赤みがさしている。

 非常に分かりにくいが、今、この男は照れているのだ。

 

「君はへそ曲がりだな。素直じゃない」

 

 何と面倒くさい男なのだろう。

 だが、この可愛げのなさが、この男の可愛さなのだ。

 可笑しさを噛み殺そうにも、肩が震えてしまう。込みあがる笑いを抑えようとすればするほど、押し殺した笑い声が漏れる。

 克哉が益々ふてくされていく。

 

「俺に感謝するなら、態度で示してくれていいぞ」

 

 ぞんざいな言葉と共に克哉が大股で御堂のデスクに近付くと、ぐいと上体を乗り出してデスク越しに御堂の肩を掴んだ。

 そのまま乱暴に唇を合わせられる。

 克哉の顔を躱す時間は十分にあったが、そうせずに克哉の唇を押し潰すように自ら顔を寄せた。

 数秒、触れ合わせ、感触を馴染ませる。

 顔を離した克哉が、少し意外そうに御堂を覗き込んだ。

 

「怒らないのか?」

「この一週間は、とても疲れたからな。判断力が低下しているんだ」

 

 くるりと椅子を返し、窓を向いて立ち上がった。

 壁際のボタンを押すとブラインドが自動で降りて、壁一面の窓を覆う。

 

「キス位、好きなだけしてやろう。来い」

「その言葉、真に受けますよ」

 

 克哉に向かって両手を広げると、腕の中に克哉が納まる。

 その背丈は自分と同じだけあって身体は締まって硬い。

 どこからどう触っても男の身体なのに、互いの皮膚を、そして、粘膜を触れ合わせることに嫌悪感を覚えるどころか劣情さえ感じてしまう。

 男に欲情するなんて、どうかしている。

 だが、よく考えれば相手が克哉だからだ。男なら誰でもいい、という訳ではない。

 克哉を抱き寄せ、再度、唇を重ねようとして大事なことを思い出す。

 

「部屋の鍵を……」

「閉めている」

「準備がいいな」

「俺とあなたの時間を邪魔されたくはないからな」

 

 クスリと笑った克哉に唇を塞がれる。

 しっとりとした唇で唇を食まれ、口の中を濡らされていく。

 口内を埋めていく克哉の舌に軽く歯を立てて捉え、自らの舌を尖らせてくすぐる。

 顔の角度を緩やかに変えながら、互いの舌と唾液を混ぜ合わせて吸う。合わせた唇の間に電気が走り、頭の芯を痺れさせていく。

 

「ん……、ふ」

 

 御堂の脚の間に、克哉の太腿が深く挿し込まれた。

 そのまま軽く揺すられて、下腹部がジンと疼く。キスのリズムに合わせて、ゆるゆると揺すられる。

 克哉の両手が、御堂の背中のラインを辿りながら降りていく。御堂の臀部まで辿りつくと、両の尻たぶを握るように揉みこまれた。

 尻を押さえ込まれると同時に、克哉の太腿で前を強く擦り上げられる。

 克哉の淫らで卑猥な動作に、我に返り顔を離した。

 

「佐伯、待て! キス以上の事を許可した覚えはない」

「禁止された覚えもないですが」

「……それを屁理屈という」

「屁理屈も理屈のうち、だそうですよ」

 

 ニヤリと笑いながら克哉の手が御堂のベルトに伸びる。

 器用にベルトを外して、ファスナーを下ろして中に忍び込んだ。

 既に張りつめたペニスの形を指で辿られ、握り込まれる。

 

「……っ」

「あなたは身体の方がよほど正直だ」

「ここでしなくとも、ホテルか私の部屋で……」

「待てない。俺を焚きつけたのはあなただ」

 

 御堂としては大分譲歩したつもりで自分の部屋を提示したのだが、克哉は意に介せずに御堂の漲った性器を擦り上げる。

 

「ぅ、はっ、…く」

「あんたも俺を期待しているんだろう? ここをこんなに腫らして」

「それは……」

 

 スラックスの中から克哉の手が抜かれたかと思うと、下着ごとスラックスをずり下ろされた。

 腰を掴まれ、そのまま自分のデスクの上に座らされる。

 浮いた足から衣服を取り払われ、開かされた脚の間に克哉が身体を入れた。

 下半身をむき出しにされ羞恥に染まる顔を見られたくなくて、不安定になった身体を支えるふりをして克哉の肩にしがみつく。

 よりによって、自分の執務室の、自分のデスクの上で、自分は何をしようとしているのだろう。

 今から及ぼうとしている行為に怖気づいた。

 

「佐伯、やはりここでは……」

「やめていいのか? 認めろよ。あんたは俺を欲しがっている」

 

 身体と身体の間からカチャリと硬質な音が響いて、克哉がベルトを外したことを知る。

 淫靡な期待にぞくりと身体が震えた。

 克哉の言う通り、身体はどうしようもなく克哉を欲している。

 肩を押されて、デスクの上に仰向けにされた。その上に克哉が覆いかぶさってくる。

 ワイシャツの裾がたくし上げられて、中に克哉の手が忍び込んだ。胸板から腹を撫でまわされて、再び手が下に降りていく。

 先走りを溢れさせる性器の先端をくじり、指をたっぷりと濡らすと、その指が陰嚢の裏に忍ばされる。

 アヌスの縁に触れると、そこが指を求めてひくついた。克哉の指が周囲をなぞり、ゆっくりとそこに潜る。

 

「くぅ、あ、ああっ」

 

 中を、円を描くように触られ、解される。

 克哉の長い指で、身体の内側を撫でられ、入り口を広げられる。

 

「御堂、どうして欲しい?」

「う、……」

 

 そう問われて、頭の中に即座に答えを用意したが、それを口に出すことは矜持が阻む。

 口をつぐんでいると、克哉が呆れたように呟いた。

 

「全く、あなたは素直じゃない」

 

 素直でないのは、克哉も同じだろう。そう、胸の裡で反駁する。

 克哉の指が抜かれて、代わりに熱く硬い屹立をあてがわれた。

 触れる先端に克哉の凶暴な欲望を感じて、喉がひくりと上下した。

 

「でも、御堂さん、頑張ったからな。ご褒美を上げますよ」

 

 待て待て。

 褒美を上げるのは御堂の役目だ。

 いつの間にやら立場が逆転されていて、美味しい役回りを掻っ攫われたような釈然としない気持ちになるが、それも含めての克哉へのご褒美だと自分を納得させる。

 異議申し立てをしないことで、余裕がある素振りをする(が、克哉が御堂の態度をそう受け取ったかどうかは甚だ怪しい)。

 ぐうっと克哉が腰を入れた。

 隘路の中を熱い肉塊が侵入してくる。

 

「っ、う…あ、ああっ」

 

 深く身体を繋げられる。

 内臓が押し上げられ、下腹部が重くなる。

 それでも、もっと深いつながりが欲しくなる。

 互いにまとったスーツが克哉の体温を遠ざけてしまい、一際強い力で克哉の身体を引き寄せ密着させた。

 克哉が腰を使い始めた。

 呼吸が速くなり二人の欲望を競うように高めあう。

 

「く、ふ、あ…、はっ」

 

 律動の度に悦い場所を擦られ、抉られ、絶頂に向けて追い上げられる。

 気持ちよさに頭が真っ白になり、すぐに喘ぐことしか出来なくなった。

 

「御堂さん」

 

 克哉が御堂の肩口に顔を埋めた。

 低くざらついた声が耳を舐める。

 

「実は、執務室の扉の鍵、開けっ放しなんです」

「佐伯……っ!」

 

 昂ぶる快感はそのままに、意識が引き戻される。

 ざっと血の気が引く音が聞こえた。

 扉を確認しようにも、デスクの上に仰向けにされ、首を回しても、克哉の頭が邪魔で扉を確認することが出来ない。

 

「まだ、フロアに人も結構残っていましたし、誰か入ってくるかもしれませんね」

「やめろっ、直ちに離れろ、佐伯!」

 

 身体が強張って固くなる。

 克哉の背中を手で叩きつつ、克哉の身体を振りほどこうとするが、目一杯開かれた下肢の間に克哉が深く入り込み、覆いかぶさる形で身体をデスクに縫い付けられ、身動きが取れない。

 それ以上に、穿たれた下半身に力が入り克哉のペニスを一層食い締めだした。

 

「あなたの中、俺を欲しがって、こんなにも蠢いていますよ」

 

 焦る御堂とは対照的に、克哉は平然とした態度で淫らな言葉を囁く。

 

「他の奴らに見せつけてやるか? あんたが俺に抱かれてどれ程いやらしく乱れるかを」

「あ、…いやだッ、……んんっ……さ、えき」

 

 誰かに今の痴態を見られるかもしれない。

 恐れと焦りが心拍数を速めて、体温を上昇させた。

 身体の感度が研ぎ澄まされ、克哉が腰を揺する度に抑えきれずに声が上がる。

 自分を何とか制御しようと克哉の背中に回した手でジャケットの生地をぎゅっと掴む。

 克哉が中を掻き混ぜれば、身体がばらばらになりそうな悦楽が背筋を這い上がる。

 その快楽は背徳感と恐怖とないまぜになってせり上がり、指先まで神経を侵食していく。

 混沌とした感情と欲の狭間で、涙で滲んだ視界を克哉に向けて懇願した。

 

「ふっ、あ…ああっ! 克哉、もうっ、だめ……」

「孝典さん」

 

 克哉が優しい声音で囁いた。

 

「さっきのは嘘です。鍵はしっかり閉まっていますし、フロアには俺たち以外誰も居ませんよ」

「えっ……? うあ、……あああっ!!」

 

 安堵に力が抜けた瞬間、克哉に大きく突き入れられて、視界が一面灼けてはじけた。

 最奥に打ち付けられた熱い粘液が身体の中をぐっしょりと濡らしていく。

 びくびくと身体を大きく引き攣れさせながら、白濁した粘液を何回にも分けて放ち、触れ合う克哉の腹を汚していく。

 深すぎる快楽に引きずり込まれるように酔いしれた。

 

 

 

 

 克哉に身体を拭われて、脱力した身体を抱き起された。

 克哉は甲斐甲斐しい手つきで御堂の衣服の乱れを整えていく。

 克哉の腕の中で大きく嘆息した。

 

「どうした?」

「自己嫌悪だ。執務室でこんなことを……」

「俺は愉しめたが」

 

 克哉を睨みつける。

 

「あんな酷い嘘をつくとは」

「スリルがあって、興奮しただろう?」

「馬鹿を言えっ。もう二度と私を騙そうとするな……!」

「あんたのこの貪欲な身体は、悦んでいたように思えたがな」

「誰のせいだ」

 

 怒って克哉から顔を背けると、克哉がなだめるように、啄むキスを、音を立てながら頬や項に散らしてくる。

 しばらくはぐっと無視して耐えていたが、くすぐったさに身体をよじった。

 

「孝典さん、愛していますよ」

 

 甘ったるい言葉と愛撫で機嫌を取られる。

 どうも、この男に付き合っていると、正常と異常、屈辱と快楽といった自分の中の境界線がずれていってしまいそうな危険を感じる。

 それでも、克哉に連れていかれる世界の一つ一つが新鮮で、未知への畏れよりも克哉と共に感覚を分かち合う歓びがそれに勝るのだ。

 克哉が傍にいるだけで、心強く、安心して身を預けられる。

 素直に認めたくないが、やはり自分は克哉が好きなのだろう。

 大きなため息をつきながら、克哉の顔を両手で挟み込んだ。

 

「佐伯、MGNに来い。お前の活躍をもっと間近で見てみたい」

「仰せのままに」

 

 互いに目を見合わせながら、微笑みの形の唇を重ねた。

 

 

 

 

 御堂たちが手掛けたプロトファイバーは、年間の売り上げ目標を僅か3か月足らずで達成した。

 初年度100万ケースの出荷を目標とする飲料水市場で、発売から一年で1000万ケース超を売り上げ、克哉の宣言通り空前のヒット商品となる。

 そして、克哉はその業績を買われ、御堂の執務室に足を踏み入れてから3か月後、MGNに正式に転籍となった。

(6)
Pomegranate Memory(7)

 御堂は職場のフロアに足を踏み入れた。

 

「御堂部長、おはようございます!」

「おはよう」

 

 総勢100名近くの大所帯のフロア。

 あちらこちらから御堂に向けて挨拶の声がかかる。

 今年も残すところ一カ月を切っている。年末年始休暇を心置きなく過ごすための追い込みで朝から活気に溢れたフロアを掻き分けながら、執務室に向かう。

 扉に手をかけた時だった。

 

「おはようございます。御堂さん」

 

 耳に馴染んだ声がかかる。

 始業前の喧噪に浸る空間の中で、その声だけは脳の奥深くに届く。黒目だけを動かして、声の主と視線を交じわらせた。

 そこには、つい数時間まで褥を共にしていた人物が、涼やかな笑みを浮かべて立っている。

 

――佐伯克哉。……私の、男。

 

「おはよう」

 

 殊更に体温を乗せない声と表情で挨拶を交わす。

 彼、佐伯克哉がMGNに転籍してから1年の月日が経った。

 当初、部長待遇で引き抜きの話が出ていたが、克哉が固辞したため、御堂率いる商品企画開発部第一室の部長代理の職位を得た。

 相も変わらず上司と部下の関係のままだが、克哉はそれに不満はないらしい。

 克哉にそれを質すと、御堂の下にいる限りは上からの物言いを御堂が防いでくれるので、自由に動きやすいから、だそうだ。

 だが、真意はそこにはないだろう。

 その裏には御堂への遠慮があると見ていた。

 若い克哉が御堂と同位の立場に立つことで、御堂の出世を妨げるのではないかと気遣っている節がある。

 事実、重役の面々が出席する会議では、克哉は御堂以上に目立とうとはしない。

 御堂の前では、克哉の自信にあふれた尊大な態度は言動の端々から透けていたが、間近で仕事ぶりを見てみると細やかな気遣いも出来る男だ。

 鋭い洞察と機転の速さでもって、抜きんでた実力を持っていたし、その能力を御堂のために尽すことを惜しまない。

 二人で激しく対立することもままあったが、克哉が御堂のチームに加わってからというもの、次から次へとヒット商品を世に出して、御堂と克哉は稀代のヒットメーカーとして業界の内外で広く知られるようになっていた。

 ヒット商品を作り上げることは、流行を造りだすことだ。その時の達成感は何ものにも替えがたい。

 イノベーションと評価されるヒット商品ともなれば、時代を象徴するマイルストーンと成り得る。

 克哉と共に仕事をすることは、それさえも可能であるような気にさせてくれる。

 だが、克哉の今後のキャリアを考えると、今の状況に甘んじさせるわけにはいかない。

 

――いい加減、佐伯を部長に昇進させ、一室を任せるようにしなければ。

 

 当初は子会社からの転籍ということもあり、生え抜きのMGN社員から侮蔑と疑いの視線を向けられることを慮って自分と同じ部署への配属を認めたが、御堂の心配は杞憂に過ぎなかった。

 克哉の社内における立ち回りのバランス感覚は非常に優れている。上からは認められ、下からは慕われる。

 チームのコンディションを整え、最高のパフォーマンスで仕事に打ち込めるようにメンバーを上手く配置し采配を振るう。

 克哉は上に立つ者の資質を備えている。

 とはいえ、克哉に部長昇進を直接勧めても、のらりくらりとかわされるだけだ。

 仕方ないので、御堂は克哉には告げずに、先日の人事評価表で部長への昇進が望ましい、とコメントを付けて提出していた。上手くいけば、次の人事で克哉は御堂と同じ立場で別のチームを率いることになる。

 その日の午後、御堂は大隈の執務室に呼び出された。

 ちょうど来年度の人事が動き出す時期でもあり、克哉の人事に関する話だろう、そう予測して部屋に向かったが、期待は裏切られた。

 

「失礼します」

 

 ノックを3回し、大隈の執務室の扉を開けると、大隈は満面の笑みを浮かべて御堂を迎え入れた。

 

「おめでとう、御堂君。先ほどの役員会で、来年度、君をシカゴ本社に派遣することが決まった」

「私が、ですか」

 

 突然の話に、理解するまで数秒の時間を要した。

 

「ああ。本社側も君を歓迎すると返事が来ている。ここ最近の君の目覚ましい活躍は誰しもが認めるところだ。期間は3年間。帰ってきた時には、役員の椅子が用意されている。君も、MGNを率いるメンバーの仲間入りだ。私も君を強く推してきた甲斐があったよ」

「……ありがとうございます」

 

 大仰な動作で差し出された手を軽く握り返す。

 さりげなく自分の手柄を主張するあたりは、大隈の如才なさだろう。

 

「第一室の私の後任は誰が?」

「君の後任は、佐伯君を考えている。彼は若いが、実力は折り紙付きだからな」

「私もそう思います」

 

 さも自分のことのように喜んでみせる大隈が、秘密を打ち明けるように声を潜めた。

 

「実は、君が帰国したら入れ替わりで、彼をシカゴ本社に出向させる話が出ていてね。彼も、幹部候補生として育てていくことが決定している」

「佐伯を……?」

「ああ。彼は若いが、君と同様、非常に優秀だからな」

 

 得意満面に頷いた。

 大隈の機嫌が良い理由が分かりすぎる程に分かった。

 大隈は御堂を自身の派閥に属していると考えている節がある。

 御堂はどの派閥にも属していないつもりであったし、先のプロトファイバーの出荷ミスの際は大隈の主張と真っ向から対立したが、大隈こそ名を捨てて実を取る判断に長けているらしい。そのことは大隈の中ではあっさりと水に流されたようだ。

 そして、御堂の部下である克哉も自分の派に属し、御堂も克哉も役員コースに乗ることで自分の権勢を今まで以上に振るうことが出来ると思っているのだろう。

 だが、当然ながら大隈の見込みは甘い。その油断は克哉に付け込まれる隙を与えるだけだ。そして、御堂もそれをわざわざ指摘してあげる程お人好しではない。

 ところで、と大隈は前置きして、少し言いにくそうに話を切り出した。

 

「佐伯君には決まった相手はいるのかね? いや、実は、うちに年頃の娘がいて、彼なんかどうかな、と思ったのだが」

「……いえ、彼には結婚を考えているような相手はいなかったかと」

 

 その言葉に嘘はない。

 

「そうか!」

 

 大隈が相好を崩した。

 その顔は専務ではなく父親の顔になっている。

「それでは、失礼いたします」

 それ以上大隈に何か言われる前に部屋を辞した。

 

――私が、アメリカに。そして、佐伯も。

 

 御堂よりも上の世代でシカゴ本社への出向を希望していた者は多い。御堂や克哉が選ばれたのは大抜擢と言える。

 正式な辞令は年が明けてからだろうが、すぐに噂は広まるだろう。

 商品企画開発部第一室のフロアに足を踏み入れると、フロアのオープンスペースに置かれたミーティング用のテーブルに、克哉を始めとした十数名のメンバーが活発に意見を交わしていた。時折、笑い声も響く。

 克哉は場の雰囲気を支配することに長けている。克哉の周りにはいつも人が群がる。

 克哉の頭がこちらを向いた。

 さっと目を伏せて視界から克哉を消した。

 

 

 

 

 日が落ちるのはすっかり早くなった。

 執務室の窓辺に佇み美しい東京の夜景を眺めるも、視線は夜景に辿りつく前に、ガラスに映った自分の顔を眸に映しとる。

 どこか沈鬱さを滲ませるその顔は、紛れもなく自分自身だ。

 大隈の執務室を出てから、思考は停滞したままだった。

 何が原因かは分かっていた。

 シカゴ本社への出向を素直に喜べない自分に愕然としたのだ。

 本社への出向は出世コースだ。その期間に認められれば、グローバルに展開するMGNグループ本社の幹部としての道が開けるし、それでなくても日本支社での役員待遇が約束される。日本支社の歴代社長も皆同じ道を辿ってきた。

 御堂自身も、本社への出向を目指して今まで頑張ってきたはずだった。

 それなのに、大隈の言葉を聞いて、まず心に浮かんだのは克哉のことだった。

 

――私がアメリカに3年、その後、彼が3年。

 

 6年もの月日が克哉と御堂を、海を隔てて分かつ。

 克哉と御堂は、6年後、どうなっているのだろうか。

 そう思いを馳せて、唐突に気が付いた。

 克哉と御堂の間には最初から未来なんてなかった。

 男二人、結婚することも家庭を持つことも出来ない。

 いくら抱き合って愛を深め合ったところで、何も実を結ぶことはない。

 先がないからこそ、打算も駆け引きもなく、その時の刹那的な快楽に溺れることができる。だからこそ、克哉と分かち合う悦楽はどこまでも深いのだ。

 今まで御堂は何人もの女性と付き合ったが、いずれも長続きしなかった。自分にとっての優先度が低かったこともあったが、どの女性に対しても自分と一緒にいる未来が思い描けず、自分に相応しい相手とは思えなかったからだ。

 だが、克哉とは未来を考える必要がなかった。

 そもそも存在しないのだから。

 今のひと時を一緒に過ごしているだけで満足だった。

 子供のような無邪気な愚かさで、克哉が隣に立っている日々が永遠に続くような錯覚に陥っていたのだ。

 だから、一年以上も関係が続いたのだろう。

 ならば、共に過ごせなくなるのなら、もうこの関係を続ける道理はない。

 克哉であれば、御堂でなくても他の相手をすぐに見つけることが出来る。

 

――佐伯が私以外の誰かと……。

 

 そう考えて、ぐっと胸が苦しくなり、呼吸が乱れた。

 この感情を何と呼ぶのか。

 御堂は思考を振り払い、考えるのを止めた。

 

 

 

 

「失礼いたします」

 

 ノックの音と共に克哉が執務室に入ってきた。

 逸れていた意識をこの場に戻し、表情を消す。

 普段通りの顔になっていることをガラスに映る自分を確認し、振り向いた。

 

「何だ?」

「ショッピングモールの企画書、参加企業の企画案をすり合わせたものが出来ましたので、目を通していただけますか」

「分かった」

 

 目線でデスク前の応接ソファに座るように促し、自分も向かい合わせに座ると、克哉から手渡された企画書に目を通した。

 MGN社がメインとなって手掛けるコンセプトショッピングモールの企画は、克哉が主体となってプランの作成から参加企業を募るコンペティションの実施、そして企業の選考まで行っていた。

 企画自体はほぼ出来上がっている。御堂の最終確認が済めば、正式にリリース予定だ。

 内容に目を通していく。

 大胆かつ緻密。

 一つ一つのプランには奇抜なものもあるが、全体としてはよく調和がとれている。

 隙がないようでいて、遊びの部分も持たせている。プランを実現化させていくときの不具合を臨機応変に対応させるために仕込む余白の部分だ。その匙加減は経験がものを言い、若さだけでは見過ごされがちな箇所だが、克哉はこういったところまで抜群のセンスを発揮する。

 克哉らしく細部まで練り込まれた、完成度の高いプランだ。

 7年前の自分はこのレベルの企画を練られたか、と問われると悔しいが自信がない。

 

「良く出来ている。これで問題ない」

「ありがとうございます」

 

 御堂から企画書を受け取る克哉のレンズの奥の眼差しが和らいだ。部下から恋人のそれになる。

 

「それで、御堂さん。何かあったのか?」

 

 投げかけられた言葉に動揺する。

 表情に出したつもりはなかったが、微かな眸の揺れから克哉は確信を深めたようだった。

 

「大隈に何か言われたのか? 大隈に呼び出されてから、あんたは少し変だ」

「佐伯。大隈専務と呼びたまえ」

 

 克哉は鋭い。ちょっとした仕草や表情、声音から、相手の隠したい事を探り当ててくる。

 そんな克哉に隠し通すことは難しいだろうし、隠す必要もない。

 腹を決める。

 

「そうだな。君には言っておいた方がいいだろう」

 

 一拍置いて言葉を継ぐ。

 

「来年度、私はシカゴ本社に出向することが決まった。期間は3年間だ。そして、この室の私の後任には君が内定している」

「それは、おめでとうございます。偉くなって帰ってくるのを楽しみに待っていますよ」

 

――君は本心からそう思っているのか?

 

 含みのない笑みで返され、胸が重く、冷たくなっていく。

 

「君もだ。君も、私が帰国した後、アメリカ本社への出向が予定されている」

 

 克哉は眼鏡を押し上げつつ、目を眇めた。

 

「俺は断わります。出世には興味ない」

 

 それは、御堂に対する気遣いから言っているのだろうか。

 克哉がアメリカに行って戻れば御堂と必然的に同じ立場になる。それからの出世は若いほうが有利だろう。

 御堂の今回の抜擢は、克哉の働きが大きく貢献しているのは考えずとも分かっていた。

 

――7歳も年下の男、しかも部下に気遣われるとは。

 

 克哉はどこまでも御堂を優先させようとする。それが当然だといわんばかりに。

 だが、克哉がそれを望んでも、克哉を踏み台にして出世することを御堂は望んでいない。

 自分はそんなさもしい男に見えるのだろうか。

 自嘲めいた笑みを浮かべた。

 

「何を馬鹿なことを言っている。君にとってはまたとない話だ。子会社の一社員だった君が、親会社に転籍になって、更には幹部コースを歩む。大出世ではないか」

「御堂?」

 

 口をついて出た言葉は益々自分を卑しめる。

 克哉が驚いたように御堂を見詰める瞳孔を広げ、真意を慎重に探ろうと御堂の双眸を覗き込む。

 その眼差しを、視線を落とすことで遮った。

 

「私は私の道を歩む。君は君の道を歩め。君なら私以上に高いところまで登り詰めることが出来るだろう」

「あんたと一緒でないと意味がない」

 

 そんな甘ったれた事を言う克哉に腹の底が煮え立った。

 いくら肌を重ね合わせても、克哉と御堂は他人同士だ。

 最初から最後まで他人の関係でそれ以上にはなれない。

 克哉はこれ以上御堂のために尽すことはない。その能力を自分のために使うべきなのだ。

 そう自分に言い聞かせながらも、心臓が引き絞られるように痛む。

 その痛みを頭の中で克哉に対する苛立ちに変換して言葉に乗せた。

 

「佐伯、君も当然分かっているんだろうが、私たちは男同士だ。いつまでも一緒にいられない」

「いきなり、どうしたんだ?」

 

 克哉が当惑した表情を向けた。

 

「もう、終わりにしようと言っているんだ。君と私の関係を、終わりにしよう」

 訝しむ克哉の言葉を被せるようにして冷ややかに言い切り、追及から逃げる。

「本気で言っているのか」

「君もいずれはそのつもりだったのだろう? ならば、これがいい機会ではないか」

「それはあんたの本心なのか?」

「ああ」

 

 これ以上、言葉をどれほど重ねても互いを不毛に傷付けるだけだ。

 克哉は押し黙り自分の手元に視線を落とした。

 ややあって感情を押し殺した低い声で言う。

 

「これ以上何を訊いてもあんたは答えてくれないんだろう? ……あんたは、自分から告白してきたのに、いつも俺との間に壁を作ろうとしていたな」

「私から告白? ……そう言えば、そうだったな」

 

 その言葉が、あの日の記憶を呼び起こす。

 そうだ。

 あの日。

 克哉が接待のために、部屋に押しかけてきた日。

 御堂から克哉に告白したのだった。

 だが……。

 いつから自分は克哉を好きだったのだ?

 何故、好きになったのだ?

 克哉を愛しく思う気持ちは何処に端を発したのだろう。

 克哉に初めて会った時か? 

 いや、違う。

 克哉を生意気な男だと煙たく感じたからこそ、自分は接待を要求したのではなかったか。

 それが、接待で自宅にワインを持ってきた克哉に相対したときは、克哉に対するそれまでとは違う感情が心の中を占めていた。

 何故だ?

 何があった?

 何か、とても大切なことを忘れているのではないか。

 焦燥感に駆られたように記憶を掘り返す。

 どうして?

 いつから?

 問いの答えを探すも迷宮に足を踏み入れたように、意識の同じところをぐるぐると巡るだけだ。

 惑う御堂の沈黙を克哉は別の意味に解釈した。

 

「あんたは後悔しているのか。俺と付き合ったことを。あの時、あんたは酔っていたし、俺が仕込んだ薬で混乱していた。俺を好きだと言ったのも気の迷いだったんだろう」

 

 克哉の言葉に絡まっていた思考を放り出して、克哉の顔をハッと見上げた。

 

「俺が強引過ぎたんだな。あんたを手に入れるためなら、どんな手段を使ってもいいと思っていたんだ。あの時、あんたが止めてくれなかったら、俺はきっとあんたを壊していたよ」

 

 その口元には薄い笑みを刷いても、眼には冷徹な光が覗いた。

 背筋が粟立った。

 克哉の言葉は決して冗談でも脅しでもない、何故かそんな確信めいた予感が胸をよぎり、顔が青ざめる。

 平静さを保とうと、震え出しそうな指先に力を込めた。

 そんな御堂を見て克哉が小さく笑う。

 

「こんな俺があんたの恋人でいる資格はないな。いいよ、御堂さん。リセットしよう。俺とあんたの間にあったことを。俺とあんたは単なる上司と部下、それだけの関係だった」

 

 克哉は御堂を置き去りに、自分の中で話を組み立て、完結し、結論を出す。

 吐き出される克哉の言葉に、胸の奥底に鉛を流し込まれたような衝撃を受ける。

 それを言わせたのは自分なのに、どうしようもなく胸が苦しい。

 

「だけど、俺は、あんたの恋人であったことを一度たりとも後悔したことはなかったよ。……さよなら、御堂さん」

 

 克哉は音を立てずに立ち上がって背を向けた。

 そのまま御堂を振り向くことなく、扉を開けて出ていく。

 

「失礼いたしました」

 

 突き放すように言い放たれた言葉の語尾が、閉まる扉にかき消された。

(7)
Pomegranate Memory(8)

 御堂一人が残された執務室。

 急に広くなり、室温が下がったようだ。

 克哉の去り際の言葉と態度が、鋭利な刃となって現実を突き付ける。

 これでよかったのだろうか。

 いや、これで良かったのだ。これで、克哉は御堂に構うことなく、自分のためだけに自分の力を使うことが出来る。

 ……本当にそうか?

 

「違う」

 

 嗚咽のような呻きが零れた。

 克哉のため。それは嘘ではなかったが、主たる理由ではない。自分はそんな理屈で説明できる理由で別れを告げたのではなかった。

 

「違う、違うんだ」

 

 胸の中に詰まる重苦しい塊を少しでも軽くしようと言葉を吐きだす。

 克哉が御堂を愛するように、御堂もそれと同等以上に克哉を愛していた。

 それは決して気の迷いなんてものではなく、確かなものだ。

 だが、その確かな愛がいつまでも続くという保証はどこにある?

 克哉が他の誰かと。

 それを想像したときに、どろりとした澱んだ感情が自分の中で激しい渦を巻いた。

 嫉妬だ。

 振れ幅の大きい感情は、冷静な判断を鈍らせる。

 御堂は今まで感情に支配されないように、上手く自分を律してきていた。

 他人に自分の感情を左右されないように、他人との密接な関係は一切排除してきたつもりだった。

 だが、克哉はいつの間にか御堂の中の奥深くに入り込んでしまっていた。

 嫉妬がここまで狂おしく、痛みを伴うものだとは知らなかった。

 この嫉妬という感情は針のように鋭く突き刺し、タールのように粘ついて振りほどけない。

 こんな苛烈な感情を身の裡に抱えたまま、日常を平然と過ごしていくことなど出来るのだろうか。

 そんな自分自身で制御できない感情に搦めとられる位なら、いっそ自分から全て切り離してしまおう。

 ……むしろ、その方が、自分だけでなく克哉のためではないか。

 嫉妬に駆られる無様な自分を正視できずに、自分に嘘をついた。

 克哉も気が付いた。御堂の理由が、克哉のためなんていう小奇麗なものではないことに。

 そして、その理由を克哉は自分自身の中に見つけ出した。

 だからこそ、唐突な別れの切り出しにも関わらず、御堂を責めることなく去っていった。

 それは、御堂の目指した別れ方だったのだろうか。

 掌に額を押し付ける。とめどなく溢れてしまいそうになる呻きを、喉で抑え込もうと唇をきつく噛みしめた。

 目先の利益目的に他人に罪を被せるのは、御堂の理(ことわり)に反しているのではなかったか。

 閉じた眼の奥がカッと熱くなる。

 無様な自分から目を逸らしたばかりに、もっと無様になった自分がここにいる。

 ぐちゃぐちゃに掻きまわされた心の中で、一つの気持ちが小さく泡立ち、弾けた。

 どんな時だって、自分は自分の理に従ってきた。

 たとえ、全てを捨てることになっても優先すべきものがあるとしたら、自らの理には誠実であることだ。

 今、自分がこんなに苦しいのは、克哉を裏切っただけでなく、自分をも裏切ったからだ。

 こうなったのは決して克哉の責任ではない。

 せめて、それだけでも克哉に訂正しなければ。

 克哉に赦されなくとも、自分にはこれ以上嘘を重ねたくない。

 そう思い立つと居ても立ってもいられなくなり、弾かれたように執務室から出た。

 克哉のデスクに顔を向けるが、既に無人だ。

 近くに座っていた藤田が御堂を見て立ち上った。

 

「あ、御堂さん! 丁度良かった。企画案出来上がったところなので見てもらえますか?」

「後にしろ!」

 

 無防備に話しかけてきた藤田を気迫で黙らせる。

 

「佐伯はどこだ?」

「え……、あっ、佐伯さんなら先ほど帰られました」

 

 御堂の剣幕に戸惑う藤田の言葉が終るか終わらないかのうちに、執務室に置いてあったコートとマフラーを掴み、フロアを飛び出した。

 社のビルの正面玄関を出て、辺りを見渡すが克哉らしき人物はいない。

 周囲は整然としたオフィス街だ。

 この時期、退社時間をとうに過ぎて寒さが募る時間帯のせいか、辺りには人影もほとんどない。

 この寒空の下、克哉はどこに行ったのだろうか。

 自分の部屋にまっすぐ帰ったのか、それとも、繁華街に向かったのか。

 考えることを放棄して携帯で克哉を呼び出すが、呼び出し音は虚しく留守番電話へとつながる。

 苛立たしげに携帯を切ると、再び克哉が向かいそうな場所を探して視線を彷徨わせる。

 近くの公園に目が留まった。

 建物に囲まれた何の変哲もない小さな公園。

 真冬の夜の公園は色を失い、墨一色で描かれたような闇を疎らな街灯が薄めている。

 目を凝らせば、葉を失った木々に囲まれたその奥に、ベンチに一人座る灰色の人影が見えた。

 その人影を見た瞬間、御堂は公園に向かって駆けだしていた。

 近付くにつれて輪郭がはっきりとする。

 克哉だ。

 何をするわけでなくベンチに前屈みに座り込み、街灯の光が照らす地面をぼうと見遣っている。

 短く息を継ぎながら、その人影に向かって叫んだ。

 

「佐伯!」

 

 克哉の顔が驚いたように上がり、御堂を視界に納めた。その眼を見開くも、すぐに表情を消す。

 克哉は鷹揚な動作でベンチから立ち上がり、コートの埃を払って御堂に向き直った。

 

「御堂部長。どうされましたか?」

 

 上司と部下だけの関係を装うよそよそしい態度。

 克哉の中で、自分との関係は完全にリセットされてしまったのだろうか。

 克哉の素っ気ない反応に怯むも、せめて自分の気持ちを一言告げなくては、と拳を強く握りしめる。

 うつむき加減になる顔を上げて克哉に向き合った。

 

「私だって後悔はしていない!」

「なんだ?」

 

 突然の御堂の言葉に克哉がたじろいで、一歩退く。

 僅かに開いた克哉との距離を、声を大きくして詰める。

 

「私も、君と付き合ったことを一度たりとも後悔をしたことはない!」

「御堂?」

「怖かったんだ。私は今まで一人で生きてきた。それが当然だと思っていたし、それを不安に感じたこともない。それだけの強さを身につけてきたつもりだった」

 

 平静を装うにも声音が震え、震えを抑えようと声を大きくする。声の芯が揺らぎ、とても自分の声とは思えない。

 

「だが、君と付き合ってから、君の存在を当然と思って、君に依存してしまう自分がいる。私は君に変えられてしまった」

「変わることは悪なのか?」

 

 御堂の言葉を受け止めていた克哉が静かに口を開いた。

 

「あんたにとって、恋人に頼ることは許されないのか? 支え合うことは軟弱なのか?」

 

 しんとした静謐の中、克哉の淡々と語る言葉は確かな形を持って胸を衝く。

 頬に冷たい感触を覚え、焦点を凝らせば雪がちらつき始めていた。

 克哉との間に舞い散る雪が、凍てつく夜を呼び寄せる。

 

「言っただろう。怖いんだ。いつか君が私の元からいなくなることを想像すると耐えられない。私はこんなに弱い人間ではなかった」

「俺のことが信用できないのか?」

「今の君を信じても、先の保証なんてどこにある? 私が変わったのなら、君だって変わるだろう。遠く離れてしまったら、私は君の心変わりを知る術はない。6年間もの間、目の前にいない君をどう信じ続けろと言うんだ」

「3年間だ。俺はアメリカには行かない。あんたが戻ってくるのを待つよ」

 

 その克哉の言葉に押し込んでいた感情が一斉に溢れだした。

 克哉を睨みつけながら捲し立てる。

 

「ふざけるな! 私がアメリカに行くなら、君も当然行くべきだ。私は君の足を引っ張ったりする存在にはなりたくない。君の可能性をこの眼で見てみたい。私のために、その未来を潰すなんて以ての外だ。だが、君の隣に私ではない別の人間が立つことが許せないんだ」

 

 克哉を自分の傍に縛り付けておきたい。その一方で克哉の重荷になるのは嫌だ。対等の関係で誰にも邪魔されずにずっと共に歩みたい。

 何と不条理で理不尽な要求を自分は突き付けているのだろう。これでは頑是ない幼子の我儘と一緒だ。どちらが年上だか分かったものではない。

 ぼそりと克哉が呟く。

 

「あんたが、俺に別れを告げた理由はそれか」

「煩い! 黙れ! 君なんかに私の気持ちが分かってたまるか。君はいつも涼しい顔をして私を翻弄する。人の気も知らないで」

 

 煩い、黙れ、と言いたいのはむしろ克哉の方だろう、と頭の片隅で冷静に思ったが、加速がついた感情と言葉は止められずに堰を切ったように吐き出されていく。

 ここまで言っても、とてもじゃあないが言い足りない。

 この際、とことん愛想を尽かされる位に惨めになって、自分の中に蟠った想いを一掃したい。

 一度、そう腹を決めて自棄になると妙に清々しくなる。

 平常心を脱ぎ捨てて、後先のことを考えずに言いたいことを言うのは気持ちが良い。

 本心に根差したありのままの気持ちを、美醜を気にせず偽りなく口にするのは物心ついてから初めてだ。

 聞かされる方は堪らないだろうが、気分はむしろ高揚してくる。頬を突き刺す凍えた風も、頭上に降りてくる雪も気にならない。

 

「みっともないだろう。私はこんなことを言う人間ではなかった。これも全て、君のせいだ。これ以上、私の中に入ってこないでくれ!」

 

 開き直った上、責任転嫁に八つ当たり。

 一時でも立ち止まって我に返れば、激しい自己嫌悪に陥ることは分かっているから、昂ぶる勢いに任せる。

 

「大体、君はリセットだなんて簡単に言うが、君にとって、私はその程度の存在なのか。私はどうなる? 私が君のことを忘れられると思うのか! 私の中にあれほど君を刻み付けられて……!」

 

 言いたい放題に罵っても、克哉は開きかけた口を閉じてその場に立ち尽くしたままだ(もちろん、克哉が何か言い返そうものなら、理性をかなぐり捨てた返す刀で、問答無用に黙らせるつもりであったが)。

 呼吸が荒くなり、吐く息が目の前の空気を白く濁してはたちまち霧散する。

 感情に任せ一息にしゃべりすぎて、息が苦しくなってくる。

 肺を酸素で充たすために、目一杯息を吸おうとしたその矢先に、突然大股で距離を詰めた克哉に唇を塞がれた。

 

「ん……っ!」

 

 熱く濡れた舌が、開いていた唇からするりと中に侵入してくる。

 咄嗟のことに、克哉の身体を押し返そうにも、力づくで引き寄せられた。

 口内を犯す克哉の舌は遠慮というものを知らない。

 唖然としている間に口の中を舐められ蹂躙されていく。

 息継ぎさえままならない激しいキスに、強張った身体が痺れ、力が抜けていく。

 

「っ……、ふ」

 

 やっと口づけを解かれた時には、上手く呼吸が出来ずに肩で喘いでいた。

 しばらく茫然自失となっていたが、酸素不足になって思考停止していた脳が次第に息を吹き返す。

 キス一つで黙らされた。

 克哉が御堂の口を封じるのに用いる手段は、言葉だけではない事をすっかり忘れていた。

 奥の手ともいえる最も乱暴で効果的な方法を、克哉は御堂の話を聞く素振りをしつつ、狙い澄まして実行したのだ。

 それを理解すると同時に、克哉にしてやられた怒りがふつふつと湧いてくる。

 克哉の胸を力一杯押し返し、腕から逃れようともがいた。

 

「何をする! まだ話し終わってないぞ!」

「あんたの言いたいことは分かった」

 

 克哉がふっと口の片側を上げて、気配をやわらげた。御堂を引き寄せる手に力を込める。

 

「どうしようもなく俺が好きだ、って言いたいんでしょう?」

 

 言葉の枝葉末節をばっさり切られて、核心をついた一言でまとめられる。

 御堂を覗き込む顔は、可笑しさを堪えるように微笑み、レンズの奥の目元が綻ぶ。

 その顔に毒気を抜かれてしまいそうになるが、どんな時でも平然として余裕を見せつける克哉が憎たらしい。

 

「話しの腰を折るな」

「違う結論が導かれるなら、続きを聞きますが」

 

 滑らかな声で言い含められ、言葉を失う。

 だが、克哉の指摘をそのまま受け入れるのは、口惜しい。

 

「……まあ、君のことが好きなのかも、しれないな」

「好きなのかも、ではない。あんたは俺のことが好きなんだ」

 

 どこかで聞いたことがある口調で返される。

 鼻先が触れ合う危うい距離で、克哉の唇が濡れて艶をのせて煌めく。

 その唇に目を取られ、先ほどの熱を思い出し、喉の渇きを覚えた。

 劣情を見透かされ、克哉が喉を小さく鳴らす。

 

「御堂、正直に言え。正直に言えたらもう一度キスしてやる」

 

 先ほどまでの気概はすっかり溶け去ってしまい、ともすれば熱っぽい吐息が零れる。

 どう答えるべきか逡巡する御堂を、克哉はどこまでも真摯で優しげな眼差しで促す。

 乱れ掻きまわされていた胸の裡は、いつの間にか焦がれるような一つの想いが衝き上げて中を埋め尽くしていた。

 

「ああ、そうだ。君が好きだ。どうしようもなく好きだ。……言ったぞ。これで満足か」

「ええ。あなたは本当に可愛い人ですね」

 

 ふくれっ面をして投げやりに言う御堂を、克哉はクスリと笑って、腰を抱き寄せつつ、流れる仕草で唇を重ねてくる。

 自らの情動に身を任せて克哉のキスを受け止めた。

 抱きしめられる心地よさに胸が甘く疼き、唇から与えられる馴染んだ熱と感触が、さざ波のように全身にいきわたる。

 合わせた唇の間でくちゅくちゅと唾液が絡む音が鳴る度に、ここが公園であることも忘れ、克哉の後頭部に回した手に力を込めて、さらに深いキスをねだる。

 雪が激しさを増してきたことにも気付かぬほど、無我夢中にキスを交わし、ようやくキスを解いたときには、互いの頭や肩にうっすらと雪が積もっていた。

 克哉に、その雪を手で払われる。

 離れてしまった身体と温もりに一抹の寂しさを感じ言葉もなく佇んでいると、克哉が口角を上げた。

 

「続きはここでするか? それとも御堂さんの部屋で?」

 

 なぜその二択なのか、と疑問が湧いたものの、心の中ですぐに答えを出しているあたり、既に克哉にペースを握られている。

 

「ここは少し寒いな……」

「なら、決まりだ」

 

 克哉に乱暴に手を引っ張られて、公園から連れ出される。

 流しのタクシーを捕まえると、部屋に向けて走らせた。

 

 

 

 

 部屋に辿りつくなり、靴を脱ぐのが早いか、相手の体を引き寄せ唇を貪る。

 互いのマフラーとコートに手をかけ、その場に落とす。体温を求めて更に服を脱がそうとするも、身体が密着しすぎて思うようにならない。

 ほんの一瞬でも身体を離したくなくて、服を乱したまま玄関先に縫い止められたように相手の身体をまさぐる。

 引き出されたシャツの裾から克哉の手が素肌を撫でた。少し冷たい指先に触られたところから、火を灯されたように身体が火照りはじめる。

 御堂も負けじと克哉の股間を、服の上から円を描くように撫でまわす。兆し始めた欲望をさらに煽ろうとしたところで、克哉に手首を掴まれた。

 

「ベッドに行きますか」

「ここでいい」

 

 首を振って、部屋に入ろうとする克哉に腕を巻きつかせて押し止めた。

 

「あんたの部屋なんだから、何もここでしなくとも」

「私の部屋なのだから、私の好きにさせろ」

「……仕方がないな」

 

 克哉の頭が目の前から消えた。

 真下に屈みこんで御堂のベルトのバックルに手をかけると、手慣れた所作で衣服をずり下ろした。

 素肌に玄関先の冷たい空気が触れ、ぞわりと肌がざわめくが、次の瞬間、克哉の熱い口腔にペニスを含まれる。

 

「くぅっ……あっ、佐、伯っ」

 

 根元深くまで咥えられだ。

 たっぷりと唾液を塗されて、じゅぷじゅぷと音を立てながら先端まで口内の粘膜で扱き上げられる。

 克哉の形の良い唇の中で、自分の欲望が淫らな形を浮き立たせた。

 尖った舌が、筋をなぞり先端の小孔を犯す。

 

「ふ……う、ああ」

 

 前を愛撫されながら双丘の狭間に手が回される。

 克哉の長い指が後孔の周りをゆっくりと丁寧に揉みこんでいく。

 その慎重な指使いは、激しい口使いとは対照的だ。

 先端から溢れ出す蜜を克哉が喉を鳴らしながら飲み下した。

 そのまま強く中心を啜られて、内股の筋肉が細かく痙攣して、腰が砕けそうになる。

 このままではまずい。

 せり上がる射精感に、克哉の頭を強く押さえて、その動きを力任せに止めた。

 

「佐伯っ、私のことはいいから、早く挿れろっ」

「まだ挿れるのは無理だ。そんなに急くな。あんたが満足するまで、何度でもイかせてやるから」

 

 克哉がペニスから口を離し、御堂を見上げた。

 口の端から溢れた唾液が一筋滴り、それを目にするだけでも身体の芯が疼いてくる。

 だが、自分だけ達するわけにはいかない。

 懇願するように克哉をせがむ。

 

「いいんだ。お前が欲しい。酷くしてくれて、いい」

「御堂?」

 

 克哉がひたと目を合わせたまま、顔を寄せてきた。

 強く深い眸にたまらず視線を外す。

 言い訳めいた口調で呟いた。

 

「私は、……君を傷付けたから」

「だから、自分も傷付けばイーブンだと?」

 

 自分を罰しようと克哉を利用した。

 どこまでも浅ましい自分を克哉に見抜かれる。

 克哉がふう、と息を深く吐いた。

 束の間の沈黙が周囲の温度を押し下げる。

 

「全くもって馬鹿だな、あんたは」

 

 心底呆れたように言い放たれて、胸がずきんと重くなり奥歯を噛みしめた。

 軽蔑の眼差しを向けられているのでは、と思うと克哉の顔を正視することが出来ない。

 先ほどまでの自分の勢いはどこに消えてしまったのだろう。

 一度失いかけた克哉を再び失うまいと臆病になってしまった自分がいる。同じ過ちは繰り返したくはない。

 くじけそうになる自分の心を宥め、正直に吐露する。

 

「他に、君に赦しを請う方法を知らないんだ」

「生憎と俺は自分のものは大切にする性質でね」

「……っ」

 

 二人の間の空気の密度がふっと和らいだ。

 克哉の言葉に背中を押されて、そろそろと克哉に視線を戻すと、柔らかく表情を緩めた克哉がいた。

 克哉は目を眇めて、顔をぐいと近づけて唇を触れ合わせた。

 唇をそっと重ねたまま、告げられる。

 

「だから、あんたも俺に悪いと思うなら、俺のために自分を大切にしろ」

「佐伯、……すまなかった」

 

 克哉の眼差しも声音も、御堂を少しも責める風はない。

 今度こそ、言いたかった言葉がするりと口をついて出る。

 言葉では伝えられないことが多いからこそ、せめて伝えられることは言葉で伝えたい。

 こんな当たり前のことを、自分はいつの間に忘れてしまったのだろう。

 克哉が返事がわりに、じゃれつくように額を擦り付けた。

 

「夜はまだ長い。続きはベッドでしましょうか」

 

 低く囁かれたその声に、ああ、と小さく頷いた。

 

 

 

 

 暖房を入れてなかったベッドルームは裸になるには少し肌寒かったが、すぐに気にならなくなった。

 むしろ、汗ばむほど肌は燃え立っている。

 開かされた下肢の間に克哉が腰を入れ覆いかぶさり、ベッドが二人分の重みに軋む。

 

「く、う――っ、ああっ」

 

 たっぷりと時間をかけてほぐされた後孔に、硬く猛った克哉のものがゆっくりと侵入してくる。

 ずくずくと柔らくなった肉襞を拓きつつ、最奥へと向かっていく。

 克哉とは何度も体を重ねているのに、今回ばかりは挿ってくる熱い質量に押し出されるように、自分の感情が次から次へと溢れ出しそうになる。

 その顔を見られたくなくて、交差させた両腕で顔を覆った。

 

「御堂、腕どけろ」

「嫌、だ」

 

 拒否すると、いささか乱暴に両手首をまとめて掴まれ、頭上に縫い付けられた。

 ほんの少しだけ視線をさまよわせ、心を決めて克哉を見上げた。

 眦をうっすらと朱に染めた克哉が、双眸に自分の顔を小さく映しとる。

 克哉は乾いた唇をチロリと赤い舌で湿らせると、顔を落として深く口づけをしてきた。

 舌を絡めてその口づけに応えるたびに、身体の中の克哉の質量が増す。そして、自分自身の欲望も猛ってくる。

 欲情に堪えきれなくなったときに、体を抱き起された。

 克哉の腰の上に乗り、向かい合わせの体位にされると、自重で更に奥まで克哉を呑み込まされた。

 

「んんっ、深い……っ! ふっ……あ」

 

 克哉の肩に縋りつく。

 その身体は無駄がない筋肉で張りつめて、うっすらと汗を刷いている。

 わずかに息を乱した克哉が御堂の胸に手を這わした。

 すっかり赤く腫れた胸の粒は克哉の指で擦られれば、敏感に刺激を感じ取って硬く凝っていく。

 克哉が耳元に口を寄せた。

 

「俺と繋がっているところ、見えますよ」

「見るな……っ」

「御堂さんも見てみるといい。あんたのそこ、俺を美味しそうに咥え込んで」

「ふっ、――馬鹿っ」

 

 腰を揺さぶられるたびに、身体の中のペニスが粘膜をかき回して抉り、息が浅くなる。

 痛みと隣り合わせだった快感は、すぐに全てを凌駕した。

 克哉にペニスを握られ、腰の突き上げに合わせて根元から先端まで擦りあげられる。

 身体が砕けるほどの危うい快感に襲われた。

 意識が朦朧としてくるなか、自分からも腰を振って、その快感を追い上げていく。

 絶頂まであと、もう少しで辿りつく、と息を詰めたときに、不意に克哉が動きを止めた。

 

「御堂、まだ俺と別れたいと思っているか?」

「ぅ……、あ……、なに……?」

 

 御堂自ら揺らめかした腰も押さえつけられる。

 到達しかけた極みが遠のき、切なさに声が出た。

 

「まだ、俺と別れたいのか?」

「それは……」

 

 これからのことは何も解決していない。

 克哉と付き合い続ける限りは、見たくもない無様な自分を、自らと克哉の前に晒し続けることになるのだろう。

 自分でさえ呆れ果てるその姿を、克哉が受け容れてくれるのか、不安がないと言えば嘘になる。

 言い淀む御堂に、克哉は悪辣な笑みを浮かべた。

 

「答えないとイかせない」

「ああっ!」

 

 ぎゅっと張りつめたペニスの根元を掴まれて、痛みと苦しさに涙が零れて呻く。

 

「……佐、伯」

「こんな酷い男とあなたは付き合っているんですよ。どうするんだ、御堂?」

 

 自分の中に他人を住まわせることは、自分の弱さや脆さを暴かれ、直視させられることだ。それは時として手加減なしに自らに襲い掛かる。

 目を開けば、克哉の眸が微かに揺らぎつつ御堂に向けられていた。

 その顔は、言葉とは裏腹に、今までに見たことのない程真剣なものだ。

 こんなことを御堂に訊いてくるのは、克哉も虚勢を張りつつも、御堂と同じだけの不安を身の裡に抱えているのだろう。

 そのことに気づき、愛おしさに突き動かされて、克哉の額にキスを落とした。

 

「馬鹿だな、君は……。そんなことしなくとも、答えは決まっている」

 

 自分は弱くなった。

 だが、それ以上に多くのものを克哉から得た。

 克哉と二人なら、今までの以上に強くなれる。

 克哉と共に、変わっていくことは悪くない。むしろ、歓びを持ってそれを受け入れることが出来るだろう。

 こんな価値観を持ってしまったのは、克哉に引きずられたからだ。一方で同じだけの引力で克哉も御堂に引きずられている。

 変わったのは御堂だけではない。克哉もだ。

 克哉に届くように、しっかりとはっきりと発音する。

 

「別れたくないに決まっているだろう。克哉、君を愛しているんだ」

「――よく言った、孝典」

 

 指の戒めが緩められ、先端まで這わされる様に指が絡みつく。

 とろりとした蜜が溢れ出し、その指を濡らしつつ克哉の下腹部へと滴り落ちる。

 突き上げられるたびに呼吸を短く刻む。

 鋭い快感がつま先から体の中心部へと迫りくる。

 喘ぐことしか出来なくなった唇を克哉に捧げる代わりに、熱っぽいキスを与えられた。

 

「ん、あっ、……もうっ、だめ」

 

 激しく突き上げられ、恍惚としながら快楽を上り詰めていく。

 

「克哉っ……!」

「――孝典、好きだ」

 

 目を開いても閉じても、閃光に包まれる。

 達した瞬間、身体がふわりと浮き上がり、急激に力が抜けて悦楽の底に沈みこんでいく。

 意識を失うまいと克哉の身体に縋りつくが、長い腕に抱き止められつつ柔らかいキスを受けて、重力のある世界からふっと解放された。

(8)
Pomegranate Memory(9)

 朝、カーテンを開ける音と共に眩い光が差し込み、意識が引き上げられた。

 手を伸ばして隣のシーツの上を探るが、何もない。

 微かな熱を指先に感じたように思うが、克哉の温もりの名残だろうか。

 体を起こして振り向けば、窓辺に立った克哉が窓の外の景色を見遣っていた。澄んだ空から差し込む冬の日差しが、克哉の淡い色の髪の毛をきらきらと輝かせる。

 動き出した御堂の気配を感じ、克哉が振り向いた。視線がぶつかると克哉はにこやかな笑みを浮かべる。

 

「御堂さん、俺はMGNを辞めるよ」

 

 朝の挨拶も抜きに唐突に告げられる。

 静かで強い言葉が克哉の唇から御堂の鼓膜へ届く。

 克哉を包む光の眩しさに、御堂は目を細めた。

 克哉の姿と言葉が強烈な印象となって脳の中に展開される。この克哉をどこかで見たことがあった。

 

――Déjà vu(デジャ ヴュ)

 

 驚きよりも何よりも、強烈な既視感に襲われた。

 しばし思考が止まりかけたが、目の前の克哉に意識と眼差しをしっかりと向ける。

 

「……それで?」

「新しく会社を興そうと思う」

「そうか」

「御堂、俺と一緒に来い」

 

 途方もなく重大なことを口にしている割には、克哉には気負う様子もない。

 日常会話のような気軽さに御堂もついつられてしまう。

 克哉が髪を無造作に掻き上げ、頭に降り注ぐ光を散らした。

 

「一晩考えたよ。俺とあんたが離れ離れにならずに、ずっと一緒にいられる方法を」

 

 一晩で考えたという割には、随分と壮大で突飛な話だ。

 だが、克哉らしい。

 克哉は何であっても、御堂が欲しいものを欲しいときに与えてくれる。

 

「俺が活躍する姿を存分に見せてやる。その横にいるのはあんただ」

 

 自信たっぷりの言葉と余裕の笑みを送られる。

 

「だから、俺と一緒に来るんだ」

 

 自分の答えは、克哉がそれを問うよりも昔から決まっていたように思う。

 克哉に笑みを返した。

 

「MGNでは見られない世界を見せてくれるのだろう?」

 

 御堂の言葉に、克哉が目を瞠った。

 克哉に悪乗りしているように聞こえるかもしれないが、御堂の心の裡はいたって真剣だ。

 あっさりと承諾した御堂に、克哉が少し驚きつつも、御堂に手を伸ばしてその身体を引き寄せた。

 

「ああ。お前となら、世界だって手に入れられるさ」

「君ならそれが出来ることを知っている」

 

 自信に満ち溢れた力強い言葉。

 その言葉さえ既に見知っているような気さえする。

 なぜだろう。

 この一瞬一瞬が新鮮であるのに、どこか懐かしい。

 克哉が視る未来をその隣で自分も視る。

 これから二人を待ち受ける未来は輝かしいものになるだろう。そんな確信めいた予感と期待が胸を熱く燃やす。

 克哉の顔が寄せられた。

 真摯で情熱を秘めた眼差しがまっすぐと御堂を射貫く。

 

「御堂、忘れるな。いつだって俺はあんたの傍に在る。俺はあんたの恋人だからな」

「ああ、忘れない。私も、君と共に歩む」

 

 二人で抱く想いの強さは、願いというよりも互いに誓う約束だ。

 辿りつくべきところに辿りついた。

 そんな満足感が克哉に対する愛おしさと合わさって胸を満たした。

 目の前に広がる景色を、陽の光が金色に染め上げていく。

 しなやかな腕が身体に回され強く抱き寄せられた。また、自分も克哉の身体を同じ力で抱きしめ返す。

 美しく輝く光の中で、静かに唇を重ねる。

 例えようのない幸福感に浸りながら笑みを交わし、互いの熱を、気持ちを、言葉の代わりに、甘く優しいキスで分かち合った。

 

 

 

 

 ……目を閉じて無心に克哉の唇を貪っていると、不意に口の中が甘くなった。

 甘酸っぱい香りと味が口腔を埋め浸していく。

 

――なんだ?

 

 これは、果実の香りと味だ。

 そう、これは、柘榴。

 

――柘榴……?

 

 その時だった。

 

「どうでしょう?」

 

 呼びかけられた声に御堂は我に返り、閉じていた眼を開いた。

 先ほどまで腕の中にあった克哉の姿が消えている。

 御堂と克哉を包んでいた陽の光は消え去り、薄暗いバーのカウンターに、御堂は一人座っていた。

 目の前には金髪のバーテンダー。手元には紅色の液体を湛えたカクテルグラス。ほとんど量は減っていない。

 呆然と手元を見詰めた。

 

――夢?

 

 あの接待の日から一年余。

 克哉と共に辿った軌跡ははっきりと覚えていた。同時に、ついさっきまでこのバーでカクテルを口にした記憶も残っている。

 克哉と過ごしたこの記憶は、御堂がカクテルを一口含んだその僅かの間に見た白昼夢だったのだろうか。

 まるで故事にある邯鄲の夢のようだ。

 目の前の男が微笑んだ。

 全てを知っているかのような表情で御堂を覗き込む。

 

「どうです? 素敵な思い出になりましたか?」

「今のは、夢だったのか……?」

「夢にするか過去にするかは貴方次第」

「お前は、何者だ?」

「私が何者かは、この際良いではありませんか。どうでしょう。今はまだ夢のままですが、お望みと在れば、あなたの過去を差し替えましょう。あなたは幸せな過去の記憶を持ち、疑うことなく恋人である佐伯さんと幸せな日々を送ることが出来ます」

「……あれは、本当に佐伯だったのか?」

「紛れもなく佐伯さんです。あなたが経験する可能性があった、もう一つの現実です」

「あれが、現実になりえたというのか……」

 

 唖然と呟く。

 現実になり得なかったもう一つの現実。

 なぜ、あの過去が克哉と御堂との過去にならなかったのだろう。

 御堂が辿った二つの過去のあまりの落差に、呻きと共に両手に顔を埋めた。

 

「ええ。残念ながら運命は残酷な現実を選んだ。それでも、あなたには選び直す機会がある」

 

 その男の声音は優しい。御堂を労わる響きを滲ませる。

 顔を上げて、その男を仰ぎ見た。

 

「……何が目的だ?」

「私はあなたの幸せを願いたいだけです。……ただ、対価はいただきます」

 

 男の唇が魅惑的な弧を描く。

 

「対価と言ってもささやかなもの。あなたが選ばなかった方の過去を私に下さい」

「過去を、お前に?」

「あなたが選ばなかった過去の記憶は、朝の光と共にあなたの中から消えてなくなる。あなたには選んだ方の記憶が残り、それを過去だと疑うことなく信じることが出来る」

 

 男はカウンターに上体を乗り出して、御堂に顔を寄せて囁いた。

 この男の気配は体温を感じさせない。むしろ、心がざわめくような冷やかさを身に纏っている。

 

「シュレディンガーの猫の箱、開いた箱をもう一度閉じて、選び直しませんか? あなたにふさわしい過去を」

 

 御堂は瞼を閉じた。

 唇を人差し指でなぞる。

 そこにはまだ先ほどの克哉の熱が残っているようだ。

 嬲られ凌辱された忌まわしい記憶、他方は共に愛を育んだ甘やかな記憶。

 どちらの記憶も同じ存在感でもって御堂の中で拮抗している。

 選んだ方は、記憶となり御堂の過去として鮮明に存在し続け、選ばなかった方は、儚い夢として色褪せ薄れ消えて行くのであろう。

 御堂の過去に存在する二人の克哉。

 選ぶ方は決まっている。

 瞼を開き、はっきりと告げた。

 

「元の過去のままでいい」

 

 男は、丸眼鏡の奥の眸を僅かに見開いた。

 

「おや、何故でしょう。あなたは空白の時を共に過ごした優しい恋人より、非情な凌辱者であった恋人を選ばれる?」

「どんな過去であっても、それは私のものだ。誰にも手は出させない。私の中の、佐伯に、触れるな」

 

 言葉を強くして言い切った。

 自分だけの過去を挿げ替えてもしょうがない。

 御堂が過去に悩まされ苦しめられているように、克哉もその過去に等しく抉られている。これは二人で負うべき過去なのだ。

 御堂一人が全てを放り出して逃げ出すことは出来ない。それは御堂の理(ことわり)に反する。

 男は御堂の目をじっと見詰め、その顔に浮かべていた笑みを深めた。

 

「それでは、貴方だけでなく、貴方と佐伯さん、お二人の過去を変えて差し上げるのはいかがでしょう? 私なら出来ます。死んだ猫さえも生き返らせることが」

 

 その言葉に、目を瞠った。

 もし、二人の過去が共に変わるとしたらどうなのだろう。

 互いの足首にきつく食い込んだ過去という名の足枷を外して、迷いも恐れもなく手を取り合って、前だけを向いて歩むことが出来るのではないだろうか。

 男の誘う声は甘美な響きで心に浸透してくる。

 だが、胸に差し込む誘惑を振り切って、御堂は男の目を見据えたまま静かに首を振った。

 

「お前は勘違いをしている。私は、それでもあいつを選んだんだ。その選択を後悔してはいない」

「……そうですか。残念ですね」

 

 顔に薄い笑みを張りつかせたまま、大して落胆した様子もなく男は返した。

 シュレディンガーの猫の箱。

 箱を開けてしまった瞬間に一度収束してしまった事実は、箱を閉じても変わることはない。死んでしまった猫はもう二度と生き返らない。

 それは御堂のいる世界の不変の真理だ。

 その真理を覆し、結果を変えてしまえるとしたら、変わるのは自分ではなく、自分を取り巻く世界だ。御堂は、克哉のいる今までの世界から放り出されるだろう。

 克哉との過去を求めたばかりに、克哉との未来を失うことになる。

 この男が天秤にかけているのは、二人の克哉と見せかけて、克哉との過去か未来、どちらかを選べと迫っているのだ。

 この男の誘惑は、とても危うい毒を孕んでいる。

 目の前の男を睨みつけた。

 

「お前は……悪魔だな」

 

 何かを生み出すことも、何かを消費することもせずに、場の揺らぎから生じたエネルギーを掠め取る。

 この世界を統べる物理法則の外側にいる存在、それを悪魔という。

 

「私をそう呼ぶのは、人間だけですよ」

 

 目の前の男が、クスリと嗤ってレンズの奥の目を細めた。

 

「また、お会いしましょう。御堂孝典さん」

 

 途端に、目の前の景色が揺れて、輪郭がおぼろげになってくる。

 同時に先ほどの克哉の感触も言葉も全てが曖昧模糊としてぼやけてきた。

 

「別れを告げてください。あなたと共に在ったもう一人の佐伯さんに」

 

 全てが闇に溶け込んでいく中で、男の乾いた笑い声だけが響いた。

 あの男は御堂に克哉を与えて奪った。

 その前後で得たものも失ったものもないのに、身を引き裂かれる程の喪失感に包まれる。

 これでいいんだ、これが最善の選択なのだ、と自分自身を納得させようとする。

 それでも、あの克哉と共に過ごした日々が、ガラガラと音を立てて崩れるように頭の中から消え去っていくことが、どうしようもなく苦しくて切ない。

 君と共に歩む、そう告げた最後の言葉が自らを深く抉り、切りつける。

 

――君との約束を守れなかった。すまない、佐伯。

 

 消えつつあるもう一人の克哉を想い、涙がとめどなく溢れた。

 

 

 

 

 闇の中、頬に熱い体温を感じた。

 手を添えられているようだ。

 その感触に瞼を開くと、克哉が不安を滲ました眼差しで御堂を覗き込んでいた。

 辺りは薄暗い。夜も更けた時間のようだ。

  光を絞られたベッドサイドランプが仄かに室内を照らす。

 視線を巡らせて辺りを伺った。

 ここは克哉の部屋のベッドの上だ。そして横には恋人の克哉。

 手をついて起き上がり、顔を上げて克哉と視線を合わすと、克哉が安堵したように息を漏らした。

 

「大丈夫か?」

「……?」

 

 克哉に何を問われているのか分からず返答に困ると、克哉が御堂の頬を濡らす涙をそっと指で拭った。

 その感触が全てを思い起こさせた。

 バーで出会った謎の男、柘榴のカクテル。

 そして、もう一人の克哉と共に過ごした過去。

 

――全て、夢だったのか?

 

 自分は夢を見た夢を、見たのだろうか。

 何かを言おうと口を開きかけたとき、不意に柘榴の味と芳香が口から鼻へと駆け抜けた。

 

――違う。私が全てを夢にして、この世界に戻ってきたのだ。

 

 長い夢を見たような、胸の真ん中がぽっかりと抜け落ちた空虚感に包まれる。

 その余韻が言葉となって唇から零れ落ちた。

 

「昔の君の、夢を見た」

「そうか」

 

 克哉の顔が苦みを含み、翳りを帯びた。

 違うんだ、と首を振った。

 

「夢の中の君は、優しかった。私は君と別れることなく、ずっと一緒に過ごしていたんだ」

 

 それが夢であったことに、再び涙が眦から零れ落ちた。

 夢が夢のままであることを選択したのは自分なのに、夢の中のもう一人の克哉を想い、心臓が焼け爛れるように引き絞られる。

 

「……御堂」

 

 克哉が掠れた声で呻くように名前を呼んだ。

 

「私は、間違っていない」

 

 そう自分に言い聞かせるも涙が止まらない。

 もう一人の克哉の存在を夢に落とし込み、その記憶を消し去る選択を、御堂はした。

 だが、せめて、その前に、一言でもいいからあの克哉に直接別れを告げたかった。

 克哉が無言のまま両手を回し、そっと御堂を抱きしめた。

 言いようのない感情が涙と共に溢れ出る。

 

「どんな過去であっても、私は君を選んだんだ。後悔はしていない。君もそうだろう、佐伯?」

 

 御堂の問いかけに克哉が微かに息を呑んだ。

 

「言ってくれ、佐伯。私は間違っていないと。これでいいんだ、と」

「俺はそれを言えない。言う資格がない」

 

 克哉はゆっくりと首を振った。「だが」と克哉は御堂を抱く手に力を込め、自嘲気味の表情を浮かべた。

 

「俺は、今、あなたと共にいる自分を後悔はしていないんだ。勝手だろう?」

 

 克哉の熱い体温が触れ合う肌を通して、浸透してくる。

 馴染んだ感触が、感情の昂ぶりを少しずつ和らげていく。

 嗚咽に震える御堂の身体を、克哉はただただ静かに肌を合わせて抱きしめた。

 その腕に身を任せながら、ふと、克哉はいつからこうして起きていたのか気になった。

 克哉の口調も仕草も眼差しも、寝ぼけた風はない。

 多分、御堂が目を覚ます、ずっと前から御堂の異変に気が付いて、不安を抱きながらもそっと御堂に寄り添っていたのだ。

 御堂を抱き続ける克哉を安心させるように、精一杯の笑みを浮かべた。

 

「いいや、……君は優しいんだな」

 

 御堂の言葉に、克哉は小さく笑った。

 

「俺はあんたの恋人だからな」

 

 その口調と言葉に色褪せていく記憶が、一瞬、鮮明に蘇った。

 

――君は、ここにいたのか。

 

 もう一人の優しかった克哉は決して別人ではないのだ。

 あの男が言ったではないか。共に過ごしたもう一人の克哉も本物の克哉であると。

 ならば、克哉と別れるわけではない。

 御堂を抱きしめるこの身体の裡に、もう一人の克哉は確かに存在しているのだ。消え去るのは存在しえなかった過去の記憶だけだ。

 克哉は常に共に在る。

 

「そうだな。君はここにいるんだ。私は君を奪われたわけではない」

 

 あの甘やかな記憶は、朝の光と共に、泡沫の夢のごとく跡形もなく失われるのだろう。

 所詮は幻だ。そうしたのは自分だ。その決断に後悔は、ない。

 克哉はいつでも御堂の隣にいる。

 それでも、克哉と過ごした、失われた時の、存在しえなかった過去に手向けて、惜しむことなく涙を流す。

 

『御堂、忘れるな。いつだって、俺はあんたの傍に在る。俺はあんたの恋人だからな』

 

 霞みゆく記憶の中で、克哉が御堂に向かってどこまでも優しく微笑んだ。

 克哉は約束を守った。

 自分も、共に歩む、という約束を守ろう。

 その克哉の言葉を、涙と共に胸の奥底に、深く深く刻み付ける。

 

 せめてもの、墓標代わりに。

 

END

(9)
Pomegranate Memory あとがき

 最後までお付き合いいただいた皆様、ありがとうございました。
 一か月にわたっての連載もどうにか無事完結しました。
 終わってみれば、6万字超と立派な長編に。一話一話の文字数が長くなってしまい、申し訳ないです。

 今作、御堂さんの果実シリーズで、何か手ごろなものはないかな、と考えていた時に『記憶の果実』をテーマにしてみようと思いつきました。
 果実シリーズでも異色な『記憶の果実』、御堂さんにとってつらい記憶を書き換えられないかと妄想(前作の極夜で御堂さんを酷い目に合わせたという負い目もあり…)。
 当初は接待シーン((1)話)のみで最後の(9)話につなげようと書いていたのですが、優しい眼鏡を書いてみたかったのと、二人が部下×上司の恋人同士で仕事を絡めたシチュを書いてみたくなったので、気付けばこんなに長くなってしまいました。
 恋人未満から始めて恋人に至るまででも面白そう、とも思ったのですが、本編に沿ったR18シーンを甘めに書き直したかったので、最初から恋人関係でスタートしました。本編ストーリー(御克含む)に沿って書きましたが、似ているようで似てないようで似ているように書くの、大変でした。
 書いているうちに真面目で男前な御堂さんが少々可愛くなってしまいましたが、この御堂さんも優しい眼鏡も私のお気に入りです。
 このまま完全パラレルとして別エンドの方向も考えなくはなかったのですが、私、本編ハピエンへ絶大な愛と信頼を捧げているので、当初の予定通り本編ハピエンに合流させました(私のSSの特徴でもあります)。
 甘めの作品ならではの細やかな情感などを、もっときっちり書き込めればよかったのですが、今の私の実力ではこれが限界…orz。
 一年後くらいにもう一度書き直してみたいですが、きっとやらないだろうなあ。

 所々でこっそりとセリフや文章を手直ししているかもしれません(オンラインSSの醍醐味、後から手直し…)。

 それでは!

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