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ambivalent はじめに

小説の概略です。
小説を読む前に、こちらに目を通し、それでも良いという方のみお進みください。

『鬼畜眼鏡』 佐伯克哉(眼鏡)×御堂 ルート 嗜虐エンド の続きの創作です(全18話)。
最後のシーン(御堂の一言)から始まります。

一度は壊れた御堂が意識を取り戻すも、記憶を失った状態に。
御堂が記憶を取り戻すことを怯えながらも、御堂との関係を再構築していく佐伯。
Mr.Rも登場します。

最終的にはグッドエンドに合流します。

​【関連作品】

上記の御堂視点。(8)-(9)の間の話。(2015.07.02)

(1)-(8)完結上記の御堂サイド。(14)-(18)の間の話。御堂、四柳視点。

   (嗜虐エンド)御堂が壊れた日。克哉視点。ダーク。(2015.06.29)
(嗜虐エンド)壊れてから目を覚ますまで。御堂の内的世界。御堂視点。(2015.07.01)
ambivalent(1)
(1)

「…ずっと、そこにいたのか」
 背後で空気の動く気配がした。
「御堂?」
 とっさに振り返った。
 一瞬、御堂と目が合った気がしたが、御堂の視線は動くこともなく、ソファの上で腰掛けた姿勢のままで微動だにしない。
 空耳ではなかった。確かに御堂の声だった。
「…御堂!」
 傍に駆け寄って肩を揺さぶり再び声をかけたが、御堂の上半身はぐらぐらと揺れるだけで何の反応も示さなかった。

 御堂が壊れて人形のように無反応になってからもう何カ月になるだろうか。
――彼を壊したのは、俺だ。
 いつまでも屈服しない御堂に腹を立て、克哉は御堂を監禁し凌辱を繰り返した。
 それでも御堂は克哉に屈しなかった。
 苛立ちとともに御堂に対する仕打ちがエスカレートしていったある日、涙を流しながら震えて克哉に助けを求めてきたことがあった。思えば、既に限界だったのだろう。あの時、御堂を解放していれば違った結末になったのだろうか。
 だが、いつまでも克哉から逃げようとする御堂を押さえつけ、人間としての尊厳を奪い、さらに嬲り続けたのだ。
 そして、遂に、御堂は壊れて、ただの人形となった。
 自身の精神を殺してまで、最後まで克哉に屈することを拒否したのだ。

 自らの意志を失った御堂は、叩いても、犯しても、一切の反応を示さなくなった。
 ある意味、御堂は克哉のものになったのだ。
 ずっと克哉の傍にいて、もう逃げることもない。
 そんな御堂の世話をし続けた。こうなって初めて御堂を大切に思っていたこと、愛していたことに気付いたのだ。
 抱き上げても筋の緊張はなく身体はぐにゃりとなるだけだが、幸い生物としての必要な機能は残されていた。
 呼吸もするし瞬きもする。食事や水を口に含ませれば嚥下もする。
 毎日、会社と御堂の家を往復し、御堂の世話をし続けた。
 しかし、優しく声をかけ世話をし続けても、何ら反応を示さなかった。
 御堂の体につけられた鞭の痕や手足の拘束によるあざはきれいに治癒した。
 何をしても無駄だろうと悟ってはいた。それでも、御堂から離れることは出来なかった。
 これは御堂に対する贖罪なのだ。

 そんな中、御堂が発した言葉はひどく自分自身を動揺させた。
 次の瞬間には今まで通り壊れた人形の状態に戻ってはいたが、もしかしたら元に戻るかもしれない、という期待に胸が震えた。
 一方で、御堂の意識が戻ったらもう一緒にいられなくなることも分かっていた。
 御堂は克哉を恐れているし、激しく憎んでいる。
 それでも御堂が以前のように戻るなら、全てをなげうつ覚悟はあった。
「御堂、好きだ」
 耳元で囁いたが、御堂は反応を示さない。
 それでも、いつもより自身の心が浮き立っているのは自覚できた。

 数日経った。
 結局、あの一言以来、御堂は言葉を発しなかったし、全く反応もしなかった。
 あの日、何がきっかけで御堂に変化が起きたのか。
 何度もあの日の自分の行動を思い返し、ふと思い当った。
(ワインか…?)
 あの日、御堂に飲ませようと、ワインとチーズを買ってきたのだ。
 結局、あの後、御堂にワインを飲ませたがそれ以上の反応はなかった。
 でも、何かしらのきっかけがあったのかもしれない。
 もう一度、ワインを試してみよう。
 そう思って、ふと気が付いた。
 克哉は御堂がどんなワインが好きなのか全く知らない。
 知ろうとも思わなかった。
 御堂のプライベートを散々浸食したにも関わらず、彼のプライベートについてはほとんど知らなかった。
 そんな自分に忸怩たる思いを抱きつつ、昔、御堂に連れてかれたワインバーに会社の帰りに寄った。
 週末でワインバーは混雑していたが、すぐに目当てのソムリエを見つけて声をかけた。
 御堂やその友人たちと飲んだ時に給仕してくれたソムリエだ。
 その店の常連だったようで、ソムリエは御堂の事を良く覚えていた。
 療養中の御堂のお見舞いにワインを持っていきたいが、好みを知らないので代わりに選んでほしい、と言うと、疑うことなくすぐにいくつかのワイン名をあげてくれた。
「あの方は色々な種類を試されていましたが、やはり、ボルドーがお好きでしたね。それにしても、最近お見かけしないと思っていましたら、ご病気されていたとは…」
 ソムリエに選んでもらったワインとつまみ用にチーズを購入し、家路を急いだ。

「御堂さん、いいワインを買ってきましたよ」
 先日と同様に声をかける。期待して多少反応を待ってみたが、ソファの上で朝の体勢のまま全く動く気配がない。その瞳も開いてはいるものの、何も映さず何ら感情を宿していない。
 ワインのラベルを御堂に見せて、目の前で栓を抜いてワイングラスにワインを注いだ。
「あなたが良く飲んでいたワインだと聞きました」
 御堂の口にワインを一口含ませた。
 何ら味わう素振りも見せずに、反射で嚥下するのが見て取れた。
「…チーズも用意しますね」
 少し落胆しながらも、ワイングラスをセンターテーブルに置き、チーズを用意するためにキッチンに向かった。
 御堂は嚥下はするが咀嚼はしない。
 チーズも細かく切ってやる必要があるのだ。
 その時、再び背後で空気が動く気配がした。
「ボルドー…シャトー・ラトゥール、セカンドラベル…」
「御堂!」
 振り向くと御堂がソファからワイングラスを取ろうとセンターテーブルに手を伸ばしていた。
 次の瞬間、上半身が前のめりに倒れる。ワイングラスが倒れ、ワインが飛び散った。
 慌てて駆け寄って御堂の肩を抱きかかえた。片手を伸ばし、転がってテーブルから落ちそうになるワイングラスを受け止める。
「御堂…?」
 ゆっくり上半身を抱き起した。御堂の視線が動くのが見て取れた。
 緩慢な動作で御堂は頭を上げ、周囲を見渡した。そこに確かに御堂の意志が感じられた。
「ここは…?」
「あなたの家です」
 現状を把握しようとしているのだろう、再度辺りをゆっくりと見渡して、克哉の顔をとらえた。
 克哉の顔に焦点を合わせる。御堂の視線とぶつかり息をのんだ。
 克哉を認識することで、再び御堂の意識が闇に沈まないだろうかという恐怖と、激しく拒絶されるのではないかという不安に襲われた。
 しかし、御堂の目には怯えも恐れも浮かばなかった。ただ、怪訝な顔をして克哉をじっと見つめる。
「君は誰だ…?」

(2)
ambivalent(2)

「君は誰だ…?」
 御堂の発した言葉に思わず目を見開いた。まさか、俺の事を覚えていないのか?
 御堂は克哉の返答を待って、そのまま克哉を見つめている。
「…佐伯です。…佐伯克哉」
「さえき…?」
 全く心当たりがないような口ぶりだった。
 本当に覚えてないのか?克哉は動揺を抑えて続けた。
「あなたの部下です」
「私の部下?…MGNの?」
「ええ」
 御堂は既にMGNを退職したことになっているので、今は上司部下の関係ではない。
 腑に落ちないという顔をしながらも、御堂は克哉の顔から視線をそらし、ソファにもたれかかった。
 抱えてた肩から手を放し、一歩後ろに下がって距離をとった。
「私はここで何をしてたのだ?すまないが教えてくれないか?記憶があいまいなんだ」
 久々に耳にした御堂の声は、混乱のためか落ち着かない感じであったが、はっきりしていた。
 御堂が自分の意志で動き話す姿を目にして、心が震えた。まさかこんな日が来るとは。
「…あなたは、数カ月間意識がなかった」
「な…」
 今度は御堂が驚き目を見開く番だった。絶句して自身の手足や体を眺める。
 ずっと動かなかったため、筋肉が衰え痩せ細った手足。自身の姿勢を保つことさえ難しい。
 身体には浴衣のような前開きの寝間着が着せられている。着脱しやすいように着せていたものだ。
「会社は?MGNはどうなっている?」
 失われた月日を実感したのだろう。呻くような声だった。
 それでも会社を気にするところが御堂らしい。
「あなたは病気になって、会社を辞めました」
 無断欠勤を続けた御堂はほぼ解雇に近い形で会社を辞めさせられた。
 寸前のところで、克哉が御堂の代わりに辞職願を郵送し、形式上は自己都合による退職に持ち込んだのだが。
「それは本当なのか?」
 すがるようにこちらを一瞬見た。克哉の表情を見て悟ったのか、正面に向き直って苦渋に満ちた表情で目を閉じた。
 真実を話す度胸もなく、何と声をかけていいのか分からず、押し黙ったまま御堂を見つめた。
 意識が戻ったとしても、御堂にはつらい現実しか待ってないのだ。それは全て自分自身が原因なのだ。
 苦しそうな表情の御堂をみるのがつらく、キッチンに戻り布巾を持ってきた。
 静かにセンターテーブルにこぼれたワインをふき取る。
 再びワインを注ぐ気にもならなかった。
 しばらく傍でじっと息をひそめていたが、御堂が動かないことに気付いた。
 規則正しい呼吸音が聞いて取れる。
「御堂?」
 声をかけたが反応がない。また、人形に戻ってしまったのだろうか。
 焦って御堂の肩を揺さぶった。
「…んっ…」
 御堂がわずかに声をもらす。
 寝ているのか…?
 抱きかかえるとわずかに四肢を動かした。今までとは違う反応に安心しながら、ベッドまで御堂を運んだ。
 毛布をかけて、ふぅ、と詰めていた息を吐いた。
 どうしたものか。
 まさか御堂が記憶をなくしているとは。
 一時的な記憶喪失なのだろうか。もしかしたら、自分自身にとって害となる記憶を防衛反応として封じ込めたのかもしれない。
 どちらにしろ、今の状況は自分にとっては悪くはなかった。
 御堂を怯えさせずに世話を続けることが出来る。自立できるようになるまで、御堂に尽くすことが出来る。
 明日、起きてくれるだろうか。御堂の寝顔を祈るように見つめた。
 耳元でそっと囁く。
「御堂、好きだ。おやすみ」
 御堂の世話を始めてからの日課だった。元々無口な方であったが、物言わぬ御堂には積極的に話しかけた。寝かす時は、自分自身の気持ちを確かめるように御堂に気持ちを伝えた。
 御堂の静かな寝息を聞きながら、そっと寝室を後にした。

 御堂をベッドに寝かした後、ほとんど手を付けてないワインを片付け、家事を手早く済ました。
 心がざわついて落ち着かなかった。これから御堂とどう接すればよいのか。御堂の記憶はどこまで残っているのか。御堂の自立に向けて克哉に何が出来るのだろうか。
 全く動かなかったため御堂の筋力は弱ってはいたが、意識の戻った御堂の受け答えはしっかりしていた。リハビリを続ければそう長くかからず社会復帰できるだろう。
 願わくはそれまで傍にいて見届けたい。


 気付けば既に深夜だった。自身も着替え身支度をし、寝室に入って気付いた。
 今まで御堂とベッドを共にしていた。
 御堂は人形のように動かなかったし、こちらに意識を向けることもなかったので、ずっと添い寝をしていた。
 しかし、今の御堂の横に寝たら、明日の朝、目を覚ました御堂にどう説明すればいいのか。
 ソファで寝るか?
 しかし今の御堂を一人で寝かすのも心配だった。
 少し逡巡して、御堂のベッドと寝室の扉の間に一枚毛布を敷いて寝た。
 床の固さと冷たさが毛布を通して伝わる。
 思えば、御堂を監禁していた時も裸の状態の御堂を鎖でつないで床に放っておいたのだ。
 冷たかっただろう、固かっただろう、胸の奥が抉られた。自分自身が許せなくて爪が食い込むのも気にせず手を強く握りしめた。

(3)
ambivalent(3)

 明け方、ベッドのきしむ音で目が覚めた。
 起き上がり、枕元の眼鏡をかけて御堂の姿をとらえる。
 御堂がベッドの上でもがいていた。両手をついて半身を起そうとするが、力が入らず崩れ落ちる、それを何度も繰り返していた。
 ベッドからずり落ちそうになり、慌てて体を支えた。
「御堂さん。手伝います。起こしますか?」
「う…」
 御堂は俺の顔を見上げて何か言いかけたが、目を伏せ口をつぐんだ。体を落ち着きなく動かす。
「トイレですか?」
 表情と仕草から悟った。
 目を伏せたまま否定しない。
 御堂の腕を自分の肩に回して腰を支え、ベッドから降ろして立たせた。
 足取りはおぼつかない。無理もない。歩くのも数か月ぶりなのだ。自身の体重さえ支えることが出来ないのだ。
 トイレまで御堂を連れて行った。便座に腰をかけさせる前に下着を脱がせようと無意識に御堂の下着に手をかけた。
「やめろっ!触るな」
 顔を赤くして御堂は克哉の手を掴んだ。そうだ、今の御堂には自我があるのだ。
「すまない」
 謝って手を引いた。とはいえ、姿勢を支えないと、御堂自身が下着を脱ぐのもままならないだろう。
 顔を逸らして御堂から視線を外し、動きやすいように少し離れて御堂を支えた。
 それでも御堂は不満そうだったが、下着をずらす気配を感じて、そのままトイレに座らせてドアを閉めた。
「終わったら声をかけてください」
 トイレから離れて声をかけた。返答はない。
 少ししてトイレを流す音が聞こえた。
 御堂からの声はかからない。待っているとトイレのドアノブが下がった。
 歩み寄ると、トイレのドアが開くと同時にドアノブを掴んだ御堂が倒れこんできた。
 倒れこむ御堂を受け止める。
「だから、声をかけて下さいって言ったでしょう」
 半ば呆れながら、一方で意地を張る御堂に懐かしを覚え、声をかけた。
「くそっ。どうなっているのだ、私の体は」
 思い通りに動けない自分自身に苛立っているのだろう。口調が厳しい。
 その様は以前と変わらぬ御堂だった。胸が熱くなる。
「あなたは何カ月も動かなかった。筋肉がなくなっている。でもすぐに動けるようになりますよ」
 諭すように声をかけて御堂をリビングのソファまで連れていき座らせた。
「朝食、用意します」
 キッチンに向かい御堂の朝食を用意しようとし、手を止めた。
 今まで咀嚼をしない御堂の食事は、介護用のレトルトの流動食だった。栄養バランスは取れているが、ドロドロとしたそれは甘ったるい味で、とても今の御堂には食べさせられない。
 自分用に買っておいた食パンでいいだろうか。
「パンでいいですか?」
「…ああ」
 パンがあってよかった。自身の食事には無頓着だったので、ほとんど食材をそろえていない。
 克哉は冷蔵庫を見渡して、バターと卵を取り出した。
 スクランブルエッグだったら食べやすいだろうか。
 今の『俺』はほとんど自炊をしたことがないが、昔の『オレ』は自炊をしていた。
 スクランブルエッグの手順を必死に思い出す。
 御堂のためにコーヒーを淹れようとしたが、インスタントコーヒーしか置いてないことに気付いた。御堂のキッチンには電動ミルもコーヒーメーカーもあった。こだわっていたのだろう。豆も置いてあったが、賞味期限が切れたので捨ててしまった。しょうがない、と割り切ってお湯をわかし、インスタントコーヒーを淹れる。
 自分と御堂の分の食パンを焼き、バターとそれなりの味と見栄えがするスクランブルエッグを、ソファの前のセンターテーブルにおいた。
 本当はダイニングテーブルの方が食べやすいだろうが、姿勢の保持さえ危なっかしい御堂をダイニングチェアに座らせるのは気が引けた。
 横に座って御堂の食事を介助する。
 手助けされることに嫌そうな素振りを見せるものの大人しく朝食を口にする。
 インスタントコーヒーを口にしたときは、明らかに不味そうな顔をしていたが、こちらを気遣ってか何も言わなかった。
 食事を終えて一息つくと御堂は克哉の顔にまっすぐな視線を向けた。思わず身構える。
「君は、佐伯君と言ったか」
 やっぱり、全く克哉の事は覚えていないようだ。少し安堵する。
「佐伯、と呼んでください」
「佐伯…。君は私の部下なのか?」
「ええ」
 過去形ではあるが。
「私は会社を辞めたのだろう?なぜ、部下の君が私と一緒に暮らし、私の世話をしている?」
「それは…」
 言葉に詰まった。住みこみの介護士とでも言っておけばよかったのか。
 御堂は全てを見透かそうとする強いまなざしで克哉を見据える。
 御堂は鋭い。その思考は実に論理的だ。その場しのぎの薄っぺらな嘘を重ねればすぐに見破られるだろう。
 とはいえ、真実を話す気にはならなかった。
 もう少し傍にいて御堂の世話をしたかった。一方でそれは建前であり、自身の罪をなかったことにしたい、御堂に蔑まれたくない、という自己保身の気持ちも十分に自覚していた。――御堂を騙すなら、徹底的に。今の状況を不自然に思わせないように。そして最後まで騙し切らねば。
 自分の意志を固めて、しっかりと御堂を見返した。
「俺は…」
 一回深く呼吸し、自分自身を落ち着ける。
「俺は、あなたと親しい関係だった」
「親しい関係…?」
「…恋人同士でした」
 御堂の目が大きく見開かれた。御堂が息をのむのがわかる。
 その一方で、克哉は自分を嫌悪した。なんという卑怯者なのだろう。
 御堂を壊し、御堂の人生を奪い、さらには全てを失った御堂につけ込もうとしている。
 自分でついた嘘の重さに歯を食いしばり、御堂から顔を逸らした。
 だが、御堂は克哉の葛藤に気付かない様だった。考えあぐねている様に眉間を寄せる。
「…私は記憶がない」
 悲しそうな御堂の声にハッと顔をあげる。
「だから、佐伯…。君のことも覚えていない。何一つ」
 そのまま押し黙った。沈黙が流れる。
「ただ、」
 御堂が口を開いた。
「誰かがずっと傍にいたことは覚えている。あいまいとした記憶だが」
 切なげな表情で御堂が克哉に視線を向ける。
「君がずっと傍にいたのだろう?」
「…御堂!」
 克哉は思わずソファに座っている御堂を強く抱きしめた。感情が高ぶり、嗚咽が漏れそうになるのを必死に抑える。
「佐伯」
 御堂は驚いたのか身を固くし体を窮屈そうに動かす。慌てて、御堂の体を離し、顔を背けた。
「…すまない」
 御堂に情けない顔を見られたくなくて、食器を片づけるふりをしてリビングから死角になるキッチンの奥に逃げ込んだ。
 感情が昂った自分自身を必死に抑え込む。
 落ち着いたところで、リビングの御堂の気配を伺うが、静かだった。
「御堂さん?」
 見に行くと、ソファにもたれかかったまま御堂が寝ていた。
 身体をずらし、ソファの上に横たえる。
 御堂が意識を取り戻して、昨日の今日だ。あまり精神的な負担をかけない方がいいのだろう。
 寝室から毛布を持ってきてそっと御堂にかけた。

ambivalent(4)

 幸い今日は土曜日だった。御堂が寝ている午前中に、御堂の生活用品や食料品の買い出しに行った。
 その間に御堂が起きてもすぐに気付くように、センターテーブルに出かける旨を書いたメモを置いておく。
 急いで買い物を済ませ帰ってきが、御堂はソファの上で寝ているままだった。
 寝かせたまま、手早く掃除や洗濯など家事を済ます。
 昼過ぎに御堂は目を覚ました。
「食事にします?」
「腹は減ってない」
 ソファから体を起こそうとする御堂を支え姿勢をとらせた。
「新聞あるか?」
 今日の新聞を渡す。元々御堂がとっていた経済紙で、御堂が新聞を読める状態でなくなった後も止めるきっかけがなくずっと契約を続けていた。
 御堂は新聞の日付をみて、険しい顔をした。
 そのまま新聞を開くわけでもなく、新聞の日付に目が釘付けになっている。
 自分が覚えている記憶と整合しようと必死なのだろう。
 御堂が記憶を取り戻そうとする作業は、見ていて心落ち着かない。
 かといって無理にやめさせる事も出来なかった。
 食事代わりに、購入したサンドイッチを皿に取り分け御堂の手の届くところにおいた。インスタントコーヒーも一緒に用意する。邪魔をしない様、克哉はダイニングテーブルから御堂をそっとうかがった。
 はあ、とため息がして、御堂が新聞を脇に置いた。記憶を取り戻そうにも不調に終わったのであろう。
「ありがとう、頂くよ」
 御堂はそう言って、サンドイッチを手に取った。
 お礼を言われたのは初めてかもしれない。御堂の一言に小さく笑みを返した。
 相変わらずインスタントコーヒーを飲むときは顔をしかめている。
 そんな御堂の一挙手一投足を眺めるのは楽しかった。

 夕食を一緒に取り、昨日飲みかけたワインを出した。
 ほうっと、御堂が口元を緩める。
「シャトー・ラトゥール、セカンドラベルか」
 香りを味わい、一口、口に含んだ御堂が少し怪訝な顔をした。
「このワイン、いつ開封した?」
「昨日ですが」
「その後はどうした?」
「コルクで栓をして、冷蔵庫へ」
「…ワインはガスを充填して保存するんだ」
 コーヒーには文句をつけなかったのに、ワインに対しては流石に我慢できなかったようだ。
 そんな御堂をおかしくも愛おしく感じる。
「すみません。不味いですか?」
「いや、まあ、十分いけるが」
 そう言って御堂がグラスを空ける。
「今日はこれ位にしましょう。今度はしっかり保存しますから」
 意識が戻ったばかりの不安定な御堂に、ワインをどれだけ飲ましていいか分からず、さらに飲もうとする御堂を止めた。
 御堂の指示通りキッチンを調べると、ワイン用の窒素と炭酸の混合ガスを見つけ、ワインを保存する。
「シャワー浴びますか?」
「ああ、そうだな」
 昨日から寝間着も着替えてない。
 御堂を支えてバスルームに行ったところで、御堂が遠慮がちに聞いてきた。
「今まで私の風呂はどうしていたんだ?」
 御堂の質問の意図するところに気付いて、笑いを噛み殺しながら答えた。
「もちろん、一緒に入っていましたよ」
 羞恥に御堂は顔を真っ赤にする。御堂のプライドの高さを思い出した。
「今日から自分で入る。だから手伝わなくていい」
「そうは言っても、まだ一人で立てないじゃないですか。途中まで手伝わせてください」
 御堂のプライドを傷つけないように控えめに下手に出て、御堂が服を脱ぐのを手伝った。
 御堂を見ないように、御堂の肌に直接触らないように気を付ける。
 介護用に背もたれ付のバスチェアを用意してあったので、御堂に手ぬぐいを渡して座らせた。シャワーの温度と水圧を確かめ、御堂の首から下に万遍なくかける。
 御堂は抵抗しなかった。
「後は自分でやってください」
 シャワーをセットし、ボディソープやシャンプーを御堂の近くにおいて、風呂場から出た。
 バスルームの曇りガラスのドアを通して、御堂がゆっくり動きだすのを確認し、着替えとタオルを用意した。
 シャワーを終えた御堂の手助けをして着替えさせ、ベッドに誘導した。
 今日一日で御堂の足取りは当初よりもずっとしっかりしてきた。
 ベッドの上ですぐに御堂は横たわり、眠りだした。疲れたのだろう。
 毛布をかけ、耳元に声をかけようとして思いとどまった。
 好きだ、と今の御堂に言うのはためらわれた。見ず知らずの男にそう言われても気持ち悪いだけだろう。
「おやすみなさい」
 そう静かに声をかけて、寝室を出た。

(4)
ambivalent(5)

 日曜の朝、御堂より早く目をさました。ベッドの脇に敷いていた毛布を手早く片付ける。
 御堂は安らかな寝息を立てている。
 身支度をし、キッチンに向かい朝食の準備をした。
 昨日買ったコーヒー豆を出し、電動ミルで挽く。コーヒーメーカーにコーヒー豆をセットし、冷蔵庫から卵とパンを取り出す。
 ほどなくコーヒーの良い香りが部屋に充満した。
 寝室に向かい、寝ている御堂に声をかけた。
「朝食の用意が出来ました。そろそろ起きてください」
「…ああ」
 身じろぎして御堂は目を開ける。
 突如現れた奇妙な同居人を御堂はどう思っているのだろう。気にはなったが、御堂にとっては記憶をなくしたことの方が重要で、克哉の事は大した問題ではないのかもしれない。
 起きようとする御堂に手を貸し、トイレへ誘導した。
 その間に朝食をリビングのセンターテーブルへ運ぶ。
 御堂をソファに座らせると、部屋に漂うコーヒーの香りに気付いたようだった。
 コーヒーに手を伸ばし口にすると、感心した顔をした。
 その顔を見られただけで十分だった。
 食後、歯磨きや洗顔など御堂の身づくろいを手伝い、服を着替えさせた。
 さすがに一日中寝間着でいるのもどうかと思い、御堂のクローゼットからシャツとズボンを渡し、着替えるのを手伝った。
 御堂は必要以上に手助けされるのを嫌う。
 ゆっくりではあるが優雅な動作でシャツのボタンを閉め、シャツの袖を折り返す御堂を傍で眺めた。
 痩せて顔色も良くはなかったが、その姿は昔の御堂そのものだった。
 克哉の視線に気づいたのか、気まずそうに御堂が顔を背ける。
「何か必要なものはありますか?買い出しに行ってきますが」
「いや……そうだな、コーヒーをもう一杯もらおうか」
 微笑んでうなずき、御堂の前にコーヒー置いた。
 静かな時間が流れる。
 郵便受けを確認しに行き、御堂の傍に今日の新聞を置いた。その時、御堂に話しかけられた。
「佐伯、なぜ私がこうなったのか教えてくれないか」
 その声は思った以上に落ち着いていた。
 聞かれることは予想していた。慎重に言葉を選びながら説明する。
 元々体調が優れなかったときに、大きなプロジェクトを回すことになり無理をしたこと。
 色々なトラブルに巻き込まれ、ストレスで体調を崩したが、それでも無理を続けたため、極度の疲労と睡眠不足、栄養状態の悪化から倒れて意識不明になった、と説明した。
 真実は全て自分が原因で、仕事の不調は単なる副産物であった。しかし、御堂は静かに克哉の説明を聞いていた。
「そうか」
 御堂は力なく項垂れる。
「ははっ…私は…無様だな」
 乾いた空しい笑いが御堂の口から漏れ出る。
「私の記憶は、MGNで順調に成功を積み上げてきたところで途切れている。滑稽だな。都合の悪いところは覚えていない」
 克哉の話を疑うことなく信じている御堂に罪悪感を感じ目を伏せた。
「私には無理だったのだな……それだけの人間だったということか」
 その声は小さく、嗚咽している様にも聞こえた。
 こんな情けない御堂を以前見たことがあった。
 克哉に追い詰められて仕事もうまく行かず、MGNのビルの前で御堂が倒れた。
 その場に居合わせ仕方なく部屋まで御堂を運んだが、目が覚めた御堂は自信を失い愚痴をこぼす弱々しい姿になっていた。
 その時の御堂と姿が重なる。意識が戻った御堂は決して以前の状態に戻ったわけではないのだ。一皮むけば心身ともに弱くもろいのだ。
「違う!あなたは悪くない!」
 思わず叫んでいた。御堂が驚き克哉を見上げる。
「悪いのは、…悪いのは、俺だ」
 そこまで言い放って、呻くように続けた。
「俺だったらあなたがこうなる前にあなたを救えた。でも、その時の俺は未熟でその事に気付けなかった」
――あなたを徹底的に嬲って壊して、全てを奪ったのは俺だ。
 その告白をしなくてはいけないのに出来なかった。情けない自分自身に苛立って、唇をかみしめる。
「君は…優しいな」
 ふっ、と息を吐きながら御堂が呟く。
 克哉がかばったのだと思ったのだろう。
 違う、違うんだ。声に出せない叫びを飲み込んだ。
 いたたまれなくなり、御堂を一人残してリビングを逃げるように後にした。

(5)
ambivalent(6)

 その後はお互い口をきかなかった。
 御堂はソファの上でじっとして物思いにふけっているようだった。
 克哉は克哉でどう声をかけていいかわからず、ダイニングテーブルでノートパソコンを使って仕事をこなしていた。
 昼になり蕎麦の出前を二人分とった。
 御堂はあまり食欲もわかないようだったが、御堂が食べやすいようにセンターテーブルにセットする。
 その時、御堂が昨日より動こうとしないことに気付いた。
 いや、動作を始める瞬間に、わずかだが顔をしかめて動作を止めるのだ。
「体、痛みますか?」
 ああ、と御堂が頷く。
「筋肉痛のようだ。全身の。大して動いたわけではないのにな」
 自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 やはり無理をさせすぎたのだ。寝たきりのような状態だった御堂の筋肉は、今は見る影もなく痩せ細っている。介助はしていたものの、負荷が大きすぎたのだ。
「食後、マッサージします。痛みが和らぎますよ」
「いや、大丈夫だ」
 少し驚いてこちらを見たが、すぐに首を振った。
「今までの日課でした。やらせてください」
 日課だったのは本当だ。ただ、目的は手足の関節の柔らかさを保って、関節の可動域を維持するためだった。
 しつこい申し出に諦めたのか、わかった、と御堂が頷いた。

 食後、御堂をソファに座らせたまま、御堂の前に立て膝をついてマッサージを始めた。
 御堂が壊れてから、克哉は介護について色々勉強した。リハビリの一環としてマッサージの手法も覚えたのだ。
 体に触れられることを嫌う御堂を刺激しないように、手首から始める。
 手の関節を甲側にゆっくり曲げて、筋肉を伸ばす。次は手掌側に曲げて逆側の筋肉を伸ばす。
 御堂の表情を横目で伺いながら痛みが出る直前で止める。
 人形だったころは筋肉に一切の緊張がなく、手を離した瞬間に重力でだらんと垂れ下がった四肢だが、今は硬い筋肉の緊張が感じ取れる。御堂自身の意識的な緊張もあるのだろう。
 左右の手首の関節の次は肘の関節、丁寧に時間をかけて筋肉を伸ばす。御堂は抵抗せずにされるがままだった。
 肘関節が終わったところで肩関節に移りたかったが、この体勢では御堂の顔に近づきすぎるので後回しにすることにした。
「足にうつります」
 御堂の足元に跪いて足首に手をかけると、御堂が息をのんだ。
 足に緊張が走り、わずかに力が入る。
 緊張をほぐすように優しくゆっくり足先を持って足首を曲げる。
 下肢の筋肉は上肢以上に固く張っていた。体重を支えようと上肢と比べ物にならないほどの負荷がかかっていたのだ。
「ん…」
 痛みに御堂が顔をしかめる。慌てて関節を緩めた。
 しばらく続けて、筋肉の緊張が解けてきたが、足首を終えたところで、迷った。
 膝関節をマッサージして大腿の筋肉をほぐすためには、御堂をうつ伏せに寝かす必要がある。
 御堂が嫌がるであろうことは明白だった。しかし、体の中心部に近付くほど筋肉は大きくなるし、その分負荷も大きくかかっている。思い切って声をかけた。
「御堂さん、うつ伏せになってくれませんか?」
「…っ!」
 嫌そうな目を向けられたが、渋々といった感じで体勢をずらす。
 これまでのマッサージが評価されたのかもしれない。
 うつ伏せになるのを手伝って、御堂の足側に移動した。
 ズボンの上からふくらはぎと太ももの裏に手をかけた。体がこわばるのを感じたが、ゆっくりと膝を曲げる。
「痛かったら言って下さい」
 うつ伏せになった御堂の表情が見えないので声をかけるが、我慢強い御堂のことだ。痛くてもじっと耐えるのであろう。
 筋肉の緊張を感じとりながら、痛みを感じさせない様に優しく動かし、筋肉をほぐす。
 目の前で無防備にうつ伏せになっている御堂にそそられた。
 御堂が完全に壊れてから、御堂に欲情したことはなかった。いや、一度、壊れた御堂をどうにかしたくて無理やり犯したことがあったが、ピクリとも動かず表情も変わらない人形も同然の御堂に、気持ちも身体も萎えてしまいすぐにやめた。
 昔のことを御堂が何も覚えてないことは幸いだった。でなければ、こんな風に自分に身を任したりしないだろう。
 膝関節を終えて股関節に移ろうかと思ったが、そのためには大臀筋、御堂の尻を押さえる必要がある。とても自分自身の欲望を自制できる自信がなかった。
 もう御堂を酷い目にはあわせない、と誓ったのだ。
「肩、ほぐします」
 上半身側にまわって、肩に手をかけた。
「佐伯」
 突然、うつ伏せの状態から声をかけられた。痛かったか、と手を止める。だが、そうではなかったようだ。
「佐伯、君と私は恋人関係だったのだろう?」
 思わず息をのんだ。先ほど、御堂に一片でも欲情を抱いたのがばれたのだろうか。
 うつ伏せの御堂の表情は見えない。動揺を悟られぬよう、小さく息を吐いて、マッサージを再開した。
 力が入りすぎたのだろうか、わずかに御堂が身じろいだが、克哉の返答を待たずに言葉を続ける。
「その…君と私は、そういう行為もしていたのか?」
「…!」
 息が出来なかった。手が止まる。御堂がどんな顔をしているか、うかがい知ることは出来ない。
 行為はあった。しかし、それは御堂の意志を無視して一方的に強いた凌辱行為であり、恋人同士が行うような愛を交わす行為とはかけ離れたものだった。
「そうか…」
 御堂が小さくつぶやいた。沈黙を同意と受け取ったようだった。
「…今のあなたには手を出したりしません」
 そう声をかけてマッサージを再開した。返事はなかった。
 そのまま無言でマッサージを続け、終わったころには御堂も疲れたのか、そのまま寝入ってしまった。

(6)
ambivalent(7)

 夕食の準備をして、ソファで寝入っている御堂に声をかけた。
 緩慢な動作で起きあがろうとする御堂を介助し、食事をとらせた。
 食後、食器を片づけていると、声をかけられた。
「佐伯、君は自分の家はあるのか?」
「ありますよ」
 突然の質問に驚いたが答える。 御堂が壊れてから今に至るまで、ほとんど帰った事はなかったが。
 そうか、と呟くと、御堂が克哉の方に顔を向け、しっかりと克哉の目を見据えた。
「佐伯、今までありがとう。ずっと住み込みで私の世話をしてくれたのだろう。感謝してもしきれない」
「御堂…」
「もう、私は大丈夫だ。君は自分の生活に戻ってくれ」
 その表情は真剣だった。
「君にはいずれ何らかの形で礼はするつもりだ」
「俺がいると迷惑ですか」
「違う、そうじゃない」
 御堂は首を振って即座に否定した。
「今の私には何も残ってない。君の記憶さえも。君の気持に応えることも出来ない」
 そう言って目を伏せた。苦しげな表情がみてとれる。
「勘違いするな、御堂さん。俺はあなたに何か報いて欲しくて傍にいるわけじゃない」
 とは言ったものの、御堂の言葉は胸に突き刺さった。
 御堂に尽くすこの行為は贖罪という名の単なる自己満足だ。
 だが、記憶を失った御堂は、克哉が傍にいる理由を恋人による好意だと勘違いしている。
 昔の御堂にとって克哉は憎悪の対象だったが、今の御堂にとっては赤の他人だ。
 律儀な御堂の事だ。好意に答えることが出来ないのを気にしているのだろうし、もしかしたら克哉自身の人生についても自分が負担になっているのではと気にかけているのだろう。
「俺は、自分の意志で、好きで、あなたの傍にいる。別に、あなたと元の関係に戻りたいとは思っていない」
 それは本心だった。また、閉じ込めて嬲って壊して、再び御堂を失いたくはない。
 御堂が元の状態に戻って暮らしてくれればそれで十分だった。
 今の御堂は、壊れた人形だった時は比較にならないほどしっかりしている。判断力も論理的な思考力も、昔の御堂を髣髴とさせる。
 一方で、肉体的には最低限の日常生活を送れるほどまで回復してはいないし、全てを失った環境で精神的にも衰弱している。
 欠落した記憶がいつ戻ってくるかもわからないし、その時は望んでももう一緒にいられないだろう。
 出来れば御堂の記憶が戻る前に姿を消したいが、今の状態の御堂を放っておくわけにはいかない。
「しかし…」
 御堂の言葉をさえぎって続ける。
「あなたが一人で出歩けるようになるまでだ。それまではここに居させてほしい」
 半ば強引に押し切った。
 御堂は少し考えあぐねているようであったが、口を開いた。
「…わかった。でも、一つだけ聞いてくれるか」
「何です?」
「…床に寝るのはやめてくれないか」
「…わかりました。今晩からソファを借ります」
 そんなことを気にしていたのか。
 答えながら、喉の奥から笑いがこみ上げる。
「何が可笑しい?」
「いえ、案外他人に気を遣う性格なのですね」
 御堂は一瞬顔を赤らめて、不機嫌そうにそっぽを向いた。
 今までは一緒のベッドで寝ていましたけどね、と付け足そうかとも思ったが、これ以上御堂を刺激することはやめておいた。きっと御堂も気付いているだろう。
 仕事で出会った御堂は高慢さばかりが鼻についたが、実は他人に対して細やかな気配りが出来る人間なのかもしれない。
 最初から違う態度で御堂に接していれば、今頃、御堂と別の関係が築けていたかもしれない。そして、御堂の違った一面を知ることが出来ていたのかもしれない。
 もう全ては遅すぎたのだが。

 御堂が寝た後、夜の街へ繰り出した。
 明日から会社が始まる。
 御堂が日中一人で過ごせるようにするためにいくつか準備が必要だった。

(7)
ambivalent(8)

 翌、月曜日の朝、ソファから起き上がって、寝室の気配を伺った。まだ起きてくる気配はない。
 自分の身支度を素早く終えて、食事とコーヒーの準備に取り掛かる。
 今日から日中は御堂一人で過ごす。心配なのは食事と排泄だ。
 食事は軽食だがサンドイッチを用意するとしても、問題はトイレだろう。
 携帯用トイレも用意したが、御堂がそれを使うとは思えない。
 自分でトイレまでたどり着ける環境を整えなければいけないのだ。
 そのための下準備は昨夜行った。
 眠っている御堂に声をかける。意識が戻ってからも、一日の半分以上寝ている。
 働いていた時は、もっと睡眠時間が短かったはずだ。まだ精神的にも体力的にも消耗しきっているのだろう。
 起き上がろうとする御堂に手を貸すと、素直に克哉に身を任せて体重がかかる。昨日、一昨日とは違って、嫌そうな素振りは見せなかった。割り切ったのかもしれない。
 トイレを経由してリビングに入ると、昨日と家具のレイアウトが異なっていることに気付いたようだ。
 ソファを廊下のトイレよりに配置し、リビングのサイドテーブルやチェストなど背丈が低い家具をソファから廊下の間に並べた。
 後は、食後にダイニングの椅子を廊下に並べれば、家具をたどってトイレまでたどり着けるはずだ。
 御堂はリビングをみて眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
 食後、御堂の着替えと身づくろいを済ませると、御堂にトイレまでの伝い方を説明し、万が一の場合、と前置いて携帯トイレも手が届くところにおいた。
 ソファにあわせて移動したセンターテーブルにお昼用のサンドイッチと蓋を一度ゆるめて開けたミネラルウォーターを置く。
 そして、ネックストラップをつけた携帯を渡した。
「なんだ、これは」
「携帯です」
「そんなことは見れば分かる」
 明らかに不機嫌そうに御堂が言う。
「何か問題があったら、その携帯で俺まで連絡してください。短縮ダイヤルにも登録しましたから」
 短縮ダイヤルの使い方を簡単に説明する。
 昨夜契約してきた携帯だった。
 御堂の携帯も持っていた。監禁した日に取り上げたものだった。
 それを返すことも考えたが、御堂の携帯のメールや通話履歴には佐伯の名前が一切出てこない。
 恋人関係という割には不自然だし、その携帯が過去を思い出すきっかけとなる可能性も否定できなかった。
 だからあえて、新しい携帯を用意したのだ。
「落とさないように、首からかけて持っていてください」
 他に、暇つぶしになれば、と御堂の本棚から適当に選んだ書籍、テレビのリモコン、今日の新聞、と思いつくものは全部手の届く範囲に用意した。
「君は心配性だな」
 御堂があきれたように言いながら渋々携帯を受け取って首にかけた。
「では、会社に行ってきます。何かあったらすぐに連絡してください」
 と再度念押しして、部屋を出た。御堂が軽く片手をあげて了承のサインを送るのがみえた。

 仕事を定時で切り上げ、御堂の家に向かった。
 時間内に完璧に仕事をこなしているので、誰にも文句は言われない。むしろ、残業を極力しない分、会社からの評価は高かった。飲み会などの付き合いは全て断っているので、同僚や直属の上司からの受けは芳しくなかったが。
「只今戻りました」
「ああ」
 リビングから返事が聞こえる。特に問題なさそうだ。ほっと胸をなでおろした。
 日中、御堂がトラブルに巻き込まれていないか、再び人形のような状態に戻っていないか、また、過去の記憶がよみがえっていないか、克哉は心配が尽きなかったのだ。
 リビングに入ってみると、朝と違って家具の位置が大分乱れていた。
 動き回ろうとしたのだろう。
 御堂はすました顔で、ソファの上で読書している。
「食事、買ってきましたよ」
 帰り途中に総菜屋で購入した弁当を温める。
 元々食事にこだわらない性分もあって、自炊能力は低い。
 こだわりが強そうな御堂に出来合いの弁当を食べさせるのも気が引けたが、自分が作るものよりは大分ましなはずだ。
「今日はこちらで食べますか?」
 ダイニングチェアを廊下から戻し、ダイニングテーブルを指して聞いた。
「ああ。ソファは飽きた」
 御堂の移動を介助する。この数日で、御堂は自分の体勢をしっかり保つことが出来るようになった。ダイニングチェアから崩れ落ちることはないだろう。
 残しておいたワインも冷蔵庫から出す。ワインと弁当という組み合わせだが、御堂は特に文句も言わなかった。
「ところで、私の携帯とノートパソコンを知らないか?」
「携帯は壊れたので回線だけ残してあります。ノートパソコンは分かりません」
 どちらも嘘だった。御堂の携帯やパソコン、名刺入れやアドレス帳など個人的な持ち物は鍵のかかるアタッシュケースに入れて、クローゼットの奥にしまってある。
「そうか。携帯やパソコンがあれば何か思い出せるかと思ったのだが」
 克哉の言葉を素直に信じて、残念そうに言った。
 御堂の家の中は調べつくしてある。日記などプライベートを書き記したものはないはずだ。
「パソコン、新しいので良ければ準備します」
「考えておく」
 再び会話が途切れた。お互い多くは語らない性分なせいか、押し黙ったまま食事を済ませた。
 その沈黙も苦にならなかった。

(8)
ambivalent(9)

 御堂の意識が戻ってから、日常が一変した。
 お互い距離を取りつつの同居生活であったが、自分の意志で動く御堂を眺めるのは楽しかった。
 周りから見ても自身の変化が分かったのか、上司に「最近いいことあったのか?」と聞かれた時には苦笑が漏れた。
 元々ストイックで熱心な性格な御堂は、克哉が勉強したリハビリの教科書を渡すとあっという間に読み込んで、自らリハビリメニューを組み日々黙々と取り組んでいる。
 その効果は目覚ましく、一カ月もたつと家の中なら手助けなしでもある程度動けるようになった。
 日課となっているマッサージを行うと当初と比べて体つきが締まり、筋肉が大きくなってきていることがわかる。
 出来れば外出させて気分転換を図りたかったが、車いすを提案してみたものの、嫌だ、とあっさり拒否されてしまった。自分が介助されている姿を人目に晒すのは、プライドの高い御堂にとっては耐えがたいのだろう。だが、今の調子だと手助けなしで外出できるようになる日も近いだろう。
 体力や筋力がついてきたせいか、精神的にも自信が戻ってきているようで、普段の立ち振る舞いは以前の御堂と変わらない。
 現在の自身の状況も、仕方ないと割り切って受容しているのだろう。
 見知らぬ同居人である自分にも気を許してきたのか、今まで滅多にみたことのない笑顔を向けることもあった。
 一方で記憶が戻るかもしれない、という不安は常にある。
――そろそろ潮時か
 このまま御堂の傍にいると御堂から離れられなくなる。
 やはり、どうしようもなく克哉は御堂に惹かれている。
 いつか自分の欲望が自制できなくなるかもしれない。
 もし、御堂の記憶が戻った時、克哉が目の前にいたら御堂はどうなるだろうか。
 克哉は心を決めた。
 金曜日、ワインを買って帰る。御堂の意識が戻ってから生まれた新たな習慣だった。
 ワインのチョイスは自分に任されていたが、銘柄に詳しいわけもなく、いつものワインバーによってソムリエにチョイスしてもらうのが常であった。
 夕食後、ワインを開けて一緒に楽しむ。ソファでくつろぎながらワインを味わう御堂に、キッチンからチーズを用意し手渡した。そのついでにさりげなさを装って告げた。
「そろそろ、自分の家に戻ろうかと思います」
「そうか」
 御堂の返答はそっけなかった。ゆっくりとこちらを見上げる。
「いつも帰りが早いから心配していた。君はMGNの社員だろう。そんな風できちんと仕事がこなせているのか気になっていた」
 そう言う御堂の目元に笑いが浮かんでいる。
「今は厳しい上司がいないから楽ですよ」
 そう冗談めかして返すと、御堂は一瞬ムッとした顔をした後、声をあげて笑った。つられて笑う。
「佐伯」
 御堂がワイングラスをテーブルにおいて、ソファから立ち上がる。介助しようと無意識に差し出した手を御堂が掴む。
 顔が正面で向き合う体勢になった。酔った御堂の頬が上気している。
「佐伯、今までありがとう」
 そう言って、御堂は克哉の片手を掴んだまま、他方の手を克哉の後頭部に回した。次の瞬間、唇を奪われた。
「…!」
 突然の事に動揺し、動けなかった。わずかに開いた歯列のすき間から御堂の熱い息と柔らかく濡れた舌が入り込む。
 このまま御堂を味わいたいと思ったがすぐに接吻は解かれた。
「キスをすれば何か思い出すかと思ったが、そう上手くはいかないな」
 いたずらっぽく御堂がほほ笑む。
「なぜそんなに驚いている?恋人時代はこれ位何度もしていたのだろう?」
 しれっとした態度で言う御堂は、明らかに克哉の反応を楽しんでいるようであった。
「御堂」
 衝動的に空いている片手で御堂の腰を引き寄せ、自分から御堂の唇を奪った。
 驚き、身をこわばらせて逃れようとする御堂の腰を押さえつける。
 御堂の薄く開いた唇から舌を差し入れ、御堂の舌を絡めとる。その柔らかさを味わった後、歯列をなぞり口内を舐める。
「……んっ」
 御堂の抵抗が弱くなった。シャツを通して触れる体も熱い。ワインだけが原因ではないだろう。自分自身の体も同じくらい熱くなっているのが分かる。
 名残惜しかったが、ゆっくりと唇を離した。お互い乱れた呼吸を整える。
 御堂とキスをしたのは今回が初めてだった。凌辱していた時にキスをした記憶はない。キスだけでこんなに気持ちが昂るとは思ってもいなかった。
「…驚いたな。君はこんな激しいキスをするのか」
 御堂の頬はさらに赤く染まり、潤んだ目はこちらを熱く見つめている。
 このままでは欲望が抑えられなくなる。克哉は御堂の腰から手を外し、体を離し後ずさった。
「…このまま行くのか?」
 御堂が克哉の手を強く握った。声が艶っぽく聞こえる。
「俺を煽るな。自分が抑えられない。もうあんたに手を出さない、って決めている」
「それは、私に君の記憶がないからか?…君のことが好きかどうかは正直分からない。だが、したくなったからする、ではダメなのか?」
 克哉の手を掴む御堂の手から熱さが伝わる。欲望にあらがえなかった。
「…本当にいいのか?」
「ああ」
 御堂も気持ちが昂っているのだろう。再び御堂を抱き寄せて唇を重ねたが、御堂は抵抗せずに自分から積極的に求めてくる。
 そのまま御堂を寝室に連れ込んだ。

(9)
(10)
ambivalent(10)

 自分に課した規律をこうもあっさり破るとは。
 自分自身にあきれたが、どうしようもなく目の前の御堂に欲情していた。
 ベッドに押し倒した御堂に真上から唇を重ねる。唾液の絡む音がいやらしく響く。
 うなじを指でなぞりながら、もう片方の手で御堂のシャツのボタンを外していった。
 御堂は両手を克哉の背中に回し強く引き寄せようとする。そのまま御堂の上に覆いかぶさる。
「佐伯…ちょっと待ってくれ」
 一旦口づけを解くと、荒い息を吐きながら御堂が必死に声を出す。
「そんなに待てない」
「一つ聞きたい…私が下なのか?」
 思わずニッと口角を上げて笑った。
「言っていませんでしたか?」
 克哉の真下で顔を真っ赤にして御堂が焦る。
「待ってくれ!私には経験がない」
「今更もう待てない」
 何か言いかける御堂の口を唇でふさいだ。
 片手でうなじから鎖骨をなぞり、ボタンを外したシャツをはだけさせて胸をまさぐる。
 ずっと外出していない御堂の白く滑らかな肌が映える。
 胸の突起をつまみ、固くなったところで指の腹でなぞると、御堂の体が大きく身悶えた。
 相変わらず敏感だ。御堂の体は以前の悦楽をしっかり記憶しているのだ。
 キスを解いて、唇と舌で御堂の耳朶からうなじをなぞった。
「佐…伯っ、ダメだ、やめて…くれ!」
 御堂が懇願する。一旦愛撫を止めて、顔を覗き込む。その目に怯えの色が見て取れた。
「どうした?」
「体が、おかしい。こんなの、私の…体じゃない」
 御堂の体は刺激にたやすく反応し、強い快楽を生み出している。彼の体をこんな風に変えたのは克哉だ。御堂自身は自分の体が感じる快楽をずっと否定しようとしていたが。
「…大丈夫だ」
 そう言って克哉は手と顔を一旦離した。
御堂の頭を優しくなで、髪を指ですいた。指の間をさらさらと髪が流れる。
 自分の欲望には負けたが、少なくとも無理強いはしないと誓う。
「不安ならやめる」
 そのまま御堂を優しく抱きしめ、落ち着くまで待つ。
 少しして御堂が腕の中で小さく息を吐いた。
「もう大丈夫だ。自分の変化に少し戸惑っただけだ」
 そう言うと、御堂は克哉の首に手を回し、引き寄せてゆっくりと唇をふさいでくる。
 御堂のやりたいようにさせて口づけをしたが、このまま行為を続けていいか迷った。
 迷いが伝わったのか、御堂が唇を離して克哉に視線を合わしふっと微笑んだ。
「君は、ここでやめることができるのか」
「まさか」
 笑みを返して愛撫を再開した。あまり強い刺激を与えないように優しく触る。
「あっ…ん…、んっ」
 顔を逸らせ固く目を閉じた御堂は必死に快感に耐えていた。自分の手の甲で口を塞ぎ、声を押し殺す。
「声を聞かせてくれ」
「うっ…む、りだ」
 御堂の手を掴んで口から外そうとしたが、羞恥のためか抵抗にあって諦めた。
 唇を胸から腹、腰骨へと這わせる。手で御堂のベルトのバックルを外し、ズボンのファスナーをおろす。御堂自身がすでに張りつめた状態であることが下着の上から見て取れた。下着の上から、先端に唇を強く押し当て口に含む。
「ああっ!」
 御堂が叫び腰を浮きあげた。その瞬間を見計らって、下着ごとズボンを下ろす。
 膝までズボンを脱がし、白く滑らかな大腿の内側に舌を這わせる。恥毛の生え際まで舐め上げる。
「佐伯っ、そんな、とこ…っ」
 御堂の屹立を口の中に含み、唇と舌で唾液を絡めながら刺激した。御堂のそれはさらに質量をまし、先端から粘液がにじむ。
「んっ…ん…あっ」
 抑えきれない喘ぎ声が口からもれる。
 御堂の下肢が細かく痙攣する。御堂のズボンを完全に脱がせ、自分も裸になった。御堂の脚を押し開いて身体を間に入れる。
 ベッドサイドテーブルの引き出しにワセリンを入れてあったのを思い出す。
 御堂を凌辱していた時期に使っていたものだ。躊躇したが、あった方がいいだろうと、片手を伸ばし引き出しを開けて取り出した。
「佐伯…」
 ワセリンを見た御堂がその用途に気付き、顔を真っ赤にした。
 指でたっぷりワセリンをすくって、御堂の奥、小孔を探り当てる。
「ひっ…!」
 指を押し当てられ、ワセリンの感触に怯えたのか、御堂の腰が跳ね上がる。
「力を抜いて」
 シーツをぎゅっとつかむ御堂の手を自分の背中に回させた。
 アヌスをほぐす指の感触に必死に耐えようと、御堂が克哉の背中に爪を立てる。
 指を一本差し入れ、中の感触を確かめた。緊張しているのであろう、痛いほど締め付けてくる。
 緊張をほぐすため、他方の手を御堂のうなじに回して顔を引き寄せ口づけをした。
「ん…ふっ…」
 こわばった体がほぐれてきたのを感じて、更に指を差し入れた。しっかりと後孔をほぐす。そろそろ大丈夫だろうか。
「息を吐いて、もっと力を抜いて」
 これから来る衝撃に備えたのか、御堂はきつく目を閉じた。御堂の尻の下に手を入れ、位置を合わせ、既に固くそそり立った自分自身を挿入する。
「ああっ!!」
 御堂が大きく叫ぶ。男のモノを飲み込まされる違和感に御堂の顔が大きくゆがむ。
「きついな」
 半ばまでおさめたところで、自分にしがみついて震える御堂の背中を優しくさする。
 御堂の本意ではなかったが、行為自体は数えきれないほど行ってきた。苦痛を味あわせながら無理やり突き入る行為にも御堂の体は慣れさせられているし、それでも快感を得るように躾けられていた。
 しかし、今の御堂にとってはこれが初めての経験になるのだ。つらい思いはさせたくない。
 片手で御堂自身を根元から柔らかく擦る。
「…はっ…あ…」
 荒い息とともに喘ぎ声がもれる。御堂の意識を逸らせている間に、さらに自分の屹立を飲み込ませた。
「くぅ、う…、うっ」
 呻きながら御堂が身悶える。御堂の快楽のポイントは知りつくしている。狭い肉路を押し開くようにゆっくりと抽送を始めた。御堂のポイントを探り当て、そこを意識的に擦る。
「ふぁ…、あ…!いきなり、…そんなっ、動かす…っ!」
 声が明らかに艶っぽくなり、御堂の背中が弓なりに反る。薄く開かれた目は、熱っぽく官能をたたえ潤んでいる。
 御堂の背中を抱き起し太ももを抱え、自分の膝の上に乗せた。自身の体重の重みがかかり、さらに屹立が飲み込まれる。
「う…、あっ…んんっ」
 一瞬、うめき声をあげたが、すぐ官能を含んだ喘ぎ声に変わった。下から突き上げるたびに御堂の体がうち震え、快楽の喘ぎ声が漏れる。あわせて御堂の中心を根元から擦り上げる。
「くっ…佐、伯…もう、我慢できない…!」
「なら、俺も一緒に」
 御堂の腰を掴み激しく突き上げる。御堂の快楽にむせぶ顔を見ると、自分の快楽もどんどん高まり限界に近づく。
「御堂、…好きだ」
「ああっ!!」
「…うっ」
 奥まで激しく打ち込むと同時に御堂が爆ぜた。白濁した液が克哉の胸と腹にかかる。自分も堪えきれなくなり御堂の中に熱くたぎったものを吐きだす。
 緊張を失った御堂の体が自分の方に倒れこんでくる。それを受け止めると、御堂の汗ばんだうなじにキスをした。
 不思議と満ち足りた気分だった。昔は何度御堂を抱いても常に満足できなかった。満たされることのない渇きが常にあった。御堂を貶め嬲って奪っても渇きはどんどんひどくなるばかりだった。今ではその渇きがなんだったのか分かる。御堂の心を欲していたのだ。
「御堂…」
 声をかけたが返答がない。意識を失っているようだった。御堂の奥から自分自身を引き抜いて、御堂をベッドに横たえた。体液にまみれた御堂の体を丁寧に拭いてきれいにする。
 御堂を見ていると、たった今抱いたばかりなのに御堂を欲する気持ちが際限なく湧き出てくる。再び自分自身に血液が集まってくるのを感じ、気持ちを切り替えるためシャワーを浴びに部屋を出た。

 御堂の傍にいたかったが、シャワーを浴びてソファの上にひっくりかえった。このまま深みにはまりそうな予感があった。
――くそっ、どうすれば
 考えても答えは出なかった。冷静な判断が出来ない自分に苛立ちを感じた。得るものが多くなるほど、失う時を恐れるだろう。
「御堂…どうして、こうなったのだろうな」
 御堂と愛を交わした後なのに、幸せな気持ちともに底知れぬ不安感が広がっていくのを抑えきれなかった。

ambivalent(11)

 翌朝、寝ている御堂に声をかける。
「う…ん…」
 身じろぎして目を覚ます。はだけた毛布から素肌がみえて妙になまめかしい。
「シャワー浴びますか?」
「佐伯…」
 昨夜の行為を思い出したのか、顔を赤くして克哉から視線を逸らす。そのまま起き上ってベッドから降りようとした。だが、腰に力が入らず膝から崩れ落ちそうになる。さっと駆け寄って体を支えた。
 お互いの吐息がかかるほど顔が近付き視線がぶつかった。
 どちらからともなく唇を重ねた。お互いの唇の柔らかさを確かめるだけのあっさりしたキスだった。
 キスを解いて微笑んだ。御堂の目元が優しげに緩み、笑みを返す。
 その愛おしさに我慢できなくなり、強く抱きしめ再び唇を重ねた。

 一度体をつなげてしまうと、二度、三度となるまで時間はかからなかった。
 自宅に戻るという話も先延ばしになってしまい、結局御堂の家に居候したままだ。そのことについては御堂も何も言わない。
 体の関係になったせいか、今までに見たことのない御堂の一面を知ることになった。自ら快楽を得ることに対しても積極的だし、時折悪ふざけの類も仕掛けてくる。記憶がない御堂は克哉を怖がることもない。

 ある朝、出勤しようと靴を履いたところで、御堂が近寄ってきた。
「佐伯、ネクタイが曲がっている」
 ネクタイに御堂の長い指がかかる。体を御堂の方に向けた瞬間、ネクタイを引っ張られ、口を塞がれた。
「…っ!」
 思わず開いた唇のすき間から御堂の濡れた舌が入り込む。口蓋をくすぐり、舌を絡められた。御堂は空いている片手で克哉の腰を引き寄せ、下半身を密着させた。
 身体が熱くなり、気持ちが昂る。自らも手を御堂の体にまわそうとしたところで、御堂はさっとキスを解いて身を離した。
「御堂?」
「気をつけて」
 と御堂はクスリと笑い、さっさとリビングに引っ込んでしまった。
 身体には行き場のない熱がこもる。思わず追いかけそうになったが、朝一で会議が入っていたことを思い出した。もう出なければ遅刻してしまう。
 そこで気が付いた。昨夜、御堂にさりげなく今日の予定を聞かれたこと。全て計算済みでからかわれたのだ。
 思い起こせば、売り上げ目標の修正を求めたときに性的接待を露骨に要求してきたのも、こういった悪ふざけの類だったのかもしれない。ただ、それが全ての始まりになってしまったのだ。

 お互いの体を重ねるたびに克哉は御堂に愛を告白していた。しかし、御堂から何か返されたことはない。その事に関して克哉は不満は持っていなかった。
 御堂に何か報いて欲しくて一緒にいるわけではない。共に過ごせるだけで十分だった。
 したくなったからする、それだけの行為の相手でいい。克哉自身、昔の御堂をその様に、いや、それ以上に酷く扱っていたではないか。
 行為の後も毎回、御堂が寝るのを確認して、自分はソファに戻り寝た。御堂を激しく欲する自分自身を恐れてもいた。これ以上御堂におぼれたら自分を自制できるだろうか。

 夜、ソファで寝ていると、突然体に圧迫感を感じ、目を覚ました。
「御堂…?」
 目を開くと、御堂が克哉の腰の上に馬乗りになって見下ろしている。暗くて表情はうかがえない。大腿部を御堂に押さえつけられて、克哉は動けなかった。
 自由になる手で枕元の眼鏡を探るが見つからない。
 くくっと御堂が喉を鳴らして笑う声が聞こえた。
「探しものは、これかな?」
 御堂の片手に克哉の眼鏡が握られていた。月の光に眼鏡のレンズがきらめく。
 眼鏡を取ろうと手を伸ばしたが、届きそうになったところで、さっと避けられた。
「眼鏡をかけていない君の顔を見るのは初めてだな」
 しげしげと御堂に顔を覗き込まれる。
「御堂、どうした…?」
 御堂が目を眇めて克哉を見る。
「…君は、なぜいつもソファで寝ている?あんなことまでした仲だというのに、つれないな」
 御堂は眼鏡を開くと、多少ぎこちなかったが優美な仕草で克哉の顔にかけた。キスが出来そうなほど御堂の顔が近付いた。
「俺としたくなったのか?」
 御堂の尻の感触を太ももに感じながら、手を伸ばして御堂の腰から尻のラインをなぞる。びくっと御堂の体が震える。
「っ…!違う…、そうじゃない」
「なら何だ?」
「…君は私に愛を告白しながら、私から距離を置こうとしている。誘えば抱くくせに、終われば離れてソファに戻る。何故だ?」
「…」
 御堂の声に揶揄した響きはなかった。かと言って、その問いに本心を正直に答えられなかった。お前に溺れるのが怖い。そして失うのが怖い。
「私の事を気にかけているのか?私が君の記憶を失っているから…」
 克哉の顔に御堂の手が触れる。頬から顎にかけて優しくなぞられる。
「佐伯…。私は、セックスだけの相手と、割り切ってずっと一緒に住めるほど、合理的な思考の持ち主ではない」
「御堂…」
 月明かりが端正な御堂の横顔を照らす。その眼差しは真剣で熱く、克哉の目をとらえ微動だにしない。
「……改めて言う。私と一緒に暮らさないか」
 それは遠回しな愛の告白だった。御堂からの愛は求めないし期待しない、そう自分に言い聞かせていたのに、御堂の言葉に胸が熱くなり息が出来なくなる。
「…ああ」
 喘ぐように短く同意すると、御堂が笑みをこぼして唇を塞いできた。克哉も御堂の背中に手を回し、御堂の口内に舌を差し入れる。御堂の舌が積極的に克哉を迎え入れる。唾液の絡み合う音が響く。
 布地を通して触れ合う御堂の局所が熱を持ち始めるのを感じる。自分自身も同様に張りつめてきた。背中に回していた手をそのまま御堂の尻におろし、強くつかむ。
「ああっ!!」
 御堂がひるんだ隙に、体をずらし御堂の下から抜け出して、体勢を上下逆転させた。
「佐伯!」
「では、続きをしましょうか」
 自分の真下で慌てる御堂を見下ろしながら、にやりと笑みを浮かべた。

(11)
ambivalent(12)

「佐伯、こらっ、どけっ!」
 ソファの上に押し倒された御堂が身を捩って、克哉の下から抜け出そうとする。もちろん、逃げ出せないように御堂の体をしっかり抑える。
「どけって、あなたから誘ってきたでしょう」
 クスリ、と笑って御堂のパジャマのボタンに手をかけた。はだけたパジャマのすき間から手を差し入れ、上半身をまさぐる。指をすべらせ、御堂の胸の突起をつまんだ。何とか逃れようとしていた御堂の抵抗が弱まる。
「くぅ…はぁっ…」
 こらえきれずに喘ぎ声が上がる。上半身を完全にはだけさせる。胸の突起をもてあそびながら、片手を御堂の下着の中に差し込んだ。既に熱を持っている御堂のペニスをそろり、と撫で上げる。
「やめ……う…んっ」
「もうこんなに固くなっている」
 御堂の耳元に息を吹きかけながら囁いた。その体が羞恥に震える。唇を御堂の鎖骨に這わせて、骨ばった皮膚のラインをなぞる。そのまま唇で御堂の体の中心を胸、腹、臍、となぞった。手で御堂の下着を降ろし、股間に顔を埋め、御堂のペニスを咥えた。
「佐…伯っ、…待てっ!」
 御堂の体が大きくのけぞる。両手で克哉の頭が動かないように押しとどめて、乱れた息を吐く。
「…私にもさせてくれ」
 頭を上げて御堂を見る。御堂は官能を湛えた目で克哉の目を見返す。御堂は上半身を起こし、克哉に手を伸ばし下着の上から克哉自身を長い指でなぞる。
「御堂…」
 ここまで積極的な御堂は初めてだった。自分も上半身を起こす。御堂の手が克哉の下着をずらし、頭を埋めて克哉自身を口に含んだ。唾液がペニスに絡む音が響く。たちまちペニスが質量を増す。御堂の髪を撫でながら梳く。克哉のモノを咥えながら、御堂が上目で克哉を見上げ、視線が絡んだ。御堂が自分を煽っている。
「…っ!」
 その壮絶な御堂の色気に自制を失いかける。そのまま達しそうになったが、かろうじて耐えた。
 御堂の頭を押しとどめ、ペニスを引いた。唾液の音が名残惜しそうに響く。
 理性がもたなかった。そのまま御堂を後ろのソファに押し倒し、下着ごとパジャマのズボンを脱がせ、脚を押し開く。唾液をまぶした指で御堂の後孔を探り当て、性急な動きで指を差し入れる。
「あぁっ…!」
 御堂の体がすくむ。それを気遣っている余裕はなかった。指で御堂の快楽のポイントを探り当てながら同時にアヌスをほぐす。強烈な快感とアヌスをいじられる違和感に御堂の体が痙攣する。
「…はあっ…あっ、う…佐…伯!」
「挿れるぞ」
 服を脱ぎ棄てると、自分自身の屹立を御堂の中心に押し当て、腰を進めた。ほぐされた窄まりはわずかな抵抗のみで克哉を受け入れた。熱い粘膜がペニスをつつんで絡め取る。自分自身を必死に抑えながら、ゆっくりと御堂の中のポイントを抉った。
「うぁっ…そこっ…!」
 既に御堂のモノも張りつめて、先端から透明な粘液がこぼれていた。御堂のペニスを優しく掴んで擦る。
「佐伯…、もう、駄目、だ…!」
 御堂が限界に近付いている。一回動きを止めて屈みこみ、御堂の首の付け根に接吻した。
「愛している、御堂」
「う…、私も…だ」
 御堂の言葉に快感を煽られ、再び腰を突き進めた。
「あっ!」
 小さく悲鳴を上げて御堂が白濁を迸らせる。続いて克哉も達した。部屋の中に荒い呼吸音だけが響く。呼吸を整えて、御堂の中から克哉自身を抜いた。
「…う…」
 その刺激に御堂が小さく呻く。ぐったりした御堂をソファに横たえる。目を閉じている御堂の頬をそっと撫でた。

 御堂の体を拭いて後始末をしたときには、御堂はソファの上で横になり寝入っていた。
「御堂、ベッドに移れ」
「…ここでいい…」
 声をかけるが、眠いのか面倒そうに断られる。肩をゆするが、これ以上返答する気はないようだ。
まったく…。
 自分が使っていた毛布をかけるが、裸の御堂に風邪をひかれても困る。
 仕方ない、ベッドまで運ぶか。
 御堂の背中とひざ裏に手を差し入れ両腕で抱き上げた。
「なっ!」
 御堂がびっくりして目をさまし、身を捩って暴れた。二人でもつれたままソファの上に倒れこんだ。
「何をする」
 御堂が上半身を起こす。乱れた髪を掻きあげながら、自分の上に倒れこんだ克哉を見下ろす。寝入り端を起こされたせいか、明らかに不機嫌だ。
「つっ…。御堂、ベッドで寝てくれ」
 克哉はソファに手をついて体を起こした。
「私はここでいい、と言っただろう。君がベッドを使えばいい」
「そんな恰好でソファに寝て、あんたに体調を崩されても困る」
「ここは私の家だ。私が何処でどんな格好で寝ようと、君に指図される謂れはない」
 御堂が鼻で笑う。克哉の言うことを聞く気はさらさらないようだ。こうなると御堂は頑固だし、口論を始める気はなかった。
 しょうがない。
 腹をくくって、御堂の前に膝をついて立ち、頭の位置を御堂の顔の下にさげる。ソファの上に無造作に置かれた御堂の手に手を重ねた。御堂の顔を覗き込むような形で見上げて御堂の視線を捉えた。
「孝典さん…俺と一緒にベッドで寝てください」
 御堂は一瞬驚いた顔をし、次の瞬間、目元が緩む。
「そうだな。君と一緒というのも悪くないな。…克哉」
 微笑みを御堂に返し、互いに唇を重ねた。

(12)
ambivalent(13)

 御堂の体調は完全に戻りつつあった。
 短時間だったが共に外出もした。階段を降りるときは多少危なっかしかったが、それは自分も自覚しているようで、手すりをしっかり掴んで降りるようになった。一人で外出するのも問題ないだろう。
 御堂も自分の体調に大分自信がついたようだ。一緒に朝食を食べながら、御堂が口を開く。
「私もそろそろ仕事を探すかな。いつまでも君の世話になっているわけにはいかない」
 今の御堂なら、仕事を再開しても問題なさそうだろう。日中も退屈しているようで、このまま家に引きこもっているよりは良いように思えた。
「当てはありますか?」
「同じ業種で探してみようかと思う。MGN時代にいくつか声をかけられたところがあったのだが」
「…あなたが辞めた後に、あなたを紹介してほしいという問い合わせがいくつかあって、名刺をもらっています。社においてあるので持ってきます」
「そうか」
 嬉しそうに御堂が微笑む。つられて微笑んだ。
 穏やかで幸せな時間が流れる。いつまでこの時間が続くのだろうか。ふとした不安に襲われた。

「う…くっ」
 夜中、隣で寝ている御堂の苦しげなうめき声で目が覚めた。
 御堂を見ると、目を閉じたまま苦しそうに眉をしかめて歯を食いしばり呻いている。
 夢を見ているのだろうか。御堂の手がきつく握りしめられて細かく震えている。
「ひっ!」
 鋭い悲鳴とともに御堂が跳ね起きた。顔に脂汗が浮いている。
 体が細かく震えている。その眼は恐怖のせいか大きく見開かれていた。
「御堂?大丈夫か?」
「佐伯…?」
 御堂の目が克哉の顔をとらえた。起き上がり御堂を優しく抱きしめる。それでも体の震えは止まらない。
「どうした?」
「…分からない。夢を見たのだと思う」
「夢?」
 嫌な予感がした。御堂はかぶりを振った。まだ落ち着かないのかたどたどしく言葉をつなげる。
「…覚えていない。ただ、恐怖とか、憎しみとか、嫌悪感とか、そんな強い感情が渦巻いていて飲み込まれそうだった。…あれは、私の感情だったのだろうか」
 確信した。当時の記憶が一部でもよみがえったのだろう。
 自分の動揺を悟られないよう、無言で強く御堂を抱きしめた。
 翌朝、御堂は特に変わりない態度だった。
一方、克哉は胸に渦巻いた不安に苛まされていた。

 会社帰り、御堂の家に帰るのが怖かった。御堂の記憶が戻っているかもしれない。そうなったら、今の御堂との生活全てを失うだろう。今が幸せなだけに、喪失がおそろしかった。
――失うことを恐れるのか。俺も弱くなった。
 思わず自嘲の笑みがこぼれる。
 気付けば自然と遠回りして、家に向かっていた。公園を通り抜けていく。
 その時だった。
 人気のない公園に向こうから人影が向かってくるのが見えた。
 闇から浮かび上がってくる黒い人影。長くうねる金髪が闇の中に映える。嫣然とした笑みを浮かべているのが遠目からも分かった。克哉はその人物を知っていた。Mr.R。
「こんばんは。お久しぶりですね」
 歌うような響きで声をかけられた。
「何の用だ?」
 声色が厳しくなる。だが、その男はそれを気にした様子はなかった。
「おや、つれないですね。あなたの手助けをしたいと思って会いに来たのですが」
「手助けだと?」
「ええ。ご心配なのでしょう。今の生活が壊れるのではないかと」
 人のよさそうな笑みをこぼす。
「何のことだ」
 あえてしらばっくれる。この得体のしれない男は克哉の全てを知っている。だが、この男にペースを握られるのは嫌だ。
「あなたが愛するあの方は虚ろなペルソナ。本当のあの方はあなたを激しく憎悪している。怖いのでしょう?あの方のペルソナを失うのが」
「ペルソナ?」
「おや、お気付きでない?今のあの方は、あなたの献身的な呼びかけから生まれた新しい人格(ペルソナ)。あなたを嫌悪し憎む本人から分離したものですよ。あなたも経験があるでしょう」
「『オレ』と同じということか」
 かつて、克哉の身に起きたことを思い出す。かつてたった一人の親友に裏切られ、自暴自棄になった時、この男が現れたのだ。そして、『俺』は一度死に、『オレ』の人格(ペルソナ)が生まれたのだ。
「ふふ。流石は私の見込んだお方。その通りです。本体が蘇れば、あの虚ろなペルソナは消えます。しかし、あの方のペルソナはあなたの場合と違って生まれたばかり。脆く弱い。ペルソナが消滅するとき、あなたと共に過ごした記憶も一緒に、一片も残さず消えるでしょう」
 御堂が忌まわしい記憶を取り戻した時、代わりに今の記憶が消えるということか。彼には克哉に嬲られ続けた記憶しか残らない。
「私はただあなたの望みを叶えて、あなたのお役にたちたいのですよ。あの方の忌まわしい記憶ごと本体を消して、ペルソナのみ残すことが出来ます…。あなたとあの方の生活は今までのまま…」
「俺の望み?…いや、お前は信用できない」
 この男の言うことを鵜呑みにするわけにはいかない。この男に渡された眼鏡のおかげで今の『俺』を取り戻すことが出来たが、その代償に御堂自身を壊してしまったではないか。
「おや、怖いお顔。私はあなたの望まれるように生きて欲しいだけなのですよ」
 そう言ってMr.Rは満面の笑みを浮かべた。
「これをあの方に。一粒でも結構です。食べた瞬間、あの方の忌まわしい記憶とともに本体の人格が消えさります。あなたを愛する今のペルソナしか残りません」
 そう言ってザクロの実を渡された。皮の間から赤くつややかな実がのぞく。
「それでは、佐伯様。良い人生をお過ごしください」
 歌うように抑揚をつけて、笑みを浮かべながらその男は立ち去った。
 手の中にザクロの実が一つ取り残されていた。

(13)
ambivalent(14)

「今、戻りました」
 御堂の部屋に戻って声をかける。
「おかえり」
 御堂がリビングから現れる。その顔に不自然さはない。記憶が戻っていない御堂にほっとする。
「食事ですが、たまには一緒に外に食べに行きませんか?」
「それもいいな」
 御堂が微笑む。御堂も元々外食中心の生活をしていたせいか、自炊能力は高くない。
 ただ、御堂に言わせれば、作ろうと思えば作れるし、味付けも見た目も克哉の作るものより数段上なのだそう。こだわりが強い完璧主義者の御堂の事だ。本当なのかもしれない。
「着替えてきます。待っていてください」
 鞄を玄関において、寝室のクローゼットに私服を取りに行った。スーツのジャケットを脱いでハンガーにかける。
「佐伯、これ、冷蔵庫に入れておくか?」
 玄関から声がかかる。意味が分からずに顔をのぞかせると、御堂の手にあのザクロがのせられている。
 Mr.Rからもらったザクロをそのまま鞄に放り込んでいたのを思い出した。無防備に鞄を開いたまま持って帰ったので、御堂の目に留まったのだろう。
「御堂っ!」
 思わず厳しい声で叫び御堂の元に駆け寄った。ひるんだ御堂の手からザクロを奪い取った。
「佐伯?」
 御堂がびっくりしてこちらを見る。まだ自分の心臓が高鳴っている。
「…すまない。もらいものだが、落としてしまって、とても食べられたものではないから」
 苦しい言い訳だった。だが、幸い御堂はそれ以上追及してくることはなかった。
 この果実を御堂に食べさせるべきか、まだ結論が出なかった。
 ひとまず御堂が勝手に食べたりしないよう、御堂の目から隠す必要がある。
 
 連れ立って家を出た。近くの飲食店に入り一緒に食事をとる。
「君とこうやって外で食事をするのは初めてだな」
 御堂から笑みがこぼれたが、一瞬悲しそうな顔になった。
「いや、昔は君と一緒に出かけていたりしていたのだろうな」
「記憶を取り戻したいか…?」
「そうだな…。戻ったらいいと思う。…仕事の事はつらい記憶だと思うが、君との記憶を一緒に失ったのは残念だ」
 だが、御堂が期待しているような記憶も事実も存在しない。それでも御堂は記憶を取り戻したいと思うのだろうか。なんと声をかけるべきかためらった。
「…戻るといいな」
「ああ。やはり、つらい記憶も嬉しい記憶も自分の一部だ。失うよりは共存したい」
 そう言って、御堂は切なげに微笑んだ。
 御堂の言葉が胸に重くのしかかる。
――俺は御堂の意志を無視して何をしようとしているのだ…?
 帰り道、御堂の目を盗んで、路上のごみ箱にザクロを丸ごと突っ込んだ。
――これで、いい。なるようになるさ。

 御堂の家に戻り、御堂のジャケットを脱がせて玄関脇のハンガーにかけた。
 先ほどの店で飲んだワインのせいか、御堂の頬が上気している。
「佐伯」
 御堂が克哉の首に手を回してきた。御堂は飲むと色っぽくなる。
 そのままキスをしようと腰に手を回した。
 その時だった。突然、大きな揺れが襲った。
「地震か」
 よろめく御堂をとっさに支える。御堂も驚いてしがみついてきた。だが、すぐに揺れが治まる。
「ちょっと大きかったな。テレビ付けてくる」
 さっきまでの気分も酔いも覚めてしまったのか、御堂が身をひるがえしリビングに向かった。
 少しして、テレビの音声が聞こえてきた。チャンネルを変えて、地震のニュースを探しているようだ。
「どうだった?」
 追ってリビングに向かい、ソファに座ってテレビを見ている御堂に声をかけた。
 だが、返事がない。テレビを凝視している御堂の視線をたどって、テレビの画面を見る。
 流れているのは民放のCMだった。
「プロトファイバー…」
 御堂は呻くようにつぶやいて、こめかみを抑える。
 ちょうど、プロトファイバーのCMが流れていた。御堂の考えた構成のCMは評判が良く、その構成をなぞって色々なバージョンが作られていた。その一つが目の前で流れ、御堂の目をくぎ付けにしていた。
「御堂…?」
 やはり御堂の反応がない。恐る恐る近づいて、御堂の肩に手をかけた。動かない御堂の手から滑り落ちそうになっているリモコンを取り、テレビを消した。
 御堂の頭があがる。茫然とした顔で御堂が振り向く。そして克哉の顔を視界にとらえた。
「お前は…佐伯っ!」
 次の瞬間、手を振り払われた。素早い動作で御堂が立ち上がり、克哉を激しく突き飛ばす。
「つっ!」
 予期しない不意打ちに、後ろによろけ、強かに腰を打ちつける。唖然として御堂を見上げる。
「出ていけっ!なぜ貴様がここにいる!」
 御堂は激しい憎しみと嫌悪のこもった目で克哉を見下ろしていた。
――…そうか、記憶が戻ったのか。
 こんな日が来ることを予感してたではないか。御堂の侮蔑と憎悪の視線が突き刺さるのを感じながら、ふっ、と克哉は力ない笑みを浮かべた。
 その時、床についた掌に違和感を覚えた。手をずらして見てみると、赤く透き通った実が一粒怪しく光っている。
――ザクロ…!
 その時、頭の中で声が響いた。疑いもない、あの男、Mr.Rの声だった。
『今ならまだ間に合います…。あなたを愛するあの方を取り戻すことが出来ますよ』
 その声は今の状況を楽しんでいるようでもあった。無視しがたい誘惑を囁いている。
 無意識にザクロの粒を摘み上げる。御堂は、克哉の不審な動きを警戒したのだろう、ジリジリと後ろに下がり、距離を取ろうとする。
『今のあの方は、あなたを愛した思い出を全て失っていますよ。それでも、いいのですか?』
 頭の中でMr.Rが囁き続ける。
 今の御堂を押さえつけて、ザクロの実を一粒口にさせることは難しくないだろう。しかし…。
――俺は自分の欲望のために、御堂からこれ以上何かを奪うのか…?
「…黙れっ!」
 頭の中の声に向かって叫んだ。克哉の叫びにびくっと御堂の体が震える。同時にザクロの実を指で潰した。Mr.Rの存在が頭の中から消え去るのを感じる。
 自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと手をついて立ち上がる。克哉に何かされるのではないかと御堂が怯えて息を飲むのが見て取れた。一方でありったけの憎悪をむき出しにした視線は克哉をとらえて離さない。その姿は手負いの獣のようであった。
「来るなっ!」
 御堂が鋭く叫ぶ。
 ゆっくりとした動作で、ジャケットのポケットからこの部屋のスペアキーを取り出して目の前の床に落とした。さらに、小さな銀色の鍵も床に落とす。
「アタッシュケースの鍵だ。クローゼットの奥にある」
 アタッシュケースにはPCや携帯などの御堂の私物がしまってあった。MGNの退職関係の書類も入っている。それを見れば、今の自分の状況が分かるだろう。
「…さよなら」
「っ!!」
 そう一言つぶやくと、御堂から背を向けて部屋を出て行った。背中に張りつめた御堂の緊張を感じる。そのまま玄関に向かい、靴を履いて家から出る。
「さよなら、御堂」
 小さく呟いて、ドアを閉めた。

 マンションを出て宛てもなく歩いた。空虚でやりきれない気持ちが全身をつつむ。
――どうした、佐伯克哉。目的は達したのだろう?
 当初の望みは、御堂を元に戻すことだった。その願いは叶ったのではないのか。
 では、なぜこんなに苦しいのだろう。御堂のマンションの方向を振り返った。
――願わくは、あなたのこれからの人生に幸多からんことを
 漏れそうになった嗚咽を飲み込む。気付けば、一筋の涙が自分の頬を伝っていた。

(14)
ambivalent(15)

 季節が巡り、一年の月日がった。
 あの後、全てを忘れようと仕事に没頭した。
 御堂の介護のためずっと固辞していた昇進の話も受けた。気付けば最年少で、MGNの部長の地位についていた。
 渇きを満たすように、次から次に仕事を受けたが、一向に癒されることはなかった。
 提出された企画書に目を通しながらぼんやりと考える。
もうここで出来ることはやりつくしたのかもしれない。毎日が退屈で空虚だった。最近は会社を辞めることばかり考えていた。自分で会社を立ち上げて自分の好きなことを行えば、多少渇きは満たされるのだろうか。少なくとも今の状況よりはましだろう。
「佐伯君、今日の契約頼むよ」
 上司の大隅専務から声をかけられる。すぐに表情を切り替えて営業スマイルを浮かべる。
「ええ、大丈夫です。契約と言っても内諾はとってありますから。形式的なものです」
「そうか、頼んだぞ。君の一押しの会社だったものな」
 今日の契約は新しいショッピングモールのプロジェクト関連だった。契約の相手は、今までMGNと業務提携をしたことがない新しい会社。大隅専務が気に掛けるのも無理はない。
 L&B社。企業の規模は小さいが、ここ数年、目覚ましい業績をあげている新興企業だ。特にここ一年は大型の契約を何個も成立させている。
 克哉はこの会社を以前から知っていた。御堂がMGNを辞めた際に、紹介してほしいと言ってきた会社の一つだった。
今回の企画のコンペティションにこの会社が応募してきたとき、資本規模と今までの契約実績から本来だったらコンペの参加資格さえなかった。事前審査で落とすところだったのが、御堂を高く評価していた会社、それだけの理由で克哉がコンペに参加させたのだ。結果、企画書は思った以上の出来で、役員全員を納得させて契約に臨むことになった。
――御堂…。
 彼の事を思い出すたびに、胸の渇きがひどくなる。あの後、御堂の行方は知れなかったし、探そうとも思わなかった。今はどこで何をしているのだろう。
 さっさと契約を締結してこよう。頭を振って気持ちを切り替えた。

 L&B社に着いたのは日も沈むころだった。先方が忙しく、この時間になったのだ。
 社内に案内されてさりげなくオフィスの様子をうかがう。社員は若く、活気にあふれている。今の社の勢いを反映しているようであった。
 応接室に通されて少し待つと、取締役社長の男性が入ってきた。まだ若い。40代後半くらいだろうか。
 さらにもう一人、仕立てのよいスーツに身を包んだ長身の男が入ってくる。思わず目を見開いた。
――御堂…!
 間違いなく御堂だった。御堂はこちらを一瞥し視線を逸らす。その表情からは何の感情もうかがえなかった。
「佐伯さん、どうも。この度はわが社を選んでいただきありがとうございます」
 にこやかに社長が挨拶をする。
「いえ、こちらこそ。色々検討させて頂いた結果です」
 形式的に世辞を返す。一方で社長の隣に立っている御堂に気を取られてしょうがなかった。その視線に気づいたのか、社長が御堂を前に出す。
「ああ、佐伯さん。今回の企画担当者を紹介してもよいですか。うちのプロダクトマネージャーの御堂君です」
 そう言って御堂が紹介される。なんと声をかければいいのか迷う。口火を切ったのは御堂だった。
「初めまして。企画担当者の御堂です。この度は、わが社とご契約いただきありがとうございます」
「…初めまして。MGN社、企画開発部の佐伯です」
 御堂の表情も言葉も揺らぎはない。形式的なビジネスの口調で挨拶を交わし、名刺を交換する。
 その後は3人で応接室のソファに腰掛けて、契約書の細かい点をつめた。
 克哉と社長との会話に御堂は口をはさむことはなかった。御堂は社長の質問に短く簡潔に内容を答えるだけで、お互いの視線が合うことはなかった。

 契約を終え、L&B社を出た。どっと疲労感に襲われる。
 MGN社に一報を入れ、大隅専務に契約が無事終了したことを伝えた。既に辺りは暗くなっていた。
 いつもなら社に戻って仕事を片付けるところだったが、今日はそんな気分にならなかった。
 振り返ってL&B社を見上げる。まさか御堂がここで働いていたとは。
 今日見た御堂の姿を思い出す。それだけで胸が締め付けられた。
――初めまして、か…。
 その言葉はビジネス上、正しい判断だ。
 克哉が来ることを事前に知っていただろうとはいえ、眉一つ動かさず応対してみせた御堂は立派だった。初めて出会ったころの御堂と寸分も違いはない。
――それに比べて俺は…。
 与えられて奪われる、ただ失うよりも苦しかった。しかし、文句を言う資格はない。これは罰なのだろう。それでも理不尽に全てを奪われた御堂に比べて、克哉は恵まれていたではないか。
 帰ろうかと視線を戻すと、目の前に御堂が立っていた。驚き目を見張る。御堂の表情は先ほどと変わらず、何の感情も浮かべていない。
 動揺を悟られぬよう、営業スマイルを浮かべて尋ねる。
「どうしました?何か連絡漏れでも?」
 御堂が克哉に視線を向ける。その視線には憎悪も恐怖もなく、こちらを値踏みしているようでもあった。
「佐伯、話がある。ついてこい」
 有無を言わせぬ強い命令口調で克哉に告げる。そのまま、目の前を通り過ぎて歩いていく。
 ついていくべきか一瞬迷ったが、御堂は克哉の事を振り返る事もなく進んでいく。その先に何があるのだろう。無言のまま御堂の後をついていった。

(15)
ambivalent(16)

 御堂の向かった先は高層ビルの狭間にある小さな公園だった。大都会の中で場違いなほど深い緑に囲まれたその公園は、昼間はビジネスマンの憩いの場所となっているのだろうが、この時間では全く人気がなく暗い。
――殺すのか、俺を。
 物騒な予感が頭をよぎる。それ位、御堂の表情も行動も全く読めなかった。
――それならそれでいいさ。
 全く恐怖心はなかった。むしろ心は静かに落ち着いてきた。自分はそれだけの事をこの人にしたのだ。それに、自分自身を取り巻く全てのことに退屈していたところだ。生きていることに未練はない。
 御堂は公園の中心、周囲の道を歩く人影が完全に見えなくなるところまで進んで、歩みを止めた。そしてこちらを振り返る。公園の暗さもあって益々表情は見えない。
「…最近、思い出した。記憶を失っていた時のことを」
 どきりとした。たちまち激しい動悸がする。
「楽しかったか?記憶のない私に恋人だと偽ってつけ込んだのは?」
 侮蔑を含んだ声色だった。表情は見えないが、嫌悪と軽蔑を含んだ視線でこちらを見ているのだろう。
「…ああ。楽しかったさ。あんたは俺の言うことを、微塵も疑いもせず、何でも信じた」
 あえて嘲笑うかのように言い放った。瞬間、空気が変わるのを感じる。御堂の激しい怒りを肌に感じた。
「あんた、プライベートでは結構甘えるんだな。自分を壊した張本人の男に、すり寄ってくる姿はかわいかったよ」
「貴様っ!!」
 御堂に両手で襟元をきつく掴まれる。ずっと平静を装っていた御堂の顔が怒りに歪んでいた。怒りと憎悪がむき出しになった視線が克哉を突き刺す。
――いい顔だ、御堂。俺をもっと憎め
 自然と笑みが浮かぶ。息が苦しかったが抵抗はしない。何とか喘いで呼吸を続けながらさらに御堂をあおる。
「っ…あんたは…どうだったんだ?あんたも、楽しんだだろう?…それともひどく扱われた方がよかったか?…くっ」
「黙れ!」
 間近で見る御堂の顔が怒りでさらに赤くなる。そのまま強く首を締め上げられる。…息が出来ない。その時、克哉の襟元を掴んでいた手が、片方離れて呼吸が楽になった。反射的に酸素を求めて激しくむせこんだ。
 御堂が離した手をきつく握りしめるのを見て取る。
殴るのだろうか。それもいいだろう。このまま首を絞められても良かったが、すぐにくたばったら御堂もつまらないだろう。
 やりやすいように体の力を抜く。さらに御堂を挑発した。
「ははっ…俺の事が忘れられなかったのか…んっ」
 突然、激しく口を塞がれた。それはキスともいえないものだった。歯と歯が強くぶつかり、唇が切れる。すぐに唇が離れた。御堂が克哉をにらみつけたまま、手の甲で自分の口をぬぐう。克哉の襟首をつかむ手が御堂の激しい感情を表して震えている。
「お前と交わしたキスも、お前が囁いた愛の言葉も、全て偽りだったというのか!」
「…っ!」
 御堂の目と声から強い感情が見て取れた。それは憎悪でも嫌悪でも恐怖でもない。何かもっと別の…。
「私はお前を憎んでいるし、殺せるものなら殺したい。だが、記憶の中にあるもう一人のお前が私を苦しめる。教えてくれ、どちらが本当のお前なんだ」
 御堂の目尻から涙がこぼれる。それでも御堂は克哉から視線を外さない。
――お前は苦しんでいるのか。俺を憎み切れなくて。
「…偽りなんかじゃない」
 手を御堂の頭と腰に回して無理やり唇を重ねた。咄嗟に御堂が両手を突っ張って逃れようとする。
 それを意に介さず御堂を押さえ付けたまま強く唇を押し付けた。
 御堂の薄く開いていた歯列から舌を差し入れる。切れた唇から血の味が広がる。噛みつかれるかと思ったが、御堂は克哉の舌を受け入れた。そのまま御堂の舌を絡め、口腔内を舐る。
「…ふっ…んっ」
 御堂の力が抜け抵抗が弱まるのを確認してから、キスを解く。お互いの視線は絡みついたまま乱れた呼吸を整えた。
 顔を離し、御堂を見据えたまま、手の甲で自分の口を拭った。手の甲に血がにじむ。
 克哉の首元を掴んでいた御堂の手が緩んで落ちそうになった。そのまま膝から崩れ落ちそうになる御堂を掴んで引き寄せた。御堂の顔が克哉の胸にうずまる。
「どうした?」
「…お前の存在は私の心を乱す。苦しくて耐えられない。…私はどうすればいい?」
 その声は弱々しく、最後は嗚咽のようだった。
「俺の元に堕ちてくるか?」
 御堂は力なくかぶりを振る。少しして、克哉を見上げる。
「…お前のところに堕ちれば、…少しは楽になれるのか?」
「さあな。だが、俺がお前と一緒にどこまでも堕ちてやる」
 ふっ、と御堂が弱々しく笑う。
「…それも悪くないな」
 御堂を引き寄せる。そのまま唇を重ねた。今度は御堂も一切抵抗しなかった。お互いの存在を今一度確かめあうように、貪り合うようにキスを交わした。吐息が熱い。そして、衣服を通じて触れ合う体からも熱を感じた。ゆっくりと唇を離し、キスを解く。
 御堂の顔は朱に染まり、潤んだ瞳がこちらを見つめていた。
「ついてこい。これだけでは足りない」
 御堂の腕をつかみ歩き出した。

(16)
ambivalent(17)

 タクシーを拾って、ホテルの名を告げる。
 御堂は何も言わずについてきた。だが、その後は視線も合わせずそっぽを向いたままだった。
 ホテルの部屋に御堂を入れたが、無言のままだ。御堂のスーツのジャケットとベストを脱がすが、視線を伏せたまま一切抵抗をしない。
その時、御堂の全身がかすかに震えているのに気が付いた。
「……俺が怖いか?」
 御堂の視線が動いて、克哉を一瞥する。そして、また、すぐに視線を伏せた。
「ああ、怖い…。お前は一片のためらいもなく、私の心も身体も徹底的に蹂躙した」
 そっと御堂の背中に手を回し抱きしめた。御堂はさらにびくりと全身を強張らせ、体を強く震わせる。動こうとしないのではない、動けないのだ。
「すまなかった」
 かつて克哉は御堂を壊した。
 そんな一言で済まされるような行為ではなかった。そして、謝罪の言葉を重ねたところで許される行為でもなかった。御堂は震えたまま微動だにしない。そのまま御堂を抱きしめた。
 どれ位の時間が経っただろうか。次第に、御堂の震えが治まるのを感じた。
 御堂がゆっくりと顔を上げた。克哉に視線を合わせ静かに口を開く。
「佐伯、君は公園で私を怒らせてどうするつもりだった?」
「…あんたになら殺されてもいいと思った」
 キッと御堂が克哉を強く睨みつける。
「相変わらず傲慢で自分勝手な男だな」
 そう言うと、静かに克哉のうなじに手を回した。御堂がため息をつく。
「…私もどうかしている」
 再び口づけを交わした。何度口づけを交わしても足りなかった。短いキスを何度も交わし、口づけを解く。お互いの視線が絡んだ。
「本当にいいのか?」
「…君はそればかりだな」
 御堂の長い指が克哉のネクタイの結び目にかかる。さっとネクタイがほどかれた。克哉も御堂のネクタイをほどき、ワイシャツのボタンに手をかけた。御堂の白く滑らかな肌が覗く。
 服を脱がせつつ肌に手を這わせ、ベッドに押し倒した。痕をつけない程度に強く御堂のうなじを吸う。あ、と御堂が小さく声を上げた。それだけで気持ちがさらに昂る。
 御堂の長い指が克哉のワイシャツのボタンを外し始めた。御堂がやりやすいように少し体を離す。
「御堂、好きだ」
 御堂の手が止まり、怪訝な視線が克哉の顔に向けられた。
「いつもより告白のタイミングが早くないか?」
 そうだった。御堂と一緒に暮らしている間、いつも行為の終わり際に告白していた。御堂はそこまで思い出していたのか。
 思わず笑みがこぼれ、強く御堂をかき抱いた。窮屈そうに体を動かす御堂が愛おしかった。
 そのまま頭を胸元にずらし、御堂の鎖骨から胸の突起まで唇と舌さきで優しく舐める。胸の突起はすぐに色づいて尖る。
「う…あっ」
 御堂の喘ぎ声がもれる。御堂の手は克哉のうなじに回されている。手が細かく震えるのを感じた。舌で愛撫を続けつつ、わき腹に沿えていた手を回し、御堂のズボンのベルトを外し引き抜いた。片手でスーツのパンツを引き下ろす。上質な生地だ。一旦体を起こして、御堂のズボンと下着を完全に脱がした。それをベッドの外に落とす。ついでに自分も服を脱ぎ棄て全裸になった。克哉の裸をみた御堂が反射的に目を逸らした。
 再び御堂に覆いかぶさった。御堂の締まった体を手でまさぐり、胸の突起に軽く歯を立てた。
「あぁっ…!」
 御堂の体が小さく跳ねる。下半身に手を伸ばすと御堂のモノは既に熱を持って立ち上がってきている。頭を下半身にずらし、御堂の屹立に舌を這わして口に含んだ。
「…っぁ、佐、伯…!」
「もう、こんなに感じているのか。相変わらず感じやすいな」
「誰っ、の、せいだ…!」
 御堂のペニスに唾液を絡めながら口を離す。同時に指で御堂の後孔を探り、その窄まりをなぞった。御堂の体が震えて、息をのむ。
「ここを、他の誰かに触らせたことはあったのか?」
「んっ…知りたいか?」
「ああ」
 御堂のペニスを手で擦りながら、アヌスを指でほぐす。
「っ…あっ!そうだな…佐伯が、教えてくれたら…教えてもいい」
 目を眇めて御堂を見る。顔を赤くしながらも御堂の目は挑発的に克哉を見上げる。
「なら、直接体に聞くからいい」
 にやりと笑って、御堂の足の付け根を強く舐め上げた。御堂の片脚が跳ね上がったのを捉え、ひざ裏を掴み胸の方に折り曲げた。
 秘められた部位があらわになる。脚の間に体を入れ、御堂の脚を大きく開いた。羞恥に御堂が喘ぐ。
「…くっ…ぁっ」
 御堂のアヌスをいじっていた手を抜き、しずくを零している御堂の張りつめた肉茎に手をかけた。強くこすり上げ、鈴口を指の腹で強めになぞる。先走った粘液が音を立てる。
「ああっ!…やめっ…はあっ」
 快楽の喘ぎ声が漏れ出る。御堂の粘液を指に絡め、ひくつくアヌスに指を挿入した。さらにもう一本指を差し入れ、内部を探りつつアヌスをほぐした。差し入れた指を抜こうとすると強く締め付けてくる。頃合いだろう。
「俺の背中に手を回して。…挿れるぞ」
 シーツを握りしめる御堂の両手を克哉の背中に回させた。
既に固く張りつめた自分のモノを導き、御堂の中心に当てた。御堂の窄まりがひくついた。そのままグッと押し込む。
「ぅああっ!」
 悲鳴とともに御堂の体が大きくのけぞった。爪が背中に食い込む。反射的に腰を引いて逃げようとする御堂を押さえ付ける。そのまま腰を浅く動かしながら、さらに奥へと進めていく。
「ぅう…あっ。はぁ…」
 御堂が荒い息を吐いて、その違和感に耐えようと目を閉じ歯を食いしばる。体が緊張でこわばり、御堂の内腔はきつく克哉を締め付けてきた。緊張を解こうと、一旦動きを止めて、御堂のうなじに顔を寄せた。
「御堂、好きだ」
 浅いグラインドを繰り返しながら声をかけた。御堂がうすく目を開く。
「…私は…お前が、憎いっ…あぁっ」
 克哉のペニスが御堂の中の一点を抉った。御堂の喘ぎ声が艶めかしくなる。御堂の目尻から涙がこぼれる。
 腰を深くグラインドさせ、自分自身を深く挿入した。御堂から漏れる嬌声は、既に快感に染まっている。
「佐、伯…、あぁっ…佐伯っ」
 御堂がうわ言のように喘ぎながら克哉の名前を呼ぶ。御堂のうなじに手をかけて、顔を覗き込んだ。
「孝典、俺の所に堕ちてこい。…一緒に堕ちよう」
 涙と官能で潤んだ瞳が克哉の視線を捉える。まっすぐと見返された。
「克哉…ああ…お前と堕ちる」
「愛している、孝典」
 御堂の名を囁くと、微かに頷いて御堂は目を閉じた。
 大きく激しく腰を動かす。そろそろ限界だった。鋭い悲鳴がして、御堂が爆ぜた。同時に克哉も御堂の中に熱い精液を放った。

 呼吸が乱れ、全身汗ばんでいた。御堂から自身を引き抜く。御堂はぐったりして荒い息を吐いて目を閉じた。御堂の身体についた体液を拭く。くすぐったそうにみじろぎしたが、抵抗はしなかった。後始末を終え、御堂の横に仰向けに転がった。
 息を整え、上半身を起こして、隣の御堂を覗き込む。
「御堂」
 大分呼吸が整ってきた御堂は薄目を開けてこっちを見る。
「お前は俺のことどう思っている?」
「さっき言っただろう」
 御堂は再び目を閉じて顔を背ける。そのまま克哉に背をむける。
 少しして、呟くように声が聞こえた。
「君を恐れているし、憎んでいる。…だが、君を愛している」
 背中から御堂を抱きしめた。汗ばんだ身体が触れ合い、その不快感からか御堂が反射で身じろぎをする。それでも逃げようとはしなかった。
 御堂の体のぬくもりを感じながら、永遠にこの時間が続けばいいと願った。

(17)
ambivalent(18)

 朝の光で目を覚ます。眼鏡を手に取った。段々と頭が覚醒し、周りの景色がはっきりと輪郭をとってくる。横を見ると間近に御堂の穏やかな寝顔があった。
 思わず笑みが浮かび、御堂の頬に指を伸ばそうとして手を止めた。もう少しこのままでもいいだろう。
 御堂を起こさないようにベッドから降りて時計を見た。まだ時間はある。フロントに連絡し、ルームサービスで朝食を二人分頼んだ。その間にシャワーを浴びる。
 シャワーを浴び終わったところで御堂に声をかけた。大きく身じろぎをして目を覚ます。周りを見渡し、克哉の顔に視線を向ける。
 一瞬お互いの視線が絡んだが、すぐに目を逸らされた。
 御堂はそのまま無言でシャワーを浴びに行った。その間に届いたルームサービスの朝食とコーヒーを窓際のテーブルに並べる。
「朝食、食べませんか」
 バスローブを羽織ってシャワーから出てきた御堂に言う。ああ、と短く返事が聞こえ、御堂が席に着いた。二人で向かい合って朝食を食べる。会話はなかったが、気にはならなかった。
 食後、お互い身支度を整える。
 洗面台の鏡の前で乱れた髪を整える御堂を、後ろから眺めながら声をかけた。
「今回の契約の締結を機に、俺はMGNを辞めるつもりだ」
「そうか」
 御堂は手を止めず、興味もなさそうに答える。気にせず続ける。
「それで、会社を立ち上げる。…御堂、今の会社を辞めて俺の会社に来い」
 御堂は手を止めて克哉を振り返り、目を眇めた。
 ジャケットこそ羽織ってなかったが、御堂はネクタイをきっちり結び、しっかりと髪が撫でつけられている。その姿は一分の隙もなく、昨夜の情交の跡を微塵たりとも感じさせない。
「なぜ、私が君の指図を受けなくてはならない」
 そのもの言いに、いつもの御堂の高慢さを感じ笑みがこぼれる。
「お前は俺とともに堕ちるって言っただろう」
「…ああ、言ったな」
 ふっ、と御堂が小さく笑う。そして、克哉の目をしっかり見返した。
「私を失望させるなよ。佐伯克哉」
 その言葉に克哉は自信たっぷりの笑みを返した。
 御堂に近付き体を引き寄せ、お互いに唇を重ねた。そっと御堂の手が自分の背中に回るのを感じる。
もう一人ではないのだ。
 熱くまっすぐな視線が自分に向けられる。同じ熱さを持った眼差しで、御堂の目をしっかり見返した。
「お前となら、世界でも手に入れられるさ」
 朝の光が部屋に充満する中、体を寄せ合い唇を合わせ、お互いの存在をしばし確かめ合った。

(18)
ambivalent あとがき

 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 管理人の人生初SSです。

 今回、サイトへの移行に合わせて読み直そうと思ったら、恥ずかしすぎて早々に挫折してしまいました(汗

 過去の作品をこっそりと抹消したい誘惑と戦いながらも、なんとか移行させました。

 それもこれも、未だにこの作品に拍手をいただける方がいるお陰です。

 どうもありがとうございますm(__)m

 ここにこっそりと心からの御礼を。

 

 以下、当時のあとがきです。

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 最後までお付き合いいただいた皆様、途中だけでも立ち寄っていただいた皆様。ありがとうございました。
 個人的な妄想に付き合っていただき、感謝申し上げます。
 発売から大分経ったBLゲームの二次小説にもかかわらず、拍手も頂き、身に余る光栄です。とても励みになりました。それだけ鬼畜眼鏡の根強い人気があるというのも嬉しく感じます。
 初めて書いた小説で、大変読みづらいところ&誤字脱字も多かったかと思いますが、温かい目でみていただければ幸いです。

 よろしければ、小説を書くに至った背景を少しだけ。
『鬼畜眼鏡』をプレイして、克哉×御堂の嗜虐エンドに衝撃を受けました。御堂さん、キャラの中で一番ひどい目にあったのではないでしょうか(自業自得の佐伯は置いておいて)。一方で、自分のしてしまったことを悔いて、御堂さんに尽くす眼鏡克哉に心打たれました。
 何とか二人に幸せになってほしい、という気持ちから書き始めました。

 プロットは自然に出来上がりました。御堂さんの最後の一言、意味もよく分かりませんでしたが(スミマセン)、声色から言って、佐伯を恐れている風ではありません。なんで?と思うと、佐伯のしでかしたことを忘れてしまったに違いない、と勝手に推測しました。
 佐伯は佐伯で、突き抜けてしまった鬼畜行為を激しく後悔している分、Good Endの通常の佐伯より鬼畜度が弱まっています(鬼畜量保存則ですね)。その分、パワーバランスが若干、御堂さん寄りに。佐伯にしでかされた事を覚えていない分、攻めキャラでもある御堂さんの攻めっぽい部分が出てくるのではないかと勝手に妄想。
 再開後の御堂さんは、Good Endルートの御堂さんと比べ、よりひどく嬲られた一方で愛され尽くされた記憶があるため、佐伯に対する愛憎が倍増しています。
 
 大分改変してしまったので、なんじゃこりゃ、と思われる方も多いと思いますが、生暖かい目で見守っていただければ嬉しいです。

 長編にお付き合いいただきありがとうございました。

 今後もちょくちょく鬼畜眼鏡(メガミド)小説をアップしていきたいと思っておりますので、よろしければお付き合い下さいませ。

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